朝の教室で、シンジは机の上に広げた進路希望調査票を見つめていた。
父を交えた進路相談を終えてから数日。提出期限を過ぎても空白だった職業欄は、未だ白いままである。しかし、以前のように何も思いつかないから書けずにいるわけではなかった。
エヴァのパイロットは、今だけ背負わせている役目。
父からそう言われた時は嬉しかった。それと同時に、エヴァへ乗らなくなった自分には何が残るのだろうという不安も生まれた。だが、その不安に押されて適当な答えを書いたところで、それが自分の将来になるわけではない。
シンジは意を決し、職業欄へ二文字を書き込んだ。
未定。
書き終えてみれば、随分と頼りない答えに見える。何も決められないまま空白にしておくことと、自分にはまだ決められないのだと認めて書くことの間に、どれほどの違いがあるのかは分からない。それでも、何も書かれていなかった時とは違い、その二文字は今の自分が考え、逃げずに選んだ言葉だった。
進学希望の欄には、市内高校への進学と記入した。具体的に何処へ進むのかは、これから成績や父とも相談して決めることになるだろう。それでも、今いる友人達と同じ街で、もう少し学校へ通ってみたいという気持ちに嘘はなかった。
「ようやく書いたのか、碇」
隣から調査票を覗き込んできたケンスケに、シンジは紙を隠さず見せた。以前であれば、自分に答えがないことを知られるのが恥ずかしく、すぐに裏返していただろう。そんな僅かな違いに本人は気づいていなかったが、長く付き合ってきた友人には分かったらしい。
「未定か。まあ、碇らしいと言えば碇らしいな」
「どういう意味だよ」
「慎重という意味だよ。僕は映像か報道関係。出来れば世界中を飛び回れる仕事がいい」
ケンスケの用紙には、進学先から希望職種まで細かな文字が埋め尽くされていた。彼の場合、慎重という言葉より、調べ始めたら止まらなくなった結果であろう。
「ワシは当然、医者や」
反対側からトウジが胸を張る。ただし机の隅には、先日返却された試験答案が裏返しで置かれている。赤い数字を見られまいと隠しているようだが、その答案を返された時の絶叫は教室中に響いていたため、今さら隠す意味はあまりなかった。
「その前に、進学できる成績を取らないとね」
「ケンスケ、朝から現実を突きつけるんは止めぇ」
項垂れるトウジを横目に、シンジは少し離れた席へ視線を向ける。そこではレイが、同じように調査票を机へ置いていた。
「綾波は、結局どうしたの?」
問われたレイは用紙を持ち上げ、シンジ達へ見せる。職業欄には、シンジと同じ二文字が書かれていた。
「未定」
「ケーキ屋さんは?」
「リッちゃんと話した。ケーキの作り方も、お店の始め方も知らないから、今は進路に出来ない」
諦めたのかと思ったが、レイの声に落胆した様子はない。知らないから、これから知る。彼女にとって未定とは、そういう意味なのかもしれなかった。
「二人して同じ答えなんて、少しは自分で考えなさいよ」
呆れた声と共にアスカが割り込んでくる。彼女の調査票には進学希望と書かれていた。綺麗な文字で埋められた紙は、シンジ達のものより数段立派に見える。
「でも惣流、大学まで卒業してるんだろ」
ケンスケが用紙を覗き込み、不思議そうに尋ねた。
「海外のけったいな大学を出たのに、日本でも進学するんか?」
「大学を一つ出たら、もう勉強しちゃいけないわけ? 学びたい分野が決まれば、日本の大学でも大学院でも行くわよ」
「それなら、今の学校へ通わなくてもええんとちゃうか」
トウジのもっともな疑問に、アスカの視線が一瞬だけシンジ達の方へ動いた。
「日本の学校がどんなものか知っておいて損はないでしょ。それに、弐号機の仕事だけしてたら息が詰まるのよ」
それだけ言うと、アスカは調査票を胸元へ引き戻した。ここにいる理由を、それ以上説明するつもりはないらしい。
「考えたから、今は未定なんだよ」
「それを開き直りって言うのよ、バカシンジ」
「私も考えた」
「レイまで真顔で便乗しないで!」
朝から騒がしくなった一角へ、出席簿を抱えた担任が入ってくる。提出するなら早く持ってこいと急かされ、シンジとレイは揃って教卓へ用紙を差し出した。
担任は二枚を順番に確認し、同じところで一度ずつ眉を上げた。
「二人とも未定か。まあ、空欄のまま出すよりは進歩だな。高校へ行ってから見つかることもある。今はこれで受け取っておく」
調査票は他の生徒の用紙と重ねられた。散々悩んだ割には、終わってみれば随分とあっさりしたものである。
席へ戻る途中、シンジは教卓に積まれた紙の束を振り返った。職業欄へ何を書くのかは決まらなかった。それでも、決められない自分を隠すための空白は、もう残っていない。
――
光の届かぬ暗い会議室に、十二枚の黒い石板が浮かび上がっていた。
人類補完委員会。
表向きには国連直属の特務機関ネルフを監督し、対使徒戦を遂行するために各国の意思を統一する組織である。しかし、その実態が秘密結社ゼーレの老人達によって支配されていることを、中央に立つゲンドウは誰よりも理解していた。
『第十一使徒によるMAGIへの侵入を許した事実は、看過できるものではない』
石板の一つから、老人の声が響く。
「第十一使徒は、通常の警戒網では検出できない状態で搬入資材へ付着していた可能性が高い。侵入経路については引き続き調査中だ」
『原因の説明を求めているのではない。再発を防げと言っているのだ』
無理を言うものだと内心で思いながら、ゲンドウは表情を変えなかった。未知の性質を持つ敵に対し、絶対の侵入防止策など存在しない。もし存在するというのなら、そもそもエヴァなど必要ないだろう。
「既に受入検査の基準を改訂し、MAGI中枢へ通じる回線も再構成している」
『そのMAGIを救ったのが、赤木ナオコ博士であったな』
石板に浮かぶ文字が僅かに明滅する。老人達にとって、ナオコの存在は喜ぶべきものではない。第十一使徒を退けた実績を否定することはできないが、彼女が現場に残る限り、MAGIはゼーレの命令だけを聞く神託の装置にはならない。
「赤木博士がいなければ、MAGIは失われていた」
『故に危険なのだ。一人の人間へ依存する機構は、完全とは呼べぬ』
「完全な機構など存在しない。少なくとも、現状で彼女を外すことに合理性はない」
返答すると、会議室を短い沈黙が満たした。彼らが欲しいのは合理性ではなく、自分達の都合に従う人間である。しかし、それを正面から口にするほど老人達も愚かではない。
やがて別の石板から、話題を変えるように声が上がった。
『三体のエヴァと、三名の適格者。運用は当初の想定を超えて安定しているようだな』
『第九使徒戦における初号機の独断。停電下での三機による帰還。第十使徒戦では、司令と副司令の不在にもかかわらず、現場の判断のみで殲滅を完遂している』
『葛城ミサトへ与えた権限も、予定されたものを超えている』
勝利を重ねたことを褒めているのではない。ゲンドウがいなくても動けるネルフが形になりつつあることを、彼らは警戒しているのだ。
「使徒は、こちらの都合に合わせて現れるわけではない。私と冬月が不在でも対処できる指揮系統は必要だ」
『そして適格者達もまた、予定された以上の関係を築きつつある』
ゲンドウは僅かに目を細めた。
ゼーレがパイロット達の私生活を逐一監視しているわけではない。しかし、戦闘記録を見れば三人の変化は分かる。互いに反発しながらも、危険に陥れば迷わず手を伸ばす。命令だけで動く道具にするには、彼らはあまりにも人間らしくなり過ぎていた。
『個の結び付きは、いずれ個を捨てる際の苦痛となる』
「人との結び付きすら持たぬ者に、エヴァは扱えん」
前世界の自分なら、決して口にはしなかっただろう。そもそも、そう考えることさえなかったに違いない。
『碇。君自身もまた、変わったようだ』
中央に浮かぶ石板、キール・ローレンツの声が他の者達を黙らせる。
『人の情によって、定められた道を外れてはならぬ』
「結果は全て予定の範囲内だ」
『ならばよい。だが忘れるな。君自身もまた、計画の一部であることを』
続いて確認されたのは、南極から海路で移送されているロンギヌスの槍についてであった。
槍は巨大な特殊シートに包まれ、空母の飛行甲板へ厳重に固定されている。その空母を中心に護衛の巡洋艦群が陣形を組み、時間をかけて日本へ向かっていた。あれほど巨大かつ特殊な物体を空輸するなど、初めから現実的ではない。
ゲンドウは対使徒戦における予備兵装として管理すると報告した。ゼーレも、あの槍が単なる武器でないことは理解している。しかし互いに本当の用途へ触れることはなく、形式的な確認だけで議題は閉じられた。
十二枚の石板が一つずつ闇へ消え、最後にキールの声だけが残る。
『魂は、定められた座へ還らねばならぬ。シナリオを違えるな、碇』
通信が切断され、会議室に本当の暗闇が戻った。
ゲンドウはすぐには席を立たなかった。
使徒の出現順も、その能力も、大筋では前世界の記憶をなぞっている。だが、人間は既に同じ道を歩んでいない。
ナオコは生きている。レイは最初の一人がそのまま成長し、リツコ達との間に関係を築いている。アスカとシンジも、前世界では得られなかった互いへの理解を持ち始めた。そして自分自身も、かつてと同じ選択をするつもりはない。
未来を知っているという優位は、変化が積み重なるほど失われていく。
それでも、失われていくことを惜しいとは思わなかった。かつてと同じ未来へ辿り着かないために、自分はここにいるのだから。
会議室の扉が開き、冬月が顔を覗かせる。
「随分と長い査問だったようだな」
「ああ」
「老人達も、お前が予定どおりに動かんので不安なのではないか?」
ゲンドウは立ち上がり、冬月の隣を通り過ぎる。
「だろうな」
否定しない返答に、冬月は呆れたように溜息を吐き、その後を追った。
――
夜になっても、レイの机には進路希望調査票の控えが置かれていた。
職業欄に書かれた未定という二文字を、椅子に座ったまま見つめる。
シンジも同じ言葉を書いていた。しかし、同じ文字であっても、その内側にあるものまで同じとは限らない。
シンジには父がいる。トウジやケンスケがいる。アスカと喧嘩をしながら、明日も同じ教室へ行くことを当たり前に思っている。
自分にもリッちゃんがいる。ナオコがいる。学校へ行けば話しかけてくる人達がいる。ケーキを作ってみたいと思った気持ちも、嘘ではない。
それなのに、過去へ向けて記憶を辿ろうとすると、何処かに形の曖昧な場所があった。
幼い頃のリッちゃん。初めて作ってもらった、焦げたパンケーキ。零号機の起動実験。機体が言うことを聞かなくなり、落下したエントリープラグの中で聞いた、自分を呼ぶ声。
それらは確かに自分の記憶である。
だが、もっと前は。
自分は何処から来たのか。誰に生まれ、どうして綾波レイとしてここにいるのか。
考えようとすると、自分の形が水へ溶けるように曖昧になる。鏡の中にいる少女が、自分ではない誰かの姿を借りているようにさえ感じられた。
レイは自分の手を持ち上げる。
白い指。薄い掌。学校でペンを握り、零号機の操縦桿を握る手。
これは自分のもの。
そう思っても、誰へ確認すれば正しいと分かるのか分からない。
机の上の用紙へ、再び視線を落とす。
未定。
未来が決まっていないという意味なのか。
それとも、自分が何者なのかさえ決まっていないという意味なのか。
答えは出ない。
廊下の向こうから、そろそろ休むようにとリツコの声が聞こえた。レイは返事をして用紙を伏せると、明日の試験に備えてベッドへ入った。
――
翌日、ネルフ本部第二実験場には、初号機、零号機、弐号機の三機が並べられていた。
今回行われるのは、エヴァとパイロットの相互互換試験である。
三機による運用が定着した現在、いずれかの機体、あるいはパイロットが出撃不能となった場合を想定し、異なる組み合わせでどこまで稼働できるかを確認する必要があった。第十使徒戦では三機が揃ったからこそ勝利できたが、これからも必ず同じ条件で戦える保証はない。
もっとも、試験へ参加する全員がその意義に納得しているわけではなかった。
「どうしてアタシだけ、いつもの弐号機なのよ」
更衣室から実験区画へ続く通路で、アスカは先ほどから何度目になるか分からない不満を口にしていた。
今日、初号機へ乗るのはレイ。零号機にはシンジが乗り込み、アスカだけが普段と変わらず弐号機へ搭乗する。三人の中で自分だけが比較対象に回されたことが、彼女には仲間外れのように感じられるらしい。
『弐号機のコアとあなたの結び付きは他の二機より強いの。現段階で、別のパイロットを搭乗させる危険を冒す必要はないわ』
通路の通信機から、リツコの声が返ってくる。
「つまり、弐号機はアタシ以外じゃ動かせないってことでしょ」
『随分と都合よく解釈したわね』
「事実じゃない」
先ほどまで不満を露わにしていたというのに、専用機であることを認められた途端、アスカは満足そうに胸を張った。気持ちの切り替えが早いというより、自分に都合のよい部分だけを拾い上げる能力に長けているのであろう。
「碇君」
隣を歩くレイから呼ばれ、シンジは零号機を見上げたまま顔を向ける。
「何?」
「不安?」
言い当てられ、シンジはすぐに否定できなかった。
零号機が過去の起動実験で暴走したことは知っている。その時にレイが負傷し、長く治療を受けていたことも。今は既に安定していると聞かされても、自分が乗った時にも同じであるとは限らない。
「少し。でも、綾波は初号機に乗るの、怖くないの?」
「分からない。まだ乗っていないから」
相変わらず正直な答えだった。シンジは思わず小さく笑い、それにつられたのかレイの口元も僅かに緩む。
「零号機は、今は安定している」
「うん。信じるよ」
それが零号機を指した言葉なのか、レイを指した言葉なのか。口にしたシンジ自身にも分からなかったが、少なくとも先ほどよりは肩の力が抜けていた。
――
観測室では、ナオコが三機の状態と独立回線の接続を確認していた。
第十一使徒戦で侵食されたMAGIは復旧している。しかし今回の試験系統は本部中枢から切り離され、万一エヴァ側から異常な信号が発生しても、MAGIまで到達しないよう再構成されていた。
相互互換試験そのものは、第十一使徒の侵入以前から予定されていた。従って今回の試験と先の事件に直接の関係はない。それでも、得られた教訓を安全対策へ反映しない理由もなかった。
「三機の独立回線、接続完了しました。MAGI中枢との物理遮断も確認」
マヤの報告に、ナオコは一つずつ表示を確かめてから頷いた。
「初号機は私が見る。リツコ、あなたは零号機とシンジ君の接続を担当して」
「分かったわ」
リツコは担当端末へ零号機の過去の記録を呼び出した。
以前の起動実験で起きた暴走。あの時はレイと零号機の相互リンクに齟齬が生じ、機体が外部命令を拒絶した。原因となった部分は何度も修正され、現在まで同じ異常は起きていない。
しかし、今回はパイロットそのものが異なる。
「数値が基準を外れたら、理由を探す前に接続を切りなさい」
ナオコが画面を見たまま言う。
「分かってる」
「分かっていても、研究者は結果を見たがるものよ」
「母さんにだけは言われたくないわ」
思わず返すと、ナオコは否定せず片方の眉を上げた。自覚はあるらしい。
「だから言っているの。私と同じ失敗をする必要はないでしょう」
そこまで言われれば、リツコも返す言葉はなかった。
今回の試験はダミープラグの開発とは直接関係していない。現在研究されているダミーシステムは、特定のパイロットの人格を複製するものではなく、ナオコが設計したMAGI主体の思考アルゴリズムによって構築されている。今日確認するのは、あくまでも生身の人間と、異なるコアとの互換性であった。
観測室の後方には、ゲンドウと冬月、ミサトが並んでいる。
以前の零号機起動実験を知る者達の表情には、通常の試験よりも僅かに強い緊張があった。特にゲンドウは、零号機の中にいるシンジを映す画面から一度も視線を外していない。
ナオコは三人のパイロットの生命反応を最後に確認し、試験開始を告げた。
「第一段階開始。シンクロ深度は最低値から。各担当、異常があれば私の指示を待たずに報告して」
観測室に確認の声が重なり、三機への接続が始まった。
――
初号機の中は、温かかった。
LCLの温度とは違う。機体との接続が進み、巨大な四肢の感覚が自分の身体へ重なった時、レイは自分を包み込む何かの存在を感じた。
零号機の中では、自分の声が何度も反響する。
自分と機体の境界が近づくほど、何処までが綾波レイで、何処からが零号機なのか分からなくなる。以前の暴走事故では、それが恐怖となって自分を押し潰した。
だが、初号機の中にあるものは自分ではない。
こちらを拒んではいない。それでも、自分を見ているわけでもなかった。
誰かを待っている。
レイは目を閉じ、流れ込んでくる感覚へ意識を向ける。
紫色の巨人。その胸の奥にある温かさ。その中心へ近づこうとすると、シンジの顔が浮かんだ。
自分が思い出したのではない。
初号機の中にいる何かが、シンジを知っている。
自分よりも前から。
自分よりも、ずっと深く。
胸の奥が僅かに痛んだ。何故そう感じるのか分からず、レイはその感情へ触れようとする。
羨ましい。
言葉にすれば、それが最も近かった。
誰かに待たれるということ。理由を問われるよりも前から、その存在を受け入れられていること。
昨日までの自分なら、何故そんなものを羨ましいと思うのか理解できなかっただろう。しかし今のレイには、机の上へ伏せた進路希望調査票が思い浮かんだ。
未来があるから、誰かを待つことができる。
誰かが待っているから、そこへ帰ろうと思うことができる。
『レイ、聞こえる?』
ナオコの声によって、レイの意識が観測室へ引き戻された。
「はい」
『気分はどう?』
レイは返答を考え、初号機の内側に残る温かさへもう一度触れる。
「問題ありません。初号機は、私を拒絶していない」
言葉にした後で、それだけでは足りないように思えた。
「でも、私を待っていたのではないと思います」
観測室からすぐに返事はなかった。
――
零号機との接続が始まった時、シンジが最初に感じたものはレイの気配だった。
静かな声。感情を表へ出さない顔。焦げたパンケーキの話をした時に、僅かに笑った口元。学校からネルフへ向かう道を、何も言わず隣で歩く姿。
どれも自分が知っている綾波レイである。
他人の記憶を勝手に覗いているようで居心地が悪く、シンジは意識を遠ざけようとした。しかし同期が深くなるにつれ、知っているレイの姿は薄くなり、その奥から別の感情が浮かび上がってくる。
寂しい。
誰かに見つけてほしい。
自分が何者なのか分からない。
それはレイの感情に見えた。だが、普段の彼女よりもずっと幼く、言葉を覚える以前の子供が泣いているようでもあった。
「綾波?」
呼びかけても返事はない。
代わりに、自分の記憶が零号機の内側へ広がっていく。
先生の家へ預けられた日の玄関。父の服へしがみつき、いらないのかと泣いた幼い自分。毎年の墓参り。迎えに来てくれる日を待ち続けた時間。
必要だと言ってほしかった。
見つけてほしかった。
零号機の中にある寂しさと、自分の中に残っている寂しさが重なる。
似ている。
そう思った瞬間、自分と機体の境界が大きく揺れた。
『シンジ君、聞こえる?』
リツコの声が、遠くから聞こえる。
返事をしようとしたが、口が上手く動かない。自分の身体が何処にあるのか分からなかった。指を動かしたつもりで零号機の手が震え、息を吸おうとすると機体の胸部装甲が軋む。
『シンジ君、返事をして!』
自分を呼んでいる。
帰らなければならない。
そう考えているのに、零号機の中に残るものがシンジの記憶を掴んで離さない。
それが自分を拒んでいるのか、それとも一人になりたくないと引き止めているのか、シンジには分からなかった。
――
「零号機、パーソナルデータに混線! シンクロ率ではありません、機体側からシンジ君へ情報が逆流しています!」
マヤの報告とほぼ同時に、リツコの端末が基準値を超えたことを告げる警告音を発した。
零号機とシンジの境界が曖昧になっている。シンジの意識が機体へ広がっているのか、機体に残るものがシンジへ流れ込んでいるのか。どちらが先かを確認している時間はなかった。
「試験中止! 零号機との接続を切って!」
ナオコの声が飛ぶより早く、リツコは緊急切断の操作へ入っていた。
「信号遮断。神経接続を第一段階まで戻します」
入力した命令が零号機へ送られる。しかし、切断を示すはずの表示は切り替わらず、赤い警告がさらに数を増やした。
「拒絶されました!」
マヤの声に、観測室の空気が凍りつく。
実験場に並んでいた零号機の右腕が、不意に拘束具を引いた。巨大な金属の枠が悲鳴を上げ、固定部から火花が飛び散る。
「零号機、活動を開始!」
「電源を落としなさい!」
ナオコの指示を受け、技術員が供給系統を切断する。外部電源が失われたことで機体の表示が内部電源へ切り替わったが、零号機は止まらない。
過去の起動実験と同じ光景。
リツコの脳裏に、床へ叩きつけられたエントリープラグと、その中で負傷したレイの姿が蘇る。あの時とは違う。そう言い聞かせながらも、端末を叩く指に力が入った。
「シンジ君の意識レベル低下! このままでは機体側へ取り込まれる!」
零号機が左腕の拘束も引き千切り、自由になった拳を観測室へ向ける。
誰を見ているのか。
観測室にはナオコも、リツコも、ゲンドウもいる。だが単眼の巨人が何を憎み、何を求めて腕を伸ばしたのか、今のリツコには考える余裕などなかった。
拳が強化防壁へ叩きつけられる。
部屋全体を揺らす轟音と共に、分厚い透明壁へ放射状の亀裂が走った。職員達が悲鳴を上げて端末から離れ、警報がさらに音量を増す。
「全員、後方区画へ退避!」
ミサトが職員を誘導する中、ゲンドウが観測室の出口へ向かった。
「碇、何処へ行く!」
その腕を、冬月が掴む。
「シンジを出す」
「お前が行ってどうする! 今は技術班に任せろ!」
「中にいるのは私の息子だ!」
怒声と共に腕を振り払おうとするゲンドウを、冬月は両手で押さえた。普段の彼であれば、人前でこれほど感情を露わにすることはなかっただろう。だが今は、司令として指揮を執るよりも先に身体が動いていた。
その声を聞きながら、ナオコは緊急排出系統を呼び出す。
かつて零号機が暴走した時、ゲンドウは砕けかけた強化防壁の前から一歩も動かず、排出されたレイの救出を最優先に命じた。あの時のナオコは、彼の目に自分達など映っていないのだと思った。
今も、ゲンドウの目にはシンジしか映っていない。
しかし、それを責める気にはなれなかった。第十一使徒戦でリツコを連れてMAGIの深部へ入った時、自分もまた、娘を失うかもしれないという恐怖に端末を持つ手を滑らせた。
親というものは、随分と理屈に合わない。
「リツコ、プラグ側の独立電源へ切り替えて。機体の排出命令を通さない」
「了解!」
母の指示を受け、リツコが回線を切り替える。零号機からの制御を遮断し、エントリープラグそのものに残された電源から射出機構を作動させる方法である。
「独立電源、接続!」
「射出角を固定。回収拘束具を展開してから排出しなさい」
以前の事故では、排出されたプラグが天井へ衝突し、そのまま床へ落下した。二度と同じ事故を起こさないため、実験場には射出されたプラグを受け止める拘束装置が増設されている。
技術員が回収装置の展開完了を報告する。
ナオコとリツコは互いの画面を一度だけ確認し、同時に最終操作へ入った。
「エントリープラグ、緊急排出!」
零号機背部の装甲が弾け、円筒状のプラグが白煙と共に射出される。天井へ達する前に四方から拘束索が伸び、その機体を空中で受け止めた。
中身を奪われた零号機は、それでも暫く観測室へ拳を振るい続けた。しかし内部電源が尽きるにつれ動きは鈍くなり、最後は強化防壁へ指を食い込ませた姿勢で停止した。
「救護班、プラグを最優先! 零号機の封印はパイロット救出後で構わない!」
ゲンドウの命令が実験場へ響く。
回収装置によって床へ降ろされたプラグへ、救護班が駆け寄っていく。ゲンドウも今度こそ冬月の手を振り切ろうとしたが、ナオコが声を飛ばした。
「司令が行っても邪魔よ! 生命反応はある。そこで指揮を続けなさい!」
あまりにも遠慮のない言葉に、ゲンドウの足が止まる。
冬月は腕を掴んだまま、よく言ったとばかりに頷いた。
「聞こえただろう。お前はここにいろ」
ゲンドウは何かを言い返そうとしたが、プラグのハッチが開き、救護員がシンジの生存を報告したことで口を閉じた。
意識はない。しかし呼吸も心拍も安定しており、命に別状はない。
その報告を聞いたゲンドウは、ようやく冬月に掴まれた腕から力を抜いた。
――
零号機は特殊ベークライトによって再封印され、相互互換試験は無期限の凍結となった。
事故から数時間後、ナオコとリツコは試験記録を何度も見直していた。
零号機が観測室へ向けて拳を振るう映像を停止し、リツコは単眼の向きと、拳が叩きつけられた位置を照合する。
「誰を狙っていたのかしら」
観測室にいた者の位置が、画面上へ表示される。
零号機を造ったナオコ。
試験を担当したリツコ。
エヴァの運用を決定したゲンドウ。
あるいは、自分を外から観測している人間全て。
どれも可能性があり、同時に証拠がない。
「私かもしれない。母さんかもしれない。司令かもしれない。それとも、シンジ君を零号機へ入れた人間を、全員拒絶したのか」
「分からないわ」
隣で記録を追っていたナオコが、あっさりと答えた。
「だから調べているんでしょう」
「違う。分からないという結論を、今は受け入れなさいと言っているの」
リツコは不満を隠さず母を見る。
「原因を特定しなければ、次の試験が出来ないわ」
「次の試験をするために、都合のいい原因を選んでは駄目よ」
ナオコの言葉に、リツコは再び映像へ目を戻した。
第十一使徒戦で、母は理解できないものにも仕組みがあると言った。だからこそ、何も分からない状態へ耐えられるのだろう。仕組みが存在することと、今すぐ自分達が理解できることは別である。
「零号機の中に残っていたパーソナルデータは?」
「レイのものと一致する部分はある。でも、完全ではないわ。以前の起動実験で刻まれた反応と、零号機自身の信号が混ざっている。どこまでがレイで、どこからが機体に宿るものなのか、今のデータだけでは切り分けられない」
リツコの知るレイは、幼い頃から今まで同じ時間を生きてきた一人の少女である。零号機の中に、死亡した別のレイが存在するなどという考えには根拠がない。それでも、機体の中に彼女とよく似た何らかの残響があることまで否定はできなかった。
リツコは映像を閉じる。
「互換試験は凍結ね」
「ええ。少なくとも、私達が分からないものを分かったつもりになる癖を直すまでは」
「それ、何年かかるのかしら」
「科学者を辞めるまでじゃない?」
冗談とも本気ともつかない母の返答に、リツコは深く溜息を吐いた。
――
事故報告書へ一通り目を通したゲンドウは、端末を閉じて立ち上がった。
シンジはネルフ付属病院へ運ばれ、現在も眠っている。神経接続による強い疲労と一時的な意識混濁はあるものの、身体に大きな損傷はない。何度報告を読み返しても内容は変わらないが、文字だけでは息子が無事であるという実感を得られなかった。
「病院へ行くのか」
執務室の扉の近くに立っていた冬月が尋ねる。
「ああ」
「その前に一つだけ言っておく」
ゲンドウが顔を向けると、冬月は先ほど掴んでいた腕を示した。
「指揮官が真っ先に現場へ飛び出してどうする。お前まで巻き込まれれば、誰が全体を動かすのだ」
「分かっている」
「分かっている人間の動きではなかったぞ」
反論できる言葉はなかった。
零号機が観測室へ拳を振り上げ、シンジの意識が失われつつあると聞いた瞬間、司令として考えるよりも先に身体が動いていた。自分が実験場へ向かったところで、エントリープラグを排出できるわけでも、零号機を止められるわけでもない。それでも、息子が危険な場所にいるのに、安全な観測室で待つことなど出来なかった。
「……分かっては、いる」
自分でも随分と情けない返答だと思ったが、冬月はそれ以上責めなかった。
「次は、せめて私に指揮権を渡してから飛び出せ」
「善処する」
「やらん奴の言葉だな、それは」
冬月の呆れた声を背に、ゲンドウは執務室を出た。
――
病室で目を覚ました時、シンジは自分がまだ零号機の中にいるのだと思った。
白い天井が、実験場の蛋白壁に見える。腕を動かそうとすると僅かな遅れがあり、本当に自分の身体を動かしているのか不安になった。
「シンジ」
聞き慣れた低い声に顔を向ける。
ベッドの傍らにはゲンドウが座っていた。公務用の上着を椅子の背へ掛け、腕を組んだままこちらを見ている。
「父さん……」
声が出たことで、ようやく自分がエントリープラグの外へ戻ったのだと実感した。
「気分はどうだ」
「少し、頭が重い。でも大丈夫」
ゲンドウは枕元の呼出装置へ手を伸ばしかけたが、シンジが慌てて本当に大丈夫だと繰り返したため、その手を止めた。それでも暫く息子の顔を確かめるように見つめている。
「零号機で、何を見た」
問われたシンジは、意識を失う直前の感覚を思い出そうとした。
綾波に似た気配。自分の過去。誰かに見つけてほしいという、何処から来たのか分からない寂しさ。
「綾波がいたような気がする」
「レイが?」
「でも、いつもの綾波とは少し違った。もっと小さい子みたいで、僕と同じように、誰かに見つけてほしがってた」
ゲンドウはすぐには答えなかった。
シンジは、父ならば何か知っているのではないかと思った。しかしサングラスの奥にある目は、答えを隠しているというよりも、同じように考え込んでいるように見えた。
「そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
けれど、分からないことを無理に否定されるよりは良かった。シンジは枕へ頭を戻し、息を吐く。
「父さん、ずっとここにいたの?」
「今来たところだ」
答えた直後、背もたれへ掛けられた上着がずり落ちる。その下から、既に空になったコーヒーの容器が二つ姿を現した。
今来た人間が飲んだ量ではない。
シンジはそれを指摘しようとしたが、父が何事もなかったように容器を机の下へ隠したため、口を閉じた。代わりに小さく笑うと、ゲンドウは気まずそうに顔を逸らした。
病室の扉が控えめに叩かれる。
入ってきたのはレイだった。
「碇君。起きたの」
「うん。今さっき」
レイはベッドの傍まで歩いてくると、そこにゲンドウがいることへ気づき、一度足を止めた。
ゲンドウは椅子から立ち上がり、上着を手に取る。
「私は医師から話を聞いてくる」
先ほどまで長くここにいた事を、最後まで認めるつもりはないらしい。シンジは敢えて追及せず、父を見送った。
扉が閉じると、レイは空いた椅子へ腰を下ろした。
「零号機の中で、私を見たの?」
廊下で話を聞いていたのかもしれない。
「見たっていうより、感じたんだと思う。綾波に似てた。でも、いつもの綾波じゃなかった」
「そう」
レイは自分の手を膝の上で重ね、それ以上の言葉を探すように黙り込む。
「少し、寂しそうだった」
シンジが付け加えると、レイの指が僅かに動いた。
「それが私ではないと、言い切れない」
「綾波も、寂しいの?」
「分からない」
正直な答えだった。以前ならば、そのまま会話は終わっていただろう。しかしレイは、今度は自分から言葉を続けた。
「私も初号機の中で、誰かを感じた」
「誰か?」
「碇君を待っていた」
シンジの胸が小さく跳ねる。
「僕を?」
「碇君を知っていた。私よりも長く、私よりも深く」
初号機の中にいるもの。
意識を失った自分を動かし、第三使徒から守った巨大な存在。シンジは父の部屋にあった写真と、そこに写る母の顔を思い出した。
「母さん、なのかな」
「分からない」
レイは否定も肯定もしなかった。
分からないことばかりである。それでも、零号機の中で感じたものも、初号機の中にいるものも、確かに何かを求めていた。
「碇君は、自分が何者か分からなくなることがある?」
突然の問いに、シンジは少し考えた。
「あるよ」
「今も?」
「前よりは、少しだけ分かるようになったと思う」
父の息子。トウジやケンスケの友人。アスカと喧嘩をして、レイとこうして話している自分。そして今は、エヴァのパイロットでもある。
どれも自分である。しかし、どれか一つだけが自分の全てではない。
「僕は父さんの息子で、みんなの友達で、今はエヴァに乗ってる。でも、それだけじゃないと思う。まだ、それ以外が何なのかは分からないけど」
レイはシンジの言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「未定?」
「うん。たぶん、そういうことなのかも」
二人は顔を見合わせ、僅かに笑った。
――
その日の夜、レイは自室へ戻ると、机の引き出しを開けた。
中には進路希望調査票の控えが入っている。
未定という文字は、昨日と何も変わっていない。
だが、それが空白と同じものだとは、もう思わなかった。
決まっていないということは、何もないということではない。今は分からなくても、これから知ることができる。シンジの言葉を借りるなら、自分が綾波レイであることも、エヴァのパイロットであることも、自分の全てではないのだろう。
廊下から、夕食が冷めるとリツコの声が聞こえる。
「今行く」
返事をして、レイは調査票を引き出しへ戻した。
零号機の中に残っていたものが何者なのか、まだ分からない。自分が何処から来たのかも知らない。
それでも今、夕食を用意して待っている人がいる。
レイは引き出しを閉じ、リツコのいる食卓へ向かった。
――
同じ頃、ゼーレの石板が再び闇の中へ集まっていた。
『零号機の相互互換試験は失敗』
『魂は、用意された器へ容易に移るものではない』
『だが、いずれ全ての魂は一つの座へ還る』
『碇が、道を違えぬ限りはな』
老人達の声が消えた後、ネルフ本部の廊下をゲンドウが一人歩いていた。
壁面の表示には、初号機と零号機の封印状況が並んでいる。
前世界の記憶を持つ自分でさえ、二機の中に宿るものを完全には理解していない。この世界では最初のレイが生き続け、かつてとは違う関係を築いている。零号機の中にあるものも、前世界と同じである保証はなかった。
分からないことは、これからも増えていくだろう。
ゲンドウは表示から目を離し、先ほど出てきたばかりの病室へ足を向けた。
理解できないことを理由に、再び息子から離れるつもりはない。
病室の扉の前まで戻ると、中からシンジとレイの話し声が聞こえた。ゲンドウは開閉装置へ伸ばしかけた手を止める。
二人の会話へ割り込む必要はない。
少し離れた壁へ背を預け、息子の声が途切れないことだけを確かめる。暫くしてレイが病室から出てくると、ゲンドウへ小さく頭を下げて立ち去った。
それを見送ってから、ゲンドウは今度こそ扉を開ける。
自分の魂が何処へ行き着くのか、彼にはまだ分からない。
だが少なくとも今は、その座を息子の隣に置いていたかった。