「高津学長、失礼します――」
皐月夜見が普段通り機械的に入室した。
「……っ、痛ッ……どうした?」
腹部を抑えながら、呻くように返事をした雪那。ここ最近疲労や精神的な理由により胃腸が弱くなっている。その為に胃薬を欠かすことができない。
執務机の脇に置かれた薬袋とコップを一瞥し、夜見は目を正面に戻す。
「はい。内閣府情報戦略局の局長……轆轤秀光様が訪ねて参りました」
「なにっ……それは本当なの!? どうしてもっと早く連絡を――」
激昂し椅子から腰を浮かせる。
しかしそれを予め想定していたかのように、夜見の背中から一つの影が現れた。
「まぁ、まぁ、彼女をそんなに責めないで下さい。私が抜き打ちでやってきたまでですから……。どうも、オヒサシブリですね。高津雪那学長」
穏やかな口調で「案内ありがとうね」と夜見の肩を軽く叩いて席を外すよう言外に告げる。夜見も反抗することなく、一礼すると退室した。
その後ろ姿を見送りながら、肩越しに秀光は口を開く。
「高津学長――いいえ、元学長になるのですかね」
鎌府の学長職解任予定の件を皮肉っているのだろう。
「……一体なんの御用でしょうか?」努めて冷静に雪那は対応する。
轆轤秀光。最年少で情報戦略局の局長ポストについた。現在四五歳というが外見はどうみても、三〇代前半といった所だ。一八〇センチの長身に、スーツに隠れているが、手からでもうかがい知れる程の鍛え上げられた肉体。役人というよりも、武術家の類の雰囲気がある。しかも、容姿に優れ、鼻梁の通った甘いマスク。
……額に大きな十字傷があるが、これも彼の容姿の欠点にはならないだろう。
値踏みするような雪那の目線を受け流すように秀光は微笑んだ。
「そう怖い顔をしないで下さい。それにあなたの敵ではありませんよ。ただ、国家の情報網を甘く見ない方がいい。それだけは忠告します。あなたがタギツヒメを利用して裏で画策しているのもコチラに筒抜けですからね」
「――なッ、それは……」
背筋に冷たいものがはしった。全て露見していたというのだろうか? あれほど正体をくらませて努力したというのに……。目の前が真っ暗になった。
雪那の絶望する様子を面白げに眺めた秀光は小さく首を振った。
「いいえ、今のところその情報は私だけで握っています。部下もごく一部の者しか知り得ません。ご安心下さい」
喉を鳴らして唾を飲む雪那は、口を引きつらせながら、
「な、なにが目的なの……?」
穏やかな目元の秀光を睨みつけた。
この男の外見に騙されてはいけない。蛇のように一度まとわりつくと逃がさない。彼と一度仕事で関わる機会があったが、その時から雪那はこの轆轤秀光という男の不気味さを感じていた。
「――目的、ですか。今は明かせませんが、私はあなた方の計画を支援したいと思っています」
「どういうつもり?」
「信じて頂けませんか。まぁ、いいでしょう。ですがお忘れなく。あなたがこの綾小路で暗躍していること自体が既に情報局は掴んでいます。私が情報開示の許可を出すだけであなたは捕る。賭けてみますか? 嘘か本当か」
チッ、と内心雪那は盛大に舌打ちをした。彼を信じるより他にない。これが仮に嘘だったとしても、既に彼の術中に踊らされているワケなのだから……しかも現に彼が目前にいるではないか。
(ここで彼を始末するのも最悪の状態を招くだけね……。)
キリキリと痛む胃袋に、背中を丸めて苦痛に呻きながら、
「分かったわ。あなたの要求をのむ。それでいいでしょう? それでコチラにメリットは?」
「高津雪那学長のままでいてもらう……鎌府の学長権限を更に強化した上で、このまま学校運営に関わってもらいます。いかがですか?」
「はっ……そんなまさか……。」
綾小路と鎌府を手駒にできる。
そんな美味しい条件を提示しているのだ。タギツヒメを中心として刀剣類管理局維新派として影響力をもたらすには、必ず武力――即ち、刀使の力が必要になる。綾小路一校だけでは心もとない。その点において、鎌府は勝手知ったる古巣である。
この条件は申し分ない。
「分かったわ。手を組みましょう。轆轤局長様……」
僅かに勝気で傲慢な笑みが口元に浮かぶ。
秀光も頷く。
「それでは詳しい話はまた後日。本日は失礼致しましたね」
踵を返して、機敏に去ってゆく。
広い背中を睨みながら、
(なんなの、せっかく私の出世が……クソッ)
雪那は親指の爪を噛んだ。
◇
人生に於いて、運命的な出会いというのはどれ位の確率なのだろうか……? もしも、性質の似通った者同士がこの地上に存在して、その両者を引きつけ合う力――運命の引力は作用するのだろうか。
或は、その運命的な出会いとは同時代人なのだろうか。
人類史において、過去未来にそのような存在を認めたときは?
衛藤可奈美の場合、多次元の来訪者……腑破十臓がその人であった。
彼は過去の人である。
剣……というよりも、人斬りに取り憑かれた狂人であった。
けれども、その研ぎ澄まされた剣筋、悪魔か何かにでも魂を売り渡したように狂った意思。
全てが嫌悪すべき唾棄すべき存在であるにも関わらず、剣を合わせるうちに不思議と精神が深く潜ってゆくような錯覚に陥る。
もう数合も打ち合っているのに、気力や体力は衰えるどころか闘志の勢いを増している。否定しがたい剣戟による快楽。
可奈美は自らの内側にこのように暗い感情が眠っているのか、と改めて恐ろしくなった。剣術は楽しい。習うことも考えることも実際に動かすことも全部が血肉になる。……だけど、それを理解してくれる人はどこにも居なかった。少なくとも今までは。
「どうした可奈美? お前は俺を殺す為に剣を振るっているのだろう? だったら、よそ見をするな!」
無精ひげを生やした十臓が鋭く咎める。
「……くっ、違うッ!!」
琥珀の瞳を動揺させながら、可奈美は鍔迫り合いを演じる。
八幡力を利用して筋力を増強しているにも関わらず、相手を圧倒できる気がしない。
柳眉をひそめ、可奈美は半眼になる。
仄かに色気を漂わせるうなじに、汗の香りがした。
――膠着した。
完全な停止である。
十臓も可奈美も、鍔を合わせた侭微動もせずに睨み合う。吐息がかかる距離で、両者は氷のように冷たく鋭い眼差しをぶつけた。
(違う……本当に?)
不意に可奈美の脳内に、自分の声が響いた。
――えっ? と危うく声を出しそうになった。
(本当に私はこの十臓って人の言ってることを否定できるのかな?)
胸の奥がザワつくような甘い囁き。
違う、と否定することだってできる。でも、今までの鬱屈がそれを許さない。あんなに退屈で灰色な毎日じゃなくて、血潮が沸騰するような今の闘いがどれほど素晴らしく世界を色づけているのだろう?
認めたくないが、しかし事実であった。
「はぁーーーーーーっ!!」
可奈美は気合の掛け声と共に、十臓の剣『裏正』を弾いた。
「ほぉ……」と、喜びを浮かべながら十臓は後ろに飛び退く。満足げな様子だった。明らかに殺意の篭った動作に変わったのだと理解した為である。
「そうだ可奈美。お前はそれでいい。今のお前は美しい――」
十臓は残忍な笑いで口を曲げる。
……衛藤可奈美は、剣士ではなく狩人の如き殺意を湛えた瞳に揺らめく青白い炎を灯ながら、正眼に構える。
一陣の風が二人の頬を嬲る。
「ふっ――」
小鼻を可愛らしく動かし息を吸い――
可奈美が動いた。《迅移》を用いて、距離を詰め十臓の懐に飛び込んだ。
「――ッ!!」
完全に意表を衝かれた。
あのタイミングでは通常、気合を貯めて打ち込むか体勢を整える筈だ。しかし敢えて呼吸のタイミングをずらして肉薄してきた。戦場での駆け引きに長けた者の見事な読みであった。
「はぁああああああああッ!!」
柔らかな唇から迸る激しい叫び。
《千鳥》の切先が十臓の右肩に食い込んだ。そのまま刃を刺し貫いて、半分ほども刀身が埋まった。
――可奈美は数回瞬きする。
「えっ……?」
われに返って、ただ呆然と全体重をかけた「突き」の型を維持した両腕を見つめる。筋肉を貫く嫌な感覚。刀身が骨に当たって気味が悪い。相手は《写シ》すら貼っていないのだ。
頭が真っ白になった。
どうして? ――どうしてこうなったんだろう?
無意識に否定の首を振りながら、可奈美は目を見開いて、運動靴を二三歩後退させた。
「ふっふふふふ、あはははははは!! よかったぞ、可奈美! 俺の見込んだ才覚のある者だ。やはりコチラ側の人間だったな。お前と戦うとこの胸の渇きが癒されてゆくようだ」
そう言いながら、十臓は左手で《千鳥》を掴んで、そのまま刃を引き抜いてゆく。一切の苦悶を表さず、そのまま最後まで抜ききった。
どす黒い血が地面を濡らすのも構わず、十臓は右肩の白衣が血痕に汚れているのを満足げに一瞥した。
「今度は、俺の本当の姿で戦おう……なに、この傷を気に病む必要はない。お前はこのまま快楽に身を委ねればいい」
そう言いながら、怯えに固まる可奈美の頬に血に濡れた左手で撫でた。
べっとりと、血の濃密な香りが鼻腔に絡みつく。思わず嘔吐くほどの腥さだった。
――だが、不思議と可奈美はそれに比例して体の奥から湧き上がる震えを感じていた。
(うそ……私、いま喜んでいる……?)
足元が竦む。こんな経験は初めてだった。
(怖いんだ……私が、私じゃなくなるみたいで……ううん、もうひとりの私の存在を初めて認めたから……怖くて堪らないんだ)
純粋に強さのみを求める、可奈美……。
誰に対しても優しい可奈美……。
相反する二つの性質の狭間で揺れ動き続けた彼女は、強敵であり外道を極めた腑破十臓という規格外の男に遭遇して――新たな己の一面を開花させてしまったのだ。
ようやく、膠着から体が開放されると急いで辺りを見回した。
既に十臓の姿はない。完全に消え失せている。
しかも、地面を濡らした血痕すらない。
「どういうこと……?」
あまりの事態に理解が追いつかず、呆然と立ち尽くす。
ふと、右の頬を触れた。
まだ新鮮な、粘着質な感触が指先に伝わる。指を離すと、ねっとり、糸のように伸びた。鼻を擽る鉄分の匂い。
「さっきの出来事は夢なんかじゃなかったんだ……」
改めて自らに言い含めるように呟いた。
「ふぅう」と呼吸を整えながら、可奈美は無意識に口の端を釣り上げていた……。