ゲンドウ、再び   作:被検体E-1n

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残羽

 

 

 作戦部の仮設執務室の扉は、僅かに開いていた。

 

 アスカは訓練予定の変更について確認するため、ミサトのいる区画へ向かっていた。翌日へ回された弐号機の射撃試験を、今日のうちに終わらせるよう掛け合うつもりだったのである。

 

 足を止めたのは、室内から聞き慣れた声がしたからだった。

 

 『頼みたいことがある。近いうちに、荷物が届く』

 

 加持の声だった。

 

 録音されたものだと気づくまでに、少し時間がかかった。

 

 扉の隙間から見えるミサトは、机へ置いた小さな再生機を見つめている。画面には音声波形だけが流れ、加持の姿は何処にも映っていない。

 

 『俺が集めたものの一部だ。全部が正しいとは限らない。だから、自分の目で確かめてくれ』

 

 いつもの、少し気の抜けた声だった。隣の部屋から話しかけられているように自然で、それなのに一度も返事を待たず言葉だけが続いていく。

 

 アスカは扉へ手を掛けたまま動けなかった。

 

 『アスカのことも頼む。あの子は、放っておいてくれと言いながら、誰かが見ていないとすぐに無茶をする』

 

 自分の名が呼ばれた。

 

 聞いてはいけないものを聞いていると思った。だが、扉から手を離すこともできなかった。

 

 『鈴原君とレイがいるから、前よりは少し安心だがね』

 

 そこで短い沈黙が入る。

 

 『じゃあな』

 

 音声が終わった。

 

 ミサトは再生機へ伸ばしていた手を下ろさず、俯いたまま動かなかった。もう一度再生しようとした指が、画面へ触れる前に止まる。

 

 その時、扉が小さく軋んだ。

 

 ミサトが顔を上げる。

 

 「アスカ」

 

 見つかったことに驚いたような声だった。

 

 アスカは扉を開けた。聞いていたことを謝る気にはなれなかった。それより先に、確かめなければならないことがあった。

 

 「何なのよ、それ」

 

 「加持君からの伝言よ」

 

 「それは聞けば分かるわ。どうして、こんなものを残してるの」

 

 ミサトの表情が変わった。

 

 作戦中の損害を伝える時とは違う。言葉を選ぶことそのものを恐れている顔だった。

 

 アスカは答えを待った。

 

 「加持君は、任務中に死亡したと通達されたわ」

 

 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。

 

 「死亡したって、誰が確認したの」

 

 「詳しい状況は私にも知らされていない。保安部は、発見された遺体を加持君本人と確認したそうよ。私は見せてもらえていないけれど」

 

 「そんなの、保安部がそう言ってるだけじゃない!」

 

 机を叩いた音が、狭い部屋へ響く。

 

 ミサトは否定しなかった。希望を持たせるような言葉も口にしない。その沈黙が、用意されたどんな説明よりも残酷だった。

 

 「嘘よ。加持さんが、そんな簡単に死ぬわけない」

 

 「私も、そう思いたい」

 

 「思いたいって何よ! あんた、加持さんのこと――」

 

 続く言葉は出なかった。

 

 ミサトも加持を失ったのだと、今になって気づいた。目の前の女は泣いていない。ただ、何度も聞いた録音をもう一度再生することさえできずにいる。

 

 アスカは踵を返した。

 

 「アスカ、待って」

 

 「ほっといて」

 

 振り返らずに部屋を出た。

 

――

 

 悲しくないわけではなかった。

 

 加持の笑い方を思い出すだけで、胸の奥が締めつけられる。いつか大人になれば、子供としてではなく、一人の女として見てもらえると思っていた。そのいつかが永遠に来ないのだと考えれば、呼吸さえ苦しくなった。

 

 それでも歩くことができた。

 

 シンジが初号機から戻らなかった時のように、足元から何もなくなる感覚はなかった。あの時は、声を聞いているだけで身体が震えた。サルベージ中に自分の録音が流れた時には、届くはずがないと口にしながら、本当は誰よりも返事を待っていた。

 

 加持が死んだと聞いても、同じようにはならなかった。

 

 そのことが、アスカには許せなかった。

 

 自分は加持を好きだったはずだ。シンジなど、競争相手でしかない。少しシンクロ率が高くなっただけで調子に乗り、勝手に危険へ飛び込み、こちらを心配させる馬鹿な子供だ。

 

 それなのに、何故、加持を失った痛みとシンジを失った痛みを比べているのか。

 

 比べれば、答えが出てしまう。

 

 アスカは早足になった。

 

 訓練区画へ向かうつもりだった。弐号機へ乗り、試験で結果を出せば余計なことを考えずに済む。昨日より高い数値を出して、自分がまだ最も優れたパイロットであると証明すればよい。

 

 しかし、気づいた時には別の通路にいた。

 

 初号機の封印区画へ続く通路。

 

 普段は閉ざされている隔壁が、その日だけ開いている。入口の表示には、司令権限による一時開放と記されていた。

 

 どうしてここへ来たのか、自分でも分からなかった。

 

 引き返そうとして、ケイジの奥に人影を見つける。

 

 胸部装甲を外された初号機。その中央で剥き出しになった赤いコアへ、ゲンドウが片手を触れていた。

 

 もう一方の手には、小さな木彫りが握られている。

 

 不揃いな屋根と、その下に並ぶ二本の線。裏側から屋根の下まで、一本の道が続いている。

 

 アスカは、その形を知っていた。

 

 「それ、シンジが作ったものですよね」

 

 ゲンドウが振り返った。

 

 勝手に封印区画へ入ったことを咎められると思ったが、出ていけとは言われなかった。

 

 「そうだ」

 

 「ちゃんと渡せたんだ」

 

 思わず、いつもの口調が出た。

 

 アスカは僅かに姿勢を正す。

 

 「……渡せたんですね」

 

 ゲンドウは木彫りへ目を落とした。

 

 実際には、シンジ自身の手から受け取ったものではない。サルベージに失敗し、プラグから排出されたL.C.L.が床へ零れた時、その流れに乗ってゲンドウのもとへ辿り着いたものだった。

 

 それでも、答えは決まっていた。

 

 「ああ。受け取った」

 

 アスカは初号機のコアを見上げた。

 

 「あいつ、美術の授業でそれを作ったんです。無事に帰るため、って」

 

 「無事に帰るため」

 

 ゲンドウは、言葉を確かめるように繰り返した。

 

 「屋根の下にいるのが誰なのか、外から帰ってくるのが誰なのかまでは、書いてなかったけど」

 

 アスカは木彫りへ視線を戻した。

 

 「でも、それを司令に渡すつもりだったのなら、意味なんて一つでしょう」

 

 屋根の形。そこへ続く道。

 

 無事に帰ってきてほしいという願い。

 

 ゲンドウは、初めてその木彫りの意味を理解した。

 

 「シンジは、司令に帰ってきてほしかったんですよ。ちゃんと、同じ家に」

 

 補完計画を完遂すれば、シンジへ届くことができるかもしれない。個体としての境界がなくなれば、初号機と一つになった息子とも再び会える可能性がある。

 

 だが、シンジが願ったのはそんな再会ではない。

 

 傷つくことも、分かり合えないこともある世界で、それでも同じ家へ帰ることを望んでいた。

 

 その世界を閉じてしまえば、屋根も、そこへ続く道も失われる。

 

 ゲンドウは木彫りを握り直した。

 

 「碇司令は」

 

 アスカの声が、先ほどより小さくなった。

 

 「大事な人がいなくなった時、どうしたらいいか知っていますか」

 

 誰のことかは言わなかった。

 

 ゲンドウも尋ねなかった。

 

 ユイを失った時、自分は世界から逃げた。シンジを遠ざけ、他人を道具として扱い、再会だけを目的に生きた。その結果が正しかったとは、もう言えない。

 

 「分からない」

 

 アスカが顔を上げた。

 

 「……何ですか、それ。父親なのに」

 

 「そうだな」

 

 否定されず、アスカの方が言葉に詰まった。

 

 「私も、まだ探している」

 

 「見つかるんですか」

 

 「見つけなければならない」

 

 シンジを取り戻す方法だけではない。シンジが戻らなかった世界で、父親として何をするべきなのか。その答えを、ゲンドウはまだ持っていなかった。

 

 アスカは暫く初号機を見上げていた。

 

 それから、制服のポケットへ手を触れる。

 

 そこに木彫りは入っていない。自室の机に、布で包んだ一対の翼がしまわれている。

 

 二つとも自分のために作ったのだと、教師にも、シンジ達にも言った。何処へでも自分の力で飛べるように。そう制作意図へ書いた。

 

 けれど、本当に自分だけのためなら、何故二つ作ったのだろう。

 

 左右を別々の布で包み、別々のポケットへ入れた。片方を誰かに渡しても、もう片方が手元に残るように。

 

 誰に渡したかったのかまでは、考えなかった。

 

 考えれば、その相手がいなくなったことまで認めなければならない。

 

 「だったら、早く見つけてください」

 

 アスカはゲンドウを見る。

 

 「司令は大人なんですから」

 

 その瞬間、警報が鳴った。

 

 赤い照明が点滅し、封印区画の静けさを押し流す。

 

 『衛星軌道上の対象に変化を確認。全職員は第一種戦闘配置』

 

 第十五使徒。

 

 ゲンドウとアスカは、互いに何も言わず走り出した。

 

 向かう先は違う。

 

 それでも今度は、二人とも誰かを置き去りにしないために走っていた。

 

――

 

 第十五使徒は、依然として遥かな上空に滞空していた。

 

 通常の航空戦力が到達できる高度を大きく越え、衛星軌道に近い位置から第三新東京市を見下ろしている。降下する様子も、物理的な攻撃を行う兆候もない。

 

 だが、使徒が現れた以上、放置することはできなかった。

 

 出撃可能な機体は二機。

 

 修復を優先され、起動試験を終えた弐号機。そして、レイを暫定搭乗者として調整された第四号機。

 

 第三号機は脊椎部の修復が終わらず、零号機も再起動には至っていない。初号機の封印を解くという選択肢は、初めから除外されていた。

 

 「弐号機、地上狙撃地点へ移動。第四号機は観測と照準補助を担当して」

 

 ミサトの指示が、二機のエントリープラグへ届く。

 

 『了解』

 

 レイが答える。

 

 アスカは返事をしなかった。

 

 「アスカ?」

 

 『聞こえてるわよ。要するに、あたしが撃ち落とせばいいんでしょ』

 

 声だけを聞けば、いつものアスカだった。

 

 ミサトはそれ以上、加持のことへ触れなかった。今は戦闘へ集中させなければならない。それが正しい判断だと理解しながら、先ほど一人で出ていった背中が頭から離れなかった。

 

 地上では、マステマが展開されている。

 

 ようやく完成された全領域対応複合兵装を基礎に、武装部を丸ごと換装した長距離狙撃仕様だった。巨大な二本の加速軌条を持つレールガンと、成層圏外の目標を地上から撃ち抜くための専用アタッチメント。その換装装備が完成したばかりで、実機による射撃は今回が初めてだった。開発班でさえ、計算上の性能しか把握していない。

 

 砲身だけでも弐号機の全高に近い。地上へ固定された専用アタッチメントから複数のアンビリカルケーブルが伸び、弐号機とマステマの双方へ接続されている。

 

 エヴァを動かすための電力だけではない。

 

 第三新東京市の送電網から集めた電力を、弾体を加速するために直接流し込む。発射の瞬間には、周辺区画の電力供給が一時的に制限されるほどの出力を必要とした。

 

 弐号機が砲のグリップを握る。アスカは事前に渡された操作資料と短時間の模擬訓練だけで、固定具の可動範囲、反動制御、照準補正の癖まで把握していた。初めて触れる兵器であっても、自分の手足として使いこなす。その技量に疑いを差し挟む職員はいなかった。

 

 「照準補正、第四号機から送ります」

 

 レイの声と同時に、軌道上の第十五使徒を示す照準環がアスカの視界へ重なった。

 

 「随分遠いわね」

 

 『でも、見えてる』

 

 「だったら当てられるわ」

 

 アスカは呼吸を整えた。

 

 加持のことも、初号機の前で交わした会話も、今は考えない。自分は弐号機のパイロットであり、使徒を倒すためにここへいる。

 

 それだけでよいはずだった。

 

 「各変電施設、接続完了。蓄電率、九十を突破」

 

 マヤの報告に合わせ、レールガンの軌条へ青白い放電が走る。

 

 「射線上の航空機、衛星、全て退避済み」

 

 「アスカ、撃って!」

 

 ミサトの指示と同時に、アスカは引き金を引いた。

 

 音は遅れて届いた。

 

 弾体が空気を引き裂き、圧縮された大気が円形の雲となって砲口から広がる。地上の固定具が軋み、反動を受けた弐号機の両足が舗装面へ深く沈んだが、砲口は照準線から僅かにも外れなかった。

 

 超高速まで加速された弾体は、観測画面の中で一本の光となる。

 

 成層圏を抜け、第十五使徒へ到達する。

 

 命中する直前、光の前に薄い壁が現れた。

 

 弾体が砕ける。

 

 巨大な運動エネルギーはATフィールドの表面で四方へ散らされ、細かな光となって大気圏へ落ちていった。

 

 「直撃しました! しかし、目標に損傷ありません!」

 

 「再装填!」

 

 アスカが即座に叫ぶ。

 

 「待って。相手に攻撃の兆候はないわ。一度退いて――」

 

 『一発で駄目なら、次を撃てばいいでしょ!』

 

 「電力網の再充填には時間がかかる。今のまま狙撃地点へ残る必要はないわ」

 

 『次も同じ場所へ当てられる!』

 

 「命中はしていたわ。あなたのせいじゃない」

 

 ミサトの言葉が、かえってアスカを追い詰めた。

 

 自分のせいではない。だから仕方がない。そう認めれば、何もできなかった自分だけが残る。

 

 「使徒に高エネルギー反応!」

 

 日向の声が発令所へ響く。

 

 軌道上の第十五使徒から、一本の光が伸びた。

 

 光は地上へ真っ直ぐ降り、弐号機を包む。

 

 装甲温度に変化はない。

 

 ATフィールドへの物理干渉も観測されなかった。

 

 それでも、アスカは突然息を詰まらせた。

 

 「何……これ」

 

 誰かの指が、頭蓋の内側へ触れた。

 

――

 

 最初に見えたのは、赤い弐号機だった。

 

 ドイツの実験施設。多くの大人に囲まれ、誰よりも高い数値を出す自分。大学までの課程を終え、他の子供にはできないことを当然のように成し遂げた自分。

 

 私は選ばれた。

 

 私は特別。

 

 一人でも生きていける。

 

 そう言い聞かせる声へ、別の数値が重なった。

 

 シンクロ率。

 

 初号機の欄に表示された、シンジの名前。

 

 自分より高い数字。

 

 第四号機の調整値。初めて乗ったはずのレイが、安定した波形を示している。ダミーシステムとの適性欄には、トウジの名がある。

 

 『一番じゃなくなったあなたに、何が残るの?』

 

 自分の声が尋ねた。

 

 「黙りなさい」

 

 アスカは操縦桿を握った。

 

 マステマを再び上空へ向けようとする。しかし弐号機の腕が、命令より僅かに遅れた。

 

 「シンクロ率、急速に変動!」

 

 マヤの報告が遠くに聞こえる。

 

 「精神汚染です。使徒がパイロットの精神へ直接干渉しています!」

 

 「アスカ、接続深度を下げて! すぐに撤退しなさい!」

 

 ミサトの声は届いている。

 

 だが、その言葉よりも近い場所で別の声がした。

 

 『アスカのことも頼む』

 

 加持の声。

 

 振り返ると、加持が立っている。

 

 自分は赤いドレスを着ていた。子供ではないと証明するため、大人の女のように笑い、加持の腕へ抱きつこうとする。

 

 加持は笑う。

 

 いつもと同じ、こちらの背伸びを最初から見抜いている笑い方だった。

 

 『あの子は、誰かが見ていないとすぐに無茶をする』

 

 「違う。私は一人でできる」

 

 『鈴原君とレイがいるから、前よりは少し安心だ』

 

 「違う!」

 

 加持は最後まで、アスカを大人として見ていなかった。

 

 何かを託す相手ではなく、誰かへ託される子供として見ていた。

 

 その姿が消える。

 

 代わりに、動かなくなった初号機が現れた。

 

 『加持さんが好きだったんじゃないの?』

 

 自分の声が、耳元で囁く。

 

 『どうして、シンジが消えた時の方が苦しかったの?』

 

 「違う」

 

 『加持さんより、シンジの方が大事だった?』

 

 「違う!」

 

 シンジは競争相手だ。

 

 自分より少し高い数値を出しただけで、実戦では何度も無茶をする。危なっかしくて、見ていなければならないだけだ。

 

 そう言い張るアスカの前へ、音楽室のピアノが現れる。

 

 二人分の譜面。

 

 最初は互いに自分の音しか聞かず、何度弾いても曲にならなかった。相手の呼吸を聞き、指が動く気配を感じて、ようやく一つの演奏になった。

 

 場面が変わる。

 

 夕暮れの差し込む部屋で触れた唇。

 

 第十二使徒へ飲み込まれる初号機。

 

 帰還したシンジの病室で、自分が叫んだ声。

 

 疎開するヒカリから渡された住所。戻ってきたらまた出かけようと交わした約束。そして、半分近くの机から持ち主が消えた教室。

 

 第十三使徒を相手に、互いの動きを確かめるより早く身体が動いた瞬間。

 

 第十四使徒の前で両腕を失い、倒れた弐号機。

 

 その前に立ち上がった初号機。

 

 一方的に使徒を破壊するシンジを見ながら、完全な敗北だと思った。

 

 それでも、負けたままでよいから帰ってきてほしいと願った。

 

 『負けたくなかった』

 

 「そうよ」

 

 『いなくなってほしかったわけじゃない』

 

 「黙って」

 

 『帰ってきてほしかった』

 

 「黙れ!」

 

 アスカはマステマの引き金を引いた。

 

 充填の終わっていないレールガンは発射されない。砲身だけが僅かに動き、照準が第十五使徒から外れた。

 

 光は、さらに深く入り込む。

 

――

 

 病室の窓辺に、人形を抱いた母がいた。

 

 こちらを見ない。

 

 何度呼んでも、人形へ向かってアスカと呼びかけている。

 

 「ママ、私はここよ」

 

 幼い自分の声がする。

 

 「私を見て」

 

 母は振り返らない。

 

 次に見えたのは、天井から吊られた人形だった。

 

 そして、その隣にいる母。

 

 アスカは見上げたまま動けない。

 

 私は泣かない。

 

 一人で生きる。

 

 誰にも頼らない。

 

 そう決めたはずだった。

 

 だが、記憶の中へ別の顔が重なる。

 

 自分を見ない母。

 

 子供としてしか見なかった加持。

 

 自分を追い越し、それでも隣でピアノを弾いたシンジ。

 

 母親に見てほしかった。

 

 加持に一人の女として見てほしかった。

 

 弐号機に、最も優れたパイロットとして選んでほしかった。

 

 シンジには、競争相手としてだけではなく、自分自身を見てほしかった。

 

 だが、母も、加持も、シンジもいない。

 

 弐号機との繋がりまで、指の間から抜け落ちていく。

 

 『誰にも見られないあなたに、何が残るの?』

 

 幼いアスカが、一対の翼を持って立っていた。

 

 二つ作ったお守り。

 

 何処へでも自分の力で飛べるようにと書いた、左右一対の翼。

 

 片方を誰かに渡したかった。

 

 受け取ってもらい、離れていても一対でありたかった。

 

 けれど相手を選ぶことができないまま、二つとも自分の部屋へ残されている。

 

 誰にも渡せない、孤独な一対。

 

 幼い自分が口を開く。

 

 『一人にしないで』

 

 「やめて」

 

 『私を見て』

 

 「やめてよ」

 

 『シンジに帰ってきてほしい』

 

 「私の心に入ってこないで!」

 

 アスカの絶叫とともに、弐号機がマステマを振り上げた。

 

 狙撃用の固定具が引き千切られ、アンビリカルケーブルから火花が散る。弐号機は照準も定まらないまま、巨大な砲身を上空へ向けようとした。

 

 「アスカ、撤退して!」

 

 『嫌よ!』

 

 「これは命令よ!」

 

 『ここで逃げたら、あたしには何も残らない!』

 

 シンクロ率がさらに落ちる。

 

 弐号機の膝が地面へついた。

 

 四号機が前へ出る。

 

 白い機体が弐号機を庇うようにATフィールドを展開した。光は一度揺らいだが、完全には遮断されない。四号機のフィールドと装甲を透過し、細くなった光が弐号機へ届き続ける。

 

 その一部が、四号機の神経接続へ触れた。

 

 レイの胸へ、言葉にならない痛みが流れ込む。

 

 誰かに見てほしい。

 

 置いていかないでほしい。

 

 一人にしないでほしい。

 

 記憶の内容は見えない。ただ、泣きながら拒絶している感情だけが伝わってきた。

 

 「アスカ」

 

 レイが呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 「アスカ、戻って」

 

 『うるさい……』

 

 掠れた声が返る。

 

 それでも、通信は切られなかった。

 

――

 

 発令所では、使徒へ到達可能な兵器が次々と検討されていた。

 

 陽電子砲は距離と大気による減衰が大きい。マステマの再射撃には充填時間が必要であり、命中してもATフィールドを突破できないことは既に証明されている。

 

 使徒は地上へ降りる必要がない。

 

 弐号機のパイロットが壊れるまで、同じ位置から光を注ぎ続ければよい。

 

 「ロンギヌスの槍なら、使徒のATフィールドを突破できる可能性があります」

 

 リツコが言った。

 

 発令所の空気が変わる。

 

 「待ちなさい」

 

 ナオコの声が、その空気を押し止めた。

 

 「投げてしまえば回収できない可能性が高い。あれは代替の利く兵器じゃないわ。それに、槍を抜いた後で地下の巨人に何が起きるか、十分な検証も済んでいない」

 

 ナオコも槍の全てを知らされているわけではない。それでも、通常兵器とは比較にならない価値を持つことと、地下の巨人を拘束するために用いられていることは知っていた。

 

 「目の前の使徒を倒すために、全容も分からないものを二つ同時に動かすのよ。私は賛成できない」

 

 「では、代案はあるか」

 

 ゲンドウが問う。

 

 ナオコは中央モニターを見た。膝をついた弐号機。その傍らで光を遮ろうとする四号機。数字は刻一刻と悪化している。

 

 唇を噛み、答えを返せなかった。

 

 槍はセントラルドグマ最深部、磔にされた白い巨人の身体へ突き刺されている。

 

 その槍が、ただ使徒を倒すためだけの武器ではないことを知る者は、ネルフ内部にもほとんどいない。原初の巨人を抑え、補完計画を人間の手で制御するための装置でもあることを、この発令所で正確に理解しているのはゲンドウと冬月だけだった。

 

 「投擲後の回収見込みは」

 

 ゲンドウが尋ねる。

 

 「ほぼありません。現在の目標位置と必要速度を考えれば、槍は地球周回軌道を外れます」

 

 「槍は戻らんぞ」

 

 冬月が低い声で言った。それは反対ではなく、ゲンドウが何を手放そうとしているのかを確かめるための言葉だった。

 

 手元へ残しておけば、補完計画へ縋ることができる。

 

 初号機の中にいるシンジへ会うための、最も確実に見える道を失わずに済む。

 

 中央モニターでは、弐号機が膝をついている。

 

 アスカの悲鳴が通信回線へ混じり、第四号機のレイが何度も名前を呼んでいた。

 

 ゲンドウは制服のポケットへ手を入れた。

 

 木彫りの硬い感触が掌へ触れる。

 

 屋根と、そこへ続く一本の道。

 

 シンジは自分に、帰ってきてほしいと願った。

 

 世界を一つにして境界を消すことではない。同じ家へ帰り、違う人間のまま向き合うことを望んだ。

 

 そして今、その世界で一人の子供が助けを求めている。

 

 アスカは答えを知らない自分へ、先に見つけろと言った。

 

 父親として何をすべきか。

 

 全ての答えは、まだ見つからない。

 

 それでも、今選ぶべきものだけは分かった。

 

 「槍を使え」

 

 ゲンドウは命じた。

 

 ナオコの指が、操作卓の縁を強く掴んだ。最後まで納得はできなかった。それでも、代案を示せないまま子供を見殺しにすることもできない。反対の言葉を飲み込み、地下区画の監視系を開いた。

 

 冬月が横を見る。ゲンドウの手が制服のポケットから離れていないことに気づくと、それ以上の確認はしなかった。

 

 「分かった」

 

 ゲンドウはモニターの中の二機を見た。

 

 「パイロットを救出しろ」

 

――

 

 四号機が、セントラルドグマへ降ろされた。

 

 レイが最深部へ入るのは初めてだった。

 

 地上から遠ざかるほど、壁面の構造が古くなる。人間が掘削して造った通路から、巨大な空洞を後から設備で囲っただけの区画へ変わっていく。

 

 最後の隔壁が開いた。

 

 四号機の視界に、白い巨人が映る。

 

 両手を架台へ固定され、顔を七つの目が描かれた仮面で覆われている。胸部には赤い槍が深く突き刺さり、下半身は不完全なまま無数の機材に囲まれていた。

 

 レイは息を止めた。

 

 「これが……地下にあるもの」

 

 以前、リツコから、それとなく聞いたことがある。第三新東京市の地下には、使徒と関係する巨大な存在が保管されている。ただし、その名称も正体も教えられていなかった。

 

 槍を刺した時も無人の機械装置が作業を行っており、レイがここへ降りることはなかった。

 

 実物を前にすると、説明されたどの言葉とも結びつかなかった。

 

 怖い。

 

 それなのに、目を逸らすことができない。

 

 初めて見るはずの姿へ、何処か懐かしいものを感じる。その感覚が、巨人の外見よりもレイを動揺させた。

 

 第四号機の内部に、短い警告音が鳴る。

 

 パーソナルパターン照合系が、白い巨人の側に残されていた古い接続情報へ反応していた。

 

 「リッちゃん、今のは何」

 

 『こちらでも確認したわ。けれど、意味は分からない。今は槍の回収を優先して』

 

 「これが、地下にいるっていう……ものなの」

 

 『ええ。私達も、それ以上は知らされていないわ』

 

 リツコは、そこに疑いを持っていなかった。セカンドインパクトを起こし、使徒の始祖となった存在が、ネルフ最深部へ秘匿されているのだと信じていた。

 

 「……うん」

 

 レイは操縦桿を握り直した。

 

 四号機が白い巨人へ近づく。

 

 一歩ごとに、胸の奥の落ち着かなさが強くなる。自分が近づいているのか、向こうから見られているのか分からなかった。

 

 四号機の両手が槍を掴む。

 

 「固定具、解除」

 

 機械的なロックが外れる。

 

 レイは息を吸い、槍を引き抜いた。

 

 白い巨人の身体が僅かに震えた。

 

 白い体液が胸部から流れ、地下の湖へ落ちる。仮面の奥にあるはずの顔が、こちらを見たような気がした。

 

 レイの手が震える。

 

 それでも槍を離さなかった。

 

 地上では、アスカが待っている。

 

 第四号機は槍を抱え、射出用の昇降路へ向かった。

 

――

 

 地上では、弐号機が両膝をついたまま動かなくなっていた。使徒から伸びる光は未だに途切れていない。マステマを持ち上げようとしていた両腕は力を失い、引き裂かれた固定具と砲身がその傍らへ転がっている。四号機が地下へ降りたことで、今はその光を遮ろうとする機体も存在しなかった。

 

 アスカには、ミサト達の呼びかけが遠く聞こえていた。

 

 『アスカ、聞こえる? 四号機が槍を回収している。もう少しだけ耐えて!』

 

 聞こえている。だが、返事をするために口を動かすことができなかった。何かを言えば、その言葉さえ使徒に掴まれ、自分でも知らなかった形に変えられてしまうような気がしたのである。光の中では、母親が人形へ話しかけていた。加持が自分を子供として誰かへ託し、シンジは初号機の中へ消えていく。追いかけようとしても足は動かず、呼び止めようとしても声は出ない。

 

 皆、自分を置いていく。結局、自分には何も残らない。そう思った時、何処からか音が聞こえた。最初は、警報音の一部だと思った。壊れかけた神経接続が聞かせる雑音か、それとも使徒が次に見せようとしている記憶なのかもしれない。しかし耳を塞ぐこともできないまま聞いていると、それは途切れながらも一つの旋律を形作っていった。

 

 ピアノの音だった。夕暮れの自宅で弾いた、あの連弾曲。しかし聞こえるのは片方の音だけで、ひどく頼りなく先へ進んでいる。テンポは少し遅く、何度も同じところで止まりそうになる。それでも完全に途切れることはなく、空いたもう片方を待つように同じ小節を繰り返していた。

 

 『でも、あの時アスカと合わせた練習が役に立ったんだよ』

 

 以前、シンジが音楽室で言った言葉が聞こえた。

 

 『今度、もう一度合わせるわよ。あれから腕が落ちてないか、アタシが確かめてあげる』

 

 たった一度だけ果たされた約束。次ならいつだって訪れると思っていた。結果、シンジは戻らず、音楽室へ行っても隣の椅子に座る相手はいないのだから、約束などもう何の意味も持たないはずだった。

 

 しかし、微かな音は今もアスカを待っていた。一人分だけでは曲にならず、互いに相手の音を聞かないまま自分の音ばかりを押しつければ、すぐにばらばらになってしまうことを、二人は使徒と戦うための訓練で嫌というほど思い知っている。

 

 だからアスカは、聞こえるはずのない旋律へ、自分の音を重ねるように指を動かした。エントリープラグの中で、動かないと思っていた指先が僅かに震える。

 

 『精神汚染深度、上昇停止! 危険域直前ですが踏みとどまっています!』

 

 『シンクロ率も下げ止まりました!』

 

 かすかに聞こえるこの音だけが、世界と自分を繋ぎとめている。

 

 『アスカ! 応答して!』

 

 ミサトの声が、先ほどより少しだけ近くなった。

 

 「……うるさい」

 

 声になったかどうかも分からない。だが、曲はまだ終わっていない。ならば、ここで勝手に席を立つわけにはいかなかった。使徒の光はなおもアスカの心を暴き続けていたが、その一番奥に残った小さな場所だけは、最後まで奪うことができなかった。

 

 そこでは、誰も座っていないはずの隣の椅子から、途切れそうなピアノの音が聞こえ続けていた。

 

――

 

 地上へ戻った第四号機が、ロンギヌスの槍を構えた。

 

 赤い二本の穂先が螺旋状に絡み合い、エヴァの手の中で僅かに脈打っている。

 

 「目標座標、入力します」

 

 マヤが軌道計算の結果を四号機へ送る。

 

 外せば終わりだった。

 

 同じ槍は二つとない。再投擲の機会も、別の方法を探す時間も残されていない。

 

 レイは上空を見る。

 

 肉眼では、第十五使徒は小さな光にしか見えない。

 

 その光から伸びた線の先で、弐号機が動かなくなっている。

 

 「アスカ」

 

 もう一度、名前を呼んだ。

 

 返事はない。

 

 だが、回線の向こうで苦しそうな呼吸が聞こえた。

 

 レイは四号機の身体を大きく捻った。

 

 足を踏み込み、腰、肩、腕へ順番に力を伝える。

 

 「投擲します」

 

 四号機の手から、槍が離れた。

 

 赤い軌跡が空へ伸びる。

 

 大気圏を出る前に穂先が開き、二重螺旋が長く形を変える。槍は自ら進路を選ぶように僅かに軌道を修正し、第十五使徒のATフィールドへ突き刺さった。

 

 光の壁が歪む。

 

 マステマの弾体を砕いた障壁が、今度は槍の侵入を止められない。

 

 赤い槍が中心部を貫いた。

 

 第十五使徒の光の翼が大きく広がる。

 

 地上を照らしていた光が一瞬だけ強まり、次の瞬間、砕けるように消えた。

 

 「パターン青、消失!」

 

 精神攻撃が止まる。

 

 使命を終えても、ロンギヌスの槍は止まらなかった。第十五使徒を貫いた速度のまま地球周回軌道を外れ、やがて月の周回軌道へ入っていく。

 

 「槍、回収可能域を離脱します」

 

 発令所で報告を聞きながら、ゲンドウは何も答えなかった。

 

 ポケットの中では、木彫りだけが掌に残っていた。

 

――

 

 光を失った弐号機が前へ倒れる。

 

 第四号機は走り込み、地面へ衝突する前にその身体を受け止めた。

 

 「アスカ」

 

 レイが呼びかける。

 

 エントリープラグ内部に生命反応はある。シンクロ率は実戦可能域を大きく下回っていたが、危険な深度からは少しずつ戻り始めている。

 

 アスカは意識を失っていなかった。

 

 目を開けることができないだけだった。

 

 自分の心を全て見られた。

 

 母親のこと。加持のこと。シンジのこと。

 

 誰にも知られたくなかった願いまで、無理やり引きずり出された。

 

 しかも、最後にはレイに助けられた。

 

 礼など言えるはずがない。

 

 「アスカ、聞こえる?」

 

 レイの声が続く。

 

 アスカは通信を切ろうとした。

 

 指は動かなかった。

 

 いや、動かそうとしなかったのかもしれない。

 

 四号機が弐号機を抱え、回収地点へ向かう。その揺れの中で、アスカは自室へ残した一対の翼を思い出していた。

 

 誰にも渡せなかった、二つのお守り。

 

 片方を渡せば、一対ではなくなると思っていた。

 

 だが、本当は離れた場所に一つずつあっても、一対でいられることを願っていたのかもしれない。

 

 渡したい相手を決められないまま、加持はいなくなり、シンジも帰ってこなかった。

 

 今はレイの声だけが聞こえている。

 

 「アスカ」

 

 返事はしなかった。

 

 それでも、回線を切ることもしなかった。返事をしない沈黙と拒絶する沈黙は違う。レイはその違いをまだうまく言葉にはできなかったため、アスカがそこにいることを確かめるように、その名前を呼び続けた。

 

 そして、自分もここにいると伝えるために。

 

――

 

 ゼーレの施設で、カヲルは戦闘記録を見ていた。

 

 人の心へ触れようとした使徒。

 

 触れられることを拒み、傷つきながら、それでも最後には他者の声を切らなかった少女。

 

 人は、他人に見られることを恐れながら、誰にも見られないことにも耐えられない。

 

 矛盾している。しかし、その矛盾こそが人間なのだろう。カヲルは、光を失った画面へ指を触れた。

 

 「君なら、彼女に何と言ったんだろうね」

 

 問いかける相手は、ここにはいない。

 

 画面の中では、白いエヴァが赤いエヴァを抱え、ゆっくりと地下へ降りていく。翼を傷つけられ、もう飛べないと思い込んだ少女へ。

 

 まだ地上へ帰る場所があることを教えるように。

 

 その通信回線には、返事のない名前を呼び続けるレイの声が残っていた。

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