真っ赤な絨毯のような布に、曼荼羅絵が描かれている――。これが制作された時代は今から約四〇〇年前。
初代百鬼丸の頃のものだという。
宗教的、というには余に生々しい絵だった。
他にも、地獄を描いた図画などが数多く庫裏の中に蒐集されていた。
明治期以前、まだ神仏が混淆して祀られていた時代。
人類は古来より、生贄を必要としてきた。
西洋東洋を問わず、人身御供には若き乙女が供されてきた。
……また、刀の製造においても、人間を炉の中へ投げ込む儀式も存在していた。実際に人体に含まれるリンなどの化合物が、刀の精度を上げるのに欠かせなかったと言われている。しかし、それは科学的実証ではなくあくまで「経験」から得られた知識だという。
人間が仮に、犠牲なく文明を構築することができるか? と問われればまず無理だと応える他ない。
刀使とは、要するに「少女」という無垢故に生贄として供されてきた存在と、その生贄を糧にして生成された「刀」の邂逅といえる。
1
舞草の拠点となる村で、しばらく休息をとることにした。夕刻には舞衣と沙耶香も合流するという。
それまで空いた時間で、百鬼丸は初代百鬼丸の手がかりを探していた。舞草は歴史的な文化遺産も保護しているのだという。
昔、一度だけ森を彷徨っていたころにであった琵琶法師に、おれとまったく同じ境遇の漢の話を聞いたことがある。だが、余にも荒唐無稽な話でそのときは信じることができなかった。
折神朱音からこの保管庫である庫裏に入る許可を得ていた。
……なんでも、ここに所蔵されている四割は折神家の所有品だという。しかし、現在は鎌倉の邸では紫が全てを仕切っているために「何らかの理由」で、この舞草の隠れ里に避難させたのだとか。まぁ、おれには関係ないが。
埃っぽい空気の中、軋む床板の音だけが響く。
書棚には、古文書らしい紙の束が積まれていた。おれは、四〇〇年前の出来事を記録した刀使に関する書物から、歴史的人物の希少な証言記録などをどかして、和紙が綴られた一つの束を手に取る。直感で解る。これは、初代百鬼丸についての書物であることを。
達筆な文字で記された内容を無論、おれは読めない。だが、『心眼』を利用することで執筆者の思いを理解することは可能だ。
神経を集中させ、おれは紙束を額に当てる。
百鬼丸は考えていた。
ずっと、昔から己の存在意義を。
仏教における、六道には「修羅道」というものがある。ここでは、阿修羅が住まい、己を戦いの渦中に投じ続ける場所だという。その戦いの苦しみは自らに起因する。
盲目の琵琶法師にこの話を聞いたとき、百鬼丸はまさに自分自身のことだと思った。だが、その苦しみとなる戦いとは――なんの意義があるのだろうか?
この書物を読めば解るのだろうか?
2
長いこと眠っていた影響だろうか? 全身が気だるい。よくよく考えれば、昨夜からまともに休息をとっていなかった。
柳瀬舞衣は、隣りで穏やかな寝息をたてる糸見沙耶香を一瞥して、安堵の笑みを浮かべる。鎌府学長高津雪那から逃れてきた沙耶香は、舞衣に助けを求めた。
しかし、親衛隊の第四席燕結芽の襲撃を受け――辛くも難を脱した。
美濃関の羽島学長の支援で舞草の拠点へと向かう車中でぐっすり眠っていたようだ。
微睡む目で、車窓の無限をみる。見知らぬ山道の曲がりくねった道をひたすら進む。
それからほどなくして、車は停車した。
「お嬢様、到着致しました」
長年柳瀬家に仕えた年配の執事が声をかける。
「ええ、ありがとう」と礼を言いながら、軽く沙耶香の肩を揺らす。
「――ん? 舞衣?」
しょぼしょぼとさせた目で、沙耶香は頭を斜めに擡げたままいう。
「ふふっ、着いたよ沙耶香ちゃん」
色素の薄い髪を撫でながら、耳元で優しく囁く。
「うん」小さく頷きながら沙耶香は、舞衣の豊かに発育した胸元に顔を埋めてから目覚める。柔らかな双丘から返ってくる優しい弾性が、枕のような作用を果たすようだった。
「もう……」
困ったように眉根をひそめ、翡翠色の瞳を目下にやる。だが、沙耶香のあどけない顔をみると咎める気も失せた。
車の外に出ると、新鮮で澄んだ空気が鼻から肺を満たす。
巨龍が伏せたように隆起した形状の山々に陽が落ちかかっている。
夕日を浴びながら克明な陰影を刻む雑木林の梢。空には真鍮色の巨大な雲にも茜に滲んでいる。
微風が枝を揺らし葉音を奏でた。
「舞衣ちゃーん!」
山の遊歩道の奥から懐かしい、弾んで陽気な声が飛んでくる。
「可奈美ちゃん」
甘栗色の髪が勢いよく駆け寄って胸に飛び込んでくる。
鼻腔に広がるのは懐かしい匂いだった。腕や肩の部分部分は筋肉が発達しているのに、それ以外は華奢で抱きしめると女の子らしい柔らかさを感じられる。本当に懐かしい感覚だ、と舞衣は思った。
「ねぇ舞衣ちゃん! 私舞衣ちゃんに話したいことたくさんあるんだよ!」
息も切らさず、上機嫌で顔をくしゃくしゃにして拳をぶんぶんと上下に動かす可奈美。
まるで子犬のように愛らしい。
「うん。私も可奈美ちゃんに話したいことがあるんだよ」
ふと、可奈美は傍の沙耶香に気がついた。
「沙耶香ちゃんも一緒なんだ!」
荒々しい握手で沙耶香は困惑した様子だった。
遊歩道からさらに気配が感じられた。
「よぉ、遅かったな」
薫とエレン、そして姫和がやってきた。
「十条さん……」
まさかこのタイミングで再会するとは両者とも思わなかった。
しかし、その姫和は周囲をキョロキョロ見回しながら、
「あのド外道変態はどこだ?」
薫が振り返り、
「あ? あの変態ド腐れ野郎か? さぁ、姿を見てないな」
沙耶香の手を離した可奈美が、
「あれ? そういえば百鬼丸さん居ないね」
(えぇ……今の罵倒で誰のことか解るの可奈美ちゃん)
笑顔が引き攣る舞衣。
すると、遊歩道の奥から車が一台やってきて停車した。
車窓をぐーっと、運転席から下げて、
「おいお前ら! おれの悪口を散々言いやがって……」
百鬼丸は悔しげに顔を顰める。
と、その車の助手席からすらり、と人影が降りる。
「ようこそ舞草へ。若い刀使たち」
折神朱音がそう告げた。
3
書物を読み終わるころには、時間が大分たっていた。
「お時間よろしいでしょうか?」
戸口に立つ折神朱音は、しずかにそう言った。
驚いた百鬼丸は、
「折神さん、あんたたちは……」うろたえた。
その様子がおかしかったのか、
「ふふっ、そこまで他人行儀でなくても結構ですよ。気安く朱音、と呼んでください」
百鬼丸は年上の女性にそう言われ「はぁ……」と曖昧に頷いて気恥ずかしさを隠した。
「ごほん。えーっと、その二〇年前の事件の前線にいたんだろう?」
朱音は真面目な顔つきで「ええ、あの時確かに相模湾岸での大厄災の前線にいました」と語る。
「あの時、確かに荒魂を討伐した刀使は英雄といえるでしょう。ですが、まだ若い乙女たちの遺体が担架で運ばれてゆく光景が今でも忘れることはできません。勿論、知り合いも何人か亡くしていますが、あの時、あの場で刀使であるという覚悟を持って戦いに挑む、そんな現実が肌身で恐ろしいと思いました」
相模湾岸大厄災、この事件は荒魂を討伐しえる唯一の存在、刀使が数多く投入された。結果として多くの犠牲を払いながら事態の沈静化に成功した。
「…………おれは、この肉体と力がどうしておれ自身に宿ったのか、そればかり考えていた」
朱音は事前にフリードマンから知らされていた百鬼丸の簡単な経歴を知っていた。
「ええ、貴方も随分苦労されたのですね」
「してない! おれは、おれの目的の為に生きている。だから、関係はない」
なんと、頑固な少年だろう。朱音はそう思った。それと同時に彼は人に同情されるのをひどく嫌っているようにみえた。――全てを自分の中で抱え、ひたすら自分を傷つけながら進む姿を想像した。
「貴方を舞草に迎えたのは、正直な話をしますと〝百鬼丸さんの力〟に頼りたくてお連れしました」
それは嘘ではない。最初から打算の部分を打ち明けなければ公平ではないと思っていたからだ。
「――ああ、それでいい。あんた達に利用されるならおれはいくらでも力を貸す。おれは、闘うしか能のないんでね」
強気な口調とは裏腹に、表情はどこか頼りなく一抹の寂しさがあった。
「そんなことはありません! あなたはご自分を削りながら人型の荒魂討伐にご尽力されているではなんですか? なぜ、そのようにご自分を卑下されるの――」
「うるさいッ! なんであんたがそのコトを知っている?」
「……舞草の責任者として、不可解な討伐数は把握しています」
「チッ、そうですか。――いいや、すいません。このことは黙ってて下さい」
「ええ、フリードマン教授からもそう聞いています」
「でも、これだけは覚えておいて下さい。今の貴方は一人ではない……その事を」
しばらく黙った百鬼丸だったが、
「――いいや、おれはずっと一人でいい。おれの近くにいられると邪魔くさい」
見るからに嘘だった。
地獄に続く道を、たった一人で歩く覚悟をした少年の目には、悲愴なまでの強い覚悟があった。
その場を立ち去ろうとした百鬼丸の背中に、朱音は思わず、
「刀使を――願わくば、もう二度とあの時のような事が起こらないように……刀使を守って下さい」
情けない大人の一言だった。権力や名声がどれほど高まっても、もう子供達を守ってやれない。だから、あんなにも傷ついている少年に刀使たちの生命を守れ、と言っているのだ。朱音は己の非力さに嫌気がさした。
――だが、少年は振り返る。
「……はいはい、りょーかい」
気だるげな声だったが、振り返った眼差しだけは闘志の滾る漢の顔つきだった。
もし、二〇年前にこの百鬼丸がいたならもっと刀使の命は救われたのだろうか? ふと、そんな仮定をしてしまう。それほどに現在の百鬼丸は魅力的な漢に映った。
と、唐突に足をとめた百鬼丸は、
「…………そろそろ、到着する二人を迎えにいく時間みたいだが、一緒にいきますか?」
気恥ずかしそうにそう呟く。
なぜ、彼がそんな提案をしたのか――それは分からないが、恐らく彼なりの気遣いかもしれない。一瞬呆気に取られた朱音は、
「ええ、ではご一緒させて下さい」
強く頷いた。
だが朱音は同時に、気恥ずかしさに口をもにょもにょと動かす年相応の横顔の百鬼丸に安堵も感じた。