喪主である祖父の挨拶にあわせて礼をしている律のところにゆるゆると差し掛かるけど、それはふり幅の少ない振り子のように機械的に身体を前後に揺らしているだけのように高野には見えた。
その証拠に、井坂が律の目の前に来ても瞳には何も映しはしない。
「大丈夫か?お前?」
人の流れを止めるのは不本意だけど、まるでモノを映していないガラス玉のような翡翠の目玉に声をかけると、胡乱な顔の律の睫毛にピクリと力が入り、虹彩が目の前の声に照準をあわせた。
お仕着せではなさそうな、身体によくあった豪奢な黒のスーツの袖口をツっと引くと、蝋石のような顔色に朱が戻る。覗き込まれてやっと焦点を合わせた律が高野を視界にとらえた。
「た、かの、さん…。」
とたんに瞳からは滝のように涙が溢れて、律は赤ん坊のように声を上げて泣き、自分で立っていることもできないほど脱力して身体を縮めた。
慌てて前から律の身体を支えると、隣にいた父親が「高野君、もしよければ律を連れて出てくれないかな?ちょっときつい…。」と抑揚のない声で言うので、この人もまた自分を支えるだけでいっぱいいっぱいで、律を気に掛けるのは無理なのだと高野は察して、律が胸に抱いていた遺影をバトンを渡すように父親に託し、代わりに律の身体を抱え上げてその場を後にした。
首にしがみついたまま少しも高野から離れようとはしない律は、泣きじゃくり、スタッフが誘導してくれた控え室のような小部屋に移ると、しばらくはしゃくりあげるように息を上げていたいたけど、やがてそれも止み静かになった。
大人びたり子どもっぽかったり、甘えたり天邪鬼だったり、コロコロと変わる律に今まで翻弄されてきたこともあったけど、今の律はまだまだ保護者の庇護の必要な子どもだと思える。
律がいくつもの異なる顔を見せると誤解していたけど、それが多感な時期特有の不安定さの現われだと、今なら分かる。律は人を動かせない。だから自分を偽るしか人と対峙する術を知らないのだ。
律を愛しいと気づいてから、ずっと子どもと付き合うということについて考えていた。
高野自身、年の差ゆえに、大人であるという矜持で自分を全部さらけ出せないところがあることは分かっていたのだけど、さりとて自分が本気で恋愛に没頭するというのは想像し難いところだ。
どうしたって理性のブレーキをかけなければならなくて、そんなことで行ったり来たりする自分が女々しくてうんざりすることもあった。
これからの律は心身ともに著しく成長する時で、やがて自分が置き去りにされるのではないか?律の足かせになるのではないか?という恐ろしい想いもあり、そしてそういう稚拙な思いを『大人』という大義名分に置き換えてあやふやにして諦めてきたという自覚もある。
いい大人が真っ裸の自分を子どもに見せるなどどんな羞恥かと気後れを手放せなかった。
泣きながら寝てしまった律の髪をさすりながら、やつれた目じりを見つめていると、しばらくしてからトントンっと控えめにドアがノックされて律の父が入ってきた。
「精進落としですが」と缶ビールが何本か入った袋を抱えて来ていた。
「このあと出棺などがありますが、できれば律をこのまま連れて行ってもらえませんか?」
「え?そんな…、」
突然の申し出に高野は少しだけ動揺し、言葉を詰まらせてしまう。
もう一人の律が『ねえ、いつまでここでこうしてるつもりなの?』と言った言葉が脳裏をよぎり、同時に『大人』の自分が祖母を送ったときのことを思い浮かべると、近しい身内が途中で抜けることなどありえず、それは存外難しいことだと分かる。
「律は祖父を看取りました。もう目を開けないと分かってからも、数日間祖父の心臓は機械が動かしました。父も私もそれを律一人に負わせたのです。」
それは律が曽祖父の最後を決めたと言うことなのだろうか?
なんと酷なことを…。
「良い悪いはともかくとして、実際に律は祖父と共にありました。だから律が曾祖父の死に納得できないと律自身が先に進めません。それは誰も教えられないし彼が自分で決着をつけるしかないのです。ここにいる祖父は抜け殻なのだと。でも律は最後にぽつりと『逝っちゃったね。』とつぶやきました。律は祖父に対してきちんと役割を果たしました。なので今この場所にいることは律にとって苦痛でしかありません。抜け殻を業火で焼くところを見るなど、もはや悪趣味でしかないでしょう?お弔いは生きている人のために行うものなんです。」
律とよく似た面差しの父親は、高野の膝にある律の顔に一筋かかる茶色い髪をスルっと梳いて力なく笑った。
「ずっと、少しでもいいから寝なさいと言っても眠れなかったようで…。」
父が言う通り、一旦寝付いた律は少しも動かず、隈のできた窪んだ目元が痛々しさを醸してはいたが、それでも律はクークーと気持ちよさそうに見えた。
「どれほど貴方を信頼しているのでしょう。あなたに来てもらえばよかったんですね。私も渦中の人間だったので分かっていたはずなのですがそこまで気が回りませんでした。」
父は少し複雑そうな顔をした。
後悔なのか安堵なのか、律の顔にかかる一房の髪の毛をいつまでも弄てあそんでいた。
「なぜ……、律を手放された?」
ふと、この
二人も息子を持ちながらその両方がない。
かつて律とその弟が生き別れにならざるを得なかった理由は聞いた。もちろんそのいい分もある程度は納得した。
でも、これから自分が律にとってどうあるべきか迷う最中、この父にとって息子という存在について、どういうものなのか聞いてみたいと思ったのだ。
「なぜ?ですか…?」
父はうーん、と困ったように少し唸りながらあの時、この時と思考を過去に飛ばしているようだった。
人にはそれなりの後悔があるはずだ。しかし目の前の男からはそれが微塵も感じられない。
「手放したというほどの覚悟はなかったんです。でも結果こんなことになりました。妻を守らなければと思って片方の律を、父の期待にこたえなければと思ってもう一人の律を、そんな感じです。一生懸命考えたつもりだったんですけど結局強い力に引っ張られてしまった結果、自分の手には何にもないっていう情けない今です。どうしたって身体の中で命を育む女性とは違って父親なんて子どもと一心同体になんてなれやしないんだから、自分は立派な巣を作って、旨い獲物を捕ってくればいいって、それできっとちゃんとした親子になれるって…、都市伝説みたいな物に縋る気持ちで生きてきちゃった感じです。まあ、甘えた気持ちで独善的にそう思っていたということです。」
そのやさしい指先からは決して律の事をないがしろにしてきたわけではないと知れたけど、かつて自分がそうだったように、いつだってきっとやり直しはできると思いながらもその時期を逃してしまったことはありありと分かる。入りそこなってリズムを計っているうちにすっかり転調してしまった輪唱は、乗り遅れに気づいたところでそれをなかったことにして一緒に歌うのは難しかったのだろう。
「土台のないところに積み木を積んでもすぐに崩れてしまうって分かってなかった。建物だけ立派ならいいじゃんって開き直ってた。だからね、高野さん。立派な基礎も作れなかった愚かな父は償いを今更ですけどしたいんです。今の律をなにがあろうとも肯定してあげたい。たとえ貴方たちの関係が一部の世界には祝福されないとしても。」
「それは…。」
唐突に告げられたそれに高野は動揺した。
律が自分を慕っている理由を問われても、作家と編集としか答えようがないと思っていたし、今のところ対外的には面倒を見ている大人と、懐ついている子どもにしか思われてないと疑いもしなかった。
しかしいやはや、男親の勘(じゃなくてデータかもしれないけど)は侮れない。高野の気持ちとしては戸惑い以外の何モノでもなかった。
「自分にできることはこれぐらいしかありません。大事にしてくださいね。泣かせるとか許さないですから。今度こそなりふり構わずに律の信頼を得に奔走しますから、絶対に。」
車が来たと係りの人が呼びに来て、律の父と高野の短くも深い会話は終わった。
以前より一層軽くなってしまった律の身体を抱えあげるけど、まるで童話の100年眠った姫のように目を開くことなく、律は高野の手の中で乳をたらふく飲んだあとの仔猫のように眠っていた。
▽
んっん…っと赤ん坊がむずがるような声が聞こえ、高野が寝室へ首を突っ込んでみると、まだ眠っている律はそれでも眠りから覚める間際なのか寝返りを打ちながら身体を芋虫のように丸めた。
大事な人への別離は本当に済んだのか、無理やり場から引きはがしてしまった身としては少し心配なところはあったけど、それでも律が自分の縄張りで苦しそうでないことが高野に取っては一つの良いことと思えた。
ベッドのへりに座って律の顔を覗いていると芋虫はもう一度グっと背中を丸めてから首をスッと反らす。
「律?」
頬に当たっている髪の毛をクリクリと指に絡めると、すでに目を覚ましかけていた律は瞼をぴくぴくと揺らした。
「た、かのさん?」
「目が覚めた?」
「あの…、オレ…。」
「大変だったな。」
頬をさすりながら唐突に律に夢ではなかったことを知らせると、律はコマ送りの動画のようにゆっくりとだけど明らかに激しい感情を伴う表情に顔を変えた。
「なんで!?」
勢いよく身体を半分寝床から起こしながら、律が冷えた瞳で放った「なんで!?」が、どういう意味なのか分からず高野は困惑して弾かれて宙に浮いた手が彷徨う。
「来て欲しいなんて言ってないのに!」
「来ない方が良かったのか?」
「かわいそうって思ってるんでしょ!?」
「思ってない、」
「嘘だ!」
髪をバサっと振って律が叫ぶ。ついぞ見ない律の怒りに似た態度は、哀れみを受けたくないという気持ちであり、高野と対等にはなれない律の苛立ちなのだろう。
でも対等ってなんだろう。同じことが同じようにできて、同じ環境で同じレベルの人間であることなのだろうか?だけどそれはひどく寂しい。なんで!?自分こそ律にそう問いたい。
弱みを見せたくないという律の感情は、年の差がある自分たちには仕方のない気持ちだろうとは分かる。年の差はどうしたって縮めることはできない。でも、そうは言っても年嵩が上の方がなにもかも達者かと言われてもそうではない。年上でもできないこともあるし、年上だからこそのプライドもある。若さに対する羨望も、過ぎた過去を教訓として伝えたいという欲もある。
だけどそれは対等ではないという証明にはならない。人と人とのつながりはそうではないと律に告げたい。
しかし、分かって欲しいけど当の本人がそれを聴こうと思わない限り言葉は届かない。
「いや…、すまない。かわいそうだと思った。」
自分で嘘だと言っておきながら律は高野の言葉にあきらかに強く反応して絶望したような顔をした。そう、違うと否定をして欲しくて放った言葉だと分かっていて、でも律に『自分の言葉』を聴いて欲しくて高野はわざと意地悪な言い方をしたのだ。
「だからと言ってお前を侮って憐れんでるわけじゃない。あんなに親戚がいるのに、お前にとっての唯一はじいさんで、その人が死んだのはひどく辛いって分かってる。無条件にお前を甘やかしたいし、辛い気持を慰めたい。」
高野俺自身、ある時期を支えてくれた祖母を見送った時はその喪失感にうろたえた。『人はいつか死ぬ』という誰でも知っているのに誰もが分かっていると言えないその事実は、蜘蛛の糸ほどに細くもろい絆しか持たない高野さえも苛んだのだから。
「俺がいるから。」
あまりにもベタなセリフだと思ったけど、人はこういう時に他の言葉を持たないのだと高野は実感せざるを得ない。要するに誰もが使うから定番は存在するということだ。
「編集のくせにバカ!」
律が犬歯をむくように力を入れて言葉を吐く。本物の犬猫ならガルルと低く唸っているだろう。
「編集関係ないだろ!」
「どうせやってることも嘘や絵空事ばっかり!」
おいおいなんのヒステリーだと呆れはしたけど、今の律はどうしたって平常心ではいられないだろう。吐くものがあるならとことん吐き出して浄化しないとな。
当初高野は明らかに律の態度を所詮子どもの癇癪だと侮っていた。
「その片棒を担いでいる先生様が何言ってんの?」
「むかつく!」
「語彙力落ちてんぞ。」
高野があまり本気にせず、適当に往なしていることが気に食わないのか、律の表情はどんどんと獰猛に変わっていた。
「当てにしてない!どうせ俺にとってはあんたもその絵空事の一つだ!」
不意に放たれた言葉は防御をしていたはずの中身にクリーンヒットをかました。真ん中に突き刺さった予期せぬ衝撃に高野の眉毛がギュッと寄る。
瞬間的に血液が全部引力に逆らって頭に到達したように顔が熱くなり、『当てにしてない』『絵空事』、という言葉のもつ意味を理解する前に高野の感情がそれを捉えた。
「お前!ふざけんなよ!」
「貴方なんて信用できない!いつだって自分は安全な場所で様子を見てる!」
薄い肉に食い込むほどにきつく律の肩を掴んで敷布に沈めるけど、怯えに揺れる瞳とは裏腹に口からは高野を傷つけるための言葉が続く。
「いつだって俺を手放せるとか、自分が身を引くとか綺麗な事ばっかり考えてるくせに!当事者になる気持ちなんて何にもないくせに!臆病者!」
あまりにも直球な律の言葉に肩を掴んでいる指先が冷えていく。余裕をもって見守っているつもりかもしれないけど、心の底の狡さはすべてお見通しだと今律に言われているのだと分かった。
「俺はもう欲しいものを欲しいって言えなくて我慢するなんて嫌だから!」
高野に抑え込まれていた肩の力が緩んだのが分かり、律はその身体を膝から蹴り上げて反転させて馬に乗るように高野の腹にまたがる。
細められた瞳が獣のように冷たく光って、少し長めの髪の毛がさらりと落ちて来たのは律の顔が高野の目の前に迫ってきていたからだった。
「どうせ誰もくれないから、自分で手に入れる。」
何かを言おうと開きかけた唇に、粘るような熱い律の唇が割り入るようにぶつかって、髪の毛がひどく乱暴に掴まれた高野は、身じろぎをすることもできず今自分が律の物語に無理やり引きずり込まれたことを悟った。