……――彼岸花が川辺の土手一面に咲いている。しかし、俺の目前になど曼殊沙華が咲いている筈などない。
(これは幻か?)
朦朧とする意識の中、ステインは一人、怪訝に思う。
(高層ビルの屋上で闘っていたはずだ)
何かがおかしい……、ステインは強い違和感を覚えた。
彼の考え通り、ビルの屋上に川辺は存在しない。かつ、曼殊沙華の花畑などあり得る筈もないのだ。
Ⅰ
彼の二重写しになった視界の先には、女神が白く発光しながら佇む。
「貴様は、その生身でよくぞここまで戦った。だが、所詮は人。迅移も扱えぬのではお主に勝ち目なぞない」
謳う様に、童女の声音で冷酷に告げるタギツヒメ。
(迅移か……。)
夜見に聞いたことがある。別次元の空間へと潜り、高速移動を行う技術。
生身の人間だけであれば不可能な技術も今、ノロを取り込んだ肉体であれば可能性はある。
女神との斬り合いで既に、ステインの全身には無数の刀傷が出来ていた。溢れる血液が、次第にステインの衣服を濡らす。心臓が脈を打つたびに、血液が漏れ出る感覚がした。
息も上がっており、肺は更なる酸素を求めていた。――だが、男の三白眼だけは違う。
何一つ、諦めてなどいなかった。その証拠に不敵な目つきに妖しい光が宿る。
「ハァ、ハァ…………ッ、タギツヒメ。お前は俺を単なる人間だと思っているんだな?」
ステインはもう一度だけ搾りつくした肉体に活を入れ、舌を噛む。
口腔内に血が溢れ、そこから荒魂たちが発生する。俺は口を開き、血の蝶を吐き出す。
華麗な羽搏きと共に俺の体表に留まる。
――準備はできた。あとは、頃合いを見計らって奇襲をかける。
歯を剥き出しにして、赤く長い舌を出してせせら笑う。鼻先で交錯させた双刃を頭上へ掲げ、何かを待っている様だった。
ステインの体内感覚では「時間」という概念が溶け始めた。
己の手に握られた《無銘刀》たちに意識を込める。長い、長い時間をかけて鍛え抜かれた呪われし轆轤家の名も無き刀たち。
人体を素材とした刃たちへと同化するように、ひたすら心を静めて意識を研ぎ澄ます。
風も、水も、人間たちすら一瞬だけ――ほんの一瞬、静止した気がした。
――……その時だった。
細胞の一つ一つから爆発的なエネルギーを感じた。
「迅移――、貴様を斬るにはその技術が必要なのだな?」
ステインの全身に血液で象られた蝶が妖しく群れで舞う。
《悪》を目指して生きた男は、このとき、あろうことか別次元の「隠世」へと潜る技術――迅移を会得した。
……いや、「会得した」という表現は正しくない。
「ウォオオオオオオオオオ!!!」
吼えた。
腹の底から叫び、ズタ袋のような足を前に踏み出して《迅移》を発動した。
タギツヒメの目は大きく見開かれた。
「貴様、なぜ愚かな真似を……いや、生身の人間風情が出来るとはおもわなかった」
初めて称賛らしい言葉を漏らした。
七色の煌めきに彩られた人体は、時間軸の概念を捻じ曲げ、タギツヒメの下へと迫る。
その一歩が10mの距離を縮める。
「その首を貰う! タギツヒメッ!!!!」
大きく振りかぶった刃が背後に懸かる赤月を背に、妖艶な光を反射した。
タギツヒメは、ただ、防御するでもなく、反撃するワケでもなく、無言でステインを眺めていた。
――ビュン、
風を切る虚無な音が響いた。
◇
……――彼岸花が川辺の土手一面に咲いている。しかし、俺の目前になど曼殊沙華が咲いている筈などない。
(これは幻か?)
朦朧とする意識の中、ステインは一人、怪訝に思う。
彼の考え通り、ビルの屋上に川辺は存在しない。かつ、曼殊沙華の花畑などあり得る筈もないのだ。
「俺はどこに来たんだ?」
先程まで世界を破滅させる女神と対決していたはず、だが、今はどうだ?
川辺に立って、夕陽が沈みゆく地平線を眺めているだけ。
気が付くと、己の両手から刀が消えていた。
周囲へ視線を巡らせると、全く見知らぬ風景が拡がっていた。
元の世界に戻ってきた――という可能性は低い。いや、確かめようにも人が居ないのだ。
「あの世、というワケか?」
首を傾け、ステインは怪訝に眉をひそめる。
昔の日本の田園風景が拡がる光景を見つつ、足元の曼殊沙華を一瞥した。
Ⅱ
カラン、と金属が地面に落ちる音がした。
虚しく響く音に耳を傾けながら、タギツヒメは目を細める。
「貴様は所詮は人間。隠世へと生身でゆけば、その次元の中へと迷い込む。次元の入り口から空間へ移動することが出来ても、出口までは生身のままでは辿りつけぬ」
無銘刀たちに言うように、タギツヒメは呟いた。
余りに呆気ない戦いの決着に、内心でタギツヒメは安堵していた。
これ以上、訳の分からない男に相手をする暇などないのだ。
招かれざる客というのは、いつもタイミングの悪い時に来るのだ。
「今日は客が多くて困る」タギツヒメは、愚痴をこぼして肩越しに新たな人影たちを窺う。
――……そう、彼女たちのように。
タギツヒメの背後には、衛藤可奈美と折神紫が非常階段の出入口に立っていた。
苛立ちの籠った目つきで、
「貴様らも邪魔をしききた様だな?」低い声音で問いかける。
Ⅲ
無言で可奈美が一歩、前に出る。
世界の破滅を願う女神、タギツヒメと真正面から向かい合った。
緊張した様子もなく、栗色の髪の少女は女神と対峙する。
「返してもらうよ、小烏丸」
可奈美が正眼に構えながら言った。
タギツヒメを真正面から正視すると、S装備のバイザー越しに気を引き締める。
キィイイイン、と《千鳥》が不思議な共鳴を響かせる。
「どうしたの、千鳥!?」
可奈美は、困惑しながら愛刀を一瞥した。
(もしかして……)
可奈美は直感した。
――そう、以前のように『隠世』との距離が近くなった時の現象が、今この瞬間に発生したのだ。
――強い力で惹かれ合うような感覚。
御刀である《千鳥》がタギツヒメの方に、磁力が働くように引きつけられていた。
隣で千鳥の反応を窺っていた折神紫は、御刀とタギツヒメを交互に見比べる。
(――そうか)
彼女はすぐに、ある一つの考えが浮かんだ。
「生きているぞ、衛藤可奈美。十条姫和は生きている。タギツヒメの中で、その共鳴――小烏丸の意志として!」
紫の言葉を聞いた瞬間、可奈美の中で頭が真っ白になった。
……――生きている?
あの時、鹿島神宮で助けてあげられなかった親友が生きてる。
目を大きく瞠り、紫を見下ろす。
落ち着いた雰囲気の紫は普段通り冷静で、こんな場面で嘘をいう性格でもない。
嘘ではない。なにより理屈ではなく、いま握っている千鳥から伝う感覚が、紫の推論を肯定するようだった。
「……生きてる? ――……そう、なんだ」
目の前で友を喪った光景が今でも生々しく脳裏を過る。
あの時、自分(可奈美)を庇い身を挺して守ってくれた姫和の表情。儚く微笑む横顔がどうしても焼き付いて離れない。
二度と大切な人を失いたくない。
「泣いてる場合じゃないよ――千鳥も、私も! せぇやああああ」
裂帛の気合を込めて、刃を振り下ろす。