第十使徒を殲滅してから、一週間が過ぎた。第三新東京市の空から使徒の影が消えれば、学校には試験や提出物の期限が戻り、子供達にも戦いとは関係のない将来について考える時間が与えられる。
第三新東京市立第壱中学校の面談室には、担任とシンジ、そしてゲンドウの三人が向かい合って座っていた。机の中央に置かれているのは、提出期限を過ぎても職業欄だけが空白の進路希望調査票である。
「碇君は、まだ将来やりたいことが決まっていないそうです」
担任が困ったように頭を掻く。
「成績については、もう少し努力が必要ですがね。今の時点で希望が決まっていないこと自体は、それほど珍しくありません」
「はい」
返事をしたシンジの声は小さかった。隣に座る父が忙しい中で時間を作ってくれたというのに、見せられるものが空欄の紙だけであることを申し訳なく思い、自然と背中まで小さく丸まってしまう。
「ご家庭では、何かお話をされていますか」
担任から尋ねられ、ゲンドウは調査票へ目を落とした。
「まだ、話し始めたばかりです」
「司令のお仕事も大変でしょうからな」
「仕事は理由になりません。この子が決めるまで、私も一緒に考えます」
隣から聞こえた言葉に、シンジは思わず顔を上げた。約束どおり父は来た。それだけでなく、病室で交わした言葉も忘れてはいなかった。その事が嬉しく、しかし担任の前で喜ぶのも何となく気恥ずかしくて、シンジは僅かに緩みそうになった口元を引き締める。
担任は何度か頷き、調査票の別の欄を指した。
「ただ、少し難しいのが現在の立場です。彼は既にネルフで、その……特別な仕事をしていますから」
職業欄へ何も書けない理由が、そこにあるように聞こえた。
エヴァのパイロット。それは仕事なのだろうか。学校を卒業した後も続けるものなのだろうか。そもそも使徒との戦いが終わった時、自分には何が残るのだろうか。今まで考えないようにしていた疑問が、空白の職業欄から次々と浮かび上がってくる。
ゲンドウはすぐには答えなかった。シンジがその横顔を窺っていると、父は調査票から担任へ視線を移し、やがてはっきりと告げる。
「それは、この子の将来を決める職業ではありません」
「今だけ、この子に背負わせている役目です」
シンジは父の横顔を見つめた。嬉しいはずの言葉だった。しかし、いつかエヴァへ乗らなくなった自分を、父は変わらず必要としてくれるのだろうか。そんな疑問が胸の奥に小さく引っ掛かり、素直に喜ぶことができなかった。
――
面談を終えた二人は、校舎から駅へ続く坂道を並んで歩いていた。
ゲンドウが学校まで乗ってきた公用車は、正門の前で待機している。だが、シンジが少し歩きたいと言ったため、運転手には駅前まで先に回るよう伝えていた。
「父さん」
「何だ」
「今日は、ありがとう」
「礼を言われることではない」
「でも、仕事があったんでしょ」
「冬月がいる」
あまりに迷いのない返答に、シンジは小さく笑った。父にとって副司令は、それほどまでに頼りになる人物なのだろう。もっとも、当人がこの評価を聞いて喜ぶかどうかは少々怪しい気もした。
「副司令、大丈夫かな」
「問題ない。あれは優秀な男だ」
しばらく歩いた後、シンジは先ほどから胸に残っていたことを尋ねた。
「父さん。エヴァに乗るのが終わっても、僕は父さんのところにいていいんだよね」
ゲンドウの足が止まった。シンジは尋ね方を間違えたかと思い、父の顔を窺う。サングラスの奥までは見えず、すぐに返事がないことが先ほどから燻っていた不安をさらに大きくする。やはり聞かなければ良かったかと目を伏せかけた時、父の低い声が返ってきた。
「当たり前だ」
短い答えであったが、ゲンドウはそれだけでは足りないとでも思ったのか、僅かに間を置いて言葉を続けた。
「お前がエヴァへ乗ることと、私の息子であることに関係はない」
シンジは少し驚いた後、ようやく安心したように笑った。欲しかった言葉をこうも真っ直ぐに渡されるとは思っておらず、何と返せばよいのか分からない。結局、父の隣を歩く足取りが少し軽くなったことだけが、彼の返事となった。
その時、ゲンドウの携帯電話が振動した。
画面に表示されているのは赤木ナオコの名前である。
「どうした」
『進路相談の帰りに悪いわね。二週間後に予定しているMAGIの最終点検、その実施計画を確認してちょうだい』
「異常か」
『今のところは何も。だからこそ、異常がないと確認するのよ』
停電工作から四週間が過ぎても、侵入者へつながる決定的な証拠は見つかっていない。電力系統と監視網は既に復旧していたが、本部の中枢については通常以上の点検が続いていた。
二週間後のMAGI点検は、それとは別に以前から予定されていた定期作業である。
人為的な工作の調査と、日常的な保守作業。二つを同じものとして扱えば、かえって本当の異常を見失う。ナオコはそう判断していた。
「分かった。間もなく戻る」
通話を切り、携帯電話を上着のポケットへしまう。
「仕事?」
「ああ。お前達の試験にも関係する計画だ」
「じゃあ、僕も後で予定を確認しておくよ」
親子は駅前で待つ車へ向かった。
――
それから二週間後。
ネルフ本部、プリブノウ・ボックス。
中央に並べられた三基の模擬体へ、初号機、零号機、弐号機の各エントリープラグが接続されていた。
第十使徒戦で三機のA.T.フィールドを重ねた際、パイロットへ生じた負荷を検証するための試験である。エヴァ本体は使わず、模擬体を介して三人の神経反応だけを比較する。
「バカシンジ、遅い!」
着替えを終えてプラグへ向かったシンジを、先に準備を済ませていたアスカが睨んだ。
「ごめん。授業が長引いて」
「で、何て書いたのよ」
「まだ空欄」
「何しに行ったのよ!」
アスカの声が実験区画へ響く。
その横で、レイが自分の調査票を思い出したように呟いた。
「ケーキ屋さんは、駄目だった」
「当然でしょうが!」
観測室から三人を見下ろしていたリツコは、頭痛を堪えるように眉間へ指を当てた。
「緊張感があるのかないのか、分からない子達ね」
「緊張して身体が強張るよりは良いわ」
ナオコはMAGIから送られてくる点検結果と、模擬体の状態を同時に確認していた。
今日の試験全体を統括するのはナオコである。リツコは模擬体とパイロット側の数値を、マヤはMAGIと各検査装置を結ぶ回線を担当している。
「三基とも接続正常。MAGIの検査領域も異常ありません」
マヤの報告に、ナオコは頷いた。
「第一段階を開始。シンクロ率は最低値で固定。模擬体へ運動命令は送らないで」
「了解」
プラグ内へLCLが満たされ、三人の身体からゆっくりと力が抜けていく。先ほどまでの騒がしさが嘘のように実験区画は静まり返り、試験は何事もなく始まった。
――
最初に異常を見つけたのはマヤだった。
「第八十四番蛋白壁、温度が〇・二度上昇しています」
「冷却系の誤差でしょう」
リツコは担当端末へ数値を呼び出した。
だが、ナオコは別の画面を開いていた。
「冷却液の流量は変わっていないわ。壁面映像を出して」
主モニターに模擬体区画の一角が拡大される。淡い色をした蛋白壁の継ぎ目には、最初からそこにあったと錯覚するほど小さな赤褐色の染みが浮かんでいた。
「腐食?」
リツコが立ち上がり、モニターへ目を凝らす。その間にも染みはゆっくりと形を変え、まるで呼吸するように蛋白壁の表面を広がっていく。単なる腐食ではない。そう判断したナオコに迷いはなかった。
「試験中止。三基ともプラグを排出。区画を第六種生物災害指定で封鎖」
リツコが映像を拡大しようとする。
「まだ正体が――」
「分かってからでは遅いわ。マヤ、急いで」
「はい! プラグ排出、緊急経路へ切り替えます!」
三基のエントリープラグが模擬体から引き抜かれる。その直後、染みに最も近い検査端末の表示が乱れ、意味をなさない文字列を吐き出し始めた。
赤褐色の組織が配線口へ入り込み、回路の表面を這っていく。区画外から操作された作業アームが薬剤を噴射すると、組織は一度黒く変色した。しかし数秒後、その縁から新しい膜が生まれ、薬剤を弾き始める。
変化を追っていたマヤが声を上げた。
「薬剤への耐性を獲得しました!」
「そんな、たった一度で?」
リツコの声に、ナオコは険しい表情を浮かべた。
「一度ではない。噴射された範囲の中で無数に世代交代しているのよ」
重い音を立てて非常隔壁が降りる。しかし閉じ込められたはずの組織は、今度は熱を帯び始めた壁面を避けるように向きを変え、僅かに残された通信回線へ集中した。逃げ道を探している。その動きは、ナオコにはそうとしか見えなかった。
その瞬間、観測室の使徒警報が鳴り響いた。マヤの端末に、青い波形が重なる。
「パターン青! 微弱ですが、区画全体からA.T.フィールド反応! 第十一使徒です!」
ナオコは警報へ目を向けず、蛋白壁の交換記録を呼び出した。二週間前に搬入された区画と、現在表示されている熱源の起点が重なる。しかし受入検査では何も検出されていない。もし搬入時から付着していたのならば、検査をすり抜けられるほど小さな状態で素材へ紛れ込んでいたことになる。
あくまでも現時点で立てられる仮説に過ぎない。さらに調べようとした時、画面上の染みは既に次の回線へ達していた。ナオコは交換記録を閉じ、侵入経路の特定よりも、今まさに広がりつつある脅威を封じることへ意識を戻す。
――
シンジ、レイ、アスカの三人は、回収されたプラグから出ると、そのまま医療区画へ移送された。
感染の有無を確かめるため、透明な隔壁で分けられた個室へ一人ずつ収容されている。
「第十一使徒がいるなら、エヴァを出しなさいよ!」
アスカが通信機へ怒鳴る。
『出せないわ。目標は本部内の回路へ侵入している。エヴァで攻撃できる大きさじゃないの』
ミサトの声が返る。
「じゃあ、アタシ達はここで見てろっていうの?」
『そうよ。検査が終わるまで、そこから動かないで』
「そんな――」
『アスカ』
ミサトの声が低くなる。
『戦うだけが仕事じゃないわ。今は、他の人の邪魔をしないことがあなた達の仕事よ』
通信が切れる。
アスカは到底納得できないとでも言いたげに通信機を睨みつけていたが、やがて乱暴に椅子へ腰を下ろした。隣室では、レイが隔壁越しにリツコの去っていった廊下をじっと見つめている。
「リッちゃん達が、戦うのね」
シンジは頷いた。最初にエヴァへ乗った時、自分を動かしたものは父に必要だと言ってほしいという願いだった。誰かに代われと言われたからでも、自分にしかできない役目を誇ったからでもない。その我が儘を、今になって綺麗な理由へと言い換えるつもりはなかった。
しかし、乗ると決めた後の自分が一人で戦ってきたわけではないことくらいは分かる。普段はエヴァを動かし、自分達を戦場から帰してくれる人々へ、今度はこちらが命を預ける番なのだ。そう思うと、何も出来ずに待つだけという事が、エヴァに乗って戦うよりも恐ろしく感じられた。
――
発令所では、主モニターを埋め尽くすように本部の回路図が表示されていた。
赤く変色した区画が、目に見える速度で増えていく。
「焼却処理は?」
ミサトが尋ねる。
「最初の区画は処理済み。でも、熱処理の直前に通信回線へ移った個体がいる」
リツコが答えた。
「回線そのものを切れないのか」
冬月の問いに、ナオコは首を振った。
「既に二十七系統へ分散しています。全て切断すれば、ジオフロントの生命維持とセントラルドグマの封鎖機構まで停止する」
「エヴァの拘束は」
ゲンドウが確認する。
「今は独立回路へ移しました。ただし第十一使徒がそちらを学習するのも時間の問題です」
モニター上の赤い光が新たな分岐へ伸びる。その進路を追っていたナオコの指が、ある一点で止まった。
「狙いが変わった」
「どこへ向かっているの?」
リツコが経路を追う。
赤い線が収束する先を見て、リツコの表情が強張る。
MAGI。本部の判断と制御を担う三基の生体コンピューターへ、第十一使徒は進路を変えていた。
「MAGIを停止させる」
ミサトが即座に言う。
「無理よ」
ナオコは端末を操作しながら否定した。
「停止命令を出せば、その処理自体を第十一使徒が学習する。外部から強制切断しても、既に入り込んだ個体は残る。むしろ監視できなくなるだけ」
「じゃあ、どうするのよ」
「中へ入って止める」
ナオコは端末に表示された侵食経路を一度だけ見回し、椅子から立ち上がった。外側から塞ぐだけでは追いつけない。ならば、まだ相手の手が届いていない内側から道を閉ざすしかなかった。
「MAGIの深部へ手動回線を開く。まだ侵食されていない内部経路から、第十一使徒を閉じ込めるわ」
「私も行く」
リツコが続く。
「必要ない。あなたはここで侵食経路を監視して」
「母さん一人で、MAGIと第十一使徒の両方を見るつもり?」
「それができるから言っているの」
それが決して虚勢でないことを、リツコは誰よりも理解していた。MAGIについて、ナオコ以上に理解している者はいない。現在の構造も、積み重ねられた改修も、三基が判断を下す際に生じる僅かな癖まで、母は知り尽くしている。
今の自分では、その領域に届かない。悔しいが、それを否定して足を引っ張るほど子供でもなかった。だからこそリツコは、母の能力ではなく、一人で向かうという判断の方へ言葉を向ける。
「母さんが倒れた時、続きをできる人間が必要でしょう」
ナオコが振り返る。
「縁起でもないことを言わないで」
「一人で全部できることと、一人で全部やることは違うわ」
しばらく母娘の視線がぶつかる。警報が鳴り続ける発令所で、その僅かな沈黙だけが妙に長く感じられた。先に視線を逸らしたのはナオコだった。
「……私の指示には従いなさい」
「分かってる」
「それと、危険だと思ったら戻りなさい。私を置いてでも」
「母さんは戻らないのに?」
ナオコは答えなかった。
ナオコは端末を握ったまま、返す言葉を見つけられなかった。MAGIを失う光景よりも先に、隣を歩く娘の姿が消える光景を想像してしまい、掌に滲んだ汗で端末の縁が僅かに滑る。
リツコは答えを待たなかった。ここで問答を続けている時間などないことは、母も自分も分かっている。母の半歩後ろへ並ぶと、閉じかけた隔壁の先へ一緒に足を踏み入れた。
――
MAGIの内部へ入るたび、ナオコは巨大な生き物の腹へ呑み込まれるような感覚を覚える。壁を覆う培養管は臓器に似ており、その間を走る配線は赤い非常灯を受けて血管のように浮かび上がっていた。規則的な作動音が足元から身体へ伝わり、まるで巨大な心臓が何処かで脈打っているかのようであった。
本部の生命維持も、都市の迎撃設備も、施設そのものの自爆さえも、この三基の判断へ結びついている。三賢者の名とその役割を与えたのは自分だった。それでも、職員がMAGIの結論を神託のように口にするたび、ナオコは居心地の悪さを覚えた。
しかし、中にいるのは神などではない。自分だ。科学者としての自分、母としての自分、女としての自分。その三つの人格を分け、思考の基礎として組み込んだのは他ならぬナオコ自身である。
三つに分けたからといって、それらを同じ重さで抱えて生きてきたわけではない。研究者であることを何より優先し、碇ゲンドウに惹かれてからは、女であることさえ母であることより先に選んだ。それでも母親としての自分まで捨てた覚えはなかった。捨ててはいない。ただ、いつも後に回した。今日の仕事が終わってから。次の結果が出てから。そうして先へ延ばすうちに、娘は自分の手を借りずとも歩ける年齢になっていた。
かつてナオコは、自分という人間を三つの側面へ分け、MAGIへ移した。だが今もここで働き続ける彼女にとって、MAGIは過去の遺物でも、置き去りにした分身でもない。
毎日状態を確かめ、必要ならば手を加え、失敗を修正し続けてきた現在の仕事そのものだった。自分を写して作った以上、正しさだけで出来ているはずがない。どこで迷い、何を選びたがるのか。自分自身の欠点を覗き込むようで愉快なものではなかったが、それらを含めてナオコには手に取るように分かった。
「MELCHIORへの侵入を確認!」
通信機からマヤの声が響く。
ナオコは足を止めず、脇の端末へ数列を入力した。
「隔離層を三段閉鎖。BALTHASARとCASPERの相互参照を一時停止」
『停止しました。ですが、MELCHIORが自爆を提議!』
発令所の主モニターに、赤い文字が浮かび上がる。
自律自爆決議。
MELCHIOR、賛成。
自爆が成立するには、残るBALTHASARとCASPERも賛成し、三基すべての判断が揃わなければならない。どれか一基でも否決を維持する限り、MAGI自身の決議によって本部が破棄されることはない。
『爆破管制室へ保安部と施設管理班を向かわせる。冬月、物理封鎖の指揮を執れ。葛城三佐は避難を継続。赤木博士、MAGIは任せる』
ゲンドウの声は、警報に埋もれながらも途切れなかった。司令席から全体の指揮を執り、発令所に残る判断をしたのだとナオコは受け取った。
「了解」
ナオコは短く答え、さらに深部へ進んだ。
――
リツコの端末では、第十一使徒の侵食域が絶えず形を変えていた。回線を閉じれば迂回し、信号を遮断すれば自らMAGIの形式に合わせた命令を作り出す。偽の情報を流しても、それを見分ける規則をすぐさま獲得した。こちらが対策を講じるたび、その変化は目に見えて速くなっていく。
母が打ち込んだ妨害処理は、数秒後には通用しなくなった。失敗した命令の履歴が画面の隅へ積み上がり、その一つ一つが相手へ新しい逃げ道を教えた証拠に見えた。
それでも、ナオコの横顔からはいつの間にか焦りが消えていた。リツコには、母が何かを見つけた時の顔だと分かった。
「そういうこと」
「何が分かったの?」
隣の端末へ着いたリツコが尋ねる。
「第十一使徒は、攻撃を防いでいるんじゃない。攻撃された環境で生き残った個体が、次の形を作っている。止めようとするほど、選択肢を与えているのよ」
ナオコは第十一使徒の変化速度を三基のMAGIへ並列計算させた。モニターへ予測された形質が無数の枝となって広がっていく。次の一手を塞いだところで、その枝を別の方向へ伸ばすに過ぎない。リツコにも、母が何を見つけたのかが少しずつ見え始めた。
「なら、もう止めない」
「まさか、進化を加速させるつもり?」
「環境への適応には限界がある。あらゆる可能性へ同時に適応させれば、自分が何であるべきかを選べなくなる」
ナオコがMAGIの仮想環境領域を開く。リツコの画面にも、高熱と極低温、通電と絶縁、急速な増殖を求める環境と、それを拒む環境が並べられた。互いに両立しない生存条件を実測値に偽装し、侵食された回線へ流し込むつもりなのだろう。
第十一使徒がこちらの命令を理解する必要はない。周囲の環境が変わったと誤認し、自ら適応を始めさえすれば良い。しかし偽装を見破られれば、こちらは今までになかった形質を敵へ与えるだけになる。人類を救うための処理が、より強大な敵を作り出すかもしれない。その危険性を理解した瞬間、リツコの指先が冷たくなった。
「失敗すれば、今より手のつけられないものを作ることになるわ」
リツコの指摘に、ナオコは頷いた。
「ええ。だから、私の見落としを拾う人間が必要なの」
ナオコの指が高速でキーを叩き、仮想環境を送り込むための基本構造が見る間に組み上がっていく。リツコはその画面を追うだけで精一杯だった。母は迷っていない。第十一使徒とMAGI、二つの変化を同時に読み、その先へ処理を置いている。
同じ研究者として悔しさがないわけではない。いつかは追いつきたいと、これまで何度思ったか分からない。しかし今は、母と競っている場合ではなかった。リツコは画面から余計な感情を切り離すように一度目を閉じ、改めてナオコへ向き直った。
「私は何をすればいい?」
「第十一使徒の変化を分類して。生存に有利なものと、そうでないもの。私が作る命令へ優先順位を付けるの」
「分かった」
リツコは別の端末を開いた。
第十一使徒が生み出す膨大な変化を切り分け、母のプログラムへ送り込む。一つ判断を誤れば、第十一使徒へ新しい力を与えることになる。それでもナオコは振り返らず、娘が正しく処理することを当然とするように次の段階へ進んでいく。その背中を見たリツコの指から、先ほどまでの震えは消えていた。
――
BALTHASARへの侵食が始まった。
自爆決議の表示に、二つ目の賛否判定が明滅する。
MELCHIORの賛成だけでは、自爆は実行されない。BALTHASARが賛成へ転じても、最後にCASPERの同意が必要となる。しかし第十一使徒が二基目の判断を奪えば、残された一基へ侵入するための経路も、それを阻むための時間も急速に失われていく。
「自爆回路、物理ロックまで三分!」
日向の報告が届く。
「間に合わないわ」
ナオコは完成直前のプログラムを確認した。
第十一使徒へ接触できる経路が、次々と閉じられていく。
「第三経路を開いて」
「もう開いてあるわ」
リツコが答えた。
ナオコが初めて娘を見る。しかしリツコは画面から目を離さず、既にその先へ続く処理を進めていた。
「次は第七経路を囮にするんでしょう。そっちへ第十一使徒を集めて、第三からプログラムを入れる」
「……そうよ」
娘が自分へ追いついたわけではない。だが少なくとも今、同じものを見て、同じ方向へ手を伸ばしている。その事実は、ナオコが思っていた以上に心強いものだった。
ナオコはプログラムを第三経路へ接続した。
「最終入力は二系統から同時に行う。少しでもずれれば第十一使徒に気づかれる」
二つの相反する環境が同時に届かなければ、先に届いた一方へ適応する時間を与えてしまう。コンマ以下のずれすら許されないことを理解したリツコは、母の入力速度を画面の端へ表示し、自分の呼吸をその周期へ合わせていく。
「私が合わせる」
「できるの?」
「誰の娘だと思ってるの」
普段であれば、生意気なことを言うなと返しただろう。しかし今は、その言葉を頼もしいと感じた自分を隠すように、ナオコは僅かに口元を緩めるだけに留めた。
「三、二、一――入力」
二人の指が同時にキーを押した。
――
偽装された環境情報を受け取った第十一使徒は、爆発的な変化を始めた。耐熱性を獲得した直後に低温へ適応し、電気を通す組織を作った傍らで、それを遮断する組織まで生み出していく。増殖を速めながら、自らを分解する命令すら取り込み、相反する形質が同じ群体の中で衝突したことで、統一されていた構造は急速に崩れ始めた。
『第十一使徒、形状を維持できません!』
マヤの声が震える。
BALTHASARの自爆判定が、賛成へ傾く。
続いてCASPERの判定欄が明滅し、最後まで残っていた否決の文字が赤く侵食されていく。三基すべての賛成が揃うまで、残り一秒。
誰もが表示を見つめる中、賛成へ傾いていたCASPERの文字が不意に停止した。
次の瞬間、MELCHIORを覆っていた侵食反応が一斉に消失し、自爆決議の文字が否決へと切り替わった。
発令所に表示された文字を見ても、誰もすぐには声を上げなかった。あまりにも静かな決着に、その場の誰もが本当に終わったのかを疑っているようであった。何度も計器を確認し、使徒反応が完全に消えたことを確かめたマヤが、ようやく詰めていた息を吐く。
「目標、消滅。MAGI三基、制御を回復しました」
その報告を聞いたミサトは、司令席へ深く身体を預けた。
「……勝ったのね」
エヴァは一歩も動いておらず、銃声も爆発もなかった。それでも確かに、人類は第十一使徒との戦いに勝ったのだ。ようやくその実感が発令所へ広がり、張り詰めていた空気が少しずつ解けていった。
――
隔離が解除され、シンジ達が医療区画から出された頃には、本部の時計は深夜を回っていた。
「結局、アタシ達は何にもしてないじゃない」
アスカは不満そうに腕を組んだ。自分達のすぐ近くで戦いが行われていたというのに、何一つ手を出せなかったことが余程気に入らないらしい。
「何もしなかったから、感染しなかった」
レイが答える。
「そういう意味じゃないわよ」
「今日は、リッちゃん達が戦った」
レイはMAGIへ続く通路を見つめた。
シンジもレイにつられるように同じ方向を見る。いつも自分達がエヴァへ乗る時、大人達は発令所や観測室から支えてくれている。しかし今日は、その立場が逆だった。何も出来ない怖さを抱えたまま、戻ってくると信じて待つことしか出来なかったのだ。
「僕達だけが、戦ってるわけじゃないんだね」
「当たり前よ」
ミサトが後ろから声を掛けた。
疲れた顔をしていたが、その足取りはしっかりしている。
「エヴァに乗る人、直す人、作戦を考える人、避難させる人。誰か一人でも欠けたら、帰ってこられないの」
シンジは静かに頷き、父が進路相談で言った言葉を思い出す。エヴァへ乗ることは、今だけ背負わせている役目。その役目でさえ、自分一人で背負っているものではなく、名前も知らない多くの人達に支えられている。
職業欄へ何を書くのかは、まだ分からない。それでも、エヴァのパイロットという一つの言葉だけでは書き表せないものがあることを、今日のシンジは知っていた。
――
MAGIの復旧作業は、翌朝になっても続いていた。
第十一使徒に侵食された領域は切り離され、三基の生体コンピューターは一つずつ機能を確認されている。ナオコは戦闘が終わってから一度も端末の前を離れず、その隣ではリツコが新しい記録媒体を交換していた。
「もう休みなさい」
ナオコが画面を見たまま言った。
「母さんこそ」
「ここからは私一人で直せるわ」
「ええ。知ってる」
リツコは母の言葉を聞きながらも作業を止めなかった。自分が残っていたところで、母一人でも復旧は出来る。その点について疑うつもりはない。
「なら、どうして残っているの?」
「一人で直せることと、一人で直さなきゃいけないことは違うでしょう」
ナオコの手が、交換したばかりの記録媒体の上で止まる。三基すべての自爆決議が揃うまで、あと一秒まで迫った瞬間を思い出したのかもしれない。リツコには、その指先が僅かに強張ったように見えた。
第十一使徒の侵食が始まってから、母は最後まで恐怖など感じていないように振る舞っていた。しかし、こうして隣に立ってみれば違う。作業着の袖口には乾いた汗の跡が残り、端末を操作する指にも隠しきれない疲労が滲んでいる。恐ろしくなかったのではない。恐れている時間すら惜しんで、動き続けていただけなのだろう。
それでもナオコは、復旧中の三基を見上げると再び手を動かした。理解出来ないものを前に退くのではなく、その仕組みを探し、触れ、確かめようとする。MAGIを造った時から変わらない母の習性を、リツコは誰より近くで見てきた。おそらく相手が何であろうと、この人は同じように手を伸ばすに違いない。
「神様にだって、仕組みがあると言い出しそうね」
リツコが零すと、ナオコは画面から目を離さなかった。
「あるのなら調べるわ」
あまりにも予想どおりの返事に、リツコは呆れたように小さく息を吐き、自分の端末へ向き直った。だが、その口元には本人も気づかないほど僅かな笑みが浮かんでいた。
幼い頃から、母は何でも一人で出来た。そして出来ることを理由に、本当に一人でやろうとする人でもあった。リツコがその背中を追いかけるほど、母は仕事の奥へと遠ざかっていく。そんな距離を、これまで何度感じてきたことだろう。
母に愛されていなかったとは思わない。熱を出せば不器用な手つきで額に触れ、研究所へ戻る前には、祖母へ何度も薬の時間を念押しした。けれど、最後まで枕元にいたのは祖母だった。母の愛情は確かにそこにありながら、いつも仕事へ連れ去られた。
ふと、レイの顔が浮かぶ。
寂しいとは言わず、与えられた部屋と食事を当然のように受け取り、大人が帰らない夜にも静かに一人でいようとする少女。その姿に腹が立つほど目を離せない理由を、リツコは考えないようにしてきた。幼い自分と似ているなどと認めれば、同時に、自分もまた母と同じように研究を理由としてあの子を待たせていると認めなければならない。
だからせめて、帰れる時には帰ろうと思う。母にしてほしかったことを全て出来るとは思わない。それでも、出来なかった母を責めるだけで終わるよりはましだった。
だが今は、同じ机の端が手の届くところにある。追いついたわけではない。それでも、同じ仕事を隣で続けることは出来る。
「そこの検査をお願い」
ナオコは隣の端末へ、新しい作業領域を開いた。
「了解」
リツコが椅子を寄せる。
MELCHIOR。
BALTHASAR。
CASPER。
三つの表示が、一つずつ青い光を取り戻していく。
三つの表示を見上げるナオコの横顔から赤い警告灯の名残が消え、代わりに朝の白い光が差し込む。やがて母の手から、次の確認項目がリツコの端末へ送られてきた。短い指示の末尾には、いつもならば付くことのない一言が添えられている。
――任せるわ。
リツコはその文字を暫く見つめた後、返事を打ち込む代わりに処理済みの表示を一つ返した。隣では、もうナオコが次の作業を始めている。感傷に浸る暇すら与えてくれないところまで、実に母らしい。
朝を告げる照明が、静かな制御室を満たし始めていた。