――
「零号機、右膝部の装甲部に誤差。基準値より〇・〇三低下しています」
計測席に座る伊吹マヤが、画面に表示された数値を読み上げる。
「修正値を入力。再固定後、同じ行程を繰り返して」
その背後から画面を覗き込んだリツコが、整備班へ修正を指示した。
ネルフ本部、第二実験場。
第六使徒戦以降、長らく修理と調整を続けていた零号機は、ようやく再起動試験の日を迎えていた。
黄色い巨人を囲む足場では整備員が忙しなく動き、観測室ではナオコとリツコが計器の数値を追っている。その後方、責任者席に座る冬月は、試験とはまるで関係のない書類の山を前にしていた。
「……碇の奴め」
低く零れた声を、隣に立つゲンドウは聞き逃さなかった。
「どうした、冬月」
「どうした、ではない。先日の使徒戦に関する委員会への報告書、修学旅行に行けなかったチルドレンへの代替行事申請、戦略自衛隊との共同研究に関する照会、それにお前が勝手に増設したプール設備の始末書。何故すべて私の机にある」
「副司令だからだ」
「お前は司令だろうが!」
観測室に冬月の怒声が響き、数人の職員がびくりと肩を震わせた。
しかしゲンドウは意に介さず、零号機の状態を示す画面へ視線を戻す。
「安心しろ。重要な書類には私も目を通している」
「目を通して判を押し、残りを私に寄越すことを仕事とは言わん」
「適材適所だ」
「お前が息子と過ごす時間を作るための適材にされた覚えはないぞ」
言い返そうとしたゲンドウだったが、胸元の携帯端末が振動したことで口を閉じた。画面に表示された名前を確認すると、先ほどまで冬月に向けていたものとは明らかに違う速さで通話を受ける。
その様子を見た冬月は、もはや怒る気力も失ったように書類へ視線を落とした。
「……ユイ君。あの男を甘やかした君にも責任はあるぞ」
――
「起立、礼!」
帰りのホームルームを終え、生徒達が各々荷物を背負い始めた時、先ほど廊下に出た担任が教室に再び戻り、忘れていたと言いながら教卓から紙束を取り出し配り始める。
手元に渡ってきた紙には提出期限と、この時期の中学生にとっては大切な一文が載っていた。
「すまんすまん、配るのを忘れていたが進路希望調査だ。お前達も来年からは受験生だからな、今度やる進路相談についても父兄に連絡しておくように。以上、気をつけて帰るように」
そう言うと担任はプリントに文句を言う生徒をいなし、職員室へと戻っていった。
受け取ったプリントを各自鞄に放り込み帰路につき始める生徒をよそに、シンジはプリントを手に固まっていた。
そんなシンジの様子を不思議に思ったアスカは、この後に控えているシンクロテストに遅れないよう、シンジの尻を蹴りつつ声をかける。
「なに固まってんのよ! そんなもん適当でいいでしょーが」
尻をさすりながらも、どこか考え込んでいるシンジに、アスカは眉をひそめる。荷物を背負ったところで、ようやく意識を戻したようにシンジから答えが返ってきた。
「いや、適当もなにも……僕の将来の夢って何なんだろう」
とぼけた顔のシンジに呆れながらも、思い返せばいつもこんな感じであったと感じたアスカは、深いため息を吐きつつシンジに指を突きつける。
「いい! アタシ達は既にエヴァのパイロットっていう崇高な職についているのよ! それなのに、こんな紙っ切れ一枚に惑わされてんじゃないわよ! こういうのに惑わされるのはバカの鈴原だけで十分よ!」
「なんやと!?」
そんなアスカの言葉に聞き捨てならないと、シンジと共に途中まで帰る約束をしていたトウジが憤った。
「惣流! お前、ワシをバカにするんは勝手やが、憶測で見下すんはアカンわ! ワシはこんな紙に惑わされんわい、見てみぃ!」
そう言うと、受け取ったばかりのプリントには既に彼の手によって記入された文字が刻まれていた。しかし啖呵を切って突き出された紙に記されたものには、突き出されたアスカのみならず、それを目にしたシンジやケンスケですら眉間に皺を寄せた。
記入されていたのは、どれもかなり偏差値の高い進路であり、特記欄に記入された将来希望する職業には、周囲の目を疑う文字があった。
「トウジ、将来の夢が『医者』って……冗談だろ?」
長いこと彼の友人を務めてきたケンスケですらこの反応なのだ。周囲の反応など、皆まで言う必要もないだろう。
しかし、そんなケンスケの言葉を受けてなお、トウジは胸を張って宣言した。
「いや、ワシは本気や!
高らかに宣言されたからには真正面から否定することも憚られたが、それでもアスカにとっては笑いの種であったようだ。
「ぷっ。別にあんたの夢を否定するつもりじゃあないけれど、今の鈴原の学力じゃあねぇ?」
そんなアスカの態度を見ていては、バカにされているトウジが可哀想だとシンジが擁護に回る。
「そこまで言わなくてもいいんじゃない? 僕みたいな夢のない奴より、しっかりした目標を持ってるトウジの方が立派だよ」
シンジの隣で、そうだそうだと頷くトウジであったが、ここで思わぬ者がアスカの援護に回った。
「でも、惣流の言っていることにも一理あるぜ」
トウジの後ろから肩を組み、ケンスケが指摘を入れた。
「なんでやケンスケ!? やっぱり顔か? 顔がええから惣流の味方するんか?」
以前にも見たことがあるような言動に呆れつつも、ケンスケは理路整然とトウジの痛い部分を突く。
「違うよトウジ、思い出せ。自分の成績を。今のままだと、プリントに書いた進路へ進める確率は限りなく低いだろう?」
そう言われるや否や、思い出したくないことを指摘されたトウジはげんなりとした顔を見せた。そしてトドメとばかりに、アスカの口から皮肉交じりの言葉が投げられた。
「まっ、せいぜい頑張りなさい。でもあんたが医者になるなんて、ミサトがネルフを辞めて空飛ぶ艦の艦長になるくらいの確率でしょうけどね」
「それはもう不可能って言ってるようなもんじゃん」
呆れたようにシンジの口から出た言葉に周囲はひとしきり笑い、トウジはひとり奮起した。
――
しばらく後、トウジたちと別れネルフ方面へ進路を向けるシンジとアスカに、先ほどのやり取りを隣から黙って見ていたレイからの質問が向けられた。
「アスカ……私の夢はどう?」
レイもトウジと同じようにプリントを鞄から取り出し、アスカに見せる。しかし、そこにはトウジとは違い、書かれていた言葉は一つだけ。
『ケーキ屋さん』
「子供かっ!?」
進路希望の欄への記入はなく、特記事項に将来の夢がどんと書かれている。いっそ清々しさすらあった。
アスカは目を覆った。エリートだと思っていたエヴァのパイロットは、方や将来のことを何も考えず、そして方やお子様思考の能天気。そう思うと、明確な進路や目標設定まで考えていた鈴原の方がマシだったのかもしれないと思うほどに。
「アスカ、でもこれには理由があって、私が小さいころリッちゃんが焼いてくれた――」
「アンタ達はもっとしっかり勉強をしろォ!! そもそもレイは、今日はやっと修理の完了した零号機の起動実験でしょうが! 何がケーキだ! バカにしてるのか!」
もはや何に怒っているのか自分でも理解できなくなっていたアスカは、目の前の能天気二人の考えなしに、自分だけが間違っているのかと思い始める始末であった。
そんな風に気を乱しているアスカの目の前で、まるで何事もないようにシンジは電話をかけ始める。
「ちょっと! アタシのことは放っておいて、いきなり電話って失礼じゃない!? 誰に掛けてんのよ?」
「えっ? 父さんだけど?」
「自由かっ!?」
いかな天才であろうと、バカの制御は不可能だということを、アスカは今日悟った。
――
ポケットの内側で振動する携帯に気がつき、発信者を確認する。画面には息子の名前が確認できたため、ゲンドウはすぐに電話へ出た。
『――あ、もしもし父さん? 今電話しても大丈夫?』
大丈夫もなにも、この子のためならば仕事を中断してでも電話を受け取るだろう。電話の向こう側にいるであろう息子、シンジに問題ないと返事を返し、用件を伺う。
「珍しいな。シンジが仕事中にかけてくるのは。それで、どうしたんだ?」
電話の向こうからはシンジ以外にも上部都市の喧騒と、レイやセカンドの声が聞こえる。様子からして学校帰りに電話をかけてきたのだろうと当たりをつけていると、先ほどの問いにシンジから返事が返ってくる。
『うん、今日学校で、進路相談の面接があることを父兄に連絡しておけって言われたんだけど』
どうやら学校からの連絡のようだ。確かにここ最近は家を空けることも多かったため、確実に連絡が取れる電話という方法を選んだのだろう。数か月前にも進路相談はあったが、話し方から察するに、今度は希望調査を踏まえた本格的なものなのだろう。
「分かった。日程の調整を行うから、帰ったら進路相談について教えてくれ。そういえば――」
ふと、自分の息子は将来何になりたいのだろうと疑問に思う。
「――シンジは将来、就きたい職業は何かあるのか?」
親としては少し緊張しつつも、前々から気になっていたことを伺う。息子が望むことならば、最大限の支援をしてやりたいと考えていた。
そして電話越しに声が返ってくる。
『お掛けになった電話は、現在電波の届かない――』
「……シンジ?」
返事はない。
「シンジ!?」
手元の端末から光が消え、同時に観測室の照明も落ちた。
一瞬遅れて、零号機を囲んでいた作業灯、計測装置、職員の携帯端末までもが次々と沈黙する。
暗闇がネルフを飲み込んだ。
――
「……電話を切られた」
真っ暗になった携帯を握ったまま、ゲンドウは呟いた。
「反抗期というものではないかね」
暗闇の向こうから冬月の声が返る。先ほどまでの恨みを晴らすには絶好の機会だと、その声はどこか楽しげであった。
「いや、あの子に限ってそんなはずはない。質問が悪かったのか。将来を決めていないことを責められたと思ったのかもしれん」
「お前はいい加減、息子に関することだけで思考を飛躍させるのをやめろ。見ろ、電話だけではない」
冬月の言葉で、ようやくゲンドウは周囲の異常へと意識を戻した。
非常灯が点かない。予備電源へ切り替わる駆動音もない。計器類は一つ残らず停止し、本来ならば独立電源で動くはずの隔壁制御まで沈黙している。
「何が起きたの?」
暗闇の中で、リツコが停止した操作盤を何度も叩く音が響いた。何の反応も返さない機械に苛立ち、舌打ちまで聞こえてくる。
「先に言っておくけど、あたしじゃないわよ」
その背後でナオコが、誰にも疑われていないうちから弁明した。
「まだ誰も母さんを疑ってないわ」
リツコが呆れたように返す。
「なら、どうしてこっちを見たのよ」
「暗くて見えないでしょう」
母娘のやり取りに、張り詰めかけた空気がほんの少し緩む。しかし、ナオコの次の言葉がそれを再び凍らせた。
「主電源と副電源が同時に落ちることはあり得る。でも非常用まで一斉に沈黙するなんて、偶然ではあり得ないわ」
「MAGIはどうなっている」
ゲンドウの問いに、ナオコは記憶を頼りに暗闇の中の端末へ手を伸ばした。手動の状態確認スイッチを押すが、返るべき警告音すら鳴らない。
「完全停止。最後の自己診断を吐き出す前に、外部から回線を閉じられてる」
ナオコは手探りで非常用の工具箱を開き、中から小型の化学灯を取り出した。鈍い緑色の光が彼女の横顔だけを照らす。
「これは故障じゃない。誰かが仕組んだものよ。それも、本部の電力系統を知り尽くした誰かが」
その言葉と同時に、遠くから低い振動が伝わってきた。
初めは停電した設備のどれかが停止した音かと思われた。しかし振動は一定の間隔で続き、次第に床を通じて足元を震わせるほどに大きくなる。
「地震……?」
足元の揺れに姿勢を崩したリツコが、暗闇の向こうへ問いかける。
「違う」
ゲンドウは即座に否定した。
この時期に起こるべきことを知っている。未来が細部を変えながらも同じ道へと収束しようとしているのなら、この振動の正体は一つしかない。
「使徒だ」
――
第三新東京市の地下鉄駅構内。
突然すべての照明が落ち、周囲は帰宅途中の人々の悲鳴と戸惑いに満たされていた。
「父さん、いきなり切るなんて……」
シンジもまた、暗くなった携帯電話を見つめていた。尋ねられた質問にどう答えようか迷っている間に通話が切れたため、答えを急かされたような、そしてそのまま見放されたような気持ちになってしまう。
「アンタ、今の状況でまだそんなこと言ってんの!? 街中の電気が消えてんのよ!」
アスカの声に顔を上げる。
駅だけではない。階段の先から見える地上の信号も、ビルの窓も、普段なら光に溢れている第三新東京市のすべてが沈黙している。
サイレンすら鳴らない静けさの中、遠くで何かが崩れる音がした。
「使徒が来たのかもしれない」
レイの短い言葉に、三人は互いの顔を見合わせた。
ネルフからの召集はない。携帯も鉄道も動かず、本部が無事なのかすら分からない。
「でも、命令が来てないよ」
思わず口にしたシンジに、アスカが鋭く返す。
「来るわけないでしょうが! 電話も電気も死んでるのよ!」
「じゃあ、どうするの?」
レイが二人へ尋ねた。
命令はない。父から来いと言われたわけでもない。今なら一般人と共に避難することもできる。
しかしシンジの脳裏には、父に尋ねられたばかりの言葉が浮かんだ。
将来、何になりたい。
答えはまだ分からない。けれど、その分からない未来を考えるためには、まず今日を生き延びなければならない。父も、友人も、目の前の二人も同じだ。
「ネルフへ行こう」
それは誰かに必要とされるための答えではなかった。
「父さん達が無事なら、きっと準備してる。無事じゃないなら、僕らが行かなきゃ」
レイは頷き、アスカは一度だけ鼻を鳴らした。
「最初からそのつもりよ。こんな所で立ち止まってる暇はないわ」
三人は避難する人の流れに逆らい、暗闇の奥へと走り始めた。
――
電力に依存しきったネルフ本部は、停電によって巨大な棺へと姿を変えていた。
自動扉は開かず、昇降機も動かない。職員達は手動ハンドルで隔壁を開き、酸素ボンベや工具を人の手で運んでいた。
「第七ケージまでの通路、確保しました!」
煤に顔を汚した整備員が、走り込んで来るなり報告する。
「プラグ内の生命維持は独立バッテリーで三十分! それ以降は保証できません!」
続いて、携帯端末を抱えた整備班長がエントリープラグの状況を伝えた。
化学灯を並べただけの仮設指揮所に、伝令の声が飛び交う。
「碇、本当に初号機まで準備するのか?」
冬月は職員と共に手動起動盤の覆いを外すゲンドウへ尋ねた。
「ああ。零号機も弐号機もだ」
「だがチルドレンへの召集は不可能だ。今どこにいるのかも分からん」
「学校からこちらへ向かっている途中だった。シンジの電話の向こうに、レイとセカンドの声も聞こえた」
「それでも来る保証はないぞ」
ゲンドウの手が一瞬止まった。
かつての自分ならば迷わず呼びつけただろう。人類のため、計画のため、何より自分のために乗れと命じた。
今は違う。来てほしくないという思いすらある。どこか安全な場所に隠れ、この戦いが終わるまで何も知らずにいてほしい。
だが、それはシンジの選択を奪うことでもあった。
「来ることを強要はしない」
ゲンドウは再び工具を握った。
「だが、あの子達が自分の意志でここまで来た時、我々の準備不足で戦わせられないという事態だけは許されん」
冬月はしばらく黙ってその横顔を見つめた後、近くにあった工具を手に取った。
「まったく。歳を取ってから肉体労働をさせられるとはな」
「適材適所だ」
「この状況でまだ言うか!」
暗闇の中に冬月の声が響いた。
――
どれほど走ったのか分からない。
整備用通路を進み、非常梯子を下り、閉じた隔壁を三人がかりで押し開ける。汗と埃にまみれた三人がケージへ辿り着いた時、そこでは多くの職員が人力でエヴァの発進準備を整えていた。
「遅いわよ、あなた達!」
手動盤にかじりついていたリツコが叫ぶ。しかし、その表情には明らかな安堵が浮かんでいた。
その奥で、上着を脱ぎ、シャツの袖を捲ったゲンドウが初号機の足元に立っている。
「父さん……」
ゲンドウはシンジを見つめた。
来てしまったことへの恐れと、来てくれたことへの安堵が胸の内でせめぎ合う。それでも、そのどちらも口には出さなかった。
「来たか」
「うん。僕が決めて来た」
「そうか」
それだけで十分だった。
「三機とも手動発進を行う。地下の兵装ビルは使えん。装備は地上固定ビルのパレットライフルとプログナイフのみだ」
ゲンドウは司令として三人へ告げる。
「必ず生きて戻れ。命令だ」
最初にシンジが大きく頷いた。
「了解!」
レイもその隣で、ゲンドウを真っ直ぐに見返す。
「了解しました」
最後にアスカが胸を張り、二人分まで請け負うように答えた。
「このアスカ様がいるんだから、全員揃って帰って来るに決まってるでしょう!」
――
傾き始めた午後の日差しの下、電力を失った第三新東京市へ、三体の巨人が人の手で押し上げられていく。
本来なら射出用リニアレールが数秒で済ませる距離を、油圧を切られた昇降台は人力ポンプと火薬式の補助装置だけで軋みながら進む。ケージ内に残った職員達が最後のレバーを押し倒すと、地上の発進口を固定するボルトが連続して爆ぜた。
装甲板が開き、三機のエヴァが一体ずつ地上へ這い出る。
その瞬間、各機の内部電源残量を示す表示が動き始めた。
『活動限界まで、残り四分五十八秒』
非常時用の自動音声が、プラグ内へ無慈悲に告げる。都市の給電設備が沈黙している以上、アンビリカルケーブルを繋いでも電力は供給されない。三機に与えられた時間は、僅か五分だけだった。
地上へ出たシンジの視界に、異様な影が映る。
四本の細長い脚で市街地を跨ぎ、その中央に平たい胴体を吊り下げた巨大な使徒。地に足をつけているというより、街そのものを籠の中に閉じ込めるような姿だった。
使徒の胴体下面に並ぶ眼球状の模様が、一斉に初号機へ向いた。
「見られてる……」
シンジが呟いた直後、中央の眼球が大きく開く。そこから滴り落ちた橙色の液体が、雨のように街路へ降り注いだ。
液体が道路へ触れた途端、舗装材が泡立つ。退避できずに路上へ残されていた車両が、車体の輪郭を失いながら見る間に溶け落ちた。
『目標の排出物、強腐食性! エヴァの装甲でも長時間は耐えられないわ。絶対に直撃を避けて!』
ミサトは携帯用送信機に怒鳴り、その音声を地上まで延ばした一本の非常用有線回線へ送り込んでいた。そこから先はエヴァ同士の近距離通信に中継されるため、声は激しいノイズに削られている。
『こっちでは目標の位置を追えない! 三人で互いの死角を補って!』
MAGIも監視カメラも沈黙している。発令所から送れる作戦情報は存在しなかった。
ならば、現場にいる自分達で決めるしかない。
「アタシが前に出る!」
アスカは迷わず弐号機を一歩前へ出し、使徒を見上げた。
「レイは武器の確保! シンジは射線の通る場所まで上がりなさい!」
「一人であれを受けるつもり!?」
初号機を後退させながら、シンジが聞き返す。
「ユニゾンで足を引っ張った借りは返したでしょ! 今度は先輩の言うことを聞きなさい!」
答えると同時に、アスカは弐号機のATフィールドを頭上へ向けて展開した。
目には見えない壁が、触れた溶解液によって橙色の八角模様を浮かび上がらせる。降り注いだ酸がフィールドの表面を伝い、弐号機の左右へ滝のように流れ落ちた。道路から白い蒸気が噴き上がり、瞬く間に周囲の景色を覆い隠す。
「くっ……思ったより、重い!」
物質を防いでいるだけではない。使徒のATフィールドが溶解液を介して干渉し、弐号機の心の壁を押し潰そうとしている。アスカは歯を食いしばり、操縦桿を握る手に力を込めた。
『弐号機、シンクロ率低下! フィールドを維持できるのは長くて二十秒よ!』
リツコの警告を聞きながら、レイは零号機を崩れた兵装庫へ走らせる。電力がなく開かない装甲扉へ両手を差し込み、そのまま力任せに左右へ引き裂いた。
内部には固定されたパレットライフルが二丁。しかし給弾装置も搬送レールも停止しているため、使用できるのは給弾済みの1丁のみ。
「一丁しか持てない」
レイは機体の腰を落とし、固定具ごと一本のライフルを引き抜いた。銃身を零号機の肩へ担ぎ、白煙の向こうに見える初号機へ投げ渡す。
「碇君、受け取って」
「分かった!」
シンジは飛来する巨大な銃を両腕で受け止めた。重みで初号機の足が舗装を割り、踵が地面へ沈み込む。
残弾三十。MAGIによる照準補正なし。姿勢制御も自分の感覚だけが頼りだった。
使徒の底面にある目標へ銃口を向け、三点射で引き金を引く。
三発の徹甲弾が蒸気を切り裂き、使徒の中心へ吸い込まれた。しかし着弾の寸前、空間に現れた壁が弾丸を止める。潰れた弾頭が赤熱し、空中で続けて爆ぜた。
「ATフィールド!」
「弐号機だけじゃ中和しきれない! もっと近づいて!」
アスカの声に、シンジは使徒の真下へ駆け込もうとする。だが、その動きを読んだように使徒の前脚が跳ね上がった。
鋭い脚先が横薙ぎに振るわれる。
初号機は咄嗟にライフルを盾として構えた。金属同士がぶつかる甲高い音が街中へ響き、衝撃で機体が横へ吹き飛ばされる。高層建築の壁面を突き破り、二棟目の手前でようやく止まった。
「ぐっ……!」
衝撃がシンクロを通じて両腕へ返り、シンジの指から一瞬力が抜けた。
『活動限界まで、残り三分二十一秒』
パレットライフルの銃身は曲がっていない。まだ撃てる。
そう思った瞬間、弐号機の側で爆発のような蒸気が上がった。
使徒は溶解液を一度止め、弐号機がフィールドを解いた隙を狙って再び降らせたのだ。アスカは展開を間に合わせたものの、完全には受け切れない。弾かれた酸の一部が弐号機の左肩へ触れ、赤い装甲を黒く焼いた。
「ああああっ!」
アスカの肩にも焼けるような痛みが奔る。
「アスカ!」
レイが呼びかけるが、弐号機は膝をつきながらも右腕を地面へ突き、倒れることだけは拒んだ。
「このくらいで……心配なんかしないでよ!」
痛みに顔を歪めながら、アスカは使徒を睨み上げる。
「あいつ、酸を出す前に真ん中の眼を開く! そこがコアよ! でも開いている間は、フィールドも一番強い!」
攻撃する瞬間だけ急所を晒し、同時に防御を最大にする。離れた場所から撃つだけでは、残り時間のすべてを使っても突破できない。
「だったら、近くで中和する」
レイが静かに言った。
零号機は使徒へ向き直ると、手にしたプログナイフを展開する。
「私が脚を止める。アスカはもう一度、酸を受けて」
「簡単に言うわね……それで?」
「碇君が真下へ入る。三機のフィールドを一点で重ねれば、撃てる」
レイの提案は単純だった。単純だからこそ、失敗すれば全員が溶解液を浴びる。
初号機を瓦礫から起こしたシンジは、二人の機体を見た。肩を焼かれた弐号機。実戦投入されたばかりで、修理した装甲もまだ完全に馴染んでいない零号機。
自分が失敗すれば、二人を巻き込む。
けれど二人もまた、自分を信じて役割を預けようとしていた。
「やろう」
シンジはライフルを握り直した。
「今度は、僕が二人に合わせる」
「当たり前よ。射撃を外したら、帰ってから特訓のやり直しよ!」
アスカは強がるように叫び、弐号機を立ち上がらせた。
『活動限界まで、残り二分十二秒』
三機が同時に動き出す。
最初に弐号機が正面から突撃した。使徒の中央眼が開き、狙い通り溶解液が降り注ぐ。
「これ以上、好き勝手にするんじゃないわよ!」
アスカは残る力をATフィールドへ注ぎ込み、頭上に巨大な傘を作った。
酸の雨が壁を叩き、弐号機の足元を溶かしていく。踏ん張る場所を失いながらも、アスカは一歩も退かなかった。
使徒が攻撃へ意識を向けた隙に、零号機が右側から滑り込む。一本の脚を避け、二本目の関節へプログナイフを突き立てた。
刃が外殻を破り、紫色の体液が噴き出す。
使徒が大きく身を捩り、零号機を振り払おうとする。レイはナイフを手放さず、両腕で脚へしがみついた。引きずられた零号機の装甲が路面を削り、火花の帯を残す。
「逃がさない」
短い言葉とともに、零号機のATフィールドが脚へ叩きつけられた。使徒の身体が傾き、胴体の中心が僅かに下がる。
そこへ初号機が走り込んだ。
シンジには、頭上から降る酸の一滴一滴が見えるような気がした。弐号機のフィールドから漏れた雫が初号機の腕へ触れ、紫の装甲に黒い穴を穿つ。痛みが針となって全身へ刺さる。
それでも止まれない。
使徒の真下まであと十歩。
五歩。
一歩。
「ATフィールド、全開!」
初号機の壁が、弐号機と零号機のフィールドへ重なる。
三つの心の境界が一つの場所で軋み、使徒の絶対領域を左右からこじ開ける。目には見えない圧力が爆風となり、周囲の瓦礫を円状に吹き飛ばした。
シンジは使徒の腹部へ銃口を向ける。
照準器の補正は今までより安定しない。ただ、銃身の先に巨大な眼があることだけは分かった。
中央眼から新たな溶解液が溢れ、パレットライフルの外装を焼き始める。警告灯が次々と赤く染まり、銃身の耐久限界を告げた。
『活動限界まで、残り四十三秒』
『初号機、ライフルが持たない! 一斉射で決めて!』
ミサトの叫びがノイズを裂く。
「シンジ!」
アスカが呼ぶ。
「碇君」
レイが続く。
二人の声を受け、シンジは引き金を最後まで絞り込んだ。
「うああああああああああああっ!」
残された弾丸が一息に吐き出される。
銃火が使徒の内部で連続して瞬き、硬い外殻を内側から打ち砕いた。一発ごとに中央眼の奥で赤い光が揺れ、最後の弾丸がその中心を貫く。
使徒は四本の脚を大きく開き、声にならない絶叫を上げた。
「離れて!」
レイの警告に、零号機が使徒の脚を蹴って後方へ跳ぶ。弐号機はフィールドを投げ捨てるように解除し、倒れ込む初号機の腕を掴んだ。アスカが力任せに引きずった直後、使徒の身体は内側から膨張した。
巨大な閃光が夕刻の街を白く染める。
爆風が三機をまとめて路上へ叩きつけ、残っていた建物の窓を一斉に砕いた。やがて光が薄れた時、そこには折れた四本の脚と、雨のように降り注ぐ赤い残滓だけが残されていた。
『目標、完全に沈黙!』
非常回線の向こうで、マヤの歓声が聞こえる。
『エヴァ三機、生命反応に異常なし!』
続く報告に、停電した発令所へ押し込められていた息が一斉に吐き出された。
ゲンドウは暗い仮設指揮所の中で目を閉じた。映像は一切届いていない。聞こえるのは途切れがちな音声と、三人が生きているという報告だけだった。
「……よくやった」
誰に聞かせるでもなく零した声を、隣に立つ冬月だけが聞いていた。
西へ傾いた太陽の下で、電力を失った第三新東京市の輪郭が、使徒の最期の光によって一瞬だけ鮮烈に浮かび上がった。
携帯時計によって記録された使徒殲滅時刻は、午後四時四十七分。
日没を迎えるよりも前に、人類は辛うじて明日へ進む権利を守り抜いた。
――
使徒殲滅から数時間後。日は既に地平へ沈みかけていた。
復旧したネルフ本部の一室で、ナオコは電力系統に残された記録を睨んでいた。
「やはり事故ではないわ」
彼女の周囲にはゲンドウ、冬月、リツコの三人だけがいる。
「主電源が落ちる〇・八秒前に、非常用回線へ正規の遮断命令が入力されている。使用されたのは施設管理部の権限。でも、その認証を持つ職員は全員、当時別の区画にいた」
「権限を複製されたか」
冬月が顎へ手を当て、記録に残らない侵入経路を頭の中で洗い出す。
「それだけじゃない。監視網の一部だけが先に閉じられている。侵入者はネルフの構造だけでなく、管理権限にも詳しいようね」
ナオコはそう言って、遮断記録の時刻を指で弾いた。
「そんなこと、可能なの?」
母の示した数字を覗き込んだリツコの声が、僅かに震える。
「現に起きた」
ゲンドウは冷たく答えた。
使徒は正面から来る。人類を滅ぼすという本能を隠さず、巨大な姿を晒してやって来る。
だが人は違う。
同じ制服を着て、同じ言葉を使い、味方の顔をして内側から手を伸ばす。
ふと、停電の直前にシンジへ尋ねた言葉を思い出す。
あの子は将来、何になりたいのだろう。
まだ答えを聞いていない。それを尋ねることのできる未来を、何者かが使徒に差し出そうとした。
「冬月」
「分かっている。内部調査は秘密裏に進めよう。表立って動けば、こちらが気づいたことまで相手に知らせることになる」
「ナオコ博士は記録の複製を。原本には触れるな。リツコ君、復旧作業を続け、職員には通常の設備故障として通達したまえ」
二人が頷き、部屋を後にする。
残されたゲンドウは、窓の向こうに佇む初号機を見上げた。
「使徒だけを倒せば終わると、思っていたかったのだがな」
「今更だろう。初めから我々が相手にしていたのは、使徒だけではない」
冬月の言葉に、ゲンドウは目を伏せる。
暗闇は電気が戻れば消える。
しかし、人の内側に潜む闇は、光を当てられた時ほど深く輪郭を現す。
そしてその闇は今、確かに彼らのすぐ内側まで入り込んでいた。