第十六使徒との戦闘から三日後、四号機は第七ケージの中央に固定されていた。
白い装甲には、弐号機のエントリープラグを受け止めた時についた土と擦過痕が残っている。使徒との直接接触は確認されていない。それでも、第十三使徒が三号機へ潜伏した前例がある以上、表面洗浄だけで実戦へ戻すことはできなかった。
装甲から筋組織、神経回路、コア、ダミーシステムに至るまで、機体を構成する全てが切り離された区画ごとに検査を受けていたが、侵食反応は検出されず、パターンも正常である。それでもリツコはマヤの報告へ返事をせず、四号機の神経接続記録を遡っていた。
第十六使徒戦では、レイと四号機の同調に異常はない。使徒が弐号機へ侵入した後も、四号機との距離は保たれている。射出されたプラグを回収した際にも、侵食痕は認められなかった。
異常があるとすれば、さらに以前である。
「この波形、何かしら」
リツコが見つけたのは、画面の端に一本だけ残された細い線であった。それはレイのパーソナルパターンでも、四号機のコアが生成した疑似魂信号でもなく、二つの同調記録へ別の場所から古い接続情報が重なったものに見えた。
マヤが表示範囲を拡大して調べたところ、それは第十六使徒のものではなく、第十五使徒戦で四号機がセントラルドグマへ降下した直後から記録されていた。槍を抜いた瞬間よりも僅かに早く、地下の巨人へ接近した時点で、接続先が一つ増えていたのである。
リツコは口元へ指を当てた。レイは第十五使徒戦で、初めて地下の巨人を直接目にした。槍を引き抜いた瞬間には、地下の巨人とレイの波形が僅かに重なっている。
偶然にしては一致しすぎていた。
リツコは、初回起動実験から凍結前の最終試験に至るまで、零号機の全記録を出すようマヤへ命じた。以前にも、これと似たものを見た記憶があったためである。
零号機は修復予算を凍結され、別区画で解体状態のまま保管されている。機体は動かなくとも、これまで蓄積された記録までは失われていない。
呼び出された膨大なデータの中から、リツコは起動実験時の異常波形を抽出した。
零号機が暴走した時、内部にはレイに似た何かがいた。
パーソナルパターンはレイと酷似している。しかし本人とは一致せず、コアに残った調整用データとも説明できなかったため、当時は正体不明の残留信号として処理されていた。
四号機の接続情報と、零号機に残された波形が重なる。
誤差は、ほとんどなかった。
照合結果は同一パターンを示していた。零号機と四号機のコアは別物であり、パイロットが同じというだけで、このような情報まで移るはずはない。マヤが声を小さくして疑問を口にすると、リツコはパイロットを介して移ったのなら説明はできると答え、別の照合を実行した。
用いたのは、四号機が地下へ降りた際の環境データと、槍を抜かれた白い巨人の生体反応、そしてレイと零号機に残っていた正体不明の波形である。
三つの情報が、一つの接続形式を示した。接続先は、地下の白い巨人の生体波形と一致している。しかし、その解析結果に名称は表示されなかった。
リツコは接続規格の原型を探し、さらに古い記録へ遡った。通常権限では閲覧できない、ゲヒルン時代の封印区画である。現研究主任としての権限で警告を一段ずつ解除すると、廃棄された旧規格の識別欄に一つの名称が残されていた。
LILITH。
「リリス……」
画面に表示された文字を見て、マヤが息を呑んだ。リツコにも、その名が地下の巨人を指すことまでは理解できたものの、なぜ古い記録だけに残され、現在の管理情報から消されているのか、そしてその存在が何を意味するのかまでは分からなかった。
「魂じゃないわ」
リツコは自分へ言い聞かせるように否定した。魂そのものなら、四号機のコアに定着する。だが検出されたのは、接続先を指定する古い情報だけである。すでに切れた回線の痕跡とも、再接続を待つ端子とも取れた。
通常の人間が持っているはずのないものだった。
リツコは画面を見たまま、長い間動かなかった。
――
閲覧制限が掛けられていたのは、零号機の記録全体ではない。
レイと一致しないパターンが観測された箇所だけが、研究主任以上の権限を要求していた。制限を設定した者の名も記録されている。
赤木ナオコ。
リツコは母親の研究室へ向かった。
ナオコはMAGIの調整記録を読んでいた。娘が無言で端末を差し出すと、表示された制限番号を見ただけで内容を察したらしく、椅子の背へ身体を預ける。
「見つけたのね」
ナオコがそう言うと、リツコはどうして自分に隠していたのかと尋ねた。その口調は敬語のままであり、ゲンドウだけでなく、最近では母親に対しても、感情が強くなるほど言葉遣いが固くなる。
ナオコは、確証のないデータを保留しただけで隠したつもりはないと答えた。閲覧制限まで設定したことをリツコが指摘しても、そうしなければ仮説だけが独り歩きしただろうと、悪びれる様子も見せない。
ナオコは端末を受け取り、四号機から検出された接続情報へ目を通した。平静だった表情が、僅かに強張る。
「ここまでは知らなかったわ」
では何を疑っていたのかと問われたナオコは、レイが自分たちと同じ生まれ方をしていない可能性だと答えた。
幼いレイを預かった時から、ナオコは説明できない違和感を覚えていた。身元を証明する記録がなく、出生の経緯も知らされず、ただゲンドウから一人の子供として託された。
それでもレイは泣き、笑い、熱を出した。転べば膝を擦りむき、甘いものを食べれば年相応に喜んだ。
「不確かな仮説で、あの子の人生を決めたくなかったのよ」
ナオコが言う。
リツコには、その言葉を素直に信じることができなかった。母親としてレイを守ろうとしたのか、ゲンドウとの関係を壊しかねない疑念から目を背けたのか。研究者としてなら、未知の存在を放置することはあり得ない。
おそらく、その全てが少しずつ混ざっている。
「今も、隠しますか」
ナオコは、四号機にまで同じ情報が現れた以上、もう仮説では済まないと答えて画面を閉じた。
「ただし、分からないことを分かったように話しては駄目よ。私も、レイが何者なのかまでは知らない」
――
レイは、解析室の椅子に座っていた。
向かいにはリツコとミサトがいる。ナオコは同席しなかった。幼い頃から自分を育てた人が、なぜこの場へ来ないのか、レイには分からなかった。
リツコは画面へ四号機と零号機の波形を並べ、確定している事実だけを説明した。
四号機と零号機から、同じ接続情報が見つかったこと。その情報が地下の巨人に由来すること。魂そのものではなく、かつて何かと何かを結んでいた回線の痕跡に近いこと。
そして、普通の人間から検出される情報ではないこと。
レイは最後まで口を挟まなかった。リツコの説明が終わっても、二つの波形を見つめている。
「私は、人間じゃないの?」
やがて出てきた問いは、それだけだった。
リツコはすぐに答えられない。
「身体の構造は、人間と変わらないわ。けれど、あなたの中には通常の人間にはない情報がある。どうして存在するのか、私にも分からない」
「前から知っていたの?」
問いかけられたリツコより先に、ミサトが反応した。
「そうなの?」
声の鋭さに、レイが僅かに肩を揺らす。リツコはそれを見て、言葉を選ぼうとした。
「零号機に、レイと似たパターンが残っていることは知っていたわ。でも、それが何を意味するかは今日まで分からなかった」
「それを知っていて、レイを乗せ続けたの?」
「使徒の反応でも、侵食痕でもなかった。搭乗を止める根拠はなかったのよ」
「第十五使徒戦では、その子を地下の巨人のところまで行かせたじゃない!」
「あの時、他にアスカを助ける方法があった?」
「そういう話をしてるんじゃない!」
ミサトが机へ手をつく。リツコも椅子から立った。
「なら、どういう話よ。私が全てを知っていて、レイを実験材料にしたとでも言いたいの?」
「少なくとも、私にも本人にも黙っていた!」
「私だって、全部を知らされているわけじゃない!」
抑えていた声が、初めて大きくなる。
「母さんは零号機の記録を隠していた。司令はレイがどこから来たのか説明しない。私が知っているのは、あなたより少し多い程度よ。分からないものを、分からないまま扱うしかなかったの!」
「だから黙っていていい理由にはならないでしょう!」
二人の声が解析室へ響く。
レイは、自分のことを話しているはずの会話から、自分だけが消えていくように感じた。人間ではないかもしれない自分を中心に、二人の人間が傷つけ合っている。
「もう、いい」
小さな声は届かなかった。
レイは椅子を降り、解析室を出た。扉が閉じた後になって、ミサトとリツコは同時に振り返った。
――
レイがゲンドウを見つけたのは、初号機の解析区画だった。
封印措置を受けた初号機は、拘束架の中で沈黙している。失われた左腕はそのままになっており、覚醒中に赤く発光した装甲も、今は安全を示す緑へ戻っていた。
解析のために胸部装甲の一部が開かれ、コアが露出している。ゲンドウはその近くに立ち、表面へ手を触れていた。
「司令」
ゲンドウが振り返る。
「どうした」
「聞きたいことがあるの」
レイは数歩近づき、初号機のコアを見上げた。ここにはシンジがいる。身体の形を失っても、誰もシンジを人間ではないとは言わない。
「司令は、私が何なのか知っている?」
ゲンドウは答えなかった。
ついに、この時が来たのだと思った。
初号機のエントリープラグ内で幼いレイを見つけ、赤城親子へ預けた時から、いつか本人に問われる日が来ることは分かっていた。何も知らないまま生きられるなら、その方が幸せなのだという言い訳を重ね、今日まで答える時を先延ばしにしてきた。
真実を話せば、レイは自分を恐れるかもしれない。生まれた理由を知りながら黙っていたと思い、恨むかもしれない。何より、なぜ自分のそばで育てなかったのかと問われれば、ゲンドウには正しさを装わずに答える言葉がなかった。
それでも、もう逃げることはできない。シンジへ向き合うと決めながら、レイにだけ都合のよい沈黙を押しつけることは、同じ過ちを別の子供へ繰り返すことになる。
ゲンドウは僅かに目を伏せ、胸の奥へ残った躊躇いを飲み込んだ。レイがどのような答えを返しても受け入れる。それが、秘密を抱えてきた自分にできる最低限の責任だった。
以前なら、必要のない情報だと言って遠ざけたかもしれない。あるいは、レイを守るという理由をつけ、自分が扱いやすい答えだけを与えただろう。
だが、レイはもう幼い子供ではない。自分が知らないところで生まれた疑問を、自分の言葉で尋ねに来ている。
「お前が現れた時、私はそこにいた」
ゲンドウはコアから手を離した。
「ユイのサルベージ実験に失敗した後だ。作業員を退出させ、私一人が残った。誰もいないはずの初号機のエントリープラグ内に、お前がいた」
レイは瞬きをした。
「生まれたの?」
「分からない。発生したのか、どこかから現れたのか、それすら判別できなかった」
「私を、作ったの?」
「違う」
否定だけは迷わなかった。
「私は、お前を作っていない。ナオコ博士も、リツコ君も知らない」
レイは自分の両手を見る。傷一つない、人間の手だった。林檎を剥くことも、ケーキの生地を混ぜることも、四号機の操縦桿を握ることもできる。
「じゃあ、私は何から作られたの?」
ゲンドウは、すぐに答えず問い返した。
「人間は、何から作られれば人間になる」
「分からない」
「身体か。魂か。記憶か。それとも、誰かが人間だと認めた時か」
初号機のコアへ視線を戻す。シンジの身体はここにない。魂と呼ぶべきものが、どのような状態で存在しているのかも分からない。それでもゲンドウにとって、初号機の中にいるものは息子だった。
ならば、人間を人間たらしめるものは何なのか。
ゲンドウ自身にも、答えはない。
「司令は、私を見つけた時、怖かった?」
レイが尋ねる。
「ああ」
ゲンドウは嘘をつかなかった。
前の世界にもレイは存在した。だが、あの時はユイを取り戻すためにサルベージを繰り返し、その果てに生み出されたものだと信じていた。
今回は違う。
サルベージを繰り返す前に、レイは現れた。世界が変わっても同じ少女が存在したことで、ゲンドウは初めて、レイが自分の執着から生まれたものではないと知った。
ユイが、何らかの目的のために用意したもの。
その可能性へ思い至った時、戦慄した。
「怖かったから、リッちゃんたちに預けたの?」
「それだけではない」
ゲンドウは言葉を探した。自分の選択を正しいものとして説明することは簡単だった。しかし、それではレイの問いへ答えたことにならない。
「お前が何者であるかを、私が決めるべきではないと思った。だが、私のそばへ置くことから逃げただけかもしれん」
「司令にも、分からないのね」
「ああ」
短い答えが、広い解析区画へ落ちる。
「分からないものは、怖い?」
「怖いから、人は名前を与える」
「名前をつければ、分かるの?」
「理解したと思い込むことはできる。人間、使徒、魂、神。境界を引き、名を与えれば、そこから外れたものを見ずに済む」
「綾波レイも?」
ゲンドウは、レイを見る。
「その名で生きてきた時間は、お前のものだ」
「でも、私の身体は、私が作ったものじゃない」
「自分の身体を、自分で作った人間はいない」
レイはもう一度、自分の手を見る。
「何から生まれたかと、誰として生きるかは、同じ?」
問いはゲンドウへ向けられている。しかし、前の世界から記憶と罪を持ち込んだ自分自身へ問われているようにも聞こえた。
碇ゲンドウとして生まれ、同じ過ちを犯すはずだった男が、父親として生き直そうとしている。その選択まで、過去によって決められているわけではない。
「同じではない」
ゲンドウは答える。
「お前が何から生まれたとしても、これから誰として生きるかまでは決められていない」
レイは俯いた。安心したのか、さらに分からなくなったのか、自分でも判断できなかった。
それでも、解析室へ入ってきた時より、呼吸は少しだけ楽になっていた。
「ありがとう、司令」
レイは一礼し、出口へ向かう。
扉の前で一度だけ振り返った。
「碇君も、碇君として戻ってくる?」
ゲンドウは初号機のコアを見上げた。
「戻す」
確証のない約束だった。それでも、今はそう答えることしかできなかった。
――
レイの部屋には、生活の痕跡が増えていた。
机の上には学校の教科書が並び、棚にはナオコが買った料理の本と、リツコから譲られた古い科学雑誌が置かれている。冷蔵庫には使い切れなかった生クリームと、形の揃っていない卵が残っていた。
レイは机の引き出しを開ける。
奥から、折り目のついた一枚の紙を取り出した。学校で配られた進路希望調査票の写しである。
名前の欄には、綾波レイ。
将来の希望には、少し迷った跡を残す字で、ケーキ屋と書かれていた跡があった。
誰かに命じられて書いたものではない。
シンジたちと将来について話し、作ったものを誰かに食べてもらうことを想像し、自分で決めた。最初から上手だったわけではない。分量を間違え、焼き時間を誤り、それでも少しずつ形にできるようになった。
焦げていないケーキを焼けた時、嬉しかった。
ナオコとリツコが食べてくれた時、もっと嬉しかった。
その感情まで、地下の巨人との接続情報に書かれていたとは思えない。
レイは、消された字の上に書かれた「未定」の文字を指でなぞった。
何から作られたのかは分からない。人間と呼んでよいのかも、まだ分からない。
だが、分からないことと、何もないことは違う。
「私は、綾波レイ」
自分へ聞かせるように口にする。
与えられた名前だった。それでも、その名前で過ごした日々は自分のものだった。泣いたことも、笑ったことも、友達を助けたいと思ったことも、自分で選んだ。
レイは進路希望調査票を引き出しへ戻さなかった。
机の上、毎日見える場所へ置いた。
――
戦略自衛隊へ届いた命令書には、国連の正式な承認印が押されていた。
特務機関ネルフが使徒迎撃能力を喪失、あるいは国際社会に対する重大な脅威となった場合、速やかに本部施設を制圧する。職員を拘束し、エヴァンゲリオン各機を無力化する。
前回まで内部資料として流れていた計画が、準備命令という形を得ていた。
高官は執務机の上へ命令書を置き、添付された侵攻経路を眺める。
地上施設の占拠だけではない。ジオフロントへの侵入口、セントラルドグマへ至る経路、初号機ケージの封鎖手順まで記されている。使徒から民間人を守るための作戦ではない。ネルフの抵抗を排除し、地下へあるものを奪うための計画であった。
「誰が、ここまでの図面を渡した」
答える者はいない。
命令の発信元を辿っても、国連内部の複数部署を経由し、最後には人類補完委員会の承認へ行き着くだけだった。表面上、違法な箇所は何もない。それがかえって不自然である。
高官は、以前見たゲンドウの目を思い出した。
国連軍の基地で、一人の少年を救うために立っていた男。ネルフ司令としてではなく、息子を思う父親の目をしていた。
全てを信じているわけではない。ゲンドウが多くの秘密を抱えていることも分かっている。しかし、だからといって、目的を隠した者たちの命令に従い、何も知らない兵士を地下へ送り込むつもりはなかった。
高官は副官を呼ぶ。
「準備命令は受領する。ただし、部隊の展開は私の許可があるまで行うな」
「上から催促された場合は」
「トライデントの調整を理由にしろ。嘘ではない」
地下格納庫では、以前の物より改良を加えられたトライデントの最終試験が行われていた。露出していた装甲はほぼ取り付けられ、主動力、歩行制御、武装管制の各系統も独立試験を終えている。
まだエヴァンゲリオンへ対抗できる保証はない。それでも、実戦投入可能と呼べる段階は近づいていた。
「それと、この命令書の写しを一部だけ残せ。正規系統から切り離して保管しろ」
副官は理由を尋ねなかった。
その日の夜、高官の私用端末へ短い通信が入った。
場所と時刻だけが記され、発信元は存在しない番号になっている。
――
指定された場所は、旧市街の地下駐車場だった。
照明の半分が消え、使われなくなった車両区画には人の気配がない。高官が一人で歩いていくと、柱の影から黒い服を着た人物が現れた。
帽子を深く被り、顔の下半分も布で隠している。声には変調が掛けられ、年齢も性別も判別できなかった。
「随分と警戒しているな」
高官が言う。
「どこに目があるか分かりませんので」
人物は薄い記録媒体を差し出した。
「ネルフ本部制圧計画の、命令書には載っていない部分です」
高官は受け取らない。
「所属は」
「答えれば、情報の価値は上がりますか」
「少なくとも、罠かどうかは判断しやすくなる」
「罠だと思うなら、予定どおりネルフを撃てばいい」
人物は媒体を柱脇の配管へ置いた。
そこには、初号機とセントラルドグマ最深部が制圧作戦の主要目標であること、作戦実行部隊へ本来の目的が知らされないこと、使徒殲滅後には命令が即時発動される可能性が高いことが記録されていた。
「なぜ、私に渡す」
「あなたが信じたのは、ネルフという組織ではないはずです」
高官の目が細くなる。
「碇ゲンドウか」
人物は答えない。
「奴の部下か。以前、基地へ現れたライフガードの生き残りか。それとも、名簿にない保安部員か」
「どれでも構いません。必要なのは、誰が渡したかではなく、あなたがそれを見て何を選ぶかです」
足音が近づく。巡回車両が一つ上の階へ入ったらしい。
人物は柱の影へ下がった。
「使徒との戦争が終われば、次は人間が始めます」
「いつだ」
「もう始まっています」
それだけを残し、人物は暗闇へ消えた。
高官は一人になってから記録媒体を拾う。小さな板は、兵士たちの命より遥かに軽かった。
しかし、受け取った時点で、命令へ従うだけの立場には戻れなくなった。
――
同じ頃、ゼーレの会合では、一つの決定が下されていた。
暗闇に浮かぶモノリスの間へ、少年の姿が映されている。白い髪と赤い瞳を持ち、ネルフの制服とは異なる簡素な服を着ていた。
『第十六使徒は失われた』
『残された使徒は、契約に従い役目を果たさねばならない』
『初号機の少年は、既に器の中へ沈んでいる』
『ならば予定は変わった』
キールは沈黙したまま、少年を見る。
「僕を、ネルフへ送るんだね」
『そうだ』
「彼はいないのに?」
モノリスは答えない。
少年は、この世界へ来るたび、一人の少年と出会ってきた。
碇シンジを幸せにするために。そう願い、繰り返し、同じ場所へ辿り着いた。それでも結果は少しずつ形を変え、望んだ幸福だけが遠ざかっていった。
今回は、出会う前にシンジが消えた。
初号機の中に存在していることは感じられる。しかし、その心は深い場所へ沈み、呼びかけても届かない。
「分かったよ」
少年は穏やかに答えた。
何を期待されているのかも、この世界で何をすべきなのかも、もう重要ではなかった。
ゼーレからネルフへ送られた書類には、フィフスチルドレン、渚カヲルと記されている。修復工程をほぼ終えた三号機へ搭乗する予備候補という名目だった。
三号機は脊椎部を含む機体修復をほぼ完了していたが、再起動試験と搭乗者を含めた最終調整が残されている。正式搭乗者である鈴原トウジの登録も維持されたままであり、予備候補を急いで送り込む理由はない。存在しない空席を作り、少年を本部へ送り込むための名目に過ぎなかった。
――
夕暮れの無人駅に、一両だけの列車が到着した。
扉が開き、渚カヲルがホームへ降りる。手荷物は小さな鞄一つだけだった。
駅前には、ネルフが手配した黒い車が停まっている。迎えの職員はまだホームまで来ていない。
カヲルはすぐには歩き出さず、第3新東京市の方角を見た。
山々の向こうに、使徒との戦闘で傷ついた街がある。そのさらに地下には、初号機と、届かない場所へ沈んだシンジがいる。
以前なら、どれほど離れていても分かった。
孤独を抱えながら、それでも誰かに必要とされたいと願う心。その音を目印に、カヲルは何度でもシンジのもとへ向かった。
今は、聞こえない。
「やっぱり、君はここにいないんだね」
ホームを風が抜ける。
カヲルは目を閉じた。代わりに、ネルフ本部の奥から別の気配が届く。
懐かしい。自分と同じ場所から分かれ、それでいて、この世界に存在するはずのないほど小さな残響。
それは初号機の中ではなく、一人の人間の内側にあった。
カヲルは赤い瞳を開く。
迎えの職員がホームへ現れ、名前を確認する。カヲルはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「渚カヲルです。よろしく」
最後のチルドレンを乗せた車が、夕暮れの街へ走り出す。
カヲルは後部座席から、遠ざかる駅を見ていた。
シンジのいない世界で、初めて出会うべき相手を見つけたように。