早朝。舞草の里は静かだ。薄い霧が低回している。爽やか、というより寒いくらいの気温だ。目が冴えるような空気感。肌の産毛が一本一本逆立ちそうなくらいだ。
おれと可奈美はあくびを噛み殺しながら、手近な練習場所を見つけた。
小川の流れるすぐ傍の川原の土手沿いの開けた場所で、おれは木刀を正面に構え可奈美を見据える。
透明で新鮮な空気を肺いっぱいに詰め込んだように、
「百鬼丸さん、全力でかかってきて!」
弾んだ声で瞳をキラキラと光らせる可奈美。
「あ、あいよー」
両手で強く握り、おれは地面を蹴った。一直線になんの衒いもなくただ真っ直ぐに飛び出す。所詮おれには小細工は似合わない。可奈美にはおれの全力を受けてもらう。
こちらを捉え続けた可奈美の視線は、一瞬だけおれの纏う暴風に驚いたようだったが、怯む様子もなく、無表情に体を横に躱す。
……それは正しい判断だ。
おれと真正面にぶつかれば、いくら剣術に秀でていても、トラックにぶつかって、吹き飛ばされるようなもんだ。
が、おれも回避は予想していた。簡単に方向を変えることは不可能。――だから、仮に可奈美が横から一撃を打ち込めば対応はできない。
勿論、普通の人間であれば……である。
靴底が川原の小石の上を滑りながら、驀進する勢いを上に――宙に逃した。両腿の人工筋肉は引き締まり、高熱を溜め込む。無理な負荷故のことだ。
宙に舞ったおれの体は、そのまま可奈美の背後の位置に着地した。体感では1・5秒ほどの間の出来事だった。
可奈美は直進するおれの体に一撃を与える機会を窺っていたようだが、突如不可解な動きを目敏く反応し、木刀を止めた。
――だが、彼女は馬鹿ではない
むしろ、剣術においては天才だ。空中から次の攻撃パターンを瞬時に理解し、背後からおれの気配を察知し、冷静に踵を返して横一閃に薙ぐ。
おれは危うくのところで相手の刀身を受け止める。しかし、可奈美は鍔迫り合いをするつもりもなく、すぐに刀身を己の身に引き寄せる。
おれとの力比べは結果が歴然としている、そう判断したのだろう。
(思った以上に強い――)
普段の陽気で天真爛漫な雰囲気とは異なる……醒めた目で、しかし静かな青い炎が可奈美の瞳の奥に宿っている。
「ふぅ」
可奈美は小さく息を吐く。
眉は微動もせず、おれを半眼で捉え続けている。
正面に構えた木刀は通常の正眼の構えより大分位置が下げる。しかし、刀身は鶺鴒の尾のようにぴん、ぴん、と上下に動く。
リズムでもとっているようだ。
「おもしれぇ」
おれは思わず叫ぶ。
今まで荒魂としか戦わなかったおれは、相手という存在をみてこなかった。体の体積の数十倍以上もある相手でも、おれは潰してきた。
だが、おれより小さい可奈美の方が何倍以上も強い。
おれは自然と足が動き出し、可奈美を木刀で袈裟斬りにしようと打ち込んだ。
それをまるで予測していたかのように、見事な足捌きで躱しおれの小手を狙う。だが、それは美奈都の一戦で学んだ。
おれは木刀の柄の部分から手を刀身側にスライド移動させ、可奈美の攻撃避けると、柄の部分で可奈美の一撃を弾き返す。
その予想外の反応に可奈美は一瞬驚いたが、また冷静さを取り戻し、肩の位置を落とした。
なるほど、確かに可奈美の戦闘スタイルは『後の先』を得意とするようだ。
だから、『先の先』を得意とするおれは相性が悪い。
「強ぇな、可奈美」
おれは久々に手応えのある相手に出会えて喜んでいるようだ。自分でもこんなに血の気が多いのか、と戸惑うくらいである。
そこで、初めて可奈美が「うん。とっても楽しいよ」と喋った。……だが、どこか浮かない表情でどこか哀しげな顔だった。
おれが正規の剣術で戦っていないからだろうか?
それは仕方ないだろう、と内心で言い訳しながら勝負を決めるために木刀を持ち直し、再び可奈美の前へ突撃する。
いくら相手の行動パターンを探っても解るはずのないのなら、いっそ自分から攻撃パターンを絞らせることにより、単純な戦闘へと移行させる狙いがあった。
可奈美もそれを理解したようで、今度は避ける素振りも見せず、鶺鴒の尾のように上下に微動した刀身が反応した。
可奈美の剣先がおれの左肩を強かに叩き込む。
「くっ」
鋭い骨の芯にまで響く斬撃。
が。
「へへへっ」おれは口を苦く歪め、笑う。
可奈美のほっそりと華奢な喉元に剣先を寸止めさせていた。
と、緊張の糸が切れたようで、肺が新鮮な酸素を求めた。
「はぁ……はぁ……」
限界だ。人工筋肉の熱量がひどく、早く外部冷却したい。
「引き分け……いいや、おれの負けかな」
おれは悔しいが、対人戦の敗北を口にする。
だが、可奈美は「ううん。私の負けでいいよ」冷たく言い放つ。
おれは全身から血の気が引いたようにショックを受けた。
「なんでだよ? おれが正規の教育を受けてない戦い方をしたからか?」思わず怒鳴る。
しかし、可奈美は髪を大きく揺らすように首を横に振り、
「――違う、全然違うよ。百鬼丸さん。なんで、私が悲しいか解る?」
唐突に「悲しい」という単語を呟いた。
おれは突然のことに理解できず、「すまない。分からない」と俯いた。
可奈美は木刀を胸元の前に引き寄せ抱くようにして、
「――百鬼丸さんは、すごく自分勝手。剣を合わせて分かったんだ。ずーっと、自分が傷つくことを厭わないで、相手を壊す、潰す、それだけを目的に剣を振るっている。普通の人だったら、まずそんな戦い方できない――色んな死線とか、実戦の経験を活かしているんだと思う。でも、百鬼丸さんは辛くないの?」
可奈美の言葉の一々が、おれには深く刺さった。
「し、仕方ないだろッ? もう今更こんな戦い方を変えることだって、生き方だって……」
火照った頬に、涼やかなミルク色が溶け込んだ微風が撫でる。
「ううん、違うよ百鬼丸さん。百鬼丸さんも姫和ちゃんみたい……全部自分で抱えて、それで誰も傷つけてないと思い込んでる。でも――私はそう思わない」
ふと、おれは可奈美の潤んで震えた声に視線を上げる。
人一倍好奇心旺盛な琥珀色の瞳の端から、大粒の涙がこぼれていた。
たかだか、剣を合わせただけだろ、そうからかおうとして、おれは口を開き――噤んだ。
川のせせらぎが、不意に大きく聞こえる気がした。
「百鬼丸さんの剣はとっても悲しい。百鬼丸さんの〝殺人剣〟が自分も傷つけてることがわかってない……でも、その悲しさを全部背負って生きてきた百鬼丸さん自身がそのことに気がついてないことが一番辛いよ」
「おれは辛くない! なぁ、可奈美! おれは全部、おれの責任で生きてきた! この運命を受け入れてきた! もし、お前がおれに剣を教えてくれないのなら仕方ない――」
そう言って背中を向けたおれは、場を立ち去ろうとした。
おれは悔しさに唇を噛み締めた。それは、不甲斐ないおれ自身に対してだった。
と、不意に背の肩甲骨辺りに自分以外の高い体温を感じた。
「……私が守る、百鬼丸さんを守る」
背中の布越しに伝う温かな湿り気と同時に感じた、小さい呟きの言葉。
可奈美の両腕がおれの胴を抱きしめている。おれの異様に高い体温も構わないで……自分以外の心臓の温かな鼓動を背中に確かに感じる。
白く繊細な手で、おれを必死で掴んで離さない。
「……可奈美は強い、な」
皮肉ではなく、本心からおれはそう思った。そして、おれは情けなくなった。なぜ、こんなに、この少女は強くて優しいのだろう。
「なんで、おれなんかを守ってくれるんだ?」
目を逸らす。急に恥ずかしくて、冗談めかして訊ねる。
「なんか、じゃないよ。百鬼丸さんは大切な人だから……姫和ちゃんも舞衣ちゃんも、薫ちゃんも、エレンちゃんも、沙耶香ちゃんだって……ううん、舞草の人たちだって美濃関の人だって、みんな私に関わっている人全部守りたい、って思う」
ぐっ、とおれの拳に力が入る。
おれは可奈美が背後から抱きとめているのをゆっくりと解き、向き合う。
「……おれも誰かを守る、そう思って戦ってきた筈だったんだ。最初は。だけど、結局こんな道にしか進めなくなった……」
義手の左掌を開く。
今まで、どれだけ多くの命を殺めてきたのだろう? この手で……
可奈美は涙と鼻水を乱暴に袖で拭うと、おれの無骨な手を小さな白い手が包む。
「――守ってくれてたんだよね。多分、この手に救われた人もいると思う。分かるよ、剣を合わせれば。悲しいけど、とっても優しい百鬼丸さんの剣。それに、私は百鬼丸さんが、居なくなったら、いや」
天城峠で出会った『知性体』のデブ男の顔を思い出した。
彼の散り際は、果たして知性体だったのか、人間だったのか分からない。けれど、あの笑顔を反芻すると胸が詰まる。
「おれは……」
初めて誰かに存在を認められた。初めて誰かに必要とされた――
「可奈美、ありがとう。おれを必要としてくれて……おれをここに居ていいって言ってくれて。そして、すまん。おれにも誰かを守る剣を教えてくれ」
おれの左掌を握っていた可奈美は、甘栗色の薄い陽の光に反射させた髪から顔をぐっと見上げて、
「うん。〝活人剣〟――百鬼丸さんには人を活すための剣を教えるね!」
すごく楽しそうに、いつもの快活で陽気で花が咲いたような微笑をおれに向ける。
もしも、誰かを守れるなら……今度は奪われずに済むのなら、おれは守りたい。そう思った。