Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女 作:ていえむ
それは長い夢を見ているような気分だった。
迷宮へと変質した海洋油田施設。跳梁跋扈する異形の怪物達。仲間とはぐれ、死と隣り合わせの環境に放り出された哀れな道化。
そんな道化は一人の少女と出会った。
彼女は強く、脆く、儚く、危うかった。
その手は容易く巨岩を砕き、足は群がる異形を踏み潰す。
立ち塞がる障害は蹴散らしながら進む様は一騎当千。
しかし、その内面は幼く夢見がちな少女のままであった。
世界を壊せる力を持ちながら、花嫁になって幸せになることを夢見るごく普通の少女だった。
彼女と共に駆け抜けた深海の迷宮。
あれは本当にあった出来事なのか、それとも一夜の幻か。
問いかけに答える者はいない。
証明は、永遠に為される事はなかった。
□
光すら差さず、見渡す限りの暗黒の世界。
それもそのはず、ここはまだ宇宙が生まれる前の最果ての向こう側。
何十億年も前に起きたビックバン以来、膨張を続けてきた宇宙を超え、連なる幾つもの銀河系を突き抜けた先へと自分は辿り着いた。
ここには何もなく、ここでは何も生まれず、故に死すらも存在しない無の領域。
拡張を繰り返し、限界を再設定し、幾つものバグすら飲み込んでまで成長を望んだ渇愛の花が行きついたのは、そんな虚無で彩られた世界であった。
或いは自らの上に宇宙があるのだとしたら、自分もまた宇宙の一部なのではないか。
そんな哲学めいた考えも浮かんでは消えていくほど、緩慢な時を過ごしていた。
そもそも時間という概念すら存在しない。光が未だに追いついていない外の領域は、時間すら存在しない永遠の世界なのだ。
(もう、見えなくなっちゃった……)
何千億光年も向こうにあるであろう青い星に、キングプロテアは想いを馳せる。
もう思い出すことも困難な遠い過去の出来事だが、大切な人がいて、とても愛おしい時間を過ごした気がする。
あれはどこかの海の底で起きた、小さな出会いであった気がする。
一人ぼっちで過ごしてきた自分が出会った、大切な人。
この世界でたった一人の人。
かけがえのない、大切な■■。
あの人から思い出を貰えたからこそ、内なる女神を解き放つ覚悟を持てた。
(くうくうおなかがすきました)
飽きるほど繰り返した独白。
欠落のような空腹は消える事なく己を苛む。
きっとこの寂しさが消える事はないのだろうと、キングプロテアは確信していた。
怪物は怪物らしく、孤独のまま消えていくのだと自嘲する。
彼女の声が聞こえたのは、その時であった。
「……なんて、悲劇のヒロインぶるのもそこまでにしなさい、キングプロテア」
パチン、と指の鳴る音がする。
次の瞬間、暗黒の宇宙の一部と化していたキングプロテアの意識は、遥か彼方の青い星にいるはずのBBのもとへと引っ張られていた。
まるで放り投げられた荷物のように、固い床の上へと尻餅をつく。
痛みで思考がスパークし、小さな声を思わず上げてしまった。
「ここは……わたし、どうして?」
自分の体が小さくなっていることに、キングプロテアは驚いた。
椅子も机も自分より大きく、背伸びしても天井まで手は届かない。
毒で体を蝕まれていた時と同じ、幼い姿になってしまったようだ。
「戻ってきましたね。まったく、最後まで手間をかけさせて」
「お母……様?」
両手を腰にあて、眉間に皺を寄せたBBがこちらを見下ろしていた。
確か、BBは二人いて青い瞳の方は味方だったはず。そういえば、ちゃんと向き合って話すのはこれが初めてだ。
もう一人のBB――BB/GOに襲われた際に助けてくれた時も、彼女は自分の側には近づこうとしなかった。
「あなたの頭脳体を本体から引き抜き、ここまで呼び寄せました。まったく、いくら『ヒュージスケール』で自己拡張ができるといっても限度があります。おかげであなたをサルベージするのに、センパイをちょろまかしてヘソクリしていたリソースまで使い果たす羽目になりました」
呆れ半分、驚き半分といった表情を浮かべながら、BBはため息を吐いた。
どうやらBBは、あの遠い宇宙の果てから自分を連れ戻してくれたようだ。
そこにどんな意図があるのかは分からないが、とりあえず感謝くらいはしてあげても良いだろう。絶対に、口には出すつもりはないが。
「む、何か言いたいのなら口に出しなさい、キングプロテア」
「え? いえ……えっと、マスター達は?」
肉体という余分なものとの繋がりが断たれたからか、ビースト/CCCによって虚数空間に追放された後の出来事も少しずつ思い出せてきた。
あの時はとにかく無我夢中で周りに気を使う余裕もなかったので、ひょっとしたら彼らを巻き込んでしまっていたかもしれない。
もしも、誰かを踏み潰してしまっていたらどうしようと、背中が小さく震えた。
「みんな無事です。今はまだ眠っていますが、直に目を覚ますでしょう。ですが……」
BBが言い淀むと、指先から光る粒子のようなものが舞い上がった。
それは肉体――と呼んでいいのかは分からないが、とにかく自分を構成している魔力が少しずつ綻んでいっているせいであった。
元々、BB/GOによって注射された悪性情報に霊基を蝕まれていたのだ。そんな状態で無理に体を成長させれば、決定的な破損が起こるのも無理はない。
恐らく、マスター達が目を覚ますまでこの体は保たないだろう。
「お母様、わたしはこれから、どうなるんですか?」
普通のサーヴァントは消滅しても英霊の座に還るだけで、存在がなくなる訳ではないらしい。
だが、自分は正規のサーヴァントではない。ビーストによってSE.RA.PHが再現された際、共に産み落とされたイレギュラーなのだ。
消えてしまえばそれまで。もう一度、あの人達に会う事は叶わない。
その寂しさに胸の奥が痛んだ。
もう二度と、彼らと話せないことが堪らなく寂しくてお腹が鳴った。
「ええ、消滅は避けられません。この世界にはムーンセルはなく、わたし達を回収してくれるものはない。あなたは言わずもがな、役目を終えたわたしもこの特異点の消滅と共に消え去る運命です。ですが、それはお行儀のいいムーンセルの考えです」
言葉を切ったBBが、不敵な笑みを浮かべて見せる。
さすがは違法行為が食後のスイーツよりも大好きなだけはある。何か、考えがあるようだ。
「わたしは月の蝶、ムーンキャンサーBBちゃん。あなたをこの世界におけるイレギュラーとして登録し、サーヴァント化させるのも可能なのです!」
えへん、とばかりに豊満な胸を弾ませる。
思わず自分の小さな胸に手を当て、どうしようもなく凹凸がないことにため息を吐いた。
自分の理想は大きくて可愛い女の子だ。小さな体には不満しかない。
もっとも、それは今は関係がないことだ。BBは自分達をサーヴァント化させ、再召喚を行わせることができると言った。それはいったい、どういうことだろうか?
「わたし達は消滅しますが、その核をキューブ化して保存、サーヴァントとして、人類の道具として再利用します。その際には英霊達同様、常に新しい自分として召喚されるでしょう…………つまり、今のあなたが消滅する事に変わりはありません。それでも構わないと言うのなら、その処置を施しましょう」
今の自分は二度とは存在しないと、BBは言う。
SE.RA.PHでの戦いの記憶も、そこで育まれたマスター達との絆も全て、ゼロに還ってしまう。
悩み、迷いながら成長できた今のキングプロテアは、どこにも逝きつくことなく消えてしまうことに変わりはないのだ。
それでも構わないと、キングプロテアは頷いた。
もう一度、新しい自分があの人達と会えるのなら、この一時の別れも受け入れられると安堵する。
だが、その答えを口にすると、BBは意外そうに眼を丸くした。
「驚いた。独占欲の強いあなたの事だから、今の自分が報われないと駄々をこねると思ったのに」
霊基が同じかどうかは関係がなく、今の自分が救われなければ納得ができない。
BBが言うように、かつての自分ならそのような反応を返していただろう。
また彼らに出会えるということも、外の世界を見られるかもしれないという希望にも目を向けず、ただ目の前の空腹を何とかすることしか考えていなかったであろう。
もちろん、今だってお腹は空いている。空き過ぎて痛いくらいだ。けれど、お腹より少しだけ上の部分がとても充足していて、何かを食べようという気が起きなかった。
ぬるま湯に浸かっているような、とても満ち足りて安心した気持ちだった。
「構いません。私はもう、お腹いっぱい愛されました」
ただ愛されることを望むのではなく、誰かと愛し合うという繋がりを知った。そして、時には見返りすら求めない誰かに恋をするという気持ちを知った。
愛と恋を自分は手に入れたのだ。それらはとてもキラキラしていてお腹がいっぱいだ。
愛を知らなかった怪物が、人並みに愛されて消えていく。こんなにも満足できる結果があるだろうか。
キングプロテアはここで死ぬ。
この特異点と共に、たった数日の思い出だけを胸に死んでいく。
そこに恐怖も不安もない。
胸に芽生えた温もりがあれば、自分という存在が消えてなくなることも怖くはない。
だから、そこから先は新しい自分へのプレゼントだ。
自分が彼らと出会えたように、新しい自分にも誰かとの出会いを。そして、願わくば自分だけの恋を知って世界を愛して欲しい。
「同意と受け取りました。これから保存処理に入りますが、伝言などはありますか? 伝える事、伝えたい事があるのでは?」
伝えたい事。
そんなものはたくさんある。
あの人の隣で花嫁面している皇女には言ってやりたい事は多いし、あの花嫁や良妻とももっと話がしたかった。
最後のわがままを聞いてくれた弓兵にも感謝の気持ちを伝えたい。
そして、大好きなあの人にも伝えたい事がある。
けれど、それは叶わない夢だ。
あの人にはもう大切な人がいて、自分が入り込む余地なんてない。
相手を思っていても思われるとは限らない。今の“キングプロテア”が抱いたこの気持ちは、報われる事なく終わるのだ。
会わずに済んでホッとしている。きっとあの人の顔を見れば取り乱すから。
だから、この言葉は自分に対する単なるけじめだ。
「さようならと、伝えてください」
それだけで構わない。
あの人と新しい“キングプロテア”に幸福があらんことを切に願い、別れの言葉を口にする。
(さようなら、マスター。わたし、あなたのことが、大好きです)
□
目が覚めると、まず飛び込んできたのは見飽きた桜色の空間だった。
どこか安っぽいテレビ番組風の収録スタジオ。書き割りみたいなセットに小道具の数々。
液晶に映し出された『BB』の二文字。
ここはBBが展開した固有結界、BBチャンネルの内部だ。
自分がここにいるということは、あの荒ぶる乳海から何とか無事に脱出できたようだ。
「カドック! 良かった、目が覚めたのね。傷は大丈夫? 痛まない?」
こちらが半身を起こしたことに気づいたアナスタシアが、椅子から飛び降りて駆け寄ってくる。
すぐ近くにはネロと玉藻の前もおり、少し離れたところにはエミヤが控えている。どうやらこちらが目覚めるのをずっと待っていたようだ。
「大丈夫、眠っている間に塞がったみたいだ。君達も……無事なようだね」
繋がっているパスはすこぶる良好で、全員に魔力が行き渡っていることが分かる。
外部からの支援もないまま、亜種とはいえビーストクラスと戦って五体満足で生き延びることができたことが今でも信じられない。
こうして今も、アナスタシアの温もりを感じられることに安堵と感謝を覚えた。
それもこれも、最後の最後で本来の力を取り戻し、ビースト/CCCと戦ってくれたキングプロテアのおかげだ。
「そうか、あの娘は……」
「ええ、戻っては来れませんでした」
声が聞こえた方を振り向くと、少しばかり神妙な面持ちのBBが椅子の上からこちらを見下ろしていた。
自分と彼女は無関係だと言っていたが、やはり色々と思うところはあるようだ。
「BB/GOがビーストの亜種に変質していた事は予想外でした。キングプロテアが内包している女神の力を解放しなければ、勝利はなかったでしょう」
「それじゃ……」
「ええ、ビースト/CCCの霊基は完全に消滅しました」
「そうか……良かった、と言うべきなんだろうな」
相打ちでビーストを倒せたことがせめてもの救いなのだろうが、ポッカリと空いた喪失感がなくなることはなかった。
この身、この命は数多の英霊達の礎の果てに立っている。そこ葬列にキングプロテアも加わったのなら、また一つ、背負わなければならないものができたのだ。
この命を繋いでくれた彼女の為にも、歩みを止めてはならない。
せめて
「これで終わったのか?」
「ああ。待っている間、記録映像を見せてもらっていたが、向こうの問題も解決したようだ。もっとも、セラフィックスは完全に消滅してしまったがね」
「向こうは向こうで大変だったようだ。具体的に言うとマスター・藤丸が……おっと、余の口から語るべきではないか」
腕組みをしながら言いかけたネロが、途中で端と気づいて口を塞ぐ。勝利の美酒を味わうのも、土産話に華を咲かせるのも当人達の権利であり楽しみである。
だから、互いの身に何があったのかはカルデアに戻ってから、存分に語り明かすといいという皇帝からの配慮であった。
「まあ、私としてはマスターを危険に晒してしまった分は挽回できたかと。向こうの私も大活躍だったようですので、割と満足しています。無銘さんもそのような気持ちでございましょう?」
「その件については発言は控えさせてもらおう。思うところがない訳ではないのでね」
複雑な表情を浮かべながら、エミヤは視線を逸らした。
どうやら立香達がいたSE.RA.PHの方で何かがあったらしい。
「とにかく特異点は消滅した。後はBBがこの空間を解除すれば、我々はカルデアに帰還できる……ということで良いのだね?」
「イエス、オフコース。と言いますか、もう既に強制送還は始まっています。オペレーション・CCCが達成された以上、あなた達を拘束し続ける必要はありません。もう用済みですから、さっさとカルデアに帰ってください」
BBの言葉と共に、視界が僅かに霞む。
いつものレイシフトと同じく、末端から少しずつ霊子に変換されていく感覚が思い出したかのように伝わってきた。
見回すと、自分やアナスタシア達の体が光の塵に包まれている。BBが言うように、強制送還が始まっているのだ。
「行きも帰りも唐突なのね。もう少し、余韻に浸らせてはもらえないのかしら?」
自分とこちらの腕を搦めて体重を預けながら、アナスタシアはBBを睨みつける。
元々、どちらかというと人見知りしやすい性質ではあるが、どうにもBBに対しては口調も厳しく敵意が見え隠れしている。
ひょっとして、自分が知らないところでBBが何か気に障るようなことでもしたのだろうか?
「いいえ、単に悪戯好きとして警戒しているだけです」
「ああ、グレートデビルなBBちゃんと、
BBが指を鳴らすと、体の右側にかかっていた重さが溶けるようになくなった。
一足先に、アナスタシアが強制送還されたのだ。
「BB、ちゃんとカルデアに届けてくれたんだろうな!?」
真っ先にパートナーを帰されてしまい、少しばかり不満を覚えたカドックが口を尖らせる。
もしも、期間途中で何か仕掛けてきたら、それこそどんな手を使ってでも報復してやると言わんばかりに視線に殺意を込めた。
「もちろんです、AIは嘘をつきません。カルデアに帰すと言ったのなら帰しますよ」
その言葉を一ミリも信用できないのは、偏に彼女の人徳のなさが成せる業だろう。
とにかくBBには最初から最後まで振り回されてしまった。こっちはほとんど放置されていたようだが、積極的に介入していたという向こう側では立香はどれほどの迷惑を被ったのか、察するに余りあるというところだ。
「そう思うのなら、戻ったらうんと褒めてやるがいい。無論、その逆もな。そなた達はそれだけのことを成し遂げたのだから」
そう言って頷いたネロの体が塵となって消える。
すると、彼女が消えたのをきっかけに、エミヤと玉藻の前の体の消滅も一気に加速していった。
「今度はこちらの番か。彼女との約束を果たすためとはいえ、マスターを傷つけてしまった。申し訳ない、マスター。戻る前にもう一度、謝罪しておきたかった」
「あの時は本当にひやひやさせられました。まあ、結果良ければ全てよし。どうやらマスターも広い心で許してくれているようですし、気にしているのなら次の機会で挽回されてはどうですか?」
「そうさせてもらおう。では、マスター。先に戻っている」
「ご帰還をお待ちしております、マスター」
エミヤ、そして玉藻の前の姿も溶けるように消えていった。
残されたカドックは、蠱惑的に微笑むBBと改めて向かい合った。
未来から来たという奇妙なAI。信用ならない悪魔のようなラスボス系後輩。
立香のことは『センパイ』と呼んで弄ぶ癖に、自分のことは一貫して無視を決め込む生意気な使い魔。
色々と思うところはあるが、それでも彼女には危ないところを二度も助けられた。せめてそれだけは感謝してやってもいいと、心の片隅に留めておく。
「おや、何か言いたげですね、カドックさん」
「別に……待て、何だって?」
今、彼女はこちらの名前を呼ばなかっただろうか?
出会った時から、虫けらみたいな存在をいちいち区別する必要はないと、執拗に無視をし続けていたのに、今更どんな心境の変化があったのだろうか?
「わたしだって、人を見直すことはあります。最初はどうなることかと思いましたが、あなたは立派にこちらのオーダーを果たしました。めでたく虫けらから哺乳類にランクアップです。特別に人間扱いしてあげましょう」
「漸くか……まったく、立香との扱いの差は何なんだ」
「ふふっ……ええ、わたしが焦がれる『先輩』は一人だけ、わたしが弄ぶ『センパイ』は一人だけ。そこにあなたの席はありません。それでも百均くらいの価値はあるのでOKです。それがあなたの人間としての価値なのですよ、カドックさん」
心底から見下すような言い方だったが、最後の一言にカドックは自然と頷いていた。
彼女が言うように、自分の価値なんて大したものではない。
アナスタシアがいなければ、立香やマシュがいなければ、カルデアのみんながいなければグランドオーダーを成し遂げられなかった。
あの大偉業の中で自分が担った役割なんて、本当にたかが知れている。
今回だって、キングプロテアと出会えなければSE.RA.PHに降り立った時点で終わっていただろう。
だから、BBの評価は的を射ていると素直に納得する。
自分の価値はその程度なのだ。その程度で十分なのだ。
「殊勝な人。今回にしたって、実はもうすごいピンチで宇宙の危機だったのに、何だか他人事みたいですね。嬉しくはないのですか?」
「別に……褒められたくてやっている訳じゃない」
自分はただ、背負った荷物を未来へ届けたいだけだ。
人類史を切り開いてきた英雄達が生きた証である、自分達の営みがいつまでも続くようにと足掻いているだけだ。
それに、生きるのはとても楽しい。
友と語らい、時々は音楽を聴き、愛する人と眠る。
終局での戦いを経て、心の底からそう思えるようになった。
「うーん、これは意外と根深いかもですね。健康管理AIとして見捨ててはおけないような……」
一瞬、瞳を赤く染めながらBBはほくそ笑んだ。
背筋にゾッとするものを感じたカドックは、慌てて首を振って彼女を嗜める。
「止してくれ。君と関わるとロクな目に合わない」
「えー、BBちゃんはいつだって人類の味方ですよ。だから、つい監禁して、ディストピアとか開きますけど、それも人類への愛ゆえですか、仕方がないですよね?」
そういうところが信用できないのだと、心の中で嘆息する。
やはりこのAI、肝心な部分が決定的に破綻しているのだろう。
きっと良かれと思って相手を振り回し、そのままうっかり人生を台無しにしかねない。
つくづく、彼女に気に入られなくて良かったと安堵した。そして、彼女の格好の玩具となってしまった立香に深く同情する。
「それでは強制送還のお時間です。忘れ物はありませんか? おトイレとか済ませました? それではお疲れ様でした、マスター・カドック。最後にあの娘に変わって一言、言わせてください」
小さく咳払いをしたBBが、椅子から飛び降りてこちらの目を覗き込む。
青い瞳と白い肌。雰囲気はまるで違うのに、キングプロテアとまったく同じパーツがそこにあった。
そのせいか、こちらを覗き込むBBにキングプロテアの姿が重なって見える。
「ありがとうございます。またいつか、電子の海で会いしましょう!」
電子の妖精が微笑むと、どこからか聞き慣れた少女の声が聞こえた気がした。
この数日間を、仲間と共に駆け抜けた大きな少女の声が。
かけがえのない、
□
簡易の魔法陣の上に鎮座した塊に向けて、カドックは意識を集中させた。
お湯を注ぐようにゆっくりと、しかし、淀むことなく適確に魔力を端々まで浸透させていく。
まるで盆に乗せたガラスのコップを片手に運んでいるかのような気持ちだった。
繊細な手つきを要求されながらも、大胆に動かねば手先の震えが致命を呼び起こす。
気持ちを逸らせる焦りを必死の思いで押さえながら、静かに寝息を立てている狼の首に手を添えるつもりで、ただ静かに時が経つのを待った。
一秒。
二秒。
三秒。
昨日までの記録を更新し、張り詰めていた緊張に僅かな緩みが生まれそうになる。
ここで慢心して術式の制御を乱すのは素人のすることだと己に言い聞かせ、カドックはゆっくりと呼吸を整えながら意識をより集中させた。
四秒。
五秒。
魔力のバランスが崩れることなく、投影魔術で生み出した祭具は確固たる実存を獲得する。
成功だ。
いつもなら世界の修正力によってあっという間に崩れていく投影品が十数秒以上も保っている。
昨日までまるで駄目だったのに、今日になって急に成功するとは何かの吉兆の前触れだろうか?
そんな事を考えながらもカドックは、冷静に魔力の手綱を握る。
ここからは根競べだと気持ちを切り替え、投影品に施した強化の魔術の精度を高めようと意識を集中した。
瞬間、気の抜けるような軽快な音が室内に鳴り響いた。
「んっ!?」
張り詰めていた緊張の糸が切れ、素っ頓狂な声を上げてしまう。
途端に、魔力のバランスが崩れた金属の塊に亀裂が走り、ガラスが砕けるかのように内側から破裂してバラバラに飛び散ってしまった。
「…………」
机の上に散らばった破片を見下ろしながら、カドックは構えていた手の指をわなわなと震わせる。
先ほど、部屋に鳴り響いたのはオーブンのタイマーが切れる音だ。
ありえないと頭を振る。
集中を妨げるようなものは、緊急用の通信端末以外は事前に取り除いていたはず。パソコンも携帯電話もステレオも電源を切っておいたし、アナログの時計も電池を抜いておいた。
念のため二度も確認したから間違いはない。だというのに、オーブンのタイマーが動いていたのだろうか?
「あら、オーブンが温まったみたい。ケーキを焼かなくちゃ」
「やっぱり君か!」
笑いを堪え切れぬのか、背を向けて冷蔵庫に向かったアナスタシアの肩が震えていた。
その様子を見てカドックは確信する。間違いなく犯人はこの皇女であると。
シュヴィブジック。
小悪魔な皇女様による細やかな悪戯だ。
「魔術の修練なんだぞ、邪魔をしないでくれ」
「ごめんなさい、忘れていました」
「絶対、わざとだ」
この前だって部屋の片づけと言って勝手に保管していた霊薬などの素材を隠してしまうし、彼女の次にシャワーを浴びようとした時もわざと給湯器のスイッチが切られていて頭から冷水を浴びる羽目になった。
そんな悪戯を何度となく繰り返されれば口先だけの誤魔化しなど見抜く事も容易い。とにかくこの皇女様、人が困って右往左往する様を見るのが楽しくて仕方がないのだ。
「まったく、この魔術がうまくいかないと、今後の実験に支障が出るんだ。ちゃんと集中させてくれ」
外部との交流が断たれた閉鎖空間であるカルデアでは、魔術の研究や儀式の際に何かしらの道具が必要になっても、時計塔にいた時のように容易には入手することはできない。
加えて本年度のカルデアの予算は今までで最低を記録しており、必要経費と訴えても予算が降りるのは難しい。
何でも今年の初めに虎の子の財源であった海洋油田施設セラフィックスが施設の老朽化を理由に解体されており、カルデアの家計は非常に苦しくなってしまったらしい。
なので、儀式に使う触媒をこうして投影魔術で代用するための訓練を始めているのだ。
「はいはい、ごめんなさい」
「本当に反省しているのか?」
「しています。それよりもカドック、紅茶を淹れようと思ったら、茶葉が切れているみたいなの。食堂から貰ってきてくださる?」
「僕がか?」
「ランチの後には美味しいケーキを焼いて上げるから」
「……行ってくる」
不承不承といった体で、カドックは立ち上がり自室を後にした。
別にアナスタシアが焼いたケーキが楽しみな訳ではない。単に気分転換を図りたかっただけだと己に言い聞かす。
そんなカドックの後ろでは、嬉々としてエプロンを身に着けるアナスタシアの姿があった。
(そういえば、何か忘れているような……)
ここ最近は比較的平穏だったせいか、どうにも記憶がハッキリとしない。
どこかの特異点で巨人のようなサーヴァントと一緒に過ごしていたような気がするのだが、思い返そうとすると頭に靄がかかってしまう。加えてそんな記録はカルデアのどのデータベースにも残っていなかった。
南極の山脈に建つカルデアには関係がないことかもしれないが、春の陽気で少しばかり気が抜けているのかもしれない。
そんな風に結論付けて、カドックは食堂を目指し通路を歩く。すると、どこか見覚えがある黒衣の少女が物珍しそうに館内を眺めている現場に遭遇した。
「ほうほう、ここがカルデア……生意気にも最新設備じゃないですか。あのシバとかいう観測機もスパコンも中々のものですし、2017年の技術も侮れませんね」
はて、あんなサーヴァントなんていただろうか?
現代風というよりは近未来的な装束。アジア圏の人間にしては珍しい艶やかな髪に豊満な胸。アナスタシアには申し訳ないが、あれほどの美人ならまず忘れる事はないだろう。
自分が知らないということは、立香が召喚したサーヴァントだろうか?
そう思って少女の姿が見えなくなるのを待って、カドックは端末からカルデアが召喚しているサーヴァントの霊基一覧を呼び出した。
(あった。真名はBB……クラスは……ムーンキャンサー?)
聞き覚えのないクラス名だ。意味は分からないが、エクストラクラスの類だろうか。
一部の情報がバグのせいか読み込みできず、召喚した日付などは分からないが、彼女がカルデアに召喚されたサーヴァントであることは間違いないようだ。
マテリアルに目を通してもやはり覚えはない情報ばかりなので、きっと立香が召喚したのだろう。
「あ、カドック」
噂をすれば何とやら。通路の向こうから立香が駆けてきた。ただ、何か急いでいるのか、焦っているように見える。
「良かった、探してたんだ」
駆け寄った立香は、こちらの答えを聞くことなく手を掴んで駆け出した。
どうやら相当な事態が起きているらしく、カドックもすぐに意識を切り替えて立香に事情を問い質した。
ひょっとしたら、新たな特異点が発生したのかもしれない。
「何かあったのか?」
「うん、とりあえずシミュレーションルームに来て欲しいんだ。この前、召喚できたサーヴァントのことなんだけど……」
電子制御されたスライドドアが開くと、既にマシュが室内で待機していた。
立香が指示を出すと、彼女は徐にシミュレーターを起動させて室内の景色を一変させる。
レイシフト技術を応用して作られたこのシュミレーターは、室内の広さなども調節できる破格の代物だ。
普段は戦闘訓練などに使用されるのだが、今回は特にエネミーなども設定されていないのどかな野原が目の前に広がっていた。
鳥の鳴き声も川のせせらぎも、全てがコンピューターによって作られた偽物なのだが、五感を刺激するリアルな感覚はとてもそうは感じさせない。
目の前に広がっているのは確かに一つの世界であった。
そして、その中心で戯れているのは、今やすっかり仲良しになったカルデアの幼いサーヴァント達であった。
それだけならば微笑ましい光景だったであろう。約一名が、とんでもなく大きな姿でなければ。
「うはははは、食べちゃうぞぉ!」
苔で覆われた体を震わせ、両手を掲げてのっそりと歩いているのはどこか見覚えのある少女だった。
ただ、名前を思い出すことはできなかった。いや、そもそも彼女とは初対面のはずだが、何故だか初めて会った気がしないのだ。デジャビュというヤツだろうか。
「わー、食べられちゃうー!」
「食べられちゃいますー!」
「助けてー、バニヤーン!」
「とぉっー!」
「がおー」
巨大な少女と追いかけっこを興じているジャック・ザ・リッパーとサンタ・リリィ、ナーサリーライムの声に応え、ポール・バニヤンが少女と同じく二十メートルほどの大きさへと変化する。
巨大な女の子が取っ組み合いを演じるその様は、まるでハリウッドのモンスター映画だ。ぶつかり合って木々が薙ぎ倒され、地面が激しく揺れている光景に思わず言葉を失ってしまう。
「えっと……あの娘は?」
「キングプロテア。覚えていないの、君が召喚したんだよ?」
「え? 僕が? え?」
「ほら、昨日の夜に召喚しただろ。で、大きすぎて部屋に入れないからとりあえずシュミレーターの中で待っていてもらおうってなって」
そう言われると、そんな気がしてくる。
記憶は靄がかかっていて酷く曖昧だが、確かに昨日の晩、サーヴァントの召喚を試みた気がするのだ。
「ほら、魔術協会から査問があるだろ。ダ・ヴィンチちゃんも準備で忙しいから、あの娘のことは君に任せようって」
「待て、僕一人でか?」
「俺も最近、召喚したメルトリリスやパッションリップのことで手一杯なんだ。ほら、あの娘達って手とか足が危ないから、ここでの生活に慣れるまでマシュと一緒に過ごそうってなったから」
「いや、だからと言って……」
『先輩、スタッフからSOSです。鈴鹿御前さんが玉藻さんとレクレーションルームで睨み合っているそうです』
「分かった。すぐに行く」
「ちょっと待て――――」
こちらが呼び止めてると、立香は申し訳なさそうに手を合わせて目の前から姿を消した。シミュレーターからログアウトしたようだ。
「おい……僕にどうしろと……」
ズシンズシンと大きな足音が近づいてくる。何かが日差しを遮っているのか、大きな黒い影が自分の足下に広がっていた。
恐る恐る振り向くと、見上げる程に巨大な少女の姿がそこにあった。
少女――キングプロテアは、最初こそ不思議そうにこちらを見下ろしていたが、やがて地面に両手をつくと、にこやかに微笑んで次の言葉を口にした。
「マスター……マスター……アルターエゴ、キングプロテア。あなたに、召喚されました……。私、大きいですか? 小さいですか……?」
□
シミュレーションルームでカドックがキングプロテアとの思わぬ再会をしている頃、一人でカルデアの中を散策していたBBは、楽しそうに笑みを零しながらくるくるとその場でステップを踏んだ。
世は事もなし。SE.RA.PHで起きた出来事の全ては虚数事象としてこの歴史から抹消された。
セラフィックスはずっと以前に解体されたことになり、そこで死ぬはずだった全ての命も失われることなく生きている。
そもそも虚数空間は自分の領域。殺生院キアラとBB/GOという脅威が取り除かれた今、これくらいの事象操作は朝飯前だ。
「さて、新しいオモチャを見つけたBBちゃんの魔の手は、容赦なくセンパイやカドックさんに襲い掛かるのでした♡ みんなの頼れるグレートデビル、ムーンキャンサーBBをよろしくお願いしますね」
差し当たっては、キングプロテアが世話になったあの根暗なマスターに何か恩返しをするべきだろうか。
ああまで自虐的だと色々と見ていられない。幸福が約束されている藤丸立香と違い、彼は望んで苦難の道を歩もうとしている。
健康管理AIとしては色々と見過ごすわけにはいかないのだ。
彼にだって報われる権利はあるし、友達とわいわい旅行を楽しむくらいの報酬はあっても良いだろう。
「さて、ならばどこが良いでしょうか? 南国……ハワイとか良いですよね」
彼女がカルデアでどのような騒動を巻き起こすのか。それはまた別の話である。
A.D.2030 虚構電脳裏海 SE.RA.PH
人理定礎値:CCC
『渇愛の花』
はい、というわけでCCC編ここに完結です。
ルルハワ編の最後にちょこっと触れられた、諸事情でルルハワに来れない鯖とはキングプロテアのことでした。
元々、この話は「ザビがキングプロテアをパートナーにして月の聖杯戦争を勝ち抜く」という案を下敷きにFGOのCCC編やカドックの性格に合わせてシナリオを弄ったものです。その途中でBBビーストやら神話礼装プロテアとか色々と生えてきました。
ちなみにCCC編のサブタイトルにはルルハワ編と同じく元ネタがあります。
『SF映画のタイトルのもじり/「あい」という言葉がどこかに入るラブっぽい文章』という構成で考えていました。