ゲンドウ、再び   作:被検体E-1n

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手の中に残るもの

 

 

 サルベージ実験開始予定時刻、午前九時。

 

 臨時観測室の中央に表示された時計は、既に予定を二分過ぎていた。しかし、防護ガラスの前に立つゲンドウの口から、開始を告げる命令は未だ発せられていない。

 

 応急拘束具によって固定された初号機は、厚い防護ガラスの向こうで沈黙している。覚醒時に赤く発光していた装甲は既に元の緑色へ戻り、頭上に現れた光輪も、左腕を形作っていた光も消えていた。それでも、その内部で何が起き、今どのような状態にあるのか、ネルフの技術では何一つ説明できないままであった。

 

 その初号機の背中には、エントリープラグが神経接続端子だけを残した半接続状態で戻されている。周囲を埋め尽くす肉体再構成装置も、そこから伸びる数え切れないほどの計測線も、すべては僅か一晩で組み上げられたものだった。時間が足りなかったのではない。どれほど時間を費やしたところで、解析不能となった初号機を相手に完全な装置など用意できない。その事実が、急造された機材の一つ一つから滲んでいるように見えた。

 

 リツコが最終確認表を開く。

 

 「プラグ内圧、規定値。L.C.L.温度、安定。初号機との神経回線は、計画どおり最低出力で維持されています」

 

 ゲンドウは返答せず、別の表示を開いた。

 

 「リツコ君、強制中断後のプラグ封鎖は」

 

 「三重に設定しています。再構成装置に異常が起った場合は一次回路を遮断し、初号機側との接続を切り離します。それでも停止しない場合は外部電源そのものを切り離します」

 

 「安全弁は」

 

 「閉鎖状態で固定。内圧が上昇した場合は、外部冷却で対処します。L.C.L.は排出しません」

 

 「再構成領域は」

 

 「プラグスーツ内部に限定。形成データは碇シンジ本人のものと三重に照合済みです、碇司令」

 

 リツコの返答はすべて明確で、そこに躊躇いはなかった。少なくとも、そう聞こえるように努めていた。それでもゲンドウは顔を上げず、既に何度も目を通した画面の中から、まだ確認していない項目を探し続けている。

 

 ナオコは急かさなかった。

 

 前夜の会議ではゲンドウの決断を迫るような言葉を口にしたが、今は既に研究者の顔へ戻っている。ここで開始を急かし、ゲンドウの集中を乱すことに意味はない。何より、この実験を成功させることこそが、自分の言葉が正しかったと証明する唯一の方法であった。

 

 ただ、端末の上で次の指示を待つ指先だけが、いつもより僅かに速く動いていた。

 

 「碇」

 

 冬月が呼びかける。

 

 「時間だ。これ以上待っても、条件は良くならん」

 

 分かっている。待てば成功率が上がるわけではなく、初号機全体へ拡散したシンジの構成情報が、人間の形を作る指標そのものを失っていく。ここにいる誰よりも、その報告を繰り返し読んだゲンドウ自身が理解していた。

 

 それでも、命令を出せば後には戻れない。奇跡へ縋るべきではないと主張していた自分が、結局は不完全な手段に息子のすべてを託そうとしている。その矛盾を自覚していたからこそ、最後の一言が喉の奥に貼りついて離れなかった。

 

 ゲンドウは防護ガラスの向こうにある初号機を見た。

 

 「サルベージを開始しろ」

 

 他人へ向けた命令であると同時に、それは決断から逃げようとする自分自身を、無理やり前へ進ませるための言葉でもあった。

 

――

 

 マヤが起動キーを押すと、再構成装置の周囲に取り付けられた表示灯が順番に点灯した。

 

 初号機とエントリープラグを繋ぐ神経回線へ、戦闘時とは比較にならないほど微弱な電流が流れる。同時に、プラグスーツの内部を形成領域と定める磁場が発生し、L.C.L.に残ったシンジの構成情報が読み取られていく。

 

 「形成領域、安定」

 

 「構成情報との照合を開始。一次データ、一致率九十九・九七」

 

 「初号機全身の反応に変化ありません」

 

 職員達の報告が続く中、リツコは予定された手順に従って、シンジの自己像を固定するための記録を呼び出した。

 

 最初に送られたのは、幼い頃の写真であった。

 

 ユイに抱かれた赤子のシンジ。まだ思うように立つこともできず、両手を広げてゲンドウの方へ歩こうとする姿。ピアノの椅子に並んで座る親子三人。

 

 写真のデータそのものに、失われた肉体を作る力があるわけではない。それでも、初号機の中へ広がったシンジの意識がそれを認識できれば、自分が何者であったのか、どのような姿でこの世界に生きていたのかを思い出す手掛かりになるかもしれない。科学的な手順の中へ、願掛けにも似た曖昧な希望が混ざっていることを、ここにいる全員が知りながら口にはしなかった。

 

 次に、学校の出席記録と進路希望調査票が送られる。

 

 第三新東京市立第壱中学校の生徒。進学希望。将来希望の職業は未定。

 

 何者になるのかも決めていない、十四歳の少年。

 

 それは未完成であるという記録であると同時に、まだこの世界で生き、迷い、そして自分の意志で何かを選ぶことのできる未来があったという証明でもあった。

 

 食卓に並べられた二人分の食器。

 

 ゲンドウとシンジが同じ家で過ごした時間の記録。

 

 最後に、静かなピアノの音が観測室へ流れ始める。

 

 シンジとアスカの二人が弾いた連弾。最初は互いの速さが合わず、何度か途中で音が止まっていた。やがて一つの曲として繋がり、二人分の鍵盤の音が互いを追い越しながら進んでいく。

 

 観測室の中で、ゲンドウは初号機から目を逸らさないまま、その曲を聞いていた。自宅に残された譜面には、シンジの細かな書き込みと、アスカが強い筆圧で残した注意書きが重なっている。自分の知らないところで息子は誰かと出会い、ぶつかり、やがて呼吸を合わせることを覚えていた。

 

 喜ぶには、あまりにも遅い。そう思いながらも、その事実は今のゲンドウにとって、痛みを伴うほどに嬉しいものであった。

 

――

 

 医療区画の待機室で、アスカは音声回線から流れるピアノを聞いていた。

 

 実験室へ入ることは医療班から禁止されている。アスカだけではなく、レイもトウジも同じ部屋に残され、サルベージの経過を音声で聞くことしか許されていなかった。

 

 「こんなの、聴かせる必要あるの?」

 

 アスカが不機嫌そうに言う。

 

 「嫌なら、切ってもええらしいで」

 

 部屋の端を往復していたトウジが、壁の操作盤を指さした。

 

 「切るなんて言ってないでしょ」

 

 「ほな、黙って聞いとけや」

 

 「あんたに言われなくても分かってるわよ」

 

 いつもなら、ここから一つの口喧嘩が始まるのだろう。しかし、今の二人に言葉を重ねる余裕はなかった。アスカはベッドの上で両腕を抱き、トウジは何度目かも分からない同じ場所を、また歩き始める。止まって待つことができないだけで、行く先があるわけではない。

 

 レイだけが、足元へ視線を落としたまま座っていた。

 

 ピアノの曲が終わる。

 

 次に、トウジの声が流れた。

 

 『センセ。約束、忘れんなよ』

 

 録音した時はこれでいいと思ったが、改めて二人の前で聞かされると落ち着かない。トウジは後頭部を掻き、寝台を背にするように向きを変えた。

 

 『ワシらは待っとる。せやから、はよ帰ってこい』

 

 レイの手が、膝の上で小さく動いた。

 

 続いて流れたのは、自分の声であった。

 

 『碇君と一緒にいると、知らなかったことが、少しずつ分かる』

 

 自分で話した言葉であるはずなのに、レイには他人の声を聞いているように思えた。録音した時は、目の前に置かれた端末へ言葉を渡せばよかった。しかし今は、その向こう側にいるはずのシンジが聞いているのか、そもそも聞くことのできる場所にいるのかさえ分からないまま、届いたという返事だけを待っている。

 

 『学校のことも、友達のことも。だから……まだ、話したいことがある』

 

 一度、短い間がある。

 

 『帰ってきて、碇君』

 

 レイは音声回線のスピーカーを見上げた。

 

 「碇君、聞こえてるかな」

 

 誰に尋ねたわけでもなかった。答えられる者など、この部屋には一人もいない。それでもトウジは歩くのを止め、アスカも何も言わず、三人は同じ沈黙の中で返事を待った。

 

 やがて、アスカの声が流れ始める。

 

 『シンジ。あんたのピアノ、まだ全然駄目なんだから』

 

 アスカの指が、ベッドのシーツを握った。

 

 『勝手にいなくなったら、合わせられないでしょ。あんたのパート、空けたままなんだから……早く戻りなさいよ、バカ』

 

 「やっぱり切って」

 

 「もう終わったで」

 

 トウジに言われ、アスカは顔を背けた。

 

 その直後、観測室からマヤの報告が届いた。

 

 『構成情報、初号機全身から移動を開始』

 

 三人が同時にスピーカーを見た。

 

――

 

 初号機全体へ薄く広がっていたシンジの構成情報が、少しずつエントリープラグの方へ移動していた。

 

 それは肉体の移動ではない。血液や細胞が機体内部を流れているわけでもなかった。それでも計測機器の上では、それまで頭部や胸部、四肢にまで広がっていた『碇シンジである』という情報が、一つの場所へ集まろうとしている。

 

 「収束率、二パーセント、三、四……」

 

 マヤの声に、待望が混じる。

 

 ナオコはそれを制するように、冷静な声で命じた。

 

 「まだ成功じゃないわ。感情で数値を読まないで。二次刺激を開始」

 

 「はい」

 

 ミサトの声、ケンスケの声が送られる。

 

 シンジの構成情報は、ゆっくりとプラグへ集まり続けた。

 

 しかし、プラグスーツの内部に肉体が形成される様子はない。内部カメラが映しているのは、L.C.L.の中へ漂う空のプラグスーツだけであった。

 

 「収束率、十一パーセント」

 

 「身体組成、反応ありません」

 

 「計画どおり続けて」

 

 リツコが命じる。

 

 ゲンドウはその間、一度も初号機から目を逸らさなかった。

 

 そして、最後の音声が流れる。

 

 ゲンドウ自身の声だった。

 

 『シンジ』

 

 録音の中に、長い沈黙が入っている。今ここで聞き返しても、自分が何を言うべきだったのか、ゲンドウには分からなかった。

 

 『お前の帰る場所は残っている』

 

 家も、学校も、友人達も残っている。

 

 そして自分も、そこにいる。

 

 録音の時には口にできなかった最後の一つを、ゲンドウは再び心の中でだけ言い足した。

 

 『帰ってこい』

 

 その声が流れ終わった直後だった。

 

 プラグ内のL.C.L.表面に、小さな波紋が起きた。

 

 何かが内部で動いたわけではない。外部から振動が伝わった記録もない。それでも静止していた水面の中央から、たった一つの円が広がり、プラグの内壁で消えた。

 

 同時に、初号機全身へ広がっていた構成情報が、一瞬だけプラグスーツの内部へ集中する。

 

 「反応あり!」

 

 マヤが叫んだ。

 

 「形成領域内に波形発生。これは……心拍?」

 

 「断定しないで!」

 

 リツコが強く制した。

 

 波形はあまりにも弱く、生命反応と呼べるほど明確なものではない。しかし、それまでプラグの外へ広がっていたシンジの構成情報が、その一瞬だけはっきりと人間の肉体が作られるべき場所を選んだ。

 

 ゲンドウが一歩、防護ガラスへ近づいた。

 

 「ナオコ博士」

 

 呼ばれるより早く、ナオコは波形の固定と再現を指示していた。

 

 「分かってるわ。同時刻の全データを切り出して。二秒前から刺激を再現、出力は変えない」

 

 同じ写真、同じ音声、同じ数値。

 

 すべてが同じ順序でプラグへ送られる。

 

 だが、二度目の波紋は起きなかった。

 

 「刺激の間隔を変えて。音声を先に」

 

 三度目も、何も起こらない。

 

 「画像データの後に、もう一度」

 

 「待ってください」

 

 リツコが止める。

 

 「初号機側の反応が変化しています」

 

 表示されていた全身図の各部で、シンジの構成情報が激しく明滅し始めていた。

 

 ある場所で消えた直後、まったく離れた場所へ現れる。前日まで観測されていた緩やかな移動とは明らかに異なり、何かに追われているようにも、あるいは何かから逃れようとしているようにも見える、不規則な動きであった。

 

 「再構成装置、出力上昇!」

 

 「上げてないわよ!」

 

 マヤの報告に、ナオコが即座に返す。

 

 「入力値は一定です。でも、実出力が設定値を越えています!」

 

 「一次回路を遮断。刺激を停止して」

 

 ナオコの命令は冷静だった。

 

 再現を急ぐ気持ちがないわけではない。今ここで反応を逃せば、二度と同じ条件を得られないかもしれないという焦りは、ナオコの中にも確かにあった。それでも、予期せぬ出力上昇を無視して続けることは研究ではなく、成功という結果だけを求めた賭けにすぎない。

 

 現在のナオコには、まだその一線が見えていた。

 

 「遮断、反応ありません!」

 

 「二次回路も切って」

 

 「駄目です。神経回線が切れません!」

 

 「外部電源を切り離して!」

 

 リツコが非常停止レバーに手を掛け、マヤと同時に引き下ろした。

 

 観測室の照明が瞬間的に落ち、再構成装置へ繋がる外部電力がすべて断たれる。

 

 しかし、装置は止まらなかった。

 

 電源が存在しないにもかかわらず、再構成領域の数値は上昇を続けている。だが、数値が示す現象を目の前にしても、それを説明するための理論が存在しなかった。

 

 「初号機から電力が逆流している?」

 

 マヤが呆然とした声を漏らす。

 

 「違う。これは電力じゃない」

 

 リツコは画面に並ぶ数字を見ていたが、それが何であるのかを説明できなかった。

 

 シンジが帰ろうとしたのかもしれない。外部から与えられた人間の境界へ収まろうとし、その過程で何かが均衡を崩した可能性もある。反対に、初号機がシンジを外へ返すことを拒んだとも考えられた。あるいは、一晩で組み上げた人間の装置が、今の初号機という存在に耐えられなかっただけなのかもしれない。

 

 考えられる仮説はいくつもあったが、そのどれ一つとして確かめる術はない。答えのないまま、異常だけが人間の理解を置き去りにして進んでいく。

 

 そして、その異常は彼らが答えへ辿り着くまで待ってはくれなかった。

 

――

 

 医療区画の待機室にも、実験場で発せられた警報が届いた。

 

 先ほどまでスピーカーから聞こえていた職員達の声が激しいノイズに埋もれ、直後に音声回線そのものが切断される。

 

 「ちょっと、何が起きてるのよ!」

 

 アスカがベッドから立ち上がろうとした。

 

 「まだ動いちゃ駄目です!」

 

 医療担当者が制止するが、アスカは聞かない。寝台から足を下ろした瞬間、弐号機で切断された両腕の感覚が再び幻肢痛となって走り、その場へ膝をつきかけた。

 

 傍にいたトウジが、倒れかけた身体を咄嗟に支える。

 

 「放しなさいよ!」

 

 「今行って、自分で何ができるちゅうんや!」

 

 「そんなの、行ってみなきゃ分かんないでしょ!」

 

 いつもならすぐに言い返すトウジも、今は何も答えられなかった。自分だって実験場へ走って行きたい。だが、三号機が使徒に侵食されたあの日、何もできない人間が現場へ入れば、助けるどころか他の誰かまで危険にさらすことになると、嫌というほど思い知らされている。

 

 レイは二人の横で、壁の通話装置へ手を伸ばした。

 

 「リッちゃん、聞こえる?」

 

 返事はない。

 

 「リッちゃん。碇君は、どうなったの?」

 

 呼びかけてもノイズすら返らず、切断されたことを示す赤い光が点滅するだけであった。

 

 レイの指が、通話ボタンの上で止まる。

 

 「帰ってきてって、言ったのに」

 

 先ほどの録音より、遥かに小さい声だった。

 

 それでもアスカとトウジには聞こえた。

 

 アスカはトウジの腕を振り払うことをやめ、痛みを堪えながら自分の足で立ち直った。それから三人は、誰も言葉を発することなく、赤い光だけが点滅を繰り返す通話装置を見続ける。何も聞こえないという事実が、途切れる直前まで響いていた警報よりも、彼らを強く怯えさせていた。

 

――

 

 「プラグ内圧、急上昇!」

 

 「外部冷却、最大!」

 

 「間に合いません!」

 

 エントリープラグの周囲から白い冷却ガスが噴出する。だが、L.C.L.の温度は下がらず、内圧も危険域へ近づいていく。

 

 「安全弁、強制解放シーケンスに移行!」

 

 「中止させて!」

 

 ナオコが命じる。

 

 「受け付けません!」

 

 次の瞬間、プラグ下部の非常排出口が、誰の命令も受けないまま開いた。

 

 それまで必死に冷静さを保っていたゲンドウの表情が、初めてはっきりと崩れる。

 

 「止めろ!」

 

 開いた排出口から、黄色がかったL.C.L.が一気に流れ出した。

 

――

 

 実験場の床へ落ちたL.C.L.は、高所から大量の水を叩き付けたような音を上げ、作業足場の下へ広がっていった。

 

 「排出弁、閉じません!」

 

 「予備封鎖を使って!」

 

 「そちらも制御不能!」

 

 プラグ内の液面が、目に見える速さで下がっていく。空のプラグスーツが操縦席から滑り落ち、排出口の方へ引き寄せられた。

 

 「一滴も外へ出すな!」

 

 ゲンドウが叫ぶ。

 

 「回収槽を開け! 排水路を封鎖しろ!」

 

 命令を受けた整備員達が、可能な限りの回収容器を持って走り出す。床下の排水路には緊急遮断板が下ろされたが、その間にもL.C.L.は足場の縁を越え、実験場全体へ広がっていく。

 

 リツコは手動操作盤へ移り、マヤと共に封鎖コードを打ち込み続けた。

 

 その隣で、ナオコは先ほどの波形を保存領域へ送る。

 

 「異常発生前後の記録を全て分離して。装置は解体しない。現状のまま隔離するのよ」

 

 混乱の中でも、ナオコの声は落ち着いていた。

 

 「波紋は起きた。一度は、あの子の情報が帰る場所を選んだ。だから、完全な失敗じゃない」

 

 それは誰かを励ますための言葉ではなく、ナオコ自身が、今ここですべてが終わったと認めないために導き出した結論だった。

 

 「何があの反応を起こしたのか、必ず見つける。異常の原因も、収束が崩れた理由も……」

 

 そこまで命じた後、ナオコはもう一度、同じ記録保存の画面を開いた。

 

 「異常発生前後のデータを保存して」

 

 「保存は、既に完了しているわ」

 

 リツコが静かに告げた。

 

 ナオコの指が止まる。

 

 「……そう」

 

 それだけを返し、すぐに別の画面を開く。計算式を確認し、出力の変動を追い、自分の仮説のどこが間違っていたのかを探し始める。

 

 その手は止まらなかった。

 

 研究者である限り、原因の分からない失敗をそのままにはできない。原因を見つけ、次の実験へ繋げ、今度こそ成功させる。それは研究者として正しい思考であり、同時に、そう考え続けている間だけは、この結果が何を意味するのかと向き合わずに済むという逃避でもあった。

 

 ふと、ナオコは防護ガラスの向こうを見た。

 

 ゲンドウの姿が、観測室から消えていた。

 

――

 

 ゲンドウは観測室を飛び出し、実験場へ続く非常階段を駆け下りていた。

 

 「司令、お待ちください!」

 

 後ろから保安部員の声が聞こえたが、足を止めない。

 

 前世界でも、自分は空になったプラグスーツを見た。シンジの肉体が初号機の中へ溶け、どこにも存在しないという報告を受けた時、ゲンドウはネルフ司令として説明を聞き、リツコが立案したサルベージ計画を承認しただけだった。

 

 待つこと以外、何もしなかった。いや、何もできないという現実を、司令という立場の陰へ隠れて受け入れていた。

 

 今度は違うと決めていたはずだった。それなのに、この瞬間にゲンドウができることは、前世界と何一つ変わっていない。

 

 階段を降り切った先で、L.C.L.が床全体へ広がっている。整備員達が容器と吸引装置を使って回収していたが、排出口から流れ出す量に追いついていない。

 

 「一滴も捨てるな!」

 

 ゲンドウが命じる。

 

 「床に落ちたものも全て回収しろ。まだシンジの構成情報が残っている!」

 

 整備員達は返事をし、すぐに作業へ戻った。

 

 しかし、床へ触れた時点で液体が汚染されていることは、ゲンドウにも分かっていた。回収できたとしても、再構成に使用できるかは分からない。そもそも、今行われた計画そのものが失敗している。

 

 科学者として持つ知識のすべてが、その行為に意味はないと告げていた。それでも、再び何もしないまま見ていることだけはできなかった。

 

 ゲンドウは手袋を外すことも忘れ、L.C.L.の中へ両手を入れた。

 

 掌で液体をすくい上げる。けれども指の間から零れたL.C.L.は、幾筋もの細い流れとなって床へ戻っていく。もう一度すくい上げ、今度は両手をきつく閉じてみても、行き場を失った液体は掌の縁から溢れ落ちた。

 

 液体の一滴一滴にシンジの身体が残っているわけではない。そんなことは分かっている。それでも、その中に息子を形作っていた情報が残っていると聞いてしまった以上、指の間から零れていくL.C.L.のすべてが、二度と取り戻せないシンジそのもののように思えてならなかった。

 

 「回収しろ……」

 

 ゲンドウは、もう一度両手を伸ばした。

 

 「一滴も、失うな」

 

 それが整備員へ向けた命令なのか、零れ続ける液体への懇願なのか、既にゲンドウ自身にも分からなくなっていた。

 

――

 

 観測室から実験場を見下ろしていたナオコは、端末の上へ置いた手を動かせなかった。

 

 L.C.L.の中へ膝をつき、何度も掌で液体をすくい上げるゲンドウの姿が見える。

 

 その視線は一度も、こちらを向かない。

 

 ナオコは、自分がシンジを取り戻せば、ゲンドウは自分を見ると考えていた。研究者として、不可能を可能にした女として、彼の中へ自分の存在を残すことができると。

 

 しかし、それは最初から間違っていたのかもしれない。不可能を可能にしたところで、ゲンドウが見るのは奇跡を成し遂げた自分ではなく、その手で取り戻した息子なのだ。

 

 今、彼の目に映っているものが最初からシンジだけであったように。

 

 ナオコはその事実を、今すぐ感情として受け入れることができなかった。

 

 だから、また計算式を開いた。

 

 必ず原因を見つける。

 

 波紋は起きたのだ。

 

 完全な失敗ではない。

 

 そう結論し、逃げ込むように次の仮説を組み始める。

 

 ただ、キーボードの上に置かれた指先は、ごく僅かに震えていた。

 

 隣に立つリツコは、それに気づいていた。

 

 何も言わなかった。

 

 今は、ゲンドウから見られないことを悲しむ母も、そんな母にまた見られていない自分も、どちらも口にすべきではないと分かっていた。

 

――

 

 やがて、エントリープラグの排出が止まった。

 

 中に残されたL.C.L.は、底部の僅かな量だけであった。床へ流れ出した分の多くは回収槽へ移され、密閉容器へ収められていく。

 

 何割が使用可能な状態で回収できたのか。そこにどれほどシンジの構成情報が残っているのか。

 

 結果が出るまでには時間がかかる。そして、どのような結果が出ようとも、今すぐシンジを取り戻す方法には繋がらないということだけは明らかだった。

 

 ゲンドウはL.C.L.の中へ膝をついたまま、作業を見ていた。

 

 手袋はL.C.L.を吸い、指先から黄色い液体が滴っている。

 

 その時、指の間を小さな何かが流れていった。細かな木屑や装置の破片とは違うそれは、弱くなったL.C.L.の流れに押され、ゲンドウの膝へ当たって止まる。

 

 ゲンドウはそれへ手を伸ばした。

 

 上部が三角形に張り出し、その下にいくつかの切れ込みが入った、不器用な木彫りであった。

 

 何を表したものなのか、ゲンドウには分からない。

 

 ただの家の形だとさえ、気づくことができなかった。

 

 それでも、完全に意味のない形ではないと考えた。三角形に張り出した部分も、まっすぐに刻まれた切れ込みも、何かを表すためにシンジが刻んだはずだった。

 

 前夜、シンジの机の引き出しで見た彫刻刀と紙やすり、そして底に残っていた細かな木屑を思い出す。それらと結びつければ、この不器用な木片がシンジ自身の手で作られたものであることだけは理解できた。

 

 何のために作り、誰へ渡すつもりだったのか、ゲンドウにはまったく想像できなかった。

 

 なぜ、使徒の現れた日にエントリープラグまで持ってきたのかも分からない。

 

 分からないことばかりだった。そして、もう本人へ尋ねることさえできないかもしれないという可能性だけは、どうしても認めることができなかった。

 

 ゲンドウは木彫りを握り締めた。L.C.L.に濡れた木片が、手袋越しにも分かる固い感触を返してくる。形を持たない液体はどれだけすくっても指の間から零れ落ちたというのに、それだけは掌の中へ残った。

 

 周囲では職員達が回収作業を続け、観測室ではナオコとリツコが異常の解析を始めている。

 

 しかし、それらの音はもはやゲンドウの耳には入らない。手の中に残ったのは、意味さえ分からない小さな木彫りだけであった。

 

 碇シンジは、戻らなかった。

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