月下の柳は河川をそよぐ。
江戸、城下。
冬の頃、冷えた月光が皓々と地上を照らす。未だ普請の続く町は、絶えず大工や普請の諸国大名お抱えの武士たちの姿が辻を行き交う。……が、丑三つ時の現在は人影一つ無い。
城下を含め、江戸を恐怖に陥れる謎の「人斬り」の存在が大きい。
柳生三厳(十兵衛)も御庭番衆を家光より借りて探りを入れていた。
そして、おおよその見当はついた。
(腑破十臓――か)
島原以後、家を出され町人長屋へと移り住んだと聞いている。その時の活躍の様子は聞き及んでいるが、勇将というに相応しい。特筆すべきは町に潜伏させていた御庭番衆も何人か斬り殺されている。
馬鹿者でもない。
いや、むしろその学識は林羅山の塾に通って塾頭代理を務める位だ。知恵者でもある。ただその粗暴な性質が彼の欠点という他ない。噂では、羅山を言い負かしたと言われている。『春秋』の解釈について――特に、公羊伝を以て稠密な理論によって朴訥とした口調だが明瞭に反駁したのだという。羅山は密かに、彼に後継者として期待をしていたという。
「しかし忌々しい。我が門下生が斬り殺されているのは我慢ならんな……」
隻眼の男……十兵衛は、腕組みしたまま編笠の下から冴えた月を見上げる。両岸に挟まれるように浮かぶ小舟の上、彼は待った。報告によれば、今日この場所にほど近い橋に現れる……そう聞き及んでいた。
ぺた、ぺた、ぺた……
と、耳の良い十兵衛は足音がするのに気がついた。
遠く、夜に霞む橋の上に人影らしき姿があった。丁度、橋のたもとに酒に酔った男が千鳥足で橋へと向かってゆく。
「……チッ」鋭く舌打ちする。
珍しく粉雪混じりの江戸。
野太刀を掴むと、十兵衛はおよそ尋常成らざる跳躍で橋の欄干へと降り立つ。義経の八艘飛びを一度やってみたく思い、幼児より訓練した成果が出た。
「オイ、お前。腑破十臓だな……?」
十兵衛は回りくどい言い方が苦手だ。だから直接尋ねる。鋭い、猛禽類に似た眼には殺気が溢れている。これに恐れおののく者は、下手人ではなかろう。
そう判断した。
――――果たして
人影は、月の斜光に横顔を照らされた。
「いかにも。お主は……何者だ?」
無精ひげを生やした男は、凄愴な顔貌で見返す。
これが江戸を恐怖に陥れた人斬りなのか? と、十兵衛は戸惑った。まず彼の装束……即ち、白い襦袢が死装束を意識しているように見えた。
黒瑪瑙の太い鞘を握り、片目を眇める。
吐く息が白い。
十兵衛は悟った。
――この男は、ここで始末せねばマズい!
本能で悟った途端……先に動いたのは十臓だった。
橋板を素足で蹴り、欄干の上に佇む十兵衛へ横一閃に薙ぎ払った。鋭く研ぎ澄まされた一撃が尋常ならざる剣術の才覚を否応なく感じさせた。
「ほぉ……これは、ウチの門下生でも太刀打ち出来きんなッ」
宙に体を預けた十兵衛は素早く抜刀し、頭上から一気に打ち下ろす。
火花が夜に咲いた。
鋼と鋼の重低音が共鳴しながら、闇に沈んでゆく。
「ふっ、ははははは……貴様は、柳生三厳だな? その太刀筋、噂に違わぬ! 成程他の有象無象の柳生流と比肩できんものがあるな」喜悦に歪んだ口調で、十臓は叫ぶ。
「あはは……そりゃ、どーも」
愛想笑いを浮かべながら、冷や汗を垂らした。
(なんだ、この男の馬鹿力はッ!? 病床にあったと話しを聞いていたが、そんな素振りすらないぞッ!?)
混乱しながらも、白刃を閃かせる。
「……持久戦かな?」十兵衛は苦笑い混じりに、相手の体力が尽きるのを待った。
◇
「はぁ……はぁ……どうした、先程から何故手出しせぬ?」
間合いを遠くとり、一向に剣戟を交えない十兵衛に苛立ちが募る。
結核の病が着実に、十臓を蝕んでいた。
ゴホッ……ゴボッ……
口から多量の血塊を吐き出し、床板へと零す。ドロリと粘土のような質感にて、足元を濡らした。
「さあ、こい!! お前と斬り合いたいのだッッ!! 弱者の血肉ではもう満足できぬ! 強者こそが相手に相応しいのだッ!」
怒気を交えながら正眼に構える。肩は大きく波打つ。
(そろそろ頃合かな?)
十兵衛は圧力をかけながら、間合いを縮める。
「よしッ、来たか!!」十臓が喜色に彩られる。
――が。
「甘いッ」
叱責するように、僅かな隙を突き十兵衛は身を低く屈め足払いをする。
一拍、油断ができた為、十臓は身を背後へ退いた。しかしそれを見逃さず、真下から十兵衛の拳が突きあがる。顎下に直撃し、頭蓋骨の芯を捉えた。
「ガハッ……」
しかし、未だ闘志衰えずの十臓は迫真の一撃を隻眼の男へと振り下ろした。
乱れのない、正確な斬撃。
だが、それ故に柳生の本領が発揮された。
「――おい、忘れたのか? ウチのお家芸をよォ!! 無刀取りだぁあああ」
十臓の一撃を拝むような格好で両手で受け止める。親指の付け根を深く切ったようで、鮮血が流れ、肘まで流血が伝う。
おいおい、嘘だろ! と驚愕しながら十臓の膂力に驚嘆した。
「腑破十臓! 貴様は殺さぬ。捕縛だ。その平和を乱した罪を償え」
そう言い残して、十兵衛は正拳突きで鳩尾を貫いた。
――ガハッ、と盛大に口から全てを吐き出して倒れこむ。
冷たい床板に伏しながら、霞む視界で十兵衛の背後を追っていた。
「なぜ、殺さぬ? ……もう、いちど、殺し合いを、した、い」
途切れ途切れの言葉に、忸怩たる思いが増す。万全の状態で、本当の殺し合いがしたい、と願っていた。
だが、隻眼の男は月光を浴びながら醒めた目つきで見下し一瞥をくれる。
「ムリだ。……お前はこれから公儀で沙汰を待て。そうさなぁ……お前が本当に戦いたければ、いずれ生まれるであろう柳生新陰流の天才剣士にでも頼むんだな」
呵呵と笑い、十兵衛は立ち去った。
雪片が十臓の頬に落ち、溶けた。
(柳生新陰流――? ふっ、覚えたぞ、その太刀筋)
外道に堕ちて尚、そのことは記憶せるのだと思った。
◇
紅の猿面に似た顔貌に、一瞬の間が宿ったように俯き加減になっていた。
(衛藤可奈美、か。そうか。奴の太刀筋も柳生のソレだったな)
トンネルのオレンジ色をした構内を通過しながら、《裏正》を握り変える。百鬼丸は警察車両の上で平伏しながら反撃の機会を窺っているようだった。
『さて、決着を付けるか』
物思いから回復したように十臓はいう。
東名及び首都高における被害状況――死傷者一二六名、火災複数。事故渋滞による物流の影響、不明。
この日、陸路の主要路を襲った事件は各メディアによって速報として伝えられた。
2
時間をやや戻し、原宿。
「ん~? あれ? 清香と連絡つかないんだけどどうしてかな?」
美炎は怪訝に眉間に皺を寄せる。
調査隊として行動して以来、なんだかんだ気心の知れた存在となった。田舎育ちの美炎はどうも人ごみには弱い、と自覚する。
「あはは。お友達とは別れてしまったんですね――ところで、袖を掴むのはやめてもらえると助かります」
優しい声音で、美炎に語りかける男――ジャグラー。
彼は、内心忌々しく思いながらも美炎を邪険に扱うことも出来ずに困惑していた。
「あっ、ゴメンなさい! つい……えへへ」
愛想笑いで誤魔化す美炎。
「…………。」
さて、この小娘をどうしたものか、と彼は考える。
丁度人が多くて助かる。〝怪獣〟の餌に困らないかな。
ジャグラーは、どこからともなく、大気中から『ダークリング』と呼ばれる道具を取り出し、美炎から見えない位置で隠しながら発動の機会を窺っている。
「いえ、心細いのですよね。気がつかずにスイマセン。お許し下さい」
にこっ、と微笑みかける。
「あっ、えっと……いえ、その……」
ドキリ、とした表情で美炎は顔を真っ赤に染め俯く。
(なんなんだ人間というのは――)
益々不可解な感情に囚われながら、ジャグラーはこのタイミングを逃さなかった。
『ダークリンク』を掴んだ腕を天に掲げ、意識を集中する。
「ふっ、あはははは、さああ全てを喰らえ、ニンゲンという最高の餌がいるこの場に降臨せよッ!」
ジャグラーは、唐突に叫んだ。
「――えっ? はっ!? ど、どうしたんですか?」
美炎は顔を上げ、ジャグラーの横顔を凝視する。
「…………ふっ」
しかし、彼は何も答えず口端を曲げる。
不敵そのものだった。
ダークリンクから放たれた邪悪で禍々しい光から……〝影〟が生まれた。
「おおっ!」
ジャグラーは色めきだった。待ちに待った破壊衝動を充たすに足りる存在。
その「影」は具象化していくように姿形を構成してゆく。
「ふははははは……ハァッ!?」
と、ジャグラーは高笑いの途中で素っ頓狂な声を上げた。
『ンン? ここはどこだ?』
この世の者とは思えぬ声。
原宿の街中に突如出没した不可解な影。
その正体は外道衆の怪人、「アベコンベ」である――。
「だ、誰だお前!?」
『それはこっちのセリフだ!! ここはどこだ?』
くそっ、こんな筈じゃないのに……ジャグラーは予想外の出来事に脳内処理が追いつかず、歯噛みした。
「え~っと、あのジャグラーさん? これはどういう状況なんですか?」
大きな目をパチくりとさせて美炎は怪人アベコンベを指差す。
「なっ、こ、これはその――」
勢いよく横へ腕を逸らしたジャグラーは弁解をしようと、取り繕わねば、と混乱していた。……そして、事故は発生した。
もにゅ、もにゅ、
と、柔らかな感触がジャグラーの手の中に感じられた。
「は?」
戸惑うジャグラー。
「えっ?」
唐突な出来事に呆気にとられる美炎。
少女は目線を自らの薄い胸部へと落とす。その僅かな胸のふくらみに、ジャグラーの手がすっぽりと収まっていた。
プルプルと小刻みに全身を震わせる美炎。
すぐさま手をどけると、
「あ、あの、これは違うんですよ――その、オレは別に〝こんな虫刺されみたいな膨らみ〟を揉みたくて揉んだワケではなくて、本当に――」
ジャグラー必死の懇願はまさに誠実さに溢れる声音と真剣な眼差しだった。
……だがそれゆえに事態は最悪へと向かった。
「っっっ、最低っ!!」
顔を真っ赤にして、美炎は大きく右手を横にスイングさせた。
最後にジャグラーの視界に映ったのは涙目の少女が、自らの胸を片手で覆い隠しながら「すごく格好よくて信じてたのにっ」というワケの分からない文言だった。