母の実家は資産家ではないものの、伝統のある古い家で、母はそこの直系の娘だったから血筋を認められて小野寺家に嫁入りしたのだそうだ。小野寺も古い家だったけど、たどれば皇族にもつながるという母の家の血筋は秀逸らしく、親同士が戯れとは言え決めた政略結婚に二人は否とは言わなかった
そして、結婚してすぐに子どもに恵まれたものの、おなかの子は双子だった。
一族の繁栄を何より望んでいる曽祖父は縁起が悪いとそのことに眉を潜めた。ただ、主に母に辛く当たっていたのは周りの曾祖父に気に入られたいとゴマをすっているおとりまき(親類)だったそうだけど、ただでさえ産前産後の精神的に不安定な時期に加えて、慣れない婚家でのバッシングに母はノイローゼのようになってしまい、生まれたばかりの子どもの一人をどこかに捨てに行ったという。
忙しさにかまけて妻の異変にも気づいていなかった父が慌てて探しまわったところ、母は自分の実姉の家に赤子を捨てたのだとわかった。
母の実家では娘がひどい仕打ちを受けていたことを知り離婚をするように申し出たそうだけど、とうの夫婦は決して不仲ではなかったために(むしろ本当に恋仲だった)、家同士が相談した結果、弟は結婚していながらも子どもの望めなかった姉夫婦に引き取られた。
そして小野寺の本家から少し離れた方が良かろうという判断もあって、イギリスの会社の取締役として移動になった父とともに、母と俺は異国に旅立った。
それから弟とは一度も会ってない。
そんないきさつがあったためか、母は小野寺の跡継ぎとして恥ずかしくない振る舞いをしなさい、自分の欲望など我慢しなさいと事あるごとに俺に対して分別ある態度を強いながらも、人からの好意に無邪気な子供のような喜びなさいと、子どもであることも求めた。
自分はどこにいるのだろう?この自分はいったい誰なのだろうと微笑んで見せる仮面の裏側でいつも困惑に揺れていた。
そのことはあまり覚えていないのだけど…、小さい頃、俺が心の中にいる友達のりっちゃんと遊んでいることをナニーに気味悪がられて、外聞を気にする母に強くとがめられたそうだ。
それからの俺はりっちゃんの事を口にすることをしなかった。それは人を不快にさせることだと分かったから
それでも、自分の中に常にりっちゃんがいることだけは分かっていた。もちろん会話をするような存在ではなくて、でも落ち込むと頑張れと励ましてくれているような気がしたり、嬉しいことは一緒に喜んでくれているように感じていた。
やがて良家の子女の通う寄宿舎に入れられて、両親ともそれほど頻繁に会うことはなくなった。父も母も常に仕事やお付き合いで忙しくあちらから自分に会いに来る事などなかったしこちらからも何かを求めることはしなかった。
言えばその通りにしてくれるだろう。でも欲しいのはそんなものではなくて、言わなくても分かってくれるという気持ちだったから、無いものねだりをするほど、子どもでは無かった。
イギリスの学校は休みが多くて、長期の休みは日本の曾祖父の元に一人帰され、日本人としての作法を叩きこまれる時間に費やされた。
跡取りの俺のところには親族がご機嫌を取りに来ながら、あることないこと他の親族の陰口を言っていく。そこで自分には双子の弟がいることを知って、小さい頃から心のどこかでつながっている人物がそいつだろうと察しがついた。
聞く限り弟は明るくて元気で自由だった。家に篭って本ばかり読んでいる自分より、よほど社交的で友達も多いそうだ。
なぜあっちの子を残さなかったんだろうね。
曾祖父の元に集う大人は無神経によくそんなことを(陰で)言っていた。それでも、自分は選ばれてこの家にいる。やれと言われたことはどんなことだって誰よりも上手にこなしているし、学校の成績だっていつも一番だ。みんな利害関係でつながっているやつらだとしても友人だって山ほどいる。何も間違えていない。
かわいそうなもう一人の律。選ばれなかった律。いつもそう思っていた。
ある年のイースターの長い休みは日本の小学校の休みと重っていて、相手をするのにも飽きたのか近くの大学の図書館で行われていた読み聞かせの会というのに参加をさせられた。
春休みの学童保育に通うような低学年の小学生が対象らしく、ストーリーテリングなどもあったので、大学の学生が何らかの義務か意義を持ってやっていたのだろうと今なら分かる。
当時の俺はと言えば、おもり役のシッターがついて来てはいたけどおしゃべりに夢中で俺の事はほぼ放置だった。
イベント的な時間が終わったあとは小さな輪になって学生がグレード別に子どもたちを分けて読み聞かせを行っていた。
だけど俺はその輪には入らずに机に向かって図書館で見つけた綺麗な絵の入った図鑑を眺めていた。
少しして隣に誰かがドカリと無遠慮に座る振動がしてハッと見るとそこにいたのは黒い髪の毛の男の人だった。
「お前日本語分かんねーの?」
突然声を掛けられて戸惑っていると「高野君、その子英語しか話さないのよ、」と、読み聞かせの会の人らしき女性が苦笑しながらそう言った。
「でも、日本語の本読んでるみてーだけど?」
「図鑑なんて絵があれば文字なんて読めなくてもいいんじゃないのかしら?」
「あ、いえ…、申し訳ありません。日本語は分かります。」
おずおずと返事をすると二人はびっくりしたように目を丸くして「敬語かよ!」と黒髪の人がくしゃりと顔をゆがめて笑った。
「ずっとあっちの人とも英語で話してたし、読み聞かせの輪にも混じらなかったから言葉が分からないのかと思って、ゴメンね。」
女性はそう言って、「じゃああとは高野君お願いね。」と手を振りながら去って行く。
「あの、お願いされなくても結構です。」
「一応イベントだからな。本読んでやるよ。」
「自分で読めるので大丈夫です。」
「それか?」
「はい。」
黒髪の男性は首を伸ばして図鑑を見つめると「嘘つけ漢字とかメチャ難しいのあるし。」と眉間に皺を寄せた。
嘘と言われると不本意で「じゃあ僕があなたに読んで差し上げます。」と言って、ページの一番上から文を読み上げると黒髪の男性は本気で驚いたようにまた目を丸くする。
「変な奴、そんなに賢くなってどうすんの?」
「え?」
「行儀よく座って本読んでさ、もっと遊んだり騒いだりしたくねーの?」
言われている意味が分からなくて返事に窮していると、黒髪の男性はちょっとだけ真顔になってから失言と思ったのか口を手で覆って、フっと笑って「続き読んで。」と椅子に深く座り直したのだった。
イベントが終わる時間になって、「明日も来んの?お前。」と聞かれてイベントが三日間あることを思い出し「そういうイベントなので当然参加させていただきます。」と答えた。
決められたことをわがままで変更したりすれば周りの人のスケジュールまで狂わせることを知っている。子どもの自分がこのイベントに文句も言わずに参加していれば困らない人たちが多いのだろう。
「ふーんお前変で面白いな。」と黒髪の男性が言った。
「じゃあまた続き読んで。」
「わかりました。」
「図鑑好きなの?」
「別に…。」
「やっぱお前変だわ。」
そう言ってクシュクシュと髪の毛をかき混ぜられて、そんな風に他人に触れられるのは初めてだったから硬直するほど驚いた。
賢いとか子供らしくないと言われることは多かったけど変と言われたことはなかったので意味が分からなくなって考えてしまう。
帰ってから「変なヤツってどういう意味でしょうか?」と周りの人に聞くけど、みんな困ったような顔をしてちゃんと答えてくれる人はいなかった。
翌日も翌々日も黒髪の人はあまり輪に入りたがらない俺の近くで、本を読んだりしていた。
図鑑をいくつか読み終えると、「お前そういうの好きなの?」と聞かれて、「別に…。」とまた答えると「チビの時にさ、気に入ってた本お前にやろうと思って持って来たんだけどいらねーなら持って帰るわ。」と意地悪く笑った。
え!と驚いて目を見張ると「へえ、そんな顔もできんだ。」ともっと意地悪く笑ってから
「ほらよ、これ。」と図鑑を一冊とその時に読んでいた漫画雑誌を寄こした。
「ジャプン。おもしれーぞ。お前漫画なんて読んだことねーだろ?」
「はい…。」
パラパラとめくると中には文字ではなく絵がはいったもので、「日本のガキならドラえもんとか知ってるだろけどお前そういうの縁なさそうだしな。親に叱られるかな?」と黒い髪の毛のその人はちょっと困った顔をした。
「え?叱られますか?」
「漫画ばっか読んでとかいわれるんじゃね?」
「どうしよう…。」
「別に漫画は置いてけばいいんじゃね?」
「でも読みたいです。」
フーンと彼がちょっと考えたように言ってから、「じゃさ、これに入れてけよ。」と自分のバックを空にして寄こす。
「でもあなたが…、」
「高野だ。」
「高野さんが…。」
「俺はレジ袋があるからいい、また今度来た時に持ってきてくれればいいよ。」
「今度?」
「イベント終わるけどお前また来ればいいじゃん。一般に開放しているし。」
「明日、明日も来ますか?」
「来ると思うけど。」
「じゃあ持ってきます。」
「ああ、まあ明日じゃなくても別の日でもいいから。」
「わかりました。」
小さな約束に胸が躍ってお礼に短い手紙を書いて、翌日を楽しみにした。
でも…、その人は来なかった。
次の日もその次の日も、一日中図書館で待っていたけど来なくて、読み聞かせ会で見かけたことのある人に聞いたら、最近集まりには来ていないと言った。
そして…、それ以来、その人はその図書館に来ることはなかった。
ああ、そうか。
所詮大人なんてどうせ子どもとの約束なんてなんとも思ってないんだ。
こんなの慣れている。だから大丈夫…。
がっかりしてない。
寂しくない。
大丈夫、大丈夫。
そしてその年のイースターの休みは終わった。
春のイースターの休みには、小野寺の家で親類を呼んで曽祖父主催の俺の誕生日のパーティが開かれるのが通例だった。
12歳の誕生日の年、相変わらず曾祖父のおとりまきたちが自分を持ち上げるという楽しくもないパーティーが行われていた。
いつも誕生日のパーティーに両親は顔を出さない。息子のためにわざわざ海を越えてやってくるようなことをしない。
特に母はこの家の意地悪な親族にあまり近づきたくないと思っていて、父もあえて母をそういう集まりに連れて来ようとはしない。そして、律がいればおじいさまもおばあさまもご機嫌だからと、その年の誕生日のパーティにもやはり両親は来なかった。
誕生日がめでたいという意味がわからなかった。生まれたくて生まれてきたわけでもないのに、生んだ当事者(両親)がめでたいと思っているならいざ知らず、誕生日なんて覚えているのかさえ怪しい。
こんな集まり、回りの人が飲み食いしたいだけだろう。でも周りの人が祝いたいのなら無邪気な子どもを装ってその気持ちに乗ってやればいい。
そう思っていた。
なのに祝い酒で酔っ払った親戚の一人が「お父さんもお母さんも薄情だね。可愛そうに。あっちの子のところには毎年二人で行って祝ってるっていうじゃないか。」と言った。
自分の中にいるりっちゃんの感情は今でもゆらゆらと見ることができている。りっちゃんは友達と喧嘩をして泣いたり、嬉しくて飛びあがったり、いつだって自由でおおらかだ。
そしていつも誕生日の日にはほんわりと胸が温かくなって、りっちゃんと自分は、同じ日が誕生日なんだって少しだけ嬉しかった。今もずっと胸がわくわくするような温かい気持ちが沸いている。おめでとうっていう気持ちがあふれている。
そうか、父さんも母さんもりっちゃんのお祝いに行っているんだ。自分ではなくてりっちゃんの…。
その時に何かがストンとはまったような気がした。
ずっと自分が選ばれたと思ってた。
この場所に残っている自分は必要だと思われてここにいるのだと思っていた。
でも違うんだ…、
捨てられたのは自分だったんだ。
元気が良くて誰にでも好かれているりっちゃんが選ばれて、弱くてなんにもできない自分は捨てられていたんだ。
この狭くて苦しい艦の中に取り残された自分は両親からも捨てられたんだ。
その日からひどい熱が出て、夢にうなされる日が続いた。夢の中にりっちゃんが出て来て、無邪気に笑っている顔にひどい事を言った。
捨て子のくせにとか、なんでも持っているくせにとか。大っ嫌いだとか…。
そして、それから次に自分がダンボールの中で静かに誰かが拾ってくれるのを待っている夢を見た。
寒くて冷たい雨の中で、自分のことなんてだれも見ようともしない。誰も自分を必要としていない。
たったひとりでもいい。自分でいいって言ってくれる人がいたらそれでいいのに…。
そんな中で自分を見つけて傘を差し出してくれたのは黒い髪の毛の人だった。
寂しい目をした人だった。
冷たい…、雨よりもっと冷たい瞳だった。
でも、りっちゃんは紅茶色の瞳を見て人目でその人の事を好きになったようだった。
でも俺は違った。
だってすぐにわかった。
この人はあの人だ。
俺を捨てた、あの人…。
自分だったら絶対に懐いたりしない。
この人に同じように捨てられた気持ちを分からせてやる。
そして、りっちゃんに心を閉ざした。