どんなに気持ちが落ちても朝は来てまた夜も来る。たった一人のために世界は変わらないし時間も止まらない。
今までだって律が何日も家に来ないなんて珍しくなかったけどあんなふうに泣かれたのは初めてだった。
律はいつだって本気か嘘か分からない態度だった。母親も妄想癖がひどいと言っていたから本気っぽい物言いをしてもそれは違うのだと思うことにしていた。
しかし、そう思っていたのは自分だけだったのだろうか。いつだって本音で接してくれていたとしたら子どもなのは自分の方だったってことだろうか。本当とうその境目はどこにあったんだろうか?
律がもう二度とここには来ないかもしれないと思った瞬間から、高野は律のいない毎日が悪夢のように感じた。
寝苦しい。
夢なら冷めてくれと祈るのに、この夢はいつになっても覚めることはなかった。
仕事からは飛ぶように帰って来るけど、そこに律が居ないことに落胆する。
飲みに誘われてもう忘れよう、吹っ切ろうとして出かけても、ひょっとしたら今日は律が来るかもしれないという気持ちが湧いて腰を据えて遊ぶ気持ちにはなれなかった。
時間があれば高校生の行きそうな場所を彷徨っては律に似た後ろ姿の子に声を掛けたり、織田という名字の家を探して尋ねたり、律の着ていた制服と同じ学校を必死で探したりと、自分の事を顧みる余裕がなくなり高野の生活は荒れた。
「高野!お前最近何やってんだ。」
挙動不審の高野を捕まえては飯を食わせたり身の回りの世話をしたのは大学時代からの悪友の横澤だった。しかし当の高野は虚ろでいつまでたっても浮上しようとしない。
見るからに疲弊しているのを見かねたのか「壁になってやる。言ってみろ。」
とある日の食事で高野に言った。
「飼ってた猫が…。」
「猫?」
「居なくなったんだ…。すごく懐いていて、擦り寄ってきてうまそうに飯を食う。可愛かった。癒されていた。髪の毛をワシワシとさすってホッとしたいのにどこをどう探しても居ない。元々いなかったんじゃないかって思うぐらいどこにも居ない。」
本当は泣きたいのかもしれない。
なのに気持ちを吐露しながらもまだ泣けない大人の自分を恨んだ。
横澤は宣言通り壁になって、解決策も提示しないし慰める言葉も言わず、ただただ目の前に温かい飯を供えるように置いて高野がポツリポツリとつぶやくように吐く言葉を聞いていた。
それからも横澤は高野に飯を食わせて高野が吐く言葉を聞き続けた。
そして、何日も何日も経ってからやっと高野が顔をあげて「旨い」と言ったその時に初めて「お前が生き物を飼ってたなんて知らなかった。」と相槌を打ったのだった。
「忘れたいのに忘れられない。どうしていいか分からない。」
居なくなったと聞いた時点で犬猫ならもう戻ってこないのだろうと横澤は思っていた。交通事故か、誰かに連れ去られたか。
「残念だけどもう戻ってくるのを待つしかないんだろ?いっそ別の猫を飼うのはどうだ?」
「無理だ…。でも一人の部屋に帰りたくない。」
「なら人間の恋人を作れ。」
「恋人?」
「人間はどっかにいなくなったりしない。」
寂しさを紛らわせるためにはペットじゃなくて恋人を作ればいいんだろうか?そうすればこの寂しくなくなるんだろうか。
でも律は言葉が通じたのに居なくなった。自分が壁を作っていたばかりに。壁は言葉じゃなくて気持ちだった。
高野は返事をしないままに横澤が淹れてくれたお茶をその香りとともに啜った。
▽
桜の受賞パーティーは夏の暑い日だった。
エメラルドでの漫画化は一ノ瀬先生が連載形式を取って、吉川先生が増刊で読みきりを描くことになった。
視点の違う二つの話は原作が同じでもおそらく別物になるだろう。
それぞれの先生は、『私』と『彼』に見事なキャラ設定をして、遠隔でのやり取りながらも桜はそれにOKを出したのだそうだ。
早速今月から一ノ瀬先生のその漫画が巻頭カラーで大々的に始まり、まだ発売されたばかりだというのにかなり評判もいい。
一ノ瀬先生は多忙にも関わらず時間のやりくりをして、じっくりと原作を読み込んでくれたおかげで小説のファンも漫画のファンも反目しあうような内容ではないだろう。原作物の漫画化なのだから多少のバッシングはあると覚悟していたのだけど今のところなんの問題も発生していなかった。
高野は、以前桜に聞いた『彼』が双子の兄弟であることは誰にも告げなかった。
なぜならそのことを告げられた瞬間、高野の中で小説は独特の温度を持ってしまってフィクションではなくなった。
それの設定を漫画の中に生かそうとすると逆にひどくチープになってしまうだろう。
だから桜はぼんやりとさせたまま話を作ったのだ。
作者の意図がわかれば自分の質問が如何にばかげたことだったかが分かる。桜とメールやり取りをするようになって、距離が近く感じられた甘えでネタばれをねだった自分のおろかさに羞恥が湧く。
結局自分はあの大好きだった世界観を自らの手で破壊したのだと知った。
エメラルドの読者にはそんな思いをして欲しくない。小説を読んでいるいないにかかわらず、一つの素晴らしい読み物として、二人の先生にそれぞれの話を書いて欲しかった。
だからそれぞれの先生にふさわしい場を用意したのだ。
今日桜に会ったらあんな質問をしたことを謝ろう。浅はかな自分を蔑んでいるだろうけど、それでもきちんと自分の気持ちを伝えよう。
高野はそんな想いでパーティーに向かったのだった。
▽
会場は伝統あるホテルで、到着するとすでにパーティーの関係者でざわめいていた。
暑い時期にも関わらずみな一様に男性はスーツを、女性も正式な装いをしていた。
エメラルドの面々はコミカライズの立役者であることで、全員パーティーに参加をすることになっている。きちんとした受賞のお祝いパーティーではあったけど、人は極力間引いたというから部屋の広さもそこそこの会場だった。
あまり広く顔出ししたくないという桜の態度は相変わらずのようで、外部の取材は一切お断りの体を取っているらしくカメラなどが押し寄せて大騒ぎになるようなことはなさそうだ。
桜にはいろいろとお世話になっているので、エメラルドのメンバーとともに事前にご挨拶をしたいと井坂に申し出るも、入りは直前とのことで、面談希望は終わった後と言われていた。
「本人は今でも受賞パーティー嫌だと言っているけどそこは政治で何とかした」
「政治ですか…、」
晴れやかに笑う井坂の笑顔に、裏から手を回されると誰も逃げられないだろうと外国の猫とネズミのアニメで壁際に追い詰められたネズミに猫が舌なめずりをして覆いかぶさるシーンを思い出した。
コミカライズの話の時にはあんなにしょげた感じだったくせにこっちではかなり強引な事をしたと見える。
まあ、あのアニメの場合は、いつだってネズミが一枚も二枚も上手なんだけどな…、こっちはなかなかそうはいかないだろう。
式の時間が近づき、直前の準備にも駆り出されていたエメラルドのメンバーともども、高野も簡単な設営の手伝いをしようと試みるも、結局プロが手際よく配置して行くから気持ちはともかく身体としては邪魔にならないようにするのが精一杯だった。
会場ひな壇はまだ灯りが落とされている。
対談は井坂と軽食の形式を取ることになっているそうだから、用意された一段高い台は彩の良い花で飾られていて、イギリスのティータイムをイメージさせる楕円のテーブルが据え付けられていた。
スタッフが位置を調整したりテーブルの上の物を動かしたりするたびに白いレースのカットワークのクロスが揺れた。
菓子や小花のアレンジメントは女性が喜びそうにかわいらしく、対談後の正式な食事会とは別に招待客も対談中に軽食をつまむのだと聞いていた。
ケーキバイキングのように会場の両サイドにはよい香りをたてるケーキ類が並び始めて、もう二度と会えないかもしれない飼い猫が甘いものが好きだったことを思いだしていた。
結局あれから一月以上過ぎた今も律は見つからなかった。居たことが実は自分の妄想だったのではないだろうかとさえ思い始めている。