会食が終わってから、それなりの場所に移動してえらい人たちはさらに親睦を深めるらしかったが(小野寺社長がいるので必然的にそうなるだろうとは思えた。)、そうでない高野たち面々は簡単な片付けを手伝ったあと解散となった。
今回の件では小野寺社長が前に出ることを了承する代わりに桜になにか条件を出したと言っていた。おそらくだが、井坂は小野寺社長が息子の桜と成り代わったままセレモニーを終えるとは思っていなかったのだろう。井坂が賭けのようなあやふやなことに乗るわけがない。
小野寺社長の真意はもちろんわからない。ただ、経営者として井坂の悪だくみに気が付いていないわけはなくて、井坂だって小野寺社長がそれを承知の上で引き受けたことも分かっていただろう。
まあ…、小野寺社長も人の親、初めてお願いされたと言っていたし社長としての立場を上回る想いがあったということだろう。
結果としては小野寺社長まで引っ張り出せて読者をたばかることもなく終えるとは、まったく恐れ入る。
▽
自宅に戻った高野は礼服を軽くブラシで払いながら今日のセレモニーのことを回想していた。
未成年の桜が主役だったから時間も昼からのスタートだったのだろう。会食が終わったのも、これからディナーを食べてもおかしくないという比較的早い時間だった。
一旦会社に戻ろうかと考えた高野だったが、結局そのまま自宅に帰ることにした。土曜でもあるし、時期的にも急ぎの仕事もない。あんな風に桜に来いと言った手前、自分が家にいないという状況はあまりよろしくないと思えた。
まあ、今までの律ならいざ知らずあのツンツンした態度の桜の律が高野に言われたからと言ってのこのこやって来るとは思えないところもあったのだけど…。
ハイレベルの食事を食わせてもらって軽く酒も飲んだから、もう夕飯はいらないだろうと思うものの、なんとなく口が寂しくてコンビニでつまみとスイーツを買って家に帰ってきていた。
甘いものを食べる時の律の嬉しそうな顔を思いだすと少しだけ苦い気持ちが湧いた。
今の桜の律はあんな顔をしてくれるのだろうか?
泣いて父親に頼むほど顔を出すことを拒否していたのに、なんで桜はエメラルドの漫画化を引き受けたりセレモニーの出席を了承したりしたのだろうか。
拒否したなら、あのままゆったりとした時間が続いていたのではないのだろうか?
しかしこんなことでもなければいつまでも律がいることの意味など考えることもなかったし、結果的にはひとつの転機となったのだろう。
グルグルととりとめのないタラレバを考えながら冷えたビールを煽ると、口の中のもやもやとした雑味をビールの苦味がさらって行ったけど、今度は舌に残る刺激はいつまでも消えなかった。
好き好き言っていた無邪気な律がまやかしだったとは思いたくない。でも結果として桜の律は自分が思っていた律とは違っていた。それにすっぽりと浸っていた自分がバカに思える。
律が変わったことにも気が付かなかった。それが子どもの成長だと本質を認めないままに過ごしたツケが今きたという事だ。
むなしい気持を巡らせながらラグの上に胡坐をかいて律が忘れて言ったバッグを開く。
背表紙は変わらず図鑑と雑誌のままだった。
図鑑は幼児向けだし、雑誌もずいぶん古いものだ。何かお気に入りの記事でも載っていたのだろうか?
アンバランスな組み合わせに不思議さが湧き、中身をパラパラとめくると浅葱の封筒がバサリっとこぼれ出てきた。
あ、っと慌てて拾い上げるとそこには「たかのさま」と稚拙ながら丁寧に描かれた文字が見え、慌てて開くと中には便箋が折りたたんで入っていた。
- きれいなずかんをありがとうございました。まんがも楽しかったです。まんがを読んだのははじめてでしたが、また続きが読みたいです。イギリスに帰ってもまた日本に来たら図書館に行きます。その時はまたお話をしてください。小野寺律 ―
はっとしてもう一方の図鑑の裏表紙をめくるとそこには確かにひらがなで『さがまさむね』と書いてあった。
これは自分の本だ。
お気に入りだったけど、大学の時にゼミで行われた低学年向けの読み聞かせのイベントで、来ていた子どもにやったのだ。いい子過ぎて痛々しくて見てらんなくて…、っでどうしたんだっけ?あのあと?
あまりあの頃のことは覚えていない。なぜなら、両親が離婚したあと自分の面倒を見てくれた香川のばあちゃんが突然亡くなり、その葬儀の場所で父親と信じていた人物と自分の血のつながりがないとわかったのだ。そしてそこで激しくもめてしばらくはなにも手につかなかった。
大学も行かず、行きずりの女と遊んでは酒びたりになって、ずるずると引きこもっていたのを引き上げてくれたのが親友の横澤だった。
もしあのままだったら、自分はその年の冬、路上で凍死するホームレスの一人になっていたかもしれない。
手にした図鑑を見る高野には困惑しかなかった。
小野寺律…、まさか…。下腹からみぞおち辺りを目指して内臓ごと押し上げるような不快感が競り上がり、焦りでじっとりと汗がにじむ。
織田律は自分の拾った猫だった。その時には小野寺律はイギリスにいたと言っていた。そしてどこかで織田律と小野寺律は入れ替わって俺のところに通っていた。
織田律は小野寺律と俺の過去のことを知っていたのだろうか?
小野寺律は俺が『たかの』だとわかっていたのだろうか?
だとしたら何の為に近づいた?
単に昔のことを持ち出して礼を言うつもりならとっくにしているだろう。隠していた理由は何なのだろう?
わからない…。
しばらくぼんやりとしていたようで、空調で冷えた身体がぶるりと震えてはっとした。
BGM代わりにつけていたテレビもオフタイマーで消えていて、音のない部屋は夜中か?と思うほど静かで、今何時だろうかと身体をよじって時計を見るけど、帰ってきてからまだ3時間しか経っていなかった。
ずっと一人だった。だから一人が怖いと感じたことなどなかったけど、世界に自分だけが取り残されたような今の感覚はひどく恐ろしかった。
律が泣いて出て行ってからずっと、骨の隙間をヤスリのついた風が通り抜けていくようにヒリヒリときしみつづけていて、今この瞬間、自分は寂しいのだと痛感した。
人の温かさが欲しい…。
触れることのできる何かが欲しい…。
その時、ガガっとドアの向こう側から何かこすれるような音がした。静かでなければ気がつかないほどの小さい音は聞き覚えのある音だった。
携帯の振動?
ひょっとして律が部屋にいる?
弾かれるように高野が通路に飛び出すと、外廊下の壁にもたれかかるように律が立っていた。
「は!?なんで!?」
「なんでって…、来いって言ったじゃないですか…。」
「いつ…、から?」
「さあ…。」
そのしれっとした態度に、ずっと待ってたのにと、腹が立って「なんで黙って立ってるんだよ!」と声を荒げるとビクっとして仏頂面をきゅっと固めた。
あ…、俺のことを怖がっている。
その表情に、高野は小野寺社長が桜の律が人の心に共感しやすいと言っていたことを思いだす。
天性なのか教育なのか、どんな場面でもそれなりにうまくこなす術を供えていたからこそ、大人相手でもその都度問題なくやれていたに違いない。だけどまだたったの15歳…。痛いことも嬉しいことも、経験なんてまだ全然足りてないはずだ。
「怒ってるわけじゃない。ずっと待ってたんだ、だから…。」
近づいて壁に両手をついて囲い込むと、律は怯えの顔をさらに強張らせた。
「戻ってきてくれて嬉しい。」
そう言うと、律は強張っていた顔をギュッと顰めてから高野の胸に押し付けてきて抱きついた。背に回した手でギュウギュウと身体を締め付けるから高野はその背をスルスルと撫で続けた。
さすがにこのままずっとここで子守してるわけにもいかないな、と思い始めた頃、高野の目の端にエレベーターの回数表示がポンポンと動いて来るのが見えた。
住人にこんな状況を見られても障りがあるだろう。
「家に入るぞ」と高野が律の身体をヒョイっと背負うと、突然抱え上げられた律はヒャっと一声あげて高さに怯えたのかまた身体をギュっとこわばらせる。
今まで高野のすることに律が本気で拒絶をすることなどなかったから、その肉付きが悪いピラピラの身体は易々と自由になったし、よしんば多少暴れても駄々っ子を扱うような気持で押さえ込めたから何かを意識することなど無かったのだけど、今日の服装が大人のようなスーツだったことと、暑い季節で鼻先に律の汗ばんだ香りがまとわりついて、少しだけ妙な感じがして鼓動が早まる。
このまま抑え込んだらどこまでこいつは許すんだろうか?
そんな邪な気持ちさえ湧くほどに…。
どさりとソファーに放るようにおろしてから「とりあえず風呂入ってこい。」と高野が言うと、瞳はものを言いたげに揺れたけど猫背のまま律は身体を起こした。
「腹減ってるならなんか用意するけど?」
「いえ、もう冬眠できるぐらい食べました。」
「あ、そ、じゃあフルーツ寒天とかモンブランとかいらない?」
「え!?そ、それは別腹というか…。」
「りょーかい。フルーツジュースも用意しとくから。」
できるだけそっけなさを醸す言い方を心掛けて高野がそう言うと、律はコクンと頷いてドアの向こうに消えて行った。
緊張から解かれて身体が10キロぐらい軽くなったような気がした。
この後何を聞けばいいんだろう?
高野はオレンジやキウイ(こっそり人参)をジューサーに放り込みながら一人作戦会議を開いていた。
メールのやり取りで桜に感じていたイメージは蓋を開けてみれば(今まではあえて見ようとしなかったが)律そのものだった。
慣れればべったりと懐いてくる気安さ。そのくせ人を立ち入らせない隙間をいつも持っている薄情さと、次に何をしてくるか分からないというエキセントリックな気まぐれさ。
聞きたいことは、いつからお前が律なんだってこと、桜はなんで俺の依頼を受けたのかということ、手紙のこと…。
なんだ、たったの三つだけか。
それが重いんだけどな…。
吐きたくもないのについため息が口から出ることを止める術が高野は無かった。
▽
風呂上がりの律の髪の毛をふわふわと温風で乾かし、「さっき見た時に気になってた。」とふやけた爪をパツパツと切っていく。
「別人だってどの口が言うかと思った。」と膝の上に腰かけて爪を切らせている律に言うと「爪ごときでばれるなんて思ってもいませんでしたから…。」とプイっと顔を横に向けた。
「何年お前の爪切ってると思ってんの?」
「二年です…。」
「ふうん、二年なんだ。その前は?」
「知りませんよ。俺はあっちの律とは会ったことも話をした事もないんですから。」
「じゃあなんでここに来たの?」
さすがに律は覚悟をしていたらしく、核心に迫る質問の筈なのにたいして時間もかけずに答えていく。
「律の心が…、」
「心?」
「俺は律に対して心を閉ざしていたんですけど、あっちからは一方的にビジョンが送られてきて…、あなたを一人にしないでって泣くから…。」
「俺を?」
「ご丁寧に父親が制服をもらってきていて…、」
「制服?」
「理由はわからないけど俺にって…。律は遠くに行くからって…。俺はまんまとあいつの策略に引っかかったんですよ。こんなになって…。」
急に言葉に詰まったようで律はそれきり口をへの字に結ぶけど、抓んだ爪の先をやすりでシュっと擦りながら高野は次の言葉を辛抱強く待った。
「悔しい…。」
「なにが?」
「メロメロにして俺なしじゃあいられなくしてやるつもりだったのに…。」
「メロメロって死語だろう…。」
高野がプッと噴き出すと律がキッと睨む。その瞳には怒りより羞恥が溢れていた。
「残念ながらすっかりメロメロだ。ホームレスになって凍死するとこだった。」
「夏ですけど…。」
「心が。ペットロスヤベー。」
律の髪の毛をワシワシと掻きまわして鼻を髪の毛に差し込むと、シャンプーの臭いと混じった律の香りがして、高野はやっと家出子猫が家に戻って来た実感に冷えた心が温まる気がした。
▽
「なんでお前丸川からの依頼を受けたんだ?いやなら最後まで断ればよかったのに。」
そもそもの話を切り出すと、律は目を丸くしたあとで眉間に皺を寄せて「信じられない!自分が言ったんじゃないですか!」と噛みつくように言う。
「自分?何それ?」
「降格とか、お給料が減るとか…。」
「はあ?」
「井坂さんにそういう事あるのかって聞いたら、当然だって…。了承してもらえないなら担当部署の評価は下がるとか言うし…。最後は丸川の作家なのにコントロールできないってなったら不適格で漫画は廃刊だって…。」
こんなちっさい奴に何言ってんだ?あの人…。『あーあ、かわいそうになぁ、エメラルド』と言っている井坂の顔が見えるようだった。
「っで、条件に何させられんの?」
「小説を書く約束しています。」
「え?それ条件なの?」
「と…、特殊な設定の…。」
「?」
「世界一初恋・エメラルドの場合というタイトルで。…いわゆるボーイズラブというものです。」
「はあ!?」
未成年にボーイズラブって…、あの人何やってんだ…。
高野は再び頭を抱えてホッとした気持ちがどんよりと鬱になっていくのが分かった。