一台のロールスロイスが東名高速道路を走行している。
車窓は微かにひらいていた。
ささやかな微雨の匂いを嗅ぎながら、ジョーは機嫌よく葉巻に火を点ける。
「ステインくん。君は性善説と性悪説のどちらを支持するかね?」
不機嫌に腕を組んだステインは重い瞼を上げ、「アア?」と恫喝する。浅い眠いりを妨げられた怒りだった。
ハンドルを握る白銀髪の男に向かい、
「知るかッ」
と吐き捨てた。
苦笑いで応じながらジョーは話を続ける。
「ボクは、ね。人間は性善説でも性悪説でもないと思うんだ」
「はァ?」
「ボクは人間という巨大な現象だと考えている。それも、反復不可能なまでの現象だ。類似形式はあっても同一形式はない、オリジナルの現象だ」
唐突なお喋りにステインは付き合ってられない、とばかりに腕を組み、足を車のフロントガラスの方向へ足を伸ばした。――しかし、それを無視しながら話を続ける。
「悪というのはね、主観に過ぎないんだよ。善も悪も無い。もっと云えば客観なんて言葉すら嘘だと思っている。結局、主観と客観らしい主観しかないのかもしれないね」
ステインは苛立ち紛れに、ジョーのシガーケースを奪い取り、葉巻を吸う。車内に紫煙が燻りながら、ジョーは陽気に喋る。
「悪というのは必ず正義に退治される役割だがね。いいかい? 正義は単体では存在できない。なぜなら、悪がいて初めて成立するのさ。でも、悪は違う。それ単体で存在可能なのさ。だから、正義とは悪の寄生虫なのさ。いつも計画を練り行動するのは悪。そしてそれを阻害阻止するのは正義。この構造は父と子の関係だとは思わないかい? ……正義はオイディプスコンプレックスでも患っているようにすらみえるよ」
ステインは大きな咳払いをすると、
「もうお前の御託は聞き飽きた。それで、これから計画している内容について教えろッ!」
怒鳴りつけた。
ジョーは肩をすくめながら、座席の脇から資料をよこした。
受け取ったステインは大きな封筒から資料と写真を眺めた。
「――これは?」
「それは今度の計画の重要な場所だ。我々《知性体》の聖地になるかもしれんぞ」
意味ありげに嗤うジョーの横顔は純粋な〝悪〟の色が映っていた。
2
体全体を震わす小刻みな振動。
「ん……?」
夜見は沈殿した意識から覚めた。気だるい上半身を無理やり起こすと、右側頭が痛み手で額をおさえる。こんな痛みは久々かもしれない。
「あっ、起きましたか?」
装甲車の後部座席で膝枕をしていた双葉が少し困ったように笑いかける。
「ここは?」夜見は苦痛を堪えながらきく。
「えーっと、とりあえず野営本部に行く車の中です。夜見さんが持ってた携帯端末から位置情報を確認してから助けに行きました。……その、ノロを暴走させたってコトが露見するのはマズイので、わたしが事後処理をしたあと、運びました」
夜見は自身の失態を悟り、かつ、その時の記憶が曖昧であった事実を認識した。内心の悔しさを覆い隠しながら、
「ありがとうございます」
静かにそう囁いた。
普段無口な先輩がお礼を述べた。――双葉は面を食らったように頭を大きく振り、
「い、いえ! あの、そんな……わたしにお礼とかいいですよ別に」
慌てて手をふった。
「……? ですが、こうして助けて頂いた訳ですし」
「あの……それはそうなんですけど、でも――わたし、夜見さんに救われたっていうか……弱いわたしでも、居場所があるってことを教えてくれたから」
索敵時に、暴走しかけた双葉を窘めた一件のことを言っているのだろう。そう夜見は領解して「――いいえ、あの時の言葉は事実です。貴女はよく頑張っていると思います」と言い添えた。
なんの飾り気もない夜見の雰囲気を、双葉は好きだった。
「あ、あはは。ありがとうございます」
しかし、夜見は普段には見せない暗い翳りを横顔に湛えながら、
「……もし、力があれば。生まれ持った才能や力があれば、と思うのはごく自然なことだと思います。たとえ、天才には適わなくても……足掻くことに意味はあるはずですから……」
小さく微かに呟いた夜見の言葉は、確かな熱量と実感を帯びていた。それはまるで自分自身に言い聞かせるようにも思われた。
座席に座りなおすと、ズキズキと痛む頭を我慢して夜見は居住まいを正す。
双葉はそんな彼女を凝視しながら、苦く口元を綻ばせ反対の車窓に顔を向けた。
「だから、多分、わたしはそんな夜見さんが好きなんです」
夜見には聞き取れないほどの音で、確かに言った。
3
深海を航行する一個の潜水艦。
名を「ノーチラス号」という。なんとも悪趣味であり、小説の海底二万海里の元ネタだったとしても、現状においてはむしろ「ピークォド号」の方が似合ってそうだ。
百鬼丸は女装姿を解除するように着替えると、普段のズボンと黒いタンクトップ、本革のジャケットに戻った。
姫和に制服を返す際に洗濯しておいて正解だった。この潜水艦には洗濯機も完備されていて助かった。
そういえば、姫和も百鬼丸の服を返すときに洗濯しようとしたのを制して無理やり着替えたのだったが――
『お、おい! まだ洗濯してないから服を奪って着用するな!』
『ん? 大丈夫へーき、へーき。おれは気にしないから。……ん? なんつーか、やっぱおれの服から女の匂いが少しするかなぁ……ま、いいか』
襟を掴んで執拗にくんくんと鼻を動かす百鬼丸。
その様子を半ば唖然として眺めながら、突然火が付いたように、
『っっ、このバカ者! 変態、やっぱり返せ! 人の体臭を嗅いで喜ぶ変態との衣服交換なんてしなければよかった!』
と、散々喚き散らされた。
百鬼丸は慌てて取り繕うように、
『い、いや待て待て! おれはこの匂いが嫌いじゃないし……いいや、むしろ好きかもしれないな、うん』
紳士然とした口調で親指を立てる。
すると、耳元まで真っ赤にした姫和が、
『~~~~~この、大馬鹿者ッっっっ!!』
暫く百鬼丸は胸倉を掴まれ、ボコボコにされた。……それでも服を脱がなかったことから「匂いフェチ」の称号が与えられた。
4
ノーチラス号の細長く狭い通路を歩きながら、
「それにしてもおっきなタクシーだね、」と可奈美が言った。
隣りを歩く姫和の足が止まった。……人の気配が近い。
前方から、
「お会いできて光栄だよ、たった二人の反乱者」
突然の声に「ん?」と可奈美も足を止める。
「――まさに、今日という日は完璧だ!」
通路の扉から現れたのは、西洋人の初老くらいの男性だった。白髪に、古紙のように幾つも刻まれた皺、柔和な目元。
「もしかして……」
「貴方がファインマンか?」
姫和の問かえに対し、自慢げに鼻を鳴らす。
「ファインマンとは世を忍ぶ仮の姿。……しかして、その実体は……」
通路の後柱から姿を見せたエレンが、
「リチャード・フリードマン」
言葉を引き継ぐ。「S装備の生みの親で、ワタシのグランパで~ス」
一瞬驚いた様子だったフリードマンは大仰に腕を広げ、
「おお、ネタばらしとはひどいことをする、我が愛しの孫よぉー」
孫娘と固く抱擁していた。
この意味不明なまでのハイテンションに、二人を除く一同が「なんだ、これ」という顔をしながら暫くやり取りを眺めていた。