Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女 作:ていえむ
そもそも聖杯とは何か。
一般的には救世主の血を受け止めた杯、或いは最後の晩餐に用いられた食器を指すとされている。
一方で聖杯戦争において奪い合われる聖杯は手にした者の願いを叶える願望の万能機。その本質は何物にも染まっていない無色の魔力である。
聖杯に蓄えられた膨大な魔力はこの世の法則の範疇内であれば、願いの形を与えることで持ち主のあらゆる願望を実現させることができる。元が無色であるが故にその形は千差万別で、巨万の富を得ることも永遠の命も、生命の創造すら思いのままだ。過去の特異点においても架空の英霊や無限ともいえる兵士の創造など様々な使われ方をしてきた。
そして、その魔力を破壊の方向に傾ければ、この世の如何なる兵器、凶暴な魔獣の類よりも恐ろしい代物へと成り果てる。それこそ、世界を業火で焼き尽くすことなど造作もないであろう。
『言うならば魔術的な核兵器だ。それも街や国どころじゃない、世界そのものを破壊しかねない強力な爆弾になるだろう』
もしもそれが使われてしまえば、中東の地は跡形もなく吹き飛んでしまう。そんなことになればもうこの特異点を修復する術はなく、連続性を失った人類史を人理焼却から救う手立てはないであろう。
だが、そうなると一つだけ疑問が残る。トリスタンが残したメッセージには度々、「爆発」に関連するキーワードが盛り込まれていた。なので、カドックは聖杯を爆弾に改造したと推察したのだが、よくよく考えればそんなことをせずとも願望器としての機能を用いれば簡単に実行できるはずだ。
今までの特異点の黒幕達は人理定礎の破壊よりもその過程に意義を見出していたので、そのような直接的な行為に及ぶ者はいなかった。
獅子心王によって引き起こされる災禍の結果を爆発に例えたのだろうか。真相は聖都の奥深くに隠されているため、今は知る由もない。
何れにしても一刻の猶予もないことは事実であるため、カドック達はすぐに行動を開始した。
百貌のハサンはその組織力を活かして他の集落に逃げ延びた山の民に決起を促すため、別行動を取ることとなった。
十字軍と戦うためには最低でも一万の兵士が必要となるが、未だに山の民の兵力はそれに達していない。
そして、残る面々は呪腕のハサンの案内で、東の村より北に位置する霊廟を訪れていた。
アズライールの廟。
アサシン教団始まりの地にしてある1人の暗殺者が眠る霊地。
切り立った断崖の先に建てられたその寺院は、派手さも煌びやかさもない、されど有無を言わせぬ神聖さと重苦しい死の空気が満ちたほの暗い場所であった。
その纏う死の気配を感じ取ってか、ここには生命が一つとして存在しない。草木はおろか、鳥や獣、果ては魔獣すらここには寄り付こうとしない。
「初代様は特別なご存在。あの方にとってあらゆるサーヴァントは平等であり、その刃の前には「一つの命」に過ぎません。あのお方は自らの力で相手を殺すのではなく、相対した者の「自らの運命」がその者を殺すのです」
「自らの運命?」
「その詳細を語れる舌を我らは持ちませぬ。ですが、格や実力は円卓や太陽王をも物ともせぬ御仁と思って頂きたい。どうか粗相なきように」
重ねて注意を述べる呪腕のハサンに招かれ、カドックは霊廟の敷居を跨ぐ。瞬間、心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚を覚えた。
あまりの恐怖に血管が芯まで凍り付いたかのような悪寒が全身を駆け回り、呼吸すら忘れて立ち止まってしまう。
一瞬の後に自分がまだ生きていることに安堵と覚えると共に、あの一瞬で死んでいないことに疑問を抱いてしまうほどの濃密な死のイメージだった。
ここには魔力反応もサーヴァントの反応もなく、物音や生命の気配すらない。それなのに全身の震えが止まらず、体がこの寺院に留まることを全力で拒んでいる。
「おかしい。我らにとってここを訪れることは度し難い禁忌に他ならぬ。だというのに、門番の一つもおらぬとは……」
首を傾げながらも呪腕のハサンは用心しながら通路を進む。
寺院の中は冷え切っていて、何百年も人が立ち入っていないことが容易に読み取れた。
歴代のハサン達も遠くから礼拝するばかりで、この霊廟を訪れることはないらしい。彼らにとってここはそれだけ神聖な場所なのだ。
「気を付けて、カドック。何だか嫌な予感がします」
そう言いつつ、アナスタシアはこちらの手を握ってくる。
気を張り詰めているようで、ヴィイを抱いている右腕は恐怖を紛らわそうとしているのか、顔が変形するほど強く食い込んでいた。
そうしてしばらく進むと、一際濃密な死の気配が漂う扉が目の前に現れた。
ハサン曰く、この先が初代山の翁が眠る部屋であるらしい。
果たして、暗殺教団始まりの人物とは如何なる者なのであろうか。
気を抜くと怯えから力が抜けてしまうのを防ぐ為、カドックは一度だけアナスタシアの手を強く握り返すと、意を決してその扉に手をかけた。
その瞬間、世界が反転した――――。
□
気が付くとカドックは1人で暗闇を歩いていた。
明かりはなく、まるでヴェールのように闇に覆われた通路はどういう訳か果てがない。
行けども行けども出口につかず、カドックは疲労した体を酷使して闇の奥へと進んでいく。
光源もないのにどうして前へと進めるのか、暗闇で視界が利かぬのにどうして魔術を使わないのか。
見えない何かに促されるように前へ前へと進む自分自身を、カドックはどこか冷めた目で見下ろしていた。
まるでこの体を動かしているのが自分自身の意思ではないかのようだ。
『――何故、進む? その闇に果てはない。今ならばまだ、戻ることも可能やもしれぬぞ?』
どこからともなく威厳に満ちた声が響く。
まるで脳の中に直接、語りかけているかのような圧迫感。
本能的に理解する。
この声の主こそ、初代の山の翁であると。
「戻れないし、戻っちゃいけない。ここまで色んなものを背負ってきた。この先へ進まないということは、その荷物を降ろすってことだ」
『では、何故に先に進む? 汝では辿り着けぬ境地であろう?』
「…………きっと、自分でもよくわからない。ただ、背負ったからには止まりたくないんだ」
闇の中に髑髏が浮かぶ。
幽玄な青い炎を纏った黒い騎士。
姿を現した初代山の翁は、表情の伺えない髑髏の面の向こうからジッとこちらを見つめている。
『――魔術の徒よ。ここは本来、何人も立ち入れぬ禁域。我が廟に踏み入れる者は、悉く死なねばならない。我が問いより生をもぎ取るべし。その答えによっては即刻、首を撥ねるものと思え』
腹の底から響く声は、しかし強烈な殺気を纏っていた。
今までに出会ってきたどの英霊達とも違う、触れることはおろか見ることすら本来ならば憚れる厳かな存在。
彼を見ていると自然と呼吸が乱れた。
自分がまだ生きていることが不思議でしかたなかった。
この翁は別格だ。
最愛にして最優のサーヴァントであるアナスタシアでも敵わない。
自分など、百の齢を重ねても指先すら届かないであろう。
そんな死の具現とも言える存在が、あろうことか自分の前に姿を晒している。
それが意味することは一つ。
この者は誤った答えを返せば首を撥ねると言っていたが、試されているのは言葉ではない。
我が身の魂をこの者は計っている。
全ての命は平等であるが故に、真正面から死と向き合い、その最期を刈り取るのがこの暗殺者の役割なのだ。
『魔術の徒よ、時代を救わんとする意義を、我が剣は認めている。だが、汝の魂は醜悪かつ醜く歪んでいる。凡そ、世界を担うに価しない』
これが平素ならば、正しくその通りだと自虐していたであろう。
事実、自分の性根は歪んでいる。この旅の中でも度々、みんなから指摘されていた。
強い者への憧れと嫉妬。
無才であることの怒りと嘆き。
何よりもその事実に諦観し、野心を口にしながらも胸の内では叶わないと諦めていた。
認めよう。自分は確かに世界を担うに価しない。
数多の命、束ねた時間、人類史を救う資格を自分は持たない。
それでも、今の自分には譲れないものがあった。
これだけは否定してはいけない願いを、背負ってしまった。
『汝に問う。それでも尚、前へと進まんとするのは何故だ?』
猶予は一瞬。次なる瞬きが終われば自分の首は撥ねられる。
知恵を巡らせろ。胸の内から湧き出た感情を言葉にしろ。
力もなく、才能もない。これが自分にできる唯一の戦いだ。
この試練を以て、山の翁の心を動かす。
右手に残る微かな暖かさから勇気を貰い、カドックは言葉を絞り出した。
「生きたいからだ」
口にした言葉は、いつかに誰かが口にしたものと同じであった。
その答えに対して裁きは降りない。
“山の翁”は待っている。
その意味を、自分が発した言葉にどれだけの意義が込められているのか、その魂を計っている。
「生きたいと叫んだ男がいた。生きていたいと願った男がいた。そいつは平凡で、どこにでもいるごく普通の人間だった。ただ、まかり間違って世界を救うなんて偉業に巻き込まれただけの一般人だった」
いつだって真正直で、自分にできることを精一杯こなすだけの不器用な少年。
パートナーと共に懸命に前を向き、生きようと必死になる最善のマスター。
彼は諦めなかった。
諦めないと口にしながらも諦めてしまっていた自分と違い、どれほどの絶望の中でも生きることに真摯であった。
だからこそ憧れ、だからこそ嫉妬した。
力だけを、強さだけを求めて足掻き、より強い力の前に自分は折れてしまった。
彼は屈しなかった。
その心は、どこまでも平凡でしかないはずのその心は、とても気高くて尊い輝きを誇っていた。
あの輝きはそう、西の村を救うために命を燃やし尽くした、東方の大英雄の宝具と同じ輝きであった。
勝利にも敗北にも、成し得る結果すら彼にとっては些末なこと。
生きたい。
その信念こそが彼を突き動かした。
その願いだけが全てであった。
身に余る栄光を、背負いきれない大業を、共に分かち合えたのは偏にその心の在り方が尊かったからだ。
「僕はその願いを連れていく。あいつの代わりに、人理を救う! あいつの分まで、僕は生きる!」
『問おう。その者の名は?』
「藤丸立香。僕の大切な……友達だ!」
言ってしまった。
言い切ってしまった。
絶対に、それだけは有り得ないと思っていた。
だって自分は魔術師だ。
根源を目指し、目的のためならば親兄弟ですら時には殺し合う非道の一族だ。人間らしい感情なんて不要な生き物だ。
けれど、あいつはそんな自分にもごく普通に接してくれた。
不甲斐なさを見下しても彼は受け入れてくれた。
些細な成功を褒め称え尊敬してくれた。
時には喧嘩もした。
第五の特異点では本音でぶつかり合った。
何も渡していないはずなのに、いつしか多くのモノを彼から貰っていた。
その平凡な、どこまでも正直な願いに憧れた。
その尊い思いを全うさせてあげたいと、心の底から願った。
彼の力になりたいと、本心から思っていた。
そして、彼を見殺しにした。
大切な友達を、見殺しにした。
『笑止。そこに己が意思は介在せず、ただ人の願いに流されるだけと申すか?』
「笑うがいい、山の翁。僕にはもうそれしかない」
野心を捨てた訳ではない。
グランドオーダーを成し遂げ、自分の力を証明する。
世界を救い、自分にはこれだけの力があったのだと周囲を見返す。
けれど、それは今でなくていい。
それはここでなくていい。
そんなことはもう、どうでもいいのだ。
「僕は背負った。あいつの願いも、アーラシュの思いも。ここに至るまでに出会ってきた英霊達から、僕は多くの願いを託された。それを捨てることは彼らを裏切ることになる。だから僕は止まれない。7つの特異点の先へ、魔術王が待つ終局へ僕は行かなくてはならない。これは僕自身で選んだ道だ」
『魔術の徒よ、汝の名を告げるがいい! 愚かにも我が廟へと足を踏み入れた、哀れなる魂の名を叫ぶがいい!』
「僕はカドック・ゼムルプス。カルデアの……人類最後のマスターだ!」
それが、自分にできる精一杯であった。
本心を語ろう。
堪らなく怖い。
自分は今、死刑台の上にいる。
断頭の刃は既に準備を終えており、後は振り下ろされる時を待つだけだ。
ここに至ってまだ自分は諦めている。
カドック・ゼムルプスの言葉ではきっとこの男は動かない。
魔術師の言葉ではきっとこの暗殺者は揺るがない。
だから、彼の言葉を口にした。
大切な友達が、半ばで諦めざるをえなかった言葉を口にした。
何が犠牲になってもいい。自分がここで終わっても構わない。
けれど、あの尊い願いがあったことだけはこの暗殺者に知っていてもらいたい。
そんな心の底からの思いを口にした。
その願いだけは、今よりも先に連れて行きたかった。
『汝の願い、確かに聞き届けた。では……首を出せい!!』
そして、断罪の刃は振り下ろされた。
□
気が付くと、静謐に満ちた広間に足を踏み入れていた。
振り返るとアナスタシア達がいる。不思議そうにこちらを見ているところから察するに、この部屋に入ってからそう時は経っていないようだ。
では、あの暗闇での問答は幻覚であったのだろうか。
「否、汝の原罪は確かに切り払った」
その場にいた全員の顔が驚愕する。
奥まった暗闇から姿を現した騎士甲冑。その顔は髑髏の面に覆われていて素顔は分からないが、青白い炎を纏った幽鬼の如き佇まいは正しくあの暗闇で出会った“山の翁”だ。
「よくぞ我が廟に参った。山の翁、ハサン・サッバーハである」
まるで死を塗り固めたかのように、虚無が人の形をしている。
目の前にいるはずなのにそこにはいないかのような錯覚。
その位階は最早、サーヴァントという枠組みに入っていることが一つの奇跡といっていいだろう。
この者こそ初代ハサン・サッバーハ。全てのハサンが敬う始まりの翁である。
「剣士? 暗殺者の初代が剣士、なんて……」
『いや、驚くのはそこではありませんよ皇女様。そのアサシンは、まさかグラ――』
「無粋な発言は控えよ、魔術師。汝らの召喚者、その蛮勇の値を損なおう」
“山の翁”が虚空に向けて剣を振るう。するとどういう訳か、カルデアとの通信が途絶しロマニの声が聞こえなくなった。
まさかこの翁は、時空間を漂う魔力の波を切り払ったとでも言うのだろうか。
だとするとこの暗殺者は自分達が思っている以上にとんでもない力を持っていることになる。
つくづく、自分は彼と相対して生き残れていることが不思議でしかたなかった。
「……初代様。恥を承知でこの廟を訪れた事、お許し頂きたい。この者達は獅子心王と戦う者。されど王に届く牙が後一つ、足りませぬ。どうか――どうかお力をお貸し頂きたい。全ては我らが山の民の未来の為に」
面を合わせることすら畏れ多いとばかりに、呪腕のハサンは頭を垂れる。僅かに見て取れる腕の震えが彼の恐怖を物語っていた。
「二つ、間違えているな。以前と変わらぬ浅慮さだ、呪腕」
「……と、申しますと?」
「魔術の徒に問う。獅子心王と戦う者――これは真か? 汝らは彼の偽りの王が何を成そうとしているのかを承知しているか?」
その問いに対してカドックはノーと答える。
確かに自分達は十字軍と敵対しているが、彼らの首魁である偽りの獅子心王が何を企んでいるのかを知らない。
何故、わざわざ聖杯を爆弾として利用しようとしているのかを知らない。
「――牙が一つ足りぬ、とも申したな。果たして、あと一つで良いのか?」
その答えはハッキリしている。
確かに初代の力は別格だが、それでも十字軍は強大だ。
対抗するために太陽王の助力を乞うつもりでいるが、それですら足らない可能性もある。
「魔術の徒よ。汝は最優でなければ最善でもない」
相変わらず手酷い物言いだ。事実なので反論のしようがないのが情けない。
「――しかし、最善たろうとするその思いを汲み取ろう。汝をそこまで奮い立たせた者を尊重しよう。故に汝らは知らねばならぬ。獅子心王の真意、太陽王の現状、人理の綻び。そして――全ての始まりを。それが叶った時、我が剣は戦の先陣を切ろう。太陽の騎士、ガウェインと言ったか。我が剣は猛禽となってあの者の目玉を啄もう。我が黒衣は夜となって聖都を飲み込もう」
「ごめんなさい、ガイコツの偉い人! 言っている意味がぜんぜん分かりません! もっと分かりやすく言って、分かりやすく!」
(なっ……このへっぽこ法師!!)
ハサンはおろか、自分ですら畏れ多くて畏まってしまっているというのに、三蔵法師は空気も読めずに声を張り上げる。
だいたい、ガイコツの偉い人なんて呼び方はないだろう。ハサンに倣って初代様なり山の翁なり、別の言い方があるはずだ。
「そうね、
(君も大概だな、魔眼皇帝!!)
眼はいいくせにどうして肝心な時に空気が読めないのだろうか、この皇女様は。
これでもし、“山の翁”の機嫌を損ねでもしたらどうしてくれようか。
「――良い。好きに呼ぶがよい。我が名はもとより無名。拘りも取り決めもない」
意外にもこの翁、寛容であった。
「そ、その……色々とすまない。それで、えっと……調べもの、だったか?」
獅子心王の目的などを調べてこいと言っていたが、そのような時間はあるだろうか。
こうしている間にも、いつ聖杯爆弾が完成するかわからないというのに。
「砂漠のただ中に異界あり。汝らが求めるもの、全てはその中に。砂漠においてさえ太陽王めの手の届かぬ領域。砂に埋もれし知識の蔵。その名を――アトラス院と言う」
アトラス院。
それは魔術協会における三大部門の一つ。
ロンドンの「時計塔」、北欧の「彷徨海」、そしてエジプトの「アトラス院」。
巨人の穴倉の異名を持つアトラス院は錬金術師の巣窟であり、魔術世界における兵器倉庫にして情報の集積地。
恐らく、オジマンディアスの影響で中東が砂漠化した際にこの時代に引っ張って来られたのだろう。
確かにそこならば調べものには打ってつけだ。
「魔術の徒よ、人理焼却の因果を知る時だ。それが叶った時、我は戦場に現れる。天命を告げる剣として」
以上だと、と言わんばかりに“山の翁”は携えた剣を構える。
一同がギョッと驚く中、呪腕の翁は粛々と自らの頭を差し出した。
「どういうことだ!? 何故、呪腕のハサンが首を切られなくちゃいけないんだ?」
「我が面は翁の死。我が剣は翁の裁き。我は山の翁にとっての山の翁――即ち、ハサンを殺すハサンなり」
山の翁が膿み、堕落し、道を違えた時に、この暗殺者は姿を現す。
神の教えを守る者たちが人の欲に溺れることこそが、神への最大の冒涜。
精神の堕落であれ技術の堕落であれ、衰退した「山の翁」を殺すことでこの者はそれを防いできた。
歴代のハサンはみな、最後に初代の面を見る。
故に最初にして最後のハサン。
暗殺者を暗殺するという矛盾した存在であることが、この翁の役割なのである。
「その時代のハサンが我に救いを求めるということは、己に翁の資格なしと宣言するに等しい。故にその面を剥奪する」
「なら、それを承知であんたを僕達をここに招き入れたのか、ハサン!?」
「…………」
呪腕のハサンは答えない。
真実を話し、余計な慚愧を抱かせたくはなかったとでも言いたいのだろうか。
確かに、こんな結末を知っていたら反対する者も出るだろう。
自分だってそうだ。命が目の前で失われる様を見せつけられるのは何よりも辛い。
もう
「呪腕よ。一時の同胞とはいえ、己が運命を明かさなかったのか。やはり貴様は何も変わっておらぬ。諦観も早すぎる」
怒気を孕みながらも“山の翁”は構えを解く。
「……面を上げよ、呪腕。既に恥を晒した貴様に上積みは赦されぬ。この者達と共に責務を果たせ。それが成った時、貴様の首を断ち切ってやろう」
「……ありがたきお言葉。山の翁の名にかけて必ず」
「では行くがいい。獅子心王が語る真なる十字の日が訪れる前に聖地を――聖なるものを返還するのだ」
□
アズライールの廟を後にして2日、一同は東の村へと戻ってきていた。
自分達が留守にしている間も十字軍の襲撃はなかったらしく、村の様子は清貧ながらも穏やかなものだった。
皆、怯えてはいるが日々の暮らしを精一杯過ごしている。
その日常の営みに焼かれた西の村の様子が重なって、カドックは小さな怒りを覚えた。
その一方で、自分にまだこれだけの人間らしい感情が残っていたことに戸惑いを隠せなかった。
「無事に初代様の協力は得られましたな。しかし、この首が繋がっていようとは……」
「あれはこっちも生きた心地がしなかった」
「まったくです。覚悟していたとはいえ、あの感覚をもう一度味わうのは恐ろしかったですからなぁ」
冗談めかして呪腕のハサンは笑って見せるが、実際は恐怖で震えていたことはみんなが知っている。
彼の蛮勇を笑う者など1人もいないだろう。それほどまでにあの翁は別格だ。
「マスター、直に荷物が纏まる故、出立の準備をされよ」
「わかった、藤太。呪腕のハサン、ここで一旦お別れだ」
自分とアナスタシア、三蔵と藤太はアトラス院への調査と太陽王との交渉のために砂漠に向かう。
呪腕と静謐のハサンの2人は、山に残って民間人の避難と聖都進軍の準備を進める手筈となった。
時間が余り残されていない以上、個々の問題は早急に進めなければならない。
次に会う時は聖都攻略の直前となるであろう。
「あなた方には聖都攻略のための要となって頂くことになりましょう。ですが円卓の騎士トリスタン。我らが同胞の憎き仇ですが、あの有り様は哀れで見ていられませぬ。あの者だけは我らの誇りに賭けて必ずや死をもたらす。それこそが魂を賭けて貴殿に思いを託したあの者への報いとなりましょう」
「そうか……わかった。そちらは任せる」
「我がままをお許し頂き、ありがとうございます。では…………おや? そういえばアナスタシア殿は?」
「ルシュドに挨拶に行くと言っていた。母親は危篤でアーラシュもいなくなったから寂しがっているだろうからって」
何とか搔き集めた霊草で薬を調合しておいたが、その分量では完治どころか痛みを和らげることすら難しいだろう。
恐らく、そう遠くない内にルシュドの母親は死を迎えることになる。
「いいのか、あんたは会わなくて?」
「そうですな……今はそのような場合ではないとはいえ……考えておきましょう」
彼とルシュドの母親の間に何があったのかを自分は知らない。
無関係な自分が無闇に首を突っ込むわけにもいかないだろう。
何より彼は死者たるサーヴァント。この時代の生者である彼女に何ができようか。
そんな思いを彼は抱いているのかもしれない。
村を去る際にカドックが最後に見たのは、仮面の向こうから寂しそうに空を見上げる呪腕のハサンの姿であった。
Aチーム最初の難関といえる山の翁。
はい、これを乗り越えるために5章も費やす形となりました。
このSSがカドアナオンリーではなくぐだマシュがいるのも理由の一つです。
静謐とのバトルがなくなったのは、システム的にも能力的にも相性が悪いアナスタシアじゃ完封の可能性もあるかなと思ったからです。
でも、考えてみてください。能力ブーストの静謐と翁との話死あい、果たしてどっちが楽でしょうか?