第三新東京市では、山間部で行われた戦闘について詳しいことは公表されていない。市民へ伝えられたのは、郊外の実験施設で事故が発生し、ネルフが所有する大型機材の回収作業を行ったということだけである。
使徒接近を知らせる警報は鳴らず、避難命令も出なかった。市街地から離れた場所で起きたため、学校も店も普段どおりに動いており、その普段どおりの朝に、鈴原トウジだけが普段とは違う鞄を持って登校してきた。
「トウジ、その鞄どうしたんだ?」
自分の席から身を乗り出したケンスケが、トウジの机へ置かれた黒い鞄を指差す。学校指定の物とは違い、表面には何の印もない。しかし以前、シンジがネルフへ向かう時に持っていた物とよく似ていた。
「スポーツ用品や。最近、身体が鈍っとるからな」
「学校へ持ってくる必要あるのか?」
「放課後そのまま行くんや。いちいち家へ帰っとったら遅なるやろ」
用意していた答えを並べながら、トウジは鞄を机の下へ押し込んだ。中に入っているのは運動着ではなく、ネルフの施設内で使う簡易訓練服と資料である。
ケンスケは疑わしそうに鞄を見ていたが、教室へ入ってきた担任に気づき、ひとまず自分の席へ戻った。
その様子を少し離れた席から見ていたシンジは、トウジと目が合うと小さく頷いた。約束どおり何も話してはいない。
レイも教科書を開いたまま、会話へ口を挟まなかった。
ただ一人、事情を知りながら隠す気のないアスカだけが、ホームルーム開始直前にトウジの机を軽く蹴った。
「今日も遅れないでよ。新人一人のために全員の予定をずらすなんて御免なんだから」
「お前、もう少し声を抑えられへんのか!」
慌てて周囲を見回すトウジに、アスカは鼻を鳴らした。
「何のことかなんて言ってないでしょ。怪しまれるような反応をするあんたが悪いのよ」
「アスカの言い方も悪いと思う」
シンジが口を挟むと、アスカはすぐに矛先を変えた。
「うるさいわね。あんたも今日は定期試験なんだから、遅れたら承知しないわよ」
「分かってるよ」
返事をしたシンジの顔を一瞬だけ見て、アスカは自分の席へ戻った。
机の中へ鞄を入れながら、今朝確認した予定表を思い出す。
今日は四人目を加えた最初の合同訓練であり、三人の定期シンクロテストが行われる日でもあった。
誰よりも高い数値を出す。それは予定表の何処にも書かれていない、アスカだけの目標だった。
――
放課後、トウジはシンジ達と同じ車でネルフ本部へ向かった。
検問で新しい身分証を読み取らせると、これまで来訪者と表示されていた欄へ第四適格者の文字が現れる。未だに慣れない肩書を見つめている間にも車は先へ進み、巨大なジオフロントが窓の外へ広がった。
「何度見ても、でかいもんやな」
「そのうち見慣れるわよ」
向かい側に座るアスカが答える。
「初めて来た時は、アスカも驚いた?」
シンジの何気ない質問に、アスカは僅かに言葉を詰まらせた。
「驚くわけないでしょ。ドイツ支部にも大規模な施設はあったんだから。ただ、日本の本部が想像していたよりはマシだった、それだけよ」
「それを驚いた言うんとちゃうか」
「新人は黙ってなさい」
車が訓練区画へ到着すると、トウジだけが別の更衣室へ案内された。まだ正式なプラグスーツは完成していないため、渡されたのは身体の動きを計測する簡易スーツである。
着替えを終えて訓練室へ入ると、既にプラグスーツ姿の三人が待っていた。
室内には人間用の座席を中心として、操縦桿、ペダル、視線追跡装置が半円状に配置されている。エヴァとの神経接続を再現することはできないが、基本的な命令入力と緊急時の手順を学ぶための装置だった。
「まずは座りなさい」
アスカが教官のように装置を指す。
「何でお前が仕切っとるんや」
「ミサトに頼まれたのよ。基本操作を教えるだけなら、実戦経験の一番多い私が適任でしょう?」
実際には、ミサトから頼まれたのは三人全員だった。だが、説明を始める前にアスカが端末を奪ったため、シンジとレイは補助へ回っている。
トウジが座席へ身体を固定すると、正面の画面へエントリープラグ内部の映像が表示された。
「いい? エヴァは機械みたいに操縦桿を動かせば、そのまま動くわけじゃない。基本は自分の身体を動かすつもりで命令するの。このレバーやペダルは、その意思を補助するための物よ」
「それは座学で聞いた」
「聞いたことと、出来ることは違うわ。だったら右腕を上げてみなさい」
画面へ模擬機体が現れる。トウジは右の操縦桿を握り、肩へ力を入れた。
模擬機体は勢いよく腕を振り上げ、そのまま自分の頭部を殴った。
「痛っ!」
実際に痛みがあるわけではない。それでも映像につられ、トウジは反射的に頭を押さえた。
「力み過ぎ。腕を上げるだけなのに、何で殴りつける命令になるのよ」
背後でシンジが吹き出しそうになり、トウジは振り返った。
「笑うなや、センセ!」
「ごめん。でも僕も最初は、歩くだけで壁にぶつかったから」
「碇君の場合、初めて乗った時は実機だったものね」
レイが言うと、トウジは画面の模擬機体へ向き直った。目の前で自分の頭を押さえている巨人が、もし本物だったなら、周囲の設備を壊していたかもしれない。
「こんなもんに、いきなり乗ったんか」
「うん。でも、父さん達が出来る限り準備してくれていたから」
以前のシンジならば、何も分からないまま乗ったと答えていただろう。今は、父が自分へ選択を委ね、その選択に備えていたことを知っている。
「思い出話は後にして。もう一度よ」
アスカが訓練を再開させる。
二度目は肘までしか上がらず、三度目は肩が不自然に捻れた。四度目でようやく、模擬機体の右腕が人間らしい軌道を描く。
「出来た!」
「腕一本上げたくらいで喜ばない。次は立ち上がって三歩前進、その後に緊急停止」
「少しくらい褒めてもええやろ!」
「使徒はあんたが初心者だからって待ってくれないわよ」
アスカは容赦なく次の項目を表示する。
最初の一歩で模擬機体は前へ倒れ、二度目は右脚と左脚を同時に動かして跳ねた。何度も失敗を繰り返しながら、トウジはようやく三歩進んで停止する。
額には汗が滲んでいたが、そんなトウジへ休む時間を与えることなく、アスカは次の訓練項目を開いた。
「これで、まだ入口よ」
アスカは汗を拭う暇も与えず、画面へ緊急手順の一覧を出した。
「外部電源の切断、神経接続の遮断、エントリープラグの緊急排出。順番だけじゃなく、どんな時にどれを使うか覚えなさい」
「前の戦いみたいに、変なもんが機体へ入ってきた時か」
トウジの言葉に、アスカの指が一瞬だけ止まった。
三号機の指に残った弐号機の装甲片。そこへ広がった黒い筋。もし外装を切り離す判断が僅かでも遅れていれば、侵食は弐号機の神経回路へ到達していた。
「そうよ。異常を感じたら、格好つけずに接続を切る。自分だけで何とかしようとしないこと」
「えらい慎重なんやな」
「経験から教えてあげてるの。適性が高いってだけで、あんたはまだ何も出来ない。操縦も判断も、私達よりずっと下なんだから」
「そこまで言わんでもええやろ」
「事実よ。才能があるから選ばれた。それは入口へ立つ資格を貰っただけ。使徒の前で生き残れるかは、そこからどれだけ積み重ねたかで決まるの」
厳しい言葉だったが、トウジは反論せず頷いた。
アスカは自分自身にも同じ言葉を向けていた。
適性だけではない。実戦経験も、訓練時間も、操縦技術も、自分の方が上でなければならない。
そうでなければ、自分がここにいる理由を何処へ求めればよいのか分からなかった。
――
合同訓練を終えた後、三人は定期シンクロテストのため実験区画へ移動した。
トウジはまだ実機へ接続できないため、観測室で基礎適性検査を受けながら見学する。
眼下では、初号機、零号機、弐号機のエントリープラグを模した試験槽が並んでいた。零号機は左腕を失ったまま修復作業を続けているため、今回は三機とも実機を動かさず、それぞれのコアから取得した反応記録を再現する簡易試験となっている。
「三名とも接続正常。ハーモニクスに異常ありません」
マヤの報告を聞き、リツコは試験開始を指示した。
「基準深度から開始。前回の数値を越えても、予定値以上には上げないで」
『分かってるわよ』
リツコがわざわざ念を押したことが気に入らなかったのか、真っ先に返事をしたアスカの声には僅かな苛立ちが混じっていた。
プラグ内へL.C.L.が満ち、弐号機を模した神経回路が意識へ接続される。実機と同じ反応を完全には再現できない。それでも、自分の輪郭が僅かに広がる感覚は変わらなかった。
アスカは呼吸を整え、余計な力を抜いた。
数値を上げようと意識し過ぎれば、かえって同調を乱す。そんな基本を誰よりも理解しているからこそ、何も考えないようにする。
だが、隣の試験槽にシンジがいると考えた瞬間、波形が僅かに揺れた。
「弐号機系、規定値へ到達。安定しています」
マヤが読み上げた数値は前回よりも僅かに上がっており、決して悪い結果ではなかった。
続いて零号機系の数値が表示され、最後に初号機系が基準値を越えた。
「初号機系、前回値を更新」
その報告を聞いた瞬間、閉じられていたアスカの目が開いた。
「いくつ?」
『試験中よ。数値の確認は終了後にしなさい』
リツコに止められ、アスカは再び目を閉じた。
まだ終わっていない、ここから上げればよい。そう自分へ言い聞かせるほど呼吸は浅くなっていった。
意識を弐号機へ近づける。腕を動かし、脚を踏み出し、刃を振るう自分を想像する。これまで倒してきた使徒と、積み重ねた訓練を一つずつ思い出す。
狙い通り数値は上昇したが、それと同時に神経接続へ小さな乱れが生じた。
「アスカ、予定値へ到達したわ。そこで維持して」
『まだ上げられるわ』
「上げる必要はない。これは競争ではなく、安定性を調べる試験よ」
『安定してるでしょ!』
返した声が、自分で思っていたより大きかった。
観測室のトウジが顔を上げる。隣のプラグにいるシンジにも聞こえたはずだ。
「全員、現在値を維持。残り三十秒」
リツコはそれ以上何も言わず、試験を続行した。
アスカは奥歯を噛み、乱れかけた波形を押さえ込む。数値は下がらなかった。それでも、初号機系の表示へ追いつくこともなかった。
それから三十秒、アスカは乱れかけた波形を維持し続け、試験は大きな異常を起こすことなく終了した。
――
着替えを終えて観測室へ戻ると、端末には三人の結果が並んでいた。
最も高いのはシンジ。次がアスカ、その下にレイ。
数値の差は決して大きくない。戦闘の勝敗を決定づけるほどのものでもなく、機体ごとの違いを考えれば単純な比較に意味はないと、結果の横にも注意書きがある。
その注意書きがどれほど正しくても、並んだ数字の順位だけは一目で分かった。
「シンジ君は前回より上昇。レイも安定している。アスカは最終段階で波形が乱れたけれど、数値自体は上がっているわ」
リツコの評価に、シンジは自分の結果より先にアスカの画面を見た。
「アスカも上がったんだ。すごいね」
悪意も優越感もない、本心からの言葉だったからこそ、アスカの胸へ深く刺さった。
「何を喜んでるのよ。あんたが上だったから、慰めてるつもり?」
「違うよ。アスカは操縦も上手いし、今日のトウジへの教え方も――」
「シンクロ率なんて、エヴァへしがみつくのが上手いかどうかの数字よ。実戦なら私の方が上なんだから、そんなもので勝った気にならないで」
「勝った気になんてなってないよ」
シンジが困ったように答える。
その態度まで気に入らなかった。自分だけが競争して、自分だけが負けたことを気にしているように思えたからだ。
「だったら、その情けない顔をやめなさい!」
言い捨て、アスカは結果の記録端末を乱暴に閉じた。
レイが無言で彼女を見る。
以前であれば、その視線も同情だと決めつけて怒鳴っていただろう。今はレイが何も言わず待っているだけだと分かる。それが分かる程度には、三人で過ごした時間が増えていた。
「何よ」
「何でもないわ」
「だったら見ないで」
「見ていないと、アスカが何処かへ行きそうだったから」
思いがけない答えに、アスカは一瞬だけ黙った。
「追加訓練よ。新しい模擬戦のデータが入ったって聞いたから、試してくるだけ」
「今日は定期試験の後だから、追加訓練は禁止されているわ」
「申請すれば問題ないでしょ」
反論を待たず、アスカは訓練室へ向かった。
――
追加訓練の申請は、本来なら却下されるはずだった。
しかし弐号機用の新装備について、翌日に予定されていた基礎動作試験を前倒ししたいという技術部からの要望が重なったため、低負荷で一度だけという条件で許可が下りた。
アスカが向かった第三訓練場には、巨大な白布を掛けられた細長い物体が横たわっていた。
周囲では整備員が計測機器を接続し、ナオコとリツコが最終確認を行っている。
「随分と都合の良い時に来たわね」
リツコは呆れたように言った。
「新兵器の試験なら、私以外に誰がやるのよ」
「まだ何も説明していないでしょう」
「弐号機用って聞いたわ。なら私の物よ」
ナオコが合図すると、整備員が白布を取り払った。
現れたのは、エヴァの身長に迫るほど長い一振りの実体剣だった。
マゴロクソードより長く、刀身は僅かに反っている。分厚い背と細く絞られた刃先を持ち、柄の根元から伸びた複数の接続端子が、刀身内部の高周波振動装置へ電力を送る構造になっていた。
装飾はない。試作機らしく表面には計測用の線と番号が残り、刀身の一部では内部構造が露出している。
それでもアスカの目には、これまで見たどの兵器よりも美しく映った。
「名称はオサフネ。カウンターソードとマゴロクソードの運用結果を基にした、次世代近接兵器の試作型よ」
リツコが端末へ構造図を表示する。
「最終的には、刀身全域の振動位相をA.T.フィールドへ合わせ、対象の防御ごと切断するビゼンオサフネへ発展させる予定。ただし、これはそこまで完成していない」
「どのくらい切れるの?」
「話を最後まで聞きなさい。現時点でもマゴロク以上の切断力はあるわ。その代わり長く、重く、最大出力では刀身へ掛かる負荷も大きい。連続使用すれば刃が持たないし、弐号機の手首と肘にも無視できない負担が掛かる」
「壊れる前に敵を切れば良いんでしょ」
「そういう考え方をする人間だから、試験前に説明しているのよ」
ナオコが二人の間へ入り、アスカへ別の資料を渡した。
試験運用者の選定理由が記されている。
弐号機が正式な戦闘用エヴァであること。マゴロクソードの実戦運用経験を持つこと。近接戦闘における運動制御能力が三人の中で最も高いこと。
そこには、シンクロ率という文字は一つもなかった。
「あなたが選ばれたのは、数字が高いからではないわ」
ナオコが言う。
「今、この剣を最も上手く扱えるのがあなただからよ」
アスカは資料から顔を上げた。
先ほどまで胸の中へ沈んでいたものが、少しだけ軽くなる。
「当然ね。最初からそう言えばいいのよ」
いつもの調子で答え、試験用プラグスーツの腕を引き上げた。
――
オサフネの動作試験には、実機ではなく弐号機の運動系を再現した模擬躯体が使われた。
無人の巨人が立つ試験場で、アスカは遠隔接続された操縦席へ座る。神経接続の代わりに、身体へ取り付けたセンサーが腕や腰の動きを読み取り、模擬躯体へ送る方式である。
「まずは出力二十パーセント。持ち上げて、規定された型を三つ。標的へは接触させないで」
リツコの指示に従い、アスカはオサフネの柄を握る動作を行った。
模擬躯体が両手で剣を持ち上げる。
重量で肩が沈み、片脚が僅かに後ろへ滑った。
「重っ……!」
「だから説明したでしょう」
「これくらい、すぐ慣れるわよ」
一度剣を下ろし、足の位置を変える。腕だけで持つのではなく、腰を落とし、全身で重量を支える。
二度目は刀身が揺れなかった。
上段から正面へ振り下ろし、途中で止める。右から左へ薙ぎ、刃先を床へ触れさせず静止。最後に身体を回転させ、背後へ切り返す。
長い刀身が模擬躯体の周囲へ銀色の円を描いた。
「姿勢制御、規定値内です」
マヤの報告に、観測室の技術者達から小さな歓声が上がる。
アスカは得意そうに笑った。
「だから言ったでしょ。次は標的を出しなさい」
試験場の床から、複合装甲で作られた巨大な柱がせり上がる。表面には簡易的なA.T.フィールド干渉膜が展開され、通常の実体剣では刃を通すことができない。
「出力四十パーセント。一度だけよ」
オサフネの刀身へ電力が送られ、低い振動音が試験場を満たした。
アスカは剣を右肩へ構える。
視界の端に、観測室へ入ってくるシンジ、レイ、そしてトウジの姿が見えた。追加訓練へ向かったアスカが戻らないため、様子を見に来たらしい。
シンジに見られている。その意識が、アスカの中で再び数値への焦りを呼び起こした。
四十パーセントで切れる標的を切っただけでは、自分が上だと証明したことにならない。
「アスカ、開始して」
リツコの声と同時に踏み込むと、模擬躯体が全身を使ってオサフネを振り抜いた。
刃は干渉膜へ接触し、火花を散らす。一瞬だけ押し戻されたが、高周波振動が膜の位相を乱し、刀身が装甲へ食い込んでいく。
このままでも切れる。そう分かっていながら、アスカは出力調整へ手を伸ばし、指定された四十から六十へ引き上げた。
振動音が甲高く変わり、オサフネが標的を一気に両断する。
切断された上半分が床へ落ち、轟音を上げた。
同時に模擬躯体の右腕から警告が発せられる。
「右手首部、負荷上昇! オサフネ第一振動子にも亀裂!」
「直ちに出力を落として!」
リツコの命令を受け、アスカは剣を停止させた。
試験場へ静けさが戻る。標的は完全に切断され、僅かに溶けた切断面は鏡のような光沢を帯びていた。
間違いなく成功ではある。しかしそれは、予定された条件の中で得られた成功ではなかった。
「四十パーセントと言ったはずよ」
観測室へ戻ったアスカを、リツコが待ち受けていた。
「切れたんだから問題ないでしょ。刀身だって壊れてないわ」
「第一振動子に亀裂が入った。模擬躯体の手首も、実機なら整備が必要な負荷よ」
「でも次は対策できる。どのくらいまで使えるか分かったんだから、試験としては成功じゃない」
「命令された条件を守った上で、必要なデータを取るのが試験よ。壊れる限界を勝手に確かめることではないわ」
「実戦で四十パーセント以上必要になったら、誰かが確かめたデータもないまま使えっていうの?」
理屈だけなら間違っていない。だからこそ、リツコはすぐに言葉を返せなかった。
その隙にアスカは端末を置き、出口へ向かう。
立ち上がった瞬間、足元が僅かに揺れた。
シンクロテストの後に追加訓練を行い、重量のある剣へ集中し続けた反動だった。吐き気を押し込み、何事もなかったように一歩踏み出す。
「おい」
すぐ傍にいたトウジが、アスカの腕を掴んだ。
「何よ。離しなさい」
「今、ふらついたやろ」
「床が揺れただけよ」
「ワシには揺れとらんかったけどな」
シンジとレイも近づいてくる。
「アスカ、顔色が悪いよ」
「平気だって言ってるでしょ!」
腕を振りほどいた勢いで、視界が再び傾く。それでも壁へ手をつくことだけは耐えた。
トウジは呆れたように眉を寄せた。
「人には格好つけずに止めろ言うといて、自分は無茶するんか」
「これは無茶じゃない。必要な訓練よ」
「今日やる必要があったんか?」
「あるわよ」
何のために今日でなければならなかったのか。明確に答えようとすれば、シンジに負けたままでいたくなかったからだと認めなければならない。
アスカは三人から顔を逸らした。
「ひよっ子どもに背中を任せてらんないのよ。あんたはまだ歩くことも出来ない。レイは零号機の左腕が直ってない。バカシンジは数字だけ上がっても、相変わらず危なっかしい。だったら私が、その分まで強くなるしかないでしょ」
「誰がひよっ子や」
トウジが反発する。
「今日、自分の頭を殴った奴が何を言ってるのよ」
「それは今関係ないやろ!」
「関係あるわ。あんた達が一人前になるまで、私が前で戦うの。だからこれくらい――」
言葉の途中で、シンジがアスカの肩を支えた。
「だったら、僕達が一人前になるまで倒れないでよ」
近い距離から真っ直ぐ見られ、アスカは言葉を失った。
第十二使徒戦の前から、二人は互いの目を長く見られなくなっている。意識してしまえば、以前触れた唇まで思い出してしまうからだ。
「は、離しなさいよ。自分で歩けるわ」
「じゃあ医療区画まで自分で歩いて。僕達も一緒に行くから」
「子供じゃないんだから、ついてこなくていい!」
「子供でしょう。私達は全員」
レイが静かに言った。
「アスカだけが、急いで大人にならなくてもいいと思う」
その言葉を聞き、アスカは反射的に言い返そうとしたが、喉まで出かかった言葉は声にならなかった。
代わりにシンジの手を肩から払い、先頭に立って医療区画へ歩き始めた。
「勝手についてくれば」
背後で三人の足音が続く。
振り返りはしなかったが、誰もいなくならないことだけは分かった。
三人がアスカを連れて訓練場を出た後、リツコは切断された標的と、固定台へ戻されたオサフネを交互に見つめていた。
予定外の出力を使ったとはいえ、試験そのものは成功している。重量のある刀身へ短時間で適応し、簡易的なものとはいえA.T.フィールド干渉膜ごと複合装甲を切断した。アスカの技量がなければ得られなかったデータであることは認めざるを得ない。
「怒らなくて良かったの?」
隣に立ったナオコが尋ねる。
「怒ったわよ。あの子が聞かなかっただけ」
リツコは端末へ残された操作記録を開いた。出力が四十から六十へ引き上げられる直前、アスカの視線は一度だけ観測室へ向いている。
その先に誰がいたかまで、わざわざ確認する必要はなかった。
「シンジ君の結果を気にしているのね」
「以前からよ。自分より後から乗った子に追いつかれたのだから、面白くないのは当然でしょう」
「それだけなら、あそこまで無理はしないわ」
ナオコは亀裂の入った振動子を拡大する。
「この子は、結果を出せない自分には価値がないと思っている。だから誰かに追いつかれるたび、もっと危険な場所へ自分から進もうとする」
「分かっているわ」
リツコの返事は短かった。
アスカの操縦技術を評価し、試作兵器を任せたのは間違いではない。しかし武器を与えることが、彼女の焦りへ理由を与えることにもなり得る。
「次の試験では、出力制限をこちらから解除できないようにする。それと弐号機の腕部保護を優先。刀身が壊れるより先に、パイロットへ負荷が返る構造は認められないわ」
「アスカ本人には?」
「報告書を書かせる。その上で、何故自分が選ばれたのかもう一度説明するわ」
ナオコは僅かに笑った。
「随分と面倒を見るのね」
「兵器の責任者として当然でしょう」
そう答えたリツコの視線は、既に誰もいない出口へ向いたままだった。
ナオコはそれ以上追及せず、オサフネの修正箇所を端末へ書き込み始める。
強い刃を作るだけでは足りない。それを握る手まで壊してしまえば、子供を戦場から守るために武器を作るという目的そのものを失うのだから。
――
診断結果は、軽い疲労と一時的な神経接続酔いだった。
点滴を受けて一時間休めば帰宅してよいと言われ、アスカは医療区画のベッドへ座っていた。
隣の椅子ではシンジが本を読み、レイはトウジへ訓練資料の続きを説明している。
「何で全員残ってるのよ」
「一緒に来たから」
レイが当然のように答える。
「もう検査は終わったんだから帰ればいいでしょ」
「アスカを一人で帰して、途中で倒れたら困るよ」
シンジは本から顔を上げずに言った。
「倒れないわよ」
「さっきも同じことを言ってた」
「言うようになったじゃない、バカシンジ」
言葉とは裏腹に、本気で追い出そうとはしなかった。
暫くして、ミサトが四人分の食事を持って現れた。売店で買った弁当と飲み物をベッド横の机へ並べる。
「はい、頑張った子供達へ差し入れ。アスカは医者から許可された物だけね」
「病人扱いしないで」
「病人じゃなくても、命令違反については後で報告書を書いてもらうわよ」
アスカの顔が露骨に歪む。
「リツコが告げ口したの?」
「告げ口じゃなくて正式な報告。オサフネの試験結果自体は良好だったそうよ。あんたが余計なことをしなければ満点だったって」
「結果が良いならいいじゃない」
「そういうところを反省しなさい」
ミサトは額を小突くと、自分の分の弁当を開いた。
トウジが机に置かれた資料を片づけ、四人分の場所を作る。病室で食べるには少し狭く、飲み物を取るたび誰かの腕が当たった。
それでも、一人で暮らす部屋の広い食卓より居心地が悪いとは思わなかった。
「それにしても、あの剣は凄かったな」
シンジが言う。
「標的がほとんど抵抗なく切れてた。アスカじゃなきゃ、あの重さであんなに速く振れないと思う」
「当然よ。あんたが使ったら剣に振り回されて終わりね」
「そうかもしれない」
素直に認められ、アスカは少しだけ調子を取り戻した。
「少しは悔しがりなさいよ」
「でも、僕にはカウンターソードの方が合ってるって父さんも言ってたから。アスカみたいに何でも上手く使えるわけじゃないし」
その言葉に、アスカの箸が止まる。
何でも上手く使える。
今日の試験結果より、その一言の方が欲しかったのかもしれない。
「まあ、分かってるならいいわ」
平静を装って食事へ戻る。
隣ではトウジが、初めての訓練で筋肉痛になったと腕を回していた。
「座っとっただけやのに、何でこんな疲れるんや」
「身体ではなく、頭が動かそうとしていたから。慣れるまでは、実際に運動するより疲れることもあるわ」
レイが説明する。
「レイはちゃんと教えられるのね。最初から任せれば良かったかしら」
「アスカの教え方も分かりやすかった。鈴原君が失敗した時、何が違うかすぐに気づいていたから」
「褒めても何も出ないわよ」
そう言いながら、アスカはレイの飲み物が空になっていることに気づき、予備の一本を渡した。
トウジがその様子を見て笑う。
「何よ」
「いや、ええ先輩なんやなと思って」
「誰があんたの先輩よ。正式に三号機へ乗ってから言いなさい」
「訓練では先輩やろ」
「だったら敬語を使いなさい、敬語を」
言い合いを始めた二人を見て、シンジとレイが顔を見合わせる。
ミサトは少し離れた椅子へ座り、四人の様子を眺めていた。
実機を持たないトウジ。左腕を失った零号機。検査を控えた初号機。そして、自分だけで全てを背負おうとするアスカ。
万全とは言い難い。
それでも、互いに足りない部分へ手を伸ばすことは出来ている。
その関係を戦場で試さなければならない日が、少しでも遠ければよいとミサトは思った。
――
翌日、ゲンドウの執務室へ三号機戦後の検査計画が提出された。
初号機の胸部装甲へ到達した侵食組織は、既に完全に除去されている。神経回路にも使徒反応はなく、シンジ本人にも精神汚染の兆候は見られない。
だが、侵食警報が作動した瞬間、初号機とシンジの双方に通常とは異なる神経反応が記録されていた。
「本部の設備では調べられないのか」
ゲンドウが資料から目を上げる。
「調べられないわけではないわ。ただ、本部で初号機の接続系を開放しながら検査すれば、他の整備作業を止める必要がある。零号機の左腕と三号機の隔離検査を抱えている今は、外部の研究施設を使った方が早い」
リツコが地図上の施設を指した。
第三新東京市から山を一つ越えた場所にある、ネルフ管理下の医療研究施設。シンジの検査と同時に、初号機側でも神経接続端子を一度分解し、記録された反応を照合する予定である。
「所要時間は」
「シンジ君は半日。初号機は分解と再接続を含めて一日。その間に出撃命令が出た場合、起動準備には通常より時間が掛かるわ」
ゲンドウは地図へ視線を落とした。
使徒が現れる日を正確に知ることはできない。検査を延期し続ければ、安全を確かめる機会そのものを失う。
「日程は」
「三日後。レイは零号機の調整、アスカはオサフネの再試験。鈴原君も基礎訓練で本部へ来る予定よ」
初号機以外の戦力は本部へ残る。
前世界での第十四使徒の襲来が近いことを、ゲンドウは知っている。しかし既に出来事の時期は幾度もずれ、過去の記憶を予言として扱うことはできなくなっていた。
それでも、胸の奥に不安は残る。
「検査には護衛をつけろ。緊急時の帰還経路も複数用意しておけ」
「分かっているわ。本人には今日伝える」
リツコが退室した後も、ゲンドウは暫く予定表を見つめていた。
検査を命じるのは、息子を戦わせるためではない。
これからも無事に帰ってこられるよう、異常がないことを確かめるためである。
その判断が、必要な時にシンジを遠ざけることになる可能性を、ゲンドウは捨てきれなかった。
――
三日後に検査を受けることを伝えられたシンジは、思っていたより簡単に了承した。
「父さんも心配してるんでしょう?」
帰宅後、食卓で予定表を見ながら尋ねる。
「ああ。三号機からの侵食は確認されていない。だが、異常がないことまで含めて確かめたい」
「分かった。学校は休むことになるの?」
「朝から向かえば、午後には戻れる予定だ。私も可能な限り同行する」
その言葉を聞き、シンジは僅かに目を見開いた。
「父さんも?」
「午前中だけになるかもしれないがな」
「仕事は大丈夫?」
「調整する」
ゲンドウが同行するのは、検査の責任者として不自然なことではない。それでもシンジには、父が自分のために時間を作ろうとしていることが嬉しかった。
「じゃあ、帰りに何か食べて帰れるかな」
「検査後の体調に問題がなければな」
小さな予定が一つ加わる。
シンジは食卓の端へ置かれた予定表へ、外食という文字を書き足した。
――
同じ頃、弐号機の専用格納庫では、補修を終えたオサフネが固定台へ戻されていた。
亀裂の入った第一振動子は交換され、刀身には負荷を分散するための補強材が追加されている。完成にはほど遠い。それでも、昨日より確実に一歩先へ進んでいた。
アスカは整備員が去った後も、一人でその剣を見上げていた。
シンクロ率ではシンジに越された。
その事実は消えない。
だが、オサフネを最も上手く扱えるのは自分だと認められた。トウジへ教えられることもあり、レイやシンジに任せられることもある。
一番でなければ、何もない。
そう思っていた頃より、自分の周りには多くのものが増えている。
それでも、追い越されたままで平気になれるほど素直でもなかった。
シンジがいなくなればいいとは思わない。傷ついてほしいとも、もう思えなかった。隣に立って、同じ場所へ帰り、明日もくだらないことで言い合いたい。その願いは嘘ではない。
だからこそ、その隣で自分だけが遅れていくことには耐えられなかった。好きなのか、嫌いなのか。仲間として信じているのか、倒すべき相手として妬んでいるのか。胸の内に増えた感情は、どれも互いを押し退けず、名前を与えられないままアスカを内側から狭くしていた。
「次は、私が一番だって証明してみせる」
誰もいない格納庫で呟く。
オサフネの刀身が照明を反射し、細い光を床へ落とした。
警報は鳴らない。
街は静かで、四人には明日の授業があり、その後にはそれぞれの訓練が待っている。
今夜のところは、何処にも使徒の影はなかった。
ただ、格納庫の端に置かれたオサフネの負荷記録だけが、最大出力へ届くより先に刀身が限界を迎える可能性を、赤い線で示していた。