Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女 作:ていえむ
思えば初めて出会った時から、こうなることは必然だったのかもしれない。
人畜無害なはずなのに、堪らなく苛立ちを刺激される存在。
眼中にもないはずなのに、無視できない存在。
その優しさが、弱さが、ひたむきさが、何もかもが置き去りにしてきた過去を思い起こす。
あんな風に、
藤丸立香は切り捨ててきた過去そのものだ。
壁にぶつかり、苦悩し、足掻く度に置き捨ててきたただ弱いだけの頃の自分自身だ。
その弱い自分が今、立ち塞がる壁となって目の前に対峙している。
「彼に勝てるの、マスター?」
「シミュレーションでは7対3で僕達の方が上回っている。向こうの能力や出方も想定済みだ」
「あなたはそうでしょうね。けど……彼らは、強いわ」
離れたところで言葉を交わしている立香とマシュを、アナスタシアはまっすぐに見つめる。
その眼差しをカドックは無言で肯定した。
曲がりなりにもここまで、4つの特異点を修正してきたのだ。
凶暴な飛竜の群れも、ローマ兵や海賊の集団も、霧の街の怪人達も、全て平らげてきた上で彼らはここに立っている。
だが、それは自分達も同じだ。
互いに潜ってきた修羅場は同じ。共に同じ時間を過ごし、同じ目的を共有してここまで来た。
ならば、後は地力が勝敗を分けることになるだろう。
(そうだ、僕達は負けない。こいつらにだけは、絶対に)
時計の長針が天頂を指すと同時に、両者は動いた。
遠距離攻撃の手段を持たないマシュが疾駆し、先手必勝とばかりに手にした盾を振りかぶった。
女性とはいえ英霊の腕力だ。非力なキャスターでは一たまりもないだろう。
だが、そんな状況は今までに何度も経験してきた。
アナスタシアは冷静に距離を測ってマシュの一撃を避けると、距離を取るために盾の少女を凝視する。
たちまちの内に凍り付くマシュの肢体。それは彼女の対魔力によって容易く弾かれてしまうが、アナスタシアは砕けた氷そのものを小さな弾丸としてマシュの痩躯を撃ち貫く。
盾の内側から、防御不能の蹂躙を受けて怯む小さな体。
思わず足を止めてしまったのは悪手だ。
サーヴァント戦において、僅かでも動きが止まればそれは付け入る隙となる。
「鉄槌」
巨大な氷塊がマシュの頭上に出現し、押し潰さんと迫る。
マシュの防御は鉄壁だ。加えて対魔力スキルの恩恵でアナスタシアの魔術ではほとんどダメージが通らない。
必然的に殺す気で攻めなければ、彼女を止めることができないのだ。
「マシュ!」
「させるか!」
アナスタシアの攻撃を妨害しようと放った立香のガントを、カドックは同威力の魔術で相殺する。
ずっと横で戦ってきたのだ。向こうがどのタイミングで妨害に入るのか、援護を選ぶのかが手に取るようにわかる。
「どうした、僕なら三発は撃てるぞ」
「っ……」
「その礼装を選んだのは失敗だったな、『オーダーチェンジ』が死んでいるぞ!』
「わかっているさ! けど、これでないと君とやりあえないだろ!」
「ふざけるな、素人が!」
激昂と共にカドックの体から冷気が放出される。
諸に受けた立香はもんどりを打つが、すぐに態勢を立て直して突風の中を駆け抜けた。
すかさず繰り出される二発のガント。
一発が立香の頬を掠め、もう一発がカドックの足下に着弾する。
「そんな腕前で魔術王と戦うつもりなのか?」
「ああ、もちろんだ」
「勝てないんだよ。何をやったって、弱い奴は強い奴に勝てないんだ!」
「…………」
「僕以上に才能のないお前が、魔術王に敵う訳ないだろ!」
「それでも前に進む。立ち止まってなんかいられるか!」
「ならやってみろ。お前の旅はここで終わりだ」
「マシュ、防御だ!」
「構うなキャスター、押し潰せ!」
立香の指示で足を止め、盾を構え直したマシュの体から魔力が迸る。
直後、轟音と共に落下した巨大な氷塊が砕け散った。
魔獣すら一撃で葬り去る攻撃。
これが並のサーヴァントなら決着がついていてもおかしくはない。
だが、マシュのクラスはシールダー。
こと防御に関しては彼女の右に出る者はいない。
受け止めた瞬間に使用した魔力防御スキルによって限界以上の耐久力を獲得し、耐えきったのだ。
当然、次に待つのは彼女の突撃だ。
裂ぱくの気合と共に地を蹴り、宙を跳んだマシュの盾がおうむ返しとばかりにアナスタシアへ振り下ろされる。
「くっ……!」
「はぁっ!!」
咄嗟に生み出した氷の盾で威力を削ぎつつ、アナスタシアは大きく後退する。
無論、身体能力で勝るマシュは氷の壁などないも同然とばかりに体当たりで破壊し、逃げるアナスタシアに追撃を仕掛けた。
再び繰り出される必殺の一撃。
氷の壁も破壊しつくされ、最早彼女にマシュの攻撃を受け止める術はない。
そう、彼女だけならば。
「ヴィイ、起きなさい」
黒い影が疾駆する。
それは常に彼女と寄り添い、眼となって死線を潜り抜けた視線の怪物。
ロマノフに伝わる魔眼の精霊。
人類史において実存が不確かな、影の如き存在。
その名はヴィイ。
宝具の解放以外では決して表に出ることはなかったヴィイが、その黒い姿を白日に晒してマシュに襲い掛かる。
ヴィイの巨体はマシュの盾を易々と捕らえると、もう片方の手を無造作に薙ぎ払って盾の少女を吹き飛ばした。
冷気すら纏わない、ただの大振りの一撃がマシュの五体を砕かんと空を切る。
「マシュ!?」
「だ、大丈夫です。まだ、戦えます」
「強い娘ね。さすがと言っておきます」
「そちらも、冷気だけでなく、精霊自体を動かすことができるとは思いませんでした」
「切り札はとっておくものでしょう。さあ、マスター」
「ああ、加速しろキャスター」
カドックからの強化を受け、今まで以上に研ぎ澄まされた氷柱の群れが空を覆いつくす。
その一斉射とヴィイの平手をマシュは必死の形相で受け止めた。
両足を踏ん張り、盾に魔力を込め、背後にいるマスターを強く意識して歯を食いしばる。
その思いが彼女の防御をより強固なものとする。
精霊の独立稼働という奥の手を以てしてもまだ、マシュの防御を切り崩せない。
その上、彼女はまだ宝具を温存している。
不完全な疑似展開とはいえ、邪竜のブレスや魔神柱の攻撃すら耐え抜くシールダー・マシュ・キリエライトの最大の防御。
あれを使われれば、アナスタシアの宝具とて防がれてしまうだろう。
故に勝負の分かれ目は、互いのマスターが持つ令呪にあった。
奇しくも2人のマスターの令呪は残り一画であり、その最後の一画をどこで切るかが勝敗を分けることとなる。
当然、立香は攻撃に使うだろうという確信がカドックにはあった。
マシュのステータスは防御に偏っている。
保有するスキルも宝具も全てが守るための力。対してアナスタシアには魔眼と城塞がある。
その2つを掻い潜って一撃を入れるためには、令呪による空間転移しかないだろう。
こちらが大技を仕掛ければかならず向こうは乗ってくる。
後はタイミングを損なわぬよう、立香の動きに注意だけをしていればいい。
カドックの脳裏には、既に勝利の方程式ができていた。
□
エレナが築いた即席の結界の中で、エジソンたちは両者の戦いを見守っていた。
端から見れば一進一退の攻防。その実、戦いの流れは終始、カドックが掴んでコントロールしている。
誰の目から見ても、カドックとアナスタシアの有利に変わりはなかった。
「ふむ、やはりカドックくんの勝ちか」
「勝負は最後までわかりませんよ、ミスター・エジソン」
「ナイチンゲールの言う通りだ。あの少年、この状況において諦観の念など欠片も抱いていない。地力ではカドックの方が勝るというのに、歯を食いしばって食らいついている。ああまで必死になる何かが彼にはある。そういう男は強い」
「そうよ、うちの子イヌを舐めてもらっちゃ困るわ」
「そうか……なら、そうなのだろうな」
「エジソン? 何だか妙に塩らしいわね」
2人の戦いを見つめるエジソンの顔つきが変わり始めたことに気づいたエレナが問いかけると、エジソンは曖昧模糊な表情を浮かべたまま静かに首を振った。
「いや、彼の戦いを見ていると、不思議と胸が締め付けられる。何もかも勝っているにも関わらず、泣きそうな目で相手を睨んでいるように思えて……ならないんだ」
副官に取り立て、共にアメリカを守るために一緒に歩んできたつもりだった。
だが、エジソンはカドックがあんな風に必死な思いで戦う姿を見るのは初めてだった。
戦いの流れを掌握し、後一手で勝利という状況にまで追い込んでいるはずなのに、その佇まいは悲壮に満ちていた。とても勝利者の姿には見えないと、エジソンは思わずにはいられなかった。
「見ろ、動きがあったぞ」
そして、決着の時は訪れた。
□
不意に何もない場所でマシュの足がもつれ、動きが止まる。
疲労の蓄積、無理な態勢での着地、足首の凍傷。
考えられる原因はいくつもあるが、それらの因果を紡ぎ出したものは一つ。
シュヴィブジック。
生前のアナスタシアが働いた所業、行き過ぎた悪戯がスキルとして昇華された力。
何者をも傷つけられない代わりにあらゆる不可能、不合理を形とする技能。
今、彼女はその力をマシュの拘束のために解き放った。
狙いは一つ。
自身の最大火力。『
だが、それはとどめを差すためではない。
カドックの狙いは、互いの宝具の相殺にあった。
「マシュ、逃げて!」
「やれ、キャスター!」
マシュが離脱する時間を稼ごうと放たれた立香のガントを、カドックは再び相殺する。
これで彼にはもう、令呪を使う以外に打つ手がない。
アナスタシアの宝具はマシュの宝具によって防がれるであろう。
その直後に訪れる僅かな硬直の隙を、彼らは突こうとするはずだ。
もし仮に宝具の強化や回復を計れば、もう一度同じ状況まで追い込むだけでいい。
互いがどれだけの時間、戦い続けられるかは既に計算済みだ。
マシュが疲れ果てて倒れるまで、自分達は立っていられるだけの力を持っている。
「キャスター!」
「マシュ!」
「宝具を解放しろ!」/「宝具を使うんだ!」
そして、漆黒の瞼が開かれた。
全てを射抜き、堅牢なる城壁にすら綻びを生じさせる魔の視線。
それは吹雪という名の死の奔流と化し、マシュの小さな体を蝕まんと牙を剥く。
相対するは人理の礎。人理修復という過酷な旅路の中で、主を、友を、仲間を守り続けた守護の光。
それはマシュの思いを形に変え、決して揺るがぬ障壁となってアナスタシアの魔眼を受け止める。
「魔眼解放。バロールエンチャント、サーキットオーバー!」
「真名、偽装登録――!」
「凍てつきなさい、『
「仮想宝具展開、『
展開された光の壁に、容赦なくヴィイの視線が注がれる。
太陽が陰り、炎すら凍てつく極寒の嵐。
その直撃をマシュは、か細い両腕で構えた巨大な盾で迎え撃つ。
防ぎきれなかった寒波が四肢を焼き、展開した障壁ごと吹き飛ばさんとする突風に盾を構えた腕に軋みが走る。
気を抜けば魔眼の因果律歪曲によって障壁は歪み、たちどころに捻じ曲げられてしまうであろう。
拮抗できているのは彼女の心に迷いも曇りもなく、ただ純粋な守護の思いが形を成しているからだ。
汚れのない想いは、誰かを守りたいという願いは、純粋であればあるほどその守りを強固とする。
故にマシュは歯を食いしばり、全身に走る痛みに堪えながら一歩を踏み出し、眼前の皇女の眼差しを受け止める。
苛烈な冷気の眼差しが閉じるその瞬間まで、マシュ・キリエライトの盾は陰らない。
「令呪を以て命ずる――飛ぶんだ、マシュ!」
「令呪を以て命ずる。再び魔眼を開け、キャスター!」
両者の宝具が立ち消えた刹那、それぞれのマスターは右手の令呪を掲げた。
互いが狙った必殺の瞬間。
全ての決着がつく刻。
2人のマスター、盾の騎士と魔眼の皇女。
意地とプライドと、譲れない思いを胸に最後の命令は下される。
宝具の真名解放後の硬直から立ち直ったマシュは即座に宙を駆け、アナスタシアが防御できない超至近距離へと空間転移する。
それはカドックの狙い通りの行動であり、そのための切り札こそが先ほどの令呪。
消費された一画が無色の魔力となってアナスタシアの魔術回路に浸透し、閉じられたヴィイの瞼が再び開かれる。
位相をずらそうと、絶対防御の概念を纏おうとその魔眼から逃れる術はない。
絶対零度の吹雪が再び、マシュの体を蝕まんと迫る。
「勝った……」
「いいえ、まだです!」
コンマに満たない刹那の時間。
ヴィイの視線をまともに受け、肉体が凍り付きながらもマシュは手にした盾を構え直す。
先ほどの仮想宝具展開によって余力など残されていないはずの彼女の体に、再び強大な魔力が渦巻いている。
それはマシュ・キリエライトが持つ第三スキル「奮い立つ決意の盾」による加護。
守るもののために、一歩を踏み出す勇気を力に変える。
敗北に、諦観に、絶望に屈することなく、明日を見続け前を向くための力。
「宝具の……連発……だめ、間に合わない!?」
「これがわたし達の人理の礎! 『
再度、ぶつかり合う魔眼と盾。
互いに消耗しているはずだというのに、その輝きは先ほどの衝突と遜色ないどころか、より激しい光を放って空間を震わせる。
カドックの知るマシュの能力では、宝具の連発などできるはずがなかった。
そうさせないために、向こうが令呪を使うタイミングを計った。
相手の行動パターンを予測し、戦術を誘導し、切り札を切った。
その上であの2人は自分達の上を行く。
何もかも未熟なままで、自分達よりも先を行く。
「わたし達は前に進む! これはそのための力です!」
「くっ、ガントで動きを……っ!?」
マシュ目がけて放った呪いの弾丸が、立香の放ったガントによって相殺される。
先ほどまでとは逆の構図。この瞬間、カドックは立香がこの礼装を選択した理由を理解した。
サーヴァント同士の戦いにおいて、彼は己のサーヴァントを、マシュ・キリエライトの力を信頼していた。
故に、警戒すべきは敵マスターからの妨害。
奇しくも自分と同じ考え、同じ結論であった。
「藤丸……立香ァ!!」
「決めろ、マシュ!」
弾かれたガントはただの一発。その一発の隙で全てが決した。
直上から振り下ろされた巨大な盾が、アナスタシアの脳天を叩き割る寸前で停止する。
直後に被弾したマシュは体を強張らせるが、その痛みに動じることなく自分達の勝利を宣言した。
「わたし達の勝ちです、アナスタシア」
「――ええ、そして私達の敗北です」
その光景を、カドックはまるで夢を見ているかのような気持ちで眺めていた。
まるで現実感が湧かない。
万全を期して臨んだはずが、最後の最後で盤面を覆された。
いいや、予想を覆されたなどというのは言い訳だ。
自分達と分かれてからも彼女達は成長していた。それを読み切れず、過去のデータに縋った自分のミスだ。
最後の瞬間まで、都合のいい逃げ場所を探し続けた自分の弱さが招いた当然の結果だ。
それでも叫ばずにはいられない。
嘆かずにはいられない。
何故、そうして立っていられるのかを。
何故、諦めることなく前を向けるのかを。
「何で……どうしてなんだ、藤丸立香! どうしてお前は、最後はいつもそうなんだ。弱いままで、未熟なままで、最後には自分よりも強い奴を見下ろしている」
フランスでも、オケアノスでも、彼はいつもそうだった。
自分よりも遥かに強い敵を相手にして、屈することなく進み続ける。
それに引きずられて自分も強くなれた気がした。
いくつもの特異点を超え、力をつけたことで自信も生まれた。
けれど、違った。
自分は強くなどなってはいなかった。
ロンドンで魔術王と邂逅した際、その姿を見てもいないのに恐怖で体が震えた。
一瞬で数多の英霊を消し去った彼の王の力に、人類史そのものを焼き尽くすその所業に心を縛られた。
自分では勝てない、自分達では勝てないと。
その恐怖を味わいながら、同じ絶望を見ながら彼は屈しない。
アメリカの救済などという、妥協点を模索した自分との決定的な違いはそこだ。
いずれ彼は挫折した自分を置いてグランドオーダーを駆け抜ける。
それが例え無残な敗北であったとしても、自分が欲しかったものを手に入れて。
認めるしかない。
諦めるしかない。
自分は、彼のようには――藤丸立香のようには振る舞えない。
「どうしてそこまで戦えるんだ、藤丸立香!?」
「そんなの――生きたいからに決まっているじゃないか!」
近づいて来た少年の手が、胸倉を掴み上げる。
そこで初めて、自分が膝を尽いて屈していたことに気が付いた。
「俺は生きたい! マシュと、ドクターやカルデアのみんなと、カドックや皇女様と! これから先も生きていたい! カドックこそどうなんだ!? 世界を救うんじゃなかったのか? 自分の力を証明するんじゃなかったのか? なのに、何でこんなところで立ち止まっているんだ!?」
激昂が胸に刺さる。
そんな眩しい言葉を投げかけないで欲しい。
置き去りにした感情を思い出し、堪らなく胸が痛くなる。
「できるわけ、ないだろ……相手はあの魔術王だ! 魔術の祖、偉大な魔術師、七十二の魔神を操るグランドキャスター。そんなものに僕なんかが挑んでも、勝てる訳ないだろ!」
「僕なんかじゃない、僕達だ! 俺達が戦うんだ! 俺達みんなで、カルデアのみんなで!」
「…………」
「もっと自分に自信を持てよ。今日までグランドオーダーを引っ張ってきたのは、カルデアを引っ張ってきたのは自分だって、もっと傲慢に、胸を張って叫べば良いだろ! 君がいたからここまで来れたんだ! 君がいたから俺は戦えたんだ! だからさ、もっと……頼ってくれよ。俺、カドックみたいにはできないかもしれないけど、マシュもみんなもいるんだ。みんなで一緒に支えるから……俺達のリーダーはカドックなんだ。だから……戻ってきてよ」
絞り出した言葉と共に、立香の頬を涙が伝う。
自分に勝利しながら泣きじゃくるその姿を、カドックは呆然と見つめていた。
見つめることしかできなかった。
□
戦いの結果を見届けたエジソンは、懐から取り出した薬瓶を厳かな気持ちで見つめていた。
いつもの彼ならここで激昂して乱入してもおかしくはない。
そう思って警戒していたカルナとエレナだったが、エジソンはおもむろに手にした瓶を握り潰すと、静かに敗北を告げた。
「我々の負けか」
「エジソン……」
「いざという時はこの超人薬で雷音強化し乱入をも考えていたが…………彼のことを思うと踏み止まるべきだと思ったまでだ。私は論理に基づきこの国を作り替え、国民を守るために戦ってきたつもりだった。だが、1%のひらめきがなければ99%の努力は無意味である。私は99%の負債をこの国に背負わせてしまったのだな」
「ええ、勝てません。ケルトは死ぬまで戦いに明け暮れた怪物です。まして彼らが敬う女王メイヴは聖杯を所持し無限に戦士を生み出している。彼らの増殖には聖杯以外の資源が必要とされない。数で勝負する、という発想が既に間違いなのです」
「う、うむ……だが、カドックくんはその間違いを正しい選択にするべく尽力してくれた。血反吐を吐くように己をすり潰して……それはつまり、私がこのアメリカに強いてしまった強権だ」
大量に生産し、より安価でよいものを作る。
それがトーマス・エジソンの天才性であり、その一点において負けたくないとムキになった結果、アメリカは不毛な消耗戦に突入した。
資源は何れは尽きる。だが、最終的に勝てればそれで良いと高を括って現実を見ようとしなかった。
「全てはアメリカを守るためだ。何故なら、私には過去・現在・未来。この国の歴代大統領より託された思いが……力が宿っている」
歴代の大統領達は、自分達全員がサーヴァントとして召喚されたとしてもケルトには勝てないという結論に達した。
そのため、世界的な知名度を誇る英雄にその力を集積するという決断を下したのだ。
アメリカを守れるのなら、偉大な開拓者魂と愛国心を持つのなら、大統領でなくてもよい。
その結果が此度の召喚においてエジソンが抱いた歪み。
英霊として世界を救うという義務から目を逸らし、アメリカだけを救おうとした所業の真実であった。
「まったく、そんなだから同じ天才発明家としてニコラ・テスラに敗北するのです、貴方は」
ナイチンゲールの容赦のない言葉がエジソンの胸に突き刺さる。
思わず声にならない悲鳴を上げて床に突っ伏してしまったが、目の前で苦しむ少年の姿を思い出して立ち上がる。
へこたれている場合ではない。
この国に出血を強いたとはいえ、自分は未だ大統王だ。
迷い苦しむ国民に手を差し伸べずして何が王か。
「私は歴代の王たちから力を託され、それでも合理的に勝利できないという事実を導き出し、自らの道をちょっとだけ踏み間違えてしまった。そして、それに1人の少年と多くの国民を巻き込んだ負け猫だ。臆病者だ。告訴王だ。それでも私にはまだ……いや、この国を救うために、まずはやらねばならないことがある」
「そうね。三千回の挑戦がダメなら三千一回目に挑戦する。何度失敗してもへこたれず、周りに苦労を強いて、自分だけはちゃっかり立ち上がる。あなたの長所ってつまりはそういうことだもの」
「おまえは道に迷ったが、おまえが目指していた場所は正しいものだ。名も知らぬ者を救うことも、闇の世界を光で照らそうとするのも、自信を持って良い願望だと、オレは断言する。おまえの言葉ではないがな。最終的に、おまえは本当に、世界を照らす光となった。その希望を、その成果を糧に立ち上がれ。現状は最悪だが、終わった訳ではないだろう?」
「ブラヴァツキー、カルナくん……ああ、私は本当に良い友人に恵まれている。こればかりはあのすっとんきょうも及ぶまい」
まずはもう1人の友人の心を救う。
恐らく、彼の病を治せるのは自分だけだ。
それはきっと彼の心にとどめを差す形になるのだろうが、そうしなければ自分も彼も前に進むことができない。
自分達はここからがやり直すのだ。長い長い回り道の末に、ようやく辿り着いたスタート地点。
そこから全てをやり直すのだ。
□
どれくらいそうしていただろうか。
カドックは動けなかった。
藤丸立香に敗北し、完全に心が折れてしまった。
立香もマシュも、アナスタシアもこれ以上、かける言葉を持たなかった。
そこに不意に、1人の紳士が降り立つ。
赤と青のスーツに身を包んだ獅子頭の王。トーマス・エジソンだ。
彼は静かにカドックの隣に座り込むと、大きな手で震える少年の手の平を包み込んだ。
「エジソン?」
「ああ、私だ。すまないな、私が愚かであったばかりに、君をここまで追い込んでしまった」
「ち、ちが……」
「いいんだ。もう無理をしなくていい、私達は敗北したのだ」
「そうじゃない、そうじゃないんだ。エジソン、あなたは……あんたは勝たなくちゃいけない人なんだ。負けちゃいけないんだ」
「カドックくん」
「あんたは……負けちゃダメなんだ。あんたは僕なんだ……」
一般的にエジソンは世界的な天才発明家であると知れ渡っている。
だが、その生涯は挫折の連続であった。
旺盛な好奇心は社会から弾き出され、彼は幼い頃に学校を中退したことで正規の教育受けることができなかった。
その後も独学で研鑽を積み、働き出すもやはり奇行から職を転々とし、耳の不自由を患うなど多くの不幸と失敗を経験しながら少しずつ実績を重ねて発明王の地位に上り詰めたのである。
彼は確かに天才ではあるが、それ以上に持たざる者であった。
コネも才能もなく、ただひたすらに学び続けた果てに人類史に刻まれた英雄。
それがカドックにとってのエジソンであり、不断の努力を続ける自分の現身であった。
だから、彼の敗北を認めることができなかった。
彼に協力し、アメリカの勝利のために戦ったのも、彼の考えが正しいことを証明するためだった。
「僕はただ、あんたに負けて欲しくなかった。それだけなんだ…………」
「それでも我々の敗北だ。そして、君のおかげで見えたものもある。自分の過ちを漸く認めることができた」
両肩に手を置かれ、獅子の眼がこちらに向けられる。
強い決意の光がそこにあった。敗北を認めても尚、立ち上がろうとする不屈の光。
何物にも代え難い輝きがまっすぐに向けられる。
「改めて謝罪し、感謝する。君の仲間である藤丸くんとその助けとなるサーヴァントの諸君にもだ。未だ世界を救う方法も、ケルトを倒す方法も思いつかないが、今度は一緒に考えて欲しい。
私と一緒にもう一度アメリカを……いや、今度こそ、世界を救う大発明を成し遂げたい。君達のサーヴァントとしてだ」
かつて見た眩しい光。
自分が置き去りにし、立香が今も尚、持ち続けている眩しい光。
それが漸く、指先に触れた気がした。
本当に本当に遠い回り道の果てに、その本質に触れた気がした。
「僕で良いのか、こんな不甲斐ない補佐官で」
「何を言う、君は最高の友人だ。何よりも君がいなければ始まらない。さあ――」
先に立ち上がったエジソンが、大きな手に平を差し出した。
カドックのその手をおずおずと握ると、両方の足にしっかりと力を込めて立ち上がる。
その一連の流れの何と難しいことか。
ただ起きて立ち上がる。それだけの所作にどれほどの思いが込められているのか、カドックは強く実感した。
「カドック」
「カドックさん」
「カドック」
カドックとエジソンの握手の上から、立香達の手が重ねられる。
いや、彼らだけではない。この時代にはいない、遠く次元の挟間で見守っているカルデアの仲間達。
彼らの手の重みがずっしりと伝わってくる。
この重みを裏切ってはいけない。もう、二度と。
カドックは固く心に誓った。
それは何かから解き放たれたかのような、とても軽やかな気持ちであった。
ここからが本当の意味でカドックくんのスタート地点。
明日のイベントまでに書きあがったよかった。