Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女 作:ていえむ
慟哭が木霊する。
それは一瞬のようにも、永遠のようにも思える時間であった。
一人の少女の死に、無力な少年は涙を禁じ得なかった。
胸の内から湧き出てくる悲しみを抑えきれなかった。
そして、全てを出し尽くした少年の瞳から、遂に光が消えてしまう。
虚空を見上げたまま、膝を着いて動かなくなってしまう。
胸の鼓動は脈打っていても、熱い血潮が流れていても、それを宿す体がピクリとも動かない。
少年の戦意が、遂に折れた瞬間であった。
「無駄な事だ。まったく無駄な事だ」
動かなくなった少年を見下ろし、ゲーティアは感情の籠らない声音を発した。
「我々は不滅だ。時間神殿ソロモンある限り、我ら七十二柱の魔神が死滅する事はない。貴様らのこの一時の生存も、英霊どもの抗戦も、全て無意味だ――――貴様達の無力が、彼女を殺した。貴様らに肩入れなどしなければ、彼女はああはならなかった」
その瞬間、沸騰したかのように頭の中が真っ白になった。
本当に強い感情は言葉では言い表せないのだろう。怒りや憎しみよりも遥かに強い感情がカドックを突き動かし、ゲーティアに向けて氷結魔術を放っていた。
激情に駆られていたせいで制御を誤ったのか、魔術回路が悲鳴を上げる。
体内に逆流した魔力が血管を侵し、内部から凍結してどす黒い内出血を起こした。
それでもカドックは無理やり魔力を捻り出し、ゲーティアに渾身の魔術を叩き込む。
しかし、放たれた冷気はゲーティアの頬を掠めるに留まり、皮膚一枚すら凍らせることができない。僅かに霜を付けた程度だ。
「ゲーティア……」
痛覚すら消し飛んだ腕をだらりと垂らしながら、カドックはゲーティアを睨みつけた。
我が身が傷つくことすら厭わずに放った攻撃は、魔神に掠り傷すら負わせていない。
自分ではこの魔神に敵わないという事実を改めて突き付けられ、悔しさで胸が張り裂けそうだった。
「この一撃は敢えて受けた。貴様達にはその権利がある。マシュ・キリエライトの弔いだ……貴様にとっても、私にとっても……」
好き勝手言ってくれる。
そこまで執着しておきながら、その手で彼女を殺した奴の言う事か。
他人の事でこんなにも怒りを抱いたのは初めてだ。
第六特異点や第七特異点で、友人や仲間を失った時の悲しみとは違う。
目の前の仇への感情を抑える事ができない。
憎しみがこんなにもどす黒い感情だなんて、思いもしなかった。
だが、それ以上に自分自身の弱さに腹が立った。
立香は今、泣いている。
パートナーを失い、心の支えを失い、大切な人を亡くして心が折れている。
立ち上がるには時間が必要だ。
起き上がるには時間が必要だ。
なのに、自分ではその僅かな時間すら持ち堪えることができない。
彼が涙し、彼女の死を悼む時間すら与えてやれない。
そんな自分が堪らなく憎かった。
「起きろ、アナスタシア」
「……っ……ええ、聞こえているわ、カドック」
肺の底から息を絞り出すように、アナスタシアは応えた。
彼女もまた、自分と同じく強い怒りを抱いていた。
親友を殺された。
目の前で、自分達を庇ってこの世から消えた。
あまつさえ、ゲーティアはその死を侮辱した。
マシュに執着しておきながら、その死は無意味なものであると冒涜した。
それを許せない。
それを許さない。
立香の無念も、マシュの未練も、痛みとなって胸を苛む。
お前だけは許しておけないと、カドックは握った手の平に爪を食い込ませる。
この右手にはまだ令呪が残されている。
まだ未使用の三画だ。この三画、余さず使ってあいつを倒す。
この命に代えて、あいつの生存だけは絶対に許してはおけない。
そう思った刹那、思いもしない人物の声が玉座の間に響き渡った。
「いやいやいや、そこはちょっと落ち着こうよ、カドック君。肝心なところで破れかぶれを起こすのはキミの悪癖だ。ここはもう少し、力を溜めておいてくれ」
人類の未来を賭けた決戦の場には、あまりに不釣り合いな能天気な声。
ふんわりとした雰囲気を纏った白衣の青年。
それはカドックのよく知る人物であり、ここには絶対にいるはずのない人物であった。
「ドクター?」
カルデアの司令官代理、ロマニ・アーキマンがそこにいた。
□
それはロマニがゲーティアの玉座へと姿を現す少し前の事。
英霊達の加勢により、一時は持ち直したカルデアではあったが、敵が無尽蔵に湧いて出てくることはどうにもできず、苛烈な攻撃に晒され続けていた。
英霊達との戦いにも適応したのか、特に数分前からの魔神柱達の攻撃はこれまでの比ではなく、何重にも構築された理論障壁が秒単位で削られていく光景は恐怖以外の何物でもない。
管制室では悲鳴にも似た報告が相次ぎ、ロマニとダ・ヴィンチはその処理に追われていた。
「論理防壁、最終壁消滅! カルデア内部に魔神柱が侵入してきます!」
「全隔壁閉鎖だ! とっくにしている? あっそう! じゃあ通路にエーテル塊を注入する! これで少しは保つ筈だ!」
それでも魔神柱の出力なら管制室に到達するまで五分とかからないだろう。だが、それだけあればスタッフの何割かはダ・ヴィンチの工房へと避難できる。
あそこにはこんな時のために経費をちょろまかして溜め込んだリソースがあるし、魔術的な堅牢さはカルデア内でも折り紙付きだ。
それでも数分から数十分しか保たないだろうが、ここに残り続けていては全員がお陀仏になってしまう。
ダ・ヴィンチはそう判断し指示を出したのだが、職員の一人が反論した。
それはできない、時間神殿で戦う少年達を見捨てることはできないと。
「ダ・ヴィンチ女史、管制室の放棄はコフィンの停止に繋がります!」
「マシュの――マシュ・キリエライトが最後まで彼らの盾となったのです! 彼らの帰還を、私達のレイシフトを諦める事はできません!」
「ここまで来たんだ、最後まであいつらとは一蓮托生だ!」
同僚の言葉に発破をかけられたのか、ムニエルもコフィン内のデータに異常がないか、目を走らせながら叫ぶ。
他の者達も同じだ。ここにいる全てのスタッフが――カルデアの生き残り達は、誰もがこの戦いから逃げ出すことを放棄した。
五分後には魔神柱が大群で押し寄せてくる。それでも最後の一人になるまでこの管制室は守り抜くと、全員が決意を固めていた。
「――ああ、それは確かに。となると、後は私が何とかするしかないな」
嘆息したダ・ヴィンチの口元には笑みが零れていた。
彼らが奮起するのも無理はない。
時間神殿との通信は先刻から途絶えているが、不鮮明ながら映像だけは拾うことができた。
そこで彼らは見てしまったのだ。
世界を焼く業火を一身で受け止め、仲間を護って散ったマシュの姿を。
彼女が命を賭けたのなら、自分達が賭けない訳にはいかない。
トコトンまで悪あがきをしてやろうと、ここにいる全員の士気は昂っていた。
その様子を見届けたロマニは、静かに自らの椅子から立ち上がった。
「未来の価値か。マシュ、キミがそう言うのなら、ボクも覚悟を決めないとね」
「――なんだ、やっぱりそうなるのかい?」
友人の決意に気が付いたのか、ダ・ヴィンチは作業の手を休めずにいつもの調子で話しかける。
こうなることは分かっていたという顔だ。
例えどのような形であろうと、ロマニ・アーキマンは最終的にこの結論に至る。そう確信している顔だった。
「ああ、状況的にも今が最適だ。ゲーティアの限界は今ので見えた」
彼は小心者で自分に自信が持てない。
故に昔から、勝てる戦いにのみ出陣する男だった。
もっとも、今は昔のように戦うことはできない。自分のような男があの場所に立てば、秒を待たずに吹き飛ぶことになるだろう。
ただ一つの偉業を除いてではあるが。
「そういう訳で、管制室の防御はキミの仕事だ、レオナルド。彼らが戻るまで絶対厳守だ。できるだろ、天才なんだから」
まるでちょっとばかし小休止を取るかのような気軽さで、ロマニは手を振った。
それがどれほど勇気がいる決断なのかを知るダ・ヴィンチは、震えを堪えて軽口を叩くロマニの意思を尊重し、彼に合わせていつもと同じ調子で返す。
お互いに、それが今生の別れになることを承知の上で。
「……もちろん。では行ってきたまえ。お土産は期待しないでおくよ」
微笑み、互いの手を叩いてすれ違う。
すると、最初からそこには誰もいなかったかのように、ロマニの姿は掻き消えていた。
如何なる手段を用いたのか、彼は若きマスター達が戦う時間神殿へと転移したのである。
自らの不始末に決着をつけるために。
この世界から奪われた未来を取り戻すために。
ロマニ・アーキマンだった者は決戦の地へと向かったのである。
残されたモナ・リザに回顧の時はない。
予断の許さぬ状況は、そんな暇など与えてはくれない。
だから、無事を祈る事しかできなかった。
せめて、彼らだけでも無事に帰ってきて欲しいと。
□
何故、そこに彼がいるのか。
どうやってここまでやって来たのか。
カルデアは現在、どうなっているのか。
頭の中で疑問は絶えず、浮かんでは消えていく。
ロマニ・アーキマンの経歴には謎が多いとホームズは言っていたが、この状況に至っての登場は脳の許容量を逸脱し過ぎていてうまく思考が働いてくれない。
納得のできる答えを証明できない。
故に、問いかけることしかできなかった。
「ドクター、何故ここに……」
「……貴様、その霊基は……まさか……」
こちらの問いに被さる様に、ゲーティアが驚愕の声を上げる。
信じられないものを見るかのように、体を強張らせている。
その疑問は最もだ。
ロマニ・アーキマンは人間で、カルデアのスタッフのはずだった。
なのに、目の前にいる彼はサーヴァントの気配を身に纏っている。
それも依代を用いた疑似サーヴァントやデミ・サーヴァントとは違う。
正真正銘、エーテルによって構成された肉体を持つ正規のサーヴァントの気配だ。
「ああ、もう聖杯に向けた願いは捨て去った。ここからは元の私としての言動だ」
こちらの疑問に答えるように、ロマニは手袋を外して左手を掲げて見せた。
その中指には、ゲーティアがソロモン王の姿の際に身に付けていた九つの指輪と同じ意匠のものが嵌められていた。
「それは――失われた私の、いやソロモン王の十個目の指輪――」
先ほど、ロマニは何と言っていた? 聖杯への願いを捨て去った?
それに失われたソロモン王の十個目の指輪。
不明瞭な前歴と、カルデア来訪の時期。
全てのピースが一つに嵌められていく。
「たった十一年前の話だ。カルデア所長、マリスビリー・アニムスフィアは聖杯戦争に参加する際、ソロモン王の失われた指輪を発掘し召喚の触媒として用いた。そうして呼び出されたのがソロモン。カルデアの召喚英霊第一号。マリスビリーと共に聖杯を手に入れ、願いを叶えた英霊だ。そう――ソロモンは全能を捨て人間へと堕ちることを願ったのだ」
「貴様――貴様――馬鹿な、有り得ん! 節穴かフラウロス! いや、いいや、何もかもが違う、何もかもが! 貴様があの男の筈がない! しかも――願いを叶えただと!? あの男に願いなどあるものか! 外道! 冷酷! 残忍! 無情! この私のアーキタイプとなった男が、人並の願いなど!」
その事実を認められないのか、ゲーティアは声を荒げて狼狽える。
彼にとってソロモン王は非情にして無情の王。
目の前の悲劇を静かに受け止め、見過ごすことしかしなかった人でなしだ。
ロマニも言っていた。ソロモン王は我欲を持たない無であると。
なのにそのソロモン王は、万能の聖杯に願いを託した。それも人間になりたいという、あまりにも愚かでありふれた願いを。
「……お前にそこまで言われるのは流石に傷つくなぁ。ボクのこと嫌いすぎだろ、お前? まあ、そのことは今はどうでもいい。問題なのはこの後だ。ソロモンは全知全能と言っていい千里眼の持ち主だったが、人間になった瞬間、その全ての能力を失った。それだけなら良かったんだけど――」
ソロモン王は視てしまったのだ。
自らの千里眼で、人類の終焉を。
慌てた時には既に遅く、ソロモン王は人間となって能力を失っていた。
誰が、どうやって、何の目的で、どうすればこれを防げるのか。肝心なことは何も分からず、ただいつ訪れるかも分からない終わりだけを突き付けられた。
そして、その事件は自分に関わる事らしい。そう捉えたソロモン王は、人間としてその終わりに備えるための戦いを始めた。
「ボクにとって初めての旅だった。文字通り一から、人間として学び直す行程だ」
誰が敵かも分からず、何がきっかけとなるかも分からない。
誰の助けを借りる事もできない孤独な戦いを、ソロモン王は続けてきた。
そして、2015年にそれは訪れたのだ。
人理焼却。
七十二の魔神による未来の簒奪が起きたのである。
「多くの偶然に助けられた。カドック君、藤丸君、マシュ――キミ達のおかげで、ボクはこの瞬間に立ち会えた。その事には心から感謝を送ろう」
ロマニの体が光に包まれていく。
粒子の一粒が消える毎にロマニ・アーキマンだったものがこの世界から消えていく。
残るものは何もない。彼の痕跡は全て消え去り、まったくの別人がそこに降り立った。
浅黒い肌に白い髪。左手の中指だけに嵌められた指輪。
柔和な笑みだけが辛うじて、彼の名残を感じさせる以外は、変質前のゲーティアに瓜二つだ。
その姿こそ、ロマニ・アーキマンを名乗っていた者の真実の姿。
神に捧げられし王。
偉大なる魔術の祖にして千里眼を持つ者。
即ち――。
「――ゲーティア。魔術王の名はいらない、と言ったな。では、改めて名乗らせてもらおうか。我が名はソロモン。ゲーティア、お前に引導を渡す者だ」
――魔術王ソロモン。
人理焼却における遠因ともいえる男。
自らの細やかな願いの先に終末を捉え、その阻止の為に自由なき自由を選んだ者。
一年にも及ぶ聖杯探索を、常に先頭に立って引っ張ってきたカルデアの司令官代理がソロモンだったのだ。
ホームズの危惧もあながち、間違いではなかった。
彼はマリスビリーのサーヴァントとして聖杯戦争を勝ち抜き、その伝手でカルデアを訪れたのだ。
恐らくはいつかの未来で起こる筈の人理焼却に備えるために。
過去・現在・未来を映し出すカルデアスと観測レンズシバならば、その一助になると踏んで。
「……命とは終わるもの。生命とは苦しみを積み上げる巡礼だ。だがそれは、決して死と断絶の物語ではない。ゲーティア、我が積年の慚愧、我が亡骸から生まれた獣よ。今こそ、ボクのこの手で、お前の悪を裁く時だ」
殺気と呼ぶのはあまりに穏やかな闘志を漲らせながら、ロマニ――ソロモンは告げる。
溢れ出る魔力は、ゲーティアに勝るとも劣らない。何の力も持たなかった人間であった頃には、欠片も感じさせなかった凄まじい圧力だ。
ただそこにいるだけで、全ての存在を釘付けにさせる。冠位の名に相応しい、古の賢者としてのカリスマがあった。
これがあのロマニ・アーキマンなのかとカドックは言葉を失う。
声音も、纏う気配も、浮かべた笑みも確かに彼と同じ。しかし、そこにいるのは紛うことなき太古の英雄だ。
魔術の祖として召喚式を生み出した魔術王その人だ。
「――――、ハ。あまりの事に愕然としたが、なるほど確かに貴様らしい! 何もかもが手遅れになった今! 人類最高の愚者、無能の王が今さらお出ましとはな! 恥の上塗りに来るとは正しくソロモン! 英霊としての貴様なぞ
かつての主にして分け身ともいえる存在と再会したからなのか、ゲーティアの口調は今までになく荒々しい。
ソロモンへの堪え切れない憎悪が感じられた。
数多の英霊達を見下すゲーティアは、彼らを敵としては見なしていなかった。
ただ自らの偉業に歯向かう邪魔者、取り除くべき石ころ程度の認識だった。
だが、彼だけは違う。
ソロモンだけは違うのだ。
共に同じものを視ておきながら、何も感じなかった人でなし。
生命の終わりをあっさりと受け入れ、星の数の絶望を認め目を逸らした無能な王。
それがゲーティアのソロモンに対する評価であり、この世界で唯一、仇敵として憎悪を向けるべき存在なのだ。
「私を止められるものは生前の貴様のみ! ソロモン王の偉業のみが私を止める! 死後の貴様などに何の権限があろう! その甘い頭ごと無に帰すがいい!」
向けられた両手から、極太の魔力攻撃が放射される。
第三宝具に比べれば欠伸が出るほど弱々しい攻撃ではあるが、それでも自分のように未熟な魔術師ながら数百回焼き尽くしてもまだお釣りがくる熱量だ。
まともに受ければ対魔力を持つサーヴァントととて無事では済まない。
だが、ソロモンはゲーティアの怒りを涼しい顔で受け流す。
掲げた手の先に不可視の壁のようなものを生み出し、黒い炎はソロモンを避けるように分かれて彼の周囲を焼くに留まった。
しかし、それだけだ。
ソロモンはゲーティアと戦えるかもしれないが、倒すことはできない。
彼が英霊である限り、サーヴァントである限り、ゲーティアのネガ・サモンによってあらゆる攻撃は無に帰してしまう。
第三宝具の準備が整うまでの僅かな生存でしかないのだ。
「ドクター!」
「……ああ、キミの危惧する通りだ。だから、後は任せるよ。なに、用件はすぐに終わる。その後はキミ達にバトンタッチだ」
踏み出した一歩は、決意と覚悟で彩られていた。
ゲーティアの苛烈な攻撃、凄まじい魔力の放射は絶え間なくソロモンの身を焼いていく。
彼を守る防壁は瞬く間に砕け散り、鳳仙花のように爆ぜた魔力の弾丸が雨のように降り注ぐ。
それでもソロモンは臆することなく前へと進む。
全ての物語に終わりをもたらすために。
かつての自分に決着をつけるために。
「笑わせるなソロモン、貴様に何ができる!? 何もできまい! 貴様は所詮、口先だけの男だ! 無能な王は、甘い夢を騙っていればいい! その茹った頭ごと、貴様自身の宝具で葬ってやろう!」
「ああ、初めからそのつもりだ。ボクは自らの宝具で消滅する。それが――ソロモン王の結末だからね。ゲーティア、お前に最後の魔術を教えよう。ソロモン王にはもう一つ宝具があると知ってはいたものの、その真名を知り得なかった───いや、知る事のできなかったお前に」
――誕生の時きたれり、其は全てを修めるもの――
――戴冠の時きたれり、其は全てを始めるもの――
――そして───訣別の時きたれり、其は世界を手放すもの――
その身をゲーティアの炎で焼かれながらも、ソロモンの詠唱は玉座の間に響き渡った。
伝承に曰く、ソロモン王は万能の指輪を持ちながら、それを使ったことは一度しかなく、また終にはその指輪を自らの意思で天に還した。
ここからは全能の神に運命を委ねるのではなく、人が人の意思で生きる時代だと告げるように。
「お前の持つ九つの指輪。そして私の持つ最後の指輪。今、ここに全ての指輪が揃った。ならあの時の再現が出来る。ソロモン王の本当の第一宝具。私の唯一の、“人間の”英雄らしい逸話の再現が」
その言葉を聞き、ゲーティアの手が止まる。
その言葉の意味するものに思い至り、ゲーティアは驚愕する。
それだけは有り得ない。
それだけは起こりうるはずがない。
そんな事が、お前なぞに出来る訳がないと、うわ言のように繰り返す。
その全ての問いに、ソロモンは否と答えた。
「言っただろ……私はお前の悪を裁くと……」
「止めろ、臆病者! この指輪は、全能の座は、お前だけのものでは――」
制止するゲーティアを無視して、ソロモンは最後の詠唱を開始する。
自らの宝具。秘められたその力を解放する。
ソロモンとして生きた数十年と、ロマニ・アーキマンとして生きた11年に結末を起こすために。
「第三宝具『
それは決別の詩。
ソロモン王の死後、加速度的に神秘は失われ神代は終了した。
そのきっかけとなった、ソロモン王自身の迷いと決意が形となったもの。
神より授かった十の叡智を、その生涯を通じて人には不要であると断じるに至った、ソロモン王の逸話の具現。
ソロモン王の英雄としての宝具ではなく、人間としての宝具。
「第一宝具、再演───『
光が世界を覆う。
はた目には何も起きていないように見えるが、変化は確実に起きていた。
この世界に対してではない、より高次の世界に対する働きかけだ。
数多の次元、平行世界、英霊の座、果ては因果律に至るまで遡り、とある事実を書き加える禁断の宝具。
それこそが『
この世界の全てから――――を消失させる宣言。
それは違う事無く発動し、ゲーティアは苦悶の声を上げながらかつての主を睨みつけた。
「おお……オォ、オオオオオオオ…………! 何故そんな選択が! 何故そんな真似が! 何故、何故――貴様に、こんな決断が下せるのだ! この世全ての倦怠と妥協が凝固したような貴様に!」
ソロモンは既にそこにはいなかった。
第一宝具を使用したからなのか、彼は自分がよく知るロマニ・アーキマンの姿へと戻っている。
ただし、その身は時と共に透けていっている。サーヴァントが座に退去する時とはまた違う、この世界に存在するための力それ自体が彼の体から失われつつあった。
ロマニ・アーキマンという存在そのものがこの世から消えていっているのだ。
「ああ、不思議な話だ。同じ視点を持ち、同じ玉座に座り、同じ時間を過ごした。なのにソロモンとお前は正反対の結論に達した。もし違うところがあるとしたら、そうだな。単純に、ボクには怒る自由がなかったんだよ。それが我々を分けた要因だったかもだ」
「なっ――――」
「ああ、思えばこの決断もまた、自分で自由に決めたことだったのかもしれないな。王という機構でいるならば、叡智はあった方がいい。けれどボクは、それは人の身には余ると天に還した。最後にボクは王で在り続ける事を放棄したんだ――例えその後に残るものが何もなかったとしても。王でしかなかったボクがそれを捨てれば、死する運命にあることも承知でボクは決断を下した」
「そんな単純なものか! 貴様は今、英霊である事を放棄した! それは命の放棄ではない、己が存在、全ての放棄だ!」
ソロモン王という存在そのものを放棄する。
この世界の裏側に至るまで、全ての因果からソロモン王を消失させる。
その神話的再現が『
その成立を以て、全ての偉業は意味のないものとなった。
ソロモン王が造り上げた全てのもの――七十二の魔神――その結合体であるゲーティアですら意味を喪失する。
「ぬうう、時間神殿が――崩れる……結合が……我ら七十二柱の魔神が……個別の魔神へと解けていく……ソロモン、ソロモン! 貴様はそれで良いのか! もう二度とお前は現れない! この地上から全ての功績が拭い去られる! 貴様の全てが奪われるのだぞ! 私の光帯など優しいものだ! 貴様は今、「無」に至った! 英霊の座からすら消滅するのだぞ!」
それは人類では誰も到達していない終わり――存在の完全消滅。
生命は生きている限り、何かをやり残す。
例え全ての事業、命題をこなしたとしても何らかの余剰が残り、それは後に続く誰かが受け継ぐこととなる。
そうして人類史の轍は作られ、未来へと繋がっていく。
だが、ソロモン王の第一宝具をそれを起こさない。
自らの役割は終わった。
存在意義は既になく、役目は完結した。
この生涯で為すべきことは全てを成し、遺るものはあれど残すものはない。
誰に何を託すこともできず、孤独な闇の底へとヒッソリと消えていくにも等しい。
彼の先には何もなく、彼の後に続く者もいない。
魔術王ソロモン。その完全消滅を以て、本当の意味で神代は終わるのだ。
「ドクター・ロマン……あなたは……死が怖くはないの?」
そう問いかけるアナスタシアに向けて、ロマニは振り返りながら答えた。
「そうだね、皇女様の言う通り怖いし悲しい。でも、ボクにできる事だったし、なら辛くともやらないとね。この選択は、キミ達四人がボクに教えてくれたものだ」
数多くの苦難を乗り越えて、自分達はここまで辿り着いた。
成すべきことをなし、できることの全てをやり切った。
その上でまだ足りないというのなら、自分自身の全てを投げ出そう。
人理の礎として、その生涯と死後に至るまでの全てを投げ出そう。
ソロモン王――ロマニ・アーキマンはそう結論付けた。
人は人の力で前に進むべきだと、自由なき自由な人生で答えを得たのだ。
「これで全ての前提は崩れ去った。ゲーティア、お前の不死身性は過去の話だ。人々を見守る為に編纂されながら、人々の未来を奪う選択をした魔術式よ。お前は自らの責務から目を背けた。その罪を、今ここで払う時だ」
「責務――責務……!この私に、全能者である
胸のすく冒険も、暖かい幸せも、血生臭い戦争とその果ての平和も、無残に崩れ去る平穏と戦火の嵐も、全ては最後に消え去ってしまう。
どれほどの価値あるものが産み落とされようと、最後には死という恐怖しか訪れない。
そんな悲劇はうんざりだとゲーティアは言う。
結局は最後には消えてしまうのなら、それは憎悪と絶望の物語に他ならない。
そんなもの、見ていて楽しい筈がない。
それがゲーティアの辿り着いた答え。
この世界に幸福は有り得ないという、全ての生命を憐れむ悲しい答えだ。
だが、それは間違いだとロマニは答える。ソロモン王であった男は告げる。
「確かにあらゆるものは永遠ではなく、最後には苦しみが待っている。だがそれは、断じて絶望なのではない。限られた生をもって死と断絶に立ち向かうもの。終わりを知りながら、別れと出会いを繰り返すもの……輝かしい、星の瞬きのような刹那の旅路。これを、愛と希望の物語と云う」
その言葉はゲーティアには届かない。
彼らは既に袂を分かつた。
彼らは既に異なる道を歩んだ。
生と死が彼らを断絶させた。
だから、ロマニの言葉はゲーティアの胸を抉ることはない。
だが、きっかけとなった。
結合が解ける。
ゲーティアであったものから、一つずつ権能が剥がされていく。
七十二の魔神へと、個別のものへと崩れていく。
『敵、サーヴァントの攻撃、降り止まず。我ら九柱、これ以上の撃退に意義を見い出せない――何かが違う。我々と彼らでは、何かが。統括局ゲーティアに報告。グシオン以下八柱は活動を停止する。この疑問が晴らせない。バルバドス、パイモン、ブエルは既に活動停止。シトリー、ベレト、レラジェは復元不可能域に到達。エリゴス、カイムは私と共に、最期まで英霊との議論を続ける。我らはゲーティアであることを放棄する』
『怒りが止まぬ、怒りが止まぬ。我ら九柱、もはや極点に至る栄誉を選ばず。道理を弁えぬ英霊どもを一騎でも多く殲滅する。七十二柱の魔神の御名において、人に与する者に死を! サブナック、シャックス、ヴィネ、ビフロンス、ウヴァル、ハーゲンティ、フルカス、バラム。既に八柱、復元すら叶わず。我がクロケルの魔力となって後を託し消滅した。何としても奴らを殺す! 統括局よ、我らの偉業に我の如し感情は不要なり!』
『歓びあれ! 歓びあれ! おお流星の如き敵影よ! 殺せど尽きぬ不屈の魂よ! 求められるとはこういう事か! 拒まれるとはこういう事か! 我々にはこの感情が足りなかった! この未熟さ、この愚かさ、この残忍性が足りなかった! アガレス、ウァサゴ、ガミジン、自己矛盾により崩壊。マルバス、マレファル、アモン、三柱融合による徹底抗戦。アロケル、オロバス――英霊達の盾となり、消滅。我らの裡にこれほどの熱があろうとは! 統括局に報告、ガープより警告。完全証明を待つまでもない。調整ミス0.9999999パーセントは許容範囲だ。光帯を回せ、時間跳躍を開始せよ。我らの無限の研鑽に解答を――』
玉座の間に七十二の魔神達の声が響き渡る。
未だ時間神殿の各地で英霊達と戦うもの、戦いを放棄するもの、英霊に味方したもの、復元すら叶わず消え去ったもの。
あらゆる魔神が叫んでいた。
七十二の個が叫んでいた。
統制の取れていたゲーティアが崩れていく。
群体としての結合が解けていく。
「おおおぉぉおおお――――」
「これでネガ・サモンは失われた。カドック君、私のことは気にせず、後は成したいように成すがいい。私は――ボクはその意思を尊重する。藤丸君……キミがもう一度、立ち上がれることをボクは信じている。さあ、あの魔神王を名乗る獣をここで終わらせるんだ」
その言葉を最後に、ロマニ・アーキマンは全ての世界線から消失した。
まるで最初から、そこには誰もいなかったかのように、名残すら残さず彼はこの世から消え去った。
□
時間神殿の崩壊が始まったのだろう。
地鳴りが響き、激しい揺れが足下から襲い掛かってくる。
時間がない。
崩壊に巻き込まれれば、虚数の海に堕ちて二度と、這い上がれなくなる。
この神殿が持ち堪えている間に、ゲーティアを倒してカルデアに戻らなければならない。
だが、勝てるのか。
ロマニの覚悟でネガ・サモンは失われ、魔神達の結合も解けて弱体化しているとはいえ、未だにゲーティアは健在だ。
屈強な肉体も、尽きぬ魔力も健在だ。
何より奴には第三宝具がある。
奴がまだゲーティアでいる以上、あの宝具もまた健在だ。
あれを回されれば勝ち目はない。
万に一つも自分達に勝ち目はない。
「……っ!?」
ふとその姿を目にして、カドックは涙する。
それは助けを求めるように振り返り、偶然にも垣間見た光景だった。
ああ、それは何と雄々しく気高い姿だろう。
ボロボロになって、完膚なきまでに心を折られて、それでもあいつは立ち上がろうとしている。
両手に力を込めて、足を震わせながら、傷ついた体を無理やり起こそうとしている。
その目には大粒の涙を零し、顔をぐしゃぐしゃに汚しながら、それでも少年は地面を這って少女が残した盾を目指して進んでいる。
(そうか……なら、僕のやるべきことは……)
覚悟は決まった。
マシュも、ロマニも、それぞれの答えを胸にその命を投げ出した。その生涯を、証明を世界に刻み付けた。
なら、今度はこちらの番だ。
カドック・ゼムルプスの全身全霊。その生涯の全てをあの魔神に叩きつける。
それを以て、この聖杯探索は終着だ。
カドック・ゼムルプスのグランドオーダーは終幕だ。
「オ、オ――オオオオオオオオオ! 私が
「……ゲーティア」
「……貴様は……そうだ、貴様さえいなければ……貴様さえいなければカルデアがここまで辿り着くことはなかった。あの男が、斯様な決断を下すことはなかった。貴様さえ、貴様さえいなければ――こんなはずではなかった。我が計画は完璧だった。我が偉業は成就した。こんなはずではなかったのだ。フラウロスの節穴め、何故、この男を捨て置いた。何故、もっと早くに殺しておかなかった――――」
自分が自分でなくなっていく苦しみに悶えながらも、ゲーティアはこちらに向けて憎悪を叩きつけてくる。
その痛ましい姿には恐怖すら覚えたが、今のカドックには哀れみの方が勝っていた。
自分のような未熟な魔術師を捨て置いたから、計画が破綻した。思い違いも甚だしい。
きっと、生き残ったのが自分一人だけではここまで辿り着けなかっただろう。
汚れ切ったこの魂では、きっとどこかで挫折していたはずだ。
そう、今までがそうだった。
いつだって口先だけで、こんなはずではなかったと現状を呪うばかり。
他者と比較し卑屈になってばかりだった自分では、きっとここまで辿り着けなかった。
そのことに気づけないなんて、この獣も大したことはない。
全能を気取りながら、肝心な部分が見えていない。
「お前の目は、どこまでも節穴だな、
「なんだと?」
「予告しておいてやる……お前は、人間の手で倒される」
人類悪は人類が倒すべき悪だ。
その役割はいつだって、その時代を生きる最先端の人間でなければならない。
ならば、その役割は自分ではない。
人でなしの魔術師である自分にはその資格はない。
そもカドック・ゼムルプスでは魔神王には敵わない。
自分は英雄ではなく、英雄に寄り添う者なのだ。
「貴様自身ではないと……まさか、まさかまさか……そこにいる無力な男が――女を殺されて咽び泣く哀れな男が、私を滅ぼすと言うのか?」
「その通りだ、藤丸立香は――あいつは、僕よりも
きっと、彼ならば自分がいなくとも人理修復を成し遂げたはずだ。
あの優しさが、あの弱さが、彼を強くする。
今はまだ地に伏していても、少しずつ、歩くような早さで彼は立ち上がる。
その時間が足らないというのなら、この身を盾としよう。
彼が立ち上がるまでの時間を、この身の全てを賭けて守り抜こう。
「……笑止。ああ、だがおかげで冷静さを取り戻せたぞ、魔術師。結合は解け、我々はゲーティアではいられなくなる。だが、我らの偉業にはまだ何の支障もない。貴様を殺し、その少年を殺し、英霊どもを退去させる! 最後の一柱になるまで、我が第一宝具を回せば良い! 命に限りなど必要ない! この苦悶を以て私はその正しさを痛感した!」
再び、光帯が輝きを増していく。
マシュを焼き殺し、今また全てを焼き払わんとする創世の光が降り注ごうとしている。
第三宝具『
あれを防げるものはこの地球上には存在しない。
唯一、対抗できる者ももうこの世には存在しない。
それでも、カドックは迫りくる絶望を睨みつけた。
恐怖も不安もあった。けれど、怒りはなかった。
あれほど煮え滾っていたゲーティアへの憎悪は消えていた。
マシュの死、そしてロマニの消失がこの決断への勇気をくれた。
二人が残してくれたものを、今度は自分が引き継ぐ番だ。
この瞬間を以て、カドック・ゼムルプスの生涯に遂に意味が生じるのだ。
それは、たった数十秒の、しかし何よりも充実した生の時間であった。
「アナスタシア」
「はい」
「約束だったね……最後まで、一緒にいよう」
まだ言う事を聞いてくれた右手を動かし、彼女の手を力強く握りしめる。
アナスタシアという最高のパートナーの存在を、自分の中に刻み付ける。
彼女でなければダメだった。
彼女が一緒でなければ、最初に躓いていた。
ここまで自分を引っ張ってくれたのが立香なら、共に歩んでくれたのは彼女だ。
こんな未熟なマスターの全てを受け入れ、彼女はここまで押し上げてくれた。
その全てに感謝を。
そして、二人の旅路に終幕を。
「いいね?」
「ええ」
「……令呪を以て願い奉る。皇女よ、全ての力を解き放ち宝具を解放せよ!」
一画目の令呪が消える。
赤い雫が繋いだ手を伝わり、アナスタシアの中へと溶けていく。
「重ねて命ずる。キャスター、その身を省みず我が友を守れ!」
二画目の令呪が消える。
繋いだ手を中心に力が広がっていく。
二人の魔力が混ざり合い、巨大な嵐となって空間を満たしていくと同時に、急速に繋がりが薄れていくことが寂しかった。
残る令呪は後一画。その残された一画がとても名残惜しい。
けれど、躊躇はなかった。
覚悟は決まっていた。
命も絆も、何もかもを上乗せしてゲーティアの第三宝具を迎え撃つ。
この後に続く、彼の進むべき道を作るために。
「……続けて、最後の令呪を以て願う。アナスタシア――――僕と一緒に、世界を救って欲しい」
「……はい、誓いましょう。我が眼はあなたと共に――最期まで」
最後の一画が消える。
立て続けに使用された令呪の魔力が渦を巻き、その衝撃で視力補正の礼装がひび割れて砕け散ってしまうが、カドックは構わず魔術回路を全開にしてアナスタシアに魔力を送り込んだ。
この最後の一撃に全てを乗せるため、己の魂すら削り取ってパートナーに受け渡す。
今までに感じた事のない虚脱感と、全てを思いのままにできるほどの全能感に酔いそうになった。
何て虚しくて、何て誇らしい高揚感だろう。
これが生の実感、生きる事への苦痛。
共に聖杯探索に臨んだあいつが抱き続けた願い。
それの何と尊いことか。
何と素晴らしいことか。
本当に、生きることは辛くて――とても楽しい。
この実感が、ここで終わってしまうのが名残惜しい、愛おしい。
「失せるがいい、カドック・ゼムルプス! 胸に抱いた希望と共に――」
「ヴィイ、全てを見なさい……全てを射抜きなさい――」
光が迸る。
世界そのものを焼き尽くす極大の炎。
最早、マシュの護りはなく、あれを受ければ分子すら残らずこの世界から消え去ることになるだろう。
ヴィイが生み出す吹雪など、お話にならない灼熱の業火。天地創造の炎。
しかし、臆することなく迎え撃つ。
敵わずとも、勝てずとも、自分に残された役目を全うする。
今も背後で脈動する希望を送り出すために、彼らから受け取った勇気を燃やし尽くす。
「第三宝具――『
「――我が墓標に、その大いなる力を手向けなさい。『
影より這い出た異聞の精霊。
実体なき影であるヴィイの瞼が押し上げられ、その向こうから青白い魔眼が露になる。
その瞳は全ての虚飾を見抜き、因果律すら捻じ曲げて弱所を創出する。
アナスタシアと契約した、ロマノフ王朝に伝わる精霊ヴィイの魔眼解放、『
令呪三画と、カドックとアナスタシアの全力を注がれたその一撃は、今までのそれを遥かに上回る強力な呪いを纏う視線であった。
だが、それでも足らない。
彼らの全力では魔神王に敵わない。
数秒後には視線も吹雪も飲み込まれ、跡形もなく焼き尽くされてしまうだろう。
それでもヴィイは魔眼の力を解放した。
その内側にある系譜、自らの出自を遡り、根源からの力を汲み上げる。
存在そのものすら揺るがすほどの魔力をその眼から迸らせる。
やがて、変化が訪れた。
魔力を汲み上げ、膨張していったヴィイの体がある境を経て、瞼からめくれ上がったのだ。
裏返り、反転した黒い体は更なる膨張を続け、アナスタシアですら見たことがない異形の姿をさらけ出す。
その巨体は山のように大きく、頭部は山羊や馬、牛といった獣を彷彿とさせる張り出した顔と大きな角を持っていた。
そして、鉄でできた瞼には滑車が取り付けられており、それが不気味な音を立てながら独りでに回り、鉄の瞼を押し上げている。
押し上げられた瞼の向こうから露となったのは、刺すような悪しき瞳。
その姿はまるで、死そのものとされるバロールへの先祖返りのようであった。
残念ながらカドックにはその光景を見る術はない。
光を失った彼の瞳はそこで繰り広げられる攻防の一切を見ることができず、ただ握り締めたアナスタシアの手の存在を感じ取ることしかできない。
だが、それでも見えぬ眼が捉えていた。
彼の存在を、その歩みを見抜いていた。
(そうだ、やってやれ相棒! お前の力を、人間の強さを魔神王に叩きつけろ! ハードなロックを決めてやれ!)
意識が焼き尽くされる寸前に、カドックは見えぬ眼で友が駆ける姿を垣間見た。
拳を握り、彼女が遺した盾を拾い上げ、みっともなく何度も転びながら、それでも人類悪に向かって突き進む生命の賛歌を垣間見た。
ああ、安心した。
彼は立ち上がった。
彼は立ち直った。
悲しみを胸に沈め、獣に打ち勝つために走り出した。
これで全ての役目は終わった。
本当に満足だ。
自分は、最期まで諦めずに生きることができたのだ。
アナスタシア、君に感謝を伝えたい。
君がいなければここまで辿り着けなかった。生き抜くことができなかった。
本当に本当に、ありがとう。
「フォーウ」
最期に獣の声を聞いた。
その瞬間を以て、カドック・ゼムルプスは最愛のパートナーと共に時間神殿から消失する。
淀み、汚れていた魂が、遂に
□
そして、ゲーティアは述懐する。
何故、計画が狂ってしまったのか。
何故、思い通りにいかないのか。
何故、目の前の少年は立ち上がれるのか。
彼を立ち上がらせるものは何なのか、その拳に込められた思いは何のか、その問いを投げずにはいられなかった。
『戯け。その疑問を抱いた時点で、貴様は答えを得ていように』
そう答える何者かがいた。
時間神殿のどこかで、今もなお、解けて消えつつある魔神と戦う者の内の一人。
かつて、ソロモンやゲーティアと同じ視点を得た英雄の中の英雄王が、人類悪の疑問に対して言葉を返す。
『貴様は全てを視る眼を持っていながら、全てを視ていなかった。悲しみしか視ていなかった。一つ一つの悪意に囚われ紋様を見ていなかった。命の価値を知らぬのは貴様の方だ、魔神王』
それが何だと言うのだ。
どのような生命も必ずや最後には死に絶える。
如何なる偉業も最後には無為に終わる。
死という断絶が待ち構えている。
その恐怖に、絶望にすら、価値があるというのか、英雄王。
『そう、貴様に消し去られた雑種も同じことを考えた。貴様も同じ思いを抱き、此度の計画を企てた。そうであろう、ソロモンを騙った者よ。貴様達もまた、あの男と同じくこう唱えたのではないのか? 「こんなはずではなかったと」』
生命が死という苦痛で終わるのは間違っている。
生命が死という恐怖で終わるのは誤っている。
その在り方が、不条理が、理不尽が、何もかもが許せない。
生命とは、こんな悍ましいものであっていいはずがない。
同じだというのか。
あのちっぽけな少年と、自分達が抱いた思いが。世の理に否と唱えた、その思いが同じだと。
ならば、自分達は初めから相対する運命にあったというのか。
そして、あの少年の思いが、叫びが、目の前で今も立ち向かってくる少年を奮い立たせたというのか。
『そこから先は、自ら問いかけるがいい。それが貴様の最期の救いとなるだろうよ』
ああ、ならば問うしかないだろう。
同じ思いを抱いたのなら、彼らは如何なる結論に辿り着いたのか。
自分達が価値なしと断じた生命の在り方に、何を見い出したのか。
でなければ終われない。
自分自身が消えゆくことに納得ができない。
この慚愧を残したままでは、死んでも死にきれない。
「そうだ、何故、貴様は戦う! 何故、貴様達は
「――――、――――!」
頬に痛みが伝わる。
今までのどの攻撃よりも弱々しく、何よりも熱を持った強い一撃だった。
こちらの問いかけへの答えと共に放たれたその一撃を以て、ゲーティアは遂に動きを止めた。
自らの慚愧に決着を付け、抗う事を止めた。
同時に、力づくで繋ぎ止めていた魔神達の結合が解かれ、ゲーティアだったものが急速に失われていく。
全ての戦いが終わった瞬間であった。
「――そう、か。何という――救いようのない愚かさ。救う必要のない頑なさだろう。手に負えぬ、とはまさにこの事だ。は――はは――」
笑いながら、ゲーティアは己の死を実感する。
最後まで抗い続けていた一柱の沈黙を確認し、瞼なき目を閉じる。
人理焼却式――否、人理補正式ゲーティアの実行を終える。
その命令の受諾を以て、彼らの偉業は潰えるのだった。
かくして人類悪はここに潰える。
ビーストⅠとの長きに渡る戦い、聖杯探索はここに終わりを告げるのであった。
いえ、まだ続きますけどね。
後、数話は必要です。
この展開は序章を書き終えた辺りで思いついていまして、ここまで何が何でも書きたいというモチベから一章以降も書くことに決めた次第です。