中世の欧州を模した鐘楼は、黄土色の石造りで出来ている。十一月の冬が近い時期、陽の傾きが早まり午後四時半でも夕色に影が濃くなっていた。心なしか肌寒い。
高い塔の方へ視線を上げると、アラビア数字の時計は鋭い夕日を反射して燦く。
既に、平日の時間ということもあり、疎らな人々も帰り支度をしていた。インターロッキング舗装の地面は、小さな四角を規則正しい配列によって組み合わさっている。
低潅木の生垣が、両側に整然と並んでいた。
太平洋に面している立地上、微風に混ざって潮の匂いが嗅がれた。
「はぁ~」
燕結芽は、現在は事実上解散状態の折神家親衛隊の制服に身に纏っている。少女は百鬼丸と別れてから、一人……約三〇分をかけて園内を散策していた。本当であれば、閉園まで百鬼丸と共に歩こうと考えていたが、彼は顔色が優れないために結局置いていくことにした。
足元は白いタイツに、トーシューズに似た小靴。靴底を鳴らして、終末感の漂う雰囲気を散歩し続ける。以前、何度か両親とテーマパークを訪れた記憶がある。しかし、それは遠い過去の出来事であって、今では朧げとなってしまい明確に思い出すことはできない。
昔の思い出よりも、『ノロ』を受けて入れて以後の記憶が強すぎて、過去を思い出すこと自体が少なくなっていたようだ。
ふとザザザ、と増水の音がする。――目線を落とした。
舗道の脇にクレーチングの細長い排水があり、そこには肉の薄い落ち葉が濡れながら
詰まっていた。昨日の驟雨の影響だろう。
「…………。」
急に寂寥感が、胸を満たした。
死病だった頃にはこんな気持ちは時々襲ってきた。夜、眠る前は怖かった。気が付くと、もう二度と目を覚まさないのではないか――不安で押しつぶされそうになった。だから新しい朝に、親衛隊の面々の顔を見ると心が浮ついて、つい軽口も言った。
……この瞬間は、〝いま〟しかないんだ
そう、胸の奥で呟きながら大切な〝いま〟を噛み締めた。
結芽は細い腕を夕空へ伸ばし、可憐な指先を開いた。積層雲が刷毛で広げたように空のキャンバスを流れ、橙光と陰影が明瞭に区分されている。
――義兄さんは、自分の肉体と寿命を切り離してわたし達に命を与えてくれたんです
双葉の言葉が頭を何度も反芻された。
可奈美たちが折神家に襲撃をしてから、一週間後。入院中に何度も双葉が病室を訪れてくれた。そして、相楽学長と共に話をするときは、何度も病室から出ていった。結芽は仲間外れにされた気分だったので、こっそりと彼女たちの後を追った。
秘密の会話を聞くのは、背徳感があって楽しいものだと結芽は密かに笑う。あとで素知らぬ振りで、真面目な顔をしたふたりを揶揄ってやろうと思った。
息を止め耳を澄ませる。
病院の廊下の角でふたりは止まり、神妙な顔で話し始めた。
――義兄……百鬼丸は、わたしと燕さんを助けるために、自らを対価に差し出しました。
そう、口火を切った双葉。
(えっ……? 百鬼丸おにーさんが……? どうして?)
衝撃の事実に暫く頭が痺れて、何も考えられなかった。
しかし、相楽結月に事実を語り続ける双葉は淀みなく百鬼丸の果たした延命術の全てを喋り続けた。曰く、己の肉体と寿命を差し出して命を救ったこと……しかし、五年の制限があり、五年を過ぎれば新たに百鬼丸の肉体を切り離して与えなければ延命できないこと。
次々と残酷な事実が聞かされるたびに、燕結芽という少女には重すぎる負荷となって表情を暗くさせた。
どうして……? どうして見ず知らずの他人にそこまでできるの?
舞草の里を襲撃した際もそうだった。彼は本質的に誰かを傷つけるということをしたくないタイプの人柄だった。――しかし、同時に彼の守りたい者を侵害されたときの圧倒的な冷酷さが、百鬼丸を戦士たらしめているのだ……と。
『お前は生きれる……』
朦朧とした意識の中、優しく語りかけられた言葉。……誰に言われたのかも憶えていない。だけど今、双葉の話しを聞いて合点がいった。
それと同時に百鬼丸という、少年への罪悪感が止めどなく溢れてきた。
『あれ? 燕さんもう寝たんですか?』
会話を終えて病室に戻った双葉と結月は、ベッドの布団が大きく膨らんでおり、眠っているのだと判断して起こさないよう無言のまま退出した。
ふたりの足音が遠ざかったのを確認してから、詰めていた息をゆっくりと吐いた。
「うぅ……ひっぐ……」
と、呼吸と共に嗚咽が洩れた。
布団の中で体を胎児のように丸め、左手で口元を塞ぎながら嗚咽を押し殺した。浅縹色の大きな瞳から涙の雫がこぼれた。
今まで、自分の寿命のことばかりが念頭にあって、他者を害し続けてもそれすら省みる余裕がなかった。……そして、心のどこかで可哀想な自分だから、許してくれるだろう……そう思ってきた。否、そう思わなければ生きた証しを「誰かの記憶に刻み付ける」ことができないのだと勘違いしていたのだ。
だが、それは違うのだということを、たった一度刃を交えた少年から教わった。
自分自身が情けなかった。
確かに寂しさはあった。それでも、生き方として正しいと胸を張っていえることではないだろう。だからこそ、無条件で命を救ってくれた百鬼丸のためにも、できることがないか考えずにはいられなかった。
――――でも、もし私が刀使じゃなかったら百鬼丸おにーさんは私を助けてくれたのかな?
だが同時に、小さな疑問が芽生えた。
◇
「百鬼丸おにーさん、か」
つま先で舗道の小石を蹴って飛ばし、後ろで指を組みながらため息をつく。
今日を一緒に過ごしてわかったことがある。
それは、百鬼丸という少年が、想像していたよりもダメ男であるということに。世間知らずで、人の好意には鈍く、どこかぼんやりとしており、終始どこを見ているのかも分からない。呆けた表情からは何を考えているのかも判らない。これがあの、百鬼丸だろうか? と疑いすら持った。
……しかし、燕結芽はそれ以上に、「人間」としての百鬼丸という素の状態の彼を知ることが出来て素直に嬉しかった。彼を嫌いになろうと思えば思う程に、彼のことを考えている時間が長くなる自分に気がつき、不思議な気持ちになっていた。
結芽は不意に、御刀《ニッカリ青江》の柄頭につけたストラップを外して、目線の高さまでもっていく。
りん、りん、と涼やかな鈴の音色が鳴る。
丸っこい、苺大福猫が左右に揺れた。
百鬼丸に先程手渡したものとお揃いのストラップである。
にっ、と思わず唇が緩んで綻ぶ。
こんな日が一日でも長く続けばいいな……、そう思っていた矢先だった。
ドォォオオオン、という盛大な破壊音と共に、テーマパークの中心部に位置する『鏡の迷宮』から黒炎が立ち上っていた。その瞬間、燕結芽は本能的に悟った。
…………百鬼丸おにーさんを狙う敵がきたんだ
と、そう確信する。
一直線の道の先に丁度『鏡の迷宮』の入口があった。塵灰が粉状に漂い、袖で鼻と口を覆い隠しながら、結芽は小走りに駆けた。
(百鬼丸おにーさんを守らなきゃ……)
これ以上彼を戦わせてはいけない、これ以上彼を戦わせればきっと早いうちに、寿命がつきてしまう。
「そんなの、イヤ……」
無意識に言いながら、足を速く駆けた。右手に握り締めたストラップを胸の前に押し当て、高まる鼓動を堪えた。
◇
爆発した、というのにテーマパークの職員は誰ひとりおらず、不気味だった。疎らだった客たちも散り散りに逃げており、容易に鏡の迷宮までたどり着くことができた。
入口の前に佇みながら、結芽はイヤな胸騒ぎを感じていた。
異様な圧力が放たれていたのである。……冷気にも似た殺意が、結芽に悪寒を与えた。しかし、それを振り払うように御刀に手をかけながら、結芽はゆっくりと内部へと侵入する。
薄暗い、太古の時代を思わせるBGMが幾重も反響しながら、青味がかった照明が下から照射されていた。滑らかな鏡面は、四方八方を囲み、結芽の緊張した面持ちを反映した。
自身の顔を一瞥した。
「なにこの顔……だっさい」
緊張を解くように、ワザと軽口を叩いて気を紛らわせる。
こと、こと、こと……。可愛らしい足音を響かせるたびに、心拍数が上昇する。これまでに相手をしたことのない敵がこの施設内部に居るのだ。
『ほお、貴様の方が来たのか――』
嗄れた男の声が、木霊した。
声がら察するに、壮年の男であろう。
結芽は反射的に身を固くした。
浅縹色の美しい水晶体を動かし、索敵する。……自分の呼吸音すらうるさく感じられるほどに、耳を澄ます。余りにも静か過ぎる空間。
襲撃者は唐突にその姿を現した。
斜め背後を一過性の、素早い残影。
不意に、疾風の方角に意識を向けた。しかし当然、その姿は消えて居ない。
古典的な施設である、通称「鏡迷宮」は数千枚の鏡が配置された施設である。
その名の通り全方面が合わせ鏡になっており、いくつもの自身の虚像が重なる。薄暗い空間では物音は全て虚しく吸い込まれた。――横目で隣りを一瞥すると、青い鏡面が冷たい光を反射した。
「へぇ……面白そうじゃん」
鏡の迷宮の深部、孤独の影を踏みながら不気味さを圧倒する殺気で周囲の気配を探る。
《ニッカリ青江》の白柄に指をかける。俊敏性が第一必要となる。
『貴様は、成程余程の使い手らしい――ただの小娘かと思ったが、いいだろう』
男の低く錆び付いた声が、無限に反響するかに思われた。
トーシューズに似た靴のつま先を立て、ゴクリと氷のような一息を呑む。喉にまで嚥下した呼吸を小鼻からゆったりと抜き、精神を鎮める。
居る。
途轍もなく強い相手が、この鏡の内部に潜んでいるのだ! しかも、相当の使い手であることは、放たれる殺気で解る。
「おじさん、相当強いでしょ?」
思わず軽口が出るほど、心臓の鼓動は高鳴っていた。……今までに味わった事のない種類の感覚である。
苺大福猫を模した金属の鍔に親指をかける。鯉口を僅かに刃の、銀の煌きが溢れた。
抜刀準備は整った。抜刀しても振り回すには少々手狭だが刀身の短い《ニッカリ青江》ならば斬り合いでも問題はない筈。あとは、敵が来るのを待つだけ……
細い眉を落とし、長い睫毛を薄く閉じる。
膝を曲げて腰を僅かに屈め、抜刀専用の体重移動ができるようにした。軽く柄に手を触れさせる。
鏡というのは、如何にこの場面において阻害物であるかを、少女に知らしめた。
四方を無数に反映する結芽の顔。……
漣ひとつ立たない湖面に浮かぶ一つの木の葉を連想した。
剣士にとって最も重要なことは、冷静な頭脳と精神である。常にルーティンによって叩き込んだ無意識から繰り出される剣術。意識下によって組み立てる戦術。
その両輪を駆動させる為には、頭と精神が常に安定せねばならぬ。
幼いながらも、すべてを剣術に捧げた少女は本能的に理解していた。
――間違いなく相手は強い、と。
しかも、常人の「ソレ」とは異なる。
一種、異様なまでの暴力的な雰囲気に呑まれないよう平静を保ち、抜刀姿勢から動かない。天然理心流の「突き」技を即座にイメージする。
初手から繰り出す斬撃はあくまで攻撃による防御の側面がつよい。……従って二撃目の「突き技」による攻撃こそが本来の仕留めにかかる技だ……と、結芽は無数の剣軌道を思い描きながら判断を下す。
靴底を擦る。
(千鳥のおねーさんは……、たぶんこんなのが得意なのかも)
口端を僅かに上げて笑う。
柳生新陰流の使い手。
数合剣を合わせただけで判る、本当の強さ――。
『後の先』を得意にできるのは、ひとえに実力に依るものだった。いくら強くても先手を耐え凌げねば意味がない。
「考え事とは余裕だな」
背後から、男の警告が囁かれた。
ゾワッ、と肌に粟立ちが浮かんだ。
一拍の間もなく、結芽は銀線を閃かせた。
空気中に描かれた銀色の剣軌道は、半弧を描き背後の気配を斬り裂いた。――だが手応えがまるで無い。否、無いのではなく背後には何も存在すらしていないかった。
視線をすぐさま前に戻した。
「お前を生け捕りにするには〝本当の姿〟で相手をするしかないな」
残忍なえみを頬に浮かべ、尖った眼差しを結芽にむける。
「俺の名は腑破十臓。……貴様を捕らえに来た者だ」
冷徹に、男はそう告げる。