第十五使徒との戦闘から、既に二週間が経過していた。
惣流・アスカ・ラングレーの身体に、目立った外傷はない。使徒の攻撃は弐号機の装甲を破壊するものではなく、搭乗者の精神へ直接干渉するものであったため、医学的な検査だけを見れば、彼女は明日にでも退院できる健康体である。
しかし、白い病室でベッドへ腰掛けるアスカの手は、膝の上で固く握られていた。
目を閉じれば、あの光が差し込んでくる。母親が人形へ呼びかける声も、加持が自分を子供として遠ざける姿も、初号機の中へ消えていったシンジの背中も、光に照らされた時と同じ鮮明さで蘇った。
誰にも見せなかったはずの場所を暴かれた。自分ですら見ないふりをしていた感情へ、土足で踏み込まれた。
それなのに、検査結果には精神汚染深度が正常域まで戻ったとしか記録されない。
「何が正常よ」
アスカは呟き、手の中の診断票を丸めた。
病室の扉が開く。入ってきたレイは、紙袋と小さな花瓶を抱えていた。花瓶には、売店で買ったらしい黄色い花が一本だけ挿してある。
「何しに来たのよ」
「お見舞い」
「見れば分かるわよ。そうじゃなくて、どうしてあんたが来るのかって聞いてんの」
レイは少し困ったように眉を寄せた。以前なら黙り込んでいたかもしれない。しかし今は、花瓶を窓際へ置いてからアスカを振り返る。
「来たかったから」
「……は?」
「アスカ、一人だったから」
「一人にしてほしいのよ、アタシは」
「そう」
レイは素直に頷いた。それでも帰ろうとはせず、壁際の椅子へ座る。紙袋から林檎を一つ取り出し、果物ナイフを手にした。アスカはシーツを掴んだ。帰れと言っているのに、どうして帰らないのか。黙って隣にいられるだけで、自分が一人では立てないと決めつけられているような気がした。
「帰りなさいよ」
「これを剥いたら帰る」
「頼んでない」
「リッちゃんが、病人には果物がいいって」
「病人じゃない! そんな目でアタシを見ないでよ!」
声を荒らげた途端、頭の奥で白い光が弾けた。アスカの肩が小さく震える。レイは気づいたが、それを指摘せず、不器用な手つきで林檎の皮を剥き始めた。途中で何度も皮が切れ、実も厚く削られていく。
「下手くそ。そんなもの、いらない!」
「うん」
「そこで認めるんじゃないわよ」
「でも、下手だから」
アスカは差し出された皿を手で払いかけ、寸前で止めた。林檎を落としてしまえば、レイがまた拾う。その姿まで見せつけられることに耐えられず、乱暴に一切れを掴んで口へ押し込んだ。甘さを感じた途端、なぜか泣きそうになり、窓の外へ顔を背ける。沈黙が続いた後、レイが小さく息を吸った。
「この前、どうして戻ってきたのって聞いたでしょう」
「覚えてない」
「私は、アスカを一人にしたくなかった」
ナイフが林檎の表面を滑る音だけが続いた。
「……余計なお世話よ。アタシは一人で平気なの。勝手に可哀想な子みたいに扱わないで」
「うん」
「だから、認めるんじゃないって言ってるでしょ!」
アスカはレイを睨み、残った林檎をもう一切れ奪った。食べる手だけが妙に早く、指先はまだ震えていた。
――
同じ頃、ネルフ本部では、残存戦力の確認が行われていた。
初号機は左腕を失った状態で封印を継続。機体そのものの組成は第十四使徒戦以前へ戻っているが、覚醒中の観測値との不一致は解明されておらず、内部へ溶けた碇シンジを取り戻す手段も見つかっていない。
三号機は脊椎部を中心に修復中であり、実戦復帰にはまだ時間を要する。
零号機は修復の見通しこそ立っていたが、四号機の実戦配備と既存三機の維持、さらに三号機の修理へ予算を割いたため、作業そのものが凍結されている。
現在、直ちに出撃できる機体は弐号機と四号機だけであった。
「弐号機の修復は完了しています。ただし、問題は機体ではなくパイロットです」
リツコが報告書を閉じた。発令所の主画面には、アスカの精神汚染深度とシンクロ率の推移が映されている。
「精神汚染深度は正常域まで戻っています。シンクロ率も下げ止まり、緩やかな回復傾向にありますが、第十五使徒戦以前の水準には遠く及びません。再侵食が起きた場合の影響も予測不能です」
「つまり、出せないってことでしょう」
ミサトは腕を組み、リツコは即答しなかった。
「医学的に搭乗を禁止する根拠はありません。ただ、私なら勧めません」
「なら結論は同じよ」
「勝手に決めないで」
発令所の入口から鋭い声が飛んだ。全員が振り返る。検査着の上に赤い上着を羽織ったアスカが、レイを後ろへ従えて立っていた。
「病室へ戻りなさい」
ミサトが低い声で言う。アスカは怯まず、作戦卓まで歩いてきた。
「身体は何ともない。シンクロ率だって戻ってきてる。弐号機も直った。だったら乗れる。乗れるに決まってるでしょ!」
「今のあなたを出せると思う?」
「あんたが思うかどうかなんて関係ないでしょ。使徒が来たら、四号機だけで戦わせるつもり?」
「その時は私が判断します」
「またそれ! 判断、判断って、座って数字見てるだけのくせに! アタシから弐号機まで取り上げるつもり!?」
言い切った瞬間、アスカの呼吸が浅くなる。弐号機へ乗れない自分を想像しただけで、足元が崩れるような恐怖が込み上げた。謝る余裕などなく、それを悟られまいとして、さらに声を張り上げる。
「アタシは乗る! 乗れるの! あの子一人に任せて、病室で震えてろっていうなら、そっちの方がどうかしてるわよ!」
レイがアスカを見る。アスカは気づくと、苛立たしげに睨み返した。
「勘違いしないで。あんたが頼りないから言ってるだけ」
「分かってる」
「分かってない顔で分かったって言わないでよ!」
ゲンドウは二人を見ていた。以前のアスカなら、自分に弐号機しか残されていないから乗ると言っただろう。今もその思いが消えたわけではない。だが、それだけなら四号機のことを口にする必要はなかった。
「精神汚染深度が規定値を超えた場合、直ちに撤退させる」
ゲンドウが告げる。ミサトが振り向いた。
「司令」
「弐号機の出撃を許可する。ただし、現場指揮官の命令には従え」
「……当然です」
アスカは司令に対する最低限の礼儀を保ちながら答えた。けれど、許可が下りた後も肩から力は抜けない。自分がまだ必要とされたことを確かめるように、爪が食い込むほど拳を握っていた。
――
薄暗い部屋に、心臓の代わりとなる装置の音が響いていた。
キール・ローレンツの生命維持装置へ、細い指が触れる。磨き上げられた工具が接続部を開き、古くなった部品を迷いなく取り外した。作業者の顔は半ば影へ沈み、短く整えられた髪と、目元に刻まれた深い疲労だけが見える。
傍らの画面には、各国で建造された量産機へ搭載されるダミープラグの試験結果が並んでいた。それは、人間の搭乗と同調を前提に、コアへ疑似魂信号を認識させるネルフのダミーシステムとは、設計思想も技術系統も異なっている。パイロットの存在を前提とせず、擬似人格によって機体を完全自律させるため、ゼーレが独自に組み上げたものであった。自律起動、目標識別、戦闘継続。全てが要求値へ達しつつある。
「器は散らばり、魂のない心臓だけがここにある」
キールが言った。
作業者はケーブルを繋ぎ直し、軽い調子で答える。
「魂がないから便利なんでしょう。命令を疑わない。怖がらない。寂しがらない」
「それを生きていると呼べるかね」
「呼びたい人が呼べばいいんじゃない? 名前なんて、いつも後から付くものだし」
生命維持装置の駆動音が一度止まり、すぐに以前より安定した間隔で再開する。作業者は工具を置いた。
「人は、名を与えることで世界を所有したと思い込む」
「所有できないから、名前くらい付けるんだよ。夜とか、死とか、愛とか。見えないものほど、呼び名がないと怖いからね」
キールの視線が、僅かに作業者へ向く。
「君は愛を信じるのか」
「まさか」
返事は早かった。冗談めいた響きもあったが、その目だけは笑っていない。
「信じてたら、こんなところで世界の終わりを待ってないよ」
画面の中で、ダミープラグの最終試験が終了する。作業者は結果を確認し、何事もなかったように端末を閉じた。
「ほとんど完成。あとは、命令を与えるだけ」
「ならば、時は近い」
「そうかもね」
足音が闇の向こうへ消えていく。キールは呼び止めなかった。閉じられた端末の奥に何があるのか、そこにいる誰も確かめようとはしなかった。
――
戦略自衛隊の地下格納庫では、新型のトライデント級陸上軽巡洋艦が複数の支持架へ固定されていた。
外装の一部はまだ取り付けられておらず、肩部から胸部へ延びる内部機構が露出している。主動力の試験は完了していたが、実戦運用に必要な制御系と武装管制には調整が残されていた。
格納庫を見下ろす観察室で、一人の高官が薄い作戦書を読んでいる。
表紙には、使徒迎撃能力を失った特務機関ネルフに対する緊急措置と記されていた。しかし、添付された部隊配置は救援のものではない。地下施設の制圧、主要職員の拘束、エヴァンゲリオン各機の無力化。最初から、人間を相手にするための計画である。
「零号機は修復凍結。初号機は封印。三号機は修理中、弐号機と四号機だけが稼働可能……か」
誰かがネルフの弱体化を待っている。しかも、この情報は正規の経路で戦略自衛隊へ渡されたものではなかった。
高官は作戦書を閉じ、傍らの部下へ渡す。
「これはまだ命令として扱うな」
「しかし、上層部の承認印があります」
「承認した人間ではなく、書かせた人間を調べろ。ネルフを潰した後、誰が何を始めるつもりなのかもな」
部下が敬礼して退出する。高官は再び格納庫を見下ろした。未完成のトライデントは動かない。それでも、かつてゲンドウが息子を見ていた目を思い出すと、完成を待っているだけでよいとは思えなかった。
「急がせろ」
整備主任へ告げる。
「ただし、連中には気づかれるな」
――
第十六使徒が現れたのは、その一週間後の午後であった。
郊外の地表から数十メートルほどの高さに、二重螺旋を描く光の環が浮かんでいる。頭も、手足も、進行方向を示す器官もない。ただ二本の帯が互いへ絡みつき、細胞分裂を繰り返すように形を変えていた。
警報を受け、弐号機と四号機が射出される。
「弐号機は前衛、四号機は中距離から援護。目標の性質が分かるまで接近戦は避けて」
ミサトの指示に、アスカは舌打ちした。
「分かってるわよ。いちいち子供みたいに言わないで」
『あなたは子供でしょう』
「うるさい!」
怒鳴りながらも、弐号機は指定された位置で足を止める。以前なら、四号機より先に戦果を挙げるため、そのまま突っ込んでいたかもしれない。今はパレットライフルを構え、レイが射撃位置へ着くまで待った。
四号機が右側面へ展開する。
『準備できた』
「遅いのよ。アタシに合わせなさい」
『うん』
二機が同時に発砲した。異なる方向から放たれた弾丸が、第十六使徒の中心部へ集中する。しかし、光の環は水面に落ちた雨粒のように形を崩し、弾丸の間を抜けていった。
「実体位置が安定しません!」
マヤが観測値を追う。使徒は輪の形を保ったまま高速で移動し、次の瞬間には弐号機の背後へ現れた。
「後ろ!」
ミサトの声より先に、アスカは弐号機を反転させた。背部懸架から抜き放ったマゴロク・ソードが光の帯を切り裂く。手応えはあった。青白い体液のような光が飛び散り、使徒の一部が地面へ落ちる。
「ほら、見た!? アタシはまだ戦える! この程度――」
言葉が止まった。
地面へ落ちた光は消えず、細い糸となって弐号機の足首へ巻きついた。切断された本体側も瞬時に伸び、弐号機の左腕を這い上がる。
「アスカ、離れて!」
四号機の銃口が使徒へ向く。
「撃ちなさい、レイ!」
アスカの声に合わせレイが引き金を引く。弾丸が弐号機へ絡みついた光を削り、使徒の組織を弾き飛ばした。
同時に、アスカの左腕へ赤い傷が走った。
「ああっ!」
プラグスーツが裂けたわけではない。それでも皮膚の内側から切り開かれたような痛みが走り、アスカは操縦桿から手を離した。弐号機の左腕にも、使徒とは別の裂傷が生まれている。
「攻撃損傷がパイロットへ逆流しています!」
「射撃中止!」
ミサトが叫ぶ。四号機は銃口を下げた。
その一瞬で、使徒は弐号機の胸部へ到達した。光の先端がA.T.フィールドへ触れる。二つの境界が押し合い、空間に歪みが生じた。
「フィールド最大! 近づけさせるもんですか!」
アスカは歯を食いしばった。弐号機のA.T.フィールドが厚みを増し、使徒を押し返す。しかし、光の帯は弐号機のフィールドへ同調するように振動を変えた。
自分と他人を分ける壁へ、同じ形の穴が作られていく。
「侵食、開始! 弐号機胸部装甲を突破します!」
「そんな……っ、入って、くるな!」
光が弐号機の胸へ沈んだ。装甲を壊したのではない。硬い物質を水へ溶かすように、境界そのものを失わせながら内部へ入り込んでいく。
アスカの胸にも、冷たい異物が触れた。
「いや……いや、来ないで……!」
その声を最後に、通信回線へ流れる言葉は意味を失った。発令所と四号機に届いているのは、激しく乱れた呼吸と、喉の奥で潰れる呻きだけである。アスカは叫び続けていたが、それが言葉として形を持つのは、使徒に侵食された精神の内側だけだった。
その声と同時に、白い光が視界を覆った。
第十五使徒の光だった。
母親が人形を抱いている。加持が振り返らずに遠ざかる。シンジが初号機の中へ消える。前戦闘時にに暴かれた光景が、傷口を開くように繰り返された。
「違う……これは、前の……!」
アスカは頭を振る。だが、使徒は記憶だけを見せているのではない。第十五使徒によって開かれた傷を入口にして、さらに深い場所へ潜り込もうとしていた。
『アスカ、聞こえる?』
レイの声が遠い。
「聞こえてるわよ! 何度も呼ばないで!」
アスカには、確かに怒鳴り返したつもりだった。しかし唇は意味のある音を作っておらず、外の通信回線へ届いたのは短い呻きだけである。その声の裏で、自分ではない何かが笑った気がした。
――どうして怒るの。
言葉ではなかった。アスカの感情を借り、疑問の形へ並べ直したものが胸の内側へ浮かぶ。
「出ていきなさいよ」
――一人になりたいのでしょう。
「そうよ。あんたたちなんかいらない」
――なら、どうして呼ばれると答えるの。
弐号機がマゴロクを振るい、自分へ入り込んでいる使徒を切り払おうとする。しかし刃が光へ触れた瞬間、アスカの腹部にも激痛が走った。
「ぐっ……あ、あああっ!」
マゴロクが地面へ落ちる。使徒へ与えた傷が、そのまま自分へ返ってくる。
「弐号機、侵食率三十八パーセント!」
「プラグを強制排出!」
ミサトが命じる。マヤが操作を行うが、排出表示は赤いまま動かない。
「駄目です! 排出回路が侵食されています!」
「予備系統へ切り替えて!」
「応答ありません!」
四号機が一歩踏み出す。弐号機の表面から伸びた細い光が、警告するようにそちらへ先端を向けた。
四号機が近づこうとした瞬間、侵食の圧力が僅かに緩んだ。アスカの意識が一度だけ外側へ浮上し、途切れていた言葉が通信回線へ戻る。
「来るんじゃないわよ!」
『でも』
「触ったら、あんたも食われる! そこでじっとしてなさい!」
レイには反論できなかった。使徒との接触は、四号機にも侵食を広げる。射撃すればアスカを傷つけ、近づけば二機とも取り込まれる。
手を伸ばせる距離にいるのに、何もできなかった。
――
侵食率が五十パーセントを超える。
使徒は弐号機の上半身と重なり、人の神経を模した枝を機体内部へ広げていた。アスカは何度も息を吸おうとする。しかし胸の中に別の呼吸が混ざり、自分の肺がどちらにあるのかも分からなくなる。
――嫌いなの。
「そうよ。嫌い。あんたなんか大嫌い」
――あの青い子も。
「嫌い! 何考えてるか分かんないし、すぐアタシの邪魔するし、いい子ぶって! 人が放っておけって言ってるのに、勝手に待って、勝手に助けて……大嫌いよ!」
病室で林檎を剥く不器用な指が浮かぶ。アスカはそれを掻き消すように叫んだ。第十五使徒の光が差し込んだ時、片方しか聞こえなかったピアノも、その音が途切れないうちに槍を持って戻ってきた白い機体も、思い出してはいけない。
外側では、弐号機の右手が何かを振り払うように空を掻いていた。レイには、アスカが何と戦っているのか見えない。通信から聞こえる呼吸が急に速くなるたび、四号機の足が半歩前へ出て、そのたびに使徒の先端を見て止まった。助けようとする動作さえ相手を危険にさらすため、レイは自分の機体を押し留めることしかできなかった。
発令所では、アスカの脳波が激しく乱れていた。マヤが呼びかけを繰り返し、リツコが精神汚染深度の変化を追う。しかし、誰にも波形の内側にある言葉までは分からない。
嫌いなら、失っても傷つかない。
――眼鏡の子も。
「嫌いよ! 相田はうるさいし、人のこと勝手に撮るし、エヴァの話ばっかり! 何にも分かってないくせに、分かったような顔して!」
避難する前、シンジへの伝言をトウジへ託したケンスケの顔が現れる。理想と現実が違うことを知り、それでも何も知らないふりをして送り出してくれた。その記憶にも、アスカは嫌いという言葉を叩きつけた。
「嫌い、嫌い! あいつだって嫌い!」
――委員長も。
「ヒカリも嫌い! 細かいし、すぐ怒るし、お節介で、頼んでもないのに心配して!」
疎開前、最後まで自分を心配していた友人の顔が浮かぶ。刺のある言葉をぶつけても、少し困った顔をしただけで離れなかった。だから、もっと強い声で否定した。
「バカみたいにいい子で、こっちがどんな顔すればいいかも考えない! あんなの、大嫌い!」
――黒い服の大人も。
ミサト。リツコ。加持。ゲンドウ。自分を子供として扱い、命令し、叱り、隠し事ばかりする大人たち。
「嫌い! 勝手で、嘘つきで、何にも教えない! 都合のいい時だけ子供扱いして、いなくなる時は何も言わない!」
加持の死を知った時の痛みが蘇る。追いつけない背中を好きだと思っていた。けれど、その痛みのさらに奥から、別の顔が浮かび上がろうとする。アスカは必死に押し戻した。
「嫌い、きらい、キライ! みんな、みんな大っ嫌い! アタシを置いていく奴なんか、最初から誰も好きじゃない!」
叫びがプラグ内へ反響した。息が続かず、喉の奥で引き攣れた音が鳴る。それでも黙れば、本当の気持ちを使徒に掴まれる。アスカは泣きながら、嫌いという言葉だけを何度も繰り返した。
弐号機と使徒のパターンが一度大きく重なり、境界を示す線が消える。ミサトは攻撃命令を出しかけて、声を止めた。ここで撃てば使徒を傷つけられる。しかし、画面の中ではアスカの生命波形まで同じ周期で脈打っていた。
ゲンドウも命令を出さなかった。何かを選ぶまでに残された時間が、数字となって減っていく。誰もがそれを見ているのに、アスカだけが何を奪われているのか分からなかった。
「嫌い……嫌いよ……嫌い、なの……っ」
使徒は否定しない。ただ、アスカ自身がその言葉の薄さを聞いていた。嫌いという壁は、重ねるほど脆くなった。押し込めた顔が一人ずつ内側から壁を叩き、とうとう亀裂の向こうからシンジが現れる。
音楽室のピアノ。並んで食べた食事。戦場で預けた背中。自分を追い越したシンクロ率。腹が立つほど優しく、肝心な時には頑固で、何度傷ついても誰かのためにエヴァへ乗った少年。
「シンジなんか……一番、嫌い」
声が震えた。嘘だと、自分が一番よく知っている。
「いつもウジウジして、すぐ謝って、勝手に人の心配して! アタシを追い越したくせに、勝った顔一つしないで!」
息が詰まる。もう嫌いという言葉だけでは押し戻せない。第十五使徒に暴かれてなお認めなかったものが、侵食の痛みと喪失の恐怖に押し上げられ、堰を切ったように溢れ出した。
「……嘘! 嘘よ! 嫌いなわけないじゃない!」
アスカは頭を抱え、LCLの中で身を折った。涙も、嗚咽も、言葉も止められない。
「好き! 好きだったの! レイも、ヒカリも、相田も、鈴原も! ミサトも、リツコも、加持さんも! みんな、みんな好きだった!」
好きだと認めた瞬間、置いていかれた痛みが一斉に襲いかかる。アスカは喉が裂けるほど叫んだ。
「でも、シンジは違う! あいつは……あいつだけは、もっと……!」
胸へ入り込んだ使徒が、その感情まで自分のものにしようとする。アスカは奪われまいとするように、両腕で自分の身体を抱き締めた。
「シンジが好き! ずっと、そばにいてほしかったのに!」
弐号機の手が土を掻く。指が地面へ深く食い込む。
「見える景色、全部に色をつけたくせに! 明日も、その次もあるみたいな顔してたくせに!」
シンジがいたから、勝つことだけではない時間を知った。腹を立て、笑い、食卓を囲み、音を合わせ、明日の約束をした。
「どうして勝手にいなくなったのよ! どうしてアタシを置いていったのよ、バカシンジ!」
涙がLCLへ溶ける。使徒はその痛みまで取り込み、光の身体を大きく脈動させた。だが、発令所に記録された音声には、苦痛に耐える少女の嗚咽しか残っていない。レイにも、ミサトにも、決壊した言葉の内容は届かなかった。それは使徒とアスカだけが存在する精神の内側で、初めて認められた感情だった。
吐き出すものを失くした後、アスカの意識は弐号機の身体へ引き戻された。痛みも侵食も消えてはいない。それでも、自分の中に何が残っているのかだけは、もう隠す必要がなかった。
――
「侵食率、七十パーセントを突破!」
発令所では警報が鳴り続けている。使徒と弐号機の境界は観測画面上でも判別できなくなり、二つのパターンが重なっていた。
「攻撃すれば、アスカにも同じ損傷が発生します」
リツコが声を絞り出す。
「かといって、このままでは弐号機ごと取り込まれるわ」
ミサトは答えを探した。初号機の封印を解いても、乗せるべきシンジはいない。零号機は動かず、三号機も間に合わない。四号機を接触させれば、レイまで失う可能性がある。
どの命令も、子供を殺す命令にしかならなかった。
「四号機は現在位置を維持。絶対に接触しないで」
『でも、アスカが』
「分かってる! 分かってるから、今は動かないで!」
レイは操縦桿を握り締めた。目の前には、使徒の光へ半身を沈めた弐号機がいる。助けたいのに、手を伸ばすことが相手を殺す。第十五使徒戦では地下へ降り、槍を持って戻ることができた。今回は、持ってくるべきものさえ分からない。
『アスカ、帰ってきて』
通信回線へ呼びかける。
『今度は、私が待ってるから』
雑音の向こうから、荒い呼吸が返ってきた。
『……勝手に、待ってんじゃないわよ』
弱い声だった。それでも、アスカらしい刺が残っていた。
『待つなら……ちゃんと、待ってなさいよ。途中でいなくなったら、許さないから』
「アスカ?」
アスカの右手が、プラグ内に設置されるインテリアへ動いた。非常時にのみ使用される手動入力盤が開く。
「弐号機、何をしているの?」
マヤの画面に、通常の戦闘操作とは異なる入力が表示される。
リツコが息を呑んだ。
「自爆コードです」
「アスカ、やめなさい!」
ミサトが叫ぶ。
『これしかないでしょ』
「別の方法を探す! だから入力を止めて!」
『その間にこいつが広がったら、レイまで巻き込まれる。ここで止めるしかないのよ』
「それは命令じゃない!」
『そうよ。アタシが決めたの』
アスカの指が震えながら、確認キーを一つずつ押していく。使徒の侵食は腕にも達し、指先の感覚が失われ始めていた。間違えれば受理されない。苦痛に呻き、何度も息を詰まらせながら、それでも入力を止めなかった。
「あ……ぐっ……この、くらい……!」
第十四使徒戦の光景が浮かぶ。
折れたオサフネ。動かなくなった弐号機。絶望的な力で使徒を消し去った初号機。その姿を見た時、アスカはシンジに完全に負けたと思った。
だが、違う。
シンジは勝つために戻ってきたのではない。アスカとレイを、父親を、そしてこの街を守るため、帰れなくなるかもしれない場所へ進んだ。
その選択を、今になってようやく理解できた。
「侵食率、八十二パーセント!」
「四号機、退避して!」
『嫌』
レイが初めて、はっきりと命令を拒んだ。
『アスカを置いていけない』
『バカ! あんたが残ったら、何のためにアタシが――うっ、ああああっ!』
光が弐号機の首へ達する。アスカは身体を折り、喉の奥から苦痛を押し殺すような声を漏らした。それでも顔を上げ、四号機を睨む。
『レイ、離れなさい! これは命令よ!』
『アスカに、私へ命令する権限はない』
『こんな時だけ正しいこと言うんじゃないわよ! お願いだから……早く行って!』
最後の言葉だけは、怒鳴ることができなかった。
レイは唇を噛み、四号機を後退させる。一歩、二歩と離れても、弐号機から視線を逸らさない。
アスカは最後の確認キーへ指を置いた。
怖かった。死にたくない。もっと皆と話したい。ヒカリに会いたい。レイに礼を言っていない。鈴原や相田へも、まだ言い返していないことが沢山ある。
そして、シンジが帰ってくるなら、今度こそ好きだと伝えたかった。
それでも、自分がここで終われば、皆は残る。シンジが好きになった街も、父親も守ることができる。
「シンジ……」
涙で滲む視界の中、アスカは僅かに笑った。
「あたしも、そっちに行くね」
確認キーを押す。
自爆装置が承認され、弐号機のコアが臨界へ向けた準備を開始した。
その瞬間、プラグの奥にあった暗闇が開いた。
アスカは、誰かと目が合った。
人形を抱き、アスカを見なかった母ではない。病室の天井から垂れ下がった母でもない。まだ若く、柔らかな目をしたキョウコが、真っ直ぐに娘だけを見ている。
声は耳から聞こえなかった。頭の中へ、温かな手を差し入れられたように響いた。
――生きて。
「マ――」
返事をする間もない。
侵食され、作動しないはずだった排出回路へ信号が走る。固定ロックが全て解除され、爆発ボルトが起動した。
「弐号機、エントリープラグを強制排出!」
マヤの叫びと同時に、弐号機の背部からプラグが射出された。通常の回収を想定した速度ではない。使徒の光を突き破り、白煙を引きながら戦場の遥か後方へ飛んでいく。
「四号機、プラグを追って!」
ミサトの命令を待つまでもなく、レイは走り出していた。
――
パイロットを失った弐号機が、ゆっくりと立ち上がる。
電源は残っている。しかし、操縦する者はいない。ダミーシステムも搭載されていない。それでも赤い巨人は、自分へ入り込んだ第十六使徒を両腕で掴んだ。
使徒が離れようとする。光の帯が細く伸び、弐号機の身体から抜け出そうともがいた。弐号機は逃がさない。腕を交差させ、我が子を抱くように、同時に決して放してはならない敵を締め上げるように、その光を胸へ抱き込んだ。
どちらのものとも知れない記憶が、一瞬だけ流れる。
ドイツの夏。どこまでも続くひまわり畑。
幼い少女が、大人の背丈より高い花の間で泣いている。振り返っても母親の姿はなく、黄色い花と青い空ばかりが広がっていた。
やがて、白衣姿の女性が息を切らして現れる。少女を見つけると、土で汚れることも構わず膝をつき、小さな身体を強く抱き締めた。
『ママ、いなくなったと思った』
『ごめんね。怖かったね』
女性は泣きじゃくる少女の髪を撫で、指切りをするように小指を差し出す。
『アスカちゃんが困った時は、ママが絶対に助けるからね』
それがアスカの記憶なのか、弐号機のコアに残されたキョウコの記憶なのか、確かめる者はいなかった。
弐号機のコアが臨界へ達する。
使徒が最後に大きく身を捩った。赤い巨人の腕は緩まない。
夕暮れの地上に、二つの影が一つになった。
次の瞬間、白い光が全てを飲み込んだ。
爆発は地面を抉り、巨大な衝撃波となって周囲へ広がる。第十六使徒のパターンが乱れ、弐号機の信号と重なったまま消失した。
「パターン青、消失!」
「弐号機も……反応ありません」
爆心地には、使徒も弐号機も残っていなかった。
――
強制射出されたエントリープラグが、林を越えて落下していく。
四号機は爆風を背中に受けながら走った。地面を蹴るたび、白い装甲へ土が跳ねる。落下予測地点はさらに先へずれていく。
「間に合って……!」
レイが操縦桿を押し込む。四号機は最後の斜面を跳び越え、両腕を伸ばした。
地面へ激突する直前、プラグが巨大な掌へ収まる。勢いを殺しきれず、四号機は両膝をつき、プラグを抱えたまま土の上を滑った。
「生命反応、あります!」
マヤの報告に、発令所の空気が僅かに戻る。
レイは外部回線を開いた。
「アスカ、聞こえる?」
返事はない。だが、プラグ内部の生命反応は安定している。
「アスカ」
何度目かの呼びかけの後、雑音に混じって声が返った。
『……聞こえてる。何度も呼ばないで』
弱々しい。それでも、間違いなくアスカの声だった。
レイは息を吐いた。
『泣いてるの?』
「泣いてない」
『嘘。声、変よ』
「アスカに言われたくない」
『……生意気』
プラグの中で、アスカは目元を乱暴に拭った。涙は止まっていない。それでも、不思議なほど胸の奥は静かだった。
「ママだった」
今度は、レイも否定しなかった。
『そう』
「幻なんかじゃない。絶対、ママだった」
『うん』
「生きろって。勝手よね。自分はいなくなったくせに、アタシには生きろだなんて」
言葉には刺があったが、憎しみはなかった。アスカは一度だけ鼻を啜り、背もたれへ身体を預ける。
「でも……まあ、仕方ないから、生きてあげる」
四号機はエントリープラグを両手で守りながら、ゆっくりと立ち上がった。
――
戦闘終了後、弐号機の消失地点では回収作業が続けられた。
しかし、発見されたのは高熱で変質した土と、使徒のものとも弐号機のものとも判別できない僅かな残留物だけである。装甲板も、拘束具も、コアの破片さえ残っていない。
「弐号機、完全消失と判定します」
日向の報告に、ミサトは目を閉じた。パイロットは生きている。それだけで十分だと言い聞かせても、長く戦場をともにした機体を失った重さまでは消えなかった。
技術部では、エントリープラグの強制排出記録が繰り返し再生されている。
「主回路も予備回路も侵食されていた。自爆コード入力後、排出系統だけが一時的に復旧したようね」
ナオコは波形を拡大しながら言った。
「コアの臨界に伴う、一時的なシステム異常でしょう。そう処理するしかないわ」
「はい」
リツコは母親に敬語で答える。
だが、画面に残された波形を見つめながら、別の言葉を胸の内へ沈めていた。
――違う。あの人が、娘を選んだのよ。
かつて母から聞いた、キョウコのサルベージ実験。人の心がエヴァのコアへ残るという事実を、リツコは理論として理解していた。だが、これは理論ではない。母親が、自分の死を選んだ娘へ生きることを命じた結果だった。
ナオコは画面から目を離さない。その横顔に何が浮かんでいるのか、リツコには分からなかった。研究者として現象を処理しようとしているのか、母親として何かを感じているのか。それとも、どちらにも目を向けないようにしているのか。
発令所の上段で、ゲンドウも同じ記録を見ていた。
キョウコは弐号機とともに消えた。娘を自分のもとへ留めることも、同じ場所へ連れていくこともせず、生きている世界へ押し戻した。
初号機のコアに眠るユイは、シンジを守ろうとしていた。しかし第十四使徒戦で、シンジはユイとの接続を押しのけ、初号機そのものへ到達した。そして今も、初号機の中から帰ってこない。
ユイは何を望んでいるのか。
ゲンドウには、まだ分からない。ただ、母親が子供を守るという言葉だけでは説明できない何かが、初号機の中にあるように思えた。
ポケットの中の木彫りへ触れる。
掌に残る硬さだけが、今もシンジとの間にある確かな形だった。
――
ゼーレの会合では、第十六使徒の消滅が報告されていた。
暗闇に浮かぶモノリスが、弐号機の喪失を事務的な数字として読み上げる。
『槍は失われた』
『弐号機も消滅した』
『初号機は沈黙を続けている』
『ネルフの手駒は、もはや四号機のみ』
キールは、彼らの声を黙って聞いていた。碇ゲンドウが槍を手放した理由も、封印した初号機を今後どう扱うつもりなのかも、まだ完全には読み切れない。
しかし、予定された使徒は残り少ない。彼らが迷っているとしても、世界の時間は待たない。
『各国へ最終準備を通達せよ』
キールが命じる。
『器は既に揃いつつある。ダミープラグの完成をもって、我らの道具もまた魂の軛から解放される』
会合の終了後、生命維持装置の近くに人影が現れた。
「魂がなくても、寂しがるかもしれないよ」
キールは振り返らない。
「機械がかね」
「さあ。機械かどうかを決めるのは、いつも作った側だから」
「では、作られた側は何を選ぶ」
少しの沈黙があった。人影は机上の端末へ指を滑らせ、ダミープラグの完成記録を送信する。
「選べるなら、もう道具じゃない」
軽い口調で告げた後、人影は部屋を出ていった。
その歩き方と、白衣の裾を整える細い指だけが、暗闇の中に一瞬見えていた。
――
夜になり、アスカはネルフ本部の救護室で目を覚ました。
最初に見えたのは白い天井である。次に、ベッド脇の椅子で眠りかけているレイの姿が目に入った。アスカが「何でいるのよ」と訊くと、レイは顔を上げ、待っていると言ったからだと答えた。
「律儀に本当に待ってるんじゃないわよ。重いのよ、そういうの」
謝るレイへ、アスカは謝られると余計に腹が立つと言い返した。言葉は刺々しかったが、本当に帰れとは言わなかった。
アスカは身体を起こそうとした。胸と左腕に鈍い痛みが走る。侵食による損傷は、使徒が消滅した後も完全には消えていなかった。
レイが手を伸ばす。アスカは「触らないで。一人で起きられる」と拒み、なおも支えようとする手を視線で止めた。
何度か失敗しながら、アスカは自分の力で上体を起こした。息を整え、窓の外を見る。街には夜の灯が戻っている。
「弐号機は?」
レイはすぐに答えなかった。その沈黙だけで分かる。残っていないのかと重ねて訊くと、レイは頷いた。破片さえ見つかっていない。
アスカは目を閉じた。弐号機は、自分が優秀であることを証明するための身体だった。母親に見てもらうための場所であり、誰にも負けない自分でいるための鎧だった。
その全てが、母親とともに消えた。
けれど、自分はここにいる。
「……エヴァがなくたって、アタシはアタシよ」
声は少し震えた。アスカはそれを隠すように、レイを睨む。
「何よ、その顔。アタシを心配してますって顔。やめて。むかつく」
レイが、やめられないと答える。アスカは呆れたように息を吐いた。
「ほんっと、生意気になったわね」
ベッドから足を下ろす。床へ立とうとすると膝が揺れたが、今度もレイの手は借りなかった。ただし、レイが隣に立つことまでは拒まない。
窓ガラスへ、二人の姿が並んで映る。
シンジがいなくなってから、街から色が消えたように感じていた。だが、実際には消えていない。店の灯も、道路を走る車の光も、遠くに残る住宅の窓も、今までと同じように夜の中で輝いている。
見えなくしていたのは、自分の方だった。
「勝手にいなくなったんだから……」
アスカは窓の向こうへ言う。
「戻ってきたら、一発じゃ済まさないわよ」
涙はもう拭った。声にはいつもの刺があり、目には失われたはずの光が戻り始めている。
弐号機も、母親も、シンジも、今は隣にいない。それでも、レイがいる。待っている者がいて、自分も誰かを待つことができる。
アスカは一歩を踏み出した。
足元はまだ覚束ない。それでも、倒れないために伸ばされた隣の手を振り払いはしなかった。