零号機の相互互換試験から数日が過ぎ、シンジは普段どおり学校へ通えるまでに回復していた。
登校した彼を迎えたトウジとケンスケは、事故の詳細を聞こうとはしなかった。ネルフの機密だからというだけではない。シンジが零号機について話そうとするたび、何処か遠くを見るような顔になることへ気づいていたからである。
代わりに二人が話題にしたのは、返却された試験の成績と、昼休みに購買で何を買うかという、昨日までと変わらない話だった。
何も聞かれないことに、シンジは少しだけ救われていた。
言葉にしてほしい時もある。だが、言葉に出来るまで待っていてほしい時もあるのだと、友人達の普段と変わらない態度から初めて知った。
「それにしても、他人の機体に乗った途端に暴走させるなんて、あんた本当に迷惑よね」
背後から掛けられた声に振り返ると、アスカが腕を組んで立っていた。
「僕が暴走させたわけじゃないよ」
「あんたが乗った途端に暴走したんだから、似たようなもんでしょ」
相変わらず言葉には遠慮がない。しかしアスカの視線は、シンジの顔から足元までを忙しなく往復していた。顔色は悪くないか、歩き方に異常はないか。本人は上手く隠しているつもりなのだろうが、これまで何度も一緒に戦ってきたシンジには何を確認しているのか分かってしまう。
「もう大丈夫だよ、アスカ」
「何がよ」
「別に」
素直に礼を言えば怒られる気がして、シンジは笑うだけに留めた。案の定、アスカは気味が悪いと顔をしかめたが、何故かその頬は僅かに赤くなっていた。
少し離れた席では、ヒカリがそんな二人の様子を眺めている。アスカと目が合うと、委員長は何も言わず小さく笑った。
「なによ、ヒカリ」
「何でもないわ」
聞かれても答えない。だが、その沈黙が何を意味するのか、アスカには分かってしまったらしい。誤解だと騒ぎ始めた彼女の声が、朝の教室へ響き渡った。
――
放課後の音楽室から、ピアノの音が聞こえていた。
シンジは窓際に置かれたピアノの前へ座り、思いつくまま鍵盤へ指を滑らせていた。父の部屋で初めて触れた時ほどではないが、学校の楽器も丁寧に調律されている。押した分だけ正しい音が返ってくることが、今は有り難かった。
零号機の中で感じたもの。
初号機の中で、自分を待っているという存在。
母なのかもしれないと考えてから、その疑問は頭を離れなくなった。しかし父へ尋ねることを考えると、指が止まる。何と聞けばよいのかも、どんな答えを望んでいるのかも分からなかった。
そんな迷いを音へ押し込むように弾いていると、曲が終わるより先に拍手が聞こえた。
「すごいな、碇。いつの間にそんな特技を隠してたんだ?」
扉の近くに、トウジとケンスケが立っている。
「隠してたわけじゃないよ。少し習ってただけ」
「これだけ弾けるんやったら、進路に音楽って書いてもよかったんとちゃうか」
トウジの言葉に、シンジは鍵盤へ視線を落とした。
「弾けることと、将来やりたいことは同じじゃないと思う。好きかどうかも、まだよく分からないし」
ただ、父と繋がるものだとは思っている。それを口にするのは気恥ずかしく、シンジは心の中だけで付け加えた。
「一人で弾く時だけは、随分まともなのね」
開いたままの扉から、今度はアスカが姿を現す。
「何だよ、それ」
「そのままの意味よ。ユニゾンの時はアタシに合わせるだけで精一杯だったじゃない」
アスカはピアノの傍まで歩み寄り、シンジが弾いていた譜面を覗き込む。連弾の練習をした彼女には、以前との違いが分かるのだろう。
「でも、あの時アスカと合わせた練習が役に立ったんだよ」
思ったままを返すと、アスカの動きが止まった。
「……そう」
短く答え、譜面から顔を逸らす。何か言い返されると思っていたシンジは拍子抜けしたが、トウジとケンスケは妙なものを見たように顔を見合わせていた。
アスカは二人を睨みつけると、シンジへ向けて指を突きつけた。
「今度、もう一度合わせるわよ。あれから腕が落ちてないか、アタシが確かめてあげる」
それだけ言い残し、返事を待たずに音楽室を出ていく。
「あれ、誘ってるんだよな」
「多分な」
「何に?」
シンジの問いに、二人は揃って肩を落とした。
――
ユイの命日は、雲一つない晴天となった。
共同墓地へ続く石段を、ゲンドウとシンジは並んで上っていく。二人でここを訪れるのは、今年が初めてではない。シンジを先生の家へ預けていた頃から、毎年欠かさず続けてきた約束である。
墓石の前へ着くと、ゲンドウは持参した花を供え、シンジは墓石の表面へ積もった僅かな埃を布で拭った。
墓の下に遺骨はない。
母の肉体が事故によって失われ、何も残らなかったことは、幼い頃から聞かされていた。だからこそ、この墓は遺体を納める場所ではなく、二人がユイを思い出すための場所であった。
手を合わせながら、シンジは零号機事故の後、病室でレイから聞いた言葉を思い出す。
初号機の中に、碇君を待っているものがいた。
母の顔を思い浮かべようとすると、父の部屋に置かれていた写真が浮かぶ。自分の記憶にある声や温もりはあまりにも古く、既に本当に覚えているものなのかさえ分からなかった。
「父さん」
「何だ」
ゲンドウは墓石を見つめたまま答える。
「母さんは、本当に事故で死んだの?」
返事はなかった。
父の肩が僅かに強張ったことに気づき、シンジは聞いてはいけないことを尋ねたのかと不安になった。しかし、ここで引っ込めてしまえば、もう二度と聞けないような気もした。
「初号機の中に、僕を知っている何かがいるみたいなんだ。綾波が、そう感じたって」
ゲンドウは墓石に刻まれたユイの名を見つめていた。
肉体は失われた。だが魂は初号機の中にいる。
真実を告げれば、シンジはこれから初号機へ乗るたび、母の身体へ入るような感覚を覚えるかもしれない。これまで母親を戦わせてきたと知り、自分を責める可能性もある。そして何より、その息子を同じ機体へ乗せ続けてきた自分が、どのような顔で真実を語れるというのか。
「肉体は、あの日の事故で失われた」
長い沈黙の後、ゲンドウはそれだけを答えた。
嘘ではない。
だが、シンジが聞いたことへの答えにもなっていなかった。
父が何かを隠していることは分かった。サングラスの奥にある目は見えないが、墓石へ向けられた横顔には、話したくないのではなく、話すことができない苦しさが浮かんでいるように見えた。
シンジはそれ以上追及しなかった。
父なら全てを話してくれると信じたい。しかし、信じることと、何も疑わないことは同じではない。今は答えを待つことにしただけで、疑問まで消えたわけではなかった。
帰り際、シンジはもう一度墓石を振り返る。
「また来るね、母さん」
母が本当にここにいるのか。それとも初号機の中にいるのか。今のシンジには分からない。
それでも、母を思い出すための場所が一つでなければならない理由もなかった。
――
同じ日の午後、都内の式場では、大学時代の友人の結婚披露宴が開かれていた。
華やかな衣装に身を包んだミサトは、祝辞に笑い、乾杯の音頭にグラスを掲げ、誰よりも楽しそうに振る舞っていた。
そして誰よりも早く、酒を飲む速度を上げていた。
「少し控えたら、ミサト」
隣に座るリツコが、空になったグラスを取り上げる。
「お祝いの席よぉ。飲まない方が失礼でしょ」
「その理屈で何杯飲んだと思ってるの」
「細かいこと気にしてると、お嫁に行けないわよ」
「あなたにだけは言われたくないわ」
学生時代から何度繰り返したか分からないやり取りに、向かい側の加持が笑う。
「二人とも変わらないな」
「加持君が老けただけじゃない?」
「これは男の味というものさ」
軽口を返す加持の携帯端末が、卓上で短く振動した。
画面へ一瞬だけ目を落とした彼は、煙草を吸ってくると言い残して席を立つ。式場内は禁煙だとリツコが指摘する前に、その背中は人混みの中へ消えていた。
「相変わらず、隠し事の多い男ね」
リツコの呟きに、ミサトは新しいグラスへ手を伸ばす。
「男なんて、そんなもんよ」
興味がないように答えながら、その視線は加持の消えた扉へ向けられていた。
――
式場を抜けた加持は、人目の少ない非常階段へ入った。
携帯端末に届いていたのは、短い文字列と認証情報だけである。南極から輸送されている槍の管理記録。そしてセントラルドグマ最深部へ通じる、既に廃棄されたはずの保守経路。
槍が単なる対使徒兵器ではないことは、これまでの調査でも分かっていた。しかし何のために必要とされ、地下に隠された存在とどう関わるのかまでは掴めていない。
端末から情報を別の記録媒体へ移し、受信履歴を消去する。
それでも完全に痕跡を消せたとは思っていなかった。
最近、ゲンドウは南極輸送に関する記録の閲覧権限を細かく変更している。自分のアクセスが見つかっている可能性は高い。いや、見つかっていると考えて動くべきであろう。
踊らされているのかもしれない。
そう思いながらも、加持は調査を止めるつもりはなかった。誰かが用意した舞台であっても、幕の奥を覗かなければ、何の芝居に参加させられているのかさえ分からない。
非常階段を上る足音が聞こえ、加持は端末を懐へしまう。
現れたのはリツコだった。
「煙草は?」
「式場の外まで行かないと吸えないらしい」
「そう。なら、ここで何をしていたのかは聞かないでおくわ」
リツコはそれだけ言うと、来た階段を戻ろうとする。
「昔から、物分かりが良すぎるのも考えものだな」
「話す気のない人間へ尋ねても、上手な嘘が返ってくるだけでしょう」
振り返らずに答え、リツコは扉の向こうへ消えた。
残された加持は、誰もいない階段で小さく笑う。
「耳が痛いね」
扉の閉まる音が完全に消えてから、さらに上の踊り場で僅かな衣擦れがした。
加持は顔を上げなかった。非常階段へ入った時から、そこに誰かがいることには気づいていた。足音を消すことには慣れているが、建物の空調が切り替わるたび、細い煙草の匂いが一度だけ降りてくる。リツコのものではない。披露宴の招待客が迷い込んだとも考えにくかった。
胸元の認証票へ手を伸ばしかけ、止める。
振り返れば、相手も姿を見せるかもしれない。しかし今ここで確かめれば、こちらが気づいていることまで教えることになる。加持は何も知らないふりをして階段を下り、式場へ戻った。
――
男は、加持の足音が聞こえなくなってから三分待った。
人の気配が戻ってこないことを確かめ、踊り場の防火扉を開く。黒い背広の胸元には、ネルフ保安部と同じ形式の認証票が下がっていた。そこへ表示された番号が、現在の職員名簿にも、先月までの異動記録にも存在しないことは、男自身が最初から知っていた。
正規の番号を持つ必要はない。認証票は検問を通過するためのものであり、男の名前を組織へ残すためのものではなかった。
男は加持が触れた手摺を見た。携帯端末から情報を抜き取った形跡はない。受信履歴も消されているだろう。それでも加持が何かを受け取り、この先も調査を止めないことだけは確認できた。
端末も通信機も取り出さず、男は反対側の通路へ姿を消した。通常の保安回線へ報告を残すことは、初めから任務に含まれていない。
男の名前は、ネルフの職員名簿にも、この式場の招待客名簿にも存在しなかった。
――
披露宴が終わる頃には、ミサトは一人で真っ直ぐ歩くことも難しくなっていた。
リツコは自分が送ると言ったが、本部から零号機の再検査について連絡が入り、戻らなければならなくなった。結局、加持がミサトを自宅まで送り届けることとなる。
玄関を開けると、ペンペンが出迎えた。
子供達の靴はない。シンジはゲンドウと暮らし、アスカにもネルフが用意した住居がある。この部屋で二人が一緒に過ごしたのは、ユニゾン作戦の特訓を行った短い期間だけだった。
普段であれば気にならない静けさが、今夜は妙に広く感じられる。
加持はミサトをソファへ座らせ、水を用意した。ペンペンは酒の匂いを嫌ったのか、少し離れた場所から二人を眺めている。
「覚えてる?」
水へ口を付けることなく、ミサトが尋ねた。
「何をだい?」
「私が、あんたと別れた理由」
加持は答えず、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「父に似てたのよ。あんたが」
ミサトは手にしたグラスへ視線を落とす。
仕事ばかりで、家族を顧みなかった父。嫌いだったはずの男。だがセカンドインパクトの時、最後には自分を救って死んだ。
加持と一緒にいると、父へ向けていた感情と、目の前の男へ向ける感情の境目が分からなくなった。愛しているのではなく、失った父の代わりを求めているだけではないか。そう考えることが怖くなり、自分から離れた。
「あんたに弱いところを見られるのも嫌だった。捨てられる前に、私から捨てたのよ」
酒に酔っているから口にできるのだと、ミサトは自分へ言い訳していた。明日になれば覚えていないことにしてしまえばいい。そう考えている時点で、今も逃げようとしていることには気づいていた。
「私、子供達には逃げるなって言っておいて、自分はずっと逃げてたのね」
シンジも、レイも、アスカも、怖がりながらエヴァへ乗っている。帰る場所を失うことを恐れ、それでも誰かを助けるために手を伸ばしている。
自分だけが過去から逃げ続けてよいはずがなかった。
加持は何も言わない。
慰めも、否定もせず、ただミサトの言葉を聞いていた。
「こういう時くらい、何か言いなさいよ」
責めるように顔を上げると、加持は困ったように笑った。
「何を言っても、今の君には嘘になる」
その言葉に、ミサトは黙り込む。
加持が何を隠しているのかは分からない。しかし、何もない男がする顔ではなかった。
「……帰るの?」
「ああ。君も休んだ方がいい」
加持は立ち上がり、眠そうにしているペンペンへミサトを頼むと告げた。鳥にまで保護者扱いされることへ文句を言う気力もなく、ミサトはその背中を見送る。
玄関の扉が閉じる直前、加持は一度だけ振り返った。
「話してくれて、ありがとう」
扉が閉じ、部屋へ静けさが戻る。
ミサトは手元のグラスを見つめた。言ってほしかった言葉とは違う。それでも、嘘ではないことだけは分かった。
――
数日後、シンジはアスカの住居を訪れていた。
ネルフが彼女へ用意した部屋は、必要な家具こそ揃っているものの、生活感に乏しかった。整頓されているというより、私物が少ないので散らかりようがないのである。
その一角には、以前までは存在しなかった電子ピアノが置かれていた。
「本当に用意したんだ」
「当然でしょ。アタシが必要だと言えば、そのくらい支給されるわよ」
実際には申請理由を何度も尋ねられ、最後には自費で一部を負担することになったのだが、そんな格好の悪い事情をシンジへ教えるつもりはなかった。
二人は並んで椅子へ座り、ユニゾン作戦で使った連弾曲を弾き始めた。
以前は使徒を倒すため、互いの呼吸を無理やり合わせる訓練だった。少しでもずれれば作戦が失敗するという焦りの中で、何度も衝突し、最後にはシンジが家へ帰ってしまった。
今は誰からも命じられていない。
一度目は、アスカが先走った。
二度目は、シンジが音を外した。
互いに文句を言いながら弾き直し、三度目には以前よりも自然に音が重なった。
最後の鍵盤から指を離すと、部屋へ静けさが戻る。
「まあ、腕は落ちてないみたいね」
「アスカも」
「アタシは天才なんだから、落ちるわけないでしょ」
窓の外は既に暗くなり始めていた。シンジが時計を確認し、帰るために立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ帰るよ。父さんも今日は早いって言ってたから」
その言葉を聞いた瞬間、アスカは急に部屋が広くなったように感じた。
シンジが帰れば、ここには自分一人しか残らない。それは普段どおりのことであり、寂しいと思う理由などないはずだった。
「ねえ」
気づけば、シンジを呼び止めていた。
「何?」
「キスしてみる?」
口にした自分自身が、最も驚いていた。
シンジは扉へ向けていた身体を固め、何度か瞬きをする。
「どうして?」
尋ねられ、アスカは慌てて理由を探した。本当のことなど、自分でも上手く説明できない。帰ってほしくないから。自分を見てほしいから。そんな言葉を口にするなど、裸で外へ出るより恥ずかしかった。
「退屈だからよ。日本のガキがどれだけ子供か、確かめてあげるだけ」
我ながら苦しい言い訳だと思ったが、シンジは顔を赤くして黙り込んだ。
「嫌なら別にいいわよ」
強がって顔を逸らす。断られた時に傷つかないための逃げ道だった。
「嫌じゃ、ないけど」
返ってきた言葉に、今度はアスカが固まる。
「じゃあ、目を閉じなさい」
命令する形にしなければ、自分から近づく勇気が出なかった。
シンジが目を閉じる。アスカも一度だけ息を整え、ゆっくりと顔を寄せた。
唇が触れる。
ユニゾン作戦の時のように、呼吸を合わせることなど出来なかった。どちらも身体を強張らせたまま、何をすればよいのか分からず、ほんの僅かな時間で離れる。
加持なら、こんなふうにはならない。
何をすればよいのか分からず固まることも、耳まで赤くして目を逸らすこともなく、いつもの余裕を崩さないまま笑うのだろう。そう考えた瞬間、アスカは自分の中に浮かんだ二人の姿を、慌てて打ち消した。
比べたかったわけではない。加持に憧れている自分と、目の前のシンジに触れた自分を、同じ場所へ並べるつもりなどなかった。それなのに、離れた唇へ残っている感触は、昔から思い描いてきた大人の男のものではなく、不器用に息を止めていた少年のものだった。
その事実を認めることの方が、失敗したキスよりもずっと恥ずかしかった。
「最悪。全然大したことないじゃない」
熱くなった顔を隠すため、アスカは乱暴に言い放った。
「アスカがやろうって言ったんだろ」
シンジも負けずに反論するが、その顔はアスカと同じくらい赤い。
「あんたが下手だからよ!」
「初めてなんだから仕方ないだろ!」
表面上はいつもの喧嘩へ戻った。しかし二人とも、最も聞きたいことだけは口にできなかった。
どうして僕だったのか。
嫌ではなかったのか。
玄関まで来ると、アスカは扉を開けたままシンジを睨む。
「今のは忘れなさい」
「……分かった」
シンジが答えた瞬間、胸が痛んだ。
忘れてほしいわけではない。それでも、忘れないでとは言えなかった。
「さっさと帰りなさい、バカシンジ」
扉を閉め、一人になった部屋で、アスカは自分の唇へ指を当てた。
静かな室内には、先ほどまで二人で奏でていた曲の余韻だけが残っていた。
――
その夜、加持はネルフ本部の廃棄区画を歩いていた。
身に着けている制服も、胸元の認証票も本物である。しかし扉を開くために使った認証情報だけは、正規に与えられたものではなかった。
既に使われていない保守用通路を通り、セントラルドグマの深部へ向かう。壁面に記された区画番号は途中から消え、携帯端末の構内図も現在位置を表示しなくなった。
背後から銃の安全装置が外される音がした。
「動かないで」
聞き慣れた声に、加持は両手を上げて振り返った。
通路の奥に、拳銃を構えたミサトが立っている。
「酔いは醒めたようだな、葛城」
「おかげさまでね。披露宴を抜けた後から、随分と楽しそうじゃない」
加持が残した痕跡を追ってきたのだろう。完全に消そうと思えば消せたはずの履歴である。ミサトはその事実に気づいているのか、銃口を下ろさないまま距離を詰めた。
「私に見つけてほしかったの?」
「さあな」
「答えなさい」
「ここまで来たなら、自分の目で見た方が早い」
また話さないつもりかと苛立ったが、ミサトは拳銃を構えたまま加持の後を進んだ。
幾つもの隔壁を抜けるたび、空気が湿り気を帯びていく。人工物として整えられたネルフ本部の奥に、この区画だけは巨大な生物の体内へ造られた空洞のような不気味さがあった。
最後の扉が開く。
その先に広がっていた光景を見て、ミサトは言葉を失った。
巨大な十字架へ、白い巨人が磔にされている。
顔の上半分は紫色の仮面に覆われ、胸元には巨大な槍のような拘束具が突き立てられていた。下半身は人の形を保っておらず、無数の小さな脚が歪に連なっている。
これまで地上で戦ってきた敵と、同じ気配がした。
違う。
似ているのではない。同じものだ。
「何よ……これ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「これが、セカンドインパクトを起こした最初の使徒――アダムだ」
加持の言葉が、広大な空間へ反響する。
その直後、二人の頭上から別の声が降ってきた。
「違う」
ミサトと加持が同時に見上げる。
白い巨人の上方を横切る管理通路に、ゲンドウが立っていた。二人が通ってきた廃棄経路とは異なる、正規の昇降設備から現れたらしい。その背後には護衛も保安部員もいない。
「それはアダムではない」
ゲンドウは白い巨人へ一度視線を向け、静かに訂正した。
「第二使徒、リリスだ」
「……リリス?」
加持の顔から、初めて余裕が消えた。
「ネルフの資料では、あれをアダムと呼んでいたはずだ」
「そう呼ばせていた者がいる。私ではない」
ゲンドウが示したのはゼーレであろう。だが、それ以上を説明する様子はない。
ミサトは拳銃の向きを加持から上方のゲンドウへ移した。
「それなら、本物のアダムは何処にいるんですか」
「今は話せない」
「またそれですか」
「ああ」
誤魔化しも、聞こえなかったふりもしない。話さないことを正面から認める態度は、以前より誠実にも見え、同時に以前より傲慢にも見えた。
「私達は命を懸けて使徒と戦っているんです。その足元に同じものを隠しておいて、まだ話せないで済ませるつもりですか!」
ミサトの怒声を受けても、ゲンドウは表情を変えなかった。
「全てを知ることと、使徒を倒すことは同じではない」
「知るかどうかを決めるのは、あなた一人なんですか」
その問いに、ゲンドウは答えなかった。
沈黙そのものが、肯定のように広い空間へ残った。
「侵入者を前にして、随分と寛大ですな」
加持が口を挟む。
「お前はまだ、持ち帰る情報を得ていない」
「今、司令から頂いたばかりですが」
「ならば、それを誰へ持っていくのか見せてもらおう」
自分が見逃されているのではなく、泳がされていることを告げられ、加持は小さく息を吐いた。予想していた可能性ではある。しかし本人の口から宣告されれば、気分のよいものではない。
「槍の記録へ手を出した時点で、気づいていたんですか」
「お前は隠れるには目立ち過ぎる」
「これは手厳しい」
二人の間だけで交わされる会話に、ミサトの苛立ちが頂点へ達した。
「二人とも、私を何だと思ってるのよ!」
「巻き込みたくなかった」
「必要な戦力だ」
加持とゲンドウの答えが、ほぼ同時に重なる。
全く異なる返答でありながら、ミサトに選択肢を与えなかったという点では同じだった。
「ふざけないで」
拳銃を下ろし、ミサトは二人を順番に睨む。
「守るためでも、使うためでも、私に黙って勝手に決めていい理由にはならないわ」
ゲンドウは、以前のミサトであればここまで言っただろうかと考えた。命令を受け、その範囲で奇策を立てていた作戦部長は、今や自分で責任を負い、三人のパイロットを帰すために判断する指揮官になっている。
ここへ辿り着かせたのは、譲歩のつもりだったのかもしれない。
加持へ、自分の知識が未だ他人から与えられた範囲に過ぎないと示す挑発でもあった。
そして二人が真実の一端を得た後、何処へ向かうのか確かめるための選別でもある。
どれが本当の理由なのか、ゲンドウ自身にも一つへ決めることはできなかった。
「葛城三佐」
「何ですか」
「今日見たものを、誰へ話すかは自分で決めろ」
許可にも、試験にも、脅しにも聞こえる言葉だった。
ミサトは返事をしない。
ゲンドウは二人へ背を向け、正規通路の奥へ姿を消した。
残されたミサトは、再び十字架の巨人を見上げる。
第二使徒リリス。
その名が真実であるという保証さえ、今の彼女にはなかった。
――
セントラルドグマから戻ったゲンドウを、ナオコが通路の先で待っていた。
壁へ背を預け、腕を組んでいる。深夜の本部で偶然出会ったとは、とても思えない姿であった。
「随分と思い切ったことをしたのね」
「何のことだ」
「とぼけるなら、せめて保安部の監視記録を消してからにしなさい」
ナオコはゲンドウと並んで歩き始める。
「加持君達にリリスの正体を教えたそうね」
「いずれ知ることだ」
「それなら、何故今まで黙っていたの?」
「話せなかった」
「話さなかった、の間違いじゃなくて?」
墓前でシンジへ向けられた問いと、同じ形の言葉だった。
ゲンドウは答えない。
「譲歩のつもりだったのなら、随分と喧嘩の売り方が上手いこと」
「彼には、あれで十分だ」
「葛城さんには?」
再び沈黙する。
ナオコは呆れたように鼻から息を吐いた。
「ほら、また黙る」
「全てを話せば、彼女達をより深く巻き込む」
「もう十分に巻き込んでいるでしょう。葛城さんは作戦部長で、加持君は自分から首を突っ込んでいる。話さないことを相手のためだと決めるのは、少し傲慢じゃない?」
返す言葉はなかった。
「黙っていれば嘘をついていないと思うのは、科学者にも父親にも通用しないわよ」
ナオコはそれだけ言い残し、別の通路へ曲がっていった。
父親という言葉が、ゲンドウの足を止める。
ユイの肉体は失われた。
墓前でシンジへ告げた言葉は、事実である。
しかし、真実ではなかった。
――
シンジが帰宅した時、家の中から音は聞こえなかった。
居間にも父の姿はない。自室へ鞄を置き、廊下を歩いていると、ゲンドウの部屋の扉が僅かに開いていることへ気づいた。
隙間から覗くと、父はピアノの前に座っていた。
鍵盤へ手を置いている。しかし、音は一つも鳴らさない。
シンジは声を掛けるべきか迷った。
墓前で尋ねたことを、父も考えているのかもしれない。もう一度聞けば、今度こそ答えてくれるだろうか。
だが、アスカの住居を出る時と同じように、聞きたい言葉だけが口から出てこなかった。
「ただいま、父さん」
代わりに、普段と同じ言葉を掛ける。
部屋の中で、ゲンドウの肩が僅かに動いた。
リリスの正体を明かすことはできた。
ゼーレへ槍の目的を偽ることもできた。
だが、息子へユイの居場所を話すことだけは、まだできなかった。
沈黙したまま背を向けることも、以前と同じように遠ざけることもしたくない。
ゲンドウは鍵盤から手を離し、開いた扉へ顔を向けた。
「お帰り、シンジ」
答えを聞いたシンジは、少し安心したように笑った。
話せないことは、まだ二人の間に残っている。
それでも、互いの声が届く距離にはいた。