Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女   作:ていえむ

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冠位時間神殿ソロモン 第5節

――では、その男の話をしよう。

歪な魂のまま、それでも光を手にせんと足掻いた無垢なる心を。

男は現実(やまい)に冒されていた。

人類兄弟皆平等。それは確かに素晴らしい、とお洒落な服着た君は言う。

みんなで仲良くゴールしよう。傷つけあうのは真っ平だ、と二歩先歩く君は言う。

蟲毒のように孤独な人生、狂騒塗れの競争社会。

人の生まれは不平等で、成功という切符は売約済みだ(sold out)

男はまだ――愛を知らない。

 

 

 

 

 

 

こんなはずではなかった。

そんな言葉を口にすることが多かった。

覆しようのない現実に直面した時、思考を止める魔法の言葉だ。

誰だって恨み節を口にする権利はあるし、言葉にするだけで気持ちは楽になる。

少なくとも、自分は努力していたと言い訳することができる。

けれど、どこかで理解していた。

その言葉には何の力もない。ただ現状を憂うだけでは何も変わらない。

気分が紛れたところで、不平不満は溜まっていく一方だ。

何よりヴィジョンがない。

なら、どんな展開がお望みなんだと、自分の内に問いかけたことは一度もなかった。

妬むばかりで、憧れるばかりで、変わろうとする努力をしてこなかった。

例えば才能に溢れる自分。成功を欲しいままにするのは気分がいい。

例えば別の才能を掴んだ自分。音楽で食べていくのも悪くない。

例えば――魔術が存在しない世界。想像はできないが、今よりは幾らかマシかもしれない。

例えば――――。

 

 

 

 

 

 

不意に誰かが呼ぶ声が聞こえ、カドックは微睡から覚醒した。

その拍子に指先がぶつかったのか、使い古した万年筆が机の上を転がっていった。

小さな音が足下から聞こえ、何気なく追った先で目にしたのは見慣れた学び舎だった。

老朽化が進みながらも、魔術や呪詛に対する耐性だけは数ヵ月単位で更新されている壁。

薄暗い照明と、使い古された机。

平素なら生徒でごった返す室内は、今は自分ともう一人しかいない。

何故、という疑問が湧いた。

理由は分からないが、ここに自分がいることに強い違和感を覚えた。

慣れ親しんだはずの教室が、異質なナニかに思えてならない。

それはこの教室がおかしいのか、それともここにいる自分自身に違和感を覚えているのか。

微睡んでいたせいもあるのか、思考が上手く回らない。

自分が何をしていたのかも曖昧で、断片的なことしか思い出すことができなかった。

何か大切なことを忘れてしまっている気がするのだが、思い出そうとすると頭の中に靄がかかる。

見覚えのない光景。

遠い僻地の魔術工房。

名前が思い出せず、顔もわからない■■達。

そして、■■■■との出会い。

 

「っ……」

 

何かが指先にかかりそうになると、頭痛で思考が中断された。

思い出せない。

とても生々しい実感があるのに、思い出そうとすると記憶が泡のように溶けてしまう。

まるで夢を見ていたかのような気分だった。

 

「おい」

 

若干、苛立ちの混じった声が聞こえた。

振り向くよりも先に平手打ちが飛ぶ。

猛犬のように鋭い眼光を携えた男が、ギャングのチンピラみたいな笑みを浮かべていた。

その日の朝食の献立や天気の話でもする気軽さで、人の指先をバターみたいに切り裂いてしまうような残忍な笑みだ。

そういえば、さっきから妙に距離が近いと思ったが、ずっと一緒にいたのだろうか。

 

「おい、人が折角、課題見てやっているのに居眠りとはいい度胸じゃないか。肝据わってんな、カドック。それとも不感症か?」

 

「ベ、ベリル……? 」

 

ベリル・ガット。

時計塔の狼男と侮蔑される危険な男。何故か、自分のことを気に入って兄貴分を気取っている伊達男で、■■■■では同じチームに所属していた。

そして、あの運命の日に――。

 

「お前、確か氷漬けになったはずじゃ……」

 

「はあ……喧嘩売ってんのか、お前? 人が貴重なマンハント(ナンパ)の時間を割いて教えてやってたのに、俺のジョークが寒いときた。何なら受けて立つぜ」

 

「あ、いや……すまない、寝ぼけてた」

 

「だろうな。それで居眠り扱いて補習なんて割が合わないだろ」

 

「あー、そうだったな」

 

うろ覚えだが、そうだった気がする。

運悪く意地の悪い講師の授業で寝入ってしまい、罰として明日までにレポートを仕上げてくるようにと課題を与えられたのだ。

それも一日が三十二時間だったとしても、まず終わらない量の課題だ。

それで泣く泣く、暇を持て余していたベリルに声をかけたような気がする。

 

「へいへい、どうせヴォーダイムやオフェリアと違って暇人ですよと。ほら、さっさと進めちまえ。折角の休日だ。彼女のこと、待たせてるんだろ」

 

「……彼女?」

 

不意に、教室の扉が勢いよく開いて冷たい風が吹き込んでくる。

思わずビクッと体を強張らせたカドックとベリルが目にしたのは、顔のない人形を胸に抱きながら、こちらに向かってずんずんと歩いてくる少女の姿だった。

 

「何をしているの、カドック? 今日は街に行く約束でしょう?」

 

「え、え?」

 

「やあ、お嬢さん。いや、こいつは今、ちょっと取り込んでまして……」

 

「お嬢さん?」

 

話の流れについて行けず困惑していると、ベリルに肩を掴まれて引き寄せられた。

自分が知る彼よりもほんの少し、焦っている表情を浮かべたベリルの顔がそこにあった。

 

「馬鹿、次期当主(ロード)候補のアナスタシアお嬢さんじゃないか。お前の恋人だろ!」

 

「婚約者です、お間違えのないように」

 

「はい、その通りです」

 

「お前、性格変わってないか?」

 

「また、穴倉に戻るよりはマシだっての。まったく、どんな手品使って射止めたんだよ」

 

(こっちが知りたいよ)

 

先ほどからベリルが話している内容は、一ミリも頭に入って来ない。

アナスタシアが次期当主(ロード)候補? しかも、自分の婚約者?

現実味のない話に頭がついていかない。

彼女はサーヴァントで、時計塔の生徒でいるはずがない。

だって、彼女はもう――。

 

「っ……」

 

不意に頭痛が走り、カドックは額を押さえた。

痛みはすぐに治まったが、とても不快な感覚だった。背中からも嫌な汗が流れている。

ふと、額を押さえていた右手の甲が目に入る。

あるべきはずのものがそこになかった。

アナスタシアとの絆の印。赤い三画の■■が影も形も存在しない。

使い切った跡すらなかった。

 

「カドック?」

 

「アナスタシア、君は僕のサーヴァントだろう? ずっと一緒に戦ってきた、そうだろ?」

 

「何を言っているの? 従者(サーヴァント)ではなく婚約者(フィアンセ)です。まさか、前から私のことをそのような目で見ていたのですか」

 

「いや、こいつは根っからのフェミニストだからそれはな……」

 

「黙っていろベリル!」

 

「へい……」

 

子犬のようにシュンと小さくなるベリルを尻目に、カドックは呆然とその場に立ち尽くした。

とてもとても大切な思い出の筈だ。なのに、証明できるものが何もない。それどころか記憶がどんどん遠退いていく。

さっきまで思い起こせていた生々しい実感も、今では夢の中の出来事のように曖昧だった。

 

「カドック、私達はずっとここの生徒だったでしょう? この一年、何事もなく平和だったでしょう?」

 

「あ、ああ……そうだった、な」

 

あれは全て、夢だったのだろうか。

■■■■での生活も、■■■■も、戦いの日々も何もかもが夢だった。

ベリル達はみんな健在で、自分はアナスタシアと婚約者で、世界の終わりはただの気の迷いで、何もかもが平穏で平和な世界。

彼女に言われると、本当にそんな気がしてきた。

霞がかかっていた記憶が更に白く染まり、深い記憶の海へと沈んでいく。

そんな辛い思い出は必要がないとばかりに、忘却の向こうへと飛んでいく。

不思議なものだ。

あれほど抱いていた疑問はもう、どこにもなかった。

胸の底から掃き出されたかのように、気持ちが軽くなった。

 

「それじゃ、行きましょう、カドック」

 

「え、けど、課題は……」

 

「私からあの二級講師に話をつけておきます。明日からは来なくていいと」

 

振り向きながら発せられた声音は、ゾッとするほど冷たく恐ろしい響きであった。

一人、教室に残されたベリルは去っていく二人を見送りながら、小さな声で呟いた。

 

「お幸せに。覚めない夢はいいもんだぜ、不都合は全部、消えちまうんだからな」

 

カドックが振り返ると、既にそこには誰もいなかった。

まるで最初から誰もいなかったかのように、ガランとした教室がそこにあるだけであった。

 

 

 

 

 

 

学び舎のある郊外からロンドン市内までは少しかかる。

徒歩ではさすがに時間がかかるので、移動にはバスを選択した。

貴族主義の連中は自前の馬車を使うのだろうが、半分くらいの生徒は公共の移動手段を用いることが多い。

ちなみに免許を取得できる年を過ぎていても、自動車やオートバイを持っている生徒はまずいない。

古い家系ほどその傾向が強く、浅い血筋の者達もその真似をするからだ。

好んで現代機器を用いるのは現代魔術科(ノーリッジ)の連中くらいだろう。

 

「何か、考え事?」

 

「別に」

 

隣に座るアナスタシアの存在を努めて意識しないようにしながら、窓の外の景色を見やる。

中途半端な時間ということもあり、乗客はほとんど乗っていなかった。

ゆっくりと動き出した景色は見慣れたはずなのに、何だか夢を見ているかのようにふわふわとしていて落ち着かない。

気を紛らわせようとカドックはポケットから音楽プレイヤーを取り出すが、そのイヤホンの片方は何故かアナスタシアに取り上げられてしまった。

 

「なに?」

 

「いいえ」

 

「そう」

 

それが当然とばかりに、アナスタシアは左耳にイヤホンを差し込む。

一度だけ嘆息したカドックは、残ったもう一本を自分の左耳に差し込むと、少し音量を絞り気味にして再生ボタンに指を這わす。

狼の遠吠えにも似た叫びと、バスのクラクションが被さった。

 

「楽しいか?」

 

「そうね、よくわかりません」

 

「無理しなくてもいいよ」

 

「構いません、このままで」

 

「今度は、もう少し気に入りそうなのを入れておくよ」

 

そのまま互いに肩を預け合い、バスが揺れるのに任せる。

いつの間にか手が重なり合っていた。

彼女の表情は見えないが、イヤホンから聞こえる歌に合わせているのか、少し調子のズレたハミングが聞こえてくる。

そんなつもりはなかったのに、気が付くと一緒に鼻歌を口ずさんでいた。

バスのエンジン音がうるさいのか、こちらに気づく者はいない。

バスがロンドン市内に着くまでの数十分間、二人はそのまま言葉を交わすことなく、小さな声で歌い続けるのであった。

 

 

 

 

 

 

午後のお茶をテムズ川の上で楽しみたいと、アナスタシアがわがままを言い出したため、二人は買い物を早々に切り上げて船上の人となった。

一時間程度のクルーズで30ポンドもの額は、学生には少々きつい金額なのだが、アナスタシアからすれば安い買い物なのだろう。

既に行きと帰りの交通費だけで真冬のモスクワばりにお寒い懐事情となったカドックからすると、情けない限りだ。

折角、二人っきりの時間を過ごしているというのに、ほとんどの遊興費は彼女の財布から賄われているのである。

思わずそのことを愚痴ってしまうと、アナスタシアはおかしそうに笑ってこちらの額を小突いてきた。

 

「私はあなたに貸しを作っているのよ。将来、私に逆らわないようにね」

 

「なるほど、次期当主(ロード)は言う事が違うな」

 

「また、そう卑屈になって。倍にして返してやる、くらいは言えないの?」

 

「ごめ……」

 

気を悪くしてしまったかと、つい反射的に謝りそうになり、慌てて口をつむぐ。

チラリと視線を向けると、付け合わせのジャムを舌先で舐めながら、期待するようにこちらを見ていたアナスタシアと目が合った。

 

「あら、謝らないの?」

 

「からかったな?」

 

「本心よ。でも、頑張ったからご褒美ね」

 

そう言ってアナスタシアは、自分の分のスコーンを摘まんでこちらの口元に差し出してきた。

 

「はい、あーん」

 

「……ぁーん」

 

カチンと、歯と歯が噛み合う音が口の中に響いた。

可笑しそうに笑うアナスタシアの顔が目の前にあった。

その細い指先には、先ほどまで差し出されていたスコーンが今も摘ままれている。

開いた口に放り込むふりをして、直前に手を引っ込めたのだ。

 

「君って奴は……」

 

「ふふふ、まだまだね」

 

「ずっとこれに付き合わされるのかと思うと、気が重くなるな」

 

「あら、ずっと一緒にいてくれるの?」

 

「それは……言わせるなよ」

 

気恥ずかしさで顔が熱くなり、カドックは思わずそっぽを向いた。

きっと耳まで真っ赤になっていることだろう。

そんなカドックの様子を楽しみながら、アナスタシアは午後のひと時を楽しんだ。

時々、取り留めのない会話を楽しみながら、ゆったりとしたテムズ川の流れを堪能する。

たった一時間程度のクルーズのはずなのに、遊覧船はなかなか船着き場にはつかなかった。

まるで黄昏時で時間が止まってしまったかのような錯覚を覚えながら、二人は色々なことを話し合う。

互いが好きな音楽のこと、最近の教室の様子や将来のこと、空を飛び交う鳥や水面を跳ねる魚のこと、少し前に通り過ぎたウェイターのミスを笑い、反対側でクルーズを楽しむ老夫婦に自分達の将来を重ねる。

いつの間にかお菓子はなくなり、飲み物のお代わりを頼んでいた。

カドックはミルクを大目に注ぎ、アナスタシアは慣れていないからと砂糖の入っていないストレートなものを注文する。

 

「ねえ、今度、あなたのギターを聞かせてもらえないかしら?」

 

唐突にアナスタシアは切り出した。

馬鹿なことをと一笑する。

ギターはもう弾けない。それは彼女も分かっているはずだ。

そう言うと、アナスタシアは訝し気に顔を顰めて返してきた。

 

「何を言っているの、あなたの左手はちゃんと動くじゃない」

 

「……っ!?」

 

言われて、初めて気が付いた。

どうしてそんな風に思い込んでいたのかは分からないが、今の今まで左手はケガで動かないものと勝手に決めつけていた。

だが、アナスタシアの言う通り左手は何の支障もなく動かすことができた。

指先の一つに至るまで、滑らかに動く。

引きつるような感覚もないし、抓れば痛みもちゃんと感じられた。

それはとても喜ばしいことのはずなのに、何故だかカドックは釈然としない気持ちを抱いていた。

 

(なんで……)

 

左手が動く。

また音楽に携われる。

嬉しいはずなのに、何か大切なことを忘れているかのようで落ち着かなかった。

指が動くことに対して、違和感しか感じない。

この手は動かないはずなのだ。

何故なら、これは――――。

 

「残念、着いてしまったわ」

 

汽笛の音が思考を中断する。

いつの間にか、遊覧船が船着き場に到着していた。

 

「行きましょう、カドック。ベンチで少し、休みたいわ」

 

促されるまま、カドックは席を立つ。

何かがおかしい。

目の前の現実が、まるで絵本を読んでいるかのような遠い世界の出来事に感じられた。

愛しいアナスタシアの声も姿もすぐそこにあるのに、まるで靄を手ですくっているかのような気分だ。

本当に、彼女はそこにいるのだろうか。

言いようのない不安が、胸中に渦巻き始めていた。

 

 

 

 

 

 

「やあ、二人とも。お出かけかな?」

 

遊覧船を降り、休める場所を求めてテムズ川の畔を歩いていると、家族連れの男性に声をかけられた。

年は五十歳くらいだろうか。鋭い眼光と豊かな髭がとても目につく御仁だ。

ただ、纏っている雰囲気は何となくアナスタシアによく似ていた。

その理由は、アナスタシアの返答ですぐに察することができた。

 

「あら、お父様。野暮なことはお聞きにならないで」

 

「おお、すまない。いや、君達らしき姿が見えたものでね、挨拶くらいはと」

 

「気が利かないお人だこと」

 

「まあまあ。あなたのことが心配だったのよ。ねえ、アナタ?」

 

「む、むぅ……」

 

奥方に図星を突かれ、アナスタシアの父親は言葉を詰まらせる。

何となく、親近感が湧いた。

 

「姉さん、来週は帰ってくるのかい?」

 

父親の後ろに隠れていた少年が、アナスタシアに話しかけた。

利発そうな子だ。まだハイスクールに入りたてくらいだろうか。

 

「そうね。あなたが良い子にしていたら、考えてあげます」

 

「あんまり子ども扱いしないでよ。僕だってもう大人なのに」

 

「そういう言葉は学校を出てから言うものよ、アレクセイ」

 

「わかったよ、良い子にしている。電話、待っているよ」

 

諦めたように少年は手を振った。

きっと、いつもこんなやり取りを繰り返しては姉に言い包められているのだろう。

微笑ましいやり取りだ。けれど、とても強い違和感を感じだ。

何故なのかは上手く説明ができない。

ただ、この光景そのものが、まるでガラスのフィルターを通してみたかのような現実味のなさで溢れている。

楽しそうに笑うアナスタシア。

優しそうな両親と賢そうな弟。

少し離れたところには彼女の姉達と妹もいる。

どこにでもある家族の団らんだ。

何故、こんなにも違和感を感じるのだろう。

 

「では、我々は行くよ。カドック君、娘をよろしく頼む」

 

「あ、はい……」

 

「ごきげんよう、お父様、お母様」

 

にこやかに手を振りながら、アナスタシアの家族達は離れていく。

まるで蜃気楼を見ているかのような気分だ。

そこにいるはずなのに、手を伸ばせば消えてしまいそうな曖昧さだ。

眩暈がする。

自分が立っているのかさえ定かではない。

汗を拭おうと額を擦ると、違和感はますます強くなった。

そこにあるべき何かがないと、警鐘のようなものが鳴っている気さえした。

 

「何だか、今日は様子が変ね」

 

こちらの様子を訝しんだアナスタシアが、心配そうに顔を覗き込んでくる。

嬉しいはずなのに、今はとても不安な気持ちでいっぱいだった。

 

「さっきの……」

 

「お父様達? 時計塔の出資者で、未来のあなたの後見人よ、それがどうしたの?」

 

「……何で、ここにいるんだ? だって、君の家族は……」

 

そうだ、アナスタシアの家族は■んだ。

遠い雪国の冷たい地下室で、使用人諸共■された。

自分と面識があること自体がおかしいのだ。

ここにいるはずがないのだ。

 

「最近、アレクセイってばあなたに似てきたと思わない? 少し前まで軍人になるなんて言っていたけれど、あなたに影響されてミュージシャ……」

 

「違う。アナスタシア、それはありえない。だって、だって……」

 

上手く言葉に出来なかった。

彼女が弟と仲良く話している光景が頭から離れない。

とても強い違和感を感じるのに、焼き付いてしまったかのように目に張り付いていた。

彼女の弟が、あんな風に元気に歩き回れるはずがないのだ。

血友病で、ちょっとしたケガでも命に関わる障害を持っているのだ。

軍人もミュージシャンも持っての外だ。

なのに、先ほどの彼はそんな障害など感じさせないくらい元気で健康そのものだった。

頭が痛い。

頭痛がどんどん酷くなる。

違和感を感じる度にズキズキと瞼の裏が痛んだ。

 

「カドック、こっちに来て」

 

見かねたアナスタシアに手を引かれ、近くにあったベンチに無理やり座らされる。

 

「私の眼を見て。ほら、落ち着くでしょう?」

 

頬を両手で挟まれ、吸い込まれるかのような彼女の瞳で顔を覗かれる。

一瞬、アナスタシアの両目が青白く光ったかのような錯覚を覚えた。

 

「……ああ。ごめん、取り乱して」

 

「本当、何かあったの? 何か変な呪詛でも受けたのかしら?」

 

こちらが落ち着きを取り戻したのを確認した後、アナスタシアは隣に腰かける。

胸の内に不安が渦巻いていたのだろう。いつもならそんな風に甘える事はないのだが、今日に限っては人の温もりがとても恋しく、カドックは腰の位置を少しずらしてアナスタシアの膝の上に自らの頭を横たわらせた。

一瞬、アナスタシアは驚いたように肩を強張らせたが、すぐに緊張を解いて慈母のような笑みを浮かべ、細い指先で髪の毛を優しく撫で始めた。

 

「変な夢を見たんだ。とても……とても強い実感が伴う夢だった」

 

「それがあなたのおかしい理由? どんな夢だったの?」

 

「……上手くは思い出せない。ただ、僕も君も時計塔じゃなくて、遠いどこかの僻地にある工房で働いていた。何をしていたと思う?」

 

「何かの研究じゃないの?」

 

「世界を救う仕事だ。笑えるだろ?」

 

曖昧にしか思い出せないが、世界が焼ける夢だった。

自分はアナスタシアと共に色々な場所に出向き、世界を救うために戦った。

そこで自分は多くのものを失った。

そうだ、左手もケガで動かなくなったのだ。

目だって見えなくなった。

魔術師にとって命とも言える魔術回路もダメにした。

傷ついて失っていくばかりの旅路だった。

苦しいだけの戦いで、得るものなんて何もなかった。

 

(本当に、そうなのか?)

 

大切な何かが抜け落ちている気がする。

失うばかりでなく、何か光のようなものを見つけた気がする。

それは何だったのか。

思い出そうとすると頭痛が酷くなり、救いを求めるようにアナスタシアの手を握る。

それだけで痛みが引き、思考が凪いでいく。

霞がかかった思い出と共に、自分の存在すら霧散していくかのようだった。

痛みからの逃避と引き換えに、もっと大事なものが抜け落ちてしまったような気がした。

 

「ねえ、それからどうなったの?」

 

「それから……僕と君は悪い奴と戦って、最後には消えてしまうんだ」

 

「悲しい夢ね。でも、大丈夫。ここにいればもう戦うことはないの。あなたが苦しむこともない。ずっとずっと、一緒にいられるの」

 

「……ああ、そうだね」

 

本当に、それは何て幸福なことなのだろう。

夢は所詮、夢でしかない。どんなに辛く苦しい夢であっても、目を覚ませば彼女が側にいるという幸せが待っている。

それでいい。それだけでいい。

そのはずなのに、考えてしまった。

どうして、あの夢はあんな結末を迎えてしまったのかを。

そう、何か大切なものを守るためだった。

胸の底に、これだけは忘れるものかと刻み付けた誓いがあったはずだ。

もう二度と、みんなを裏切らないと決めたはずだ。

必ず、彼を■■へと帰すと――決めたはずだ。

 

「……そう、だ」

 

一際、強い頭痛が襲いかかるが、カドックは構わず意識を集中させた。

脳裏に一瞬、思い浮かんだ■■■■の顔を忘れまいと。その名前を忘れまいと、吐き気を堪えて必死の思いで繋ぎ止め、その思い出を手繰り寄せていく。

 

「そうだ、藤丸は!?」

 

「カドック、何を言っているの?」

 

「藤丸立香だ! 僕達の仲間の……何で、忘れてたんだ。そうだ、僕達は時間神殿で戦っていたはずなんだ。なのに、どうして…………」

 

今の今まで、思い出せなかったことが不思議でならない。

例え地獄に堕ちようとも、アナスタシアとあいつの事だけは忘れるはずがないという自負だってあったのに。

 

「アナスタシア、ここは……」

 

「落ち着いて、カドック。何も心配はいりません。その人はいないのだから」

 

「アナスタシア?」

 

「藤丸立香はここにはいない。あなたはそんな人を知らないし、私も知らない。そうでしょ、カドック」

 

愛おしいはずのアナスタシアの顔が、まるで幽鬼か何かのように見えで仕方がなかった。

彼女の囁きが、麻酔のように耳朶に染み込んでいく。

彼女の言葉に偽りはない。そんな人間、最初から存在しない。

ビックベンの鐘のように、頭の中で何度も同じ言葉が響き渡り、こちらから思考の力を奪っていく。

思い出はごっそりと抜け落ちていき、心まで彼女の言葉に屈服した。

藤丸立香なんてこの世界には存在しないと、頭から信じ切っていた。

そこで終わっていれば、きっとこの幸福に溺れながら逝くことができたであろう。

けれど、気づいてしまった。

彼女の耳に輝く紫色の輝きを。

アナスタシアが身に付けている、ラピスラズリの耳飾りの存在を。

 

「アナスタシア、その耳の宝石……」

 

「これ? あなたがプレゼントしてくれたものでしょう? 街で一番の細工屋に頼んで、とても高価な石を加工したって――」

 

「違う」

 

頭の中の霞が晴れていく。

千切れていた記憶が結び直されていった。

気づかなければ、思い出すことができなかった。

この甘い夢に溺れたまま、目を覚ますことはなかっただろう。

彼女の存在が気づかせてくれたのだ。

遠い遠い過去の世界で結ばれた絆が、自分を再び立ち上がらせたのだ。

 

「それは、もっと粗悪なものだ。安売りされていた屑の石を錬金術で錬成して、見た目だけ繕ったものだ」

 

「止めて……」

 

「それも、僕達の手で砕いた。あの娘の願いを叶えるために、君がそう望んだはずだ」

 

「止めて、カドック」

 

狼狽したアナスタシアが、息を荒げながらこちらを覗き込んできた。

親に見捨てられた子どものような顔だった。

これから自分が口にする言葉を、決して聞きたくはないという強い否定の意思が感じられた。

 

「言わなければずっとここにいられます。ここならあなたは何も失わない。傷つくことはない……ずっと、ずっと一緒にいられるのに……」

 

「それでも、ここにはあいつがいない。僕が生きていたのは、あの憎たらしい後輩がいる世界なんだ。あいつがいたから、僕は最後まで生きたいと思えるようになったんだ」

 

だから、目を覚まさなければならない。例えそれが、終わりへと続く目覚めであったとしても。

 

「僕は魔術師なんだ。魔術師は過去へと逆行する生き物だ。けど、歩みを止めることはしない。例え未来に背を向けても、袋小路に至っても、進む事だけは止めない人でなしだ。だから、僕はここにはいられない。あいつが生きた世界で死ななくちゃいけないんだ」

 

ゆっくりと体を起こし、アナスタシアに向かって振り返る。

彼女の目には涙が浮かんでいた。罪悪感で胸がいっぱいになるが、その気持ちに応えることはできない。

ここはきっと、夢の世界だ。

ゲーティアの放った光。創世の熱に焼かれる寸前に、己の死を恐れた弱い心が生み出した1と0の挟間の世界だ。

こんなはずではなかった。ずっと言い続けた言葉が形を成した世界だ。

カドック・ゼムルプスにとって優しく、誰も自分を傷つけない世界。

嫉妬に駆られることなく、在りのままでいられる世界。

けれど、所詮は夢幻。

ここにいれば、永遠にアナスタシアと一緒にいられる。それは何て幸福で、何て残酷な夢なのだろう。

目の前に存在するのは確かに自分が記憶しているアナスタシアそのものではあるが、彼女自身ではない。ただの幻なのだ。

 

「ごめん……僕は行くよ。君と一緒に戦った、旅をしてきたあの世界に。さようなら」

 

世界から音が消えた。

無言で泣きじゃくり、手を伸ばしたアナスタシアの幻が虚空へと吸い込まれていく。

最後に彼女が口にした言葉は、自分を呼び止める慟哭か、それとも恨み節か。

一つだけハッキリしていることは、例え幻といえど最愛の彼女を悲しませてしまったということだ。

その罪悪感を胸に、カドックは上へと浮かんでいく。

崩れ去っていくロンドンの街並みを見下ろしながら、頭上から差し込む光に向かって真っすぐに。

何度も後ろ髪を引かれながら、足を止めながら、迷いながら、それでも思い直して己の死に向けて虚数の海を泳いでいく。

そして、自らの魂を焼く光まで後少しというところで、彼は呼び止められた。

 

「やあ、間に合ったね。その気があるなら歩みを止めるがいい。その先は……地獄だぞ」

 

何かがそこにいた。

星の輝きで満たされた虚数空間に、とても大きな何かが浮かんでいた。

それは見えているはずなのに頭で形を認識できなかった。

全体を捉えようとすると、暗い影が差してそれが何なのか分からなくなる。

ただ、漠然とではあるが、猫か何かの獣のように思えた。

恐怖感はなく、不思議な親近感が感じられた。

 

「結末を急くのは君の悪い癖だ。確かに君は完全に消滅し命の終わりを迎えたかもしれないが、未練があるからこの虚無に残っていたのだろう?」

 

図星を突かれ、歩みが止まる。

獣は我が意を得たりとばかりに、影の向こうでほくそ笑むと、用意しておいたであろう言葉を投げかけてきた。

 

「君に最後の選択を迫ろう、魔術師よ。率直に言うと、君と彼女のどちらかを生き返らせる用意がある」

 

「……どういう、ことだ? お前はいったい……」

 

もしも、この時の出来事を覚えていたのなら、きっとそう問いかけたことを後悔したことだろう。

獣は笑っていた。

残酷に、楽しそうに、こちらの一挙一投足に至るまでを舐め回す様に、光差さぬ影の向こうから見つめていた。

 

「まずは名乗ろう。ボクは災厄の獣キャスパリーグ。違う世界では霊長の殺人者(プライミッツ・マーダー)とも呼ばれている」

 

闇が広がった。

星すら飲み込む強大な闇が、行き先であった光を覆って隠してしまう。

囚われたのだと気づくのに、時間はかからなかった。

獣の牙が、その爪先が喉元に押し付けられているかのような気分だった。

こちらが下手な行動に出れば、容赦なく魂を引き裂くつもりだ。

いや、それ以上に恐ろしい予感がした。

これから自分が下すことになる、たった一つの答えが世界の運命すら左右する。そんな気さえした。

 

「けれど、君に対してはこう名乗るべきだろう。人類が倒すべき悪。人の獣性によって生み出された大災害。原罪のⅣ……ビーストⅣと」

 

闇を挟んで、魔術師の少年と人類悪は対峙する。

最後の戦いは、誰にも与り知らぬ虚数の海の底で、静かに幕を開けたのだった。




最後の戦いは助っ人なし、カドックのみでのイベントバトルとなります。
終章も残すところ、後一話か二話くらいだと思います。

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