サルベージ実験の失敗から、さらに時間だけが経過していた。
中央作戦司令室では、使徒迎撃後に積み残された通常業務が再開されている。破壊された防衛設備の復旧計画、弐号機と零号機の損傷報告、各国支部から届いた照会、そして第十四使徒の侵入によって生じた被害の集計。どれも先送りにできるものではなく、机上へ積まれた書類は時間と共に厚みを増していた。
ゲンドウは、その中の一枚を長い間見続けていた。
第三新東京市の地上区画における避難設備の損害報告。既に一時間前、承認欄へ自分の名を記した書類である。
そのことに気づかないまま、ゲンドウは同じ一行を読み返している。
実験場でL.C.L.に浸かった衣服は、職員に促されて着替えていた。髪も乾き、外見だけを見れば、いつものネルフ最高司令官と何ら変わらない。しかし端末に残された操作履歴は、サルベージの失敗から一度も長い中断を挟んでいない。仮眠室を用意したという報告にも返事をせず、ゲンドウは二十七時間、司令席と解析区画の間を往復し続けていた。
右手は、時折、上着のポケットへ触れている。
そこには、あの木彫りが入っていた。
何を表したものなのか、今も分からない。シンジがなぜ作り、なぜ使徒の現れた日に持っていたのかも分からなかった。それでも手放すことはできず、濡れた服を脱ぐ際にも、それだけは自分の手で新しい上着へ移した。
端末へ新しい報告が届く。
ゲンドウは画面を開き、数行を読んだところで手を止めた。そこに何が書かれていたのか理解できず、もう一度最初へ戻る。
「それは先ほど私が処理した」
背後から伸びた手が、端末の表示を閉じた。
ゲンドウが顔を上げると、冬月が未処理の書類を纏めて抱えていた。
「副司令決裁で問題のない案件だ。お前が見る必要はない」
「最終確認は私が行う」
「今のお前にかね」
冬月は端末の隅に表示された連続稼働時間へ視線を落とした。二十七時間を越えた数字は今も増え続け、休息を取った形跡は一度も記録されていない。
「問題はない」
「同じ報告書を二度承認しようとした男の言葉とは思えんな」
ゲンドウの視線が、閉じられた画面へ落ちる。反論はなかった。それでも席を立とうとはしなかった。
「分析結果がまだ出ていない」
「出れば呼ぶ」
「初号機の精査も終わっていない」
「それも赤木親子の仕事だ。お前が計測器を睨んだところで、解析が早まるわけではない」
「分かっている」
答えだけは早かった。
その言葉が事実でないことを、冬月は知っていた。正確には、ゲンドウは理解している。理解していながら、ここを離れることができないのだ。
自分がいない間に、シンジを取り戻す手掛かりが見つかるかもしれない。あるいは、今度こそ本当に失ったという報告が届くかもしれない。そのどちらの瞬間にも立ち会えないことを恐れ、司令席へ縋りついている。
「今日は私がやる」
冬月は抱えていた書類を、自分の端末へ移した。
「いや、今日だけではない。お前がまともに眠るまで、通常業務はこちらへ回せ」
「冬月」
「これまで散々、私へ仕事を押しつけてきたのだ。今さら一つ二つ増えたところで変わらん」
いつもなら愚痴として口にする言葉を、冬月は笑わなかった。
「休め、碇。これは副司令命令だ」
「そのような権限はない」
「知っている。だから、古い友人として言っている」
ゲンドウは眼鏡の奥から冬月を見た。だが、その言葉にも頷くことはできなかった。
「結果が出るまでは、ここにいる」
掠れた声でそれだけを告げ、再び画面を開く。冬月はしばらくその姿を見下ろしていたが、やがて何も言わず、机に残された未処理の書類をすべて持ち去った。
――
初号機の精査は、覚醒が収束した直後から始められていた。
サルベージの準備と並行し、装甲、生体組織、コア周辺部に至るまで、可能な限りの非接触検査が行われている。そして、そこから得られた結果は、異常ではないという意味で異常なものだった。
現在の初号機を構成する物質は、通常状態の基準記録と一致している。
赤く発光していた装甲も、光と波に近い性質へ置き換わった生体組織も、今はどこにも存在しない。物質化した光によって補われていた左腕は収束と同時に消失し、切断された左肩から先は欠損したままである。それ以外の装甲板の元素組成、生体組織の密度、残存部の組織配列は、許容誤差の範囲で本来の初号機へ戻っていた。
にもかかわらず、覚醒中に外部観測装置が記録した数値は、現在の組成から導き出せるものと一つも一致しない。
あの時、初号機は確かに通常の物質では説明できない状態へ変化していた。それなのに収束後の機体には、その痕跡すら残されていない。異常な物質を調べているのではなく、異常であったという記録と、何も起きていないように戻った現物との間に生じた空白を調べているようなものだった。
リツコは、これまでの記録を時系列に並べた。
初号機が起こした過去の暴走。第三使徒との戦闘、そして第十二使徒の内部から帰還した時。いずれもシンジの意識は低下、又は途絶しており、機体は操縦者の命令から離れて行動していた。
対して、第十四使徒戦における再起動は、始まり方だけを見ても明らかに異なる。
活動限界を迎え、外部電源も失われた初号機へ、シンジは自分の意志で動くことを求めた。その声を最後に、エントリープラグ内部のレコーダーは全項目で観測限界を越えた。
同調率、神経接続、脳波、心拍、プラグ深度。すべての数値が同時に振り切れ、直後から機能停止まで、記録には解析不能な雑音だけが残っている。
覚醒した初号機が外からどのように見えていたかは分かる。だが、その瞬間、内部でシンジに何が起きていたのかを示す記録は一つもなかった。
「従来の暴走では、碇シンジの同調率が測定不能になった後、パイロット由来の信号が著しく低下しています。機体を動かしていたのは、少なくとも彼の意識ではなかったと考えられます」
リツコが過去の波形を拡大する。
「ですが第十四使徒戦では、碇シンジが自分の意志を示した直後に全記録が途絶えました。再起動後の反応が本人のものだったのか、初号機のものだったのか、それすら区別できません」
マヤは、振り切れたまま平らな線となった複数の記録を見比べた。
「では、シンジ君が操縦していたかどうかも……」
「分からない。動きには明確な目的性があった。でも、それを根拠に本人の意思だったとは断定できないわ」
リツコは、覚醒収束後の初号機全身図を表示した。左腕を欠いた残存部の組成は元へ戻っている一方、通常ならばエントリープラグとコア周辺に集中するはずのシンジの構成情報だけが、頭部から右腕、両脚に至るまで薄く広がっている。
「暴走前と収束後を比較すれば、この間に碇シンジと初号機の結びつきが変化した可能性は高い。けれど、その過程の記録がない以上、深くシンクロしたという表現が正しいかも分からない」
「シンジ君が、初号機の一部になった……?」
「断定はできない。初号機側が彼を取り込んだのかもしれないし、碇シンジが自分から境界を越えたとも考えられる。あるいは、私たちの計測方法では区別できない状態へ変化しただけかもしれない」
ナオコは、別の端末でサルベージ実験時の数値を追っていた。
「出られないんじゃないのかもしれないわね」
「母さん?」
「人間として切り離すための輪郭が、もうない。だから再構成装置が帰す場所を作ろうとした時、初号機全体に広がった情報まで引きずられた」
サルベージ装置の異常と、L.C.L.表面に起きた一度きりの波紋。その二つを結びつけるように、ナオコは数値へ指を走らせる。
「だとすれば、装置が暴走したんじゃない。あの子が戻ろうとした結果、こちらの用意した器では受け止めきれなかった可能性がある」
「仮説です」
リツコは、母の言葉を遮った。
「初号機が返すことを拒んだ可能性も、装置そのものが異常を起こした可能性も消えていません。シンジ君の意思があったと結論づけるには、あの波形は短すぎます」
「分かっているわよ」
ナオコは不機嫌そうに返したが、画面から目を離さない。
「だから、次は受け止められる器を作ればいい」
その言葉を聞いたリツコは、何も答えなかった。
今の段階では、それもまた仮説の上に重ねた願望にすぎない。だが母がその違いを理解していないはずはなかった。
解析室の扉が開き、回収されたL.C.L.の検査結果が届く。
リツコは報告を受け取ると、最初の頁を読んだだけで僅かに眉を寄せた。
それを見たナオコが、無言で手を差し出した。
――
回収されたL.C.L.は、複数の密閉槽へ分けて保存されていた。
床へ触れる前に直接回収できたものは僅かであり、大半は実験場の床面や作業足場、緊急排水路を通過している。金属粉、冷却剤、洗浄薬品、繊維、剥離した塗料、破損した再構成装置の微細な部品。さらに回収作業にあたった職員由来のわずかな皮膚片や体液までが混入し、L.C.L.は本来の均一性を完全に失っていた。
問題は、量だけではない。
単純な異物であれば、濾過や遠心分離によって取り除くことができる。だが、初号機から流出した生体物質や、複数の人間に由来する微細な組織は、シンジの構成情報と近い反応を示していた。
どこまでが不純物で、どこからがシンジなのか。
それを選別するための基準そのものが失われている。
「遺伝情報は残っている」
ナオコは検査結果を机へ置いた。
「身体組成の記録も完全に消えたわけじゃない。なら、不純物を段階的に除去して、純度を上げれば――」
「除去の基準がありません」
リツコは敬語のまま、静かに否定した。
「遺伝情報だけなら、通常の細胞からでも採取できます。問題は、そこに残っている情報のうち、何が碇シンジという個人を形作っていたものなのか判別できないことです」
「組成の一致率を上げればいいでしょう」
「それでは、碇シンジと同じ材料を揃えるだけです」
リツコは表示を切り替えた。
サルベージ開始前には、初号機全体に広がりながらも一つの連続した反応として認識できていた情報が、実験後には無数の断片へ分かれている。そのどれもがシンジに由来する可能性を持ち、同時に、混入した別の物質である可能性も持っていた。
「材料が残っていることと、碇シンジを戻せることは同じではありません。人間の形へ再構成するには、本人が自分を自分だと認識するための境界が必要です。今のL.C.L.からは、それが見つかりません」
「見つからないだけでしょう」
「はい。ですから、存在しないとは断定していません。ただし、見つけられないものを基準に精製を行えば、残っているかもしれない情報まで不純物として除去することになります」
ナオコは答えなかった。
再試行のために精製すれば、シンジの痕跡を消すかもしれない。何もせず保存すれば、取り戻すための手段を自ら捨てることになるかもしれない。
どちらが正しいか判断する材料は、どこにもなかった。
「別の分離方法を探すわ」
やがてナオコは、報告書を自分の端末へ複製した。
「化学的な精製が駄目なら、情報の連続性だけを拾えばいい。異常発生前の波形と照合して――」
「母さん。その方法は、三時間前に棄却したでしょう」
指摘され、ナオコの手が止まった。
「条件が違うわ。今度は波紋の直前だけを基準にする」
「波紋がシンジ君の意思によるものだという証拠はありません」
「だから確かめるのよ」
ナオコの声は、まだ穏やかだった。論理も完全には失っていない。ただ、棄却したはずの仮説を僅かに形を変えて拾い上げる回数だけが、少しずつ増えていた。
リツコはそれ以上反論せず、ゲンドウへ提出する報告書を作成した。
――
報告を受ける間、ゲンドウは一度も口を挟まなかった。
執務室の机上へ、回収されたL.C.L.の状態と初号機の精査結果が並べて表示されている。リツコは事実と仮説を明確に分け、サルベージ装置の異常についても、現時点では原因を特定できないと説明した。
シンジと初号機の結びつきが、従来の同調では説明できないほど強くなっている可能性。
その結果、人間として切り離すための境界が失われた可能性。
しかし、いずれも仮説でしかない。
確かなのは、初号機の内部にシンジ由来の反応が残っていること。そして、回収されたL.C.L.からシンジの肉体を再構成することが、現在のネルフにはできないという二点だけであった。
「再試行は」
ゲンドウが尋ねる。
「現状では不可能です」
リツコは率直に伝えた。
「精製によって不純物を除去すれば、再構成に必要な情報まで失う危険があります。初号機側から再度採取する方法も、今の状態では安全性を保証できません」
「成功率は」
「数値化できません」
「ゼロではないのか」
僅かな間があった。
「ゼロだと証明することもできません」
その答えに、ゲンドウの目が上がる。
「ですが、それを可能性と呼ぶこともできません。手順も、成功と判断する基準もない以上、それは実験ではなく賭けです」
前日、ナオコが自分を説得するために使った言葉が思い出された。
まだ失敗していないのなら、失敗を恐れる段階ではない。
あの時、ゲンドウはその言葉に押され、サルベージを許可した。そして一度は、確かにシンジが帰ろうとしたようにも見える反応が起きた。
ならば、もう一度行えばいい。
装置を作り直し、不純物を取り除き、条件を変えて繰り返せばいい。ネルフ最高司令官として命令すれば、技術部は可能な限りの方法を探すだろう。
しかし、その命令によって失われるものも理解していた。
密閉槽の中に残っているのは、使える材料ではない。少なくとも、その中にはシンジであったものが含まれているかもしれない。自分が諦められないという理由だけで、それを削り、選別し、失敗のたびに消費してよいのか。
ゲンドウの右手が、ポケットの上から木彫りへ触れた。
「回収したL.C.L.は、全量を現状のまま保存しろ」
リツコが顔を上げる。
「廃棄、精製、実験への転用を禁ずる。初号機への追加処置も、私の許可なく行うな」
「再サルベージは」
「凍結する。初号機も封印措置へ移行させろ」
「封印、ですか」
「全神経接続を切断し、専用ケージを物理閉鎖。起動系統はMAGIから分離しろ。シンジを取り戻す方法が見つかるまで、誰も触れさせるな」
それは、解析不能となった兵器を拘束するための命令であり、同時に、初号機の中へ残された息子をこれ以上傷つけさせないための命令でもあった。
口にした瞬間、胸の中から何かが抜け落ちた。
諦めたわけではない。いつか方法が見つかれば、その時は必ず取り戻す。そのために、今は残されたものを失わない。
そう判断したはずであった。
しかし、ゲンドウの耳には、自分が息子の帰還を断念したと宣言したようにしか聞こえなかった。
「承知しました」
リツコは静かに頭を下げる。
「子供たちには、私と葛城一佐から説明します」
ゲンドウは答えなかった。
彼らへ何を言えばいいのか、分からなかった。
――
医療区画の面談室には、四つの椅子が置かれていた。
三つには、レイ、アスカ、トウジが座っている。残る一つはミサトのために用意されたものだったが、彼女は座らず、壁際へ立っていた。
リツコが検査結果を説明する間、誰も言葉を挟まなかった。
初号機の中には、今もシンジの反応が残っている。だから死亡とは断定されていない。しかし、昨日のサルベージは失敗し、回収されたL.C.L.も再実験には使用できない。現時点で、シンジを人間の姿へ戻す方法はない。
事実だけを選び、できる限り誤解のない言葉で説明しても、最後に残る意味は一つだった。
少なくとも今は、シンジを帰してやることができない。
「いるんでしょう」
最初に声を上げたのは、アスカだった。
「初号機の中に、シンジはいるんでしょう」
「反応は残っているわ」
「だったら連れてくればいいじゃない」
「今は、その方法がないの」
「できない、では説明になってないわ!」
アスカが椅子から立ち上がる。勢いに身体がついてこず、弐号機で失った両腕の痛みが幻肢痛となって神経を走った。
傾いた身体を、隣に座っていたレイが支えた。
「放して」
「今は、立たない方がいい」
「平気よ、このくらい」
「平気じゃない」
レイはアスカの肩へ腕を回し、その身体を椅子へ戻そうとする。力は強くない。それでもアスカは振り払わなかった。
レイの手が震えていることに気づいたからだった。
「初号機の中にいるなら、どうして出してあげられないの?」
アスカを支えたまま、レイが尋ねる。
「私たちには、シンジ君がどこからどこまでなのか見つけられないの」
リツコは、専門的な説明を避けた。
「身体を作るための情報は残っている。でも、それをシンジ君という一人の人間に纏めるための境界が分からない。だから、今のままでは帰してあげられない」
レイは、自分の腕の中にいるアスカを見た。
その身体がどこからどこまでアスカなのか、考えたことなどない。手を伸ばせば触れられ、名前を呼べば返事がある。それが人間であることだと思っていた。
けれどシンジには、もう触れることができない。名前を呼んでも返事がない。
初号機の中にいると言われても、レイにはその姿を思い浮かべることができなかった。
代わりに思い出したのは、シンジの背中だった。
第五使徒との戦闘を終え、焼けついた零号機のエントリープラグを、両手に火傷を負いながら開けたシンジ。レイの無事を確かめた途端、肩を震わせて泣き始めた少年へ、自分はなぜ泣いているのかと尋ねた。
皆を守り切れなかったから。もし綾波まで駄目だったらと思うと怖かったから。
あの時のレイは、シンジの涙を完全には理解できなかった。ただ、彼が言う『皆』の中へ自分も含まれていることが嬉しくて、悲しい顔をしないでほしいと思った。
それからも、何度もその背中を見た。
学校へ向かう坂道で、少し前を歩く姿。食卓で不器用に笑う姿。怖いはずなのにエヴァへ乗り、誰かの前へ立とうとする姿。
初号機の背中とは違う。大きな装甲も、強い腕も持たない、十四歳の少年の背中だった。
それでもレイにとって、その背中はいつの間にか、とても大きなものになっていた。
気づけば視界が滲み、頬を温かいものが流れていた。それが何なのか、確かめるまでもない。レイは声を押し殺すことも、涙の理由を分析することもできず、次々と溢れる涙をそのまま零した。
「碇君に、他のみんなのためにも生きて、笑っていてって言ったのに」
第五使徒戦の後、自分がシンジへ渡した言葉だった。
「私が言ったのに。どうして、碇君が帰ってこないの」
支えていたはずのレイの身体が、小さく崩れる。
今度はアスカが、痛みを堪えながらレイの背中へ腕を回した。強く引き寄せることはできない。それでも、自分の肩へ額を押しつけるようにして支える。
「……泣かないでよ」
アスカの声も震えていた。
「レイが泣いたら、本当にあいつが帰ってこないみたいじゃない」
それはレイを慰める言葉ではなかった。自分へ言い聞かせるための、あまりにも弱い否定だった。
シンジが自分を助けるために来たこと。その結果、初号機と戻れないほど深く繋がってしまったかもしれないこと。
アスカは、それを口にできなかった。
自分のせいだと言えば、レイもトウジも否定するだろう。だが、誰かに否定してもらうためにその言葉を使うことは、シンジが最後に見せた覚悟を、自分の罪悪感へ変えるように思えた。
トウジは向かいの席で、膝の上に両手を置いたまま俯いていた。
昨日、録音へ吹き込んだ言葉が頭から離れない。
約束を忘れるな。自分たちは待っている。だから早く帰ってこい。
守らせる相手がいない約束だけが、行き場を失って残っている。
それでもトウジは、帰ってこないとは言わなかった。アスカとレイの前でその言葉を口にすれば、自分まで諦めたことになる気がした。
ミサトは、抱き合う二人と俯いたトウジを見ていた。
作戦部長として、シンジを初号機へ送り出した。あの時、彼の意志を尊重した判断が間違っていたとは思いたくない。だが、正しかったと言い切ることもできない。
この部屋にいる全員が、それぞれ違う形で同じ少年を失い、誰一人として、その痛みを代わってやることができなかった。
――
ゲンドウが司令席へ戻ると、端末に表示されていた未処理案件はすべて消えていた。代わりに並んでいるのは副司令決裁済みの印と、各部署へ振り分けられた業務番号である。
冬月が仕事を引き受けただけではなかった。
作戦、施設、総務、整備。本来ならば司令確認を待つ案件が細かく分けられ、それぞれの部署で処理できる形へ組み直されている。夜間の交代表を開けば、急に空いた欄はすべて別の職員の名で埋められていた。
ゲンドウは申請記録を遡った。
誰かが命じた形跡はない。最初に一人の職員が自分の勤務時間を僅かにずらし、次の者が引き受けられる業務を申請し、それを見た別の部署が残りを分け合っている。一人へ負担を集中させず、無理な連続勤務も生じさせない。かつてゲンドウ自身が改めた勤務制度の範囲を、誰一人として破ってはいなかった。
それでも、司令一人分の空白は残っていない。
発令所では、職員達がいつもと変わらない顔で端末へ向かっている。こちらを見ている者はいない。感謝を求める者も、自分が何を引き受けたのか告げに来る者もいなかった。ただ、ゲンドウが戻ってきても仕事へ手を伸ばせないよう、必要なものは既にすべて持ち去られている。
「私の承認を得ていない」
誰へ向けるでもなく呟くと、背後から冬月の声が返ってきた。
「お前が作った制度だ。その制度に守られた者達が、今度はお前の空白を埋めようとしている」
組織の運用効率を上げるために行ったことだと、そう説明することはできた。しかし、それがすべてでないことも、今のゲンドウには分かっている。自分と同じ過ちを、組織の都合で他人へ強いる必要はない。その思いから残したものが、言葉ではなく人の動きとなって返ってきていた。
ゲンドウは、名前で埋められた交代表をもう一度見た。
「……そうか」
礼を口にする相手は、そこにいなかった。だから、その短い言葉だけを、誰にも聞こえないほど小さく落とした。
「聞いたか、碇」
冬月が司令席の後ろへ立っていた。
「ここには、お前がいなくても進められる仕事がある。今は帰れ」
帰れという言葉に、ゲンドウの指が動いた。
帰る場所には、シンジがいない。
それでも、いつまでも本部へ留まり続けることはできなかった。
「後を頼む」
「ああ」
冬月は、それ以上何も言わなかった。
――
自宅へ戻った時には、既に日付が変わっていた。
玄関の照明をつける。
自分の靴を置く場所の隣に、シンジの靴が残っている。昨日履いて出たものとは別の、学校の予備用として使っていた靴だった。
「ただいま」
口にしかけた言葉は、音になる前に消えた。
返事がないことを、知っていたからだった。
廊下を進み、居間の照明をつける。食卓には二人分の椅子が向かい合い、台所の水切り籠には、シンジが最後に洗った食器が伏せてある。
冷蔵庫の扉には、買い物のメモが貼られていた。
牛乳、卵、味噌。父さんのコーヒー。
最後の一行だけ、少し小さな字で書かれている。
次の休日に買えば間に合うと考えていたのだろう。次の朝も、次の休日も、何の疑いもなく来ると思っていた。その当たり前の未来だけが、この家の至るところへ残されていた。
ゲンドウはメモを剥がすことができなかった。
食器も、靴も、何一つ片づけられない。片づけてしまえば、ここへ帰ってくるはずだった人間の場所まで消えるような気がした。
シンジの部屋の前へ立つ。
扉は閉じている。
前夜、サルベージに使う品を選ぶために入った時と、何も変わっていないはずだった。机の上には教科書があり、引き出しには彫刻刀と紙やすりが残っている。学校の鞄も、途中まで使われたノートも、持ち主が戻る時を待っている。
扉へ手を伸ばす。
しかし、開けることができなかった。
ポケットの中で、指先がお守りへ触れる。
何を表した形なのか分からない。誰へ渡すために作ったのかも、なぜ最後の戦いへ持っていったのかも分からない。
聞きたいことが、また一つ増えた。
けれど、その答えを返す声はない。
居間の壁際には、黒いアップライトピアノが沈黙している。シンジがこの家でも弾けるようにと、ゲンドウが新しく購入したものだった。譜面台には、サルベージに使った連弾の譜面が戻されないまま、空いた場所だけが残っていた。
ゲンドウはピアノへ近づかなかった。
シンジの部屋の前で立ち尽くし、閉じた扉を見続ける。
帰ってきたはずなのに、この家のどこにも、自分が帰るべき場所を見つけることができなかった。