Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女   作:ていえむ

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終章
終幕の物語 -地上の星々-


そして、季節は巡る。

人理焼却に端を発する七つの特異点を巡る聖杯探索から一年が過ぎ去った2017年12月25日、人理保障機関フィニス・カルデアは、その役目を終えようとしていた。

カルデアの本来の管理者であったアニムスフィアは、当主が死亡したことによる混乱とその事後処理の為にカルデアの運営から手を引かざるを得ず、その隙を突いて魔術協会が強引な手段で手中に収めようとしたのだが、非常時に行ったカルデアの活動報告があまりに膨大かつ複雑であったため、形式的な査問を終えてからは本来の活動を制限されたまま今後の方針が決まるまで放置されていた。

何しろ責任を取れる者、国連や協会と折衝を行える人材が軒並み死亡しており、カルデアという組織がどのようなものなのか、というところから調べ始めねばならない有様だった。

そんな中、人理修復の後始末ともいうべき事件が発生し、カルデアは国連の管理の下でレムナントオーダーを発令。ここ一年ほどは四つの大きな事件と大小様々な微小特異点の修復を行っていた。

そのレムナントオーダーもセイレムでの一件を持って完了し、新しい所長の就任も決まった事で旧体制での組織運営は遂に終わりを迎えたのだ。

レイシフトを用いた歴史への干渉。それがもたらす危険性を認識した国連によりレイシフトは禁じられ、カルデアスも凍結。所有権を買い取った新所長ゴルドルフ・ムジークからは旧スタッフに対して解雇通知と新しい職場の斡旋が成され、新年からは新所長の私的研究機関として生まれ変わる段取りとなっている。

その為、人理修復の為に召喚されていたサーヴァント達は、全て座への退去が命じられることとなった。

 

「色々あって、グランドオーダーの後もほとんどの英霊が居残ってたからな。帰還作業で管制室はてんてこ舞いだよ」

 

カルデアの通路の一画、飲料の自動販売機が設置された休憩スペースで、ムニエルはコーヒーを飲みながらそう言った。

世はクリスマスの真っ只中。救世主の誕生を祝う日であり、一般的には長期休暇を取って家族と過ごす時期だ。

七面鳥のローストにクリスマスカード、礼拝堂からは讃美歌が聞こえ、ベッドの脇にはクリスマスプレゼント。

一年の内に仕事を忘れる事が許される唯一の日で、働きアリすら祝杯を上げるとどこかの童話作家も言っていた。

残念ながら国連から軟禁措置を取られている今のカルデアでは帰郷など叶わず、前日のあるごたごたもあってスタッフは家族との長距離電話すらそこそこに、朝から大忙しの有様だった。

 

「あんたはサボってて良いのか?」

 

「俺はコフィンの担当だから、そっちはあまり手伝えなくてな。そっちは?」

 

「みんな、後遺症もなく完治したよ。ああ、冷蔵庫の中から発見されたパラケルススだけ入院中だな。詳しくは聞けていないが、熱を下げるつもりだったんだろうな。錬金術師も風邪には敵わずかか」

 

「きっと熱でおかしくなっちまったんだろうな」

 

クリスマスを目前に控えた24日、カルデアではスタッフ・サーヴァントを問わずに大規模な風邪が流行し、機能がマヒする事態となった。

幸いにもその日の夜に召喚されたある女神の力で風邪は完治したのだが、冷蔵庫にこもっていたパラケルススだけは低体温症を起こして現在も入院中なのだ。

サーヴァント達は今日中に座に退去しなければならないのだが、これでは彼だけが体調を患ったまま帰還する羽目になるだろう。

座に影響など出なければ良いのだがと、カドックは内心で冗談染みた事を考えていた。

 

「さて、一休みもしたし、帰国に備えて部屋の片づけでもしますかね」

 

「確か、フランスだったか?」

 

「ああ。もしも遊びに来ることがあったら知らせてくれ。美味い店を案内してやるから」

 

「その時は頼むよ。本当、あんたには世話になった」

 

差し出された手を握り返すと、ムニエルは照れたように頬を掻いた。

グランドオーダーが始まって以降、彼は人手不足からほぼ専属のサポートとして付いてくれた。

離れた場所にいても最前線で戦う時は常に一緒だった。彼のようなバックアップがいなければ、きっとグランドオーダーは成し得なかっただろう。

そういう意味では、彼も大切な仲間の一人だ。そこに貴賤なんてものはない。ロマニもダ・ヴィンチもムニエルも、称賛されるべき人間で、最高の仲間達だ。

 

「俺なんて、何にもしていないさ。頑張ったのはお前の方なんだ、もっと胸を張れよ」

 

「性分なんだよ、これは」

 

「だろうな。じゃ、俺は行くわ。暇なんだったら、お前も片づけくらいしておけよ」

 

そう言って、ムニエルは通路の向こうに消えていった。

 

(さて、どうするか……)

 

ムニエルと違って、自分は年が明けてもしばらくはカルデアに残留する事になっている。

世間的には人理修復を成し遂げた唯一人のマスターという事になっているので、身柄の預かりについて揉めに揉めているからだ。

大偉業を成し遂げた後継者を手元に置いておきたいゼムルプス家と、そうなる前に身柄を押さえておきたい魔術協会。その協会も派閥同士で牽制し合っている有り様では、当面は帰国も叶わないだろう。

個人的にはAチームの蘇生にも立ち会いたいので、カルデアに残る事が許されたのは幸いではあるのだが。

 

「あれ、カドックさん?」

 

不意に呼びかけられ、カドックは我に返った。

振り返ると、小さな女神がこちらを見上げていた。

 

「ア……メドゥーサか……って、メドゥーサばっかりだな」

 

そこにいたのはランサーのメドゥーサだけでなく、ライダーのメドゥーサとゴルゴーンも一緒であった。

珍しいこともあるものだ。ライダーのメドゥーサはともかく、ゴルゴーンは過去の自分と距離を置きたがっているので、気配を感じるとすぐに隠れてしまうからだ。

いや、それ以前にゴルゴーンが他のサーヴァントと一緒にいること自体が稀ではあるのだが。

 

「ふん、好きで一緒にいる訳ではない」

 

こちらの考えている事を感じ取ったのか、窮屈そうに身を屈めたゴルゴーンが不機嫌そうに顔を顰めた。

 

「実は、姉様達を探していまして。今日で最後という事で、お別れを言おうと探していたのですが、どうやら私達から逃げ回っているようなのです」

 

「私も同じ理由で探していたところ、途方に暮れていた彼女と出会いまして。時間もありませんし、ここは一緒に探した方が早いかと思い……」

 

「私まで付き合わされているという事だ。いや、姉様達と会いたくない訳ではないぞ。何故、私まで付き合わねばならないのかが気に入らないだけだ」

 

「そういうあなたも、姉様が見つからず困っていたではありませんか、ゴルゴーン(わたし)

 

「そうですよ、ゴルゴーン(わたし)ライダー(わたし)の言う通りです」

 

「ええい、姉様達の真似をするでない!」

 

似たような声音が通路に響き、カドックは内心で苦笑する。

似ているも何も、本人同士なのだから無理もないことだが、こうして並んでいるとまるで姉妹のようだ。

第七特異点での一件もあり、彼女達への思い入れは少しばかり他のサーヴァント達よりも強い。

こんな風に微笑ましい光景を見ていると自然と心が和んでくる。

もっとも、そんな事を口にすれば更に機嫌を損ねたゴルゴーンに丸呑みにされかねないので、黙っておくことにした。

 

「では、マスター。私達はこれで」

 

「ああ、見つかると良いな」

 

ステンノとエウリュアレは何も、彼女達を遠ざける為に隠れているのではない。これは彼女達姉妹なりのコミュニケーションであり、邪魔をするのも野暮というものだ。

そう思ってカドックも自室に戻ろうかと考えていると、何を思い直したのかランサーのメドゥーサがとことことこちらに舞い戻ってきた。

 

「メドゥーサ?」

 

「えっと……今まで、ありがとうございました。私はウルクでの出来事を覚えていませんが、向こうでも私達があなたのお世話になったと聞きました。本当にありがとうございます」

 

小さく微笑み、こちらの返事も待たずにメドゥーサは去っていく。

一抹の寂しさのようなものが去来した。

あれからもう一年も経つ。頭では分かっていても、自分とアナスタシアの家族であった彼女達がもういない事を改めて実感した。

これが未練というのなら、このままにしておくのは決して良いことではない。

 

(挨拶くらいは……構わないか……)

 

残る時間はそう多くはない。果たして、どれだけの英霊達と言葉を交わせるか。

カドックは手に持っていた紅茶の容器を屑籠に捨てると、まだカルデアに残っている英霊達を求めて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

とりあえず宛てもないので居住エリアに向かうと、早速一人目のサーヴァントと出くわした。

やや悪魔染みた風貌の音楽家。グランドオーダーの始まりであるオルレアンで出会った最初のサーヴァント。

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。神に愛された音楽家だ。

どこかへ行くつもりだったのか、丁度、部屋から出てきたところだった。

 

「やあ、マスター。お出かけ……という訳でもないね」

 

「一応、最後だから挨拶でもと」

 

「ああ、良い心がけだ。マリアやサンソンの奴も喜ぶと思うよ」

 

ケラケラと、人を小ばかにするかのような笑い声が通路に響く。

別に彼はこちらをからかっている訳ではない。彼は本心からそう思っているのだろうが、同時に何に対しても虚無的なのだ。

彼の全て、彼の生涯は音楽に向けられている。例え燃えるような恋をしようと、その情熱が真の意味で向けられる事はなく、だからこそ歴史に名を残す作品を数多く手掛けることができたのだ。

まあ、それがなければ倒錯的なただの変態でしかない訳だが。

 

「今、結構心外な事考えたね?」

 

「どうだろうな」

 

「……いいさ、最後だから許そう。それとひねくれ者のマスターに選別だ」

 

そう言ってアマデウスが鞄から取り出したのは、十数枚の譜面であった。

彼はカルデアに来てからも作曲活動を続けており、何度か新作も生み出している。

だが、手渡されたこの譜面は今までのものと少しばかり様子が違っていた。

書きかけの譜面には、何度も手直しを行った箇所があったのだ。

アマデウスが作曲の際に下書きを用いないのは有名な話だ。

それは彼が生み出した曲には修正など必要がないほど、最初から完成された曲であったからだ。

だが、この譜面は何度も書き直した跡があり、紙面自体も指で擦り切れている。書き込んだ後も何度も見返し、その度に手を加えてきた証拠だ。

そして、それだけの手間をかけておきながら、曲は未完で終わっている。

 

「一年かけてその様さ。折角だから君に上げるよ」

 

「あ、ああ……ありがとう」

 

困惑するこちらを尻目に、アマデウスは微笑みながら肩を叩いてくる。

 

「今回は良い公演だった。君はなかなかのパトロンだったよ」

 

「そうか? そう言ってもらえると……ありがたい」

 

正直、その辺の自覚はまだない。

世間的にはグランドオーダーを成し遂げた英雄で通っていても、実際は優雅さとは無縁の、泥まみれの行軍を続けてきた凡人だ。

褒められて悪い気はしないが、反応に困る程度にはまだ自虐的であった。

 

「僕はもう行くよ。マリー達とも別れは済ましたし、いつまでも残っていれば未練も生まれる。ああ、君はこれからどうするんだい? もうカルデアにいる理由、ないんだろ?」

 

「そうだな、まだ決まっていない。これから何をすれば良いのか、自分に何ができるのか…………ただ、あんたみたいに旅をしてみるのも悪くないかもな」

 

「ああ、それはいい。うん、旅は色々と考えさせてくれるよ」

 

そう言って、アマデウスは手を振った。

カドックも小さく手を振ると、次の英霊達を求めて去っていく彼に背を向ける。

すると、聞き取れるかどうかの小さな声で、アマデウスが呟いているのが聞こえてきた。

 

「何だ、ちゃんと自分で選べたじゃないか」

 

ハッとなって振り返ると、既にそこにはアマデウスの姿はなかった。

霊体化でもしたのか、まるで最初からそこにはいなかったかのように、人気のない通路がどこまでも続いていた。

 

 

 

 

 

 

アマデウスと別れてから数分。

程なくして通路の向こうから大きな影が近づいてきた。

傷だらけで筋骨隆々の逞しい肉体。ローマでの戦いにおいて、常に自分の事を気にかけ喝を入れてくれた反骨の英雄。

叛逆の徒スパルタクス。彼がここにいるのはとても珍しい。一応、名目上の自室は与えられているが、ほとんど利用することなくトレーニングルームかシミュレーターにこもっている事が多いからだ。

 

「む、マスターか。我らが叛逆の日々も遂に終わりを迎える。だが、これは敗北ではなく始まりなのだ。私なき後も君達は叛逆を胸に歩き続けるだろう。ならば叛逆は永劫不滅! 即ち圧制に未来がないのは必定なのだ!」

 

相も変わらず何を言っているのかサッパリ分からない。

召喚されてからもスパルタクスは一事が万事、こんな調子だ。ローマ皇帝や王族に連なるサーヴァントも多い中、よくぞ大きな問題も起こさず今日まで過ごせたものだと感心すらしてしまう。

人理焼却という人類史そのものへの圧制がなければ、きっともっと早くに亀裂が走っていたことだろう。

 

「それにしても、よく素直に退去する気になったな」

 

「ははは! 次なる圧政が私を待っている! 弱者の声が、自由を求める渇望が私を呼ぶのだよ!」

 

「……ここでの役目は終わったって言いたいのか?」

 

「然り。人理焼却という大圧政は潰えた。圧制者足らんとする叛逆者よ。君自身の真の叛逆はここより始まるのだ。その旅路に私という亡者は不要であろう」

 

「スパルタクス……」

 

「マスター、圧政なくして叛逆は生まれぬ。そして、君の圧制は常に自らを圧制せんとする者達への叛逆であった。その志が消えぬ限り、我らの道は何れ交わることだろう。そして、君が真の意味で圧制者となった時、我が腕の中で君は潰えるのだ」

 

熱のこもった眼を輝かせながら、スパルタクスは語る。

思えば第二特異点で初めて出会った時から、彼には苦労させられた。

魔獣を一撃で仕留めるその剛腕は、時として味方であるはずのこちらにまで向けられる。

彼にとって敵もマスターも等しく圧制者であるからだ。

だが、支離滅裂な事を口走りながらも、自分自身に課した叛逆というルールからは決して外れる事無く己を貫く姿勢は美しくもあった。

その逞しい背中に、強烈な父性を垣間見た。

逆境を前にして、我を貫くという自分にはないものを持っていた彼の背中に憧れたのだ。

きっと自分は、生涯において忘れる事はないだろう。ローマでの最後の戦い。こちらが課した令呪に抗い、吹雪に苛まれながらも向かってきたスパルタクスの雄姿と恐ろしさを。

 

「スパルタクス」

 

「うん?」

 

「僕はただじゃ叛逆されたりしないからな。次に会った時、お前がいの一番に飛びかかってくるような大人(圧制者)になっていてやるよ」

 

この誓いに証明は必要ない。決めたからには必ずなるのだ。

スパルタクスが笑いながら向かってくるような、一人前の魔術師になってみせる。

残った人生の全てを賭けて、彼の宿敵として足る男へとなってみせる。

それが自分にできる、彼への精一杯の手向けの言葉だ。

 

「ははは! そう、その意気だ! ははは! まさか私が圧制の芽吹きを願う日が来るとは。では、マスター。君がその頂に上り詰めた時、私は必ず帰ってこよう。それでは――――叛逆(サヨナラ)!」

 

朗らかな笑みを残し、叛逆の徒は去っていく。

その背中が見えなくなるまで、カドックはその場で彼を見送り続けていた。

 

 

 

 

 

 

黒髭エドワード・ティーチの部屋は凄惨な有様であった。

あちこちに散乱しているアニメグッズにゲームソフトの山、棚に陳列しているフィギュアの数々。そして、床の上には無数のごみが所狭しと敷き詰められている。

その中央で一心不乱にテレビの画面とにらめっこしているのは、我らが船長であるエドワード・ティーチだ。

相当の疲労が溜まっているのか、頬がこけて目の下には隈までできている。

 

「船長、何を……」

 

「見て分からない!? ゲームしているのゲーム!」

 

「いや、それはそうだけど……」

 

そういえば、昨日のパンデミックの際も大量の栄養剤を抱え込んで籠城していたが、その時からずっとやり続けているのだろうか?

 

「まだ退去のリミットまで時間があるでござる! CGのコンプ! 隠し含めた全キャラ攻略! 全力で挑めば、ソフトの一本や百本!」

 

「いや、無理だろう。諦めろよ」

 

「海賊が夢見なくてどうするでござる! たかが三日の徹夜がなんだ! くそっ、連射パッドがいかれやがった!」

 

叫びながらティーチは床に置いていたコントローラーを拾い、携帯ゲーム機を操作しながらテレビに繋いでいるゲームの方も器用に進めていく。

オケアノスで垣間見た凶暴性は微塵も感じられない、どこから見てもただのギークのオッサンだ。

だが、そんな彼も一たび戦場に立てば勇敢な海の男へと変貌する。

逆らう奴には容赦せず、従う部下にも牙を剥く。そんな狂犬のような男は、誰よりも強欲で夢見がちな海賊であった。

貪欲な彼の姿勢を少しでも見習うことができたであろうか。

もう自分は彼の部下ではないけれど、心の中では彼はいつまでも自分の船長だ。

いつか自らの旗を掲げた時、彼と隣り合って立つことが許されるような男になりたい。

そんな風に思わせる強いカリスマをあの時の彼は持っていた。

今は、見る影もないが。

 

「あー、もう! カドック氏、こっち持って! 手伝うでござるよ!」

 

「僕は機械のゲームは下手くそだぞ! 刑部姫にでも頼めばいいだろ!」

 

「彼女は作家勢に交じって修羅場っているところでござる! なあに、拙者の腕でカバーすれば良いだけのこと! さあ、超協力プレーで、クリアするでござる!」

 

尚、黒髭痛恨の操作ミスにより、開始3秒でゲームオーバーしたことをここに追記しておく。

 

 

 

 

 

 

メフィストフェレスというサーヴァントは、他のサーヴァント達と毛色が違う。

彼は一見して従順に仕えているように見えて、実際はマスターを裏切る機会を虎視眈々と狙っている。

彼にとってマスターは自分が楽しむための玩具であり、故に面白みがなくなれば主を絶望に叩き落とし、殺すことも厭わない危険人物だ。

裏切るために仕える。その矛盾すらも彼にとっては笑いを生み出すジョークに過ぎない。

ロンドンで出会ったメフィストフェレスも、当初は味方のふりをしていたが、実際は黒幕の命令を受けてスパイ活動の為に近づいてきたのだ。

その結果がどうなったかは、語るまでもないだろう。

 

「いやはや、最後まであなた様をこの手にかける事はありませんでしたな。わたくし、嬉しいような悲しいような」

 

「心にもない事を言うもんじゃない」

 

「そうですか? では、遠慮なく。あなた様が絶望で顔を歪める様が見れなくて残念でなりません。あひゃひゃひゃひゃ!」

 

ジョークグッズと実験器具で埋め尽くされた自室兼工房で、メフィストフェレスは道化師のように笑い転げる。

その言葉が冗談でも何でもない本心だというのだから質が悪い。

他の英霊達ならいざ知らず、彼にだけは絶対に心を許してはならないのだ。

 

「はぁ……来るんじゃなかったよ」

 

「あはは! そんなつれない事を仰らずに! わたくしも少しは見直しているのですよ。この退屈なマスターが、見事に世界を救ってみせたのですから。それにあなたはツマラナイ人ですが、わたくしの手練手管を見抜いて捌く様は目を見張るものがありました。裏切ると分かっていて尚、わたくしをカルデアに残し続けたあなた様にはちょっぴりですが敬意なんて抱いちゃっているんですよ!」

 

「そりゃどうも」

 

薄っぺらい軽薄な誉め言葉なんてもらっても嬉しくとも何ともない。

ただ、彼のように倒錯した英霊や悪性の者もいるのだと骨身に染みた事は、感謝しないでもない。

反面教師としては彼以上の逸材はいないだろう。

 

「そう思って頂けたのなら幸いです。では、どうか別れの握手を」

 

「ああ、世話になっ――っ!!!!?」

 

差し出された手を握った瞬間、手の平を通じて刺すような痛みが駆け抜けた。

メフィストフェレスの顔がしてやったりと歪んでいく。

手袋に電気ショックを仕掛けていたのだと気づくのに時間はかからなかった。

 

「メ、メフィスト……」

 

「あひゃひゃひゃ! それではマスター、お達者で!」

 

口角を釣り上げ、文字通り悪魔のような笑みを浮かべてメフィストフェレスは自室を跡にする。

カルデアの悪魔は、そうして裏切りを許さなかった己が主に一矢報いて見せたのであった。

 

 

 

 

 

 

その部屋は既に、もぬけの空であった。

トーマス・エジソン。第五の特異点、北米大陸において共に戦った同士。

綺羅星の如き英霊達の中で、自分と同じく持たざる状態からのし上がった不屈の発明家。

彼との出会いは迷いの中であった。

自分の力は魔術王には及ばない事を思い知り、人類史の未来を背負うという取り返しのつかない責任の重さに押し潰されそうになっていた時に出会った救いであった。

とことんまで追い込まれていながら、それでも勝利を謳って突き進む姿を支えたいと思った。彼を勝たせてあげたいと思った。

それがカルデアの理念に背を向ける事になると分かっていながら、カドックは手を貸した。

それは大きな挫折ではあったが、この出会いがなければきっと自分は立ち上がれなかっただろう。

正に人との出会いは運命であり、見えない引力のようなものが働いているのだと、今になって思い返す様になった。

ならばこそ、最後に言葉を交わしたいと思ったのだが、どうやら一足遅かったようだ。

 

「トーマス、行ったのか……」

 

テーブルの上には自分宛ての書置きと小包が一つ、置かれていた。

差出人は言わずもがな、この部屋の主であったエジソンだ。

 

『我々に別れは不要。君の輝かしい未来を応援している。追伸、努力を惜しまないのならきちんと朝食を摂りなさい。天才の発明は三食の食事からだ』

 

しばらくの間、手紙と小包の中身を交互に眺めていたカドックは、段々と堪え切れなくなって零れだした笑みを片手で覆い隠した。

 

「おいおい……それはあんたの宣伝文句だろ……」

 

手紙に書かれていた文面は、エジソンが生前に口にした言葉の一つだ。どうして素晴らしい発明ができるのかという問いかけに対し、エジソンは食事を一日三回摂っているからだと答えたらしい。

ただし、当時のアメリカでは朝食を摂る文化が根付いておらず、一日の食事は二食が定番であった。エジソンは自社の発明品を売り出すために誇大広告やネガティブキャンペーンも率先して行っていたが、その時も自らが手掛けた調理器具が売れるようそのように答えたのではないのかと言われている。

その調理器具とは何か。それは現在の中流以上の家庭ではなくてはならない調理器具、電気式トースターだ。

これにより、手軽にパンを焼けるようになった人々に朝食文化が浸透していき、やがては世界中に広がっていったのだから、エジソンという人間の影響力が色々な意味で大きかった事を伺い知ることができる。

そして、偉大な発明王がマスターの為に残していった最後の発明品は、やはり真新しい銀色の輝きを放つトースターであった。

これでパンを焼いて、しっかり食事を摂ってから修練に励むようにと、エジソンは言いたいのだ。

 

「ありがとう、トーマス……けど、これって直流だよな。どうやって使えば良いんだ?」

 

 

 

 

 

 

廊下を歩いていると、奇妙な格好をした人物に遭遇した。

全身黒ずくめの装束の上から、白いエプロンと頭巾を身に付けた髑髏面の暗殺者。いつもの短刀ではなくモップとバケツを手にしており、上機嫌に鼻歌なんぞを歌いながら長い廊下を水拭きしている。

その様子を目にしたカドックは、思わず我が眼を疑って手で擦ってみるが、やはり結果は同じであった。信じられないことに、山の翁の一人である呪腕のハサンがエプロン姿で小間使いの真似事をしていたのだ。

 

「な、何しているんだ?」

 

中東の地で初めて出会った時から、暗殺者の癖に人の好さが滲み出ていたが、今回のこれはあまりにも衝撃が大きい。何というか、似合い過ぎている。

風貌は怪しい事この上ないが、何故だかとても似合っているのだ。「一家に一人ジャスティスハサン」。立香ならそんなことを言い出しそうなくらい、とても堂に入った掃除っぷりだ。

 

「おお、魔術師殿。いや、何でも遠い東の国には立つ鳥跡を濁さずということわざがあると聞きまして、お世話になったカルデアにせめてものお礼をと」

 

「クリスマスパーティーの後、ずっとやっていたのか? 今日中に終わらないだろ?」

 

自分がトイレ掃除をさせられた時だって、全部を終えるのに一ヵ月近くもかかったのだ。

サーヴァントの身体能力がいくら規格外とはいえ、とても一日ではカルデア中を掃除し終えることなど不可能だ。

すると、呪腕のハサンは秘策ありとばかりに肩を震わせる。その理由は程なくして判明した。掃除をしていたのは、彼だけではなかったからだ。

 

「呪腕の、窓拭きは全て終わったぞ」

 

「こちらも終わりました」

 

通路の向こうからやって来たのは、同じくかつての特異点で共に視線を潜り抜けた翁達。百貌のハサンと静謐のハサンであった。

なるほど、百貌のハサンがいれば人海戦術が取れる。八十人近くで手分けすれば、カルデア中を掃除するのも難しくはないだろう。

 

「ふん、実質、私一人でやっているようなものだ。だが、仮にも忠義を誓った者が住まう場所。最後くらいは従者らしく振る舞うのもやぶさかではないと、頭の中で何人も騒ぐものだからな」

 

「と言いつつ、百貌様がとくに張り切っておられたような気がしますが」

 

「私は凝り性なだけだ! そういう静謐こそ、いつになくやる気に満ちているではないか!」

 

「はい、藤丸様のお役に立てるのは嬉しいです。あ、いえ……もちろん、カドック様のお力にもなりたいと思っています」

 

薄く頬を赤らめていた静謐のハサンは、途中で自分が口にした言葉に気づいて慌てて我に返る。

申し訳なさそうに委縮する姿を見て、カドックは気にしていないと手を振ってみせた。

静謐のハサンにとって立香は特別な存在で、同じマスターでありながら明確な線引きが成されている。

己の毒が通ずるか否かは彼女にとってとても重要な要素であり、自分に対してはあくまで忠節を誓うだけなのに対し、毒が利かない立香には積極的に好意を向けているのだ。

もっとも、彼女からのアプローチがどのようなものなのかを立香から聞かされたカドックは、自分に対毒のスキルがなくて良かったと、密かに安堵しているのだが。

 

「まあ、最後なんだし無理はしなくていい。気持ちだけでもみんな、喜んでくれるはずだ」

 

「はい、ありがとうございます」

 

「魔術師殿、良いお年を」

 

「機会があればいつでも呼べ。我ら山の翁、お前に対しては協力を惜しむつもりはない」

 

三人のハサンに見送られ、カドックは次なる英霊を求めてその場を去る。

後に残されたハサン達は、マスターが見えなくなるまでジッとその背中を見送っていた。

 

「行かれたか。では、続きを始めよう」

 

「はい……あ?」

 

「どうした、静謐?」

 

「ゴム手袋に穴が……大浴場を掃除していたら、どこかで引っかけたのでしょうか?」

 

「…………」

 

しばし、奇妙な沈黙が三人を包み込む。恐らくは数秒の硬直であったであろう。

まず真っ先に動いたのは、百貌のハサンであった。自らの人格の内の何人かを実体化させ、大声で命じる。

 

「迅速! 巻風! 速尾! 急いで人払いしろ! あの鐘が聞こえ――いや、犠牲者が出る前に!」

 

 

 

 

 

 

その後もカドックは、出来る限り多くの英霊達と言葉を交わし、別れを惜しみ、思い出話に花を咲かせていった。

そうしている内に通路ですれ違う影が一つ、また一つと減っていく。

時刻を確認すると、既に月が昇る時刻であった。

全員とはいかなかったが、結構な数のサーヴァント達に挨拶をする事ができた。

昼過ぎから始めたにしてはまずまずの結果だ。

そして、一先ずは一息を吐こうと思い、手近な休憩スペースを探していると、通路の向こうから見知った僧服の少年がやって来た。

第七の特異点で何度も窮地を救ってくれた極東の聖人、天草四郎だ。

 

「ああ、マスター。丁度良かった。あなたに伝言を預かっています」

 

「伝言?」

 

「皇女様からですよ。管制室裏のサロンで待っているから、後で来るようにとのことです。詳しくはこちらを」

 

そう言って、四郎はアナスタシアからの伝言が書かれたメモを差し出してきた。

カドックは一言、礼を述べてからメモを受け取ると、素早く目を通してポケットの奥へとしまい込んだ。

 

「シロウはこれから、管制室に?」

 

「ええ、みなさんに別れも済ませましたし、最後にマスターにご挨拶をしてから退去しようかと」

 

「そうか……もう、最後なんだな」

 

「結局、ここでも私の願いは叶いませんでした。或いは、もしやとも思っていたのですが、やはり正規の聖杯戦争で勝ち残るしかないのかもしれませんね」

 

どこか遠い場所を眺めるように、四郎は呟いた。

彼が抱いている願いが何なのか、きちんと問い質した事はない。一度だけ、自らの願いの為に騒ぎを起こしたと聞いていたので、デリケートな問題なのではないのかと思って踏み込まなかったからだ。

ただ、少なくとも悪意ある願いではないという予感はあった。どこか胡散臭くて信用ならないところはあるが、彼の信仰だけは確かな本物であったからだ。

彼は決して、神に背くような人物ではない。なら、例え聖杯への願いが好ましくないものであったとしても、きっと発端となった思いは尊いもののはずだ。

 

「まあ、今更聞くつもりはないけれど……頑張れよ」

 

「……ええ、ありがとうございます、二度目の生で出会えた友よ」

 

どちらからというでなく握手を交わす。

苦楽を共にした友人との別れにしては素っ気ないものだったが、自分達にはこれで十分だ。

彼は友人ではあるが、特異点で絆を深めた彼ではない。よく似た別人なのだ。

だから、これで十分なのだ。

そして、最後に四郎が見せてくれたのは、普段の超越的な態度とは違う、年相応のあどけない笑顔であった。

 

 

 

 

 

 

指定した刻限になるのを待って、カドックは管制室裏にあるサロンを訪れた。

サロンと言っても、今は物置として使われている古い部屋だ。スタッフの間では怪談染みた噂が流れていることもあり、近づく者もほとんどいない。

そんな寒々しい部屋の中央で、彼女は待っていた。

聖杯探索の旅路において、自分のパートナーであったサーヴァント。

絶望し、挫折しそうになる度に奮い立たせてくれた最良のパートナー。

彼女が――アナスタシアがいなければ、きっと自分は本懐を遂げる事はできなかった。

あの七つの特異点のどこかで心が折れていたことだろう。

 

「明かりは点けないで」

 

壁のスイッチに手を伸ばしたところで、アナスタシアに制止される。

非常灯は点いているので、物が見えないこともないが、それでも部屋の中は薄暗く彼女の表情もよく分からなかった。

何故、と聞き返しそうになって、カドックは慌てて言葉を飲み込んだ。

表情も読み取れない闇を挟んで、訴えるような強い眼差しと目が合ったからだ。

ただならぬ気配を感じ取り、カドックは何も言わずにそっと壁に伸ばした手を引っ込めて自身のサーヴァントへと向き直る。

 

「お待ちしておりました、私の皇帝陛下」

 

スカートの裾を持ち上げ、片足を内側に引いたアナスタシアは優雅に腰を曲げる。

暗がりで表情こそよく見えなかったが、ドレスを纏い凛とした声を張る様は、まるで絵本か何かから飛び出してきたかのような光景であった。

美しくも浮世離れした光景に、カドックはしばし唖然となった。

改めて、彼女が皇族の出であることを実感する。

自分なんかとは本来、住んでいる世界が違うのだ。例え同じ時代に生まれていたとしても、互いの人生が交わることはなかっただろう。

しかし、自分達は出会うことができた。

人理焼却が、聖杯探索が二人を引き合わせた。

国を超え、時代を超え、世界線すら飛び越えて交わる筈がない者が繋がりを持てたのだ。

その偶然に感謝しよう。

この幸運に賛歌しよう。

二度と交わることのない、世界でたった一つの偶然に感謝(キス)をしよう。

ここには見咎める者は誰もいない。

ここには邪魔する者はだれもいない。

そう思うと自然と体が動いていた。

ぎこちなく、不格好な姿勢で片膝をつき、差し出された皇女の手をそっと掴む。

あの日のように、ファーストオーダーから生還したあの時のように、掴んだその手にそっと口づけを添える。

 

「……お招き頂き、光栄です。皇女殿下」

 

それ以上の言葉はなかった。

少年は促されるままに立ち上がり、伸ばした左手を彼女の右手に絡め、右手は背中にそっと添える。

互いの半身が密着し、息遣いがとても近い位置にあった。吹きかけられる吐息と、鼻腔をくすぐる微かな香り、伝わってくる体温に思わず鼓動が跳ね上がる。

暗闇で見えないが、きっと今、二人は耳まで真っ赤になっていることだろう。

そのまましばらくの間、暗闇の中で二人は抱き合ったままであったが、やがて意を決して皇女が一歩を踏み出した。

それに合わせて少年は自身の足を動かし、お互いのリズムと呼吸を探りながらぎこちないステップを踏んでいく。

それは華やかな音楽も豪奢な明かりもない、寒々とした暗闇の中での二人っきりの舞踏会であった。

皇女は誰かと踊ったことなど数えるほどしかなかった。

少年に至っては、踊り自体が初めてであった。

それでも二人は離れる事無く互いの存在を噛み締め合い、不器用なダンスをいつまでも続けていた。

そして、どれほどの時が経っただろうか。不意に皇女が少年の耳元で小さな声を囁いた。

 

「ダメね、てんでダメ。まだまだ練習が必要です」

 

「……だろうね」

 

当たり前のことを指摘され、カドックは苦笑する。

それを承知で誘ってきたのは彼女の方なので、怒る気にもならなかった。

 

「良かったのかな、これで?」

 

「ええ……最後まで一緒に、手を繋いで……踊りはへたくそだけれど、私の相手が務まるのはあなただけよ、カドック」

 

「僕の方こそ、君でなければダメだった。他の誰がパートナーでも、きっと上手くいかなかった」

 

「いいえ、あなたなら成し遂げたわ。けど、今は聞いて上げる。あなたのパートナーは、私だけだって」

 

その時、掴んでいた彼女の手の感触が急に消え去った。

手を解かれたのかと慌てて暗闇の中を探すが、どういう訳かいくら手を振ってみても彼女の右手は見つからなかった。

そして、不意に触れた肩の感触で、カドックは今の彼女の姿に思い至った。

右肩から手の先にかけての存在が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていたからだ。

 

「アナスタシア? まさか……」

 

「ええ、カルデアからの魔力供給はもうありません。サーヴァントは今日中に退去しなければならないのでしょう? けれど、帰還措置なんて受けていたら、あなたと過ごす時間がなくなってしまうじゃありませんか。だから、これで良いの」

 

こちらの背に添えられていた左手も、いつの間にか消え去っていた。

存在維持に必要な魔力が底を尽き、アナスタシアの体が少しずつ霊子の粒へと崩れていっているのだ。

自分のような未熟な魔術師では、サーヴァントの肉体を維持できるほどの魔力なぞ用立てることはできない。

パスを広げ、どれほどの魔力を注ぎ込もうと、彼女から抜け落ちていく量の方が遥かに多いのだ。

それでもカドックは、せめて少しでも彼女がこの世界に残れるよう魔術回路を活性化させようとしたが、それはアナスタシアの制止によって遮られた。

 

「良いの……こうなることは、最初から分かっていたことでしょう?」

 

「けど……それでも……だって、こんな……」

 

いざ、その瞬間を前にして言葉が上手く出てこなかった。

言いたいことはたくさんある。語りたい思い出もたくさんある。感謝の言葉なんて、聞き飽きるほど語れる自信があった。

けれど、喉は絞られたかのように意味のある言葉を発せず、ただ消えゆく彼女に縋ることしかできない。

何て無様な姿だろう。こうならないために、後悔しないように心掛けてきたつもりなのに、何一つとしてうまくいかないなんて。

 

「顔を上げなさい、カドック。私の可愛いマスター。そんな悲しそうな顔をしないで。これは終わりじゃないの」

 

「終わりじゃ……ない?」

 

「ええ。私は消えてしまうけれど、後に残るものはある。あなたが教えてくれたことなのよ、カドック」

 

「僕が、何を……」

 

何をできたというのだろうか。

こんな未熟なマスターが、彼女にいったい何ができたというのだろうか。

死という終わりを突き付けられ、最期まで道化でい続けた皇女。

その無意味な努力に自分はいったい、どんな意味付けができたというのだろうか。

 

「死は終わりではない。例え私が消えても後に残るものはある。だってそうでしょう、私達はあの時間神殿で既に終わっていたはずなの。けれど、世界はこうして続いている。あなたがしてきた努力は決して無駄なんかじゃなかったんだって、この大きな世界が証明している。だから、私はもう大丈夫。死ぬのは怖いけれど、あなたという残るものがあるのなら……私の過去があなたという未来に続くのなら、あの冷たい地下室に戻ってもきっと大丈夫」

 

「アナスタシア……僕は……」

 

君がいなくても、やっていけるだろうか。そんな弱々しい言葉を口走っていた。

すると、アナスタシアは優しく微笑みかけながら、既に形をなくした手をこちらの頬に添えて、力強く頷いて見せた。

 

「大丈夫。言ったでしょう、あなたはきっと正しく為すべきことを為すと。けれど、それでも自信が持てない時は……私に会いに来て……ずっと、待っているから…………」

 

微笑んでいるであろうアナスタシアの姿を見る事は叶わない。秒と共に存在が薄れていく彼女の痛ましい姿を暗闇のヴェールが覆い隠しているのだ。

最早、猶予は残されていなかった。

十二時を告げる鐘の音。シンデレラは舞踏会から去らねばならない。しかし、ここにはガラスの靴(残すもの)などなく、彼女はただ一つの思いだけを口にしてこの世から去っていく。

一人でも生きていける、きっと大丈夫。

告げられた励ましから耳を塞ぎたかった。行くなと剥き出しの心が叫びたがっていた。

けれど、それは彼女の為にはならない。この二年間を、自分と共に確かに生き抜いたアナスタシアという少女は、仮初の存在であり死者であることに変わりはないのだ。

死者は生者と共にはいられない。そして、彼女が自分の側にい続けては、きっと自分は歩き出すことができない。

新しく始めるためには、この別れは必然だったのかもしれない。自分という未来を進めるために、彼女は過去へと戻っていくのだ。

 

「もう、時間ね……最後に、一つだけ伝えないと」

 

強く、意思の籠った声で彼女は言った。

薄れていく存在。声すら彼方にあるかのように聞き取れず、カドックは一言一句逃すまいと彼女の言葉に耳を傾けた。

精一杯の強がりと共に、いつもと同じように、素っ気ない態度で聞き返す。

 

「ああ、どんな?」

 

すると、彼女の真っ直ぐな眼差しがこちらに向けられた。

絡み合う互いの視線。

皇女は後悔のない声で、ただその一言を告げた。

 

「カドック――――あなたを、愛しています」

 

暗闇に慣れた目が瞬きをした一瞬、部屋の空気が変わった。

一瞬前まで確かにそこにいた彼女の気配は既になく、ひんやりと冷え込んだ部屋には自分以外の誰も存在しなかった。

時刻は午前零時。

12月25日。その最後の瞬間と共に、彼女はこのカルデアから去っていった。

ほんの僅かな冷気を名残として残して、アナスタシアは目の前から消え去った。その事実を確かめるように手を伸ばし、指先に彼女が確かにここにいたという感覚を刻み込む。

 

「ああ――――本当に、君らしい」

 

後悔だらけの声。悔いしか残らない別れ。

失ったもの、残ったものを胸に抱いて、ただ指先の冷気を愛おし気に感じ取る。

ここにはもう彼女はいない。一方的に、自分の言いたいことだけを言い残して逝ってしまった。

何て狡い女だ。最後の最後で、こんな悪戯を仕掛けていくなんて。

もう自分の胸の中には彼女しかいない。他の余分なものが入る余地なんてどこにもない。

それほどまでに、最後の言葉は鮮烈だった。決して、忘れることなどないだろう。

頬を伝う雫の痛みを、決して忘れることはないだろう。

きっと、忘れることはないだろう。

 

 

 

 

 

 

――――銃声が轟いた。

視界が明滅し、世界が渦を巻いて反転する。

見上げた天井は高く、何人もの男達がこちらを見下ろしている。

何が起きたのかわからない。いや、わかってはいても心が理解を拒絶する。

だから、熱を持ったこの痛みが何なのかもわからない。

それでも痛みは一秒ごとに加速していき、途方もない混乱と引きずり込まれるような恐怖が襲ってくる。

救いを求めて伸ばした手は、虚しく空を切るばかりだった。

その手が温もりに触れる事は二度とない。愛する家族は嘲笑う兵士達によって無残な姿を晒していた。

終わってしまうと心が嘆く。

今日までの努力、今日までの逃避が意味を成さなくなる。

わかっていた。

こうなることはわかっていた。

自分達に逃げる場所はなく、生かされる場所もない。

この世界で生きていていい場所がないことくらい、幼い弟でも知っていた。

それでも願っていた。

昨日までと同じ一日が、今日も訪れて欲しいと。

けれど、結局は無駄だったのだ。

どんなに拒絶しても終わりは訪れる。

どれほど願っても死はもたらされる。

ならば、最初から願わない方が良かった。

生きたいなどと思わず、ただ流れに任せておけば、この日の痛みも受け入れられただろうか。

あの生きたまま死んでいく毎日に抗い、生きたいと笑っていたことが無為であったのだろうか。

ならばもう必要ない。

命が失われる瞬間がこんなにも苦しいのなら、もう生きたいなどと思わない。

嘲笑う兵士達に向けて憎悪が込み上げる。

人生で初めて抱いた強い感情。それを自覚した瞬間、苦痛は快感に反転する。

殺してやると少女は祈る。

昨日までの自分を、明日を夢見て道化を演じた自分を殺したこの男達を許さないと。

ただ生きたいと願った少女の思いを踏みにじったこの野蛮な兵士達を許さないと。

すると、声が聞こえた。

それは聞き覚えのある優しい声音だった。

まるで母のように慈愛に満ちた囁きだった。

三秒後に死ぬ自分を、守護天使のように「彼女」は抱きしめていた。

その綺麗な眼で、じっとこちらを見つめていた。

 

――――大丈夫。今は怖いけれど、あなたはいつかとても美しいものを目にします。だから、今はお休み……ヴィイと共に、瞼を閉じなさい――――

 

ああ、きっと彼女がそう言うのなら、それが正しいのだろう。

だって、あんなにも幸せに満ちた笑みを浮かべられるのなら、きっと良いものをその眼で見てきたはずだ。

それは母親が寝物語を語り聞かせるかのような、全てを受け入れてくれる包容力に満ちた眼差しであった。

 

(ねえ、あなたは何を視たの?)

 

――――とても愛おしいものよ。あなたもいずれ、分かるわ。だから、今はお休みなさい、アナスタシア――――

 

慈愛に包まれながら、少女の意識は遠退いていった。

その眼が何かを視る事はなく、何れ出会う物語に思いを馳せながら、少女は懐かしい家族との思い出に浸りその日を待つ。

それは雪の降る寒い夜の事。

一人の皇女が生涯を終えた瞬間であった。




はい、予想外に間が空きました。
今回、なかなかの難産で筆が全然、進みませんでして。
エピローグは後、もう少しだけ続きます。



今度のイベント、誰が限定で来ますかね?
ミッチーくるのか?
徳川くるのか?
大奥だし春日局とかだったりして?

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