ゲンドウ、再び   作:被検体E-1n

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 読者の方からメッセージ、また感想にてAI使用のご指摘があり、タグ付を致しました。当方の規約確認不足によるものです。申し訳ありません。
 使用経緯については活動報告にあげさせていただきましたので、そちらを確認していただけると幸いです。
 ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。










別れの支度

 

 

 第三新東京市から人が消え始めていた。

 

 第十四使徒によって地上の装甲都市だけでなく、最も安全であるはずのジオフロント内部まで蹂躙された。ネルフ本部へ避難すれば助かる。これまで人々の間に辛うじて残っていたその認識は、巨大な使徒が天蓋を破り、地下都市へ降り立った時に失われた。

 

 復旧作業のために大型車両が行き交う一方、駅前には市外へ向かう臨時輸送車が並んでいる。家財を抱えた家族が受付を待ち、閉じられた商店のシャッターには休業を知らせる紙が貼られていた。

 

 休業期間の欄が空白のままのものも多い。いつ戻れるのか、店を開けるだけの人間がこの街へ帰ってくるのか、誰にも分からないからだ。

 

 第三新東京市立第一中学校も、既に通常の授業を維持できる状態ではなかった。生徒が登校するのは、疎開先の確認や教材の受け取り、残された私物の整理を行うためだけとなっている。

 

 その日、久しぶりに教室へ入ったアスカは、並んだ机の半分近くが空いていることに気づいた。

 

 既に荷物まで運び出された席。机の中に教科書を残したまま、持ち主だけがいなくなった席。窓際には、誰も世話をしなくなった鉢植えが並んでいた。

 

 シンジの席も空いている。

 

 ただし、彼の机には教科書も筆記用具も残されていた。ネルフの医療施設へ入院しているだけであり、退院すれば再び学校へ戻ってくる。その発表に合わせるように、担任も荷物を片づけようとはしなかった。

 

 アスカは自分の席へ座る前に、シンジの机を見た。

 

 以前なら、こちらの視線に気づいて困ったように笑っただろう。今は窓から差し込む光が、誰もいない椅子の背を照らしているだけだった。

 

 「アスカ」

 

 呼ばれて振り向く。

 

 ヒカリが教室の入口に立っていた。足元には大きな鞄が置かれている。普段と変わらない学級委員の顔をしていたが、制服ではなく私服を着ていることが、今日ここへ来た理由を伝えていた。

 

 「何よ、その荷物」

 

 知っていながら、アスカは尋ねた。

 

 「今日の午後に出ることになったの。家族と一緒に、しばらく親戚のところへ」

 

 「そう」

 

 それ以上の言葉が続かなかった。

 

 教室の後ろでは、ケンスケが自分の机から教科書を引き抜き、段ボール箱へ詰めている。トウジはその横に立っていた。手伝おうとはせず、かといって離れることもできずにいる。

 

 レイは窓際の自分の席へ座り、二人の様子を見ていた。机の端から落ちかけていたシンジの消しゴムへ気づき、拾って元の場所へ戻す。誰かに頼まれたわけではない。ただ、そこに残しておかなければならないような気がした。

 

 担任が教壇へ立ち、今日の連絡を始める。

 

 既に疎開した者の名前が読み上げられ、続いて、今日を最後に一時転出する生徒が告げられた。洞木ヒカリ。相田ケンスケ。それ以外にも幾つかの名前が続く。

 

 戻ってくる時期について、担任は明言しなかった。使徒に関する危険が解消され、市の生活基盤が復旧すれば、順次授業を再開する。用意された説明を読み上げる声には、その日が本当に来るのかという迷いが滲んでいた。

 

 教室にいる生徒達も、それを指摘しようとはしなかった。戻れると口にすれば嘘になるかもしれず、戻れないと認めれば、今日がこの教室で顔を合わせる最後の日になってしまう。誰もが分かっていながら、机を動かす音で沈黙を埋めていた。

 

――

 

 連絡が終わると、生徒達はそれぞれの席を整理し始めた。

 

 ヒカリは教科書の詰まった鞄を閉じ、アスカの机へ一枚の紙を置いた。

 

 疎開先の住所と連絡先が、丁寧な字で書かれている。

 

 「落ち着いたら手紙を書くから。アスカも、書いてね」

 

 「電話でいいじゃない」

 

 「回線がどうなるか分からないでしょう。それに、手紙の方が残るから」

 

 ヒカリらしい答えだった。

 

 アスカは紙を手に取り、折り目をつけないよう教科書へ挟んだ。

 

 「戻ってきたら、また買い物に行こうね」

 

 「今度はもう少しましな店を選んでよ。前のところ、品揃えが悪かったもの」

 

 「アスカが全部のお店を見たいって言ったんじゃない」

 

 「それと品揃えは別の話よ」

 

 いつもと同じような会話だった。

 

 だからこそ、次の言葉がアスカの胸へ刺さった。

 

 「その頃には、碇君も退院してるといいね」

 

 ヒカリは励まそうとしただけだった。それをアスカも分かっている。相手がヒカリでなければ、もっと激しく言い返していたかもしれない。友人だからこそ傷つけたくなくて、友人だからこそ、分かったような言葉を向けられることが辛かった。

 

 それでも、初号機の前から吹き飛ばされた第十四使徒と、その後に起きたことを思い出した。人間の形を失い、初号機の中へ溶けたシンジ。サルベージ実験に失敗し、二度と開くことのない扉のように封印された専用ケージ。

 

 退院という言葉では、あまりにも軽かった。

 

 「……簡単に言わないで」

 

 思っていたより強い声が出た。

 

 ヒカリの表情が固まる。

 

 「ごめん。私、そんなつもりじゃ」

 

 「分かってるわよ」

 

 アスカは立ち上がった。

 

 ヒカリが悪くないことなど、初めから分かっている。退院してほしいと願うことも、戻ってきたら会おうと約束することも、何一つ間違っていない。

 

 間違っているのは、そんな言葉にさえ耐えられない自分だった。弐号機の中で何もできなかった自分と同じように、今も感情一つ制御できない。その事実が、声を荒げたこと以上にアスカを苛立たせた。

 

 「ちょっと、風に当たってくる」

 

 顔を見られないまま、アスカは教室を出た。

 

――

 

 向かったのは音楽室だった。

 

 授業が行われなくなった校舎は静まり返っている。扉を開けると、窓際に置かれたピアノが午後の光を受けていた。

 

 アスカは椅子へ座り、鍵盤の蓋を開いた。

 

 ここでシンジと並んで弾いたことがある。

 

 最初は互いに自分の音しか聞かず、何度合わせても曲にならなかった。相手の呼吸を聞き、指が動く僅かな気配を感じるようになって、ようやく一つの演奏になった。

 

 あの時は、足並みを揃えることなど簡単だと思っていた。自分が相手へ合わせるのではなく、相手が自分についてくればよいとさえ考えていた。それでもシンジは文句を言いながら隣へ座り、最後まで演奏を投げ出さなかった。

 

 第十四使徒との戦闘でも、レイの動きを考えるより先に身体が動いた。言葉を交わさずとも、零号機がどこへ進み、自分が何をすべきか分かった。

 

 シンジとも、いつか同じように戦えると思っていた。

 

 だが、シンジは自分の届かない場所へ行った。

 

 弐号機の中で何もできなかった自分の前で、初号機は使徒を一方的に破壊した。あれを本当にシンジが行ったのなら、敗北を認めるほかない。

 

 認めたくなかった。

 

 それでも今は、負けたままでいいから帰ってきてほしいと思っている。

 

 その願いが、アスカには何より惨めに感じられた。勝つことにしか価値を見いだせなかった自分が、今は敗北を認めてでも一人の少年へ戻ってきてほしいと願っている。その変化を弱さと呼ぶべきなのか、アスカにはまだ分からなかった。

 

 鍵盤へ指を置く。

 

 隣には誰もいない。

 

 一人で弾けばよい。自分はシンジがいなくとも、初めから一人で何でもできた。

 

 そう思いながら、指は動かなかった。

 

 「ここにいたのね」

 

 扉の前から、ヒカリの声がした。

 

 アスカは振り向かなかった。

 

 「集合時間、もうすぐなの」

 

 「だったら行きなさいよ。置いていかれるわよ」

 

 「うん」

 

 ヒカリはそれでも立ち去らなかった。

 

 謝られるのも、慰められるのも嫌だった。だが、先ほど傷つけた友人を何も言わずに帰すことは、もっと嫌だった。

 

 アスカは鍵盤を見たまま、唇を動かした。

 

 「さっきの、あんたは悪くないから」

 

 「うん」

 

 「私が、ちょっと苛々してただけ」

 

 「それも分かってる」

 

 「だったら最初から、そんな顔しないでよ」

 

 最後まで素直にはなれなかった。それでも先ほどのように突き放す声ではないことを、ヒカリは分かっていた。少しだけ笑い、アスカの隣ではなく、少し離れた場所に立ったまま答える。

 

 「戻ってきたら、ちゃんと続きも聞かせてね」

 

 「何のよ」

 

 「今の話と、その曲」

 

 アスカは返事をしなかった。

 

 ヒカリの足音が遠ざかり、音楽室の扉が閉じる。

 

 一人になった後、アスカは鍵盤を一つだけ押した。

 

 片方だけの音が、広い教室へ響いた。

 

――

 

 校舎の外には、疎開者を駅前の集合場所まで運ぶバスが停まっていた。

 

 ケンスケは段ボール箱を荷物室へ預け、背負った鞄の紐を直した。母親は受付で書類を提出している。

 

 父親はネルフ職員として第三新東京市へ残る。

 

 ケンスケは、そのことを詳しく話そうとはしなかった。いつもなら父親の仕事を誇らしげに語っただろう。今は、ネルフに残るという言葉の意味を以前よりも理解していた。

 

 「お前、向こうでもビデオばっかり撮っとるんやろ」

 

 トウジが言った。

 

 「当たり前だろ。地方の戦自基地や輸送路を記録する絶好の機会だ。第三新東京市じゃ見られない車両もあるかもしれない」

 

 「疎開やぞ。旅行とちゃうんや」

 

 「分かってるよ、そのくらい」

 

 ケンスケは笑った。

 

 普段と変わらない、軍事知識を披露する時の笑い方だった。だが、鞄の紐を握る手には力が入っている。

 

 少し離れた場所では、サクラが母親とともに荷物の確認をしていた。

 

 事故で負った怪我は完治し、もう一人で歩くことができる。長く続いた入院生活から解放された直後に、今度は住み慣れた街を離れなければならなかった。

 

 「お兄ちゃん」

 

 呼ばれたトウジが振り向く。

 

 サクラは母親のそばから離れ、トウジの前へ立った。

 

 「ほんまに、一緒に来んの?」

 

 「ああ。ワシはまだ、こっちでやることがあるからな」

 

 「学校もないのに?」

 

 「学校だけが全部やない」

 

 トウジはサクラの頭へ手を置いた。

 

 父親もネルフへ残る。母親と妹を先に安全な場所へ送り、自分はチルドレンとして本部へ通い続ける。

 

 その理由を、サクラには話せない。自分がエヴァのパイロットとして登録され、修復中の第三号機を待っているなどと知れば、心配性の妹が大人しく疎開するはずがなかった。

 

 「無茶せんといてな」

 

 「誰に言うとんねん。お前こそ、治ったばっかりなんやから大人しゅうしとれ」

 

 サクラは不満そうに頬を膨らませたが、最後には頷いた。

 

 母親に呼ばれ、バスへ戻っていく。

 

 その背中を見送ったケンスケが、小さく息を吐いた。

 

 「トウジ」

 

 「何や」

 

 「お前も、残るんだな」

 

 「せや」

 

 それだけの会話だった。だが、以前なら軍事機密へ近づけたことを喜び、質問を重ねていたはずのケンスケが何も聞かない。そのことが、トウジにはかえって辛かった。

 

 ケンスケは何かを尋ねようとした。トウジがネルフへ通う理由。松代で何が起きたのか。シンジが本当に入院しているだけなのか。

 

 これまで集めた情報を繋げれば、おおよその答えは出ている。

 

 だが、口にはしなかった。

 

 「帰ってきたら、全部聞かせてもらうからな」

 

 「何の話や」

 

 「今はそれでいいよ」

 

 ケンスケは笑って誤魔化した。

 

 トウジも、それ以上は聞かなかった。

 

 「それと、碇に伝えてくれ」

 

 シンジは重傷を負い、ネルフの医療施設へ入院している。面会謝絶で、手紙も直接は届けられない。ケンスケが知っているのは、そこまでだった。

 

 「目が覚めたら、また三人で遊ぼうって。今度こそ、僕にもエヴァの話を聞かせろってな」

 

 「……ああ」

 

 トウジは頷いた。

 

 初号機の中へ溶けたシンジに、その言葉をどう届ければよいのかは分からない。

 

 それでも、必ず伝えると決めた。

 

 「待っとるから、はよ戻ってこいとも言うといてくれ」

 

 「それは自分で言え」

 

 「お前の方が先に会うかもしれんやろ」

 

 二人は笑った。

 

 笑い声は長く続かなかった。

 

――

 

 ケンスケは、バスへ乗り込む前に第三新東京市を振り返った。

 

 山々の間に造られた装甲都市。見慣れた学校と、使徒が現れるたびに地中へ沈む建造物。その地下には、憧れていたエヴァンゲリオンが存在する。

 

 かつては、自分もそのパイロットになりたいと思っていた。

 

 巨大な兵器を操り、人類を守る。選ばれた者だけが見ることのできる景色に、強く惹かれていた。

 

 だが、実際に選ばれた友人達は、ケンスケが思い描いていた英雄とは違っていた。

 

 レイは何度も傷つきながら戦っている。

 

 アスカは誰より強くあろうとして、敗北するたびに自分を責めている。

 

 トウジは何かを隠したまま、父親や妹と離れて街へ残る。

 

 そしてシンジは、入院という説明の向こう側から戻ってこない。

 

 エヴァへ乗るということは、格好のよい兵器を操ることではない。誰かの代わりに恐怖と痛みを引き受け、帰れる保証のない場所へ向かうことだった。

 

 理想と現実は違う。

 

 それを知らず、パイロットになりたいと口にしていた自分を、ケンスケは今になって恥ずかしく思う。

 

 それでも、かつて抱いた憧れまで嘘だったとは思わなかった。巨大な力で誰かを守りたいと思った気持ちまで否定すれば、命を懸けて戦った友人達の姿まで否定することになる。

 

 知らなかったなら、これから知ればいい。自分にはエヴァへ乗ることはできない。だからこそ外側から見て、記録し、いつか彼らが話したくなった時に聞くことができる。今のケンスケには、それも一つの支え方であるように思えた。

 

 「ケンスケ、出るわよ」

 

 母親の声が車内から聞こえる。

 

 「今行く」

 

 ケンスケはトウジへ手を上げ、バスへ乗った。

 

 少し遅れて、ヒカリも家族とともに別の車両へ向かう。乗り込む直前、振り返ったヒカリがアスカを探した。

 

 アスカはレイの隣に立っている。

 

 一瞬だけ迷った後、小さく手を上げた。

 

 ヒカリも笑って手を振り返す。

 

 エンジン音が重なり、バスが一台ずつ走り出した。

 

 窓の向こうで、ケンスケとサクラの姿が小さくなっていく。

 

 全ての車両が見えなくなった後、残ったのはアスカ、レイ、トウジの三人だけだった。

 

 少し前までなら、そこにシンジがいた。

 

 「帰るわよ」

 

 アスカが先に歩き出す。

 

 レイとトウジが続いた。

 

 三人の間には、もう一人が歩けるだけの空間が自然と残っていた。誰かが意識して空けたわけではない。それでも、そこへ詰めようとする者はいなかった。

 

 シンジが戻れば、また四人で歩ける。その可能性を、形だけでも残しておきたかった。

 

――

 

 ネルフ本部では、子供達の別れとは無関係に戦力の再編が進められていた。

 

 三号機は修復用ケージで再組立ての途中にある。第十三使徒との戦闘直後には、後頭部から脊椎上部の神経接続系が大破し、両腕と片脚、外部装甲の広い範囲を交換する必要があった。

 

 既に両腕と脚部の交換作業は終わり、外見だけなら人の形を取り戻している。しかし、脊椎上部の神経接続系は再構築の途中であり、装甲を閉じた後には全身の導通試験と起動試験を一から行わなければならない。修復完了の予定日は、今も確定していなかった。

 

 アメリカ支部の消滅によって交換部品の供給も滞っている。技術部が示した修復予定日は、既に二度書き直されていた。

 

 隣接する建造区画では、四号機の調整が行われている。

 

 ダミーシステムをコアへ導入し、固有の魂を必要とせず、適性を持つチルドレンであれば臨時に搭乗できる機体。理論上は成立しているが、実際の神経接続試験はまだ完了していない。

 

 疑似反応との素の同調適性だけなら、最も高い値を示したのはトウジだった。ただし、これまで零号機、初号機、弐号機に蓄積されたシンクロデータと各パイロットのパーソナルパターンを四号機側へ反映すれば、レイ、シンジ、アスカも実用上は遜色のない状態まで調整できると見込まれている。

 

 零号機は第十四使徒戦で受けた損傷の修復待ち。弐号機は両腕を失い、胸部装甲まで破壊されている。初号機は解析不能のまま、専用ケージごと封印されていた。

 

 書類上、ネルフ本部には五機のエヴァが存在する。

 

 しかし今、使徒が現れても出撃できる機体は一機もなかった。

 

 報告を受けたゲンドウは、完成を急げとも、予定を繰り上げろとも言わなかった。以前であれば、使徒迎撃に穴を作ることなど許さず、技術部へ不可能な期限を突きつけていただろう。今は、戦力の不足を理解しても、それを埋めるために子供達を急かす言葉が出なかった。

 

 表示された工程表を見つめ、承認の操作を行う。

 

 「以上です、司令」

 

 報告担当者が退出しても、ゲンドウは暫く同じ画面を見続けていた。

 

 三号機搭乗予定者、鈴原トウジ。

 

 四号機暫定搭乗者、綾波レイ。

 

 弐号機専属、惣流・アスカ・ラングレー。

 

 初号機専属、碇シンジ。

 

 最後の一行を消すことも、状態を変更することもできなかった。死亡ではない。搭乗不能とも確定していない。そうした事務上の理由を幾つも並べることはできたが、本当は、シンジの名前を初号機から外した瞬間に自分まで帰還を諦めてしまうことが恐ろしかった。

 

――

 

 帰宅したゲンドウを迎える声はなかった。

 

 居間の壁際には、シンジのために購入したアップライトピアノが置かれている。譜面台には何もなく、閉じられた鍵盤の蓋へ室内灯が反射していた。

 

 ゲンドウはそれに触れず、自分の部屋へ向かった。

 

 部屋の奥には、以前から置かれているグランドピアノがある。

 

 最後に蓋を開けたのがいつだったのか、思い出せなかった。仕事を理由に弾くことをやめ、シンジと暮らすようになってからも、二人でこの部屋へ入ることはなかった。

 

 居間のアップライトピアノで演奏するシンジの姿を見たことはある。しかし、自分から隣へ座ったことはない。聞こえてくる音へ耳を傾けながら、いつか時間ができれば教えればよいと考えていた。

 

 その『いつか』が、自分の都合で待ってくれるはずなどなかった。

 

 ゲンドウは上着を脱ぎ、椅子へ腰を下ろした。

 

 譜面は置かない。

 

 記憶の中に残る曲を、確かめるように弾き始める。

 

 最初の音から、僅かにずれていた。

 

 長い間調律を行っていない弦は、本来重なるはずの音を濁らせる。鍵盤の一つは戻りが悪く、同じ強さで押しても音が揃わない。

 

 それでも、ゲンドウは止めなかった。

 

 初めは静かだった旋律が、次第に速くなる。指へ力が入り、鍵盤を押すというより、叩きつけるような演奏へ変わっていった。

 

 音の中へ、これまでの時間が混ざる。

 

 シンジをエヴァから遠ざけるために変えた計画。

 

 チルドレンを消耗品として扱わせないための制度。

 

 ネルフ職員が家族を守れるように整えた環境。

 

 使徒との戦いで犠牲を出さないために、先回りして用意した兵器と作戦。

 

 その全てを重ねても、シンジは初号機へ消えた。

 

 以前の世界とは違う道を選んだはずだった。シンジと話し、食事をし、父親として隣に立とうとした。それでも、自分は息子を初号機へ奪われた同じ場所へ戻ってきた。

 

 鍵盤を叩く指が乱れる。

 

 曲から外れた音が、手の中から零れ落ちていく。

 

 ゲンドウは人類補完計画を思い出していた。

 

 人と人を隔てる境界を失わせ、すべての魂を一つへ戻す計画。

 

 かつてはユイへ会うために、その計画を利用しようとした。

 

 今、初号機の中でシンジの境界は失われている。身体を構成していた情報は機体全体へ広がり、一人の人間として切り離すことができない。

 

 ならば、すべての人間から境界をなくしてしまえばよい。

 

 シンジをこちらへ戻せないのなら、自分がシンジのいる場所へ行けばよい。

 

 その考えは、あまりにも自然に浮かんだ。十数年前、ユイを失った時と同じだった。失った人間を取り戻す方法がないのなら、別れそのものが存在しないように世界の側を変えればよい。

 

 かつての自分なら、その考えに疑問さえ持たなかった。

 

 補完の中ならば、シンジに触れられるかもしれない。拒絶されることも、再び失うこともない。父と子という境界さえ消えれば、これまで伝えられなかった言葉も、言葉にする必要なく届く。

 

 一瞬、それが救いに見えた。

 

 演奏がさらに激しくなる。

 

 だが、自分は何のために補完計画を止めようとしてきた。

 

 シンジが友人と笑うためではなかったのか。

 

 レイやアスカやトウジと、それぞれ違う人間として繋がるためではなかったのか。

 

 傷つく可能性があるからこそ、相手の言葉に喜び、触れた手の温かさを知る。その世界を、シンジは怖がりながらも選んだ。

 

 補完を行えば、それらもすべて一つへ溶ける。

 

 シンジを取り戻すために、シンジが好きになった世界を消すのか。

 

 強く叩かれた鍵盤が、不揃いな和音を返す。

 

 ゲンドウの脳裏へ、レイの姿が浮かんだ。

 

 本来、この世界では生まれないはずだった存在。

 

 以前の世界でも、ゲンドウが最初のレイを造ったわけではない。

 

 ユイのサルベージに失敗し、誰もいなくなったゲヒルンの実験区画へ一人で残った時だった。空になっているはずの初号機のエントリープラグ内に、幼い少女が発生していた。

 

 それが、一人目のレイだった。

 

 当時のゲンドウは、その現象を自分に都合よく受け入れた。恐れるべき異常でありながら、ユイの一部が戻ってきたのだと思い込もうとした。ユイの面影を持つ少女を失った妻の代わりとし、やがて補完計画を遂行するための器として利用した。

 

 この世界では、同じことを繰り返さないと決めていた。ユイのサルベージが予定どおり失敗した後も、レイを生み出すための処置も、再度のサルベージも行っていない。

 

 それにもかかわらず、誰もいないはずの初号機のエントリープラグ内に、再び幼い少女が現れた。

 

 その姿を見つけた時、ゲンドウは喜ぶより先に戦慄した。前の世界では幾度もサルベージを繰り返した末に現れた少女が、今回は最初の後に、何の処置も行っていないプラグの中へ存在していたからだ。

 

 レイはサルベージの副産物ではない。

 

 ユイが、何らかの目的を果たすために用意していた保険だった。

 

 その目的が何なのかまでは、ゲンドウにも分からない。

 

 少なくともゲンドウは、そう理解している。

 

 ナオコもリツコも、その発生の瞬間を知らない。ナオコはレイの組成と初号機の記録から何かを疑い始めているかもしれないが、真相へは届いていない。

 

 レイ自身は何も知らず、自分を人間だと思っている。

 

 だからゲンドウは、以前のようにレイを手元へ置くことができなかった。ユイの代わりとして見ることも、計画の器として育てることも拒み、幼い彼女を赤木親子へ預けた。

 

 それがレイのためだったのか、自分が恐ろしい現実から目を逸らしたかっただけなのか、今でも判断はつかない。ただ、赤木親子のもとで成長した少女は、以前の世界で命令だけを待っていたレイとは違う顔で笑うようになった。

 

 ただ、今のレイは器でも、ユイの代わりでもない。

 

 泣き、笑い、焦がしたパンケーキを前に落ち込み、将来はケーキ屋になりたいと話した、一人の少女だった。

 

 補完を選べば、レイもレイではなくなる。

 

 アスカも、トウジも、ミサトも、冬月も、それぞれの人間として存在することを失う。

 

 その代価を払ってでも、シンジに会いたいのか。

 

 ならば、シンジはそんな自分を父親と呼ぶのか。

 

 ゲンドウは答えを求めるように、鍵盤へ両手を叩きつけた。

 

 調律の狂った音がぶつかり、もはや元の曲はどこにも残っていない。

 

 補完を止めるべきなのか。

 

 補完へ縋れば、シンジに会えるのか。

 

 自分は父親として、何を選ぶべきなのか。

 

 どれだけ問いを叩きつけても、ピアノは音を返すだけだった。正しい鍵盤を押せば正しい音が鳴る。調律が狂っていれば、その分だけ歪んだ音になる。人間の迷いへ答えを与える機能など、初めから存在しない。

 

 やがて指が止まる。

 

 最後に生まれた不完全な和音が、部屋の中で震え、少しずつ消えていった。

 

 ゲンドウは鍵盤の上へ両手を置いたまま、俯いた。

 

 補完を拒絶することも、縋ることもできなかった。

 

 ただ、自分が再びそれを救いとして考えた。その事実だけが、消えた音よりも重く残っている。

 

 音の消えた部屋には、答えだけが残らなかった。






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