海風から薄い靄にも似た気体が流動的に橋桁を這って登ってくる。……剣呑な眼差しの侭、百鬼丸はゴクリと唾を呑む。
《で、どうする? 君は――》
「決まっているだろ……とりあえず、足が必要だ。おれの脚部加速装置だと断続的な加速しか出来ないから八キロ弱の移動は無理だ」
そう言いながら、横目で路上に放棄されたバイクに目をつけた。
『セダンボ――ホンダ、CBR1000RR』が、持ち主もなく横倒しに置かれていた。
四気筒エンジン搭載の安定した加速を実現した車種であり、排気量は999ccである。――百鬼丸は直感で、このバイクを拝借しようと思った。
(と、なると……奴の目を一時的にごまかさないとな……)
接近戦に持ち込まれると、脱出する機会を失う。であれば、遠距離武器で足止めをすべきだろうか?
短い時間を自問する百鬼丸に対し、胸の奥のジョーは軽くせせら笑う。
《いいかい? 奴に通女兵器は効果がない。異世界の来訪者なんだからねぇ》
イヤミったらしく皮肉った口調で諭す。
ムカつく野郎だが、言っていることは至極正論であり素直に頷かざるを得ない。
「加速装置……、噴射……ああ、成程な」
悠然と歩を止めない十臓。猿面のような、朱色の骸骨を模した顔貌には一切の表情すら宿らない。だが不思議と十臓が、斬り合いに期待しているようにも見えた。
「――生憎だが、お前と真正面からやり合うつもりはねーぞ」百鬼丸は片目を眇めて呟く。
その直後に、百鬼丸は前方に足を伸ばして足裏からジェットを噴射した。その急速に生じた速度を利用し、バイクの転がる場所まで距離を縮めた。
しかも、蒸気による視界の隠蔽によって一時的ではあるが十臓も方向感覚を奪われたのである。
「――よォしッッ」
粗雑な黒髪を靡かせながら、百鬼丸は浮遊する体で左腕の刃を「鞘」に収めると、空いた腕をハンドルグリップに手を伸ばして引き起こす。本来、大型バイクは簡単に持ち上がるものではないが、百鬼丸の怪力と速度位置によって軽々と立つ。
バイクの持ち主はキーを刺したまま避難したのだろう。
「動けぇえええええ」
百鬼丸は、体をひねってバイクにまたがると、グリップを回す。
トルクの激しい脈動。鋼鉄の心臓が命令を受諾し、排気ガスを強かに吐き出す。夜道に大型二輪が躍動する!!
「あばよ!! 追いかけるんなら早い方がいいぜ、クソ野郎がッ!!」
不敵な笑みで百鬼丸は肩ごしに挑発する。
『…………。』
遠ざかる百鬼丸の背中を眺めながら、十臓は握る《裏正》の柄を更に強く掴み、姿勢を低く追跡の用意をとった。
2
潮の匂いが心地よい、頬を切る冷風は久々の感覚だ。
百鬼丸は右手に持った刀を鞘に収めると、湾岸線の路面をイメージする。恐らく、液体窒素を積載する車両は工業地帯で活用されているものに違いない、であれば後方の車両だけでなく、進行方向にもあるのではいだろうか? ……希望的観測ではなく、実利的に考えれば一台だけしか通らない訳がない。交通量から推察しても、可能性はある。
《しかし、奴はこの世の物理法則にも縛られていると考えて――液体窒素で固めたとして、その後はどうするのかな?》
ジョーが問いかける。
その点はまだ考えていない、と百鬼丸は正直に答えた。事実、あのような能力を有しているのだからそうそう簡単に倒せるとは思っていない。だが、秘策とは言えないが一つの望みもあった。
「この《無銘刀》が――ぶっ殺せるんだったら、恐らくコイツが最適だと思う。なんせ、妖気を吸って鋭さを無限に増すことができる刀なんだからな……奴が強ければ強いほど、コイツが奴の肉体を貫くことだって不可能じゃないだろ?」
眩い外灯に目を細めながら百鬼丸はいう。
頭上に掲げられた道路標識を一瞥すると、このままゆけば人口密集地に突き当たるようだ。しかも、現在は避難民の発生により首都高を降りることは難しい。
わずかばかりの逡巡をする百鬼丸に対し、ジョーは容赦ない一言を叩きつける。
《百鬼丸くん、一つ残念なお知らせがある。君の追っている車両は恐らくだが、現在使われていない地図の場所へと消えた可能性が高いね。》
「は……? 何言ってるんだ?」
突然の物言いに百鬼丸は戸惑った。
《まあ、それは後にしてだがね……もう一つ、残念なお知らせだ》
「なんだよッ、早く言えッ!」
はぁーー、という明らかに面倒くさそうな長い吐息のあと、
《君が今向かっている方向にはね……どうやら、人間様の部隊が展開しているようだ》
「……なんで解る?」
ジョーは上空を見上げるように助言した。
(なんだ、コイツ)
怪訝に思いながら、百鬼丸は首を軽く上げた。
報道ヘリが放つサーチライトとは別に、もう一機別にヘリが旋回している。しかもそのヘリの照射する強烈なサーチライトは規則的に点滅を繰り返す。
「ありゃあ、どういう意味だ?」
《あれはね、対象がきたと知らせているんだよ。米軍でも時々使用されるタイプの簡単な点滅信号だ》
マジかよ……と、百鬼丸は気が重くなった。
ジョーという殺戮犯のいうことを全て鵜呑みにすべきではない。が、かといってこの男が嘘をつくメリットはない。百鬼丸の肉体が死ねば、必然彼も死ぬのだから。
「ムカつくが、お前のいうことを信用するぞ」
かつての仇敵に告げて、百鬼丸は更にグリップをひねる。速度メーターはとっくに一五〇キロを越していた。速度計の針が大きく揺れながら、なおも爆走をやめない持ち主に小さな抵抗を示すように見えた。
3
『各員、戦闘用意』
短い号令と共に、屈強な男たちが引き金に指をかける。
彼ら特務作戦機動部隊の実力は未知数である。
少なくとも、非常識的な存在である荒魂を相手にしてきた田村明はそう思う。
STTのD分隊、一五名は特務作戦機動部隊の一時的な命令を受け入れ、後方で控えることになった。
哨戒任務中と言えばいいのだろうが、片隅に追いやられながらも、明の実践で鍛えた勘が告げる。
これはヤバイ……と。
上空で旋回するヘリが信号を送っているが、あれは察するに百鬼丸か正体不明の敵が迫っている証拠である。であれば尚更危うい。人有らざる者の恐ろしさを彼らは知っているのだろうか?
(準備だけはしておくぞ)
隣りに控えた副隊長の福田に耳打ちをする明。――相手も「ええ、その方がいいでしょうね」と呟いた。
徐々に濃くなる靄に、高架橋全体が飲み込まれつつあった……。不気味さを増す雰囲気が、死を連想させる象徴のようにすら思われた。
4
……息が苦しい、誰か助けてくれ。
悲痛な声にならない叫びが、なぜだか聞こえてきた。
理由は分からない。
溺死寸前で水面に引き上げられたみたいな……ある種の安堵感と絶望を男たちは味わった。
きぃーん、という金属質な耳鳴りが鼓膜の奥から響く。
頭を軽く振りながら、明は噎せ返る。
鉄の味が口内に広がった。どこか切ったようだった。だが、そんなことは瑣末な問題に過ぎない。未だ判然としない視界を無理矢理に明瞭に引き戻し、手近に転がったアサルトライフルG36の銃身を掴む。無機質な兵器の冷たさが、妙に安心を与えてくれる。
明は、ようやくこの現状を思い出した。
白い骨のように純白な外殻の人影が、特務作戦の人間たちを次々と切り刻んでいったのだ!!
その証拠に血袋と化した亡骸が、五体のいずれかを欠損しながら、無造作にアスファルト舗道上に転がっていた。……枝肉のように、食肉加工場のようになんの脈略すらなく。
……つい、三分前。
前方で人垣をつくっていた特務作戦の連中から悲痛な叫びともつかぬ……呻き声が上がり始めた。最初は何かの間違いかとも思ったが、鮮血が空高くライトに照らされ舞い上がるのを見つけ、確信した。
明は、「あの日」の体験から体が勝手に動いていた。
照星に合わせ、片目をつぶり、射撃準備に取り掛かる。部下たちは現状を理解しておらず、明のとった行動に不信を抱いていた。
「死にたくなかったら、銃を構えろッ!」
無論、気休めなのは理解している。それでも、生き残る確率を上げるのには役立つだろう。
……次の瞬間だった。
大型バイクが人垣の頭上を大きく飛び越してゆく光景を。
次いで、黒髪を無造作に束ねた少年が宙返りをしながら、両腕に鋭い光を翼のように広げてゆく様を……。まるでスローモーション撮影を見ているかの映像に、明は戦慄する。
ヴォォン、ヴォォオオン、という空を切り裂く音が耳を否応なく聾する。
――ギャアアアアアアアアアアアアア
という、獣じみた悲鳴が周囲に反響した。
田村明は知っている。この悲鳴を――この咆哮を。
人がおよそ、人の死というのに見合わない、まるで人体を玩具同然に扱い、子供が手荒く扱い投げ捨てるようにボロボロになってゆく光景を。
人頭がポーンと跳ねとんだ。
目を凝らすと、シールドがバターを溶かしたように易易と切り刻まれていた。首のない胴体たちが、膝から崩れ落ちた。
血風の中から生まれたのは、猿面のように紅の顔貌だった。蜘蛛の卵のような小さな白い瞳に返り血の飛沫が点々と張り付いている。
『うぉおおおおお』
と、特務の隊員がナイフを燦めかせ、半ば狂乱しながら刺殺を試みる。
殺戮の人影の左胸を狙ったようで、見事に命中した――かに思われた。しかし、頑健な外殻を貫くような威力ではないらしく、コツン、という虚しい音がするだけだった。
「ぇっ!?」
素っ頓狂な声をあげて、呆気にとられた顔をする男。顔を上げ、紅の顔と視線を合わせ……
『ギァアアアアアアアアアア、やめろ、やめろやめ――』
絶命した。
異形の怪物は、首を絞めながら空いた指で両目を突いて素早く引き抜く。どろっ、とした血塊がアスファルトに溢れ、静かに地面が吸い込む。敵の只中にあって、その殺戮の影は大胆にも、刀一本で、悠然と歩いてゆく。
「福田、部下を連れて逃げろ、時間は稼ぐから……」
明は言いながら、肝が冷える思いがした。
何度こんな光景を見ても慣れるものではない。生きていたいと願うならば、この場の最善は、あの少年に託すしかない。
ドォン、という爆風が直後にした。
恐らく先程のバイクだろう。
「――はぇえんだよ、クソがッ」
悪態をつきながら、少年の声が近づいてくる。
明は敢えてその方向を一瞥もせず、頬に冷や汗を流しながら、
「なあ、百鬼丸――コッチでできることはあるか?」
と、尋ねた。
横に人の荒い呼気の気配がした。横目で窺うと、少年は苦い顔をしながら、口端を曲げる。
「ありますよ。液体窒素のタンク車を用意して下さい、ってことですかね」
妙に場馴れした物言いに対し、明は死の恐怖が薄らいだ。
軽く頷いて、
「判った……福田、液体窒素の車用意しろッ、命令だッ!」
去り際の部下に背中を向けながら、怒鳴った。
「……で、どれくらい時間を稼げばいいんですかね?」
少年が独特の剣の構えをとる。
「とりあえず、閃光手榴弾で一時的に目くらましをするとして……」
明はため息を零す。
男がグチグチといっていても仕方ない。
「「やるかッ!」」
声を合わせると、二人は腕を軽くぶつけて気合を入れる。