第三新東京市から山を一つ越えた場所にある医療研究施設で、シンジの精密検査は予定より早く終了した。
身体にも精神にも、三号機から受けた侵食の痕跡はない。初号機との接続時に記録された神経反応についても、危険を感じたシンジが反射的に同調を深めた結果だろうという、面白みのない結論に落ち着いていた。
報告書としては、あまりにも平凡な結論だった。しかしゲンドウにとっては、息子の身体へ使徒の痕跡も、取り返しのつかない異常も残っていないという、その面白みのなさこそが何より望ましい結果であった。
「食事をして帰る時間、ありそうだね」
施設を出たシンジは、渡された検査結果の封筒を鞄へしまいながら笑った。
「ああ。本部へ報告を済ませてからになるがな」
「何処か決めてる?」
「お前が決めればいい」
「そう言われると迷うな」
シンジは笑いながら、鞄の外側にある小さなポケットへ指を触れた。
中には、柔らかな布で包んだ木彫りのお守りが入っている。
屋根の下に触れ合わない二本の線を彫り、裏側には外から屋根の下へ続く一本の道を刻んだものだった。美術の授業で完成させてから何度も渡そうとし、そのたびに自室の引き出しへ戻してきた。
今朝、シンジはそれを初めて鞄へ入れた。
精密検査が終わった後、父と二人で食事をする。約束を聞いた時から、今日なら渡せるかもしれないと思っていた。
無事に帰るためのお守り。
米国支部の消失以来、家へ帰れない日が増えた父へ、そう言って渡すつもりだった。
まだ口に出す勇気はなかったが、少なくとも引き出しに置いたままではない。指先へ布越しの硬さが返ってくるだけで、今日は昨日までとは違うと思えた。
他愛のない会話をしながら、二人を乗せた車が山間の道路を進む。
初号機側の検査は、神経接続端子を一度分解したため、まだ終了していない。異常が見つからなければ夕方までに再接続を終え、明日には通常待機へ戻る予定だった。
それまで使徒が現れなければよい。
ゲンドウが抱いていた不安は、警報によって現実となった。
車内の通信機がけたたましい音を上げ、前方を走っていた護衛車両の警告灯が回転する。
『パターン青を確認。目標は第三新東京市南西、現在接近中。全市民は指定された避難区画へ――』
音声が最後まで流れる前に、山の向こう側から白い光が立ち上った。
雲が円形に裂ける。
次の瞬間、光は地上へ振り下ろされ、第三新東京市を覆う迎撃設備が遠目にも分かる規模で吹き飛んだ。
運転手が急停車する。
シンジは窓へ手をつき、山の切れ目から見える街を凝視した。
「父さん、あれ……」
白い巨体が、破壊された迎撃陣地の中心に浮いていた。
人の形からは遠い。丸みを帯びた胴体の左右から、紙の帯にも見える腕が長く垂れている。顔に相当する部分は骨のような外殻に覆われ、その下へ使徒特有の模様が浮かんでいた。
第十四使徒。
ゲンドウは、前世界でネルフ本部を壊滅寸前まで追い込んだ使徒の姿を覚えている。
だが、記憶より早い。
数日単位のずれではない。初号機の検査日を避けるために記憶から選んだ日程そのものが、何の意味も持たなかった。
『市街地装甲、第一層から第八層まで消失! 目標、直上都市中心部へ侵入します!』
通信機からマヤの声が響く。
「本部へ戻れ」
ゲンドウが運転手へ命じる。
「司令、現在の経路は目標の侵攻予測範囲と重なります。退避を優先すべきです」
「予備経路を使え。可能な限り急げ」
車が方向を変える。
シンジは窓の外から目を離さなかった。
地上へ残されていた無人砲台が一斉に火を噴く。ミサイルと砲弾が白い巨体へ集中したが、半透明の壁へ触れたところで全て砕けた。
使徒は足を止めない。
胴体の一部が開き、再び光が生まれる。
都市装甲を貫いた閃光が地面の奥へ消え、少し遅れて山そのものが揺れた。
「アスカと綾波は?」
「本部にいる。既に出撃準備へ入っているはずだ」
「初号機は」
「接続系を分解している。直ちには動かせん」
シンジが息を呑む。
その間にも使徒の足元で都市装甲が割れ、巨大な開口部が生まれた。
白い巨体が地下へ沈んでいく。
二人の目の前で、第十四使徒はジオフロントへの侵入を果たした。
――
ネルフ本部の発令所では、冬月がゲンドウに代わって司令席へ立っていた。
主モニターには、破壊された都市装甲を抜けてジオフロントへ落下する第十四使徒と、発進口から射出された弐号機、零号機の姿が映されている。
「初号機の再接続まで、あとどれくらい掛かる」
「最短でも十六分です!」
マヤの返答に、冬月は眉間へ皺を寄せた。
十六分。
使徒が地上へ現れてからジオフロントへ侵入するまで、五分も掛かっていない。
「二機で止めるしかないか」
「止めます」
ミサトは指揮席から二機へ回線を開いた。
『アスカ、レイ。目標は既にジオフロント内へ侵入したわ。最終防衛線より手前で必ず止める。ただし、無理に近づかないで。相手の攻撃方法もA.T.フィールドの強度も、まだ分かっていない』
「了解。私が前へ出るわ」
『了解』
レイが短く答える。
弐号機は両手にパレットライフルを持ち、零号機は残った右腕で大型狙撃銃を構えている。修復途中の左肩は補助装甲で塞がれ、腕の代わりとなるものは装着されていない。
「レイ、右側へ。私が正面から引きつける」
『分かった』
アスカが指示を出すより先に、零号機は既に右側の高台へ移動を始めていた。
三号機戦を含め、何度も同じ戦場へ立った二人である。細かな説明を重ねなくても、互いが何をしようとしているかは分かっていた。
第十四使徒がジオフロントの湖面へ着地する。
その瞬間、弐号機が正面から一斉射撃を加えた。
二丁の銃口から放たれた弾丸が半球状のA.T.フィールドへ衝突し、火花となって散る。僅かに遅れて、零号機の狙撃弾が同じ一点へ突き刺さった。
壁の表面が波打つ。
アスカは弾倉を排出しながら前進し、足元の兵装台から新しい銃を拾い上げた。零号機が次弾を装填する間は弐号機が射撃を続け、弐号機が弾倉を交換する瞬間には零号機の弾丸が使徒の注意を引く。
互いに名を呼ぶ必要さえない。
途切れることのない攻撃が、使徒の正面へ集中する。
「これなら――」
アスカが呟いた時、使徒の帯状の腕が動いた。
白い帯が一瞬で伸び、弐号機の首を狙う。
アスカは機体を沈めて回避する。頭上を通過した帯が背後の装甲壁へ触れ、数十メートルにわたって切断した。
続く二本目を零号機の射撃が弾く。
軌道を逸らされた帯が湖面を裂き、水と土砂を高く巻き上げた。
「助かったわ、レイ!」
『次が来る』
レイの警告と同時に、使徒の両腕が広がる。
弐号機が横へ跳び、零号機は高台から滑り降りる。二機がいた場所を帯が薙ぎ、兵装台も装甲壁も同じ厚さの紙のように切り分けた。
発令所へ被害報告が重なる。
「第五兵装庫、連絡途絶!」
「第二防衛線、隔壁ごと切断されました!」
「目標、依然前進中!」
ミサトは地形図へ視線を走らせた。
二機は攻撃を続けている。連携にも乱れはない。それでも使徒は、二機を敵として認識しているのかさえ分からないほど平然と進んでいた。
「誘導弾、全弾発射。弐号機は距離を取って!」
ジオフロント内へ残されたミサイル設備が開く。
数十発の誘導弾が四方から使徒へ殺到し、弐号機と零号機が同時に後退した。
爆炎が白い巨体を覆い隠す。
しかし炎の内側でA.T.フィールドの輪郭が揺れることはなく、煙が晴れれば、使徒は何事もなかったように同じ場所へ立っていた。
「A.T.フィールド中和を試す。レイ、合わせなさい!」
弐号機が前へ出る。
零号機も右腕を前へ向け、二機のA.T.フィールドを使徒の壁へ重ねた。
空間が軋む。
二機分の壁が押し返そうとするが、第十四使徒のA.T.フィールドは僅かに窪むだけだった。
「中和率、十九パーセント……上がりません!」
「そんな、二機掛かりなのよ!」
アスカが力を込めるほど、弐号機の足が地面へ沈んでいく。隣では片腕の零号機が姿勢を崩しかけ、それでも一歩も退かずにフィールドを維持していた。
第十四使徒の胸部が開く。
内部へ光が集まり始めた。
『二人とも離れて!』
ミサトの命令で、二機は左右へ飛ぶ。
直後に放たれた閃光が二機の間を抜け、背後の装甲層をまとめて消し飛ばした。
爆風に煽られ、弐号機が地面へ転がる。
アスカは起き上がりながら、遠くの格納庫へ視線を向けた。
通常兵装では届かない。
二機のA.T.フィールドでも中和できない。
残されているのは、まだ試験を終えていない一振りだけだった。
「ミサト、オサフネを使うわ」
『駄目よ。あれは実戦投入できる段階じゃない』
リツコが指揮回線へ割り込む。
「だったら、完成するまであいつに待ってろって言うの?」
『第一振動子を交換しただけで、最大出力時の負荷は解決していない。刀身より先に弐号機の腕が持たない可能性があるわ』
「腕が残ってても、本部を潰されたら意味ないでしょ!」
使徒は再び歩き始めている。
ミサトは数秒だけ迷い、決断した。
「オサフネを射出。アスカ、出力制限は解除しないで。規定値の中で使いなさい」
「分かってるわよ」
弐号機前方の地面が開き、射出装置がせり上がる。
固定具から解放されたオサフネを、弐号機が両手で掴んだ。
長大な刀身がジオフロントの照明を反射する。
アスカは柄を握り直し、足を開いた。
前回の試験より重く感じる。シンクロテストの後ではない。弐号機の実機で持っているにもかかわらず、使徒の前へ立つ緊張が刀身の重量を何倍にもしていた。
「レイ、三秒止めて!」
『やってみる』
零号機が使徒の正面へ走る。
残った右腕で狙撃銃を連射し、弾切れになれば銃そのものを投げつける。使徒の帯が零号機へ伸びた瞬間、レイは右側へ機体を倒し、避けながらA.T.フィールドを狭い範囲へ集中させた。
帯の軌道が僅かに逸れる。
零号機の肩を掠め、補助装甲が弾け飛んだ。
その間にアスカはオサフネを上段へ構え、出力を規定値まで引き上げる。
刀身の振動音が高くなる。
目の前には、二機掛かりでも動かなかったA.T.フィールドがある。
ここで切れなければ、自分達にはもう何も残らない。
シンジならばどうするかという考えが浮かび、アスカはすぐに振り払った。
今ここで戦っているのは自分だ。
自分が止める。
「どきなさい、レイ!」
零号機が横へ跳ぶ。
弐号機は全身を使い、オサフネを振り下ろした。
刀身がA.T.フィールドへ触れる。
最初の壁が大きく窪み、刃を押し返す。オサフネの振動子から警告が上がり、弐号機の両腕へ痺れるような痛みが返ってきた。
アスカは止めない。
規定値では足りない。
前回と同じように出力制限へ手を伸ばすが、リツコの処置によって操作は受け付けなかった。
「こんな時だけ言うこと聞くんじゃないわよ!」
機械的に解除できないなら、自分のA.T.フィールドを刃へ重ねる。
弐号機の壁が刀身へ沿って細く収束し、高周波振動と重なった。
オサフネの設計にはない使い方だった。
刀身の周囲で空間が白く割れる。
一枚目の壁が切れた。
その奥から二枚目が現れる。
アスカは叫びながら踏み込み、刃をさらに押し込む。
二枚目が裂け、三枚目も中央から割れた。
「目標のA.T.フィールド、消失!」
マヤの声が発令所へ響く。
初めて使徒の本体まで、何も遮るもののない道が開いた。
「もらったぁ!」
弐号機が残る力を振り絞り、オサフネを使徒の胴体へ叩きつける。
刃と白い肉体が接触した。
甲高い音が鳴る。
使徒の身体には、傷一つ付かなかった。
代わりにオサフネの刀身へ亀裂が走り、中央から折れた。
折れた刃が回転しながら湖へ落ちる。
アスカは、弐号機の両手に残された柄を見つめた。
自分の全力でA.T.フィールドを切った。
その先にあるものへは、触れることさえできなかった。
「嘘……」
第十四使徒の腕が動く。
帯状の刃が弐号機の左腕を肩口から切断した。
プラグ内でアスカが悲鳴を上げる。
続く攻撃が右腕を裂き、オサフネの柄ごと地面へ落とした。
弐号機は両腕を失いながらも使徒へ蹴りを放つ。足裏が胴体へ当たったが、第十四使徒は僅かに揺れただけだった。
反対に伸びた帯が弐号機の胸部を打ち、巨体を装甲壁まで吹き飛ばす。
弐号機の背中が壁へめり込んだ。
視界が明滅し、警告表示がプラグを埋める。
「まだよ……まだ、終わってない!」
アスカは脚だけで機体を立たせようとする。
使徒の腕が細く折り畳まれ、弐号機の頭部へ狙いを定めた。
白い刃が放たれる。
その軌道へ、零号機が飛び込んだ。
帯は零号機の左肩を貫き、修復途中だった装甲と内部組織をまとめて抉り取る。それでも零号機は倒れず、残った右腕で弐号機を後方へ押し退けた。
『アスカ、下がって』
「レイ……」
零号機は返事を待たず、弐号機と使徒の間へ立った。
――
零号機が弐号機を庇った頃、ゲンドウとシンジを乗せた車は本部へ続く予備搬入口へ到着していた。
通路は避難する職員と、地上から運び込まれた負傷者で混乱している。
加持はその中で誘導員へ指示を出し、動ける者を奥の避難区画へ誘導していた。
数時間前、米国第二支部消失後の各国支部と戦略自衛隊の動向をまとめた報告を届けるため、本部へ戻っていたのである。
「司令、無事でしたか」
ゲンドウを見つけ、加持が駆け寄る。
「状況は」
「弐号機が大破。零号機が戦闘を継続しています。初号機の再接続は最終段階ですが、起動試験までは終わっていません」
シンジの顔が強張る。
その時、通路の壁面モニターへ新たな警告が表示された。
《N² STORAGE――UNLOCKED》
発令所からリツコの声が流れる。
『零号機、兵装庫へ侵入! N²兵器の固定装置を解除しています!』
――
零号機は弐号機を使徒の射程外へ押し出すと、そのまま第五兵装庫へ向かった。
右腕で隔壁をこじ開け、固定台へ収められていた円筒状のN²兵器を掴み取る。
「レイ、何をしているの! それを戻しなさい!」
リツコが指揮回線へ叫ぶ。
零号機は止まらない。
左肩から血と冷却液を流し、右腕だけでN²兵器を胸へ抱えて走り出す。
「零号機の接続を切って!」
「駄目です。緊急回線をパイロット側から固定されています!」
「レイ、聞こえているんでしょう! 今すぐ止まりなさい!」
『リッちゃん』
通信へ返った声は、いつもと変わらないほど静かだった。
『アスカを置いて退くことはできない』
「だからといって、あなたが死んでいい理由にはならない!」
零号機の前方で、第十四使徒のA.T.フィールドが再生を始める。
オサフネによって切断された壁は未だ薄く、完全な強度へ戻っていない。
今しかないと、レイは理解していた。
「ミサト、止めて! 作戦部長でしょう!」
リツコが振り返る。
ミサトも停止命令を繰り返している。しかし零号機は既に、どの命令でも止められない場所まで走っていた。
『リッちゃん、ごめんなさい』
「レイ!」
零号機が残ったフィールドを右肩から突き破り、N²兵器を使徒の胴体へ押しつけた。
白い光がジオフロントを満たす。
発令所の全モニターが焼きつき、少し遅れて爆発音と衝撃が本部を揺らした。
リツコは机へ手をつき、消えた画面を見つめている。
「レイ……返事をして」
返答はない。
爆心地を覆う煙の中から、巨大な影が立ち上がる。
第十四使徒だった。
外殻の一部は焼け落ちている。しかし胸部のコアは、新たに展開された壁によって守られていた。
N²兵器さえ届かなかった。
使徒の足元では、装甲の大半を失った零号機が横たわっている。エントリープラグの排出機構も反応せず、レイの生命反応は微弱だった。
第十四使徒の帯が持ち上がる。
止めを刺すように、零号機へ先端を向けた。
だが、振り下ろされる直前に動きが止まった。
使徒が、顔に相当する部分を巡らせる。
零号機でも、弐号機でもない。
本部のさらに奥へ、何かに引かれるように身体を向けた。
それはゲンドウとシンジが予備搬入口へ到着した瞬間と、ほとんど同時だった。
使徒が二人の帰還に反応したのか、地下にある別の何かを感知したのか、それとも初めから目指していた場所へ意識を戻しただけなのか。それを判断できる者はいない。
ゲンドウ自身も、モニターへ映る不自然な動きを見て眉を寄せただけだった。
加持は壁面モニターへ映る使徒の進路を目で追った。
使徒が向き直った先は、発令所への最短経路から僅かに外れている。以前、槍の所在を追う過程で見つけた廃棄済みの保守路と、その延長上にある最深部へ近づく進路だった。
零号機を倒すことより、奥へ辿り着くことを選んだ。
ならば使徒は、ネルフを攻撃しているのではないのかもしれない。
ここに隠された何かを、探している。
ゲンドウの帰還と重なったのは偶然か。それとも司令自身が、最深部の秘密と何らかの形で繋がっているのか。
加持は疑念を口に出さなかった。今は推測に過ぎず、ゲンドウの横顔にも答えを知っている様子はない。
ただ、地下に眠るものとエヴァ、使徒、そして運び込まれた槍が、別々の秘密ではないという確信だけが強くなった。
「目標、零号機から離れます!」
「救助班、今よ! プラグを強制排出して!」
リツコの命令で、待機していた無人回収車両と救助班が一斉に走り出す。
第十四使徒は大破した二機へ関心を失い、ネルフ本部へ向けて歩き始めた。
――
予備搬入口から発令所へ向かう途中、シンジは負傷者の搬送を手伝っているトウジを見つけた。
トウジは加持から任された担架を保安部員とともに運び、避難区画との間を何度も往復している。
「トウジ!」
「シンジ! 何処行っとったんや!」
「検査で外にいた。アスカと綾波は?」
トウジは答えに詰まった。
加持が代わりに口を開く。
「二人とも救助作業が始まっている。生死はまだ分からない」
「僕、初号機へ行きます」
シンジがゲンドウへ向き直る。
「駄目だ」
返答は即座だった。
「初号機は再接続作業を終えたばかりだ。起動試験も安全確認も済んでいない」
「でも、ほかに動ける機体はないんでしょう?」
「だからといって、動く保証のない機体へお前を乗せることはできん」
通路が再び大きく揺れた。
天井から粉塵が落ち、壁面モニターへ使徒が隔壁を破壊する映像が映る。
ゲンドウは知っている。
前世界で、この使徒は初号機を活動限界まで追い込み、その後に目覚めたユイによって捕食された。初号機はS²機関を取り込み、人の手を離れた存在となった。
そしてシンジもまた、初号機の中へ消えた。
シンクロ率四百パーセント。
人としての形を維持する境界を失い、その肉体はL.C.L.へ還元された。エントリープラグから回収されたのは、空になったプラグスーツだけだった。
リツコはサルベージ計画を立案し、残された構成情報からシンジの身体を再構築しようとした。だが、技術によって救い出せたのではない。用意された手順は失敗し、最後にシンジが人の形を取り戻した理由を、誰も説明できなかった。
ユイが返したのか。
シンジ自身が帰ることを望んだのか。
その両方だったのかさえ、分からない。
確かなのは、あの帰還が再現可能な成功例ではないということだけだった。
あれは奇跡だった。
一度起きたからといって、二度目も起きる保証など何処にもない。
今回も同じことが起きる保証はない。
ユイが目覚めなければ、シンジは死ぬ。
目覚めたとしても、息子の命を妻の中にいる何かへ委ねる賭けに過ぎない。使徒に殺されずに済んだとして、その先で初号機に奪われるかもしれない。
ゲンドウは前世界で、空になったプラグスーツを見た時の感覚を覚えている。
息子の肉体が何処にもないという報告を受けながら、司令として立ち続けるしかなかった。あの一か月、自分には打てる手がなかった。
未来を知っていることは、その恐怖を消してくれない。
むしろ、シンジを待つもう一つの結末を知っているからこそ、今ここで送り出すことができなかった。
「父さん」
シンジは逃げずに父を見た。
「僕は最初、父さんに必要だと言ってほしくて乗った。でも今は、それだけじゃない」
避難する職員達が二人の横を通り過ぎていく。
トウジがいる。加持がいる。この先にはミサトさんも、リツコさんだって。アスカとレイは、自分がいない間にも戦っていた。
「ここには僕が帰りたい場所がある。守りたい人達がいる。だから乗りたい」
「お前が死ねば、帰ることはできない」
「死ぬために乗るんじゃない。帰ってくるために乗るんだよ」
ゲンドウの手が固く握られる。
三号機戦では、初号機の操作を奪わずシンジへ任せた。
信じると決めたからだ。
だが、信じることと危険へ送り出すことは同じではない。そんな言葉で自分を納得させようとしている間にも、使徒は本部へ近づいている。
信じた結果、二度と帰ってこないこともある。
前世界で起きた奇跡を、未来を知る自分の手柄のように数えてはならない。サルベージに成功したという結果だけを根拠に、同じ危険へ息子を差し出すことはできなかった。
「父さん。あの時みたいに、僕に選ばせて」
シンジの声は震えていた。
怖くないわけではない。それでも、自分の選択を父へ預けようとはしなかった。
ゲンドウは、近づいてくる使徒の音を聞いた。
司令として下すべき命令は分かっている。
だが、口から出たのは作戦命令ではなかった。
「逃げろシンジ」
かつて初号機を前にしたシンジへ帰れと命じた時と同じく、そこにいたのは司令ではなく、息子を失うことを恐れる父親だった。
シンジの目が僅かに見開かれる。
初めて初号機へ乗った日、シンジは同じ思いから発せられた言葉を、自分は必要とされていないという拒絶として受け取った。
だが、今は違う。
父が自分を遠ざけたいのではない。
失いたくないから、逃げろと言っている。
今のシンジには、それが分かった。
エヴァへ乗らなくてもよい。役に立たなくてもよい。命を捨ててまで父の期待へ応えなくてもよい。
その全てを理解したうえで、それでもシンジは残ることを選んだ。
「僕は……僕はこの街に来て、初めて自分が好きになれたんだ! 心の底から!」
声は震えていた。
それでも、シンジは父から目を逸らさない。
「父さんに必要だって言ってほしくて乗った僕も、アスカや綾波と戦った僕も、トウジ達と笑ってる僕も、全部ここで見つけたんだ。だから逃げたくない。僕が好きになれた僕のまま、みんなと一緒に帰りたい」
ゲンドウは目を閉じ、短く息を吐いた。
「……初号機へ向かえ」
「父さん」
「必ず帰ってこい」
「うん」
シンジは初号機のケージへ走り出した。
数歩進んだところで、鞄のポケットに入れたお守りを思い出す。
今日こそ渡すつもりだった。
だが、取り出している時間はない。今ここで渡せば、帰ってこられないことを覚悟した別れの品のようになってしまう気もした。
シンジは鞄を胸へ引き寄せ、すぐにまた走り出した。
帰ってから渡せばいい。
食事の約束も、お守りに込めた言葉も、戦いが終わった後へ残しておく。それが自分は帰るのだという、何より確かな決定に思えた。
その背中を見送るゲンドウへ、加持が声を掛ける。
「信じるのも、楽じゃありませんね」
「君は避難誘導へ戻れ」
「了解」
加持はそれ以上踏み込まず、負傷者の搬送へ戻った。
――
学校の避難区画では、ケンスケが何度目になるか分からない人数確認表を見ていた。
シンジは検査のため欠席。
レイとアスカは、警報が鳴る前から学校にいなかった。
そしてトウジも、朝からネルフの物に似た黒い鞄を持ち、放課後になれば三人と同じ車へ乗っていった。
警報が鳴ってから、誰とも合流できていない。
健康診断。ネルフの車。機密という失言。
考えないようにしていたものが、一つの答えへ繋がっていく。
「相田、鈴原の居場所を知らないか?」
担任に尋ねられ、ケンスケは表を閉じた。
「分かりません。多分、家族と一緒だと思います」
嘘をついた。
トウジが自分から話さないものを、推測だけで他人へ渡すつもりはなかった。
ケンスケは避難区画の閉じられた扉を見る。
戻ってきたら、今度こそ本人へ聞く。
だから答えを聞けるよう、まずは全員が帰ってこなければならなかった。
――
初号機のケージへ着いたシンジに、普段の出撃準備をする時間は与えられなかった。
シンジが更衣区画で検査着を脱ぎ、プラグスーツへ着替える間にも、技術員が接続端子を確認していく。再接続を終えたばかりの初号機の周囲では、外された足場と検査機材の撤去が同時に進められていた。
「第三固定具、まだ外れていません!」
「切断して構わない! 初号機を射出位置へ!」
怒鳴り声と警報が重なる。
シンジは鞄を技術員へ預けようとして、外側のポケットへ触れた。
お守りが入っている。
この混乱の中へ置いていけば、鞄ごと何処へ運ばれるか分からない。ほんの一瞬迷い、布包みだけを取り出した。
「シンジ君、急いで!」
呼ばれて顔を上げる。
お守りを預ける相手を探す間もなく、シンジは木片を握ったままエントリープラグへ乗り込んだ。
ハッチが閉じ、L.C.L.が注入されてから、右手の中に硬いものがあることへ気づく。
「持ってきちゃった……」
布はL.C.L.を吸ってほどけ、中から屋根の形をした木彫りが現れた。
戦闘へ持ち込むつもりなどなかった。父へ渡す前に傷つけたくもない。
シンジは操縦席の脇にある浅い窪みへお守りを置き、非常用バンドの端で固定した。
屋根の裏へ彫った一本の道が、自分の方を向いている。
無事に帰るため。
制作意図へ書いた言葉を、シンジは胸の中でもう一度読み上げた。
この戦いが終わったら、父と食事へ行く。
その時に渡そう。
今度こそ、父さんのために作ったのだと言おう。
『初号機、発進準備!』
ゲンドウの声が届く。
シンジはお守りから前方モニターへ視線を戻し、操縦桿を握った。
「行けます」
初号機を固定していた最後の拘束具が外れた。
――
第十四使徒は、本部最終防衛線へ到達していた。
装甲隔壁が一枚ずつ閉じる。
使徒は足を止め、帯状の腕を振るった。
一枚目が左右へ分かれる。
二枚目は中央から裂け、三枚目は固定枠ごと廊下の奥へ吹き飛んだ。
使徒が一歩進むたび、ネルフが十年以上を掛けて築いた防衛設備が一つ消える。
「最終隔壁、突破されます!」
「発令所の職員は退避準備! 戦闘要員以外は直ちに下層区画へ!」
ミサトが指示を飛ばす。
冬月は司令席から動かず、ゲンドウの帰還を待っていた。
破られた隔壁の向こうに、第十四使徒の白い姿が現れる。
帯状の腕が伸びた。
発令所前面を守る装甲が、斜めに切り裂かれる。
衝撃が発令所を走り、正面に並ぶ主モニター群が一斉に砕けた。天井から破片が降り、照明が明滅する。
「主映像、消失!」
「予備カメラへ切り替えて!」
マヤが生き残った補助画面へ映像を送る。
粗く乱れた画面の中で、使徒の胸部が開いた。
光が集まる。
使徒の攻撃が放たれる直前、側面の搬入口が爆発するように開いた。
紫色の巨体が飛び出し、第十四使徒へ体当たりする。
初号機だった。
使徒の閃光は天井へ逸れ、装甲層を貫いてジオフロントの空へ消えた。
「初号機、起動を確認!」
「シンクロ率、基準値を越えて上昇中。接続系は安定しています!」
シンジは使徒の胴体へ肩を押しつけ、そのまま本部から遠ざける。
『外へ出ろ!』
初号機の右拳が使徒の顔面へ食い込む。
一発、二発。
使徒の身体が後退する。
シンジは、アスカとレイが戦った痕跡を見ていた。
地面へ落ちたオサフネの刀身。両腕を失った弐号機。爆心地に残された零号機の装甲。そして、使徒のA.T.フィールドに残る僅かな乱れ。
二人は負けただけではない。
自分が戻るまで、ここを守っていた。
初号機は使徒を抱えたまま射出口へ突進し、閉じかけていた装甲扉を背中で押し開ける。
二体の巨人がジオフロントへ転がり出た。
第十四使徒の腕が初号機の胴体へ巻きつく。
帯が装甲を切り裂き、シンジの胸へ同じ痛みが走った。
それでも初号機は右拳を振り続ける。
A.T.フィールドを拳へ重ね、オサフネが切り開いた場所へ叩き込む。
使徒の外殻に罅が入ったた。
「やった!」
マヤの声が上がる。
しかし第十四使徒は怯まない。
帯状の腕が一度縮み、初号機の左肩へ向けて走った。
紫色の腕が宙を舞う。
左腕を肩から失った初号機が膝をつく。
シンジの絶叫がプラグ内へ響いた。
使徒は続けて右腕を狙う。
初号機は残った腕で帯を掴み、自ら距離を詰めた。切断されるより先に使徒の胴体へ頭突きを叩き込み、そのままA.T.フィールドで押さえつける。
「シンジ君、内部電源が持たない! 一度離れて!」
ミサトの命令が届く。
だが、離れれば使徒は再び本部へ向かう。
シンジは返事をせず、残った右腕と肩で使徒を地面へ押しつけた。
プラグ内の表示が一つずつ消えていく。
残り十秒。
第十四使徒の胸部が開き、至近距離で光が集まる。
初号機は使徒の顔を掴み、照準を上空へ逸らした。
閃光がジオフロントの天井を焼く。
残り五秒。
使徒の帯が初号機の脇腹を貫いた。
残り一秒。
「まだだ……!」
内部電源が尽きた。
初号機の全機能が停止する。
右腕から力が抜け、巨体が地面へ崩れた。
それとほとんど同時に、本部発令所の補助画面から映像が消えた。
主映像系統は、使徒の一撃で破壊されている。辛うじて戦況を映していた予備回線も、先ほどの閃光と衝撃で途絶えた。
黒くなった画面には、もう初号機も使徒も映らない。
「全映像回線、消失!」
「ここでは戦況を確認できないわ。全員、ジオフロント側の緊急観測区画へ移動!」
ミサトが命じる。
職員達は携行端末と生きている計測器だけを外し、発令所後方の非常扉へ殺到した。その先の短い防爆通路は、本部外壁に設けられた緊急観測区画へ続いている。
ゲンドウと冬月も司令席を離れた。
防爆扉が開く。
土煙と熱を含んだジオフロントの空気が流れ込み、その向こうに、使徒の足元へ倒れた初号機が肉眼で見えた。
第十四使徒が立ち上がる。
初号機は動かない。
シンジは操縦桿を引いた。
反応はない。
足を動かそうとする。右腕を上げようとする。何度命令しても、初号機からは何も返ってこなかった。
「動いて……動いてよ!」
声が空のプラグへ吸い込まれる。
今までならば、機体の向こう側に何かがいた。
薄い膜を隔てて、自分を見守り、危険な時には代わりに手を伸ばす存在があった。
シンジはそれを母だとは知らない。
ただ、初号機へ乗るたび、自分とは違う誰かの中へ身体を預けているような感覚だけは知っていた。
その誰かが動くのを待つのではない。
父に命じてもらうのでもない。
もっと深く。
薄い膜の向こう側へ。
もっと確かなつながりを。
左腕がない。
脇腹を貫かれている。
地面へ倒れ、使徒に見下ろされている。
それは初号機の状態ではなく、自分の身体の状態だった。
痛みも、重さも、冷たい地面へ触れる頬の感覚も、すべて自分のものとして受け入れる。
第十四使徒の腕が持ち上がる。
シンジは操縦桿ではなく、自分自身へ命じた。
「……動け!」
声がプラグを震わせる。
第十四使徒の帯が、倒れた初号機へ振り下ろされる。
その瞬間、倒れた初号機と、その正面に立つ第十四使徒との間で、空間が大きく歪んだ。
初号機は、まだ指一本動かしていない。
それにもかかわらず、白い巨体は見えない何かに正面から打ち据えられたように地面を離れた。帯状の腕を広げたまま数百メートル先の装甲壁まで吹き飛ばされ、壁面が陥没する。遅れて轟音がジオフロントを揺らした。
――
「初号機……再起動」
マヤが呟く。
外部電源はない。内部電源も完全に尽きている。初号機は倒れた姿勢のまま右手で地面を掴み、その頭部をゆっくりと持ち上げた。
その動きを肉眼で見たネルフ職員達が、一斉に身構える。
第三の使徒との戦闘で、シンジの意識が途切れた後に初号機が顔を上げた時と同じだった。
第十二使徒を内側から引き裂いた時も、その直後に獣の咆哮がジオフロントを揺らした。
「全回線を切断! 初号機の拘束信号を――」
ナオコが携行端末を操作しながら指示しかける。だが、発令所の送信設備は既に沈黙し、初号機へ届く拘束信号そのものが残っていない。
ミサトは息を止め、マヤは無意識に耳を塞ごうとした。冬月は、今度もユイが息子を守るために目覚めたのだと考える。
帰還したゲンドウも、職員達の先頭で初号機を見つめていた。
来る。
誰もが、あの咆哮を待った。
しかし初号機は叫ばなかった。
獣のように四肢を地面へつくことも、苦しむように背中を反らすこともない。
頭を上げた姿勢のまま右脚を立て、残された右腕で身体を支える。
そして人間が立ち上がるように、あまりにも静かに直立した。
初号機の胸部と肩、頭部へ配置された緑色の警告灯が、一つずつ赤へ変わっていく。
「形状制御リミッター、全系統解除!」
「解除されたら、生体組織を維持できないはずです!」
マヤの携行端末では、初号機の形状が崩壊していた。
装甲内部の肉体は融解し、既に人型を保っていないという結果が表示されている。
だが職員達が肉眼で見上げる初号機は、確かにそこへ立っている。
輪郭は少しも崩れず、むしろ先ほどまでより明瞭に、赤い光を帯びていた。
「質量、測定のたびに変動!」
「A.T.フィールドではありません。波長が……物質特性そのものが一致しません!」
「エネルギー源は何処なの!」
リツコの問いに答えられる者はいない。
初号機の頭上へ、細い光の輪が現れる。
ゲンドウの顔から血の気が引いた。
前世界で見た覚醒とは違う。
ユイが動かす時、初号機は息子へ迫るものを排除する獣となった。そこには怒りがあり、飢えがあり、守ろうとする意思があった。
今の初号機からは、そのどれも感じない。
静か過ぎる。
「違う……」
ゲンドウの口から声が漏れた。
「これは、ユイではない」
――
弐号機のエントリープラグ内へ煙が入り始めていた。
アスカは停止した操作系を何度も叩いたが、排出装置も生命維持機能も反応しない。
非常解放レバーを引き、力任せにハッチを押し上げる。
損傷したエントリープラグは完全には排出されず、弐号機の背中へ半分だけ突き出した状態で止まっていた。
アスカは非常用梯子を掴み、傷ついた装甲の上へ這い出す。
シンクロを切られても両腕には焼けるような痛みが残り、脚にも力が入らない。立ち上がることを諦め、弐号機の肩へ身体を預けながら顔を上げた。
少し離れた場所に、初号機が立っている。
赤い光と、頭上の光輪。
アスカは、また初号機が暴走したのだと思おうとした。
シンジが動かしているのではない。初号機の中にいる何かが勝手に戦っている。そうであれば、シンジに負けたわけではない。
第十四使徒が帯状の腕を放つ。
初号機は右手を向けただけだった。
周囲の光が一点へ集まり、腕の前で白い壁となって攻撃を受け止める。使徒の刃は光へ触れた部分から崩れ、粒子となって消えた。
初号機は次の攻撃へ顔を向ける。
眼が光ったように見えた。
実際には、初号機の視線の先へ周囲の光が収束している。集められた光が質量と方向を与えられ、閃光となって第十四使徒の身体を貫いた。
白い肉体へ巨大な穴が開く。
使徒は再生しようとするが、傷口を構成する物質そのものが光へ変わり、輪郭を取り戻せない。
通常兵装も、レイとの連携も、オサフネの全力も通用しなかった相手である。
それが今は、何一つ抵抗できずに破壊されていた。
初号機の動きには、これまでの暴走にあった獣じみた衝動がない。
攻撃を見切り、必要な場所へ光を集め、地面へ横たわる零号機と弐号機を避けて戦っている。
そこには明確な判断があった。
「シンジが……やってるの?」
アスカには分かってしまった。
シンクロ率だけではない。
装備の差でも、機体の状態でも、運が悪かったからでもない。
自分が全力で振るったオサフネは、A.T.フィールドを切ったところで折れた。
レイは自分を守るため、零号機ごとN²兵器を抱えて飛び込んだ。
それでも止められなかった使徒を、シンジは一人で圧倒している。
追いつかれるのが嫌だった。
追い越されるのが怖かった。
それでも、シンジには生きて帰ってきてほしかった。隣に立っていてほしかった。自分のことを見て、くだらない言い合いをして、時には背中を預けてもよいと思える相手でいてほしかった。
そのどれもが本当だった。
だから、どの感情を捨てれば楽になれるのか分からない。嫉妬だけを切り離すことも、友情だけを選ぶこともできなかった。抱え込んだものは互いに食い込み、逃げ場を失った力だけが、限界まで負荷を掛けられた刀身のようにアスカの中へ蓄積していた。
「何よ、それ……」
喉から掠れた声が出た。
「そんなの、勝てるわけないじゃない……」
悔しさと恐怖のどちらなのか、自分でも分からなかった。助けに来てくれたことへの安堵まで混じっている。その安堵を感じた自分が、何より許せなかった。
ただ、これをシンジが行っているのであれば、自分の完全な敗北だった。
自分はもう、彼の前を走ってはいない。隣に立てているのかさえ分からない。
その事実を認めた瞬間、胸の奥で張り詰めていた何かが、ひどく小さな音を立てた。
地面には、二つに折れたオサフネが横たわっている。
あれは限界を越えるところまで力を求められ、それでも期待されたものを切れずに折れた。自分と同じだと思った時、もう否定するだけの力は残っていなかった。
アスカは目を逸らさない。
傷ついた弐号機の上から、初号機の全てを見続けた。
――
初号機の中で、シンジは初めて自分の身体を得たように感じていた。
これまでは薄い膜の向こう側に初号機がいた。
自分の意思を伝え、返ってきた反応によって肉体を動かす。どれほどシンクロ率が上がっても、そこには必ず自分ではない何かが介在していた。
今は違う。
膜はない。
初号機の鼓動が自分の鼓動であり、足元の土を踏む感覚も、空気が装甲を撫でる感覚も、自分の皮膚へ直接届いている。
シンジを守ろうとしていたものは、その接続から押し退けられていた。
初号機の奥でシステムのようにまどろんでいたユイは、目覚めることも抵抗することもなく、息子へ伸ばしかけた手とともに接続を失う。
シンジは母を拒絶したことさえ知らない。
ただ、自分の意思だけで初号機の肉体を動かしていた。
本当に、それは暴走だろうか。
シンジは意識を失っていない。
怒りに呑まれたわけでも、本能のまま敵へ喰らいついたわけでもない。
何を守るのかを自分で選び、そのために必要な動きを、一つずつ初号機へ与えている。
それはむしろ、正常な判断なのではないだろうか。
だが、人々はそれを“暴走”と呼んだ。呼ぶしかなかった。
――
左腕が必要だと思う。
周囲を満たす光が集まる。
粒子が互いに位置を定め、質量を持ち、失われた肩の先へ腕の形を結んでいく。
それはA.T.フィールドで作られた仮初めの輪郭ではない。光を物質へ書き換え、初号機の肉体として定着させた左腕だった。
シンジは、自分が何をしているのか理解していない。
腕を動かしたいと望めば腕が生まれ、敵の攻撃を止めたいと望めば光が壁となる。
使徒を倒したい。
それだけで、世界の側がシンジの意思へ形を合わせた。
初号機は光の左腕を伸ばし、第十四使徒の胸部を掴む。
使徒が幾重ものA.T.フィールドを展開する。
触れた壁は割れなかった。
最初から存在しなかったように光へ変わり、初号機の腕へ吸い込まれていく。
左手が使徒の肉体へ沈む。
胸部の奥からコアを掴み、そのまま引き抜いた。
赤い球体が光の手の中で脈動する。
捕食する必要はない。
力を奪う必要もない。
消えろと、シンジは思った。
コアの表面から輪郭が崩れる。
物質を結びつけていたものが解かれ、赤い球体は内側から光へ置き換わっていく。
砕ける音はしなかった。
コアは無数の粒子となって初号機の指の間から零れ、ジオフロントの空へ昇っていく。
第十四使徒の身体も同じように白い粒子へ変わり、足元から静かに消滅した。
「パターン青、消失……」
マヤは携行端末へ残った不完全な数値と、目の前で光へ変わる使徒を交互に見ながら報告する。
「第十四使徒、殲滅を確認」
戦いは終わった。
しかし初号機は止まらない。
――
「零号機のプラグ、排出に成功!」
使徒反応の消失とほぼ同時に、救助班から報告が届いた。
「パイロットの生命反応を確認。意識はありませんが生存しています!」
リツコは目を閉じ、緊急観測区画の手摺へ片手をついた。
安堵する時間は長く続かなかった。
職員達が持ち出した携行端末は、使徒殲滅後も警告音を鳴らし続けている。
「初号機、活動を継続!」
「光輪が拡大しています!」
初号機の頭上にあった光輪が、一瞬で数倍の大きさへ広がった。
ジオフロントの空が揺らぐ。
地面を構成する物質の一部が光へ変わり、次の瞬間には元の土と岩へ戻る。空気中の成分比が計測のたびに変化し、MAGIは相互に矛盾する警告を出し続けた。
初号機を中心とした範囲が、何か別の形へ書き換えられようとしている。
その規模も、目的も、誰にも理解できない。
シンジは全能感の中にいた。
望めば何でも変えられる。
失われた腕も、壊された街も、傷ついた人達も、すべて望んだ形へ戻せるように感じた。
もっと広く。
もっと深く。
自分が知る世界の全てへ手を伸ばせる。
初号機が、本部外壁の緊急観測区画へ顔を向けた。
破壊された装甲の手前に、ゲンドウが立っていた。
距離があり過ぎる。
通信回線も切れている。ゲンドウの口は動かず、声を発することもなかった。
それでもシンジには、父が自分の名を呼んだような気がした。
――シンジ。
続いて、聞こえるはずのない言葉が胸の奥へ届く。
――戻れ。
それが父の声だったのか、自分が父に言ってほしいと願った言葉なのか、シンジにも分からない。
シンジは父を認識した。
帰りに食事をする約束をしていた。
操縦席の脇には、父へ渡すはずのお守りがある。
帰る場所がある。
自分は世界を作り直したいのではなく、そこへ帰りたかったのだと思い出す。
だが、帰ろうとした時には、もう自分の身体が何処までなのか分からなかった。
初号機の鼓動も、装甲を撫でる風も、エントリープラグを満たすL.C.L.も、すべて同じ自分だった。完全に重なった肉体から、碇シンジという一人分だけを切り離す境界がない。
頭上の光輪が縮む。
赤く発光していた警告灯が一つずつ消え、光から作られた左腕も指先から粒子へ戻っていく。
初号機はゆっくりと膝をついた。
シンジは帰ろうとする。
父のいる場所へ。アスカとレイとトウジのいる場所へ。
けれど、その願いを形にするより先に、使い切った力が意識を奪った。
自分と初号機を分けていた最後の輪郭がほどける。
プラグ内で、シンジの身体がL.C.L.へ溶けていった。
痛みはなかった。
肉体は橙色の液体へ混じり、着ていたプラグスーツだけが中身を失ってゆっくりと沈む。
非常用バンドが緩み、屋根の形をしたお守りが窪みから離れた。
木彫りは空になったプラグスーツの胸元へ触れ、そこに留まった。
シンジの意識が途切れる。
最後まで残っていた頭部の赤い光が消え、初号機は完全に停止した。
――
戦闘終了後も、本部の混乱は収まらなかった。
初号機のエントリープラグから、シンジの生命反応は消えていた。しかしプラグそのものに破損はなく、機体周囲の物質状態も安定しないため、救助班はすぐに近づくことができなかった。
レイは医療区画へ搬送され、アスカも弐号機の上で救助された。トウジは加持とともに負傷者を運び続け、最後の避難区画が閉鎖されたことを確認している。
戦闘には勝利した。
だが、ジオフロントの緊急観測区画に勝利を喜ぶ声はなかった。
「初号機の記録、復元できません」
マヤが震える声で報告する。
「熱量と放出エネルギーが一致しません。光の収束地点には、物質化に必要なエネルギーそのものが記録されていないんです」
「質量記録も同じよ」
ナオコが別の携行端末を開く。
「初号機は観測のたびに違う物質として判定されている。生体組織、光、波形、どれも正しくて、同時にどれも成立しない」
リツコは初号機の形状制御記録を追っていた。
「リミッターが外れた時点で、初号機は融解していなければおかしい。それなのに目視記録では、最後まで人型を保っている」
「A.T.フィールドで維持した可能性は」
ミサトが尋ねる。
「そのA.T.フィールドが計測できていないのよ。強過ぎて上限を越えたのではなく、測るたびに性質そのものが変わっている」
説明を重ねるほど、分からないことが増えていく。
その時、初号機へ取りついた救助班から通信が入った。
『エントリープラグを強制排出。内部を確認します』
「ハッチは開けないで!」
リツコが即座に命じた。
「内部のL.C.L.にはシンジ君の身体を構成していた物質や、再構築に必要な情報が残っている可能性がある。循環系も停止。排液、濾過、サンプル採取を禁止。プラグを密閉したまま保全して」
『了解。密閉状態を維持します』
臨時指揮端末へ、救助班の携行カメラ映像が転送される。
初号機の背中から引き抜かれたエントリープラグは、内部のL.C.L.を満たしたまま固定台へ載せられた。救助班が外部端子へ直接診断ケーブルを接続し、途絶えていたプラグ内カメラだけを再起動する。
濁ったL.C.L.の中に、操縦席が映った。
操縦席にシンジはいない。
中身を失ったプラグスーツが、シートの脇へ引っ掛かっていた。
その胸元には、屋根の形をした小さな木彫りが残されている。
裏側に刻まれた一本の道は、屋根の手前で途切れることなく、その下まで続いていた。
「パイロットは……?」
ミサトの問いに、救助班は答えられない。
マヤが密閉されたプラグの外から生体走査を繰り返す。リツコは表示された同調記録を見つめたまま、動かなかった。
「シンジ君の身体を構成していた物質は消えていない」
やがて、リツコが言った。
「プラグ内のL.C.L.と初号機の生体組織、その両方から同じ構成情報が検出されている。完全同調を切れないまま、個体を保つ境界を失ったのよ」
「それって……」
「初号機の中に、取り込まれた」
緊急観測区画から音が消えた。
――
少し離れた本部外壁沿いの避難通路では、加持が光を失った初号機を見上げていた。
隣に立つミサトは、緊急観測区画から救助状況を確認しに来ている。
「勝った、でいいんだよな」
加持が尋ねた。
ミサトはすぐに答えられない。
使徒は消え、レイとアスカは救出され、本部も残った。それだけを見れば、勝利と呼べるはずだった。
しかし光輪を浮かべた初号機は、人類を守る兵器には見えなかった。
「……今は、そういうことにしておくわ」
ミサトの返答を聞き、加持は初号機へ視線を戻した。
「使徒も、何かに呼ばれたようだった。俺達は、何を目覚めさせたんだろうな」
加持は、初号機の頭上に浮かんだ光輪を思い出していた。
あれは兵器の余剰出力ではない。使徒と同じ壁を持つという説明だけでも足りない。光を物質へ変え、触れたものを別の形へ書き換える力など、戦闘用の人造人間に必要なはずがなかった。
「使徒は本部を壊したかったんじゃない。地下の何かへ辿り着こうとしていた。そこへ近づいた時、初号機は使徒とよく似た――いや、もっと根本的なものになった」
「加持君」
ミサトの声に、制止と警戒が混じる。
「槍は何を倒すためのものだった? エヴァは本当に、使徒を倒すためだけに造られたのか? 碇司令は何を知っていて、何を知らない?」
加持は独り言のように問いを重ねた。
「もしかすると俺達が守っているのは人類じゃない。誰かが世界を作り替える、そのための場所と道具なのかもしれない」
言葉にした推測は、自分でも荒唐無稽に聞こえた。
それでも、光輪を持つ初号機を見た後では否定できなかった。地下で見た巨人も、米国支部の消失も、地下へ運ばれた槍も、使徒の進路も、一本の線で繋がり始めている。
答えを持つ者はいなかった。
――
ジオフロントの緊急観測区画へ残ったゲンドウは、停止した初号機を見つめていた。
前世界で知っていた第十四使徒戦ではない。
初号機は使徒を捕食していない。
S²機関も取り込んでいない。
ユイが目覚めて息子を守ったのでもない。
シンジが何をしたのか、ゲンドウにも分からなかった。
ただ、息子が自分の知る人間の境界を越えたことだけは理解できる。
初号機が見せた現象は、兵器の能力ではない。
物質を光へ変え、光へ質量を与え、存在の形を望むままに書き換えた。
それは、人類がエヴァへ期待した役割よりも遥かに古く、根源的な何かだった。
未来を知る自分なら、悲劇を避けられると思っていた。
出来事を変え、使徒を先回りし、息子を守ることができると。
その積み重ねの果てに、シンジは前世界に存在しなかった領域へ到達した。
もはや未来の記憶は、何の指針にもならない。
事象は完全にゲンドウの制御を離れていた。
肉眼で見上げる初号機は動かない。
エントリープラグに息子の肉体がないという報告が届いても、ゲンドウはすぐには言葉を返せなかった。
必ず帰ってこいと命じた。
シンジも帰ると答えた。
それでも、自分が出撃を許した先で、息子は人の形を失った。
それでもゲンドウは、今にも再びこちらを見るのではないかと思った。
最後まで点灯していた頭部の警告灯が、僅かに遅れて消える。
暗くなった初号機を前に、碇ゲンドウは初めて、自分が作り上げたエヴァそのものへ恐怖を抱いた。