ゲンドウ、再び   作:被検体E-1n

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天を預ける

 

 前の使徒を倒してから、三週間が過ぎていた。

 

 その間、第三新東京市では停電で傷んだ設備の修復が進み、学校にも、使徒の影を忘れたような日常が戻っていた。もっとも、教室では進路希望調査の提出期限が迫り、別の意味で落ち着かない空気が広がっている。

 

 「まだ決まらないのか、碇。」

 

 朝から未記入の調査票を眺めるシンジへ、ケンスケが横から覗き込んだ。

 

 「ケンスケは、もう書いたの?」

 

 「もちろん。報道関係か、自衛隊の技術職。第一希望をどっちにするかで迷ってるけどな。」

 

 ケンスケは自分の調査票を得意げに取り出した。

 

 「お前の場合、どっちも動機が不純やろ。」

 

 トウジが呆れたような視線を向け、そのまま鞄から教科書と一緒に分厚い参考書を取り出した。

 

 表紙には高校受験用と大きく記されている。

 

 少し前ならば笑ったかもしれない。しかし、医者になるという夢を聞いた後では、シンジもそれを茶化す気にはなれなかった。

 

 「もう勉強を始めたんだ。」

 

 シンジが感心して声を掛ける。

 

 「当たり前や。惣流の言い方は気に食わんが、このままやったら話にならんからな。」

 

 トウジは参考書の最初の頁を開いた。まだ一問も解かれていない、どこまでも白い頁である。

 

 それでも、何も書かれていないことと、何も始まっていないことは同じではない。

 

 シンジは自分の鞄へ目を落とした。その中には、未記入の進路希望調査票が折れないように挟まれている。

 

 「バカシンジ、なに人の参考書を感慨深そうに見てんのよ。」

 

 背後から声を掛けたアスカが、シンジの机へ両手を突いた。

 

 「まさか、まだ一文字も書いてないわけ?」

 

 シンジが答えに窮していると、アスカは呆れたように息を吐き、少し離れた席で教科書を広げているレイへ声をかけた。

 

 「そういえばレイ。明日のミサトの昇進祝い、あんたも来るんでしょうね?」

 

 「行く。リッちゃんと一緒に。」

 

 教科書から顔を上げたレイが答える。

 

 そのやり取りを聞きつけ、先ほどまで机に突っ伏していたケンスケが勢いよく立ち上がった。

 

 「ちょっと待った。葛城さん、昇進したのか!?」

 

 「知らなかったの?」

 

 アスカはさも意外そうに眉を上げた。

 

 「知らないよ!葛城さんとは、あの特訓の時に家へ行ってから会ってないんだから!」

 

 ケンスケが慌てて弁明する。

 

 「だったら知らなくて当然でしょうが。だいたい、あの時だってアンタは軍事雑誌とペンペンばっかり見てたじゃない。」

 

 痛いところを突かれたのか、ケンスケは言葉を詰まらせた。

 

 その横で、トウジが怪訝そうに眉を寄せる。

 

 「ワシも一緒におったやろ。特訓の途中でセンセと惣流が喧嘩して、気まずいまま皆でセンセを探しに行ったんや。遊びに行ったみたいに言うな。」

 

 「あの後は、見つけてすぐ帰ったしな。」

 

 ケンスケも、少し気まずそうに付け加えた。

 

 「いいだろ、別に。それより祝いって今日なのか?どこでやるんだ?」

 

 途端に目を輝かせたケンスケへ、アスカは警戒するように半歩下がった。

 

 「駅前の店を予約したって言ってたけど……まさか来るつもり?」

 

 「水臭いじゃないか。葛城さんの昇進なら、俺だって祝いたいよ。」

 

 「どうせ新しい階級章を近くで見たいだけでしょうが。」

 

 騒がしくなっていく三人の会話を聞きながら、シンジは停電の日に父へ電話した時のことを思い出した。

 

 停電によって切れてしまった電話。その直前、父は自分の将来について尋ねていた。

 

 結局、まだ答えを返していない。

 

――

 

 「その日は無理だ。」

 

 進路相談の日程表と、自分の予定を見比べたゲンドウは、苦々しく呟いた。

 

 三週間前の停電工作に関する調査は、今も終わっていない。机の上には報告書が山を作っている。侵入経路、複製された認証、停止させられた監視網。どれを見ても、相手がネルフの内部事情に精通していることだけは疑いようがなかった。

 

 それに加え、南極で発見されたロンギヌスの槍を回収するため、三日後の朝には本部を発たなければならない。

 

 日時は、学校から指定された進路相談の日と完全に重なっていた。

 

 「学校と老人会か。随分と悩むようになったものだな、碇。」

 

 ソファへ腰かけた冬月が、湯呑みを片手に呆れたように笑う。

 

 「悩んではいない。学校へ日程の変更を申し入れる。」

 

 「槍を待たせるという選択肢はないのかね。」

 

 「それで済むのならば、そうしている。」

 

 槍の所在は、ゼーレに対する数少ない切り札だった。現地の確認と回収を他人へ任せるわけにはいかない。しかも使徒出現時にはA.T.フィールドの影響で南極との長距離通信が途絶するおそれがあり、その場合、本部指揮を完全に手放すことになる。

 

 ゲンドウは学校へ連絡を入れ、担任との短いやり取りを終えると、別の日程を手帳へ記した。

 

 「それで、シンジ君にはどう説明するつもりだ。」

 

 冬月の問いかけに、ゲンドウは眼鏡の位置を直す。

 

 「帰ってから話す。」

 

 「電話ではなく?」

 

 「今度は途中で切られたくないのでな。」

 

 抑揚のない声で返された言葉に、冬月は一瞬きょとんとした後、堪えきれず小さく噴き出した。

 

 「まだ根に持っていたのか。」

 

 「持っていない。」

 

 そう言い切ったゲンドウは、停電の日から着信のない携帯電話を上着のポケットへしまった。

 

――

 

 その日の夜、ゲンドウが帰宅した時には、シンジは食卓へ二人分の夕食を並べ終えていた。

 

 時計は午後八時を少し回っている。普段より遅い帰宅ではあったが、最近の父がどれほど忙しいのかを知っているシンジは、先に食べずに待っていた。

 

 「お帰り、父さん。」

 

 「ああ、ただいま。待たせたか。」

 

 「そんなに。温め直すから、座ってて。」

 

 台所へ向かおうとするシンジを呼び止め、ゲンドウは鞄から一枚の紙を取り出した。

 

 学校から送られてきた進路相談の日程表である。

 

 「進路相談のことだが、最初に指定された日は出張と重なった。」

 

 シンジの肩が、僅かに落ちた。

 

 その変化に気づいたゲンドウは、慌てるように言葉を続ける。

 

 「だが、学校には連絡した。来週の金曜なら行ける。」

 

 「えっ。」

 

 「担任にも了承をもらっている。何か不都合があるか?」

 

 「ううん、ない。てっきり、来られないって話かと思ったから。」

 

 安心したように笑う息子を見て、ゲンドウは胸の奥に小さな痛みを覚えた。

 

 自分が来ないことを、シンジはそれほど簡単に受け入れようとした。期待しなければ落胆することもない。かつて自分が教えてしまった処世術が、今もこの子の中に残っている。

 

 「行くと約束しただろう。」

 

 「うん。」

 

 短く答えたシンジは、嬉しそうに日程表を受け取った。しかし、その下に重ねられた進路希望調査票を見た途端、表情を曇らせる。

 

 ゲンドウは向かいの椅子へ腰を下ろし、まだ何も書かれていない紙を見つめた。

 

 「この前の質問は、急だったな。」

 

 「将来のこと?」

 

 「ああ。すぐに答えを出せという意味ではなかった。」

 

 司令室で部下へ指示を出す時とは違い、ゲンドウの声は僅かに低く、穏やかだった。

 

 「父さんは、僕くらいの時には何になりたかったの?」

 

 不意に問い返され、ゲンドウは言葉に詰まった。

 

 十四歳の自分が何を望んでいたのか。思い返してみても、明確な夢など何一つ浮かばない。ただ他人を遠ざけ、自分が傷つかない場所を探していた。

 

 「……考えたこともなかった。」

 

 「父さんも?」

 

 「ああ。だから、お前に偉そうなことは言えない。」

 

 意外な答えだったのか、シンジは目を丸くした。それから少しだけ肩の力を抜き、調査票を食卓の端へ置く。

 

 「じゃあ、もう少し考えてみるよ。」

 

 「そうするといい。」

 

 会話が途切れ、台所から鍋の煮える音だけが聞こえる。

 

 その静けさは、以前の二人の間にあった息苦しい沈黙とは違っていた。何も話さなくとも、どちらかが席を立つ必要のない時間だった。

 

――

 

 翌日の放課後、駅前にある居酒屋の一室では、ミサトの昇進を祝う宴会が開かれていた。

 

 居酒屋とはいっても、子供達がいるため酒だけでなく食事の種類も多い店である。奥の座敷をネルフ関係者の名義で貸し切り、壁にはケンスケが用意した『葛城三佐昇進祝賀会』と書かれた紙が貼られていた。

 

 もっとも、その文字はミサトに見つかる直前まで『葛城二佐』となっており、慌てて上から紙を貼り直した跡が残っている。

 

 「二階級特進って、ミサトが殉職したみたいじゃない。縁起でもないわね、相田。」

 

 アスカの容赦ない言葉に、ケンスケはカメラを抱えたまま縮こまった。

 

 「仕方ないだろ。昇進したって今日聞いたんだから。」

 

 アスカは貼り直された紙を指で弾き、呆れたように付け加えた。

 

 「普通は一階級ずつ上がるって分かるでしょうが。」

 

 「はいはい、そこまで。今日はあたしのお祝いなんだから喧嘩しないの。」

 

 主役であるミサトは、既に片手にビールのジョッキを握っていた。

 

 その隣ではリツコが呆れた顔で水を飲み、ナオコは店員から料理の皿を受け取っている。加持は少し離れた席でトウジとケンスケに挟まれ、戦略自衛隊の装備について質問攻めにされていた。

 

 委員長であるヒカリも招かれており、騒がしく料理を取り合う面々へ小皿を配っている。

 

 「ミサトさん、改めて昇進おめでとうございます。」

 

 シンジが頭を下げると、ミサトは上機嫌でジョッキを掲げた。

 

 「ありがと、シンジ君。これでお給料も上がるし、みんなに奢っても平気――って言いたいところだけど、今日は割り勘だからね。」

 

 「ええっ、主役が払うんですか?」

 

 ヒカリが驚いて尋ねる。

 

 「いいのよ。どうせ一番飲むのはミサトなんだから。」

 

 リツコが冷静に答え、既に空になったジョッキを指差した。

 

 「一杯くらいで大袈裟ねぇ。すみませーん、生中おかわり!」

 

 ミサトが店員へ空のジョッキを掲げる。

 

 「二杯目を頼む速度じゃないでしょう。」

 

 リツコは即座に呆れた声を返した。

 

 「昇進したんだからこれくらい良いじゃない、リツコのケチ。」

 

 ミサトは子供のように口を尖らせる。

 

 「それにしても、よく昇進できたものね。命令無視に始末書、施設の損害、そのたびに減給。普通なら階級より先に給料がなくなっているわ。」

 

 ナオコが指を折って数え始めると、加持も面白そうに口を挟んだ。

 

 「評価されたのは、戦果か。それとも減給されても辞めなかった根性かな。」

 

 「二人とも、祝いに来たのよね!?」

 

 ミサトが抗議すると、座敷に笑いが起きた。本人も最後には堪えきれず、ジョッキを掲げて笑った。

 

 大人達のやり取りを横目に、レイは卓上に並んだ料理の中から、小さなパンケーキのようなデザートを見つけた。箸で持ち上げ、しばらく観察した後、隣に座るリツコへ見せる。

 

 「リッちゃん。これ、家で作れる?」

 

 「作れるけど、どうしたの?」

 

 リツコがデザートを覗き込みながら聞き返す。

 

 「進路希望にケーキ屋さんと書いたら、アスカに怒られた。」

 

 「ちょっと、言い方!アタシはもっと現実的に考えなさいって言っただけよ!」

 

 反対側から割り込んできたアスカに、ナオコが小さく笑った。

 

 「いいじゃない。夢なんて最初はそのくらいで。リツコだって小さい頃は、パンケーキを三段重ねにするのが夢だったんだから。」

 

 「母さん、余計なことを言わないで。」

 

 珍しく声を低くしたリツコに、子供達の視線が一斉に集まる。

 

 「リツコさんも、ケーキ屋さんになりたかったんですか?」

 

 シンジの問いに、リツコは眉間を押さえながら首を振った。

 

 「違うわ。母さんが一度だけ焼いてくれたパンケーキが、ひどく焦げていたの。それで私が、自分ならもっと上手くできるって言っただけ。」

 

 「一度だけじゃないでしょう。」

 

 ナオコは不満そうに口を尖らせたが、リツコは聞こえないふりをして水へ口をつけた。

 

 その横顔は僅かに赤く、完全に嫌な思い出というわけでもないらしい。

 

 やがて宴会が進み、大人達の酒も深くなっていった。

 

 加持はミサトからジョッキを取り上げようとして肘打ちを受け、ナオコはそれを肴に静かにグラスを傾けている。リツコは酔いつぶれた友人を見越して店員へ水を頼み、子供達は空いた皿へ残った料理を分け合っていた。

 

 「ねぇ、シンちゃん。」

 

 不意にミサトからそう呼ばれ、シンジは自分のことかと周囲を見回した。

 

 「……僕ですか?」

 

 「他に誰がいるのよぉ。」

 

 どうやらかなり酔っているらしい。普段の彼女ならば、シンジをそのように呼ぶことはない。

 

 ミサトは卓上へ頬杖をつき、少しだけ目を細めた。

 

 「シンジ君は、どうしてエヴァに乗ってるの?」

 

 酔った勢いの質問に見えて、その声だけは妙に真剣だった。

 

 周囲の騒がしさが、僅かに遠のく。

 

 「どうしてって……使徒を倒さないと、みんなが困るから。」

 

 「それだけ?」

 

 ミサトが静かに重ねて尋ねる。

 

 シンジは答えに詰まった。

 

 エヴァに乗ることは怖い。痛い思いもする。これまでの戦いで受けた痛みを、忘れたわけではない。

 

 初めて初号機を前にした時、父からは帰れと言われた。それでも帰らなかった。誰かから居場所を与えられるのを待つだけではなく、自分から父の役に立ちたかった。

 

 今は、あの頃とは少し違う。父を信じている。この街で知った人達を守りたいとも思う。けれど、父に認めてもらえるのが嬉しい気持ちも消えてはいない。いくつもの理由が胸の中で重なり、シンジ自身にも一つには選べなかった。

 

 「最初に乗った時は……父さんの役に立ちたかったんです。待っているだけじゃなくて、自分から何かすれば、ここにいていいって思える気がして。」

 

 アスカの箸が止まった。あの特訓の日、シンジが自宅の玄関前で泣きながら打ち明けた言葉を、彼女だけは知っていた。

 

 「うまく言えないけど……父さんに必要だって言ってほしかったのは、今も変わらないと思います。でも、それだけじゃなくて。今は父さんを信じてるし、僕にできることなら、みんなを守らなくちゃって思うから……だから、乗ってるんだと思います。」

 

 口にした途端、恥ずかしくなって俯く。

 

 トウジもケンスケも、その言葉を笑わなかった。アスカは何か言いたげに口を開いたが、結局は料理へ箸を伸ばすだけに留めた。レイはシンジの横顔を、何も言わずに見つめている。

 

 ミサトも笑わなかった。

 

 「そっか。」

 

 そう答えた彼女は、空になったジョッキを見つめる。

 

 父親に認められたい。それ自体は何も悪いことではない。人を守りたいと思うことも、与えられた責任から逃げまいとすることも、きっと間違いではない。

 

 だからこそ危うかった。それらすべてが結びつき、命を懸け続ける理由になっている。作戦責任者である自分は、その健気さに支えられながら、どこまで彼を戦わせるのだろう。

 

 「でもね、シンジ君。」

 

 ミサトは酔いを振り払うように顔を上げた。

 

 「碇司令に褒められなくても、ここまで戦ってきたシンジ君は立派だったわよ。レイも、アスカもね。」

 

 「当たり前よ!」

 

 沈みかけた空気を吹き飛ばすように、アスカが胸を張った。

 

 その声を合図に会話は再び騒がしくなったが、ミサトはシンジの答えを胸の中へ残した。

 

 宴会が終わると、子供達はそれぞれの家へ帰った。シンジはゲンドウの待つ自宅へ、アスカはネルフが用意した自分の住居へ向かう。ミサトの家で二人が一緒に過ごしたのは、あの特訓の時だけだった。

 

――

 

 翌日、ゲンドウは人類補完委員会から停電事件についての査問を受けていた。

 

 会合は直接顔を合わせて行われるものではない。薄暗い会議室に実在するのはゲンドウと冬月だけであり、各国の委員は卓を囲むホログラムとして投影されている。

 

 「外部電源を失い、予備電源も沈黙した。使徒の侵入を許しながら、よくもネルフは生き残ったものだ。」

 

 キールの像が、提出された報告書を閉じる。

 

 「職員とパイロットが職務を果たした結果です。」

 

 ゲンドウが淡々と答える。

 

 「君の用意したものが、偶然役に立ったということかね。」

 

 キールは眼鏡の奥からゲンドウを見据えた。

 

 「非常時に備えることも、ネルフ司令の職務です。」

 

 別の委員が不快そうに口を挟む。

 

 「問題は、その備えが委員会へ報告されていなかったことだ。ネルフは我々の所有物だ。碇、君個人の城ではない。」

 

 ゲンドウは表情を変えなかった。

 

 「君が守ろうとしているものは何かね、碇。ネルフか、人類か。それとも、もっと小さな何かか。」

 

 キールの問いに、今朝食卓で交わしたシンジとの会話が脳裏をよぎる。

 

 「人類とは、一人一人の人間を便宜上まとめて呼ぶ言葉に過ぎません。目の前の一人を守ることと、人類を守ることに相違があるとは思いません。」

 

 「一人を選ぶことで、残る全てを失うとしてもかね。」

 

 キールがさらに問いを重ねる。

 

 「そのような問いを子供へ押しつけないために、我々がいるのでしょう。」

 

 ゲンドウは視線を逸らさずに答えた。

 

 しばし沈黙した後、キールの映像が消える。他の委員も一人ずつ光の中へ溶け、会議室にはゲンドウと冬月だけが残された。

 

 「ずいぶんとはっきり言ったものだ。」

 

 冬月が消えたホログラムを見ながら呟く。

 

 「いずれ隠せなくなる。」

 

 ゲンドウは短く返した。

 

 その翌朝、二人はロンギヌスの槍を回収するため、南極へ発った。

 

――

 

 数時間後、ゲンドウと冬月は南極へ向かう大型輸送機の中にいた。

 

 窓の外に広がるのは、どこまでも赤い海である。

 

 かつて氷に覆われていた大地は跡形もなく、地平の先まで生命を拒絶する光景が続いている。十五年前に起きた災害の傷跡。その中心へ近づくにつれ、冬月の表情は険しくなっていった。

 

 「何度見ても、人の住める場所には思えんな。」

 

 「実際、住めはしない。」

 

 ゲンドウは窓から視線を外し、手元の回収計画へ目を落とした。

 

 セカンドインパクトの爆心地に残されたロンギヌスの槍。ゼーレが補完を完遂するために必要とする鍵であり、こちらが計画の主導権を奪わせないための切り札でもある。

 

 使徒が出現し、A.T.フィールドが長距離通信を阻害すれば、南極と日本の連絡は途絶える。ネルフ本部で何が起きても知ることはできず、こちらから命令を出すこともできない。

 

 「葛城君へ、随分と細かな指示を残してきたそうだな。」

 

 「必要な措置だ。」

 

 ゲンドウが命じたのは、先日の停電で露呈した指揮系統の脆弱性を埋めるための措置だった。衛星を含む監視網の再点検、地上施設から離れた場所への三機展開を想定した訓練、通常兵器とN²兵器の即応態勢。そして、司令と副司令が不在の間、想定外の使徒が現れた場合の最終判断を葛城ミサトへ委ねること。

 

 個々の敵へ備えた指示ではない。停電中の戦闘を経験した司令が、次は既存の防衛計画そのものを外してくるかもしれないと読んだ――部下達には、そう見える程度に留めていた。

 

 ゲンドウが資料を閉じた時、胸元の携帯電話が振動した。

 

 画面にはシンジの名前が表示されている。

 

 「出ないのか。」

 

 冬月の言葉に答える前に、ゲンドウは通話ボタンを押していた。

 

 「どうした、シンジ。」

 

 『あ、父さん。もう南極?』

 

 電話の向こうから聞こえる息子の声に、無意識のうちに肩から力が抜ける。

 

 「もうすぐ着く。何かあったのか?」

 

 『ううん。出張、気をつけてって言うのを忘れてたから。南極って危ないんでしょ?』

 

 「こちらは問題ない。お前も無理はするな。」

 

 『学校に行くだけだよ。』

 

 小さく笑う声が聞こえ、ゲンドウも僅かに口元を緩めた。

 

 使徒が現れなければ、本当にただ学校へ行くだけなのだ。十四歳の子供ならば、それが当然のはずだった。

 

 「帰ったら、進路相談の話をしよう。」

 

 『うん。まだ何も決まってないけど。』

 

 「構わない。私も一緒に考える。」

 

 短い会話を終え、通話を切る。ゲンドウは携帯電話を上着のポケットへしまった。使徒が現れてA.T.フィールドが通信を塞げば、殲滅されるまで声を聞くことはできない。

 

 向かいに座る冬月が、何とも言えない顔でこちらを見ていた。

 

 「何だ。」

 

 「いや。随分、父親らしい会話をするようになったと思ってな。」

 

 「まあな。」

 

 そう返すゲンドウの声には、司令室で見せる冷たさはなかった。

 

――

 

 南極の臨時基地へ到着した後、ゲンドウと冬月は特殊防護服に身を包み、爆心地へ向かう装甲輸送車へ乗り込んだ。

 

 赤い海の中から引き上げられた槍は、臨時基地に接岸した空母の飛行甲板へ横たえられていた。通常の航空機では到底運べない長さと重量である。船体の補強を受けた甲板へ幾重もの固定具で緊結され、その全体には環境変化と外部からの観測を防ぐ巨大な特殊シートが隙間なく巻き付けられている。

 

 空母の周囲には複数の巡洋艦が護衛陣形を組み、赤い海上に幾重もの警戒線を敷いていた。ここから先、槍は艦隊ごと日本へ運ばれる。空輸という選択肢は、初めから存在しない。

 

 シートを掛けられる直前に確認した、人の手で造られたとは思えない二重螺旋の穂先が、ゲンドウの脳裏に残っていた。

 

 冬月が、シートに覆われた槍を見上げる。

 

 「これがなければ、老人達も契約を果たせん。」

 

 「ああ。だからこそ、我々の手元へ置く。」

 

 ゲンドウの返答を聞いた冬月は、時折ノイズの走る通信端末へ視線を落とした。

 

 「今頃、日本は朝か。」

 

 「そうだな。」

 

 ゲンドウもまた、定時報告を表示する端末を見た。

 

 未来の記憶が正しければ、使徒が現れる時期は近い。しかし、前世界と同じ日に現れる保証はない。現れたとしても、今回も同じ場所へ落ちるとは限らない。

 

 それでも今は、葛城三佐へ天を預けるしかなかった。

 

――

 

 けたたましい警報が、ネルフ本部全域へ鳴り響く。

 

 第一発令所の主モニターには、衛星軌道上に浮かぶ使徒の姿が拡大表示されていた。

 

 巨大な眼を思わせる円形の本体と、周囲へ翼のように張り出した平たい身体。中央の赤い眼を除けば色彩は暗く抑えられ、衛星映像の中では空に開いた巨大な穴のように見える。あまりに巨大であるため、比較対象となるものがなければ、その全体像を掴むことすら難しい。

 

 「目標、衛星軌道上を移動中!現在も第三新東京市上空へ接近しています!」

 

 日向マコトの報告に続き、青葉シゲルが観測データを読み上げる。

 

 「目標から高エネルギー物体が分離!落下を開始!」

 

 モニター上で使徒の身体の一部が切り離され、地上へ向けて落ちていく。

 

 数秒後、太平洋上で巨大な水柱が立ち上がった。

 

 衝撃波は遠く離れた第三新東京市の観測機器にまで届き、発令所の計器を揺らす。

 

 「着弾地点、第三新東京市から東へ百二十キロ。使徒、落下位置を修正しています。」

 

 リツコは次々と更新される軌道予測を睨んだ。

 

 「自分の一部を落として、偏差を測っているのね。」

 

 「最終的には本体そのものを落とすつもりか。」

 

 隣に立つナオコの問いへ、リツコは無言で頷く。

 

 MAGIが算出した被害予測が、モニターを赤く染めた。

 

 使徒が現在の質量を保ったまま落下すれば、第三新東京市は跡形もなく消滅する。ジオフロントも、セントラルドグマも、その下に眠るものも全て押し潰される。

 

 ミサトは司令席を見上げた。そこにゲンドウと冬月の姿はない。使徒のA.T.フィールドが長距離通信を遮断し、南極への回線は目標出現直後から沈黙していた。今は救援も指示も期待できない。

 

 代わりに思い出したのは、出発前にゲンドウから渡された指揮権移譲命令だった。

 

 ――既存の迎撃計画に該当しない使徒が出現した場合、作戦の最終判断は葛城三佐に委ねる。

 

 その一文が今、現実の重さを伴って肩へ圧し掛かる。

 

 昇進して初めて指揮する使徒戦。その初戦で、これまでにない規模の判断を任されたことになる。

 

 「航空戦力での迎撃は?」

 

 ミサトがリツコへ確認する。

 

 「国連軍がN²兵器による軌道迎撃を開始します。ですが――」

 

 リツコが言葉を切るより先に、主モニターが白く染まった。

 

 衛星軌道上で複数のN²兵器が炸裂し、巨大な光球が使徒を包み込む。

 

 数秒遅れて映像が回復した時、使徒は変わらぬ姿で空に浮かんでいた。

 

 僅かに欠けた外縁部も、見る間に再生を始めている。

 

 「効果ありません!」

 

 青葉が観測結果を叫ぶ。

 

 発令所へ絶望的な報告が響く。

 

 「次の落下物を確認!着弾予測、先ほどより第三新東京市へ十二キロ接近!」

 

 日向の報告に、ミサトは目を閉じた。

 

 使徒は確実に照準を合わせつつあった。

 

 頭の中で、あらゆる手段を組み立てる。

 

 火力での破壊は不可能。避難だけでは地下施設を守れない。使徒の軌道を変えるほどの兵器も存在しない。

 

 ならば残る方法は一つしかなかった。

 

 「エヴァ三機で、使徒を直接受け止めます。」

 

 静かに告げられた作戦へ、発令所の全員が振り返った。

 

 「正気?」

 

 最初に異を唱えたのはナオコだった。

 

 彼女は端末を操作し、使徒の推定質量と落下速度を表示する。

 

 「この質量よ。三機のA.T.フィールドを重ねたところで、受け止められる保証はないわ。地表へ接触した時点で、パイロットには計算不能の負荷が掛かる。」

 

 「分かっています。」

 

 ミサトはナオコの視線を受け止めた。

 

 「分かっていないわ。」

 

 ナオコの声が厳しくなる。

 

 その横で、リツコも母とは別の計算結果を示した。

 

 「それ以前に落下地点を特定できない。MAGIが出せるのは直径十キロ以上の予測範囲よ。三機を同じ場所に配置すれば外れた時に間に合わない。分散させれば、最初に接触する一機へ負荷が集中するわ。」

 

 「それでも、他に方法はない。」

 

 ミサトは二人の顔を順に見た。

 

 「使徒が地面へ落ちれば、パイロットだけじゃない。この街に避難している全員が死ぬ。だから落ちる前に受け止めて、コアを破壊する。」

 

 無謀であることは、誰よりも自分が理解している。

 

 それでも、作戦を決めるのが自分の役目だった。

 

 ミサトは制服の内ポケットから、折り畳まれた指揮権移譲命令を取り出した。末尾には、個別の作戦を予見したものではない、司令としての原則が記されている。

 

 ――作戦立案に際しては、目標の殲滅と同様に、パイロット全員の生還を重視せよ。

 

 出発前、その条件を読んだミサトは「無茶を言わないでください」と抗議した。ゲンドウは否定せず、それでも撤回しなかった。

 

 『無茶であることは承知している。だが、あの子達の命を作戦上の消耗として扱うことだけは認めない。』

 

 『私が不在の間、三人を頼む。』

 

 司令からではなく、子供を置いていく一人の父親から託された言葉だった。

 

 ミサトは紙を握り直し、顔を上げる。

 

 「作戦を開始します。使徒を殲滅して、三人とも帰す。そこまでが作戦よ。」

 

――

 

 エヴァ三機の配置が決まり、パイロット達はそれぞれのケイジへ向かった。

 

 落下予測範囲を三分割し、零号機、初号機、弐号機を別々の射出口から地上へ展開する。最終予測が出た時点で、最も近い機体が先行して使徒を受け止め、残る二機が合流する作戦である。

 

 成功率は、MAGIにも算出できなかった。

 

 初号機のエントリープラグ内で、シンジは発進準備を待っていた。

 

 モニターには刻一刻と迫る使徒の推定高度が表示されている。

 

 怖くないはずがない。

 

 つい先ほどまで空は、ただ頭上にあるものだった。それが今は、目に見えない重さとなって自分達を押し潰そうとしている。

 

 不意に、父が南極へ着く直前にくれた言葉を思い出す。

 

 ――帰ったら、進路相談の話をしよう。

 

 ――構わない。私も一緒に考える。

 

 今、父の声は聞こえない。それでも、自分の帰りを待つ言葉は残っている。シンジもまた、父に気をつけて帰ってきてほしいと伝えた。

 

 「帰らないと。」

 

 シンジは操縦桿を握り直した。

 

 隣には誰もいない。それでも、自分が戻る場所は確かにある。

 

――

 

 『目標、本体の降下を開始!』

 

 衛星軌道上に留まっていた使徒が、その巨大な身体を地上へ向けた。

 

 羽を広げた鳥にも、空を覆う眼にも見える身体が、大気圏へ突入する。

 

 摩擦熱によって外縁部が赤熱し、使徒の周囲を炎が包んだ。昼の空に第二の太陽が現れ、やがてその光は第三新東京市全域へ巨大な影を落とす。

 

 『最終落下予測、出ました!地点は旧足柄地区、誤差半径六千五百!』

 

 『各機、予測地点へ急行!』

 

 ミサトの号令と同時に、三つの射出口が開いた。

 

 拘束具を解除されたエヴァが、別々の場所から地上へ飛び出す。

 

 最も近いのは初号機だった。

 

 「外部電源、切り離します!」

 

 シンジが操作すると、背部のアンビリカルケーブルが火花を散らして外れた。

 

 『内部電源へ切り替え。活動限界、残り五分!』

 

 初号機は市街地を一直線に駆け抜ける。

 

 一歩ごとに道路が砕け、格納されたビルの間を紫の巨体が跳ぶ。眼前に立ちはだかる山肌へ足を掛け、そのまま斜面を蹴り崩しながら尾根を越えた。

 

 頭上では、使徒が見る間に巨大さを増している。

 

 遠くにあるから小さく見えていたのではない。空そのものと見紛うほどの身体が、世界を塞ぐように迫っていた。

 

 『落下まで、残り三分四十秒!』

 

 弐号機は予測地点の西側から高速道路を走っていた。

 

 「こんな遠くに配置したの、誰よ!」

 

 アスカが叫び、前方の高架を塞ぐ放棄車両へ弐号機の足を振り抜いた。車両の群れが玩具のように宙を舞い、開いた進路へ機体を滑り込ませる。

 

 『配置を決めたのは私よ!文句は生きて帰ってから聞くわ!』

 

 ミサトの怒声が返り、アスカは奥歯を噛んだ。

 

 「言ったわね。覚えてなさいよ!」

 

 一方、零号機の進路には深い渓谷が横たわっていた。

 

 迂回すれば間に合わない。

 

 レイは躊躇なく斜面を蹴り、零号機を対岸へ跳ばした。巨大な機体が谷底へ影を落とし、辛うじて反対側の岩壁へ指を掛ける。

 

 岩盤が崩れ、片足が宙へ投げ出される。

 

 それでも零号機は両腕だけで身体を引き上げ、着地と同時に再び走り出した。

 

 『零号機、右脚部に損傷!速度を落として!』

 

 マヤの警告に、レイは正面だけを見たまま答える。

 

 「落とせない。」

 

 その短い言葉を聞き、リツコはそれ以上止めることができなかった。

 

 『落下まで、二分!』

 

 初号機が予測地点へ到達する。

 

 そこは避難を終えた平野部だった。格納施設へ沈みきれなかった建物が点在し、その向こうには第三新東京市の中心部が見える。

 

 シンジは空を見上げた。

 

 もはや使徒の全体像は見えない。

 

 炎に縁取られた暗い腹部が、空の端から端まで広がっている。中央の赤い眼だけが地上を見下ろし、重圧だけで大気が唸り、木々が一斉になぎ倒された。

 

 『初号機、接触まで一分十五秒!零号機と弐号機はまだ到着していません!』

 

 「僕が先に受け止めます!」

 

 『待って、シンジ君。一機では――』

 

 「待ったら、地面に落ちる!」

 

 シンジは初号機の両足を踏ん張らせ、全身のA.T.フィールドを頭上へ展開した。

 

 八角形の光壁が幾重にも重なり、迫り来る使徒へ向けて広がっていく。

 

 接触の瞬間、世界から全ての音が消えた。

 

 次いで、空が落ちた。

 

 凄まじい衝撃が初号機の両腕を伝い、シンジの全身を押し潰す。

 

 展開したA.T.フィールドが一瞬で歪み、幾重もの光壁に亀裂が走った。初号機の両脚が膝まで地面へ沈み、周囲の大地が円形に陥没する。

 

 「うあああああああっ!」

 

 腕が折れる。

 

 肩が潰れる。

 

 実際に身体が損傷しているわけではないと分かっていても、神経接続を通して流れ込む圧力は、そう錯覚するには十分過ぎた。

 

 使徒は、攻撃する必要すらない。

 

 ただそこに存在し、落ちてくるだけで、初号機も、その下にある街も、全てを押し潰す。

 

 『初号機、A.T.フィールド限界!落下速度、減衰しません!』

 

 日向の悲鳴に近い報告が響く。

 

 シンジは歯を食いしばり、操縦桿を押し返した。

 

 「まだ……!」

 

 視界の端で、進路希望調査票の白い紙が浮かんだ。

 

 将来はまだ決まっていない。

 

 何になりたいのかも分からない。

 

 それでも、何も決まっていない明日を、ここで失いたくはなかった。

 

 「まだ、帰ってないんだ!」

 

 初号機が咆哮する。

 

 その声へ応えるように、左側から青い腕が使徒を支えた。

 

 「碇君。」

 

 零号機が崩れた大地へ片膝をつき、初号機のA.T.フィールドへ自らの壁を重ねる。

 

 二枚の光が軋み合い、使徒の落下速度が初めて僅かに鈍った。

 

 「綾波!」

 

 「一人では支えられない。」

 

 「分かってる!」

 

 零号機の損傷した右脚が圧力に耐えきれず、装甲を裂いた。レイの表情が痛みに歪む。それでも、使徒を支える腕は下げなかった。

 

 『内部電源、残り一分三十秒!』

 

 なおも落下は止まらない。

 

 初号機と零号機の足元から亀裂が伸び、遠くの建物が次々と地面へ呑み込まれていく。

 

 「二人とも、主役を置いて勝手に始めてんじゃないわよ!」

 

 右側から飛び込んできた弐号機が、肩から使徒へ激突した。

 

 アスカは滑る両足を無理やり地面へ食い込ませ、A.T.フィールドを全開にする。

 

 三機の光壁が重なった。

 

 大地を削り続けていた使徒の落下が、ついに止まる。

 

 だが止めただけでは、殲滅したことにはならない。

 

 使徒の身体は三機に受け止められ、自重によって大きく歪んでいた。中央のコアが、弐号機の頭上で赤い光を放っている。

 

 「シンジ、レイ!少しだけ、こっちの重さを引き受けて!」

 

 アスカの声に、初号機と零号機が弐号機側へ肩を寄せた。

 

 『弐号機の負荷が減少!ですが、初号機と零号機は限界です!』

 

 マヤの警告が響く。

 

 「分かってるわよ!」

 

 弐号機は左腕とA.T.フィールドで使徒を支えたまま、右手を離した。肩部ウェポンラックが開き、射出されたプログレッシブ・ナイフを掴む。

 

 『活動限界まで、残り四十秒!』

 

 「十分!」

 

 弐号機が、頭上のコアへナイフを突き立てる。

 

 だが使徒のA.T.フィールドが刃を阻み、切っ先がコアの直前で停止した。

 

 「このっ……!」

 

 アスカが力を込めるほど、初号機と零号機へ掛かる重量が増していく。

 

 シンジは初号機の右肩を弐号機側へ押し込み、その分の重さを引き受けた。

 

 「アスカ、今!」

 

 「言われなくても!」

 

 三機のA.T.フィールドが使徒の絶対領域をこじ開け、ナイフの切っ先が赤いコアへ触れた。

 

 甲高い音とともに、刃がコアの表面を削る。

 

 一度では足りない。

 

 アスカはナイフを引き抜き、もう一度突き立てた。

 

 「これで――」

 

 二度目の刺突で、コアへ亀裂が走る。

 

 『残り十五秒!』

 

 「終わりよおおおおおっ!」

 

 三度目。

 

 プログレッシブ・ナイフがコアの中心を貫いた。

 

 使徒の中央を走る亀裂から光が溢れ、空全体を震わせるような絶叫が響き渡る。

 

 亀裂から溢れた白い光が空を貫き、雲を円形に吹き飛ばす。

 

 巨大な身体は光の中で崩れ、赤い雨となって三機の上へ降り注いだ。

 

 使徒の重さが消える。

 

 支えを失った初号機が、前のめりに倒れかけた。

 

 「シンジ!」

 

 弐号機が右側から腕を掴み、零号機が左肩へ身体を差し込む。

 

 三機は互いにもたれかかるように、崩れた大地へ膝をついた。

 

 『目標、完全に沈黙!』

 

 マヤの報告と同時に、活動限界を迎えた三機の電源が落ちる。

 

 静かになったエントリープラグの中で、シンジは荒い呼吸を繰り返した。

 

 腕も肩も、感覚がない。

 

 それでも通信の向こうから、アスカの声が聞こえる。

 

 『ちょっとシンジ、生きてる!?』

 

 続いて、レイの静かな声が重なった。

 

 『碇君。返事をして。』

 

 シンジは痛む喉から、どうにか声を絞り出した。

 

 「……ただいま。」

 

――

 

 その頃、ゲンドウと冬月は空母の艦橋から槍の輸送準備を見届けていた。

 

 飛行甲板では、巨大な特殊シートに覆われた槍の固定状態を作業員達が点検している。その空母を中心に、護衛の巡洋艦群が出航のための陣形を整えつつあった。

 

 南極の空は赤く、艦橋の通信端末には回線断を示す表示だけが浮かんでいる。A.T.フィールドに遮られ、日本で使徒が現れたことも、三機が空を受け止めていることも、二人には知るすべがない。

 

 使徒のコアが砕け、A.T.フィールドが消滅した直後だった。

 

 途絶していた回線が唐突に復旧し、端末へ大量の緊急報告が流れ込む。使徒出現。落下攻撃。三機出撃。目標殲滅。

 

 最後の項目を読む前に、ゲンドウは報告担当者へ問い返した。

 

 「パイロットは。」

 

 『三名とも救出されています。意識あり。重度の神経疲労と軽度の負傷はありますが、命に別状はありません。』

 

 「精神汚染は。」

 

 『認められません。』

 

 それを聞いてなお、ゲンドウの表情はすぐには動かなかった。

 

 「碇。」

 

 隣に立つ冬月が、静かに声をかける。

 

 「シンジ君も、他の二人も生きている。」

 

 念を押すような言葉に、ゲンドウはようやく息を吐いた。

 

 「……ああ。」

 

――

 

 ゲンドウが日本へ戻ったのは、使徒殲滅の翌日だった。

 

 ネルフ付属病院の一室には、両腕へ簡易固定具をつけたシンジが一人でベッドに座っていた。

 

 肉体に骨折はなかったが、初号機を通して受けた負荷によって筋肉と神経に強い痛みが残っている。隣室ではレイが右脚の検査を受け、アスカは自分だけ入院扱いになることを拒否して看護師と揉めていた。

 

 病室の扉が開き、ゲンドウが入ってくる。

 

 「父さん。お帰り。」

 

 「ああ、ただいま。」

 

 ゲンドウはベッドの横へ椅子を寄せ、固定された息子の腕を見た。

 

 「痛むか。」

 

 「少し。でも、来週までには治るって。」

 

 「そうか。」

 

 短い言葉の後、ゲンドウはそれ以上何も言えなくなった。

 

 生きている。声を交わしている。それだけで十分なはずなのに、息子の腕へ巻かれた固定具を見ると、自分がそこへ負わせた痛みを突きつけられているようだった。

 

 「父さん。」

 

 シンジは枕元に置かれていた紙を、動かしにくい腕で持ち上げた。

 

 進路希望調査票だった。

 

 「まだ、書けてないんだ。」

 

 「構わない。」

 

 「でも、父さんは僕のために学校へ来てくれるんでしょ?」

 

 「私が聞きたいのは、立派な答えではない。」

 

 ゲンドウは紙ではなく、シンジの顔を見た。

 

 「お前が今、何を考えているかだ。」

 

 シンジはしばらく黙り込み、空欄のままの調査票へ視線を落とした。

 

 昨日、自分達は空を支えた。

 

 使徒を倒し、大勢の人を守った。父もきっと褒めてくれるだろう。

 

 けれど、それを自分の将来と呼びたいかと問われれば、分からなかった。

 

 「僕、今はまだ何になりたいか分からない。」

 

 「ああ。」

 

 「でも……エヴァに乗ることだけが、僕の全部じゃないって思いたい。」

 

 ゲンドウは息子の言葉を、黙って受け止めた。

 

 前世界の自分ならば、その言葉に失望しただろうか。エヴァへ乗ることを拒絶されたと感じ、再び遠ざけただろうか。

 

 今は違う。

 

 その言葉を聞けたことに、安堵している自分がいた。

 

 「それでいい。」

 

 ゲンドウはシンジの手から調査票を受け取り、折れないように机へ置いた。

 

 「答えを急ぐ必要はない。お前の将来は、誰かへ提出する紙一枚で決まるものではない。」

 

 「うん。」

 

 「だから、決められる日まで生きろ。」

 

 口にしてから、その言葉の残酷さに気づく。

 

 生きろと言いながら、自分はこの子を戦場へ送り出している。

 

 世界を支えるにはあまりにも細い腕へ、人類の明日を預けている。

 

 ゲンドウが目を伏せると、シンジは僅かに身を乗り出した。

 

 固定具のついた手が、不器用に父の袖を掴む。

 

 「父さんもだよ。」

 

 「何?」

 

 「父さんも、一緒に考えてくれるんでしょ?」

 

 先ほど自分が口にした約束を返され、ゲンドウは言葉を失った。

 

 やがて、袖を掴む息子の手へ自分の手を重ねる。

 

 「ああ、そうだな。」

 

 病室の窓から見える空は、昨日までと何も変わらない青さを取り戻していた。

 

 その空がどれほど重いのかを、二人は知っている。

 

 だからこそ、それを子供一人に支えさせてはならないのだと、ゲンドウは息子の手の温度を感じながら思った。

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