1
衛藤可奈美は柔らかな息を一定の間隔で吐き、御刀《千鳥》の白柄を握り直す。正眼に構えた剣は想像上でいくつも斬り結ぶ軌道を敢えて予測せずに《千鳥》が「流れたがる」方向へと自然と動かしてやることに注力する――
大切なことは頭にあるイメージと体の動きが一致すること。
………静寂。
人気のない鎌府の道場の一画。
突如訪れた無音の世界で孤独に身を置く少女。
澄んだ神経は、別次元の領域へと導くように脳内の雑念が一切取り払われ、妙に頭が冴える。
今年で十四になる可奈美は、しかし剣の伎倆に於いては既に現役刀使でもトップクラスだった。自らの流派以外も積極的に取り入れ、更なる剣の高みを目指していた。
日課である剣術の鍛錬の後、ひとり精神統一の意味を込めて道場で御刀を握る。冷静な思考を保たなければ……
ドクン、
心音ひとつ、高鳴った……。
集中が乱れる。――ああ、またダメだった。
可奈美は軽い失望を覚えながら、歯噛みする。そして不意に記憶の底から這い出る「人影」……
腑破十臓と名乗った男は、残忍な剣ではあったものの、不思議とその強さに魅せられてしまう自分をみつけ、可奈美は慌てて首を振る。
人の容貌でありながら、既に人でない――
単純な直感だったが、自然と百鬼丸の横顔が瞼の裏に浮かぶ。
(――百鬼丸さん)
彼と離れて随分と経つ。その間に、彼は薫やエレン、舞衣など他の刀使と共に行動をしたと聞き及んでいる。……会いたくない、と言えば嘘になる。だが今はどうしても彼と顔を合わせたくはなかった。きっと、今会えば自分自身が制御できない衝動に駆られる気すらしていた。
「だめだ……どうして、最近集中できないんだろう……?」
可奈美は体表の《写シ》を解除して刀身の比較的短い《千鳥》を鞘に収める。ちん、という金属の音が鞘に反響した。
「可奈美、ちょっと、いい?」
微かな声音が、道場の出入り口から聞こえた。
可奈美が振り返ると、糸見沙耶香が華奢な姿で佇んでいた。
「……うん? どうしたの沙耶香ちゃん?」
取り繕ったような笑顔で振り向き、問いかける。
色素の薄く長い前髪の間から、伏せ目がちに戸惑っていた。
「あの、ごめんなさい……」
突然の謝罪に、可奈美は一瞬「えっ?」と小首を傾げて反応に困った。一体、なんの事なのだろう。逆に狼狽すらしてしまう。何か言われただろうか――
……ああ、あのことか。
可奈美は自然と、記憶の糸を手繰り、一つ思い当たる節を探り当てた。
〝気づいてない? 可奈美だけひとり遠い所にいる――〟
以前、綾小路との刀使と共に入浴した際に沙耶香に言い放たれた。
その一言は、可奈美の鬱屈を全て言い表していたのだった。だから「違う」と否定もできず、ただ黙ることしかできなかった。〝タギツヒメ〟との闘い以来、有り余る力が、いつしか「強者」との闘いを求めていることを、本質的に沙耶香は嗅ぎ取っていたのだ。
「この前、可奈美に私ひどいこと言った……しっかり謝りたくてここに来た」
朴訥な喋りながらも、その誠意は伝わる。
実際悪気があって言ったのではないだろう、それは可奈美にも解る。
だから、
「ううん、全然気にしてないよ沙耶香ちゃん。あっ、そうだ! いま時間あるかな? ちょっと練習相手になって欲しいんだけど、ダメかな?」
いつも通りに振舞う。――多分、これでいい。この『仮面』を被った侭の私もきっと私なんだ。
可奈美は自らにそう言い聞かせる。
〝いつでも明るくて元気な衛藤可奈美――〟を演じるのは慣れている。普段通りにすればいいんだ。
言葉を全て飲み込んで、
「どうかな?」念押しするように、咲き誇る笑顔で尋ねる。
ポツン、と佇んでいた沙耶香は目を意外そうに瞠り、
「……うん、わかった」
と、寂しそうな微笑で頷いた。
何となく、少女の隠した感情と葛藤を悟ってしまったのだ。
(…………可奈美は多分、いま無理してる。前の私みたいに気がついていない)
なぜだか、ふと沙耶香はそう思った。
現在の可奈美の雰囲気は、まさに元気印の天然娘――という様子である。
だが、それは上っ面だけ。
浅からぬ関係を持った沙耶香は知っている。いまのように多弁を弄する可奈美は、どこか心ここにあらず、という状態であることを。
まるで、孤高の山脈の巓に憧憬の念を抱く者のような、どこか取り憑かれたような印象すら受けた。
「…………百鬼丸だったら、可奈美の相手、よかったのかな」
無意識に小声で沙耶香は囁いていた。本当に強く、そしてどこまでも果てのない存在である少年の後ろ姿。彼がいれば、可奈美は満足してくれるのかもしれない。
でも、自分は百鬼丸じゃない。
天才、特別な才能がある……そう言ってきた周りの大人たちの媚びへつらいが、現在の沙耶香にとっては、滑稽でしかない。
本当に強い存在を知った今、迷いながら強くなるしかない自分自身と向き合うことでしか前に進めないのだから。
薫とねねから教わったように「自分の頭で考えて、悩んで斬る」ことを実践できるように。
沙耶香の逡巡とは別に、可奈美は沙耶香の言葉に動揺し、
「…………。」
何も言えなかった。
耳ざとく、可奈美は沙耶香の小声を漏れ聞いていたが、敢えて聞こえないように、背中を向けて無関心な素振りをした。
ギュッ、と可奈美は膨らみかけた胸元に拳を握り締める。
甘栗色の利発な髪に西日が差し込み、薄い茜色に染め上げた。琥珀色の瞳は伏せられ、弱い光が彷徨っていた。
2
汐留インターから接続される湾岸線の道路には、午後六時になっても渋滞解除の兆しが見えなかった。ヘッドライトが無数に光る中、夕闇から本格的な夜に切り替わった――。水平線の向こう側は既に真っ暗で、海風がビュウ、ビュウと吹き付ける。
時折、クラクションの激しいがなり声まで聞こえてくる有様だった。
予想を遥かに超える被害に対し、警視庁を含む治安維持組織は自体の収束になんら有効な手立てを打てずにいた。
通常、警察部隊――その手に余る場合は、機動隊の投入、もしくはSTT(特別機動部隊)を編成して逐次投入する計画となっていた。日頃の荒魂事件の際はこの方法が確立されており、現場での超法規的対応も視野に入れた行動が可能である。
STT先遣部隊のD分隊隊長田村明はマルボロを美味そうに吸いながら青い煙を吐き出す。休暇を潰された恨みを忘れさせてくれる唯一の嗜好品だ。右腕に持った重量物を一度、橋の欄干に立てかける。透明なシールドはアクリル樹脂とカーボンなどの複数の材質によって作られている。しかし、本来は荒魂という化物と対峙した際には、どんな文明の利器ですらも歯が立たない、そう痛感させられる。
G36の安全装置を確認しながら、肩ベルトをかけ直す。
防弾チョッキも履きなれたブーツですら、今日はやけに重い。
明がプッと、煙草を噴き出して足元で踏み潰す。……すると背後から、
「隊長、民間人の避難がようやく始まったそうです」副隊長の福田がいう。
「了解。さて、現場はどうなっているのかねぇ……」
顎をさすりながら、目を細める。
無線連絡によると、人型らしき異形の影と、警察車両に飛び移った影が破壊の中心だという。……単純なテロ事件ですらない。
そもそも人間技ではないのだ。
(となると原因はお前か――百鬼丸)
ヘルメットの上から無意識に頭を掻く。ふと、限りない足音に気がつき目を横にやる。
黄色いテープの規制線の向こうには不平顔の老若男女が列をなして歩いている。車を放棄させてでも人命を優先――これは正しい判断だ。もっとも、SNSやネットでは非難轟々だろうが……
「市民を守るのも俺たちの努めだからなぁ」
部下を失った悲劇を繰り返しはしない。今自分にできる精一杯をやるだけだ。
そう言い聞かせうように、右腕の義手の指先を曲げては伸ばしを繰り返す。
ヘッドセットから、再び通信が入った。
『えー現在、湾岸線沿いから対象者たちの車輌がD分隊警護区域へ接近中。準備されたし』
と、簡単な情報と共に伝えられた。
明は、夜空を仰ぎ見る。
「――マジかよ」
当分、特別賞与にありつけるな、と自嘲してみせた。