空欄には、どんな言葉を入れても嘘になるような気がした。
葛城ミサトは、端末の前で指を止めていた。
第十四使徒迎撃戦、最終報告書。
損壊した兵装、崩落した区画、投入された人員と、その損耗。画面を埋める数字の大半は、既に各部署から提出された報告を転記するだけで済んだ。弐号機は大破。零号機も重篤な損傷。初号機は封印。作戦本部の機能は仮設指揮所へ移され、ジオフロント内の復旧には数か月を要する。
そこまでは書けた。どれだけ大きな被害であっても、数字へ置き換えることができるなら、作戦部長として処理することができた。
しかし、搭乗者の状態。その一項だけが残った。
生存。
死亡。
負傷。
どれも違う。碇シンジの身体は存在しない。だが、初号機の内部には今も反応が残っている。死んだとは誰にも断定できず、生きていると言い切れる者もいなかった。
ミサトはしばらく画面を見つめ、やがて選択欄を閉じた。自由記述の項目へカーソルを移し、四文字を入力する。
――消息不明。
表示された文字を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
昨日まで笑い、悩み、怒り、エヴァへ乗っていた少年を、作戦責任者である自分が、たった四文字の記号へ変えた。
ミサトは報告書を確定できないまま、画面を伏せた。
「無理に今日出す必要はないんじゃないか」
声に振り向く。
仮設指揮所の入口に、加持リョウジが立っていた。
いつもの無精髭。いつもの気の抜けた笑み。使徒が本部を半壊させ、シンジが初号機へ消えた後でさえ、その外見だけは何も変わっていない。
「提出期限は昨日よ」
「なら、もう一日遅れても同じだ」
「そういう問題じゃないの」
「そういう問題にしておけ。今だけはな」
ミサトは返事をしなかった。
加持も、それ以上は言わなかった。
机へ近づくことも、肩へ触れることもない。少し離れた場所から、伏せられた画面を見ている。
慰めようと近づかれれば、きっと拒絶していた。何も言わず、こちらから手を伸ばさなければ届かない距離に立つ加持の気遣いが、今はありがたかった。
「何の用?」
「顔を見に来た」
「見たでしょう」
「ああ」
それだけ答え、加持は踵を返した。
「加持君」
呼び止めたのは、理由があったからではない。
加持が振り返る。
ミサトは何かを言おうとした。シンジのこと。初号機のこと。自分の判断は間違っていたのかということ。もしあの場に加持がいたなら、シンジを止められたのかという、答えのない問い。
どれも言葉にならなかった。
「……何でもない」
「そうか」
加持は笑った。
別れの挨拶もせず、そのまま通路へ消えた。
――
加持は歩きながら、胸ポケットの端末を取り出した。
時刻を確認するふりをして、背後の反射を見る。
仮設区画へ移設された案内板。その透明な覆いに、通路の光景が細長く映り込んでいる。行き交う技術部員。資材を運ぶ作業員。警備に立つ保安部員。
その向こうに、男がいた。
左の頬から顎へかけて、古い傷が走っている。
男は加持を見ていない。壁面端末へ視線を落とし、表示を確認しているように見える。
だが、その端末は三日前から故障していた。
加持は足を止めず、分岐を右へ曲がった。
エレベーターへ乗り、扉が閉じる直前にもう一度通路を見る。
男は追ってこなかった。
「相変わらず、愛想がないねぇ」
閉じた扉へ向かって呟く。
あの男が自分を見張り始めたのは、昨日今日ではない。最初に気づいたのは、第十一使徒がMAGIへ侵入するよりも前だった。
正規の保安部なら通過記録を残す場所で、男は一度も認証を求められない。勤務表に名前がなく、所属を照会しても該当者が出ない。それでいて、ネルフ本部の監視網と死角を、長年勤めた職員以上に知っている。単なる監視役でないことだけは確かであったが、それ以上は加持にも掴めなかった。
ゼーレの人間か。
碇司令の人間か。
あるいは、そのどちらでもないのか。
調べようとはした。だが、こちらが一歩近づけば、男の痕跡は二歩遠ざかった。残るのは、監視映像の端に一瞬映る傷跡だけだった。
エレベーターが停止する。
加持は地上へ出ると、ネルフ本部とは無関係の端末を経由して、届いていた暗号文を開いた。
文章は短かった。
回収した情報を指定の場所へ持参すること。
調査に関係する複製をすべて破棄すること。
指定時刻に一人で来ること。
従わない場合については書かれていない。自分がどうなるかなど、わざわざ書く必要がないからだ。
加持は暗号文を消去し、端末から記憶媒体を抜いた。指先で二つに折り、別々の排水口へ捨てる。
空を見上げる。
第三新東京市の地上区画は、まだ第十四使徒の傷を残していた。迎撃設備は押し潰され、装甲ビルの幾つかは地上へ戻ることができずにいる。遠くでは復旧作業の重機が動き、その音だけが、人気の減った街へ響いていた。
太陽は高い。
死ぬかもしれない人間の都合など知らないように、空は妙に明るかった。
――
加持が育てていた西瓜畑は、使徒の侵入を免れていた。
地下施設の一角。人工照明の下で、青い葉が伸びている。
加持は土へ膝をつき、乾きかけた表面へ水を与えた。葉を持ち上げ、裏側に虫がついていないかを確かめる。肥料を足し、支柱へ蔓を結び直す。
いつもと同じ手順だった。
ただ、今日は一つ一つの作業が妙に丁寧だった。
「しばらく来られないかもしれない」
返事をする者はいない。
「水は自動で入る。照明も、まあ当分は保つだろう」
葉に触れた指へ、青臭い匂いが残る。
種を蒔き、芽が出るのを待ち、蔓を伸ばす場所を作る。人間の都合など知らず、植物は与えられた土の上で生き続ける。
自分は何を育てられただろうと、加持は思った。真実を追い、秘密を盗み、誰かへ渡した。だが、その先で何が生まれるのかを見届けたことはない。問いを投げるだけ投げて、答えを探す役目はいつも他人へ預けてきた。
ミサトにも。
シンジにも。
あの少年は、もう戻らないかもしれない。
それでも最後まで、自分の意志で父親のもとへ走った。誰かに命じられたからではない。世界を守るという大義だけでもない。碇ゲンドウという、一人の不器用な父親を置き去りにしないために、初号機へ乗った。
加持には、あれほど真っ直ぐに誰かを求めた経験がなかった。
大人は賢くなるのではなく、ただ傷つかない距離を覚えていくだけなのかもしれない。少なくとも、自分はそうだった。
「君には、笑われるかな」
土を払って立ち上がる。
入口の脇には、灌水装置の管理方法を書いた紙を置いた。宛名はない。誰かがここを見つけたなら、世話を引き継げるようにしてある。
照明を消す直前、加持は畑を振り返った。
青い葉だけが、暗くなる部屋の中で揺れていた。
――
ミサトの部屋には、誰もいなかった。
ペンペンは長期避難用の飼育施設へ預けたままだった。
居間と隣室を隔てる壁には、以前、ユニゾン作戦の訓練で空いた穴があった。今はもう補修され、壁紙まで貼り直されている。知らない者が見れば、そこに穴があったことさえ気づかないだろう。
ミサトには、その場所が分かった。
シンジとアスカがここで暮らしたのは、訓練のための短い期間だけだった。それでも塞がれた壁を見ていると、二人の言い争う声や、足並みを揃えようと何度も音楽を繰り返した夜が、部屋の向こう側へ閉じ込められているように思えた。
冷蔵庫の動作音だけが、生活の名残のように響いている。
加持は呼び出し音が留守番電話へ切り替わるのを待った。
短い電子音。
録音が始まる。
「よう、葛城。俺だ」
そこまで言って、言葉が止まった。
何を残すかは考えていた。調査資料の場所、セカンドインパクトに関する記録、ネルフとゼーレがそれぞれ隠しているもの。そして自分が戻らなかった場合、誰を信用し、誰を疑うべきか。
だが、どれも電話で話せることではない。
そして本当に伝えたいことほど、声にしようとすると形を失った。
「頼みたいことがある。近いうちに、荷物が届く。俺が集めたものの一部だ。全部が正しいとは限らない。俺の思い込みも、誰かに掴まされた嘘も混じっているだろう」
加持は受話器を持ち替えた。
「だから、自分の目で確かめてくれ。俺の答えを信じるんじゃない。君自身の答えを探してほしい」
あまりにも勝手な頼みだった。ミサトは今、シンジを失ったばかりだ。その傷が塞がる時間さえ与えず、さらに重いものを背負わせようとしている。
「ただし、無茶はするな。真実ってやつは、命を賭ければ必ず手に入るほど律儀じゃない。君まで壊れたら、俺が困る」
自分で言って、小さく笑った。
軽口に聞こえただろうか。
いつもの加持リョウジらしく聞こえただろうか。
「アスカのことも頼む。あの子は、放っておいてくれと言いながら、誰かが見ていないとすぐに無茶をする。鈴原君とレイがいるから、前よりは少し安心だがね」
シンジの名だけは、すぐに口にできなかった。
初号機の中にいる少年へ、何を頼めばいい。
帰ってこいと、自分が言う資格はあるのか。
「シンジ君が戻ったら……」
声が途切れる。
「いや、それは君が言ってやってくれ。あの子には、待っている人間の言葉の方が必要だ」
加持は目を閉じた。
言い残したことは、まだ幾らでもあった。けれど時間を延ばせば、別れが上手くなるわけではない。
「じゃあな」
受話器を離しかけ、止める。
長い沈黙のあと、加持は一度だけ呼んだ。
「葛城」
続く言葉は、最後まで出なかった。
通話を切る。
録音時間を示す数字が止まった。
――
日が落ちる頃、加持は指定された区画へ向かった。
ネルフ本部の外縁部。第十四使徒の攻撃によって閉鎖された搬入用通路である。復旧計画では優先順位を下げられ、人が近づく理由はほとんどない。
天井灯は数個おきに消えていた。
靴音が、長い通路へ反響する。
加持は急がなかった。
途中に設置された監視カメラは、すべて俯いたまま停止している。偶然ではない。今夜ここで起きることは、最初から記録に残らないよう準備されていた。
指定地点には、一人の男が待っていた。
暗い色の背広。特徴の薄い顔。街ですれ違っても、数分後には思い出せなくなるような男だった。
「資料は」
挨拶もなく、男が尋ねる。
「持ってきていない」
加持は答えた。
「命令は伝えたはずだ」
「生憎、忘れ物が多くてね」
男の右手が、上着の内側へ入る。
「複製の所在を言え」
「言えば、帰してくれるのか?」
「質問しているのはこちらだ」
「それは残念だ。会話は、お互いに質問した方が長続きする」
加持は壁へ背を預けた。
煙草を一本取り出し、口へ咥える。ライターの火が、一瞬だけ二人の顔を照らした。
男は苛立ちも見せない。
感情を持ち込まず、人を消すために来た者の目だった。
加持は煙を吐いた。
「君たちの老人には伝えてくれ。俺は、最後まで分からなかったよ」
「何をだ」
「人類を一つにするなんて大層なことを言いながら、どうしてあれほど互いを信用できないのか」
男は答えなかった。
上着から拳銃を抜く。
黒い銃口が、加持の胸へ向けられた。
加持は手を上げず、逃げ道を探すこともしなかった。ここへ来る前から、結末は分かっていた。
調べすぎ、知りすぎた。そして、渡すべき相手へは渡し終えた。
この先も生き延びれば、次は誰かが自分の代わりに狙われる。ミサトかもしれない。アスカかもしれない。あるいは、自分の残した情報を受け取った、名も知らない誰かかもしれない。
ここらが潮時なのだろう。加持は不思議なほど静かな気持ちで、そう結論づけた。
加持は、不意にシンジの顔を思い出した。
怖がりながら、それでも初号機へ向かった少年。
あの子なら、こんな諦め方を卑怯だと言うだろうか。
それとも、大人は大変ですねと、困ったように笑うだろうか。
「最後に一つだけいいか」
「話せ」
「畑の水を止めないでくれ。あれは俺よりよほど、生きることに真面目なんだ」
男の指が、引き金へかかる。
加持は目を閉じなかった。
乾いた銃声が二発、暗い通路にこだました。
――
翌日の午後、ミサトは保安部へ呼び出された。
狭い部屋だった。
机と椅子が二脚。壁には時計さえない。正面へ座った保安部員は、開いた端末をミサトへ見せることなく、一定の声で告げた。
「本日未明、加持リョウジの死亡が確認されました」
意味を理解するまでに、数秒かかった。
「……誰が?」
「現在調査中です」
「どこで見つかったの」
「機密区画です。詳細はお伝えできません」
「遺体は」
保安部員が、ほんの僅かに間を置いた。
「既に身元確認を終えています」
「そんなことを聞いているんじゃないわ。私に確認させなさい」
「許可できません」
「私は作戦部長よ。加持君の任務内容についても――」
「本件は作戦局の管轄外です」
「誰が確認したの」
「規定に従って処理されています」
「だから、誰が!」
机を叩いた音が、狭い部屋へ響く。
保安部員は表情を変えなかった。
「葛城一佐」
階級で呼ばれ、ミサトは自分が制服を着ていることを思い出した。
ここで怒鳴っているのは、加持の恋人だった女ではない。ネルフ作戦部長、葛城ミサト一佐でなければならない。
その肩書が、今は拘束具のように重かった。
ミサトはゆっくりと手を引いた。
「死因は」
「銃創です」
「所持品を見せて」
「捜査資料として保全されています」
「加持君が、最後に誰と会っていたかは?」
「現在調査中です」
何を尋ねても、同じ壁へ行き当たった。
現在調査中。
機密事項。
規定に従って処理済み。
いくら質問を重ねても、そこには加持リョウジという人間が、どのように死んだのかを伝える言葉が一つもなかった。
「以上です」
保安部員が端末を閉じる。
薄暗くなった画面へ、ミサトの顔が映った。
泣いてはいなかった。
驚くほど、何の表情も浮かんでいなかった。
「一つだけ教えて」
立ち上がりかけた保安部員が止まる。
「加持君は、逃げたの?」
保安部員は答えなかった。
その沈黙を、ミサトは答えとして受け取った。
――
廊下へ出ると、日常が続いていた。
職員が書類を抱えて走っている。復旧班が資材の搬入経路について言い争い、放送設備からは立入禁止区画の変更が告げられている。
加持が死んでも、ネルフは止まらない。
シンジが戻らなくても、世界は待ってくれない。
ミサトは自分の執務室へ戻った。
机の上には、朝にはなかった封筒が置かれていた。
差出人の記載はない。
手袋をつけ、封を切る。
中には、小型の記憶媒体と紙片が一枚入っていた。
紙に書かれていたのは、短い一文だけだった。
――答えは、誰かに与えられるものじゃない。
加持の字だった。
ミサトは椅子へ座った。
記憶媒体を端末へ接続する。暗号化された複数の資料が表示された。セカンドインパクト調査隊。人類補完計画。ゼーレ。アダム。そして、セントラルドグマ最深部に磔にされたリリス。
白い巨人の姿自体は、既に自分の目で見ている。
あの時、加持はそれをアダムと呼び、ゲンドウはリリスだと訂正した。だが資料に残されていたのは名前だけではなかった。リリスへ繋がる古い接続記録、抹消された実験番号、アダムとは別の系統として分類されながら、同じ計画の中で何度も交差する二つの名。
ゲンドウは、あの時どこまで知っていて、どこまでを自分たちへ見せたのか。
秘密を幾重にも覆い、必要な事実だけを選んで口にする姿を、ミサトは知っている。
同時に、シンジの残ったL.C.L.を両手で掬い、指の間から零れてもなお止めようとしなかった姿も見ている。
どちらかが演技だったとは思えなかった。
何かを隠し続ける司令官も、息子を失って立つことさえ忘れた父親も、どちらも碇ゲンドウの本当の姿なのだろう。
だからこそ、疑念は消えなかった。
あれほど息子を失うことを恐れる人間が、それでも守ろうとしている秘密とは何なのか。何を知っていたから、シンジを初号機へ乗せることを最後まで躊躇ったのか。
どれも断片にすぎない。だが、断片同士の間には、意図的に切り取られた巨大な空白があった。
加持は、その空白を追っていた。
そして殺された。
ミサトは資料を複製しようとして、手を止めた。
まず、誰がこの封筒を机へ置いたのか調べなければならない。
入室記録を開く。
該当する時刻には、誰の認証も残っていなかった。
監視映像を呼び出す。
封筒が置かれたと推測される前後、映像は十一秒だけ途切れている。
偶然ではない。
加持を殺した者と、資料を届けた者は同じなのか。
それとも加持は、自分の死後に届くよう、あらかじめ手配していたのか。
判断できなかった。分かったのは、加持が自分へ何かを託したということだけだった。
――
夜になっても、ミサトは帰宅しなかった。
加持の資料を読み続けた。
文章を追っている間だけは、何も考えずに済んだ。固有名詞を拾い、時系列を並べ、矛盾する記録へ印をつける。仕事として処理できるものへ変えてしまえば、加持の死を自分の外側へ置いておけた。
だが、日付が変わる頃、端末に着信記録が届いた。
自宅の留守番電話に、新しい録音が一件ある。
記録された時刻は、昨日の夕方。
加持が死ぬ前だった。
ミサトは椅子から立ち上がった。
急いで帰る理由などない。録音は消えない。明日の朝に聞いても、内容は変わらない。
それでも気づけば走っていた。
仮設通路を抜け、地上へ向かうエレベーターへ乗る。扉が閉じるまでの数秒さえ長い。車を飛ばし、人気のない道路を抜ける。
部屋へ辿り着いた時には、呼吸が乱れていた。
照明もつけず、留守番電話へ向かう。
再生ボタンを押す。
短い電子音の後、加持の声が流れた。
『よう、葛城。俺だ』
それは昨日まで聞いていた声だった。
あまりに変わらず、次の瞬間には玄関の扉が開き、本人が入ってくるような気さえした。
ミサトは立ったまま聞いていた。
資料を託す言葉。
自分の目で確かめろという言葉。
無茶をするなという、本人が一度も守らなかった忠告。
『アスカのことも頼む』
その言葉で、ミサトは壁へ背を預けた。
アスカを頼むなら、自分で帰ってくればいい。
シンジが戻った時に伝えてくれと言うなら、自分の口で伝えればいい。
勝手に調べ、勝手に託し、勝手に死んだ。いつもそうだった。
大切なことを冗談の陰へ隠し、相手が気づいた時には手の届かない場所へ行ってしまう。
『じゃあな』
録音が終わる。
そう思った。
だが、長い沈黙の後、もう一度だけ加持の声がした。
『葛城』
そこで録音は切れた。
ミサトの膝から力が抜けた。
床へ座り込み、留守番電話へ手を伸ばす。再生を押す。もう一度、同じ声が流れる。
『よう、葛城。俺だ』
「……馬鹿」
返事はない。
「何で、ちゃんと言わないのよ」
加持の声は、決められた通りに続いていく。
「頼むなら、生きて帰ってきなさいよ」
声が震えた。
シンジが初号機へ消えた時、ミサトは泣くことができなかった。アスカとレイとトウジの前で、自分まで崩れるわけにはいかなかった。作戦部長として、シンジを戦場へ送り出し、止めることのできなかった責任を負わなければならなかった。
ゲンドウがL.C.L.を掬い集める姿を見た時も、自分だけが悲しむことを許されているとは思えなかった。
だから感情に蓋をして、涙を止めていた。その二人分の喪失が、今になって一度に溢れた。
「加持君」
名前を呼ぶ。
録音の中の男は答えない。
ミサトは電話機を抱え、誰もいない部屋で泣いた。
声を殺す理由も、立ち続ける理由も、今だけはなかった。
――
朝が来る前に、涙は止まった。
悲しみが消えたわけではない。身体の内側に空いた穴が、涙を流すだけでは埋まらないと分かっただけだった。
ミサトは冷たい水で顔を洗い、制服へ着替えた。鏡の中の目は赤く腫れている。化粧で隠そうとしたが、完全には消えなかった。
それでも本部へ向かった。
執務室へ入り、加持の残した記憶媒体を取り出す。
一番上の資料には、セカンドインパクト調査隊の名簿があった。
その中に、父の名前がある。
ミサトは指で触れ、次の頁を開いた。
知らなければならない。加持が何を見つけ、何を知ったために殺されたのか。
父は南極で何をし、ゼーレは何を隠し、ネルフは何のためにエヴァを造ったのか。
そして、シンジが今も囚われている初号機とは、本当は何なのか。
答えは、誰かに与えられるものではない。ならば、自分で探すしかない。
ミサトは未完成の第十四使徒迎撃報告書を開いた。
搭乗者の状態には、昨夜入力した文字が残っている。
消息不明。
ミサトは、その下へ一文を付け加えた。
――捜索および回収手段の検討を継続する。
報告書を確定する。
シンジを諦めない。加持の死を、ただの機密記録で終わらせない。その二つが、今の自分にできる唯一の抵抗だった。
――