濃霧に包まれた石階段の真中で、可奈美は腰を下ろして待っている。
ここで師匠の刀使、『藤原美奈都』を待ち続けていた。
(誰も来ない……。)
可奈美は怪訝に感じ、立ち上がると階段を下りていった。何度も背後を振り返り、人の気配を探るものの、白く滞留する霧だけが視界を覆う。
微かに霧の隙間から伺える鳥居の影を目印に、可奈美は立ち止まる。
待つ。
ただ、待つ事しか現在の可奈美には選択肢がなかった。
いつも通りであれば、美奈都が先に石階段の前で待っていた。顔を合わせると、必ず嬉しそうに笑いかけて、「じゃあ、やろうか」と宣言すると、二人で黙々と剣を交える。
これまで遅れてくることなんて無かった。
だから待った。――長い時間をかけて。
永久に続く流動的な霧の動きに抱かれた可奈美は、無意識に佇んでいる。時間という概念から切り離された空間では、どれだけの時を経たのか、感覚が曖昧になってしまう。
――――待つ。ひたすらに待った。
しかし、いくら待てど暮らせど、人の気配は感じられなかった。
可奈美は何度目か分からない確認を、背後を振り返りながらした。
「師匠が来ないなんて初めて」不安げな面持ちで、ゆっくりと前へ向き直る。
琥珀色の美しい瞳が、雲ってゆく。親友を目の前で失い、更に心の拠り所であった師匠すら会えない。
「――お母さん」思わず、口に出した。
美奈都との約束で、この夢の中では「母」ではなく「師匠」と呼ぶよう約束をしていた。
だが、無意識に可奈美は「母」という言葉を口にすることで、安心を求めていた。
今の衛藤可奈美という現役最強の刀使も――一皮むけば年相応の少女のように、迷い悩む横顔をしていた。
現役刀使で最強の一角を担う少女は、今や、他の刀使たちからも羨望と憧れ、尊敬の眼差しで見られる存在となっていた。
……だから、決して弱音を吐くことを許されない。
仮に大切な人を失ったとしても、可奈美は自身に重い理性の蓋をして内心の弱さを隠した。けれど日増しに強まる喪失感と胸の痛みだけが、悲しさを忘れさせてくれない。
姫和と最後まで触れあっていたハズの指先の温度を、いまも鮮明に覚えている。
『――可奈美、逃げろ』
咄嗟に口だけ動かした姫和の姿。スルリと滑って離れゆく手と手。
「……ッ」
後悔の波が再び、可奈美を襲う。少女はただ無力さに打ちひしがれながら、繋いでいた左手を右手で包む。
本音は、誰にも言えない。
弱い姿なんて見せられない。
……師匠以外には。
師匠――若かりし頃の母ならば、本音を語ることができた。だから、この胸の痛みをどうすればいいのか――話だけでも聞いて欲しかった。
「……どうして、お母さん」
Ⅰ
目が醒めた。
眠っていたハズなのに、酷く疲れていた。――理由は分からない。
夢を見ていたのだろうか? だが、少女の内心はいつもより虚しさや悲しさだけが募っていた。
二三瞬きした可奈美は、枕元に置かれた携帯端末の画面を見ると、デジタル数字が表示された。
「朝……だよね」
ザラついた声で、確認する。
まるで心にポッカリと大きな穴が穿たれたように、無気力感と脱力に全身を支配されていた。それでも何とか自らを奮い立たせて、ベッドから起き上がる。
可奈美が現在使用している部屋は、錬府女学院の寮の一室である。伍箇伝の刀使たちを全国から招集した影響で、本来は錬府の生徒しかいない筈の寮は、各学校の制服姿が目立つ風変りな光景が目についた。
現在、可奈美の使用している部屋は脱ぎ散らかされた衣類が散乱している。足元には呑みかけのペットボトルなどもあり、汚部屋と化していた。
床に散乱した物を慎重な足取りで避けながら、学校のジャージ姿を着た可奈美は窓の外で雷鳴に似た騒音に耳を傾け、部屋のカーテンレースを引いた。
……異様な曇天であった。
いや、更に正確に言えば隠世の片鱗が、空に現れ始めていた。
稲妻が走ったような形の光線が、隠世と接続し――黒い幾何学的な世界の一端を顕現させつつあった。
「また拡がってる……」
時間の経過と共に、別世界と現世が交わろうとしていた。
こんなことを実行するのは、タギツヒメをおいて他に居ない。
ピピピ、と携帯端末が緊急アラームを鳴らす。
可奈美は不意に画面を一瞥すると、真庭本部長と表記された文字と共に、荒魂の発生したエリアへ急行する旨が記されていた。
「よしっ……今日も気合いれていこう」
胸の前でガッツポーズをすると、無理をして作った声で元気さを強調し、自らを叱咤する。
弱いままでは駄目。
誰も守れなくなる――あの時、姫和ちゃんと約束したから。
(可奈美、お前は誰かを守れる強い人間だ)
どこか寂しそうな声音で、姫和がそういった。
いま、残された側の可奈美は、孤独に宿命を背負った少女の一言を信じて前へ進むことに決めた。
……せめて、守れなかった少女の願いを叶えられるように。
Ⅱ
「チッ、糞みたいに数が多いなぁ…………」
少年はボヤきながらジープ車両の外、車の上部に這いつくばり、《無銘刀》を思い切り引き抜く。
関東、とりわけ東京の中心部へゆく高速道路の途中から、荒魂の発生が顕著になっていた。行く先を防ぐように荒魂たちは百鬼丸たちの車両を狙い、攻撃を加え始めていた。
『糞野郎ども、まとめてブチのめしてやる』と威勢のいい声とともに、百鬼丸は次々と敵を駆逐していった。
――今も、これで何度目か分からない戦闘へ、百鬼丸は突入する事となった。
キィーン、と音叉が反響するように金属独特の共鳴音が聞こえる。
百鬼丸は目を凝らし、上空を遊弋する飛行型の荒魂を睨む。その数、三体。
実は、地上の荒魂よりも面倒であり、刀使が苦戦する種類の荒魂であった。その理由は単純で、物理的なダメージを加えにくい点にある。
(どうするかな)
時速80キロの速度に身を任せた百鬼丸は、目の乾燥を防ぐためにゴーグルをし、禍々しい妖気を放つ紅の刀身を上空の荒魂に合わせる。
――加速装置を使うか?
だが、今後の戦闘で活用する機会が増える点を考慮すれば、今は温存したい。
……となれば。
「おーい、かかって来いよ」
右手に握った刀をグルグルと振り回して、荒魂たちの注目を集める。
外気に溶け込む赤い靄のような妖気に惹かれる様に、飛行型の荒魂たちが飛行高度を下げて捕食者のように攻撃する
「へっ」と、思惑通りに運んだ事で百鬼丸は笑いを漏らす。
そして左右へ視線を配りながら――待つ。
連中が攻撃する……その瞬間を。
歪な飛翼を広げた荒魂は、鋭い牙と燃え盛る口腔を開き、百鬼丸を真横から襲った。
その時を待っていた少年は、バッと握っていたジープの上部からアッサリ手を離し、わずかなズレを生み、荒魂の攻撃を躱す。直後、足の裏から白煙を噴き、空気膜の壁を作ると刃を荒魂の頭部に突き刺す。
『ギャォオオオオオオオオオオ!!』
耳を劈く金属同士の摩擦音に似た悲鳴が、その場に迸る。
一体を屠った百鬼丸は、数秒の間に背後で飛行する荒魂たちの気配を感じながら、突き刺した荒魂の体を足場に、思い切り蹴り飛ばして一気に飛び出した。
わずか5mの距離から飛び出した百鬼丸の体は宙を舞い、紅の刃筋を一閃――振り抜く。
二体。
わずか、一撃で二体の荒魂が切断された。
左腕の強化ワイヤーを仕込んだ左腕の義手の安全装置を外す。文字通り、物理的に「腕」を伸ばし、再びジープの車体を掴む。
シュルシュル、とワイヤーの摩擦音と共に少年が車体に着地する。
「お掃除完了……だよな」
息をついて、百鬼丸は首を傾ける。
道路に打ち捨てられた荒魂たちの残骸はいずれ、ノロの回収車がきて処理をするだろう。黒々とした残骸が無残に散乱していた。
少年の一部始終を車窓から眺めていた服部達夫は、口をあんぐりと開けて「やっぱりお前、普通じゃねぇ」と呆気にとられていた。