第十二使徒を殲滅してから、三週間が過ぎていた。
第三新東京市では、初号機の咆哮について様々な噂が流れていた。
第十二使徒が死ぬ直前に上げた声だという者もいれば、ネルフが新しく開発した音響兵器だという者もいる。地下の避難施設にいた生徒達の中には、巨大な生き物が街を歩く夢を見たと話す者までいた。
シンジは、そのどれにも口を挟まなかった。
初号機が第十二使徒を引き裂いた時、自分はエントリープラグの中で意識を失っていた。目を覚ました時には病室におり、父から帰ってきたと言われただけである。
ネルフから受けた説明も、初号機がパイロットの生命維持を優先して自律的に行動したというものに留められている。咆哮を聞いた者が何を感じたのか、シンジには想像するしかなかった。
「昨日も夢に出よったわ」
朝の教室で、トウジが机へ突っ伏した。
「何が?」
尋ねたシンジへ、トウジは眠そうな顔を向ける。
「この前の、あの声や。姿は見てへんのに、夢の中やと何かに追いかけられとる。起きたら布団が床に落ちててな、サクラに寝相が悪いって笑われたわ」
「サクラちゃん、もう家に戻ったの?」
「ああ。まだ通院はしとるけどな。前みたいに病院へ泊まり込まんでもよくなった」
そう答えるトウジの表情には、隠しきれない安堵が浮かんでいた。
シンジも以前、サクラの見舞いへ行ったことがある。あの時より元気になったのなら、喜ぶべきことだった。
「よかったね」
「ああ。せやけど退院した途端、人使い荒うてかなわんわ。昨日も帰りに菓子買うてこい言われてな」
文句を言いながら、何を買ったかまで詳しく話し始める。その様子を見る限り、妹に頼られることが嫌なわけではないらしい。
向かいの席で端末を操作していたケンスケが、二人の会話へ顔を上げる。
「でも、あの声は本当に何だったんだろうな。録音データは全部ネルフに回収されたし、市販の機材じゃ音圧が振り切れてまともに残ってないんだ」
「ケンスケも聞いたの?」
「避難所でな。音だけなら何度でも聞き返したいところだけど、正直、あれをもう一度聞けと言われると迷う」
軍事に関するものなら何でも喜ぶケンスケが、珍しく弱気なことを口にした。
シンジは自分の手へ目を落とす。
あの時、初号機を動かしていたのは誰なのだろう。
自分ではない。
レイは、碇君を守っているものだと言った。
それが母ならば、母は自分を連れ帰るために、第十二使徒を引き裂き、街中の人間を怯えさせたことになる。
守られたことは嬉しい。しかし、その姿を自分だけが知らないことに、僅かな不安もあった。
「碇君」
隣から名前を呼ばれ、シンジは顔を上げた。
レイが教科書を開いたまま、こちらを見ている。
「もうすぐ授業が始まる」
教室の前方には、いつの間にか美術教師が立っていた。トウジとケンスケが慌てて自分の席へ戻り、シンジも机の上を片づける。
噂話はそこで終わった。
初号機が何であるか分からなくても、授業は始まる。
それが今は、有り難かった。
――
美術室の机には、人数分の木片が並べられていた。
掌へ収まるほどの大きさで、角はまだ切り落とされたままの鋭さを残している。その横には彫刻刀と紙やすり、下描き用の鉛筆が置かれていた。
「今日から木彫の制作へ入る」
教師は見本として、幾つかの小さな彫刻を教卓へ並べた。
魚、鳥、芽を出した種、二つの輪。どれも形は簡単だが、表面には刃物で削った跡が残り、同じものを機械で作った時とは違う温かさがあった。
「課題は、身近な誰かのためのお守りだ。ただし、神社や寺で売っているものを真似する必要はない。相手にどうあってほしいか、何が相手を守ると思うか。それを自分で形にする」
教室の中がざわめく。
自分で持ってもよいのか、複数作ってもよいのか、誰にも渡さなくてもよいのか。次々と飛んでくる質問へ、教師は一つずつ答えた。
「自分のためでも構わない。二つ作りたければ、時間内に終わる大きさにしろ。完成した後、相手へ渡すかどうかも自由だ」
最後の言葉を聞き、シンジは木片を手に取った。
誰かのために作る。
最初に浮かんだのは、父の顔だった。
病室で目を覚ました時、ゲンドウは椅子へ座っていた。自分の意識が戻るまで、仕事で一度外した以外は傍にいたと言った。
父にも、無事でいてほしい。
使徒との戦いで最前線へ出るのは自分達だが、父も安全な場所にいるわけではない。停電の時には本部の外から歩いて戻り、南極へも自ら足を運んだ。使徒が来れば、本部が攻撃を受けることもある。
もし父が帰ってこなかったら。
そう考えた瞬間、第十二使徒の中で思い出した、床へ座り込んで泣いていた父の背中が浮かぶ。
シンジは鉛筆を握った。
だが、木片へ線を引くことはできなかった。
何を彫れば、父を守れるのだろう。
眼鏡やピアノを形にすれば、誰のために作ったかは伝わる。しかし、それは父を表す記号であって、自分が父へ願うものではない。
周囲では、既に下描きを始めた生徒もいる。
トウジは、木片の中央へ丸みを帯びた芽を描いていた。二枚の葉が左右へ開き、その下には太い根が伸びている。
「それ、サクラちゃんに?」
「何で分かったんや」
「さっき、元気になったって話してたから」
「まあな。病院に長いことおったから、これからは丈夫に育つようにや」
トウジは照れ臭そうに鼻を擦ると、誰にも見られないよう木片を腕で囲った。
「本人には内緒やで。こんなん作っとると知られたら、兄ちゃんのくせに気色悪い言われるわ」
「サクラちゃんは、そんなこと言わないと思うけど」
「センセは妹っちゅうもんを分かってへん」
妹のいないシンジには否定できなかった。
その反対側では、ケンスケが長方形の板へ細かな文字を書き込んでいる。形はどう見ても軍用の認識票だった。
「お守りというより、装備品みたいだね」
「父さんへ渡すんだ。仕事で本部の危険な区画へ入ることもあるからな。裏に緊急連絡先と血液型を彫っておけば実用性もある」
「木で作った認識票に実用性あるんか?」
トウジの指摘に、ケンスケの鉛筆が止まる。
「……気持ちの問題だ」
「今、気づいたんやろ」
「うるさいな」
二人のやり取りを聞きながら、シンジは少し笑った。
贈る相手を決めた者達は、それぞれのやり方で手を動かしている。上手いかどうか、役に立つかどうかよりも、何を願うかが先にあるように見えた。
少し離れた席では、アスカが一つの木片へ二枚の翼を描いていた。
左右へ大きく広がった翼は中央で繋がらず、それぞれが独立した形になっている。
「二つ作るの?」
ヒカリに尋ねられ、アスカは鉛筆を動かしたまま答える。
「一対で一つよ。片方だけじゃ格好悪いでしょ」
「誰のため?」
「アタシのために決まってるじゃない。誰かに守ってもらわなきゃ何もできないような人間じゃないもの」
言い切った後も、アスカは二枚の翼を木片へ写していた。
左右を完全に同じ形へするため、何度も紙を重ねて線を確かめている。片方だけを自分のために作るのであれば、そこまで揃える必要があるのかとシンジは思ったが、口にはしなかった。
アスカと目が合う。
「何見てんのよ」
「別に」
「自分のが決まらないからって、人の真似しないでよね」
「しないよ」
いつもの調子で言い返し、シンジは隣へ視線を戻した。
レイの木片にも、まだ何も描かれていなかった。
鉛筆を持つ手さえ動かさず、木目を見つめている。
「綾波も、決まらないの?」
「誰のために作るか、考えている」
「大切な人とか、心配な人でいいんじゃないかな」
レイは僅かに首を傾けた。
「一人?」
「一人じゃなくてもいいって、先生は言ってたよ」
「そう」
返事をしたものの、レイはまだ線を引かなかった。
リツコの顔が浮かぶ。
ナオコの顔も浮かぶ。
ゲンドウやシンジも、同じように思い浮かべることができた。
リツコなら猫。ナオコならMAGIの三つの円。ゲンドウなら眼鏡。シンジなら初号機。
けれど、それらを彫ることが、自分の願いになるとは思えなかった。
大切な人が分からないのではない。
一人を選んだ時、選ばなかった者が大切ではないことになるようで、決めることができなかった。
授業の終わりを知らせる鐘が鳴る。
結局、その日にシンジとレイが木片へ刻んだものは、名前だけだった。
――
放課後、シンジとレイは定期検査のためネルフ本部を訪れていた。
アスカは別の日に試験を受けると言い、学校から自分の住居へ帰っている。第十二使徒戦以降、初号機の検査項目が増えたため、シンジだけは以前より本部へ呼ばれる回数が多くなっていた。
検査そのものは、身体測定と神経反応の確認だけで終わった。
初号機へ搭乗することはない。
それでもケージの近くを通ると、シンジの足は僅かに遅くなった。
厚い隔壁の向こうに、初号機がいる。
自分を連れ帰ったもの。
街の人々を怯えさせたもの。
どちらも同じ初号機であることを、まだ上手く受け止められなかった。
「碇君」
先を歩いていたレイが振り返る。
「行かないの?」
「あ、うん」
二人が医療区画を出ると、廊下のベンチにミサトが座っていた。
膝の上には第十二使徒戦の報告書が開かれている。しかし文字を読んでいる様子はなく、片方の手で胸元の首飾りを握っていた。
細い鎖の先に、小さな十字架が下がっている。
普段は服の内側に隠れているため、シンジがそれをはっきり見るのは初めてだった。
「ミサトさん」
呼ばれたミサトは顔を上げ、慌てたように首飾りから手を離した。
「二人とも、検査は終わったの?」
「はい。ミサトさんは、何をしてるんですか」
「見れば分かるでしょ。報告書と仲良くしてるところよ」
言葉とは反対に、開かれている頁は先ほどから変わっていないらしい。レイが隣へ座り、首飾りへ視線を向ける。
「いつも持っているもの?」
「ええ。まあね」
ミサトは十字架を持ち上げた。
長く身につけてきたためか、表面には細かな傷が付いている。装飾品として見れば、特別高価なものには見えなかった。
「父から貰ったの。セカンドインパクトの時にね」
シンジは黙って続きを待った。
仕事ばかりで家族を顧みなかった父を、ミサトが嫌っていたことは、以前に少しだけ聞いたことがある。だが、首飾りについて尋ねられるとは思っていなかったのか、ミサトは困ったように笑った。
「最後に私を脱出用カプセルへ乗せて、これを渡したの。自分は残ったまま」
指先に載せられた十字架が、廊下の照明を反射する。
「お父さんを、許したの?」
レイが尋ねる。
あまりに真っ直ぐな問いに、ミサトはすぐには答えなかった。
父を嫌っていた。
母を泣かせ、自分より研究を選び続けた男である。最後に命を救われたからといって、それまでのことが全て消えるわけではない。
同時に、最後まで嫌いなだけだったと言い切ることもできなかった。
「分からないわ」
ミサトは十字架を掌へ握り込む。
「これを持ってるからって、全部許したわけじゃない。嫌いだったことも、助けてもらったことも、どっちかだけにしたくなかったのかもしれない」
シンジは、父の背中を思い出した。
母がいなくなった夜、一人で泣いていた父。
それを思い出したからといって、自分を先生の家へ預けたことまで悲しくなくなったわけではない。母について何も話してくれないことも、今なお苦しい。
けれど、父が泣いていたことを、なかったことにもしたくなかった。
「持っていると、お父さんを思い出すんですか」
「そうね。思い出したくない時まで、思い出すわ」
ミサトは笑った。
「お守りみたいなものですか?」
学校の課題を思い出し、シンジが尋ねる。
「御利益があるかは怪しいわよ。持ち主がこんなに怪我ばっかりしてるんだもの」
冗談めかした後、ミサトは少しだけ考える。
「でも、帰らなきゃと思うことはある。父が助けた命を、簡単に捨てるわけにはいかないって」
首飾りそのものがミサトを守っているのではない。
そこに残されたものが、彼女に帰る理由を思い出させている。
シンジには、そう聞こえた。
レイは、ミサトの掌の中にある十字架を見つめていた。
「その人がいなくても、残るの?」
「物はね。気持ちは、どうかしら」
ミサトは首飾りを服の内側へ戻す。
「少なくとも、受け取った私の中には残ってる。綺麗なものばかりじゃないけどね」
レイは自分の掌を見つめた。
自分は誰から、何を受け取ったのだろう。
幼い頃より前の記憶はない。自分を産んだ者の顔も、声も知らない。何かを渡されたのか、それとも最初から何も持っていなかったのかさえ分からない。
だが、リツコに作ってもらったパンケーキの味は覚えている。ナオコが初めて名前を呼んだ声も、シンジが笑いかける顔も知っている。
形のあるものではなくても、自分の中には残っていた。
「どうしたの、二人とも。急に黙り込んで」
ミサトに尋ねられ、シンジとレイは顔を見合わせた。
「学校で、お守りを作ってるんです」
「木を彫る」
「へえ。誰にあげるの?」
今度は、二人とも答えなかった。
シンジはまだ、父のためだと言葉にすることが恥ずかしい。
レイは、誰のためなのかを決めていない。
「完成したら見せてね」
ミサトはそれ以上尋ねず、報告書を閉じた。
話しているうちに休憩時間が終わってしまったらしい。立ち上がった彼女の胸元で、服の下へ戻された首飾りが僅かに揺れた。
外からは見えなくても、そこにあることを持ち主は知っている。
シンジは、空の掌を一度握った。
――
その夜、レイがリツコの家へ帰ると、玄関には見慣れた靴が一足多く置かれていた。
居間から、二人分の声が聞こえる。
「だから、今日くらいは出来合いのものでいいでしょう。帰ってきたばかりなのよ」
「出来合いのものが悪いとは言ってないわ。三日続けることが問題だと言ってるの」
「誰のせいで帰りが遅くなったと思ってるの」
「MAGIの再検査を一人で抱え込んだ、あなた自身のせいね」
ナオコが仕事帰りに立ち寄っていた。
食卓の上には、リツコが買ってきた弁当と、ナオコが持参した野菜が並んでいる。どちらを夕食にするかで意見が分かれたらしい。
「ただいま」
レイが声を掛けると、二人が同時に振り返った。
「お帰り、レイ」
「遅かったわね。検査で何かあったの?」
ナオコとリツコの言葉が重なる。
「異常はない。葛城三佐と話していた」
鞄を置き、食卓へ近づく。
弁当だけなら、すぐに食べられる。野菜を料理するなら時間が掛かる。しかし、どちらかを選ばなければならない理由もなかった。
「三人で作れば、早いと思う」
提案すると、リツコとナオコが顔を見合わせた。
「レイは疲れてるでしょう」
「私も切る」
「ほら、本人もこう言ってるわよ」
「母さんは最初から自分で作るつもりがなかったでしょう」
言い争いは続いていたが、三人は揃って台所へ移動した。
ナオコが鍋を用意し、リツコが肉を切る。レイは教えられながら野菜の皮を剥いた。
同じ台所へ三人で立つと、広いとはいえない場所は急に狭くなる。ナオコが振り返るたびにリツコの肩へぶつかり、リツコが包丁を持ったまま動くなと怒る。レイが剥いた人参の皮は途中で何度も切れ、そのたびにナオコが厚過ぎると指摘した。
手際がよいとは言えなかった。
それでも、一人で三人分を作るよりは早く、食卓には温かい料理と買ってきた弁当の惣菜が並んだ。
「妙な組み合わせになったわね」
和風の煮物の横に、中華風の揚げ物が置かれている。
リツコは呆れていたが、ナオコは栄養が取れればよいと気にしていない。
レイは二人の間の席へ座った。
一つの料理を三人で分け、違う場所で作られたものも同じ食卓へ並べる。
誰か一人から与えられた場所ではない。
ナオコが持ってきたもの。リツコが買ってきたもの。自分が切ったもの。それぞれが置かれることで、今夜の食卓ができている。
「学校で、お守りを作る」
レイが話すと、二人の箸が止まった。
「木彫りの?」
「誰かに贈るのかしら」
「まだ決めていない」
リツコは少し残念そうな顔をした。ナオコはそれを横目で見て、何も言わず味噌汁へ口を付ける。
「何を彫るかも、分からなかった。でも、今決まった」
「何にするの?」
レイは食卓を見下ろした。
皿を支える台。三人が囲む場所。誰か一人へ渡さなくても、皆の間へ置くことのできるもの。
「明日、彫る」
それ以上は説明しなかった。
リツコは気になっているようだったが、完成まで聞かないことにしたらしい。代わりに、煮物は悪くないとナオコへ告げた。
「悪くない、は余計よ」
「褒めたつもりだけど」
「あなたは昔から一言多いの」
再び始まった言い争いを聞きながら、レイは僅かに口元を緩めた。
――
翌朝、レイは二人より先に目を覚ました。
昨夜使った食器は片づけられ、台所にはナオコが買ってきた小麦粉と、リツコが冷蔵庫へ入れた卵が残っている。以前、リツコが作ってくれた朝食を思い出し、レイは戸棚から小さなボウルを取り出した。
パンケーキなら、自分にも作れると思った。
そう判断した根拠は、材料が少なく、手順書も短かったからである。粉と卵と牛乳を量り、混ぜ、温めたフライパンへ流す。文字にすれば、それだけだった。
だが、生地がどの程度滑らかになればよいのか、弱火という言葉がコンロのどの位置を示すのかまでは書かれていない。レイは表示された温度を確認しながら、生地の表面に泡が現れるのを待った。
一つ目の泡が割れる。
まだ少ない。
二つ目、三つ目と増えていく。その数を数えることへ意識を向けているうちに、甘い匂いへ僅かな苦みが混じった。
「レイ、何をしてるの?」
寝間着の上へ上着だけを羽織ったリツコが、台所の入口に立っていた。
「朝食を作っている」
レイはフライ返しを差し込み、慎重に生地を裏返した。
現れた面は、均一な狐色ではなかった。中央は黒く、周囲だけが白いままで、見本の写真とは大きく異なっている。
「……随分、思い切った焼き色ね」
リツコは笑いそうになる口元を押さえたが、完全には隠せなかった。
「失敗した」
「最初はそんなものよ。火が少し強過ぎたのね」
捨てようとするレイの手から、リツコが皿を受け取る。黒くなった部分をナイフで薄く削り、まだ柔らかい端を一口食べた。
「食べられる?」
「少し苦いけど、食べられないほどじゃないわ」
その答えが、以前パンケーキを出した時の自分を思い出させた。あの時、幼いレイは初めて笑った。今度は自分が受け取る番なのかもしれない。
物音を聞きつけたナオコも現れ、皿の上を覗き込む。
「火だけじゃないわ。生地を混ぜ過ぎてる。あと、泡を数える必要はない」
「起きて早々、採点しないでちょうだい」
「直すなら原因を知らないと、次も同じものが出来るでしょう」
ナオコはそう言いながら、コンロの火を一段弱めた。リツコが新しい生地を流し、レイは二人の手元を見比べる。
二枚目は端が少し崩れた。
三枚目は丸くなったが、色が薄かった。
四枚目でようやく、見本に近い焼き色が付いた。
三人で食卓を囲む頃には、形も色も違うパンケーキが一枚ずつ重ねられていた。一番下には、黒い部分を削られた最初の一枚も残っている。
レイは最初にそれを自分の皿へ取ろうとした。
だが、リツコが先に半分を切り取り、残りの半分をナオコが持っていく。
「これは私が食べる」
レイが言うと、リツコは小さく首を振った。
「作った人だけが、失敗した分まで全部引き受ける必要はないの」
ナオコは何も言わず、苦い部分へ少し多めの蜂蜜を掛けた。
レイは二人の皿を見た後、四枚目のパンケーキを三つに切り分けた。
焦げた匂いはまだ台所に残っていたが、それを嫌だとは思わなかった。
――
翌日の美術室で、シンジは木片へ屋根を描いた。
大きく張り出した一枚の屋根。その下に、二本の短い線を並べる。
家そのものを彫るつもりはなかった。
同じ屋根の下へ、二人が帰ることのできる形。父が仕事へ出ても、無事に戻ってくることを願う形だった。
二本の線は触れさせない。
同じ家で暮らしていても、自分と父は別の人間である。何もかも分かり合わなくても、同じ場所へ帰ることはできる。
「何やこれ。墓か?」
覗き込んできたトウジに言われ、シンジの鉛筆が止まった。
「違うよ」
「通信基地じゃないか? 上がアンテナの防護壁で、この二本が送信塔」
ケンスケまで加わる。
「どうして二人とも、そんなものにしか見えないんだよ」
「だったら何なのよ」
いつの間にか反対側へ来ていたアスカが、木片を取り上げた。
「屋根でしょ、これ」
シンジは驚いてアスカを見る。
「分かるの?」
「見れば分かるわよ。下の二本は人間か何かでしょ。あんた、絵が下手なんだから、もう少し線を整理しなさい」
木片を返すと、アスカは自分の席へ戻っていった。
トウジとケンスケが、シンジとアスカを交互に見る。
「何だよ」
「いや、別に」
「惣流には分かるんやなと思うただけや」
二人が妙な笑い方をしたため、シンジは追い払うように手を振った。
教師から借りた彫刻刀を手に取る。
まず輪郭の外へ浅く刃を入れ、木目に逆らわないよう少しずつ削る。料理もピアノも、最初に教えられた手順を守ることから始めた。木彫も同じようにすればよいと思った。
だが、一度刃を入れた場所は元に戻らない。
慎重になり過ぎたシンジの手は、なかなか進まなかった。
隣では、レイが円形に切り出した木片へ三本の脚を描いていた。
上から見れば器。横から見れば、小さな卓にも見える。三本の脚は均等な間隔で配置され、中央の窪みを支えていた。
「それ、お守りなの?」
「分からない」
レイは一本目の脚へ彫刻刀を入れる。
「でも、三人でないと立たないもの」
一本では倒れる。二本では傾く。三本が離れ過ぎても、上の器を支えることはできない。
シンジは自分の木片へ描いた二本の線を見る。
最初は、屋根の両端へ離して置いていた。
消しゴムで線を消し、少しだけ中央へ寄せて描き直す。
触れさせることはしなかった。
それでも、最初より互いの姿が見える距離になった。
「碇、手が止まっているぞ」
机の間を回っていた教師が声を掛ける。
「失敗するのが怖くて」
正直に答えると、教師はシンジの木片を手に取った。
「木は削らなければ形が出ない。だが、削ったところは戻らない。だから、何処を残すか考えながら刃を入れるんだ」
当たり前の説明だった。
しかしシンジには、木の話だけではないように聞こえた。
父へ母のことを尋ねた。
答えは得られなかったが、尋ねる前と同じ関係へ戻ったわけでもない。父が何かを隠していることを知り、父もまた、自分が知りたがっていることを知った。
言葉にすれば、それまで見えなかった形が現れる。
同時に、聞かなかったことにはできなくなる。
「少しずつでも、いいですか」
「授業中に終わるならな」
教師は笑い、次の生徒の席へ移った。
シンジは木片を机へ置き、もう一度刃を入れた。
今度は、先ほどより長く木屑が剥がれた。
――
木彫の授業は、一週間に二度行われた。
一度目は形を切り出し、二度目は表面を整える。三度目には、それぞれの作品が木片ではなく、最初に思い描いたものへ近づき始めていた。
トウジの芽は、左右の葉の大きさが違っている。本人は成長の途中を表したのだと言い張ったが、片方を削り過ぎたことは、隣で見ていた全員が知っていた。
ケンスケの認識票には、血液型と緊急連絡先に加え、小さな山と無線機の意匠が彫られた。実用品としての意味は薄れた代わりに、父と一緒に野外へ出かけた時の記憶が加わっていた。
ヒカリは食卓に置かれた三つの器を彫っている。家族全員のものを入れようとして数を増やし過ぎ、木片の中が少々窮屈になっていた。
アスカの翼は、左右がほとんど同じ形に整えられていた。
羽根の一本一本まで細かく彫ろうとするため、他の生徒より作業は遅い。途中で教師から、時間に間に合わなければ簡略化するよう注意されたが、アスカは聞かなかった。
「形が違ったら、一対にならないじゃない」
小さく呟き、左右の翼を何度も並べて比べる。
片方を手元へ残し、もう片方を誰かへ渡せば、離れていても一対のままでいられる。そんな考えが浮かんだことは、一度もなかったことにした。
渡すとすれば誰なのか。第十二使徒の中から帰ってきたくせに、前より高い数値を出し、自分へ向かって何でもないように笑う少年の顔まで浮かんだため、アスカは彫刻刀を強く握った。無事でよかったと思うことと、追い越されたことが悔しいと思うことは、どうして同時に存在できるのだろう。
答えが出る前に、翼の縁が予定より深く削れた。アスカは舌打ちし、それ以上考える代わりに、左右を同じ形へ戻す作業へ没頭した。
誰へ渡すつもりなのか、シンジは尋ねなかった。
自分も、父のために作っていることを話していないからである。
レイの作品は、小さな三脚の器になっていた。
三本の脚を同じ長さへ揃える作業は難しく、机へ置くたびに僅かに揺れる。長い脚を少し削ると、今度は別の脚が浮いた。
「貸してみて」
シンジは器を受け取り、平らな板の上へ置いた。
左右へ軽く押すと、一方へだけ大きく傾く。木片の底へ鉛筆を薄く塗り、板へ擦りつけると、長い脚の先にだけ黒い跡が付いた。
「ここを少し削れば、揃うと思う」
「どうして分かるの?」
「料理で、まな板ががたつく時に父さんがやってたんだ。削るんじゃなくて、下へ布を挟んでたけど」
父の話をした後、自分から口にしたことが少し恥ずかしくなる。
レイは気にした様子もなく、印の付いた脚へ紙やすりを当てた。
少し削り、再び置く。
器はもう揺れなかった。
「立った」
レイは指先で縁へ触れる。
「うん」
二人で小さな器を見ていると、アスカが横から覗き込んだ。
「何それ。灰皿?」
「違う」
レイが即座に答える。
「じゃあ何よ」
「三人でないと立たないもの」
以前と同じ説明を受け、アスカは器とレイの顔を交互に見た。
「分かりにくいわね」
そう言いながらも、もう灰皿とは呼ばなかった。
シンジの屋根も、少しずつ形になっていた。
大きな失敗はない。しかし慎重に削り過ぎたため、刃の跡が細かく重なり、表面は滑らかとは言えなかった。
紙やすりを掛ければ消すこともできる。
けれど、シンジは全てを平らにはしなかった。
自分が何度も迷い、そのたびに少しずつ削った跡である。残っていてもよいと思った。
裏側には、一本の道を彫った。
屋根の外から始まり、二人のいる場所へ戻ってくる道。
何のための線なのか、他の者が見ても分からないだろう。
父が無事に帰るための道だと、自分だけが知っていればよかった。
仕上げの途中、刃が木目へ引っ掛かった。
力の向きを変えた瞬間、彫刻刀の先が滑る。
「あっ」
左手の人差し指に、浅い傷が走った。
血が一筋だけ浮かぶ。
「碇君」
レイが手を止めた。
「大丈夫。少し切っただけ」
教師へ報告し、水で傷を洗う。消毒をして絆創膏を貼れば、それ以上の処置は必要なかった。
席へ戻ると、レイが彫刻刀を置いて待っていた。
「もう削らない方がいい」
「でも、ここだけ終わってないから」
「また怪我をする」
「気をつけるよ」
シンジが作業を再開すると、レイは暫くその指を見ていた。
誰かのために作るものによって、作っている本人が傷つく。
お守りとしては、正しいのか分からなかった。
それでもシンジが刃を置かなかったため、レイも自分の器へ紙やすりを当て直した。
――
ゲンドウが帰宅したのは、午後八時を少し過ぎた頃だった。
第十二使徒戦の後、眠りが浅くなっている。
目を閉じれば、赤い海と、過去の自分が現れることがあった。毎夜同じ夢を見るわけではない。それでも一度目を覚ませば再び眠ることができず、以前より早く本部へ向かう日が増えていた。
その分、帰宅だけは可能な限り遅らせないようにしている。
罪悪感に任せて息子の傍へ居続けたところで、それが父親として正しいとは限らない。だが、何も言わず仕事へ逃げることだけは、もう繰り返したくなかった。
「ただいま」
玄関から声を掛けると、台所からシンジが顔を出した。
「お帰り、父さん。もうすぐ出来るから、着替えてきて」
「ああ」
ゲンドウは靴を脱ぎ、鞄を持ち直す。
その時、シンジの左手に貼られた絆創膏が目に入った。
「手をどうした」
「これ? 美術の授業で、少し」
反射的に左手を背中へ隠す。
何を作っていたのか尋ねられたら、上手く答えられる自信がなかった。
ゲンドウの眉間へ皺が寄る。
「彫刻刀か」
「うん。でも、浅い傷だから大丈夫だよ」
「見せろ」
言われたシンジは、隠した手を戻した。
ゲンドウは絆創膏の周囲を確かめる。血が滲んだ様子も、指の動きに異常もない。
それでも納得しなかったらしく、居間の棚から救急箱を取り出した。
「学校で消毒したよ」
「もう一度確認する」
食卓の椅子へ座らされ、絆創膏を剥がされる。
傷は既に塞がり始めていた。ゲンドウは消毒液を含ませた布で周囲を拭き、新しい絆創膏を貼る。
戦闘で負った傷に比べれば、何でもない怪我である。
それでも父の手つきは、初号機から救出された後の検査結果を確かめる時と変わらず慎重だった。
「父さん、こういうの慣れてるの?」
「以前のお前は、よく転んだ」
「僕が?」
「歩き始めた頃だ」
自分の知らない自分を、父は知っている。
当たり前のことなのに、シンジには不思議だった。
母が生きていた頃、父も自分の怪我を手当てしていたのだろうか。聞いてみたかったが、今は目の前の手元を見ているだけにした。
「何を作っている」
恐れていた質問が来る。
「まだ、完成してないんだ」
「そうか」
ゲンドウは、それ以上尋ねなかった。
聞かれずに済んで安心したはずなのに、シンジの胸には僅かな物足りなさが残った。
尋ねてほしいのか、隠しておきたいのか、自分でも分からない。
手当てを終えたゲンドウは、救急箱を棚へ戻す。
「彫刻刀は、刃の先へ手を置くな」
「分かってるよ。今日は滑っただけで」
「分かっていて怪我をしたのなら、次は直せ」
叱られているはずだが、声に冷たさはなかった。
「うん。気をつける」
シンジは貼り直された絆創膏を見つめた。
父を守るために作っているものは、まだ父へ見せられない。
その父が、お守りを彫って傷ついた指だけを手当てしている。
少しおかしくなり、シンジは笑った。
「何だ」
「何でもない。夕飯にしよう、父さん」
――
次の授業で、作品は完成した。
教卓の上へ、全員の木彫りが並べられる。
上手く彫れたものもあれば、何の形か説明を聞かなければ分からないものもある。教師は技術だけで評価せず、制作意図を書いた短い紙を作品の横へ置くよう指示した。
トウジは芽の横へ、丈夫に育つように、とだけ書いた。
誰へ渡すかは書いていない。それでもシンジ達には、妹のためであることが分かっている。
ケンスケは、離れていても帰る場所を忘れないため、と記した。認識票の裏には、山と家を繋ぐ一本の通信線が追加されている。
アスカの一対の翼は、最後まで左右同じ形へ整えられた。
制作意図の紙には、何処へでも自分の力で飛べるように、と書かれている。
「二つとも自分で持つのか?」
教師に尋ねられ、アスカは二枚の翼を掌へ載せた。
片方ずつでは、左右の違いが分からない。並べた時にだけ一対であることが伝わる。
「当然でしょ」
答えながら、アスカは二つを別々の布へ包んだ。
何故一緒に包まないのか、誰も尋ねなかった。
レイの三脚の器は、作品の中でも変わった形をしていた。
小さ過ぎて物を入れることはできず、首から下げる穴もない。一般的なお守りには見えない。
それでも三本の脚で立つ姿は安定し、中央の窪みには、窓から入る光が溜まっていた。
制作意図を書く紙を前に、レイは暫く考えた。
三人でないと立たないもの。
最初は、それだけを書くつもりだった。
だが、三本の脚が表すのは、自分とリツコとナオコだけではないように思えた。
学校へ来れば、シンジやトウジ達がいる。ネルフにはゲンドウやミサトがいる。一人では立てないということは、一生同じ三人だけでいなければならないという意味ではない。
レイは紙へ、帰る場所を支えるもの、と書いた。
シンジの作品は、屋根の形をした小さな札になった。
屋根の下には、触れ合わない二本の線が並んでいる。裏返すと、外から屋根の下まで続く道が一本だけ彫られていた。
削った跡は残り、左右も完全な対称ではない。
それでも、最初の木片にはなかった形が、掌の上にあった。
制作意図の紙には、無事に帰るため、と書いた。
誰が、何処へ帰るのかまでは書かなかった。
「よく出来てる」
隣からレイが言った。
「そうかな。表面も綺麗じゃないし、少し曲がってるけど」
「でも、屋根に見える」
最初から見抜いたアスカとは違い、レイは完成した形を見て答えた。
「綾波のも、ちゃんと立ったね」
「碇君が、削る場所を教えたから」
「僕は印を付けただけだよ」
「同じ」
レイにとっては、手を加えた量より、自分一人では気づかなかったことの方が大切らしい。
展示を終えると、作品はそれぞれの持ち主へ返された。
トウジは芽を鞄の奥へ隠し、サクラへ渡すところを誰にも見られないよう、今日は先に帰ると言った。
ケンスケは父親へ見せる前に防水加工を施すと言い、ホームセンターへ向かった。
アスカは二枚の翼を別々のポケットへ入れた。左右のどちらを何処へ入れたか確かめるように、一度ずつ上から手で触れている。
レイは三脚の器を両手で包み、リツコの待つ家へ持ち帰った。
シンジも屋根の形をしたお守りをポケットへ入れた。
渡す相手は、決まっている。
しかし、今日渡すのかは決められなかった。
――
レイが帰宅した時、リツコは居間で仕事をしていた。
食卓の端へ携帯端末と資料を広げ、MAGIの検査記録へ目を通している。夕食の支度はまだ始まっておらず、時計を見る限り、本人も時間に気づいていないらしい。
「ただいま」
「お帰り、レイ。ごめんなさい、もう少しだけ待って」
返事をしながらも、リツコの視線は画面から動かなかった。
レイは鞄から木彫りの器を取り出し、食卓の中央へ置いた。
木が机へ触れ、小さな音が鳴る。
そこで初めて、リツコが顔を上げた。
「それが、お守り?」
「そう」
「誰に渡すの?」
「ここに置くもの」
レイは食卓を指した。
「三人でないと立たない。帰る場所を支えるもの」
リツコは三本の脚を見た。
一本はレイ。もう一本は自分。そして残る一本が誰であるか、尋ねる必要はなかった。
母と娘という言葉だけでは、三人の関係を正しく表せない。ナオコはレイを連れてきた者であり、リツコは長い時間を共に過ごした姉のような存在であり、レイは二人の間へ後から加わった。それでも今は、三人のうち一本を抜けば、同じ形では立たない。
「そう」
リツコは端末を閉じた。
それ以外の言葉がすぐに見つからず、器の縁を指で撫でる。
「母さんにも見せないとね」
「今度、来た時に見せる」
その時、玄関の呼出音が鳴った。
リツコが扉を開けると、紙袋を抱えたナオコが立っていた。
「近くまで来たから、夕食を食べていこうと思って」
「連絡くらいして。まだ何も作ってないわよ」
「ちょうどいいじゃない。三人で作れば早いわ」
先日のレイと同じ言葉を口にし、ナオコは勝手知った様子で居間へ入る。
食卓の中央に置かれた小さな器を見つけ、足を止めた。
「何これ。灰皿?」
レイの表情が僅かに曇る。
「母さん」
リツコの声が低くなった。
「冗談よ。木製の灰皿なんて使ったら燃えるでしょう」
ナオコは笑いながら器を持ち上げ、底にある三本の脚を確かめる。
「三人でないと立たないもの」
レイが説明する。
ナオコの指が止まった。
「ここに置く」
食卓の中央を示すレイを見て、ナオコは一度だけリツコへ視線を向けた。
娘は何も言わず、小さく頷く。
「そう。それなら、置く場所を空けないとね」
ナオコは食卓へ広げられていた仕事の資料を集め、リツコへ押しつけた。
「どうして私が片づけるのよ」
「あなたの仕事でしょう」
「母さんが勝手に動かしたんじゃない」
二人が言い争う間に、レイは器を食卓の中央へ戻した。
三本の脚は揺れない。
その周囲へ、これから三人分の皿が並ぶ。
レイは小さく笑った。
――
同じ夜、シンジはゲンドウの部屋の前に立っていた。
父は既に帰宅している。
夕食を終え、それぞれの部屋へ戻った後であった。扉の向こうからは、時折、紙をめくる音が聞こえる。
シンジの右手には、完成したお守りが握られていた。
父さんのために作った。
無事に帰ってきてほしい。
言葉にすれば、それだけで済むはずだった。
扉を叩き、渡せばよい。
けれど、腕は上がらなかった。
必要ないと言われることが怖い。
それ以上に、父が喜んだ時、自分がどんな顔をすればよいのか分からないことも怖かった。
これまで、父に何かを渡した記憶はほとんどない。幼い頃にはあったのかもしれないが、覚えていなかった。
扉の向こうで、椅子の動く音がした。
シンジは反射的にお守りをポケットへ隠す。
扉が開き、ゲンドウが姿を現した。
「どうした」
「えっと……お茶、飲む?」
口から出たのは、用意していなかった言葉だった。
ゲンドウは一度、シンジの顔を見る。
「貰おう」
「じゃあ、淹れてくる」
シンジは逃げるように台所へ向かった。
お守りは、ポケットの中に残っている。
二人分の茶を用意し、居間で父と飲んだ。話したのは学校の授業と、夕食の味付けについてだけだった。
美術で何を作ったかまでは、口にできなかった。
それでも以前なら、父の部屋の前から何も言わず自室へ戻っていただろう。
渡すことはできなかったが、二人で茶を飲む時間は残った。
自室へ戻ると、シンジは机の引き出しを開けた。
屋根の形をしたお守りを、進路希望調査票の控えの隣へ置く。
隠して捨てるためではない。
いつか渡すために、失くさない場所へしまう。
引き出しを閉じた後も、掌には木の硬さと、削った跡の感触が残っていた。
――
翌朝、ゲンドウは普段より少し遅い時間に玄関へ向かった。
昨夜、シンジと茶を飲んだため、持ち帰った報告書を全て読むことはできなかった。かつての自分なら、無駄にした時間だと考えたかもしれない。
今は、そうは思わなかった。
「行ってくる」
靴を履き、居間へ声を掛ける。
朝食の片づけをしていたシンジが、台所から顔を出した。
「行ってらっしゃい、父さん」
ゲンドウは頷き、玄関の扉を開く。
外へ出た父の背中を、シンジは扉が閉じるまで見送った。
無事に帰ってきてほしい。
昨夜渡せなかったお守りは、自室の引き出しにある。
今はまだ、そこにあるだけだった。
けれど、木片だったものへ自分の手で形を与えたように、言えなかった言葉も、いつか形にできるかもしれない。
玄関の扉が閉じる。
シンジは自室の机へ一度だけ目を向けると、自分も学校へ行くための支度を始めた。