「……舞衣、ただいま」
濃紺のポンチョ型レインコートを翻して糸見沙耶香は口元に笑みを浮かべる。
沙耶香の足元には、冥加刀使と化した内里歩が気を失っている。気絶した彼女たちは、連絡をとった救護班が迎えにくるだろう。
斬り合いで勝利した沙耶香は、慈愛に満ちた目で一瞥した後、沙耶香を待っていた柳瀬舞衣の方向へと歩み寄る。
少し合わないだけで大人びた沙耶香に、舞衣はちょっとだけ寂しい気分になった。
……だが。
「うん、お帰りなさい。沙耶香ちゃん」
それ以上に、こうして無事で再会できた事の方が嬉しかった。
自分(舞衣)の作るクッキーを無心で食べる沙耶香が愛おしかった。まるで、ハムスターのように齧る姿に何度も、抱きしめてあげたくなった。
ぐぎゅ~、と可愛らしい腹の音が鳴った。
目をパチクリと瞬く沙耶香は、自らの腹へと視線を落とす。
「……舞衣。クッキーある?」
先程のような険しい剣士の表情から一転して、年相応の困り顔でクッキーをねだる沙耶香。
「――ごめんね。今は持ってきてないの」
両手を合わせて詫びる仕草をする舞衣。
長期行動では非常食は持ち合わせるものの、今回は短期決戦のために持ち合わせがなかった。
「……えっ」
途端に沙耶香の目の奥に失望が滲む。
「……クッキー、食べれないの?」
長い前髪に隠れた紫紺の瞳をパチクリとさせて、問いかける。心なしか口を尖らせて批難しているようにも見えた。
「えぇ~っと……」
「……舞衣のクッキー食べたい」
その一言を聞いた途端に舞衣は、
(今すぐ帰ってお菓子作らなきゃ)
と、血迷った思考に満たされた。
しかし、ブンブンと乱暴に頭を振って邪念を追い払う。――今は世界滅亡の瀬戸際だ。いくら可愛いおねだりでも、心を動かされては駄目だ。
舞衣は次回するように深呼吸して理性を回復させる。
「おいおい、あんまり無茶いうなよ、食いしん坊」
沙耶香の背後から、歩み寄る人影があった。
「……薫、いじわる」
振り返りながら沙耶香は頬を餅のようにぷくーっ、と膨らませる。
「おいおい、沙耶香、お前最近なんか表情豊か過ぎるな」
「……そう?」
「自分じゃ分からないモンだからな、変化なんて。もしかして、アイツ(百鬼丸)と愛の逃避行でもしたから変わっちまったのか?」
ニヤニヤしながら薫は冷やかした。
「……愛? 逃避行? どういう事?」
こくん、と小首を傾げて疑問を口にする。
「いいか、沙耶香。人間ってのはな、異性によって影響されやすいんだ。悪い男に騙される女もいれば、悪い女に騙される男もいる。……お前もあのスケベ野郎に影響されてないといいな~」
薫の煽りでピキッ、と石化した舞衣は、顔を真っ赤にして素早く沙耶香を抱きしめた。
「絶対、ぜったいに駄目だからね? もし、変な人がいても安心してね?」
舞衣が恐ろしく真剣な眼差しで沙耶香を抱きしめながら言い含める。
豊満な胸に顔を半分埋めた沙耶香は、息苦しさに耐えながら「……わかった」と首肯する。
沙耶香に異様な執着をみせる様子に、薫は思わず、
(一番危ない人間が近くにいるぞ、沙耶香)
と、教えたくなった。
「もう皆集まりマシタ?」
遅れてやって来たエレンが、大きく手を振って、沙耶香にウィンクする。
「久々ですネ、サーヤ」
舞衣の巨乳から半分顔を覗かせた沙耶香が、
「……うん。久しぶり、この感じ」
懐かしそうに目を細める。
実数にして、たった数日離れていただけである。だが、その一日が何年も経過したような気分だった。
「もう、大体の冥加刀使は倒しマシタ。マイマイ、サーヤ、薫。準備はできマシタカ?」
「……うん」
「大丈夫だよ」
「当たり前じゃねーか」
各々の反応を聞いて満足したエレンが豪華なプラチナブロンドをかき上げて、頭上を仰ぎ見る。
高層ビルの屋上。
恐らくタギツヒメの居るであろう場所。
あそこに、先行した可奈美と紫がタギツヒメの野望を挫くために戦っているはずだ。
「では、乗り込みマス!!」
エレンが元気よく青色の瞳を輝かせて宣言した。
昔みた、赤穂浪士の古い映画の一場面を何気なく思い出した。
ふんす、とエレンの鼻息が荒くなった。
「あ~面倒くせぇな。早く帰って眠りたいのにな」
心底面倒そうに言い放つ薫だったが、その一言には「必ず世界を救う」という意志が伝わっていた。
それを察知したエレンは嬉しくなって、
「薫のそういうところ、大好きデスヨ?」
長年の癖になった薫の頬にツンツン、と人差し指を当てる。
「だぁ~、もうやめろ」
照れ隠しするように、ソッポを向く薫。
ビルへと向かう一行は、どんなに絶望的な状況にあっても諦めてはいなかった。
……しかし刻一刻と、世界破滅への時計が進み続けている。
――だが、どんな時でも微かな希望の光に縋るように、諦めないものたちが抗い続けていた。
Ⅱ
「はぁ…………はぁ、ッ、急がねーとな」
綾小路の刀使たちを連弾式の加速装置で掻い潜り、追っ手になりそうな刀使たちには、予め用意した催涙弾を加速装置のバレルに装填して噴射煙と共に混ぜてかく乱した。
もしも、冥加刀使と対峙した時の保険として大関に手渡された装備だった。
「マジで焦った」
大粒の汗を額から流しつつも、屋上に繋がる扉に手をかけて押し開いた。
ゴォオオオオオオオ、と圧倒的な風圧と共に広い空間が百鬼丸の前に現れた。