戦闘が終わってから、既に五時間が過ぎていた。それでも第三新東京市の地下から警報が消えることはなく、破壊された隔壁の向こうでは、消火剤が白い霧となって漂っていた。折り重なった構造材の隙間を救助班の照明が忙しなく動き、非常灯だけが生き残った通路を赤く照らしている。
第十四使徒は消滅した。しかし、その勝利を喜ぶ声は何処からも聞こえない。臨時指揮所の端には、使徒の消滅だけを記した表示が更新されることなく残っていたが、ネルフの人間にとって、本当の戦いはまだ終わっていなかった。
初号機から抜き取られたエントリープラグは、第二保全区画へ移されていた。
固定架台へ横たえられた白い筒の周囲を、臨時に引かれた冷却管と計測線が取り巻いている。プラグの外殻には戦闘時の傷も、熱による変形もない。内部圧力も、L.C.L.の温度も、シンジの生命反応が消えた時点からほとんど変化していなかった。
プラグの状態は何一つ変わっていない。変わってしまったのは、本来ならその中にいるはずの少年だけであった。
観測室の防護ガラス越しに、ゲンドウは内部カメラの映像を見ていた。
濁ったL.C.L.の中で、空になったプラグスーツが操縦席へ引っ掛かっている。胸元には、屋根の形をした小さな木彫りが留まっていた。
空のプラグスーツにも、その胸元に残された木彫りにも、今は誰一人として触れることを許されていない。シンジを取り戻すための手掛かりが残っているとすれば、それが何であるのか、まだ誰にも判断できなかったからだ。
「循環系、停止状態を維持。排液、濾過、サンプル採取を禁止。内部へ接続する測定機器は、戦闘前から使用していた回線だけに限定します」
リツコが端末を見ながら指示を読み上げる。
「プラグ内の圧力が上がった場合は」
マヤが尋ねる。
「外部から冷却して。安全弁は開かない。内部のL.C.L.には、シンジ君の身体を再構築するための情報が残っている可能性がある。今は一滴も失えないわ」
「はい」
マヤは返事をして、表示された項目を一つずつ固定へ切り替えた。
プラグ内には生命反応がない。
心拍も呼吸も、脳波も検出されない。
それでもリツコは、死亡という言葉を使わなかった。
「リツコ君」
ゲンドウの声に、リツコが顔を上げる。
「碇シンジの状態を報告したまえ」
問いの形を取ってはいたが、何を答えるべきかは明らかだった。
リツコは一度だけ空のプラグスーツを見た。
「パイロットの肉体は確認できません。ただし、身体を構成していた物質が消滅したわけでもありません。プラグ内のL.C.L.と初号機の生体組織から、シンジ君と一致する構成情報が検出されています」
「ならば死亡ではない」
ゲンドウは、リツコが説明を終えるより先に言った。
観測室にいた職員達の手が、僅かに止まる。
「生命反応の消失を、死亡判定へ置き換えるな。回収可能な情報が存在する限り、捜索と救命を継続しろ」
「承知しています」
リツコの返答に迷いはなかった。
それを聞いたゲンドウは再びガラスの向こうへ視線を戻す。
必ず帰ってこいと命じた。
シンジも帰ると答えた。
約束が交わされたのなら、まだ終わってはいない。
――
医療区画では、戦闘を終えた二人の治療が続いていた。
アスカはベッドの上で両腕を胸元へ引き寄せている。
骨にも筋肉にも大きな損傷はない。だが、弐号機が両腕を切断された感覚だけが神経へ残り、時折、自分の指が何処にあるのか分からなくなる。
手を開こうとしても、まるで自分の意志が届いていないように感じられた。しかし、動かないと思った直後には、五本の指が僅かに震える。そうして目で確かめなければ、自分の腕が本当に残っているのか、アスカには信じることができなかった。
「無理に動かさないで」
医療担当者が言う。
「神経接続による一時的な感覚障害よ。鎮静剤が効けば少しは楽になるから」
「いらない」
「でも」
「眠りたくないの」
目を閉じれば、光の腕を持つ初号機が現れる。自分が全力を尽くしても傷一つ付けられなかった使徒を、あの機体は一方的に消滅させた。もしあれをシンジが行ったのだとすれば、自分の完全な敗北である。
戦いが終わった直後は、そう思った。だが今のアスカにとっては、自分が負けたことよりも、勝ったはずの少年が戻っていないことの方が、はるかに恐ろしかった。
隣の処置室から扉の開く音がした。
アスカは反射的に上体を起こそうとし、腕に走った存在しない痛みに顔を歪める。
「レイは」
「今、意識が戻りました。あなたも横になっていて」
制止を聞かず、アスカはベッドから脚を下ろした。
床へ立つ前に、処置室の仕切りが開く。
額と左肩へ包帯を巻かれたレイが、看護師に支えられて現れた。
顔色は悪い。それでも自分の足で歩き、隣のベッドへ腰を下ろす。
アスカはレイの状態を一度見回した後、すぐに口を開いた。
「シンジは?」
レイは答えなかった。
知らないのではない。何と答えればよいのか分からないのだと、その沈黙だけで理解できた。
「初号機から、プラグは回収されたって」
「そんなこと聞いてない」
「でも、碇君はまだ見つかってない」
言葉にされると、アスカの両腕から力が抜けた。
失ったはずの痛みも一瞬だけ消える。
レイは膝の上で、包帯の巻かれていない方の手を握った。
初号機の中に、少年の身体はなかった。
それでも、リツコは死んだと言わなかった。碇司令も探すことをやめていない。そして碇君は、必ず帰ると自分で言った。
信じることに根拠が必要なら、レイが持っているのはそれだけだった。
「リッちゃんが、碇君は初号機の中にいるって」
「だったら、連れてきなさいよ」
アスカの声が震えた。
「いるんでしょう。あんたには分かるんでしょう。だったら、さっさと引っ張り出してきなさいよ」
「私には、できない」
「何でよ」
「どうすればいいか、知らないから」
それが悲しいということは分かった。
だが、悲しい時に自分が何をすればよいのか、レイはまだ上手く知らなかった。
アスカは視線を落とした。
両手がまた震えている。
片方の手へ、別の手が重なった。
レイの指も冷たい。それでも、触れられた場所だけは自分の腕が残っていると分かった。
「入ってもええか」
開いたままの扉から、トウジが顔を覗かせた。
戦闘時の避難誘導で汚れた制服から、ネルフ支給の作業着へ着替えている。頬には小さな擦り傷があり、髪にもまだ白い粉塵が残っていた。
「何よ、その格好」
「ワシもよう分からん。加持さんにこれ着とけ言われたんや」
いつものように答えながら入ってきたトウジは、二人の間にある沈黙を見て足を止める。
「シンジのこと、聞いたの」
アスカが尋ねる。
「ああ」
「だったら、そんな普通の顔してないでよ」
「普通なわけあるか」
トウジの声が低くなる。
アスカが顔を上げた。
「せやけど、センセは戻る言うたんや。ワシの目ぇ見て、自分で決めて行った。ほんなら、待つしかないやろ」
「待って、戻らなかったら?」
「そん時は、また待つ」
何の答えにもなっていない。
それでもトウジは、他の言葉を持っていなかった。
レイが、アスカの手を握ったまま頷く。
暫くしてミサトが病室へ入ってきた。
制服の上着を失い、シャツの袖には乾いた血が付いている。その血が自分のものではないことを、三人の視線に気づいてから説明した。
「シンジ君のサルベージに向けて、準備が始まったわ」
「戻せるの?」
アスカが即座に尋ねる。
ミサトは頷きかけ、止まった。
作戦前なら、必ず帰すと言っただろう。指揮官が弱気を見せれば、子供達まで不安になると考えたはずだった。
だが今、根拠のない言葉を希望として与えることが正しいとは思えなかった。
「そのために、今みんなが準備してる」
嘘ではない。
アスカは不満そうに目を細めたが、それ以上は聞かなかった。
――
初号機の解析結果は、調べるほどに意味を失っていった。
「第三層、再測定終了。先ほどより構成情報が低下しています」
マヤの報告に、リツコは別の画面を開く。
初号機の左胸部から検出されていたシンジの遺伝情報が、十分前の半分まで薄れている。その代わり、右脚と背部装甲の接続部で同じ情報が増加していた。
血液や体液が循環しているわけではない。
物質が移動した記録もない。
ただ、碇シンジであるという情報だけが、初号機の各部を移り続けている。
「コアの波形は」
ナオコが尋ねる。
「二種類が重なっています。従来からあった波形と、シンジ君の神経反応に近いもの。ただし、後者はコアだけから出ているわけではありません」
マヤが初号機の全身図を表示する。
頭部、胸部、右腕、脚部、エントリープラグ。
ほぼ全ての場所から、弱い反応が同時に検出されていた。
「取り込まれた、では足りないわね」
ナオコが呟く。
「普通なら、魂はコアへ収まる。肉体を失っても、帰る場所が一つなら手を伸ばせる。でもこれは違う」
リツコは画面上の点を一本の線で結ぼうとする。
表示はすぐに崩れ、別の場所へ移った。
「初号機の中へ入ったんじゃない。初号機と自分を分けていた境界を失った」
「機体全体が、碇シンジとして反応している」
「ええ」
リツコは認める。
今回行うのは、機体の中から少年の肉体を取り出すような単純な作業ではない。一つになってしまった初号機とシンジに、再び二つの存在としての境界を与えなければならないのだ。
「だったら、先に帰る場所を作る」
ナオコが新しい作業領域を開いた。
「L.C.L.に残った遺伝情報から、肉体の設計図を再構成する。プラグスーツ内部へ形成領域を限定して、そこだけを碇シンジと定義するのよ」
「外から境界を与えるの?」
「本人が自分と初号機を区別できないなら、こちらで区別させるしかないでしょう」
理論の上では成立している。しかし、外側だけはシンジと同じ肉体を作ることができたとしても、そこへ魂や記憶、そして自我が戻るという保証は何処にもなかった。
リツコは反論を口にせず、ナオコが組み上げた仮説へ必要な条件を加えていく。
「本人の自己像を固定する情報が要るわ。肉体だけを用意しても、それが自分だと認識できなければ意味がない」
「生活記録、肉親の声、本人が使用していた物。使えるものを集めなさい」
「はい」
マヤが答え、必要物品の一覧を作り始める。
ナオコは止まらなかった。
初号機の解析にも、肉体の再構成にも前例はない。前例がないのなら、今ここで作ればよい。不明な項目を警告として並べるのではなく、仮説で塗り潰し、検証の順序を組み上げていく。
リツコが指摘するまで、同じ条件を二度入力していることにさえ気づかなかった。
何よりもナオコを動かしていたのは、このサルベージを成功させれば、ゲンドウの息子を取り戻せるという事実であった。それに成功すれば、ゲンドウは自分を見るだろう。一人の研究者として、そして彼の息子を取り戻した女として、再び自分の存在を強く意識するはずであった。
その想像が仮説の精度を上げているのか、あるいは研究者として必要のない焦りを生んでいるのか、もはやナオコ自身にも区別がつかなくなり始めていた。
――
臨時会議室の中央へ、サルベージ計画の概要が投影されていた。
ゲンドウ、冬月、ミサト、ナオコ、リツコ。
誰の前にも、成功率を示す数字はない。
「エントリープラグは初号機との接続を維持したまま、再構成槽として使用します」
リツコが説明する。
「完全に切り離した場合、機体側へ拡散したシンジ君の情報とプラグ内の情報が分断される危険があります。神経接続端子だけを残し、外部から再構成装置を接続します」
「肉体を戻せたとして、意識も戻るの」
ミサトが尋ねる。
「分からないわ」
「それじゃ答えになってない」
「答えの存在しないことを聞かないで」
強い返答の後、リツコは僅かに目を伏せた。
「肉体と魂の境界が再形成されれば、意識もそこへ収束する可能性はある。でも、私達は人の魂を測定できても、それ自体を掴んで移動させることはできない」
「本人に、帰る場所を選ばせるしかない」
ナオコが続ける。
ゲンドウは投影された再構成槽の図面を見ていた。
前世界でも、同じような装置が組まれた。初号機へ溶けたシンジを取り戻すため、リツコとマヤを中心にサルベージが行われ、結果としてシンジは人の形を取り戻した。しかし、当時のゲンドウはその結果を知っているだけで、何が帰還をもたらしたのかまで理解していたわけではない。
自分は待っていただけだった。
帰ってきた息子へ何も伝えず、再び戦場へ送り出した。
サルベージの成功例は、過去に一度だけ存在している。弐号機の接触実験で機体へ取り込まれた、惣流・キョウコ・ツェッペリンの事例である。彼女の肉体はサルベージによって回収されたが、それは人間を元のまま取り戻したという意味での成功ではなかった。
キョウコの魂の一部は弐号機のコアへ残され、肉体と共に戻った心も、取り込まれる前と同じ状態には戻らなかった。つまり、前例が存在すると言っても、今回ゲンドウが望んでいるような、完全な形での帰還を保証するものではないのだ。
そしてゲンドウは、記録にないもう一つの帰還を知っている。
前世界のシンジだ。
あの時も、サルベージの手順自体は失敗した。シンジは実験の成功によって戻ったのではない。何が肉体と自我を取り戻させたのか、当時のリツコにも分からなかった。
あの帰還は、技術の必然ではない。実験失敗の後に起きた、一度きりの奇跡だった。
奇跡が再び起こることを前提に、息子の存在を賭けることはできない。
「この計画は認められない」
ナオコの指が止まった。
「どこが?」
「不確定な要素が多すぎる。肉体を形成した時、初号機側の意識がどう反応するかも分かっていない。失敗が何を意味するのかさえ不明だ」
「不明だから調べるのよ」
「調べてから実行する」
「それまで、あの子が残っていればね」
ナオコは初号機全身の構成情報を時系列で並べた。
検出位置は移動を続け、波形は少しずつ平滑になっている。初号機と完全に同一化すれば、人間だった痕跡を引き離す手掛かりそのものが消える。
「待つことは、今を保つことじゃない。成功率を上げるために待って、実行できる時間そのものを失う。それでもいいの?」
「確実に戻す手立てを整える」
「確実に?」
ナオコが笑った。
その笑い方に、リツコは覚えがあった。幼い頃、電話越しに数式の話をする母は、答えが見えた時だけそう笑った。
その笑顔を、自分へ向けられた記憶はほとんどない。
「そんな方法はないわ。確実になるまで待つなら、永遠に始められない」
「ならば、なおさら認められない」
「碇司令」
ナオコは立ち上がった。
「あなた、失敗を避けたいんじゃない。失敗を選んだ自分になりたくないのよ」
「母さん」
リツコが制したが、ナオコは止まらなかった。
「待っていれば、選ばなかったと言い訳できる。それを確実性と呼んでいるだけでしょう」
あまりに正確な言葉だった。
だが、否定はできない。
失うかもしれないのなら、手を伸ばさない。何も選ばなければ、選んだものを失うこともない。かつての碇ゲンドウが、そうして子供から逃げたことを、彼女は知らないはずだった。
それでも、自分でも認めたくなかったところを、正確に言い当てられた。
ナオコは投影図の向こうで、ゲンドウだけを見ていた。
「私が戻す」
声には研究者の自信と、それでは説明できない熱が混じっていた。
「あなたの息子を、私が取り戻してみせる」
リツコは母の横顔を見た。
リツコは、母が純粋にシンジを救いたいのだと思いたかった。実際にその思いも嘘ではないのだろう。母は母親としての自分を失くしたわけではない。ただ、いつもそれより先に選ばれるものがあった。研究者としての自分と、ゲンドウに惹かれる女としての自分である。
ゲンドウは長い間、何も答えなかった。
「肉体の形成だけでは不十分だ」
やがて、図面の一部を指す。
「本人が自分を認識するための情報が必要なら、家族の声や生活記録を同時に与えるべきだ。L.C.L.を単なる材料ではなく、肉体を形成する環境として維持できないか」
「母体に見立てる、ということでしょうか」
リツコが尋ねる。
「人間が最初に肉体と自己の境界を得る場所だ」
専門外の人間が口にするには、あまりにも具体的だった。
ナオコはゲンドウの顔を見た。
「面白い考えね。以前から調べていたの?」
「可能性を述べただけだ」
「そう」
短く答えたナオコの目には、納得とは異なる光が残っていた。
追及はしない。
今は、ゲンドウが何を知っているかより、その知識で息子を戻せるかの方が重要だった。
冬月が資料を閉じる。
「それで、成功する見込みはどれほどだ」
部屋が静まる。
リツコはナオコを見る。ナオコも、すぐには答えなかった。
「計算できません」
やがてリツコが言った。
「弐号機で行われたキョウコ博士のサルベージとは、条件が違いすぎます。それに、あの例で回収できたのは肉体だけです。初号機の現在の状態も、測定するたびに変化しています。成功率という形で示せる段階ではありません」
「待てば、成功率は上がるか」
ゲンドウが尋ねる。
「……いいえ。現在の計測値では、時間の経過に従って、形成の指標を失う可能性の方が高いと考えられます」
リツコの返答は、ゲンドウが求めていたものではなかった。
「開始までに、想定できる全ての失敗条件を洗い出せ。中断基準は私が確認する」
それでも、すぐに実行せよとは言えなかった。
「開始は明朝。それまでに一つでも不備が見つかれば、延期する」
ナオコが息を吐いた。
説得できたことへの安堵より、自分の手で彼の視線を引き戻したことへの喜びが、その目には濃く残っていた。
リツコだけが、それを見ていた。
――
自己像を固定するための音声は、医療区画の一室で収録された。
用意されたのは、簡素な録音端末と椅子だけだった。
何を話せばよいのかという問いに、リツコは普段どおりに呼びかけてほしいと答えた。励ます必要も、特別な言葉を選ぶ必要もない。シンジが自分を碇シンジだと思い出せるなら、内容は何でもよかった。
最初に端末の前へ座ったトウジは、録音開始を示す灯りを見たまま、暫く黙っていた。
話したいことは幾つもある。
勝手に一人で行ったことを怒りたかった。アスカとレイを助けてくれたことへ礼も言いたかった。自分もエヴァへ乗ると決めたことを、まだ十分に話せていなかった。
だが、どれも戻ってきたシンジへ直接言うべきことだった。
「センセ。約束、忘れんなよ」
結局、口から出たのはそれだけだった。
「ワシらは待っとる。せやから、はよ帰ってこい」
録音を終えたトウジと入れ替わり、レイが椅子へ座る。
「碇君」
名前を呼んだ後、言葉が続かない。
普段どおりと言われても、シンジと二人でいる時に何を話していたのか、一つへ選ぶことができなかった。
学校のこと。食事のこと。初号機のこと。自分が何者か分からないと尋ねた時、シンジが話してくれたこと。
「碇君と一緒にいると、知らなかったことが、少しずつ分かる」
レイは、録音端末の小さな光を見る。
「学校のことも、友達のことも。だから……まだ、話したいことがある」
それでも、胸の中にあるものには足りなかった。
レイは膝の上で手を握り、もう一度、録音端末を見た。
「帰ってきて、碇君」
それを口にして、胸の中にあったものが、ようやく少しだけ言葉になった気がした。
アスカは収録を拒んだ。
「声なんか聞かせなくたって、戻るわよ」
ベッドの上で顔を背け、端末を持ってきたミサトを追い返そうとする。
「可能性があることは、全部やる」
「だったら、あんたが話せばいいじゃない」
「私も話すわ。レイもトウジも録った。あとは、あなただけよ」
シンジが戻れなかった時、自分の声だけがそこになかったら。
考えた瞬間、アスカは端末を奪い取った。
録音開始の操作をしてから、何度も止めた。
名前を呼ぶだけで喉が詰まる。戻ってこいと頼むことは、シンジがいなければ自分が困ると認めるようで、口にできなかった。
三度目の録音で、アスカは視線を逸らしたまま話し始めた。
「シンジ。あんたのピアノ、まだ全然駄目なんだから」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
「勝手にいなくなったら、合わせられないでしょ。あんたのパート、空けたままなんだから……早く戻りなさいよ、バカ」
最後の一言が震えたため、録り直そうとした。
ミサトは端末を取り上げ、そのままでよいと告げた。
ケンスケには、ネルフから連絡が入った。
機密を理由に詳しい説明はされなかったが、シンジへ普段どおりの言葉を残してほしいと頼まれただけで、おおよその事情を察した。
『シンジ、戻ってきたら今度こそ初号機の映像を見せてくれよ。前は駄目だったけど、今度はちゃんと司令へ許可を取るからさ』
明るく話そうとした声は、途中で何度か掠れた。
『それと、トウジが何か隠してる。お前も知ってるんだろ。二人で俺だけ仲間外れにするなよ』
そこで一度、通信の向こうから息を吸う音がした。
『待ってるからな』
短い声が記録へ加えられた。
ミサトは全員の収録が終わった後、一人で端末の前へ座った。
作戦部長として伝える言葉なら、幾らでも考えられる。
帰還しろ。命令に従え。まだ任務は終わっていない。
だが、それらは全て、十四歳の少年を再び戦場へ戻す言葉だった。
「シンジ君」
ミサトは、汚れたシャツの胸元へ手を置いた。
父から受け取った十字架が、そこにある。
「帰ってきたら、一度ちゃんと叱らせて。あんな無茶をして、みんなを心配させたんだから」
叱るためには、生きて向かい合わなければならない。
「その後で……ありがとうって言わせて」
録音を止め、目元を拭う。
最後に残ったのは、ゲンドウだった。
端末を渡したリツコは、肉親の声が最も強く自己像へ作用する可能性があると説明した。
ゲンドウは端末を手にしたまま、何も話さない。
初号機の前では、帰ってこいと言えた。
だが、記録として残る言葉を選ぼうとすると、命令だけでは足りないことが分かった。
何を言えば、シンジは自分のもとへ帰りたいと思うのか。
父親として受け入れることも、必要だと伝えることも、既に何度か言葉にした。それでも、それが息子へ届いていたのか確信できない。
「シンジ」
記録開始から長い沈黙を挟み、ようやく名前を呼ぶ。
「お前の帰る場所は残っている」
家も、学校も、友人達も残っている。
自分もいる。
その最後の一つだけは、口にすることができなかった。
「帰ってこい」
録音を止める。
リツコは何も言わず、受け取った端末を他の音声記録とともに保管した。
――
夜が明ける前、ゲンドウは一度だけ家へ戻った。
サルベージに使用するシンジの私物を選ぶためだった。
保安部員を同行させることは断った。
玄関を開ける。
灯りの消えた廊下から、返事はない。
普段なら、シンジが眠っている時間だった。仕事で遅くなった時も、居間の照明だけは残されていることがあった。
今夜は、自分が出ていった時のまま暗い。
ゲンドウは照明を点け、靴を脱いだ。
台所には、朝に使った二人分の食器が伏せられている。
冷蔵庫を開けば、容器へ入れられた下拵え済みの野菜と、日付を書いた紙が見つかった。今日の夜に使うつもりだったのだろう。
シンジは、帰ってから父へお守りを渡そうと決めていた。
ゲンドウはそれを知らない。
ただ、戦闘が起きなければ、ここで二人分の食事が作られていたことだけは分かった。
冷蔵庫を閉じ、食器棚から二人分の茶碗を取り出す。
記憶の刺激に使用するなら、シンジのものだけでよいはずだった。
それでも一つだけを持ち出すことができず、二つとも用意した箱へ入れる。
シンジの部屋は、朝のままだった。
机の上に教科書が重ねられ、その横には提出した進路希望調査票の控えが置かれている。
職業欄には、未定。
進学希望には、市内高校への進学。
まだ何者になるか決めていない少年が、明日もこの街で生きるつもりだったことだけが記されている。
ゲンドウは調査票を折らないよう、透明な保護板へ挟んだ。
本棚の下にはピアノの譜面がある。
アスカとの連弾に使った頁には、何度も消して書き直した指番号と、互いの入りを合わせるための印が残っていた。シンジの字だけではない。強く書き込まれたアスカの文字が、余白へ幾つも並んでいる。
それも箱へ入れる。
引き出しを開く。
彫刻刀と紙やすり、細かな木屑が残っている。だが、ここに置かれていたはずの屋根の形をした木彫りはない。
ゲンドウは、保全区画の映像を思い出した。
シンジはあれを、自分の意志で持ち出した。
何のために作り、何処へ持っていくつもりだったのかは分からない。
少なくとも、捨てるためではなかったはずだ。
引き出しを閉じる。
机の脇に立てられた幼い頃の写真も箱へ入れた。
最後に部屋を見回す。
持ち出した物は、サルベージが終われば全てここへ戻す。
その時には、持ち主も一緒に戻る。
ゲンドウは灯りを消さずに部屋を出た。
――
本部へ戻ると、初号機の周囲には新しい足場が組まれていた。
破壊を免れた設備が各区画から運び込まれ、エントリープラグへ接続されている。整備員、技術員、医療班が休むことなく動き、存在しなかった装置を一晩で形にしようとしていた。
ゲンドウは持ち帰った箱を担当者へ渡し、臨時執務区画へ向かった。
机には、サルベージ計画以外の報告書も積まれている。
市街地の被害、負傷者、弐号機と零号機の損傷、各国支部からの問い合わせ、ゼーレからの召喚。
どれも処理しなければならない。
だが文字を追っても、意味が頭へ入ってこなかった。
扉が開く。
若い整備員が、盆に食事を載せて入ってきた。
「置いておけ」
「先ほどのものも、手を付けておられませんでした」
「必要ない」
「必要です」
思いがけず強い返答に、ゲンドウが顔を上げる。
整備員は自分が口答えしたことへ気づき、身体を強張らせた。それでも盆を持ったまま退出しようとはしない。
「三年前、娘が生まれた時に育児休暇を取りました」
突然の話に、ゲンドウは何も返さなかった。
「当時の部署は人手が足りなくて、私も休めないと思っていました。でも司令が制度を変えてくださった。子供のそばにいることより、優先しなければならない仕事はないと、通達にも書かれていました」
制度の改定を行ったことは覚えている。
前世界では、子供を持つ職員が家庭か職務のどちらかを失う姿を何度も見た。自分と同じ過ちを、組織の都合で他人へ強いる必要はないと考えただけだった。
誰が利用し、何を得たのかまでは知らなかった。
「娘は、今も元気です」
整備員は盆を机へ置いた。
「今度は私達が働きます。ですから、少しだけでも休んでください」
自分が休んだところで、シンジが戻るわけではない。
そう言おうとして、ゲンドウは止まった。
目の前の男も、子供のそばにいたことで何かを変えられたのかもしれない。少なくとも、その時間を無駄だったとは考えていない。
「サルベージの準備は」
「予定どおりです。私の班が、朝までに外部電力系統を仕上げます」
「そうか」
整備員は一礼し、今度こそ部屋を出ていった。
机に残されたスープから、薄く湯気が上がっている。
ゲンドウは暫くそれを見つめた後、一口だけ飲んだ。
味は分からなかった。
それでも空腹だったことを、飲み込んでから思い出した。
――
サルベージ実験の開始は、翌朝〇九〇〇に決まった。
初号機は応急拘束具へ固定され、エントリープラグは神経接続端子を残した半接続状態に置かれている。
プラグ内のL.C.L.は一滴も排出されていない。
空のプラグスーツも、屋根の形をした木彫りも、戦闘終了時と同じ場所にある。
外部へ設置された肉体再構成装置が、プラグスーツ内部だけを形成領域として認識するよう調整されていた。
観測室では、シンジの生活記録が確認されている。
幼い頃の写真。
学校の出席記録。
進路希望調査票。
食卓に並べられた二人分の食器。
ピアノの譜面を読み、鍵盤を押した時の演奏記録。
ミサト、レイ、アスカ、トウジ、ケンスケの声。
そして、父親の声。
それらは肉体を作る材料ではない。
人の形を失ったシンジが、自分を碇シンジだと思い出すための道標だった。
「再構成装置、接続完了」
「初号機との神経回線、最低出力で維持」
「プラグ内圧、正常。L.C.L.温度、規定値」
マヤが最後の確認項目を読み上げる。
リツコは全ての表示が揃ったことを確かめ、時刻を記録した。
「準備完了。サルベージ開始は、明朝〇九〇〇」
長い一日を終え、職員達が交代で休息へ向かう。
ゲンドウは初号機の前に残った。
照明を落とされた実験場で、紫色の巨体は何も語らない。
かつての世界で、シンジは同じように初号機へ溶けた後、再び人の姿を取り戻して帰ってきた。しかし、前の世界で一度起きたからといって、今回も同じ結果になるとは限らない。あの出来事を希望と呼び、そこへすがるのは容易いが、再現性のない出来事にすがるだけでは、前の自分と同じく奇跡を待っているにすぎない。
この世界では、トウジは傷つかず、レイもアスカも生き残った。そしてシンジ自身も、自分の意志で必ず帰ると答えた。未来の出来事は既に幾つも変わっているが、変わったことの全てが悲劇に繋がっているわけではないのだ。
前の自分は、息子の帰還を他人の技術とシンジ自身の意志に委ね、ただ結果が出るのを待っていた。だが、今回は同じように待つつもりはない。帰るために必要なものを揃え、失敗する可能性も、その選択をした責任も、父親である自分が引き受けるつもりであった。
ゲンドウは初号機を見上げる。
何処へ向かって呼べばよいのかは分からない。
コアなのか、プラグなのか、初号機という肉体全てなのか。
それでも、声が届かないと決まったわけではなかった。
「帰ってこい、シンジ」
返事はない。
観測端末の片隅で、初号機全体に広がる微弱な波形が揺れた。
外部の音を拾っただけかもしれない。
計測誤差かもしれない。
それでもゲンドウは、表示から目を離さなかった。
〇八時間後に開始される実験の予定時刻が、静かな観測室へ白く浮かんでいる。
〇九〇〇。
帰還先は、用意された。