Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女   作:ていえむ

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死界魔霧都市ロンドン 第7節

そもそもの出自を考えれば、この結末は必然であった。

ファウスト伝説におけるメフィストフェレスはあの手この手でファウストの堕落を誘う最悪の悪魔であり、最後には悪逆として倒される敵対者としての側面を持つ。

言うならば生まれついての反英霊。罪科を成して人類史に刻まれたのではなく、その在り方そのものが一つの悪として世界に許容された存在だ。

そんな男が自発的に人類史を救うなどという善行を成す訳がない。

 

『カドック、藤丸達と一緒にいたメフィストの反応が急に消えた。何か――』

 

「落ち着け、ムニエル。今、目の前にいる」

 

ゆっくりと、静かにカドックは現実を受け入れる。

信じたいという気持ちはあった。

どんな形であれ人類史に刻まれた英雄だ。人理焼却という未曽有の事態に力を貸してくれると、心のどこかで思っていた。けれど、カドックは既に知っている。輝かしい功績を遺した英雄ですら、時には悪辣な手段に訴えるのが聖杯戦争だ。

ましてやメフィストはキャスター――魔術師のサーヴァント。

目的のためには手段を選ばない、この世界で最も信用してはならない人種だ。

 

「おや、意外と冷静ですね」

 

「お前に隠す気がなさすぎなんだ。ああまで露骨に悪さをしていたら、どんなお人よしでも睨みくらいは利かせるさ」

 

「いえいえ、わたくしは通常運転でございましたよ。あなた様の葛藤は実に見応えがありました。個人の功績なんて小さくてみみっちくてどうでもいいものに振り回されて、仲間の和をかき乱したり危険を承知で張り切って行動したり。いやあ、欠伸が出るくらい退屈でくだらない喜劇でした。どうせなら下手を打って自滅したり、仲間同士で手柄の奪い合いなんてしてくだされば最高でしたのに」

 

ニヤニヤと笑いながら、メフィストは手にした鋏の刃に舌を這わせる。

ようするに、この男はカルデアを内側から崩壊させるための爆弾だったのだ。

自分と立香を仲違いさせ、孤立させた上で罠に嵌める。

結果的に未遂で済んだが、ロンドンの調査が長引いていればどうなっていたのかわからない。

だが、そうなると一つ、気になる事がある。

隙を突く機会などいくらでもあったにも関わらず、メフィストは正体を表すまで一度として害意を向けてくることはなかった。

言葉で煽るばかりで、誤情報などで罠に嵌めるといったことも可能だったはずだ。

 

「ああ、それはあちらの皇女様の魔眼に睨まれていましてね。下手なことをすれば彼女、我が身を省みずにわたくしを亡き者にしたでしょう。生死に執着しない人間というものは恐ろしい。わたくしの嫌いなものリストの項目が1つ増えました」

 

「なるほど、お前の宝具とアナスタシアの眼は相性が悪いわけか」

 

「ええ、我が宝具『微睡む爆弾(チクタクボム)』もまた呪いの一種。彼女に睨まれては不発弾と化しますからね。ですので、こうして姿を表しました。呪えぬのなら実力行使あるのみ。わたくし、好戦主義でして。ああ、皇女様を呼んでも無駄ですよ。手負いとはいえあの娘達もジャック・ザ・リッパーに連なる者。足止めくらいはやってのけるでしょう」

 

ふっと気配が消えたかと思うと、背後から酷薄な言葉が聞こえてくる。

振り返ると、メフィストは分解した鋏の刃物の側を使ってジャグリングを始めていた。

お前なんていつでも殺せるんだという脅しのつもりなのだろう。

実際、如何に強い力を持った魔術師といえどサーヴァントには敵わない。

木の棒で戦車に挑むようなものだ。

そして、自分のサーヴァントは霧の向こうでジャック・ザ・リッパーと死闘を繰り広げている。

伝わってくる感覚から察するに、優勢なのはアナスタシア。だが、ジャックも壊れかけの体を酷使して食い下がっており、合流は容易ではないだろう。

こちらは魔霧の影響もあり、長時間の戦闘は困難だ。

手持ちの礼装と護符、そして切り札となる令呪は残り一画。

それらの使いどころを誤ることなく、この場を乗り切れるだろうか。

 

「戯れはそこまでにしろ、メフィストフェレス。魔術師は生き汚い生き物だ。さっさと始末しろ」

 

無慈悲な死刑宣告が思考を中断する。

命じられたメフィストは心底やる気がないかのように落胆した顔でばらした鋏を組み立て直すと、一転して嬉々とした表情で長い舌を見せびらかした。

獲物を前にして興奮を抑えきれない獣の顔だ。

これからその体をバラバラに分解し、逆さづりにして血抜きした上で並べて晒してやるという悪辣な魂胆でも考えているのだろう。

それとも悪魔らしく魂ごと喰おうとしているのか。

 

「では、短いお付き合いでしたね、元マスター!!」

 

鋏が振り下ろされるのと、こちらが魔術を行使したのはほぼ同時であった。

魔力を下肢に流して筋力を高めるシンプルな強化魔術。使用後の筋肉痛を度外視すればアスリート並みに動きができるはずだ。

それはつまり、どうやってもメフィストの攻撃を避けきれないということを意味している。

人の領域ではサーヴァントには敵わない。

踏み込みと共に全力で上体を逸らし、鋏の切っ先を避けようとしても、僅かに鼻先を掠めてしまう。

それだけでこちらはおしまいだ。攻撃が届くということ自体が致死の危険に至る。

1秒後には顔面を切り裂かれ、無残な骸と化した自分が路地に転がっているだろう。

顔を逸らすことで稼いだ、コンマ1秒に割り込んできた者がいなければ。

 

「ヒャッハー!!」

 

振り抜かれたナイフがメフィストの鋏を受け止める。

その隙にカドックはバックステップを踏み、両者から大きく距離を取った。

 

「俺様ちゃん参上! 何だよ、今夜は殺し放題(クリミナル・パーティー)って聞いたのによォ、殺して良いのはこいつだけかよ!」

 

「これはこれはハイド氏。アパルトメントでお留守番ではなかったのですか?」

 

「へっ、裏切ることが分かり切っている奴がいるのに、何もしねぇ馬鹿はいねぇっての!」

 

両手をナイフに添えてメフィストを押し返したハイドが叫ぶ。

獰猛な顔つきは時計塔で初めて見た時と同じだが、今回は幾分、狂気が抑え気味のようだ。

内部からジキルが働きかけ、彼が暴走しないようにしているのかもしれない。

そして、何故ジキルがハイドとなってここに現れたのか。

それはカドックとアナスタシアが、メフィストを警戒するよう彼に依頼したからだ。

メフィストが敵側のスパイなのだとしたら、致命的な場面で裏切る可能性が高い。

ジャック・ザ・リッパーの再動が確認されてから、それを懸念した2人は戦力を二分する必要が出た際に遊撃的に立ち回れる第三軍として、ジキルを頼ったのである。

そのためにカドックは敢えて危険を冒してメフィストを外に連れ出した。

ヤードの探索はジャックの正体探しだけでなく、メフィストの気を引いている隙にアナスタシアがジキル達への協力を仰ぐ時間を作るために行ったのである。

無論、メフィストがあのタイミングで暴発するような堪え性のない男なら意味を成さない、薄氷を踏むかのような作戦であったが。

 

「わたくし、スパイ失格ですね」

 

わざとらしく落胆する素振りを見せながらメフィストは言い、切り裂かれた腕の傷に見せびらかすように掲げて見せる。ハイドの怪力はメフィストの鋏を押し返しただけでなく、その勢いのまま更に踏み込んで一太刀を浴びせていたのだ。加えて手にしているナイフからは僅かではあるが宝具に似た神秘の気配が感じ取られた。

 

「ただのナイフではないな。シェイクスピアの加護か。援護はいるかな、メフィスト?」

 

「いえいえ結構。ご老体はご無理をなさらずに」

 

「助かるよ。本体がバルバドスを召喚したのでこちらに回せる魔力はほとんどない。できることといえば――――」

 

ゾォルケンの腰から下が膨れ上がったかと思うと、無数の蟲の群れが這い出てきた。

魔術によって使役された特殊な蟲だ。獰猛で肉食動物すらたちまち食い尽くしてしまうほどの食欲を有している。

油断すればあっという間に食いつかれて骨まで貪り食われるだろう。

咄嗟に虫払いの結界を張ることで蟲の進軍を食い止めるが、こちらの力量では持って数分といったところだろうか。

 

「蟲使い……ヴィクター博士を殺したのは、まさか――」

 

「そうだ、私が彼を殺めた。彼は真相に近づき過ぎてしまったのだ。我が魔霧計画の真の狙いに」

 

「っ……魔術師でも、お前はこの時代に生きた人間だろう。どうして人理焼却なんて――」

 

「我らが王がそう決めたのだ」

 

「それは、彼の魔術王のことか!?」

 

「語るには及ばんよ。君も諦めたらどうだ。何をしたところで全ては未到達のまま終わる。何を救おうとも、その先から続く未来は焼き払われている。我らが王が、これ以上の無様は見たくないと、そう結論付けたのだから。だから――――君も諦めろ」

 

冷たく、鋭く、それでいて哀れを感じるほどの空虚な言葉が胸に突き刺さる。

まるで果てまで続く砂漠を視ているかのようだ。

乾ききったその心にこの世界は灰色に見えているのだろう。

ゾォルケンはこれ以上の抵抗は無意味だと、何をしても無為に終わるから諦めろと言う。

その言葉を受け入れることができればどんなに楽だろうか。

結界の外には蟲達が綻びを食い破らんと群がっており、それを防ぐ為に魔術回路を全力で回して軋む結界を補強する。

その苦しみは口と瞼を開きっぱなしにしながらルームランナーを走るようなものだ。

生成された魔力は狭すぎる導線を抉じ開けながら汲み上げられていき、秒単位で肉体が崩壊していっているのだ。

既に指先は毛細血管が潰れて黒く変色を始めており、視界も何度か赤く点滅している。

この苦しみから解放されるのなら、諦めて蟲に喰われてしまった方が何倍もマシだろう。

それでも、自分が諦めるという選択肢を取ることはないだろう。

 

「断る」

 

「そうか……では、死ね」

 

結界の一部が食い破られ、そこから何十匹もの蟲が内部へと殺到する。

カドックは予め用意しておいた炎の術式を展開し、自分が火傷を負うのも承知で飛びかかってきた蟲を焼き払ったが、何匹かは炎に耐性がある蟲なのか、絡みつく炎を意にも介さず結界内を飛び回っている。そして、囮としてばら撒いた攻撃誘導の礼装を瞬く間に噛み砕くと、その矛先を新たな獲物であるカドックへと向けるのだった。

逃げ場のない結界内を、それでもカドックは懸命に駆け回り、衝撃波を放って蟲の群れを吹き飛ばすが、次々と押し寄せる蟲達が相手では対処が追い付かない。

飛び回る蟲を魔力で砕き、腕で払い、踏み潰し、そしてとうとう背中が結界の端にぶつかって動きが止まった瞬間、一匹の蟲がカドックの左手に噛みついた。

 

「――――!!」

 

悲鳴は言葉にならなかった。

あるべき隔たりがそこにはなく、手の平のど真ん中に大きな風穴が空いている。

咄嗟に指の骨が折れるのも承知で左手ごと地面に叩きつけて蟲を押し潰すが、更に新たな蟲が手に足に絡みついており、気味の悪い金切り音にも似た鳴き声を上げている。

全身の至る所に噛みつかれ、脳が思考を拒否するほどの痛みにカドックはのた打ち回る。

打つ手がない。

積み重ねてきた血統の重さが違う。

自分の力量ではこの男には、マキリ・ゾォルケンには敵わない。

せめてこの万分の一でも才能があればと思わずにはいられない。

最後の手段は、残された一画の令呪でアナスタシアを呼ぶことだけだ。

なのに、胸の奥へ燻る何かがそれを拒む。

体はこんなにも痛くて苦しんでいるのに、ゾォルケンの濁った瞳を――何かに絶望し諦めてしまった者の眼差しを覗き込んだ瞬間、焼けるような熱が全身を駆け巡った。

 

「ふざけ……る……な……」

 

痛みを怒りで誤魔化し、目の前の男を睨みつける。

彼が何に絶望したのかはわからない。知りたいとも思わない。

分かり合おうとも思わない。

だから、この男の言葉にだけは耳を貸さない。

自分は絶対に諦めないと、まだ動く右手の令呪を掲げて見せる。

眩い輝きがそこにあった。だが、それは令呪の発動ではない。

令呪に根付いた魔術回路の回転に呼応して、そこに逆流するほどの魔力が体内に渦巻いていたからだ。

方向性を持たずに暴れ回るだけの魔力に対して、カドックは半ば無意識で術式を紡ぎ、体に群がる蟲達へと解き放つ。

炎から一転、吹き荒ぶ冷気と化した魔力の渦は蟲達を瞬時に凍り付かせ、結界の外にまでその影響を及ぼす。

限界を超えた術式の行使は、今まで作業的に蟲の使役を行っていただけのゾォルケンの表情を僅かに強張らせるほどのものであった。

代償はカドック自身の体の損壊。

特にボロボロの左手は治ったとしてもまともに動くかわからない。

それでもカドックは冷気を緩めず、ゾォルケンをまっすぐに睨み続けた。

その怒りに呼応するように、サーヴァント達の戦いにも動きがあった。

 

 

 

 

 

 

破綻した二重人格者と道化師の戦いは、まるで密林の片隅で起こる肉食獣同士のそれであった。

互いの得物が悉く空を切り、目まぐるしく立ち位置が入れ替わる。

視界も嗅覚も聞かない魔霧の中で、メフィストは曲芸師のような立ち回りで翻弄するのだが、ハイドは持ち前の殺人衝動に突き動かされるまま追従する。

結果、両者は動きに反して互いに無傷であり、ただ悪戯に体力だけが消耗されていくだけであった。

当然、それはハイドにとって好ましい状況ではない。

ジキルのハイドへの変身は一時的なものだ。

変身薬の多用により、その時間はかなり長くなってきているが、それでもこの体の持ち主はまだジキルなのである。

このまま戦いを長引かせていては時間切れで自分の負けだ。

 

「どうしました、息が上がりましたか?」

 

「うるせェ! 黙ってねぇとその舌、切り捨てるぞッ!!」

 

「カンに障りましたか? 破綻者はこれだから。焦らなくても夜は長いですよ、とてもね」

 

「ふざけやがって! ぶっ殺すッ!!」

 

こちらに時間制限があることに気づいたのか、盛大に煽るメフィストに対してハイドは奥の手を解禁する。

魔霧で喉が焼けるのも構わずに大きく息を吸い込み、聞く者に恐慌を与える魔の叫び。

それは宵闇で騒めくカラスの鳴き声と、病に狂う野犬の咆哮、爪先でガラスを擦るような金切り音、発情した猫の求愛、金属を叩きつける音などがない交ぜになった、この世の全てのおぞましき音を煮詰めた特大の不協和音。

その叫びを聞いた者は等しく体の自由を失い、成す術もなく凶刃にその命を刈り取られる。

そのはずであった。

 

「な……に……!?」

 

ナイフを翻した瞬間、動けなくなっていたのはハイドの方であった。

何とか体を捻って致命傷を避けるが、がら空きの胴体を蹴り飛ばされたハイドは受け身も取れずに近くの民家に激突し、そのショックでジキルに戻ってしまう。

 

「何故……ハイドの叫びを聞いて、動けるんだ……」

 

「皇女様と同じです。呪詛返しというやつですよ。邪視や不浄な音は最も古典的な呪いですからね、返させて頂きました」

 

得意げに語りながら、メフィストはゆっくりとこちらに近づいてくる。

このままとどめを差すつもりなのだろう。

ジキルは咄嗟に懐に忍ばせていた予備の変身薬に手を伸ばすが、不運なことにそれは先ほどの転倒のショックで瓶が割れてしまっていた。

残っているのは腰に提げている金属製の水筒のみであり、この中にはまだ調整をかけていない変身薬の原液が入っている。

以前、定量の薬だけでは変身できなかったことがあり、それ以来持ち歩くようにしていたのだ。

本来ならばこれを薄めて使用するのだが、今は悠長に分量を量って希釈している暇はない。

普段の量でも心臓が破裂しかける程の劇薬を原液のまま飲めばどうなるか。

ハイドから戻れなくなるどころの話ではない。最悪、飲んだ瞬間に呼吸が止まってしまうかもしれない。

 

「もうおしまいですか? なら、苦しまずに死んでくださいね。わたくし、平和主義者ですので、争いごととか実は大嫌いでした。ああ、勝手に死ぬ分には構いませんよ。待っていますから」

 

ケラケラと笑いながらメフィストは鋏を振り回す。

向こうも薬のことに気づいたのだ。

わざわざ飲む時間を与えてくれたのは、余裕の表れだろうか。

ふと視線をカドックに向けると、彼は無数の蟲達に纏わりつかれて地面をのた打ち回っていた。

生きながらに肉を貪り食われる感覚なんて想像しただけでゾッとする。

彼には申し訳ないが、あのマキリ・ゾォルケンという男は強大だ。

全力を出せない分身体故にまだ辛うじて食い下がっているが、本体が来ていればとっくに死んでいたであろう。

ここまでなのかと諦めの念が脳裏を過ぎる。

その時、カドックが体を蟲に苛まれたまま立ち上がった。

至る所を噛み千切られ、傷ついていない場所を探す方が難しいくらいだというのに、彼はまっすぐにゾォルケンを睨みつけながら右手の令呪を掲げている。

その姿の何て眩しいことだろう。

そこにはジキルが渇望してやまない、人としての尊厳の全てがあった。

 

(ああ、その礎になれるのなら、悪くはない)

 

痛みを絞り出すように肺から息を吐き出し、壁に手をついて立ち上がる。

右手にはシェイクスピアのエンチャントによって宝具もどきと化した名もなきナイフ。切りつければサーヴァントとて傷つけられるだけの力がある。

懐にはアンデルセンから渡された数枚の原稿用紙。彼の宝具によって作られたその詩文はほんの少しの幸運を呼び込みやすくする。

そして、左手に持った変身薬の原液が入った水筒。口で器用に蓋を開けると、躊躇う事無く全てを飲み干す。

 

「ほう……正気とは思えませんね。自ら(ハイド)(ジキル)を差し出すとは、とうとう屈しましたか?」

 

「ああ、悪に見入ってしまったあの時から、僕はもう正気ではないのだろう。そして、()では君に勝てないのなら、今だけは喜んで(アイツ)に全てを差し出そう」

 

空の水筒が落下し、乾いた音を立てて転がった。

瞬間、沸騰するような痛みが全身を駆け抜け、ジキルの思考は粉微塵に吹き飛んだ。

変身は一瞬で完了する。

苦しむかのように体を屈ませたかと思うと、上半身が二回りも膨れ上がった。

肥大した筋肉に耐えきれずシャツは弾け飛び、露になった上半身はまるで直立した熊か獅子のようだ。

顎は狼のように前へと突き出し、歯は剣山のように鋭く伸びた牙と化し、広がった手の平はナイフが子どもの玩具に見えるほどのかぎ爪に変化していた。

そして、双眸は悪魔の如き深紅の輝きを携えていた。

 

「さあ――『密やかなる罪の遊戯(デンジャラス・ゲーム)』の始まりだァ!」

 

咆哮するやいなや、怪物と化したハイドは地を疾駆した。

 

 

 

 

 

 

氷柱と吹雪が霧を払い、小さな暗殺者を追い立てていく。

怒りに突き動かされたジャック・ザ・リッパーは己の霊基が破損するのも構わずに疾駆し、アナスタシアへと攻撃を仕掛ける。

既に残っていた右腕も使い物にならず、凍傷と過負荷によって千切れる寸前の両足もまともに機能していない。

それでもアナスタシアに対する怒りだけを胸に、ジャックはナイフの柄を口に咥え、民家の壁を縦横無尽に飛び回っていた。

否、それは最早、壁に目がけて激突を繰り返してるようなものであった。

確かにアナスタシアは体のあちこちを切り刻まれているが、致命傷には至っていない。

対してジャックは満身創痍。このまま何もしなくとも霊基の崩壊によって自滅することだろう。

ロンドンを震撼させた連続殺人鬼としては余りに呆気ない最期であった。

故に、ジャックは残された時間をこの一瞬にのみ賭けていた。

跳躍の全てが必殺を狙った一撃。

消滅の前に目の前の皇女だけでも殺すという強い執念がジャックを突き動かしていた。

 

「アナタダケハ……ユルサナイ……コロス……コロス……」

 

それは最早、ジャック・ザ・リッパーというサーヴァントと呼べるものではなかった。

その本質である怨念そのものとなって、残された力の全てを解き放ってくる。

しかし、哀しいことにそれでも皇女の魔眼には敵わなかった。

動きの全てを見切られ、凍らされ、切り刻まれる。

そうして遂に、ジャックであったものは動かなくなった。

 

「これで、おしまいね」

 

肩で息を吐きながら、アナスタシアは油断なくジャックを睨みつけたまま空中に氷柱を作り出す。

撃ち放てば傷ついたジャックの霊基は粉々に打ち砕け、抵抗も敵わず消滅するだろう。

ジャック・ザ・リッパーはこれで詰みだ。

だが、とどめを差そうとした瞬間、アナスタシアの手が止まった。

ジャックの頬を伝う一筋の光を見てしまったからだ。

 

「どうして……わたしたちはただ、帰りたかっただけなのに…………わたしたちは、生まれちゃいけないの? どうして消えなくちゃならないの?」

 

その姿に、生前の最期の瞬間。死の直前の自分達ロマノフ家の姿が重なり合う。

あの時だってそう。誰一人として死を望んではいなかった。

明日を夢見て、傷つき絶望しながら死んでいった。

即死を免れた自分は、その瞬間を最期まで視ていた。

 

「っ……それでも」

 

「それでも、何なのかな?」

 

か細かったジャックの声が突如として跳ね上がり、その姿が霧の中へと消えていく。

氷柱を放った時には遅かった。ジャックは完全に霧に紛れて姿を隠してしまう。

それは同時に、この戦いの終了をも意味していた。

如何なるスキルか宝具によるものなのか、戦いが終わればジャック・ザ・リッパーに関する記憶は全ての人間から等しく消え去ってしまう。

先ほどの涙は離脱の隙を作るための演技だったのだ。

恐らく、こちらの記憶が消えた瞬間を見計らってもう一度奇襲をしかけてくるつもりなのだろう。

その前にジャック自身が消滅してしまう可能性もあるが、真っ向勝負で勝てないのならば、それしかないと己に賭けたのだろう。

幼い顔をして何て冷徹な判断力だ。

 

「マスター!」

 

無駄と分かりつつも必死で記憶を繋ぎ止めながら、ゾォルケンと戦うカドックに呼びかける。

彼は全身を蟲に喰われ、火傷と凍傷でボロボロだったが、奇跡的にまだ生きていた。

この状況で彼はまだ諦めていない。

ならば、自分がするべきことは変わらない。

カドックの力になり、彼の人理修復を完遂する。

 

「令呪を以て命ずる――」

 

傷だらけの右手が、眩い輝きを放った。




匙加減難しいなゾォルケン。
イメージとしては雁夜VS時臣みたいな感じです。
勝敗は逆だけどね。

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