アスカと目が合わなくなった。正確には、目が合いそうになると、どちらかが先に逸らすようになったのである。
音楽室で連弾の約束をした翌日も、その次の日も、アスカは昼休みになるとヒカリの席へ行き、放課後になれば用事があると言って先に帰った。シンジも、わざわざ追いかけて約束を確かめることはしなかった。
自分から訪ねた、アスカの住居。
灯りを落とした部屋で触れた唇と、息を止めきれずに離れた後の、どうしようもなく気まずい沈黙。あれを何と呼べばよいのか、シンジには未だに分からない。
嫌だったわけではない。むしろ、それを認めてしまえば、あの行為に退屈しのぎとは違う名前を与えなければならなくなる気がして、顔を見ることができなかった。
「センセ、さっきから何処見とるんや」
トウジに肘で小突かれ、シンジは我に返った。昼休みの教室。開いた弁当箱の中には、手をつけていない卵焼きが残っている。
視線の先では、アスカがヒカリと話していた。
「別に、何も」
「何もない顔には見えへんけどな」
「このところ、二人とも変だよな」
ケンスケまで話へ加わり、シンジは慌てて弁当へ顔を伏せた。
「変じゃないよ」
「そうか? 前なら惣流の方から、聞いてもいないのにお前の失敗を報告しに来たのに」
「相田! 聞こえてるわよ!」
教室の反対側から声が飛んでくる。ケンスケは肩をすくめ、トウジは余計なことを言うからだと笑った。
アスカは三人を睨んでいたが、シンジと目が合った途端、僅かに頬を赤くして顔を背けた。
その反応だけで、何とか押し込めていた記憶が、唇の感触まで伴って戻ってくる。
シンジも卵焼きへ視線を落とした。
「やっぱり何かあったんとちゃうか」
「何もないってば」
否定する声が少し大きくなり、今度はレイが本から顔を上げた。
「碇君、顔が赤い」
「綾波まで言わなくていいよ」
静かだった昼休みが、急に居心地の悪いものとなる。
けれど、使徒が現れない日々は、こうして過ぎていった。
第十一使徒を退けてから数週間。街から避難警報の跡が薄れ、ネルフ本部でも破壊された区画の補修が終わりつつある。シンジ達にとっては、学校へ通い、試験を受け、友人の余計な詮索に困る時間の方が長かった。
戦いがいつまで続くのかは分からない。
それでも、戦っていない時間の方が自分の生活なのだと、シンジは少しずつ思えるようになっていた。
――
その日の放課後、三人のパイロットはネルフ本部へ呼び出された。
ケージ内にエヴァはなく、試験用のエントリープラグだけが横一列に並べられている。前回の相互互換試験とは違い、今回はそれぞれが普段の機体を想定した通常のシンクロ試験であった。
零号機の事故を受け、接続系統はナオコとリツコが全て洗い直している。試験開始前にも二重の確認が行われ、異常があれば各プラグを独立して切り離せるよう改修されていた。
「数値が安定したら、段階的に深度を上げるわ。少しでも違和感があれば、我慢せずに言いなさい」
リツコの声が、プラグ内へ響く。
『特にシンジ君。前回のことがあるからって、必要以上に構えなくていいのよ』
続いて聞こえたミサトの声へ、シンジは操縦桿を握り直した。
「はい、ミサトさん」
目を閉じる。
肺を満たすLCLの匂いも、身体の輪郭が機体へ広がっていく感覚も、既に慣れたものだった。しかし初号機の内部へ意識を近づけると、墓前で父から聞けなかった答えが浮かんでくる。
初号機の中に、母がいるのかもしれない。
そう考えるようになってから、シンクロする感覚は以前と少し違っていた。怖くないと言えば嘘になる。だが、自分を飲み込もうとしているものではなく、黙って待っているものだと思えば、身体から余計な力が抜けた。
『第三段階へ移行。各員、状態を報告して』
「問題ありません」
レイに続き、シンジも異常がないことを伝える。
『アタシも問題なし。こんなの、いつまで続けるのよ』
アスカの声には、いつもの苛立ちが戻っていた。教室では避けられていたため、その声を聞くだけでシンジは少し安心する。
やがて試験が終了し、三人の数値が主モニターへ並べられた。
最高値を示していたのは、初号機だった。
「前回より三・八上昇。シンジ君が一位ですね」
マヤの報告に、ミサトが感心したような声を上げる。
「やるじゃない、シンジ君」
「別に、これくらい」
口から出た言葉に、シンジ自身が少し驚いた。褒められたことが嬉しく、それをアスカにも聞いてほしいと思ってしまったのだ。
案の定、隣の通信窓に映るアスカの眉が跳ね上がる。
『何よ、その言い方。たった一度アタシを上回ったくらいで』
「一度でも上は上だろ」
『テストの数字と実戦は違うのよ、バカシンジ』
「分かってるよ」
言い返しながら、シンジは口元が緩むのを止められなかった。
アスカも本気で怒っているわけではないらしい。前のように話せたことが、互いに少しだけ嬉しかった。
けれどアスカは、通信窓が閉じるまで結果表示を消さなかった。シンジと言い合えたことへの安堵と、そのシンジの名前が自分より上にあることへの苛立ちが、胸の中で同じ場所を占めている。どちらかだけなら、もっと簡単に扱えたはずだった。
その様子を見下ろしていたミサトは苦笑し、リツコは手元の記録へ視線を戻す。
「数値が上がること自体は悪くないわ。ただし、エヴァとの境界が薄くなることを、単純な成長と考えないで」
「境界が薄くなる……」
シンジが聞き返す。
「自分の手が何処までか、普段は考えないでしょう。エヴァへ乗れば、その手が数十メートル先まで伸びる。深く繋がるほど、あなたと機体の区別は曖昧になるの」
警告の意味を理解しきれないまま、シンジは初号機を思い浮かべた。
自分と、初号機。
自分と、母。
何処までが自分なのか。その時はまだ、答えを必要とすることになるとは思っていなかった。
――
数日後の午後、第三新東京市上空に巨大な球形物体が出現した。
使徒警報が鳴り響き、街は戦闘形態へ移行する。校舎から退避する生徒達と別れ、シンジ達はそれぞれの回収車両へ乗り込んだ。
発令所の主モニターには、白と黒の縞模様を持つ球体が映し出されている。
直径、およそ六百八十メートル。
浮遊の原理は不明。内部構造も観測できず、通常空間に存在する質量とレーダーから算出される数値が一致しない。
「パターン青。第十二使徒と確認しました」
日向の報告を聞きながら、ミサトは球体の下に広がる市街地へ目を凝らした。
避難は開始されているが、完了までには時間が掛かる。使徒は攻撃する様子を見せず、一定の高度に留まっていた。静かなことが、かえって不気味だった。
「三機を配置。住民の避難を優先し、こちらからは仕掛けないわ」
「攻撃しないんですか?」
青葉が振り返る。
「相手が何をするのか分からないうちはね。目立つ方に気を取られて、足元を掬われるのは御免よ」
指揮席の後方に立つゲンドウは、主モニターへ表示された観測値を見ていた。
前世界で、第十二使徒がどのように初号機を取り込んだかは覚えている。
だが、その記憶をそのまま命令へ変えることはできない。情報のない段階で真の本体が影だと言い切れば、慧眼では済まされない不自然さが残る。
「地表面の観測を増やせ」
ゲンドウが告げる。
「球体だけでなく、その投影範囲に生じる温度、磁場、光量の変化を比較しろ」
ミサトが振り返った。
「影を警戒するんですか」
「浮遊している物体の質量と、観測される重力の偏りが一致していない。見えているものが全てとは限らん」
それ以上は言わなかった。画面へ現れている矛盾だけで、今の指示には十分な根拠があった。
マヤ達が地表側のデータを集め始めた時、三機のエヴァは配置地点へ到着していた。
初号機は球体の正面。零号機と弐号機は左右へ距離を取り、プログレッシブ・ナイフを装備して待機する。
『三人とも、向こうが動くまで待って。まだ避難が終わっていない区画があるわ』
「了解」
返答しながら、シンジは頭上を見上げた。
球体は動かない。
試験でアスカを上回ったことが、まだ胸の何処かに残っていた。今まで何度も戦い、誰かを助けることもできた。父からも、初号機へ乗ることと息子であることは関係ないと言ってもらえた。
だからもう、以前のように命令を待つだけの自分ではない。
そう思いたかった。
『ちょっと、バカシンジ。前へ出過ぎよ』
アスカの声に、初号機の足が止まる。
「まだ範囲内だよ」
『範囲の話じゃないわ。相手が何をするか分からないって言われたでしょう』
「分かってる。避難区域へ近づけないようにしてるだけだ」
球体が僅かに移動した。
その先には、まだ退避車両が残っている。
シンジは初号機を一歩前へ出した。自分が注意を引けば、その間に避難が終わる。勝手な行動であることは分かっていたが、ただ目立ちたいわけではない。守れるものがあるなら、守りたかった。
しかし、その判断には、今日の自分なら対処できるという未熟な自信も混じっていた。
「シンジ君、待って!」
ミサトの制止と同時に、球体の真下から黒い染みが広がった。
建物の影ではない。
光の向きと関係なく、市街地を塗り潰す黒が、初号機の足元へ迫る。
シンジは後方へ跳ぼうとした。しかし踏み込んだ足は地面へ届かず、黒い平面の中へ沈んだ。
「何だ、これ!」
初号機が倒れ込む。両腕を路面へ突いても、その手まで黒の中へ吸い込まれていく。
『シンジ!』
アスカの叫びが聞こえた。
零号機と弐号機が駆け寄ろうとする。その進路を、新たに広がった影が遮った。
『二人とも止まって! 同じものに触れないで!』
ミサトの命令に、弐号機が急停止する。
「ミサトさん、身体が……沈んで……!」
プログレッシブ・ナイフを路面へ突き立てる。刃は抵抗もなく黒へ消え、初号機を支えることはできなかった。
『射出座席は!』
『作動しません! プラグ排出系、反応なし!』
マヤの声が遠くなる。
胸部、肩、頭部。
初号機の巨体は、薄い影へ収まるはずのない体積ごと沈んでいった。
最後に見えたのは、地上へ伸ばされた紫色の手だった。
アスカは弐号機の操縦桿を握りしめる。
届く距離だった。
そう見えたのに、影へ触れれば自分も飲まれる。命令に従って止まった弐号機の指先から数メートル先で、初号機の手は黒の下へ消えた。
『シンジ! 返事しなさい!』
何度呼んでも、通信には雑音しか返らなかった。
初号機を飲み込んだ影が縮み始める。
その上空で、白黒の球体は何事もなかったように浮かんでいた。
――
初号機の消失から一時間が過ぎても、シンジとの通信は回復しなかった。
回収された零号機と弐号機は、ケージ内へ固定されている。レイは着替えを終えて発令所へ向かったが、アスカは弐号機のプラグから出ようとしなかった。
シンジが飲み込まれた瞬間の映像が、何度も頭の中で繰り返される。
自分は止まれと言った。
前へ出過ぎだと注意した。
それでも、本気で止めようとはしなかった。試験の数字に浮かれているシンジを、少し痛い目に遭えばよいとさえ思っていた。
まさか、本当にいなくなるとは考えなかった。
「バカ……」
誰もいないプラグの中で呟く。
あの部屋へ来て、勝手に口づけの意味を考えさせて、そのまま答えも聞かずにいなくなるなど許せなかった。
腹が立つ。
怖い。
その二つを分けられないまま、アスカは額を操縦桿へ押しつけた。
――
発令所では、第十二使徒の解析が続けられていた。
球体へ向けた探査波は、実体を捉えない。反対に地表の黒い領域からは、内部へ向かって延びる計測不能の空間が確認された。
「球体は影です」
リツコが主モニターの解析図を指す。
「正確には、三次元空間へ現れた虚像。直径六百八十メートル、厚さ約三ナノメートルの黒い領域が本体です。その内部は、虚数空間によって支えられていると考えられます」
「つまり、あの薄っぺらい影の中へ初号機が丸ごと入っているっていうの?」
ミサトには、説明を聞いても理解した気がしなかった。
ただ一つ分かるのは、初号機が自分達のいる空間にはいないということだけである。
「ディラックの海。そう呼ぶしかないわ」
ナオコが別の解析結果を表示する。
「内部の状態は観測できない。ただ、取り込まれた直後にアンビリカルケーブルは切断されている。初号機の内部電源が通常どおりなら、生命維持を含めて残りは――」
マヤが計算結果を読み上げる。
「十五時間二十八分です」
発令所が静まり返った。
数字になったことで、シンジの命に終わりがあることだけが、急に現実味を持つ。
ミサトは指揮卓へ両手をついた。
「救出方法は」
「影の縁へN2爆雷を集中投下し、虚数空間を一時的に不安定化させます。同時に残る二機のA.T.フィールドで境界を破り、初号機を引き出す」
リツコの説明に、ミサトは顔を上げた。
「初号機の位置も分からないのに爆雷を使うつもり?」
「このままなら、確実に失うわ」
「だからって、シンジ君ごと吹き飛ばすかもしれない作戦を――」
「他に方法がないのよ!」
リツコの声が発令所へ響いた。
その直後、彼女は自分の声に驚いたように口を閉じる。
冷静に計算しているように見えて、平静ではない。ミサトにはそれが分かった。零号機の事故を目の前で経験したばかりで、今度はシンジを機体ごと失おうとしている。数字へ落とし込まなければ、立っていることさえできないのだろう。
「準備を進めて」
ミサトは絞り出すように命じた。
「ただし、投下の直前まで内部の探査を続ける。少しでもシンジ君を避けられる可能性を探して」
「分かったわ」
作戦準備が始まる中、レイは主モニターに映る黒い円を見つめていた。
碇君ではない。でも、碇君を守っている。
零号機の中から初号機へ触れた時、そう感じた。
ならば今も、あの中にいるものはシンジを守っているのだろうか。
それとも、手放さないために取り込んだのだろうか。
レイには分からなかった。
分からないまま、戻ってくる場所を空けるように、初号機が立つはずだったケージを見つめ続けた。
――
暗闇の中で、シンジは目を開いた。
非常灯だけがエントリープラグの内部を赤く照らしている。表示される残り時間は、既に半分を下回っていた。
通信は繋がらない。
射出装置も動かず、初号機へ呼びかけても反応はなかった。
最初のうちは、訓練で教わった手順を繰り返した。酸素消費を抑えるために動かず、生命維持装置を最低限へ切り替え、一定の間隔で通信を試す。
何かをしている間は、自分が一人だということを考えずに済んだ。
しかし、試すことがなくなると、静寂だけが残った。
腹が鳴る。
喉が渇く。
時間が減る。
死ぬのかもしれない。
その考えを否定しようとするたび、残り時間の数字が目に入った。
以前なら、ここまで怖かっただろうか。
初めて初号機へ乗った時、自分は死んでもよいと思っていたわけではない。ただ、父に必要だと言ってほしかった。怪我をしたレイの代わりになるためではない。父に振り向いてほしいという、自分自身の我が儘だった。
その後も戦うことを選んだ。
誰かを守りたいと思ったことは嘘ではない。けれど、その奥にはいつも、父に認めてほしい自分がいた。
今は、それだけではない。
トウジとケンスケがいる。レイがいる。アスカがいる。ミサトさんも、リツコさんもいる。
家へ帰れば、父がいる。
帰りたい場所が増えたから、死ぬことが以前より怖くなった。
「助けてよ……」
通信機へ向けた声は、誰にも届かない。
シンジは膝を抱えた。
赤い光が消え、プラグの中が完全な闇へ沈む。
――
気づくと、シンジは電車の座席へ座っていた。
向かい側には、幼い自分がいる。
窓の外は夕焼けに染まっているのに、何処を走っているのかは分からない。同じ電柱が、同じ間隔で何度も通り過ぎていく。
『どうしてエヴァに乗るの』
幼い自分が尋ねた。
父さんに必要だと言ってほしかったから。
答えはすぐに浮かんだ。
『今も?』
今も、そうだ。
父に褒められれば嬉しい。息子だと言ってもらえれば安心する。自分が特別でありたいと思っている。
『それだけ?』
違うと答えようとして、言葉に詰まる。
使徒が来れば、自分が乗らなければならない。自分にしかできない。誰かが傷つくよりは、自分が戦った方がよい。
それらは全て本当で、同時に、自分を納得させるための言葉でもあった。
『父さんは、何も話してくれない』
車窓の夕焼けが、共同墓地の空へ変わる。
墓石の前に立つ父の背中が見えた。
母の肉体は、あの事故で失われた。
嘘ではないが、答えでもなかった言葉。
『父さんは嘘つきだ』
幼い自分の声がする。
『母さんのことも、自分のことも隠している。ぼくをまた置いていく』
「違う」
『何が違うの』
景色が変わった。
まだ幼かった頃の家。
夜中に目を覚まし、母を探して廊下を歩いた。半開きになった扉の向こうで、父が一人、床へ座り込んでいた。
手には、母の写真があった。
いつも大きく見えた背中が小さく丸まり、押し殺した息が何度も震えていた。声を掛けることができず、シンジは暗い廊下から見ていることしかできなかった。
忘れていた記憶だった。
忘れたかったのかもしれない。
父は母がいなくなっても平気だったのだと思えば、自分が預けられた理由を父の冷たさだけにできたから。
『母さんは、いなくなった』
「違う!」
シンジは立ち上がった。
「だって…父さんは、泣いていた」
電車の中へ、自分の声が残る。
父が泣いていたから、何もかも許せるわけではない。
悲しかったから自分を置いていってよかったとは思わない。今も真実を話してくれないことは苦しい。父が弱かったことは、父の沈黙によって自分が傷つかなかった理由にはならない。
それでも、父は何も感じていなかったのではない。
母を失い、自分と同じように泣いていた。
そのことを、もう見なかったことにはしたくなかった。
『それなら、父さんのところへ帰りたい?』
幼い自分が尋ねる。
シンジは頷いた。
父だけではない。
言い返せなかったことも、聞けなかったことも、まだたくさん残っている。
アスカと、音楽室でもう一度ピアノを弾く約束もした。
「帰りたい」
声にすると、急に涙が溢れた。
格好悪くても、我が儘でも構わなかった。
「僕は、まだ死にたくない」
夕焼けが白い光へ変わる。
誰かに抱き締められたような温かさが、シンジの身体を包んだ。
――
救出作戦の開始まで、残り三分。
零号機と弐号機は、第十二使徒を挟む位置へ配置されていた。上空ではN2爆雷を搭載した航空隊が投下地点へ向かい、地上の作業班は爆圧へ備えて退避を始めている。
アスカは弐号機の中から、黒い円を睨んでいた。
あの中の何処かに、シンジがいる。
「必ず引っ張り出すから」
返事がないと分かっていても、口にせずにはいられなかった。
『初号機内部電源、推定限界まで六十秒』
マヤの報告が全回線へ流れる。
発令所で、ミサトは作戦開始の合図へ手を掛けた。
シンジを救うための作戦で、シンジを殺すかもしれない。
自分が命じなければならない。
迷っている時間さえ、もう残されていなかった。
「N2投下準備。零号機、弐号機はA.T.フィールドを最大へ――」
その時、黒い円の中心が盛り上がった。
「待ってください! 第十二使徒内部に変化!」
マヤの声と同時に、上空の球体が大きく歪む。
表面へ亀裂が走った。
内側から、紫色の腕が突き出される。
それは何かを掴もうとする手ではなかった。閉じた肉を裂き、外へ出るための獣の前脚だった。
白黒の球体が引き攣るように変形する。亀裂から赤い液体が噴き出し、街へ雨のように降り注いだ。
「初号機……?」
日向の声が震える。
肩が現れ、角を持つ頭部が球体を内側から押し破る。拘束具はひしゃげ、装甲の隙間から生き物のような筋肉が覗いていた。
初号機は、両腕で第十二使徒を引き裂いた。
そして、咆哮した。
空気が震えたのではない。
聞いた者の身体そのものが、声に掴まれた。
発令所では、訓練を重ねた職員達が一斉に動きを止めた。警報を確認するより先に肩が強張り、指が端末から離れる。誰かが椅子を倒したが、振り返る者はいなかった。
それは怒りを伝えるための声ではなかった。
聞いた者の身体に、自分が何に怯えるよう造られた生き物なのかを思い出させる声だった。
まだ言葉を持たず、火も壁も知らなかった頃。暗闇の向こうに自分より大きな何かの息遣いを聞き、身を伏せるしかなかった生き物の記憶。人間が文明によって覆い隠してきた、捕食される側の恐怖が、骨の内側から呼び起こされる。
地上の退避壕では、音源を見ることのできない人々まで壁から離れ、子供を抱き寄せた。泣き出すことさえできず、ただ声が通り過ぎるのを待った。
弐号機の中で、アスカは操縦桿から手を離していた。
マグマへ飛び込んで自分を助けた時の初号機とは違う。
あれを動かしているのがシンジだとは、どうしても思えなかった。
「シンジ……なの?」
声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
零号機の中で、レイも身を固くしていた。恐怖を感じていないわけではない。逃げろと告げる身体の感覚を押さえ込み、初号機を見つめる。
「碇君ではない」
レイは呟いた。
「でも、碇君を守っている」
その言葉は、発令所にも届いた。
マヤの端末へ、新たな警告が表示される。
「初号機、制御信号を全て拒絶! A.T.フィールドを観測、数値は……第十二使徒の最大値を超えています!」
「識別は!」
ミサトが叫ぶ。
「ネルフ所属、エヴァンゲリオン初号機と判定! でも、こんなの……本当にエヴァなんですか?」
マヤの疑問へ答えられる者はいなかった。
第十二使徒を殲滅した。
そう報告することさえ、誰もすぐにはできなかった。敵が消えた後に残されたものの方が、遥かに恐ろしく見えたからである。
初号機は球体の残骸から地上へ落下し、四肢をついて着地した。
市内の自動防衛設備が、正体不明の高出力A.T.フィールドを脅威と判定する。砲台が一斉に初号機へ向きを変えた。
「自動迎撃系が初号機を標的にしています!」
「解除しろ」
ゲンドウの声が飛ぶ。
「しかし、現在の初号機は制御不能です!」
「中にパイロットがいる。撃つな」
短い命令に、青葉が慌てて迎撃系を停止させる。
ゲンドウもまた、咆哮を聞いた瞬間に息を止めていた。
前世界で見た光景であっても、恐怖が薄れることはなかった。記憶の中の映像と、今ここに存在するものは違う。あれは兵器の暴走ではない。息子を奪われたものが、自ら檻を破って取り戻した姿だった。
「ユイ……」
誰にも聞こえない声で名を呼ぶ。
初号機が頭を上げる。
一瞬、発令所を見たように思えた。
「シンジを返せ」
願いなのか、命令なのか、ゲンドウ自身にも分からなかった。
隣に立つ冬月が、サングラスの奥を窺う。
「あれが、本当にユイ君なのか」
ゲンドウは答えなかった。
初号機は四肢をついた姿勢から、ゆっくりと立ち上がった。再び襲いかかってくるのではないかと、発令所の誰もが身構える。
だが、初号機は攻撃しなかった。
獣のような姿勢で、周囲を警戒するように立ったまま動きを止める。
咆哮の残響が消えても、すぐに近づこうとする者はいなかった。
装甲に付着した赤い液体が路面へ落ちる音だけが続く。回収班は装備を整えたまま、互いの顔を見合わせていた。相手はネルフの所属機であり、救助すべきパイロットが内部にいる。それを理解していても、身体が最初の一歩を拒んでいた。
「私が行くわ」
ミサトが指揮席を離れる。
その言葉に押されるように、回収班の一人が初号機へ向けて歩き出した。次にもう一人が続き、ようやく救助作業が始まる。
エントリープラグは、初号機自身が差し出すように排出された。
内部から発見されたシンジに外傷はなく、生命反応も残っていた。
その報告が届いても、歓声は上がらなかった。
安堵より先に、全員の胸へ同じ疑問が残っていた。
自分達は、何をエヴァと呼び、地下へ閉じ込めていたのか。
――
シンジが医療区画へ運ばれた後も、初号機の周囲には通常の三倍を超える隔離線が引かれていた。
電源は完全に失われている。A.T.フィールドも消失し、各部の反応は沈黙している。
それでも整備員達は、檻の中で眠る初号機へ背を向けなかった。
再び目を開くのではないか。
あの声を上げるのではないか。
誰も口にはしないが、作業の遅れが恐怖を物語っていた。
観測室で、リツコは初号機覚醒事象と入力しかけ、手を止めた。
覚醒と書けば、これまで眠っていたものが目覚めたことになる。制御不能事象と書けば、普段は制御できていたことになる。
どちらも、今は確信を持てなかった。
「兵器が、勝手にパイロットを連れ帰った」
呟いた声へ、ナオコが反応する。
「人間が回収したんじゃないわ。初号機が、自分で帰ってきたのよ」
「それを兵器と呼べるの?」
リツコは母を見た。
ナオコは初号機の波形を見つめたまま、しばらく答えなかった。
「最初から兵器だと思っていたことの方が、間違いだったのかもしれないわね」
リツコは再び報告書へ目を落とす。
結局、表題には初号機制御不能事象と記した。
それが正しいからではない。
他に、人間の言葉で記せる名称がなかったからである。
――
医療区画の病室で、ゲンドウは眠っていた。
眠るつもりはなかった。シンジの検査が終わり、容態が安定したと聞いてからも椅子を離れず、ベッド脇で報告書へ目を通しているうちに、意識を失うように瞼を閉じていた。
夢の中で、ゲンドウは赤い海の前に立っていた。
空には巨大な十字架が幾つも浮かび、波打ち際には誰のものとも分からない衣服だけが残されている。かつて全てを失った世界。自分が補完という名を与え、その実、ユイのもとへ逃げるために差し出そうとした世界だった。
背後から足音が聞こえる。
振り返ると、そこにはかつての自分が立っていた。
同じ顔。同じサングラス。同じように他者を拒むため、胸の前で組まれた両手。
しかし、その男の足元から伸びる影だけは、ゲンドウのものではなかった。初号機の頭部から生えた角と、獲物へ伸ばされる長い腕が、赤い海の上を這っている。
「これは、もう終わったことだ」
ゲンドウが告げる。
かつての自分は答えず、ただ口元を歪めた。
景色が変わる。
幼いシンジを親戚の家へ残し、振り返らずに歩いた道。ユイを失った実験場。傷ついた息子を初号機へ乗せた発令所。そして、巨大な手に掴まれ、自ら消えることを贖罪だと思い込んだ最後の瞬間。
一つの過去が消える前に、次の過去が重なった。
その中へ、今のシンジの姿も加わる。
第十二使徒へ飲み込まれ、地上へ手を伸ばしながら、暗闇の中へ消えていく。
「今回は、連れ戻した」
誰に向けたものか分からない弁明が、ゲンドウの口から零れた。
「同じ未来にはしない」
『結果が変われば、罪も消えると思うのか』
初めて、もう一人のゲンドウが口を開いた。
『お前は未来を知りながら、再びあの子をエヴァへ乗せた』
「他に方法がなかった」
『そう決めたのは、お前だ』
「使徒を倒さなければ、全てが終わる」
『だから、息子へ真実を話さなくてもよいのか』
墓前に立つシンジの声が聞こえた。
母さんは、本当にあの事故で死んだの。
答えられなかった問いが、赤い海の上で何度も繰り返される。
ゲンドウは耳を塞がなかった。塞いだところで、自分の中にある声から逃れられないことは知っていた。
「まだ、話すことはできない」
『また黙るのか』
かつての自分の影が立ち上がる。
初号機の腕となった影は、赤い海を越えてゲンドウの足元へ届いた。逃げようとしても、足が動かない。見下ろせば、膝まで赤い液体へ沈んでいた。
『いずれお前は犯した罪の前で跪くことになるだろう。』
その声と共に、海の底から無数の手が伸びてくる。
ユイを救えなかった手。
レイを造った手。
シンジを遠ざけ、必要になれば呼び戻した手。
全て、自分の手だった。
両脚を掴まれ、ゲンドウの身体が沈む。赤い水面へ膝が触れた時、目の前に立っていた男の姿がシンジへ変わった。
幼い息子は泣いていなかった。
責めてもいなかった。
ただ、何故なのかと答えを待っていた。
その沈黙に耐えられず、ゲンドウはようやく手を伸ばす。
だが、指先が届く前に、シンジの身体は初号機の影へ飲み込まれた。
「シンジ!」
自分の声で目を覚ました。
白い病室に戻っている。
椅子から立ち上がりかけた姿勢のまま、ゲンドウは荒い呼吸を繰り返した。額には汗が滲み、握りしめた右手の爪が掌へ食い込んでいる。
ベッドへ目を向ける。
シンジは眠っていた。規則正しい呼吸に合わせて胸が上下し、計器にも異常はない。
夢だった。
そう言い聞かせても、膝にはまだ赤い海へ沈んだ感触が残っていた。
未来を変えようとしているからといって、既に犯したことが消えるわけではない。シンジを連れ戻せたからといって、危険な機体へ乗せている事実も変わらない。
償うことと、裁かれないことは同じではなかった。
ゲンドウは椅子へ座り直すと、眠る息子の顔を見つめた。
いつか真実を話さなければならない。
その時、シンジが自分を父と呼ばなくなる可能性からも、もう逃げることはできなかった。
――
目を覚ますと、白い天井が見えた。
身体を起こそうとして、腕に力が入らないことへ気づく。喉は乾き、頭の奥には鈍い痛みが残っていた。
それでも、自分の身体が何処までなのかは分かった。
右手を動かせば、右手だけが動く。
もう初号機の中ではない。
「起きたか」
横から聞こえた声に、シンジは顔を向けた。
ゲンドウが椅子へ座っている。
眠っていたのか、サングラスを外したまま俯いていた。目の周りには疲労が滲み、髪も普段より僅かに乱れている。
「父さん……」
呼ばれたゲンドウは顔を上げた。
何かを言おうとして、一度口を閉じる。
作戦について叱るべきかもしれない。命令を待たず前へ出た判断は、明らかな失敗だった。無事であったからといって見過ごしてよいものではない。
しかし今、最初に伝えるべき言葉はそれではなかった。
「お帰り、シンジ」
共同墓地から帰った夜と同じ言葉だった。
暗闇の中で帰りたいと願った場所に、自分は戻ってきた。
そのことをようやく実感し、シンジの目から涙が零れた。
「ただいま、父さん」
ゲンドウは泣く息子から目を逸らさなかった。
しばらくして落ち着くと、シンジは第十二使徒の中で見たものを思い出した。
幼い自分。電車。母がいなくなった夜。
そして、一人で泣いていた父。
「父さん」
「何だ」
聞きたいことはあった。
母は初号機の中にいるのか。父は何を知っているのか。あの夜、何故自分まで遠ざけたのか。
だが今は、喉が上手く動かなかった。
「……ずっと、ここにいたの?」
「仕事で一度外した」
少し迷った後、ゲンドウは付け加える。
「それ以外は、ここにいた」
「そっか」
それだけで、今は十分だった。
話せないことが消えたわけではない。シンジも、もう父の沈黙を優しさだけだとは思わない。
けれど、話せない父の隣にいることと、何も知らずに従うことは違う。
いつかもう一度、尋ねようと思った。
――
翌日の午後、病室の扉が勢いよく開いた。
「いつまで寝てるのよ、バカシンジ!」
アスカが紙袋を抱えて立っている。その後ろにはレイもいた。
ゲンドウは既に本部へ戻り、病室にはシンジ一人である。
「病人なんだから、寝ててもいいだろ」
「病人? 検査じゃ何処にも異常がないって聞いたわよ。人に散々心配かけておいて、随分と優雅なものね」
アスカはベッド脇まで歩み寄ると、紙袋をシンジの腹の上へ置いた。
中には飲み物と菓子、それに音楽室で使っていた連弾の譜面が入っている。
「これ……」
「約束を忘れないように持ってきただけ。元気になったら付き合いなさい」
シンジが譜面から顔を上げると、アスカは窓の外を見ていた。
「うん。ありがとう、アスカ」
「お礼を言うくらいなら、今度は勝手にいなくならないで」
声が僅かに震えていた。
シンジは何か答えようとしたが、その前にレイがベッドの反対側へ立つ。
「碇君」
「何、綾波」
「帰ってきて、よかった」
短い言葉だった。
けれど、レイが一晩中、初号機の戻る場所を見つめていたことを知らないシンジにも、その言葉が軽いものではないと分かった。
「うん。ただいま」
レイは小さく頷いた。
「ちょっと、何でレイには素直なのよ」
「アスカが怒鳴るからだろ」
「怒鳴らせてるのはあんたでしょうが!」
病室へ、久しぶりに二人の言い争う声が響いた。
廊下を歩いていたミサトは扉の前で足を止め、中から聞こえる声に肩の力を抜く。見舞いの品を抱えたまま、今は入らない方がよいと判断して壁へ背を預けた。
あの咆哮は、耳の奥に残っている。
シンジを連れ帰ったものへの感謝と、それをエヴァとして運用し続けなければならない恐怖。どちらか一方へ決めることはできなかった。
それでも今、病室の中で言い争っているのは、いつもの子供達だった。
やがて扉が開き、アスカが顔を出す。
「何やってるのよ、ミサト。来たなら入りなさいよ」
「あら、せっかく二人の邪魔をしないよう気を遣ったのに」
「三人よ」
レイが病室の中から訂正する。
「はいはい、三人ね」
ミサトが中へ入ると、シンジは少し困ったように、それでも嬉しそうに笑った。
――
退院した日の夕方、シンジは駅から家までの坂道を歩いていた。
迎えの車を出すと父は言ったが、身体を動かしたかったため断った。手には、アスカが置いていった譜面の入った鞄を提げている。
街は既に修復を始めていた。
第十二使徒の血に濡れた建物は洗浄され、抉れた道路には立入禁止の柵が置かれている。人々は足を止めず、その脇を家へ向かって歩いていた。
誰もが、あの咆哮を忘れたわけではない。
それでも、恐怖だけを見つめて暮らし続けることはできない。
シンジも同じだった。
初号機の中にいるものが何なのかは、まだ分からない。父が何を隠しているのかも、分からないままである。
だが、暗闇の中で帰りたいと思った。
その願いは、自分の我が儘だった。
父に必要だと言ってほしくて初号機へ乗った時と同じ、自分自身の望みだった。
今度は、そのことを恥じようとは思わなかった。
坂の上に、家の灯りが見える。
玄関を開ければ、帰ったと伝える相手がいる。
シンジは鞄を持ち直し、夜が来る前の道を歩いていった。