刀使ト修羅   作:ひのきの棒

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第237話

 日本の上空がこれまでに見たことの無い風景に覆われている。

 異次元の『隠世』がタギツヒメの力によって、現世と交わり、混然一体の世界消滅を告げる。

 雲間から覗く黒と橙色の輪郭を有した得体の知れない物体が、天空から落ちてくるようだった。

 むかし、『杞憂』の語源の通り天空が地上に落ちてこないだろうか……? そんな不安を抱えた人間を笑い、杞憂という言葉を生み出した。――だが、結果的に言えば、杞憂を感じた人は正しかった。

 だが、一つ、語源となった昔ばなしと異なる点があるとすれば、落ちかけようとする天は、女神が引き起こした騒乱であることだった。

 

 

 Ⅰ

 灯りもない真っ暗で大きな空間で、

 「なぜ、なぜ私の愛を誰も受け止めてくれないのッ……!!」激しく怒鳴る。

 怒りに震える指先で髪を乱した。タギツヒメから放逐されたあと、高津雪那は自室へと戻っていた。

 雪那は行き場のない怒りに震えていた。

 あのタギツヒメすらも、己を利用していたに過ぎない。あの童女のような姿の奥に潜む人間への拭いきれない恨みを推察することが出来なかった。雪那は、その女神の孤独に寄り添えるのは自分だけだと信じていた。

 ――だが結果として利用されて棄てられた。

 「許せないっ、どうしてェ、どうしてなのッ!! こんなにも相手を想っているのに、私は間違えてなんていないわ! おかしいのは、全部他人、世界――全部よォ!!」

 雪那は、その端正な顔立ちを醜く歪め、鏡台に映る自らの姿を一瞥して、

 「なんでェ!!」

 と、ヒステリックに叫び声をあげた。

 バキリ、と鋭い亀裂の走った音と共に雪那は拳を鏡面に叩きつけていた。放射状に走った罅は、雪那の顔を映す部分まで細い線で亀裂を伸ばす。

「はぁ……はぁ……おかしいわ、何なの――」

 ジワッ、と彼女の手から血が溢れた。細かな硝子の粒が手の肉に喰い込んでいる。

 ……どこで間違えたのだろう? この虚しさはなんだろう? 

 激しく下唇を噛んで、罅の走った鏡を睨む。

 そこには、疲れ切った哀れな女性が、目だけは異様に鋭く睨む姿が映し出されていた。

 (あなた、随分と滑稽ね)

 雪那にしては珍しく、自嘲気味に口端を曲げた。

 他者に対しておもねり、高圧的な態度をとって威圧し、全て己の為に利己的に動いてきたツケがここに来て清算をするハメになったのか。

 ――折神紫を裏切ったからいけなかったのか?

 震える指先で、近くの精神安定剤へと手を伸ばそうとした――その時だった。

 

バァアアアアン、と耳を劈く激しい破壊音が聞こえた。

 「な、なに?」

 一瞬、身を硬直させたが、すぐさま音の〝正体〟に検討がついた。

 ――荒魂だ。

 四脚を巧妙に地と壁面に這わせ、頑強そうな顎を開いて口から火の粉を散らす。

 刀使を務めた経験のある雪那は、咄嗟に近くに御刀を捜して手を彷徨わせ――武器もなく、ただ一介の人間である事に思い至った。

 『ギャアオオオオオオオオオオオオオオオ!!!』

 こんなに近くに来るまで荒魂の気配を感じなかったことに、己の衰えとタギツヒメの策略である事を勘づいた雪那。

 彼女は足元に転がる壁面の拳ほどの破片を掴み、荒魂へ思い切り投げつける。

 しかし、当然であるが黒曜石のような色合いの体表には傷一つなかった。

 「い、いや……」

 ヒールを数歩、後ろへと退かせる。

 破壊された壁からは続々と不気味な影を引き連れた荒魂たちが押し寄せてきた。

 動物的な本能から――雪那は全身が硬直するのが解った。

 「くるな、くるなぁああああああ!! 荒魂如きが私に近づくなァ!! …………――いやぁ、こないで」

 足を縺れさせ、床面に倒れた雪那。

 「なんで、誰も助けに来ないの?」

 自然と視界が歪み、己の頬を伝う涙を感じた。

 「あんなにも尽くしたのに……あんなにも愛したのに、どうして? ――ひとりにしないで……」

 まるで、幼い子供のような声音で懺悔する。

 これまでの己の所業を悔い改めようにも、何もかも遅すぎたのかもしれない。

 『グゥルルルルルル』

 カエルのような姿をした荒魂が、太い舌を伸ばして雪那を絡めとる動作をした。

 「いやぁああああああああああああ」

 雪那は腹の底から搾り出した絶叫を喉から迸らせた――――

 

 Ⅱ

 ……あの〝お方〟はいつでも孤独でした。

 一見して傲慢に振る舞っている影では、いつでも誰かに愛されたくて、誰かを強く愛したくて仕方ない人なのだと気付いたのはいつ頃の事でしょうか?

 ――……ですが、私にはあの方に尽くす以外に関わる術などありませんでした。

 

 御刀に適合した生徒のみが『刀使』になれる。

鎌府女学院で刀使に選ばれた生徒たちが、集められ、仰々しく檀上から御刀を受け取ってゆく。そんな光景を、私はずっと、ただ、いつもと変わらぬ「無表情」で眺めていました。

私自身、分かり切っていました。剣術に特別秀でているワケでもなく、御刀と適合できるまでの素質すらないのだと……。自分自身で諦めていました。

だから、

 『力を欲するなら授けましょう――大丈夫。貴女には力を得るだけの資質があるのだから』

 ある時、高津学長に学長室へ来るように命じられたとき、「ああ、ついに私は退学を勧告されるのだな」と思っていました。もちろん、刀使以外の学科にも行くことはできます。それでも、私のような無能に――そう優しく語り掛けてくれた高津学長の言葉は、嘘であってもいい。

 ――……ただ、縋れるのならば、縋りたいと思ったのです。

 それだけが、私の頼れるたった一筋の「希望」だったから。これまで、誰の期待にも応えられず、人形のように生きてきた私に、嘘でも誤魔化しでもいい。そんな言葉をかけてくれた貴女のために、私はこの身を捧げようと決めました。

 

 今、私の目の前に居るのは、紛れもなく高津学長で……――私の変わり切った姿を、畏怖と憎悪、そんな負の眼差しで見上げていました。

 「で、出来損ないがッ!! ふん、モルモット風情が、私を嘲笑いにきたのか?」

 強い言葉で批難しながらも、怯えている様子は――いつも虚勢を張った孤独な高津学長の眼差しでした……。

 

 

 Ⅲ

 次々と襲い掛かる荒魂たちを夜見は淡々と斬り裂いてゆく。

 たとえ、腕を噛まれようとも、悲鳴すらあげずに、御刀を振るう。刀使が用いる身体防御の術《写シ》すらも使えず、ただ、己の身ひとつで刃を振るった。

 顔面の右半分が橙色の角が生えて、その角には巨大な目玉が蠢き、腕も黒曜石のような色合いに染まりつつある。

 荒魂に蝕まれている証拠だった。

 もはや、人間の姿と保っている事が不可解なほどに変貌しきっている。

 山犬のような荒魂が夜見の左腕にかみつく。

 鋭い牙が夜見の腕骨まで喰い込み亀裂を入れた。

 だが、痛みは殆ど感じない。――……けれども、腕肉からは生温かい血が滴る。

 それでも無心で夜見は刀の切っ先を突き刺して山犬を振り払う。

 (たとえ、何もなくても私は……)

 いくらこの身が傷つこうが構わない。

 襲い掛かる多勢の荒魂たちに倒されながらも、夜見は臆する事なく剣を、刃を、強い意志を貫く。

 ……――この想いが届かなくてもいい。それでも……

 夜見は願う。

 あなたに尽くした愚かな一人の人間がいたことを覚えていて欲しい。

 立ち塞がる荒魂たちは尚も減らず、既に限界を超えた夜見の体は油切れのロボットのようだった。

 ふと、闇に沈んだ室内で目と目が合う。

 自然と手を伸ばしていた。

 窓際の壁に寄って畏れ慄きながら、自分(夜見)を一瞥する「あの方」の姿を。

 

 

 Ⅲ

 ――――百鬼丸は、己の直感に従い《無銘刀》を握って立ち塞がる数多の荒魂を斬り伏せた。

 タギツヒメの居る高層ビルの屋上まではエレベーターの類は使えず、階段で闇雲に昇るしかない。途中、巨躯の荒魂たちが現れたものの、蹴とばすように真紅に染まる禍々しい刃のもとに消えた。

 タギツヒメの討伐こそが百鬼丸の悲願であり、最大の目標だった。

 ……――これまでの彼であれば。

 今の百鬼丸は違う。少なくとも、「もう一つだけ」目的があった。

 

 

 高層ビルの途中の階で百鬼丸は立ち止まった。

 (ここに居るのか……)

 灯りもない廊下とガラス張りの窓を眺めながら歩を進めてゆく。窓の外は黒雲がたちこめ、雷鳴が鳴り響く。廊下にも明滅した光が射し込み、明暗を克明に分けた。

 それにも構わず百鬼丸は、人の気配……――正確に言えば「高津雪那」の存在がある方角へと向かってゆく。

 壁に義手の左を這わせながら大股で目的地まで行くと、壁面が盛大に破壊されている事に気付いた。これは人間の手によるものではない。

 「――荒魂か」

 吐き捨てるように言ってから俊敏な動きで崩壊した壁面の穴へと飛び込む。

 

 そこでは、荒魂化しながらも必死に剣を振るう人影があった……。

 

 「――――皐月夜見」

 思わず、百鬼丸は相手の名を口にしていた。

 初めて出会った時から異様な雰囲気を湛えた、何を考えているかも分からない厄介な相手だった。

 その彼女が、床に蹲っている高津雪那のために戦っていた。

「…………なんだ、お前」どういうワケか、百鬼丸の胸が苦しくなった。

 心眼を――相手の心を読む事で直接、百鬼丸は理解した。彼女は今この場で誰よりも、純粋にあの――悪辣な女に対して、尽くしている。

(刀使って馬鹿ばっかりなのか?)

 内心で、ボヤかずにはいられない。

 どうして、自らを無視して多利的に行動するのだろうか。

「お前さんは大馬鹿だな……」

 本心から呟く。

 言葉にできない理由の分からない怒りが百鬼丸の胸奥に渦巻いた。

 ……――もっと自分勝手に生きてもいいはずだ。

 …――生き方が不器用過ぎるんだ。

 感情の氾濫を理性で抑え込み、無銘刀を握る手を更に強く、鼻から深く外気を吸い込む。

「おい、皐月夜見、死にたくなかったら屈め!!」

「あなたは……」 

 初めて人間らしい表情で夜見は驚きに目を瞠り、小さく頷いて屈む。

 彼女を一瞥すると、肩を回す百鬼丸。

 全く言語化することのできないもどかしさを刀身に込めて、百鬼丸は渾身の斬撃を打ち放つ。一気に目前に居た荒魂3体を斬り伏せると、返す刀で両脇に居た胴体たちを貫く。

 血飛沫のように噴き上がるノロの液体が室内の床や壁に飛び散る。

 それでも、百鬼丸の怒りは収まらず、「うぉおおおおおおおおおおおおおお!!」と鋭い歯を剥き出しにして咆哮する。

 あれよ、あれよという間に邪魔ものである荒魂たちが床へ次々と無機質な塊となって転がってゆく。――まるで、現代アートのオブジェのように、盛大な破壊音と共に砕け散る。

 爬虫類のように細い瞳孔を瞬き、残忍な笑みを浮かべた百鬼丸。

 白と黒の長い髪が綯交ぜになって、夜の闇に乱れ舞う。

 荒魂たちを斬るたびに無銘刀が妖気を増している。

 夜見の人間が残っている方の目で、荒々しく息をつく少年を見上げる。

 ――どうしてここに居るのですか?

 まるでそう言いたげな様子だった。

 バキリ、バキリ、と鈍い骨の軋む音を立てて首を斜めに傾げる少年。

 「よぉ、久々だな夜見さんよぉ。それと……」

 視線を変え、壁際で恐れ慄く女性を見据える。

 ――……百鬼丸は、ただ無表情になって壁際の人物の方角へと歩み寄る。

 

 

 Ⅳ

 こと、こと、こと。

 足音が近づいてくる。

 「ち、近寄るなぁ、化け物がぁああああああ」

 雪那は絶叫しながら壁の瓦礫である一つを手にとり少年に向かい思い切り投げた。

 ゴッ、と肉を打つ鈍い音が聞こえた。

 窓際から微かに射し込む光に照らされた人影は、間違いなく少年の姿だった。額から血を流した少年は――それでも歩みを止めず、雪那まで近寄る。

 「な、なんだ私を殺すのかっ? あはははは、やめろぉおおおおおお! お願い、こないで、やめて――殺さないでェ!!」

 けたたましいサイレンのような言葉が耳を刺す。

 顔が正確に認識できる位置で立ち止まった百鬼丸は、額から垂れた血筋を手で乱暴に拭い、膝を屈めて雪那と視線を真直ぐに合わせる。

 「な、なんだお前は……」

 先程から絶叫しているのだろう、声が枯れて、整った顔立ちが酷く疲れてみえた。神経質そうな目には怯えの色で染まっている。

 (初めてこの人とまともに顔、合わせたんだよな)

 百鬼丸はどんな気持ちで接すればいいのか分からなかった。

 ……――だけど、「もう一人のおれ」が言っている。

『すごく懐かしい匂いだ』と。

 だから、今、この女に言うべき言葉は怨嗟や暴言ではない。

 百鬼丸は静かに右手の刀を床に置き、右腕を雪那の頬に触れさせた。

 ――それから。

「ただいま。母さん。遅くなったけど許してくれ……――って、もう一人のおれが言ってる」

 表情をどう取り繕っていいか分からず、頭をせわしなく動かして言った。恥ずかしさが勝ったみたいだ。

 ――……だが、当の雪那は何を言っているのか分からないようで、「お前なんて知らない! 私がお前の母? なんの冗談だ!」

 と、わめき散らした。

 それから伸ばした右腕を素早く叩き落とした。

 (どうしたもんかな……記憶の封印を解くのは)

 轆轤家に代々伝わる秘伝の術。記憶を改ざんする禁術。

 右手を伸ばして、雪那の額に人差し指を当てる。

 静かに心穏やかに、記憶にかかった施錠を下ろすイメージ。

 カチッ、と金属の外れる音がした。

 ――……うまくいったみたいだ。

 内心で百鬼丸は満足しながら、雪那の目を恐る恐る見た。

 彼女は、瞳を動揺させて、目の前の少年を茫然と眺めていた。

 「お前は……――――ねぇ、貴方は、私の坊やなの?」

 頼りない声音で雪那が問いかける。

 百鬼丸は微笑して、「半分は正解で……半分は間違い」と付け加えた。

 「どういう事なの?」

 頭を抱えながら雪那は、知らず知らずの間に、涙を流していた。

 感情が追い付いていないようで、当時、消し去ったわが子の死の記憶と今、対面しているようだった。

 「ねぇ、待って、あなたは私の坊やなのよね?」

 今度は優しい母親の声で、百鬼丸の頬に触れる。

 「……――うん、だから半分は正解だよ。お母さん」

 もう一人の自分が、ずっと会いたかった人にようやく、その温もりに触れたんだ。百鬼丸はようやく納得した。

 「――でもね、母さん。母さんを助けにきたのはね、おれだけじゃないんだ。な、そうだろ? 夜見」

 後ろを振り向くと、二人を見詰める夜見がいた。

 「……私は」

 生命力の弱り切った声音で、夜見は反応した。

 (――まずいな。このままだと、アイツ死んじまうな)

 百鬼丸は考える。

 己のなすべき方法を。

 彼女を救うべきやり方を。

 そんなの一つだけだよな……――――。

 誰に言うでもなく、落ち着いた気分で自身の体を隈なく眺めた。

 「お前も、母さんに言いたい事があるんだよな?」

 陽気に笑いかけた。

 夜見も、百鬼丸に促されるように歩み寄った。

 少年の隣で、片膝をつき、恭しく一礼する。

「――ただいま戻りました。学長」

 虚ろな目で、生気すら失いそうな状態でも、意識だけはなんとか繋ぎ止めているようだった。

「夜見、貴様は……――そんな姿になって……私を嘲笑いに来た訳ではないのか?」

「はい、戻って参りました」

 雪那は、斜光に照らされた夜見の横顔を見上げた。

「――夜見、貴様は」雪那は言葉が続けられなかった。

 傷つき、異形の化け物に蝕まれながらも、彼女はここまで精一杯の力を振り絞って戻ってきたのだ。……あの時と変わらず、忠義を示すように。

 どれだけ我が身を犠牲にしても、必ず付き従ってくれた少女。

 なぜ、いままでこんなに近くにいて、気付かなかったのだろうか? どうして、いま、失おうとしている間際に、大事なものを見つけてしまうのだろうか。

 ……だが、それでも言うべきことがある。

 「お勤めご苦労様でした。夜見」

 しっかりと、少女の目を合わせて雪那は労をねぎらった。

 これまでも、鎌府女学院で任務を果たした後に交わした事務的な挨拶。……――そして今、何より、夜見の求めていた言葉。

 たった一言だけ、その一言を聞いた瞬間、夜見の濁った生気のない瞳に光が灯った。

 ただ、他愛もない一言だけで、高津雪那という人物にかけられたその一言で、夜見は満足したのだ。

 ……だから、頬を緩め、年相応の少女の表情で、初めて柔和に笑うことができた。

 この刹那、全てから解放されたように夜見は全身から力が抜けて床へと体が倒れ込む。その寸前で百鬼丸が抱きかかえ、「お疲れさん」と語り掛けた。

 「夜見?」

 雪那は、彼女の異変に理解が追い付かないようで、首を小さく横に振った。

 「――大丈夫だよ、お母さん。夜見は……夜見さんは、殆ど荒魂と同一化しようとしてるけど、まだ大丈夫だよ。完全に体は戻らないけど、息がある。だから……青ノロを使って延命はできるから」

 優しく、微笑みかける百鬼丸。

 既に、自らの切り落とす肉体の部位を決めていた。

 ……――まだ救える命があるのにも関わらず、見捨てることなんて出来ない。

 

 「な、なにを言っているの?」

 唐突な説明に、更に頭が混乱する雪那を後目に、百鬼丸は立ち上がる。

 床に置かれた水神切兼光を拾い上げ、一呼吸置く。

 「目、閉じててね?」

 片方の目の下に刃を突き立てる。

 「ねぇ、なにしてるの坊や? 青ノロ? 何なのそれ、どういう事なの?」

 必死になって足元に縋りつく雪那は、百鬼丸の行動を察知したのだろう。

 だが、もう遅い。

 勢いよく刃を突き刺し、目玉を引き抜く。

 ボタボタ、と滂沱の血液が雪那の衣服や頬を濡らす。

 「あ、ぁあああああああああああああああ!!」

 絶望に充ちた表情で、わが子の自傷行為を目撃した。

 脂汗を額に浮かべながら「二度めなのに慣れないな」と冗談っぽく笑う。

 「ねぇ、やめて、お願い!! なんで、どうして?」

 折角出会えたわが子の強烈な光景を目の当たりにして、雪那は悲鳴をあげた。

 「お母さん。ありがとう。どんな人なのか肉眼で見れてよかった」

 百鬼丸は、目の筋が繋がった部分を乱暴に引き抜き、プチッという音と共に屈み込む。

 夜見に巣食う荒魂に触れて、昂る神経を宥めて同調を強くする。

 「ごめんなさい、ごめんなさい、なんで貴方がこんな酷い目に遭わないと……許して、なんで……」

 耳元で百鬼丸を抱きしめながら赦しを乞う雪那。

 片目から血の涙を流し、百鬼丸はそれでも、夜見の体へ定着するように集中する。

 「――ねぇ、母さん」

 「どうしたの、坊や。ねぇ、もうそんな……」

 「死んだおれをずっと抱いて温めてくれてありがとうね。優しい匂いが大好きだったよ」

 百鬼丸はもう一人の自分の意志を口に乗せて伝える。

 研究室に送られる前、雪那は死んだ筈の赤子の亡骸を抱きかかえて寒くないように温め続けた。

 「……優しい母さんが大好きだったよ。誰かのために生きられる貴女が大好きだ」

 朧げな記憶と視界の中からでも思い出せる母の温もりと香り。

 それだけが、理由だった。

 母に会いに行くのに理由なんていらないけど、気恥ずかしさを隠すために「おれたち」は理由をつくって現れたんだ。

 

 「うぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 雪那は床面に倒れて泣き叫んだ。

 一気に甦った雪那の記憶は滂沱のように押し寄せる感情に圧倒されて、処理しきれなかった。

 己の負った罪の深さを思い知るように、彼女は身を震わせた。

 

 

 

その昔、仏説に語られた話。

 天竺(インド)に訶梨帝母(カリテイモ)と呼ばれる夜叉の娘がいた。彼女は嫁ぐと多くの子供を産み、育てた。しかし生来の性質が残忍であり――近隣の子供たちを食べ、民からは畏れられていた。

 お釈迦さまは、過ちを咎めるために訶梨帝母の子を隠し、戒めとしました。

 子を隠された訶梨帝母は深く嘆き悲しみに沈みました。

 お釈迦は、そんな彼女に、

 「お前が多くの子を喰ったうちの一人の子供を失った親の嘆きはどうだ?」と諭されました。

 この言葉を聞いて、訶梨帝母はこれまでの行いを悔い改め、帰依すると安産・子育ての神となって人々に尊敬されるようになった。

 ……これが鬼子母神の言い伝えである。

 

 

 Ⅴ

 すべての処置が終わった百鬼丸は、気軽に立ち上がると雪那の首元に巻いたスカーフを解いて自らの目元に押し当てて目隠しにした。

 「母さん。これ、借りていくね」

 涙に濡れた雪那は顔を再び上げて、闇に沈みゆく息子を眺める。

 「世界の崩壊、止めないと駄目なんだ。おれ」

 まるで遊びにいくみたいに簡単にいう少年。

 「――あなた目が見えないじゃない」

 「目? ああ、大丈夫だから。おれ、元々は心の目でモノを見てたから平気さ」

 へへへ、と子供っぽく口を曲げて笑みを零す。

 「どうして? なんで貴方なの? お願い、一緒にいて……もう、誰にも渡さないわ。ねぇ!」

 困ったように頭を掻いた百鬼丸は、肩を竦める。

 「大丈夫だよ。ね、それよりも夜見さんと安全な所に行っててくれ。絶対に戻ってくるよ」

 「駄目、だめ、ねぇ、ねぇって!! いやよ、もう二度とわが子を失うものですか! お願いだから……」

 追いすがろうとした雪那は、ふと、自らの脚が動かない事に気付いた。

 荒魂が突如発生した瞬間に、巨大な壁の瓦礫が足に直撃し、足が萎えていたのだ。一時的な脳内のアドレナリンで痛みこそ感じなかったものの、自力での移動は難しいようだ。

 「お願い、戻ってきて……」

 哀願するように、囁く雪那。

 眉をおどけて跳ねた少年は、

 「――じゃあね、ばいばい。嬉しかったよ。母さん」

 そう告げると、踵を返して百鬼丸は振り返ることなく歩き出した。

 目的は無論、屋上の女神。

 暗闇に姿を次第に溶かしてゆく少年の背中に、女性の悲嘆にくれた泣き声が鳴り響く。

 いつまでも、傍に居て欲しい。そう願う母親の痛々しい叫びが百鬼丸の耳にまで暫く届いていた。

 

 (――……ごめんな)

 内心で詫びて、足を速める。

 最早、百鬼丸は肉眼が無く、代わって《心眼》による外界認識へと戻った。

 最後に見た光景が母親の泣き顔なのは後味が悪いが、仕方がない。――気持ちを切り替えて、無銘刀の鞘を掴み、階段を駆け上がった。

 




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