Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女 作:ていえむ
ウルク市の朝は早い。
陽が東から顔を出す頃には工房から煙が上がり、刃物を鍛える槌の音で人々は目を覚ます。
女性は井戸場から水を汲んでその日の家事を始め、男性は身支度を整えて職場へと向かう。
子ども達も例外ではない。学のある者は学校に行き、そうでない者は年長者が幼い者の面倒を見る。
観察していると分かる事だが、手持ち無沙汰にしている者が一人としていない。
それは仕事に就いているとか、世話をしなければならない家族や家畜がいるからという訳ではない。
まだ世界が狭いが故に、誰かが欠ければ国が回らないからだ。そして、誰もがそれを深く理解しているが故に歩みを止める者はいない。
彼らは生きる希望と活力に満ちており、各々が役割を見つけてそれに従事しているのだ。
ここには無駄なものが何一つとしてない。無為に生きている者が一人としておらず、皆がその日を懸命に過ごし、明日を夢見て眠りにつく。
それこそが神代に生きる人々の強さであった。
だが、そんな人々を脅かす魔の手がすぐそこまで迫ってきている。
三女神同盟。
ウルクの北に建設された北壁を防衛ラインとする魔獣戦線。
突如として広がった南の密林。
北東の山脈から飛来する女神による無差別爆撃。
三方向からの侵略に対してギルガメッシュ王は様々な策を講じてはいるが、現状は防衛線を維持するのが精一杯の状況であった。
首魁とされる神霊サーヴァントの狙いはギルガメッシュ王が持つウルクの大杯。オケアノスや中東にあったものと同じ、この時代に元々存在した聖杯だ。
恐らくはそれを手に入れることでこの時代の人理定礎を破壊し尽くすことが目的なのだろうとギルガメッシュ王は言っていた。
(そんな状況だっていうのに、僕らは今日も人助けか)
朝食を頬張りながら、カドックは心の中で自嘲する。
不本意ながらロマノフ診療所の評判は上々。長蛇の列とはいかないが、神官でもお手上げとなった病も診てもらえるということで連日、多くの人々が訪れていた。
実際はカドックの魔術とカルデアにいるロマニの医学知識によるものなのだが、ウルクの市民は知る由もない。
最近では遠出ができない老人達の為に往診まで行っている。
褒められたり感謝されたりするのは嫌いではないし、それなりにやり応えのある仕事なのでカドックとしても満更ではない気持ちだったが、やはり心の奥には不安があった。
既にウルクに来てから十日余り。残る時間は刻一刻と迫ってきているのだ。
(まあ、今は考えても仕方がないか)
特異点の修復もそうだが、目の前の問題も山積みだ。
朝一番の診察を待つ患者への対応、往診の合間を縫って薬品の材料の買い出し、留守番を任されている身として大使館の補修などやるべきことは多い。
まずはこの朝食を平らげ、できることから一つずつ手を付けていくことにしよう。
「フォーウ、フォウ!」
(そういえば、何でこいつはいるんだろうな?)
つい先ほどまで、自分の皿の上に盛られていた干し肉に齧り付く白い物体を見下ろし、カドックはため息を吐く。
今回はどういう訳か、レイシフトにフォウが紛れ込んでいたのだ。
マシュ曰く、誰かのコフィンに潜り込んだまま気づかれなかったのかもしれないということらしい。
今まで、大人しくカルデアで留守番をしていたというのに、いったいこの毛むくじゃらな生き物は何を思って密航など企てたのだろうか。
疑問は尽きることがなかったが、残念ながらフォウがいるとマシュの精神状態が非常に安定することもあり、余り大きな声で不満を漏らすこともできなかった。
「フォウ! フォーウ!」
「ほら、これで終わりだからな」
お代わりを催促され、カドックは眉間に皺を寄せながら皿の上の肉を放り投げる。
まるで投げた円盤を口でキャッチする犬のように、フォウは華麗な放物線を描いて肉を受け止めると、部屋の端の方で満足そうにしゃぶりつくのだった。
「モコモコ……」
美味そうに肉を頬張るフォウを見て、カドックの対面に座る少女が小さな声を漏らす。
黒いフードを目深に被った大人しそうな少女。アナと名乗るこの少女はここの同居人であり、この時代で出会ったはぐれサーヴァントだ。
残念ながら真名は教えてくれなかったが、刃物の扱いに関しては相当の使い手で、彼女がいなければウルクに辿り着くことなく自分達は全滅していたであろう。
それにしても、鎌を使う幼子の英雄などいただろうか。
「ふふっ、アナちゃん、お顔にお髭がついていますよ」
「あ、すみません」
牛乳を飲んだ際についてしまったのだろう。アナの口の周りには白い輪っかが描かれており、それをアナスタシアは布巾で優しく拭い取る。
恐縮そうに礼を言うアナの姿が微笑ましいのか、彼女はそのままフード越しにアナの頭を優しく撫で始めた。
名前が似ているということで親近感が湧いたのか、彼女はここに来てからというもの何かにつけてアナを可愛がっている。
本人は子ども扱いされることを嫌がっているが、それはそれとして構ってもらうことを拒否するのも気が引けるようで、何とも複雑な表情を浮かべているのが印象的だった。
「そうだ、今日はお天気もいいし市場に行きましょう。お外でお昼を食べるの。いいでしょ、アナちゃん」
「えっと……はい、特に用事はありませんので、大丈夫です」
「良かった。近くに大きな岩がある広場を見つけたのだけど、昇ったら見晴らしも良いし、きっと楽しいと思うの」
「岩登りですか? えっと、はい、構いません」
「アナスタシア、岩ってあの集会場の隣にある大岩か? 止してくれ、三階建てくらいある奴じゃないか」
暑い日は日差しを遮ってくれるので重宝しているが、前にそこで遊んでいた子どもが足を滑らせてケガをしてしまったことがあるらしい。
街の寄り合いでも危険なので同じことが繰り返される前に壊した方が良いという意見も出ている。
サーヴァントとはいえアナは子どもだ。危険な真似なんてさせられない。
「そうかしら? 少しくらい危ない目にあった方が、この娘のためになると思うの」
「大事になったらどうするんだ。それよりも今は勉強する事の方が大切だ。この時代、識字は立派なスキルなんだ。学校で学んだ方がよっぽど身になることが多い」
「あら、子どもはお外で遊んでのびのびと育つものよ。健康で丈夫な体を作る事が一番なんだから」
「アナは頭が良いから、勉強して神殿勤めを目指した方が良いに決まっている」
「アナタはわかっていません。子どものことなのよ、もっと真面目に考えて!」
「僕は真面目だ。君だって、この娘に理想を押し付けているだけじゃないか!」
苛立ちを紛らわすために髪の毛を掻き回し、やぶ睨み気味に向かい合うアナスタシアを見やる。それが癪に障ったのだろうか、アナスタシアは氷のような冷たい眼差しでこちらを睨み返してきた。
2人の間に火花が散り、気まずい空気が食卓に覆い被さる。
一触即発。今にも喧嘩が始まりそうな光景に、横でマシュと談笑していた立香が思わず背筋を強張らせた。
「あの、どうして2人は私の将来についてこんなに真剣に話し合っているのでしょうか? というか、私、いつからお二人の子どもになったのでしょう?」
干し肉を食べ終えたフォウを抱きかかえ、ブラシで毛繕いをしながらアナは首を傾げる。
少女の純真な疑問に対して、立香もマシュも返す言葉が見つからなかった。
「えっと……どうなんでしょう、先輩?」
「犬も食わない‥‥…ってやつなのかな?」
そんなこんなで、今日もウルクの一日が始まろうとしていた。
□
午前の診察を終え、カドックはアナスタシアと共にアナを連れてウルク市の市場を訪れていた。
結局、あれから言い合いの末に午後は広場で遊ぶということになったのだ。
ただ、カドックの方は何人かの往診が控えているので昼過ぎには先に戻ることになっている。
「本当、いいお天気」
「はい、お空がとてもきれいです。けど、少し人が多いです」
「そりゃ、市場だからな」
元々、シュメール王朝では交易こそ盛んではあったが、市場経済という概念は余り発達してはいなかった。
貨幣を用いた資産の貯蔵は凡そ500年先に生まれるものであり、本来の時間軸においては人々は物々交換でモノのやり取りを行っていたのだ。
だが、ウルクを城塞都市化した際に非常手段としてギルガメッシュ王は貨幣制度を導入した。
これにより、市民間での売買を推奨することで経済を動かし、引いては都市全体の活性化を図ったのである。
その結果、自由主義とは無縁のはずであった都市には連日、様々な品物が並ぶ巨大市場が出来上がる形となった。
パッと見ただけでも工芸品に衣類、アクセサリー、花や石、動物の皮や骨、薬など実に多岐に渡る店が軒を連ねている。
中には調理済みの料理を提供する飲食店のようなものもあった。
当然ながら、市場は常に人で溢れ返っており、王の狙い通り活気に満ち溢れていた。
「ほら、こっちに来るんだ、アナ」
人混みからアナを守るように、カドックは彼女の手を引いて自分とアナスタシアの間に誘導する。
察したアナスタシアもそっと左手を伸ばして空いているアナの右手を握り締め、アナは2人に両手を握られる形となった。
アナは恥ずかしそうに顔を赤らめるが、拒否を示すことはなかった。ただ、2人に促されるままに市場の波を掻き分け、途中の露店を眺めながら目的の広場へと向かう。
その様はまるで、本当の親子のようであった。
「マシュ達も来れば良かったのに」
「向こうは向こうで仕事だからな。できれば、僕もあっちに行きたかったけど」
「カドックさん、本気ですか? 死にますよ?」
「知っているよ」
立香とマシュは午後から、ウルクの兵士達の訓練相手を務めることになっている。
依頼主はレオニダス一世。そう、スパルタ国王レオニダス一世だ。
ギルガメッシュによって召喚されたサーヴァントの1人で、平時は北の魔獣戦線の指揮官として采配を振るいつつ、兵士の訓練なども行っているらしい。
本場スパルタの指導というものが果たして如何ほどのものなのか、是非とも拝聴したかったのだが、残念ながら往診の予定を動かすことはできなかったので今朝は涙ながらに2人を送り出すことになった。
ちなみにスパルタでは素手で猛獣を殺せれば一人前。訓練中にケガや病を負った者は死刑という過酷な試練を貸し、何故かそれがまかり通った事で史上最強の軍隊が出来上がってしまった。
その物差しに当てはめれば自分は戦士失格であり殺されてしまうことを、アナは指摘していたのだ。
「アナタ、私達と過ごすのが嫌なのかしら?」
少しわざとらしさすら感じさせながら、アナスタシアは頬を膨らませてふてくされる。
目線はアナに向けられていて彼女に真似をするよう訴えており、察したアナが不承不承とばかりにフードに隠れた顔を小さく膨らませる。
似ていない親子の悪戯にカドックは呆れ交じりに苦笑を返す。
「そんなことはない。少し残念だなって思っているだけだ」
「本当?」
「本当だ。でなきゃ、ずっと家に閉じこもっている」
「そうだったわね。アナタってそういう人でした」
破顔するアナスタシアに釣られてカドックも僅かに頬を吊り上げる。
その様を不思議そうに眺めていたアナは、2人がどうして笑い合っているのかが分からず首を傾げることしかできなかった。
□
目当ての広場は市場を抜けた先にあった。
市民が運動や祝い事をするための広場で、一画には地区の代表達が集まるための集会所が設けられている。
アナスタシアが話していた大岩もその隣にあった。さすがに危険なので一番上まで昇っている者はいなかったが、それでも何人かの子どもが岩の付近で遊んでいる姿があった。
「先を越されちゃったわ。仕方ないから、お昼はこっちの木陰で頂きましょうか?」
「本気でてっぺんで食べるつもりだったのか、君は?」
「もちろん。けど、子ども達が遊んでいるところに割り込むわけにはいかないでしょう?」
微笑みながら、アナスタシアは鞄の中から用意してきた昼食と水が入った革袋を取り出す。
献立はアカルというビール酵母のパンと骨付きのラム肉。3人で出かけるとあって、朝の診察そっちのけでアナスタシアが作ったものだ。
本人が腕によりをかけたと言うだけあってアカルは会心の出来であった。
麦酒の風味が独特ではあるが、蜂蜜をかけて食べるとこれが意外と美味い。固めの食感は腹持ちが良く食べ応えもあった。
ラム肉は少し時間が経っていたこともあって固くなっており、水がなければ飲み込むのに苦労しただろう。残念ながらこの時代に胡椒はまだないため、味は非常に淡白である。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして。アナちゃん、お水はまだ飲む?」
「いえ、もう充分です。お腹もいっぱいです」
「マシュ達、きっと疲れているでしょうから、帰りはバターケーキを買って帰りましょうか? アナちゃんも好きでしょ?」
「バターケーキ? はい、是非」
子犬のように尻尾を振るアナの頭を、アナスタシアは愛おし気に撫でる。
その光景を何となく眺めていたカドックの頬を心地よい風が撫で、遠くからは市場の喧騒と大岩の周りではしゃぐ子ども達の声が聞こえてきた。
人理焼却が間近に迫っているとは思えない穏やかな時間。カドックは心のどこかでつい思ってしまう。
こんな時間がいつまでも続けば良いと。
そう、この街はとても居心地がいい。
無駄なものが一つもなく、無碍に扱われる者もいない。
突出した天才も取り柄のない凡人も皆、それぞれに役目があってそれを全うしている。
そのシンプルな生き方は、ずっと才能に振り回されてきたカドックにとって、とても生きやすい世界であった。
仕事もある、生活するのに十分な収入だってある、何より自分を凡人と蔑む者もいない。自分が羨む天才もいない。
ただそれぞれが違った個性を持ち、それに応じて生きているだけなのだ。
こんな世界でいつまでも暮らしていければ良いのにと、カドックは心のどこかでつい考えてしまうのだ。
もちろん、最後にはそれは叶わない願いであることを思い出すのだが。
「あ、見つけましたよカドック」
不意に声をかけられ、カドックは我に返る。
振り向くと異邦メソポタミアには似つかわしくない東洋人がこちらに向けて手を振っていた。
「あら、シロウ神父。ごきげんよう」
「ごきげんよう、アナスタシア皇女。今日もよいお天気ですね」
芝居がかった仕草で恭しく礼をした青年の名は天草四郎。立香の話では、彼と同じ故郷の英霊らしい。
何でも地方で圧政に苦しむ農民や宗教家のために反乱を起こしたのだとか。
此度はルーラーのサーヴァントとしてギルガメッシュ王に召喚されており、平時はウルク市の見回りや市民の相談事に乗ったりしているらしい。
人当たりは良いのだが、言葉の端々に何とも言えない胡散臭さが滲み出てくるのでカドックとしてはやや苦手な手合いではあった。
「何か用か、シロウ?」
「ええ、折り入って頼みたいことが。ああ、時間が圧していますのですぐに来て頂けませんか? そこまで遠くはありません」
「まず要件を言ってくれ。詳細を知らせずに了承を取るのは詐欺師のやり方だ」
「これは心外。ですが、その通りですね。ええ、急患なのですが、これが私ではお手上げでして、是非とも力を貸して欲しいのです」
「それを先に言え!」
激昂しながらカドックは立ち上がり、服についていた砂を払う。
ここはインフラが整備された現代社会とは違うのだ。ウルクの人間は現代人よりも遥かに丈夫で健康だが、一度でも病に罹患すれば清潔面の問題などから軽い病気でも手遅れになることがある。
言ってくれれば二つ返事で了承したというのに、この神父はどうして変に勿体ぶるのだろうか。
「アナタ、走るなら肩に捕まって」
「私も行きます。何か、お手伝いさせてください」
「では、こちらに。少し急ぎますよ」
手早く荷物を片づけたアナスタシアは、半ば背負うような形でカドックを支えながらウルクの街を疾駆する。
持病の外反母趾が痛むのか、数分もしない内に険しい表情を浮かべるが、彼女は唇を噛み締めたまま走る速度を緩めなかった。
その横顔をチラリと見やったカドックの胸中は複雑であった。自分がこんな体でなければ、彼女に迷惑をかけることもなかっただろう。
「ここです。患者はこちらに」
そう言って四郎に案内されたのは、旅商人や競売人達が住まう区画に設けられた一軒家だった。
四郎の話では家主は不在で、今は若い奴隷が留守番をしているとのことらしい。
その奴隷が急患なのかと思ったが、四郎は黙って首を振って屋敷の裏手に回る。そこには荷車を引くために使う牛達が住まう牛舎が設けられていた。
四郎がその内の一つに向けて呼びかけると、中からまだ十を越えたばかりと思われる少年奴隷が顔を出した。
「やあ、遅くなってすみません。どんな様子ですか?」
「さっきからずっと、苦しそうに鳴いています。段々、痛みが増してきたみたいで」
「ああ、それはもう間もないですね。間に合ってよかった」
「シロウ、ひょっとして急患っていうのは…………」
「ええ、彼女のことです」
四郎が指差したのは、牛舎の中で苦し気に呻いている一頭の雌牛だった。
黒い瞳を潤ませながら懸命に力む彼女のお腹は、それは見事な臨月であった。
「おい、百歩譲っても僕は人間専門だ。せめて羊牧場の方を当たれ!」
本で多少の知識は仕入れているが、動物は基本的に専門外だ。ましてや妊婦ともなれば自分の手に余る。
念のためロマニにも問い合わせてみたが、彼もこちらと同じ意見だった。
『うーん、僕も動物は専門外だね。妊婦となると尚更だ』
「私もそう思ったんですが、どうも様子がおかしくて。事は一刻を争うと思ったので、あなた方を探していたのですよ」
「ああ、アナスタシアさんの眼ですね」
アナスタシアの透視の魔眼はあらゆる虚飾を払い真実を浮き彫りにする。
それを用いれば母体の中の胎児の様子を見ることができるだろうと彼は考えたようだ。
「お願いします。こいつはこれが初産なんです。何かあったら旦那様に何て言われるか」
余程、主からの折檻が恐ろしいのか、少年奴隷は必死で頭を下げて食い下がった。
そうなると無碍に断れないのがアナスタシアという少女だ。優しい皇女は申し訳なさそうに俯きながら、こちらに視線を送って許しを請う。
今回はそこにアナの上目遣いも追加だ。さすがに女性2人から懇願されれば首を縦に振らざるを得ず、カドックは渋々アナスタシアの魔眼を使うことを了承した。
「わかった、やってくれ」
「ええ」
短く答え、アナスタシアはヴィイを抱きかかえたまま陣痛に苦しむ雌牛を凝視する。
重苦しい沈黙。狭い牛舎の中は日差しが遮られてはいるが、地面からの熱がこもっているのかとても蒸し暑い。
時間にして僅か十秒ほどだったにも関わらず、まるで一時間かそこらは睨んでいたのではないのかと錯覚してしまった。
「えっと……なんていえば良いのかしら? 足の方が下を向いていて…………」
「足? 後ろ足のことか?」
「ええ」
構造上、子宮は上向きなので胎児はそこから滑り落ちるように生まれてくる。
定番は頭からだ。前足からの時もあるが、要するに胎児は母体の中では下を向いているのである。
だが、アナスタシアが視た牛の胎児は後ろ足を下に向けているらしい。
「逆子、ですか?」
アナの問いにアナスタシアは無言で頷く。すると、今まで心配そうに親牛を慰めていた少年奴隷の顔が一気に暗くなり、下顎がカタカタと震え出した。
「旦那様から聞いたことがある。逆子の牛は引っ張り出してやらなきゃ死んでしまうことが多いって」
後で知った話によると、牛は出産の際に自然とへその緒が切れるようになっているのだが、逆子の場合はそのタイミングが早いせいで産道内で酸欠状態に陥ってしまうとのことらしい。
加えて牛が逆子を自力で産み落とすことは難しいらしく、人間が足を引っ張るなどして手助けしてやる必要があるとのことだ。
「死んでしまうって……それ、まずくないか?」
ここから郊外の羊牧場までサーヴァントの足で15分。そこから動物のお産に詳しい者を探して連れて来るのにどれだけの時間がかかるだろうか?
それともここの家主を探して呼び戻すべきか? 自分の財産の一大事なのだ。余程の馬鹿でない限り、飛んで帰ってくるのではないだろうか?
とにかく、早急に手を打たねばこの牛の子どもは外の世界を知ることなく死んでしまうだろう。
そして、それに対してこれ以上、自分にできることは何もない。
何もない、はずだった。
「っ……お母さん牛の様子が!?」
「いけない! 破水しています! 産道が開いて、足が…………」
女性陣2人の声に覆い被せるように、親牛が一際大きな鳴き声を上げた。
まるでそれに釣られたかのように他の牛達も鳴き声の合唱を奏でる。
カドックが苦心して牛の後ろに回り込んで覗き込むと、確かにヌメヌメとした膜に覆われた黒い足先が親牛の股座から飛び出していた。
だが、何かに引っかかっているのかそれ以上出てくることはなく、ただ親牛の悲痛な鳴き声だけが牛舎に木霊するばかりだった。
「なっ……っ……ん……!?」
生き物の体の中から肉の塊が転がり落ちようとしている。
そうとしか形容できない光景を間近で見てしまい、カドックの頭は瞬間的なパニックを引き起こした。
自分とて魔術師の端くれ。召喚事故を起こして物言わぬ肉塊に成り果てた動物や、醜悪な合成生物の類はいくつも見てきた。
だが、そんな悍ましいものよりも今、目の前で起きている出来事の方が遥かに衝撃的で言葉に詰まる光景だ。
新しい命が今にも生まれようとしている。しかし、その命は死神の鎌の上にいるのだ。
何もしなければ、この子牛は程なく死んでしまうだろう。
何ができる?
自分にいったい、何ができるというのか?
そんな無意味な思考の波が寄せては返し、カドックはその場から動くことができなかった。
そんなカドックの意識を現実に引き戻したのは、最愛のパートナーの一言だった。
「
「っ!?」
「何をしているの! アナタは私のマスターでしょう! なら、やるべきことは決まっているのではなくて!?」
「僕に、この子を取り上げろっていうのか? そんな、できるはずが…………」
「いいえ、できます! アナタならできます!」
力強く、ハッキリとアナスタシアは言い放つ。
その瞳には自らのマスターに対する絶対の信頼が込められていた。
この目に何度自分は助けられたことだろう。挫けそうになった時、迷った時はいつも彼女が側で支えてくれた。
彼女がいたから、自分はどんな逆境でも虚勢を張り続けることができたのだ。
なら、今度も同じようにするだけだ。
この程度の逆境がなんだ。子牛一頭救えずして何が人類最後のマスターか。
今日までで世界を六度救ったのなら、子牛を取り上げることだってできるはずだ。
「おい、薪をありったけ用意しろ! お湯を焚いてここまで運ぶんだ!」
「え、あ……」
「私がやります。案内してください」
アナに促され、少年奴隷はもたつきながらも母屋に駆ける。
どれだけ必要になるかはわからないが、消毒のためにも清潔な水が必要だ。
それから専門の知識もいる。顔の利く四郎を走らせ、誰もでもいいからここに連れてきてもらうのだ。
それまでの間、残った者が総出でこの子牛を引っ張り出さねばならない。
『そ、そうだ! ラマーズ法! ヒィヒィ、フー。ヒィヒィ――』
「ドクターはちょっと黙ってろ! アナスタシア、そこのロープを持ってきてくれ。子牛の足に巻き付けるんだ!」
「ええ!」
自分は片手が使えないので、代わりにアナスタシアにロープの巻いてもらわなければならない。
ヌメヌメとした膜が邪魔をしてなかなか縛ることができなかったが、アナスタシアは指先の不快感に対して文句ひとつ漏らさずに必死でロープを結わいつけた。
そうしている内に一足早くアナが戻ってきたため、3人で巻き付けたロープに緩みがないかをもう一度確認し、掛け声を合わせて一気に子牛を引っ張り出す。
「うぅ、重い……」
「……ロープが千切れそうです」
脆い麻縄ではサーヴァントの膂力に耐え切れないため、必然的に女性陣2人には繊細な力加減を要求された。
そのせいか子牛はなかなか外に出てこれず、牛達の合唱が何度も耳の中で木霊した。
その膠着は数分のようにも、数時間のようにも感じられた。いつの間にか少年奴隷も加わっており、4人は声と力を合わせて懸命にロープを引き続けた。
やがて、腕の中の手応えがフッと軽くなったかと思うと、するりと子牛の体が親牛の中から滑り落ち、牛舎の藁の上へと転がった。
「う、生まれた……」
膜に包まれた子牛はまるで、ゴム風船か何かのようだった。
足はピンと伸び切り、開いた口からはだらしなく舌が飛び出している。
両の瞼は閉じられたままで呼吸をしている様子はない。だが、僅かに体が痙攣しているところを見るにとりあえず生きてはいるようだ。
「赤ちゃんって、こういう時は泣くものよね?」
「まさか、喉を詰まらせたのか?」
人間の赤ん坊の話だが、生まれる時に羊水を喉に詰まらせ、呼吸ができないまま死んでしまうケースがあると聞いたことがある。
確か、ストローか何かで喉の羊水を吸い出してやれば良かったと思うのだが、生憎とここにはそんなものはないし、あったとしても子牛では口が広すぎてストローが喉まで届かないだろう。
ならば、どうやって喉の中の羊水を吐き出させればいいのか? ここにいる4人はおろか、カルデアにいるロマニですら正しい回答を持ち合わせていなかった。
まだお産の疲れが残っているにも関わらず、親牛も心配そうに我が子を見つめていた。
痙攣も段々と激しくなっており、素人目に見ても危ない状態であることが見て取れる。
「……くっ!!」
意を決し、イチかバチかとカドックは自らの腕を子牛の口の中へと突っ込んだ。
生暖かい感触と腕全体を包み込む圧迫感。思わず眉間に皺が寄り、目を開けてられないほどの嫌悪感が背筋を駆け巡る。
その光景に他の面々も驚愕し言葉を失うが、カドックの必死さが伝わったのか、或いは異様な光景に思考が麻痺してしまったのか、誰も咎める者はいなかった。
「うっ……!」
指先に柔らかい肉の感触が伝わり、それを握り締めた瞬間、子牛が覚醒する。
直後、カドックが腕を引き抜くと、物凄い嗚咽と共に喉に詰まっていた羊水が吐き出され、尻餅を突いたカドックの顔面に直撃する。
白とも緑ともつかない汚濁を浴び、とうとう耐え切れなくなったカドックは咄嗟にかけていた眼鏡を放り投げて藁の上でもんどりを打った。
視界が灰色に変わり、藁のチクチクとした感触が全身を刺すが、吐きつけられた汚液の悍ましさに比べれば遥かにマシだ。
それよりも水浴びがしたい。できれば温かいシャワーを浴びて、環境汚染なんて気にせず洗剤をジャブジャブと使い捨てたい。
だが、まずは子牛の安否の確認だ。
「どうなった? 牛はどうなった?」
「大丈夫です。ちゃんと、生きています。ほら、声が聞こえるでしょう?」
「お母さん牛が赤ちゃんをペロペロ舐めています。あ、立ち上がろうとして…………ああ……」
親牛の声に紛れて、小さな子牛の声が聞こえてくる。
きっと、目の前ではさぞ感動的な光景が繰り広げられているのだろう。
それを見れないことをほんの少しだけ残念に思いながら、カドックは藁の山の上に体重を預けて瞼を閉じる。
四郎が羊牧場の羊飼いを連れて戻ってきたのは、その少し後のことだった。
□
その日の夜。
不意に目を覚ましたカドックは、隣にあるべき気配がないことに気づいて枕元に置いておいた眼鏡に手を伸ばした。
真っ暗だった視界がほんの少しだけ光を取り戻し、薄暗い部屋の様相が露になる。
夜の闇のせいか、寝室は昼間よりも広く見え、まるで自分が世界にひとりだけ取り残されてしまったのではないのかという錯覚を覚える。
不意に去来する寂しさが胸を締め付ける。助けを求めるように腕を伸ばすも、傍らにあるべき温もりはどこにもない。
この部屋にいるのは自分ひとりだけだ。
窓から差し込む月明かりが床の一画を照らす幻想的な光景すら、牢獄のような冷たさを思い起こさせる。
だが、耳を澄ますと聞こえてきた。
透き通るような綺麗な歌声が天井から零れ落ち、耳朶に優しく染み込んでいく。
その歌声に誘われるように、カドックは寝台を抜け出すと窓から体を乗り出し、壁に立てかけた梯子を使って大使館の屋根へと上る。
そこには、銀色の髪を風に靡かせながら鼻歌を歌うミューズの姿があった。
「あら、起きてしまったの?」
「ああ。隣、良いかな?」
「ええ、どうぞ」
手招きするアナスタシアの隣に腰を下ろし、何気なく空を見上げる。
青い夜空に幾つもの星。今までも何度か見てきた光景だが、この時代は特に星々の輝きをハッキリと見ることができる。
星の光を遮る光源がどこにもないからだろう。未だ手つかずの自然が大部分を占めるこの時代なら、月や星は憚ることなく輝くことができる。
人間の手があの遠い輝きに届くまで凡そ4000年以上はかかる。アルテミスの膝元に旗を立てるのは更に先の話だ。
本当に遠いところまできたものだと、改めてカドックは実感する。
「ねえ、アナタ」
「うん?」
「昼間のアレ、凄かったわね」
「ああ」
一つの命の誕生をこの目で見たのだ。残念ながら自分は途中で眼鏡を放り出したので一部始終を見届けた訳ではないが、それでも言葉にできない衝撃は今でも心に残っている。
自然の中で命が生まれ、大地に根を下ろす瞬間。あれは如何なる生命創造の魔術を極めたところで味わうことができない感動だろう。
「ああやって、命は繋がっているのね」
「そうだな。きっと、そうなんだろうな」
「私も、ちゃんと大人になれていれば、あんな風に子ども産めたのかしら?」
「…………」
その言葉に対して返す言葉をカドックは持たなかった。
イフを語ることに罪がないことも、イフを語り出せばキリがないことも承知している。
だが、どれだけ空想の羽根を広げたところで彼女はもう過去の人間だ。既にこの世にはいない死人だ。
生者にできることは、決して「もしも」を語らないことだ。それを口にした瞬間、築き上げられた彼ら彼女らの功績を貶めることに繋がってしまう。
「きっと、この時代の人達に当てられたのね」
三女神同盟による侵略に脅かされ、滅びを前にしながらも懸命に生きるウルクの人々。
彼らの力強さ、逞しさは有り余るほどの生の活力を呼び起こす。
自分も立香もマシュも、その影響を少なからず受けているだろう。
きっと今までよりもずっと、充実した日々を送れているはずだ。
だから、彼女もふと考えてしまったのだと言う。
もしも、あんな風に自分も生きていれば、どんな生活を送っていただろうかと。
「ごめん」
「アナタが謝らなくていいの。それに、昼間はアナタの格好いい姿が見れて嬉しかった」
「いつまでも弟扱いされてたんじゃ様にならないだろう。やる時はやるって見せておかないと」
「あら、私がいつ、アナタを弟扱いしたかしら?」
「え? だって……」
ロンドンに滞在していた際、そんな風な話をした覚えがある。
あの時は少し頭に血が上っていたこともあり、詳しい内容までは覚えていないが、何とも言えない複雑な気持ちだけは忘れることができずにいた。
後、もう少しで手が届くといったところでガラスに阻まれてしまう焦燥感。そんな気持ちがあれから絶えず胸の内を焦がしていたのだ。
だが、目の前の皇女はそれはただの杞憂だと言うのだ。
「おかしな人。アナタは最高のマスターで、愛おしい
「そう思ってくれていたのなら、僕はとんでもない鈍感だな」
しな垂れかかるアナスタシアの体を受け止め、カドックはもう一度夜空を見上げる。
互いの視線が満天の星空と、その中心に浮かぶ大きな輝きへと吸い込まれていった。
「守りましょうね、この時代」
「ああ、必ず守ろう」
ここは全ての始まり。例え、ここから尊いものがどんどん失われていくばかりだとしても、その先に自分達の時代が続いている。
その原初の輝きを讃えよう。
その始まりの一歩を礼賛しよう。
失われたものの対価は、先に進み続けることでしか払えないのだから。
「月が、とても綺麗だ」
「ええ、死んでも構いません」
遠い遠い異邦の地。
韓信がメンドクセー。どうして内には天草もキアラもいないんだ。
というわけで令呪回復までの間に書き上げてみました。
この時点ではの原作との変更点は以下の通り。
・フォウがレイシフトについてきたのは今回が初。
・天草生存(では、誰が密林の調査に向かったのか?)