Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女   作:ていえむ

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絶対魔獣戦線バビロニア 第5節

いつもの朝がやってくる。

窓の外から差し込む陽光、遠くで響く鍛冶の音、往来を走り出す荷車が轍を引き、鳥の囀りがどこからか聞こえてくる。

起きてまずすることは体調の確認。手足が十二分に動くかを調べ、魔術回路の状態をチェックする。

右手、右足、左足問題なし。回路は良好。記憶も昨夜のものから継続しており、自分が問題なく起床できたことを実感する。

枕元に置いておいたレンズをかけ直すと、灰色だった視界にも色が戻ってきた。

土と石で組み上げられた壁。ガラスのない窓。今やすっかり見慣れてしまったウルクの住まい。

何度目かの朝の訪れに、カドックは祈るように感謝を捧げる。今日もまた、昨日と同じ一日が始まることに安堵する。

 

「ぅ……ん……」

 

隣で寝息を立てているアナスタシアが、小さく寝返りを打つ。

銀色の髪と透き通るような白い肌。普段はどこか大人びているのに、眠っている姿は幼くまるで人形のようだ。

ジッと見ていると、つい悪戯を仕掛けたくなる嗜虐心に駆られてしまう。

そんな逸る気持ちを頭を振ってかき消し、カドックは寝台から降りて転ばぬよう気を付けながら窓まで歩き、頭を乗り出してウルクの街並みに視線を巡らす。

今日もまた、ウルクで過ごす一日が始まるのだ。

 

「……ぅん…………あら……おはよう、アナタ」

 

まだ眠そうに瞼を擦りながら、アナスタシアが体を起こす。

寝返りで乱れた服の隙間から、彼女の白い肌が僅かに顔を覗かせる。

まるで太陽の光を反射する青い海のように、白い輝きが視界を覆いつくす。

無防備な姿を汚したいという欲求と、その純真さを愛でたいという願いが理性を削り合い、カドックは少しだけ罪悪感を覚えて顔を俯かせた。

 

「どうしたの?」

 

「何でもない。おはよう、アナスタシア」

 

務めて冷静を装い、いつもの言葉を返す。

果たして、この平穏な朝を後、何度繰り返すことができるだろうか。

人理焼却の完了まで残る日は少ない。終わりの時は、刻一刻と迫ってきていた。

 

 

 

 

 

 

窓の外を見上げると、まだ太陽が中天に差し掛かるまで時間があった。

いつもは1人か2人は訪れる患者も今日は誰もおらず、カドックは診察室兼談話スペースで窓の景色を眺めながら考え事に耽っていた。

患者がいないということは皆が健康だということなので喜ばしいことだが、それはそれとして仕事がなければ張り合いがない。

ただ、今日はシドゥリからの依頼もなく、カルデア大使館全体が自分と同じように開店休業の状態であった。

アナスタシアは椅子に腰かけているアナの髪の毛を先ほどから弄って遊んでおり、立香は自主訓練の体力作り、マシュは部屋の片づけを行っており、朝食をたかりに来たジャガーマンも何故かそのまま居ついて猫のように日向ぼっこに興じている。

大使館全体が緩やかな空気に包まれており、誰も彼もが人理焼却や三女神同盟のことを一旦忘れて穏やかな時を過ごしていた。

 

「はい、できた。どうかしら、アナちゃん? おさげにしてみたのだけれど?」

 

アナスタシアは身支度用にカルデアから取り寄せた手鏡をアナに手渡し、自身の成果を披露する。

後ろ髪を二つに分け、頭の少し上あたりから垂らすツインテールという髪型だ。

ゴルゴン三姉妹のステンノやエウリュアレと同じ髪型であり、幼いアナがするととても似合っていて可愛らしい。

光が反射でもしたのかアナは鏡を見るなり顔をしかめたが、すぐにいつもと違う自分の姿をそこに見て、無邪気に破顔した。

 

「あ……」

 

「お気に召したかしら?」

 

「はい、ありがとうございます。けど、何だかちょっと恥ずかしいと言いますか……申し訳ないと言いますか……」

 

薄紅色に染まった頬に手を当てながら、アナは困ったように首を振る。

一応、気に入ってくれてはいるのか、何度も手鏡をチラ見しては視線を逸らすという仕草を繰り返していた。

 

「うーん、なら他の髪形も試してみましょう。マリー直伝のレパートリーを披露してあげる」

 

「何だかすごく不安な気もしますが、お願いします」

 

椅子の上で居住まいを正したアナの髪を解きながら、アナスタシアは嬉々とした笑みを浮かべて新たな髪形を構想する。

マリーの直伝ということはかなり奇抜なセットが飛び出してくるだろうが、アナは自己主張そのものはきちんとする娘だ。嫌なことがあればハッキリと口にするだろう。

 

「ねえ、藤丸くん。お姉さん、何だか退屈だなぁ」

 

「街の見回り、しているんじゃなかったの?」

 

「カドックんに止められちゃったのよ。仕方ないからその辺で拾った石ころに落書きしてジャガー印の幸運の石として売り出したら、天草くんに取り上げられるし」

 

「あー、そうだろうねぇ」

 

どうでもいいのか呆れているのか、どことなく覇気のない声で返事を交えながら、立香は腹筋運動を続けている。

二百回目までは数えていたが、いったい今で何回目なのだろうか。確か朝食の前もジョギングに出ていたので、今日は一日体を苛め抜くつもりなのだろう。

魔術の方面がからきしなので他の部分を鍛えるという考えはわかるが、それにしてもよく続くものである。

北米大陸を徒歩で横断したのは伊達ではないということだろうか。

 

「お姉さん、ちょっと自信なくしちゃうなぁ……あ、水飲む?」

 

「ありがとう、丁度、水分補給したかったんだ」

 

何百回目かの腹筋運動を終え、そのまま床の上で姿勢を崩したまま座り込んだ立香は、ジャガーマンから渡された鉢を疑う事無く口に付ける。

直後、疲労で憔悴していた立香の表情が一瞬だけ凍り付き、そこから一気に目を見開いて口に含んだ水を霧のように盛大に吐き出した。

 

「な、なんだよこれ! 滅茶苦茶辛い!?」

 

「へっへーん、引っかかった! 実は水に辛子を混ぜておいたのよ」

 

「ど、どうしてそんなことを……」

 

「えー、藤丸くんってば昨日はお夕飯に呼んでくれなかったじゃない」

 

「住所不定の虎をどうやって夕飯に招待しろっていうんだよ」

 

「虎じゃねぇ、ジャガーだ!」

 

胴の入ったアームロックで首を締め上げられ、立香は堪らず床を叩いて助けを求める。

無論、猫のじゃれ合いのようなものなので、マシュが慌てて仲裁に入るとすぐに立香を解放し、ジャガーマンは再び床の上に四肢を伸ばして退屈との戦いに戻っていった。

 

「大丈夫ですか、先輩? はい、こちらはちゃんとしたお水です」

 

「うん、ありがとう」

 

マシュに背中を擦ってもらいながら、立香は未だ辛みが残る口内を新しく渡された水で洗浄する。

反対側ではアナスタシアの前衛芸術が早くも爆発を始めていた。

ソフトクリームのようにぐるぐると巻き上げられる紫の髪。アナは手鏡を手放しているので、自分がどんな髪形にされているのかわからない。

その面持ちは心なしか期待するかのように目を輝かせていた。

窓の外では太陽がほんの少しだけ南に近づいている。

たまたま通りを歩いていた近所の夫婦と目が合い、会釈をすると向こうはにこやかに手を振ってくれた。

平和な時間。

退屈な時間。

穏やかで、波紋一つ浮かばぬ日常。

たまにはこんな日があってもいい。

けれど、どんなものにも終わりはある。

例えば今しがたまで手慰めとして組み上げていた魔術礼装も出来上がってしまえば手を加えることができない。

どんなに工夫を凝らしても、これ以上は弄れないとなればそこで髪形のセットは終わるし、体力が尽きれば運動もできない。ゴミやガラクタがなくなれば掃除も必要なくなり、陽が沈めば眠るだけなので退屈ともおさらばだ。

この世界が続く限り、時計の針が止まることなど決してないのだから。

不安を紛らわすかのようにカドックは机を指先で叩く。

周りに悟られぬよう、音を立てずに、優しく、しかしてリズミカルに。

やがてそのリズムにメロディが加わった。

アナの髪を結いながら、アナスタシアは小さな声で鼻歌を歌っている。

こちらの指のリズムが聞こえている訳ではない。何しろ自分ですら聞き取れない音だ。

なのに彼女は、まるで楽譜を読んでいるかのように正確なリズムを捉えて旋律を奏でる。

通じ合っていることに対する僅かな照れと喜びがない交ぜになり、知らず知らずの内に耳たぶが熱くなった。

日差しのおかげで周りには気づかれていないが、きっと今の自分は顔を真っ赤にしているだろう。

気を紛らわすためにリズムを変える。

一本調子だった人差し指と中指に加えて薬指を交差させ、時にゆったりとした緩急を交えつつも湧き上がる感情を激しく机に叩きつける。

それに合わせてアナスタシアの口ずさむ調子もリズムを変え、やがては出鱈目だった旋律は研ぎ澄まされてひとつの曲として昇華される。

きっと知らず知らずの内に彼女の歌声に引きずられたのだろう。不規則だった指先は再び一定のリズムで音を刻み、それに合わせてアナスタシアが歌を紡ぐ。

日々の労働に感謝を、日々の糧に感謝を、そして日々の幸せに感謝を。

彼女が紡ぐのは一週間の歌。ロシアで広く歌われているニェジェーリカだ。

糸を紡ぎ、水を焚き、愛しい人と出会い、別れ、死者を悼みながら新たな一週間を迎える女性の歌。

その物悲しくも繊細なメロディがカドックの胸を締め付ける。

 

「アナスタシアッ!」

 

気が付くとアナスタシアの前に立っていた。

筋トレを再開していた立香や調理場の掃除を終えたマシュが何事かとこちらに視線を向けているのがわかる。アナも突然のことに驚いて体を強張らせていた。

ジャガーマンはどこ吹く風だ。元々、お気楽で生きている神格兼ナマモノだ。そうそうに彼女のマイペースは崩れない。

 

「はい、何かしら?」

 

アナの髪の毛を結い終え、アナスタシアがこちらに向き直る。

見透かすような眼差しに視線が泳いでしまうが、カドックは小さく深呼吸をして動揺を押し隠す。

バレることはないだろうが、万が一にもポケットの中の存在を悟られる訳にはいかない。

決断を下すまで半日も使ってしまったのだ。このまま何もしなければ一日が終わってしまい、今日のような日は二度と訪れないかもしれない。

自分達に残された時間は決して多くはない。だから、チャンスを逃すことだけはしたくなかった。

 

「午後から、僕に時間をくれないか!」

 

「あら、お出かけかしら? なら、みんなで行きましょうか?」

 

「ち、違う!」

 

分かっていて言っているのか、アナスタシアは悪戯っぽくウィンクをする。

なけなしの勇気を振り絞っての決断だというのに、何て小悪魔な皇女様だろうか。

そうやってこちらを弄びながら、内心で笑っているのだろう。

 

「ふふっ、ごめんなさい。もちろん、冗談です」

 

「そ、そうか……良かった……」

 

「それじゃ、お昼を食べたら出かけましょうか。楽しみにしていますね、アナタ」

 

アナスタシアの笑みに、カドックは小さく微笑み返す。

カドックにとっては一世一代の晴れ舞台であり、生まれて初めて自分の方から女性を誘った記念すべき日となった。

そう、自分達はこれから街へと繰り出すのだ。

一時だけ、魔術師であることもサーヴァントであることも忘れて、一組の男女として街へと出る。

デートをするのである。

 

 

 

 

 

 

中天の太陽が西へと傾き始め、工房からは午後の仕事を始める合図が鳴り響く。

そんな中、カドックはウルク市の門の手前でひとり、待ち人が来るのを待っていた。

どうせなら、一緒に家を出るのではなく待ち合わせがしたいと、アナスタシアが言い出したからだ。

これといって特に準備することもなかったカドックは、後のことを立香に任せ、心を落ち着けるために待ち合わせ時間よりも早くに大使館を後にしていた。

何となく手首に指を当ててみると、物凄い速度で脈が打っていることに驚く。

魔術師にとって平常心は何よりも大切なもの。だというのに、自分は今、情けないくらいに緊張している。

無理もない。誰かを誘ったことなんて生まれて初めてなのだ。ましてやそれが異性であるなら尚更だ。

 

「ごめんなさい、お待たせしました」

 

不意に聞こえた蠱惑的な響きが、カドックを現実に引き戻す。

顔を上げると、大使館を出る前と少しだけ装いが異なるアナスタシアの姿があった。

具体的にどこが変わっているのかと聞かれると、答えるのは難しい。

衣装はそのままだし、髪形やアクセサリーの類も特に弄っていない。

それでも何とか言葉をひり出すのなら、しっとりとしていると言えばいいだろうか。

元から綺麗な肌も水を含んだ果実のように瑞々しい。ひょっとしたら、出かける前に水浴びでもしてきたのだろうか。

 

「い、いや、待っていない……行こうか」

 

格好つけて声を作ってみたが、物の見事に失敗だった。

声は上擦り、しかも第一声は噛んでしまった。その固い声音にアナスタシアはクスリと笑みを零す。

 

「はい、もう少しリラックスしてくださいね、アナタ」

 

「あ、ああ。努力する」

 

ポケットの中の存在を意識し、これでは先が思いやられるなとカドックは内心でため息を吐く。

とにかくここから仕切り直しだ。今度こそ、計画通りにデートを遂行するのだ。

まずは――――。

 

「とりあえず、適当に街を歩こうか」

 

――ノープランでいこうと、今朝から決めていた。

 

「あら、何も決めていないなんて珍しい」

 

意外そうにアナスタシアは小首をかしげる。

確かに彼女がよく知るカドック・ゼムルプスという男は、一事が万事慎重で入念な計画と準備を終えてから物事に取り掛かる男だ。

それはカドック自身の生来の性格もあるが、魔術師としての才能の欠如を補うために培われた面も強い。

才能が劣るのなら努力を重ね、工夫を凝らし、慎重に計画を巡らせて事に当たる。

そうして何とか天才達の背中を追い続けてきたのが今までの自分なのだ。

だが、今日だけはそのことを忘れてアナスタシアとの時間に集中したいと思った。だから、敢えて今まではしてこなかったことをしようと決めたのだ。

 

「なら、市場の方に行きましょう。途中でこの前、私達が取り上げた子牛の様子も見に寄れますし」

 

「ああ、君がそうしたいならそうしよう」

 

自然と2人の指先が絡まる。

手の平に伝わる冷たさと、中心から伝わる仄かなぬくもり。そして、繋いだこの手が離れて欲しくないという小さな願いがチクリと胸を刺す。

自分はこんなにも憶病だったかとカドックは自問する。

間違いなく憶病だった。だが、それは失うことを恐れてではなく、ただ自分が無為に終わる事を嘆いてのことだったはず。

何かを成して、納得のいく結果さえ出せればそれでいいと考えていたはずだ。そうすれば後は、安心して倒れることができると。

けれど、今の自分は違う。終わりが近づいてきているからなのだろう。この繋がりを、手の中のぬくもりを、どこにもやりたくないと願う自分がいる。

手放したくないと訴える心がある。

その感情を魔術師は定義しない。その心の意味を魔術師は理解しない。

けれど、人はきっとこう呼ぶのであろう。

それは紛れもなく、恋に焦がれていると。

 

 

 

 

 

 

穏やかな時間が過ぎていく。

子牛の様子を見た後は一通り市場を回り、広場で遊ぶ子ども達に混ざって遊戯に興じ、街角で出会った老夫婦と談笑を交わす。

空は青く、太陽は強く照り付けるが涼し気な風が顔を撫でる。

疲れれば水場に足を運んで涼を取り、お腹が空けば適当な屋台で肉やパンを買って腹を満たす。

片手しか使えないカドックのために、料理を小さく千切るのはアナスタシアの役割だ。

 

「はい、あーん」

 

そして、こんな風に意地悪をされるのも慣れた光景だった。

もちろん、立香やマシュがいる前では絶対にしない。こうやってアナスタシアが食べ物を差し出してくるのは、決まって周りに知り合いがいない時だけだ。

彼女は強情なので拒否したところでしつこく迫ってくるので、いつも仕方なくカドックが折れて手ずから食べさせてもらうことが多い。

 

「もうすぐ、日が暮れますね」

 

黄昏色に染まり出した空を見上げ、アナスタシアは寂し気に呟く。

ウルクは大きい街ではあるが、それでも現代の都市に比べればずっと狭い。

半日もあればほとんどの場所は見て回れるので、残った時間は何度か遠足に使った集会場がある広場で寝転んで過ごすことにした。

もうじき、工房から煙が消えて街に松明が灯るだろう。そうなると、大使館に戻らねばならない。

夕食を食べ、立香達と談笑し、明日の準備をして就寝しなければならない。

時は残酷だ。どれだけ願っても、一秒も針を刻むことを止めてはくれないのだから。

 

「歌ってくれないか」

 

「……はい」

 

膝に頭を預けながらカドックが請うと、アナスタシアは小さく頷いた後、彼にだけ聞こえる声で口ずさむ。

その静かな音に耳を傾けながら、カドックは今日までの出来事を回想する。

カルデアに呼び出され、Aチームに抜擢されて訓練を積んだ日々。

アナスタシアと出会うきっかけとなった冬木でのファーストオーダー。

グランドオーダーと共に駆け抜けた6つの特異点。

ウルクに来てからの、穏やかで平和な日々。

特にこの1年半は本当に充実した毎日であった。

多くの英霊達と出会い、強大な敵と戦い、挫折し、悩み、苦難を乗り越えて勝利を掴み取る日々。恋しいアナスタシアと共に過ごしたかけがえのない時間。

今となっては、立香に嫉妬し迷走していた頃すら愛おしい。

そんな尊い毎日が、もうすぐ終わってしまう。

焼き尽くされてしまった2016年が、もうすぐそこまで迫っていた。

終わりが近づくにつれてカドックの中で焦りが増していく。

自分はアナスタシアに対して何ができたのか、どんな影響を与えることができたのかと。

そうして考えた末に今日という日を有意義に使おうと思ったのだ。

思えば出会ってからずっと、特異点での戦いかカルデアで過ごす日常ばかりで、どこかに2人で出かけたことなどなかった。そんなことなど叶わぬはずであった。

それが偶然にも機会に恵まれたのだ。だから、この辛い戦いの中にもこんな平穏な時間があったのだと、ほんの少しでも彼女に爪痕を残せればと思ったのだ。

 

「ウルクの人達は、本当に強い人ばかりね」

 

不意に歌うのを止め、アナスタシアは遠い景色を眺めるように目を細める。

 

「私、ずっと諦めてしまえばいいと思っていました。どうせ終わってしまうのなら、なくなってしまうのなら、それを認めてしまえば見えない苦しみも和らぐだろうと。穏やかな気持ちで、覚悟したまま最期を迎えられると思っていました」

 

それは、初めて出会った冬木の街で彼女が言っていたことだった。

カルデアスから光が消え、人類の生存が危ぶまれたことに対して、彼女は何もせずにその時までを穏やかに過ごすべきだと主張した。

その時は彼女の真名も生前の出来事も知らなかったため、単なる諦めであると断じて自分が世界を救うなどと大言を吐いてしまったが、今ならばその言葉が彼女の深い絶望と憎悪からくるものだったと理解している。

家族と共に自由を奪われ、軟禁生活を送る中で彼女自身も自らの終わりを悟っていた。それでも必死で明るさを演じて残された日々を過ごしていたが、最後の最後でその無垢な心にどす黒い感情が染みついてしまった。

自分を殺した者が憎い、家族を殺した者が憎い、自分達を葬った国そのものが憎い。こんな感情を抱いてしまうのなら、何も知らずに笑って過ごした日々は何だったのか。

もっと早くに受け入れていれば、この感情も戸惑う事無く受け入れられたのにと。

だが、ウルクの人々は真逆であった。終わりを前にしても絶望することなく、最後の瞬間まで命を燃やし尽くしている。

限られた環境の中で、できることを精一杯にしている。

それは、死の瞬間までアナスタシアが続けた足掻きと同じであった。

 

「君がやってきたことは、決して間違いじゃない」

 

「……やっぱり、視てしまったのですね」

 

「ああ」

 

何度も夢に見て、その度に跳ね起きた。

夢の中で彼女が死ぬ様を何度も見せつけられた。

そして、彼女の無意味な強がりを、痛ましいまでの足掻きをずっと見守ってきた。

この話題についてだけは、今までずっと触れないでいた。この苦しみは彼女だけのもので、その絶望を理解する権利は自分にはないと思っていた。

何より彼女が心を痛めると思い、ずっと胸に秘めてきた。だが、意外にも彼女の表情は穏やかだった。困惑しつつも取り乱すことなく、ジッとこちらを見下ろしている。

 

「大丈夫、私はもう大丈夫です。だって、もう諦めたりしませんから」

 

「アナスタシア?」

 

「アナタは前に進むのでしょう? この旅を終えて、カルデアを去った後も、アナタ自身が目指すモノのために前へと進むのでしょう? だったら、パートナーである私がいつまでも同じところに留まっていてはいけませんから」

 

静かに語り聞かせるように、アナスタシアは言葉を紡ぐ。

陽は既に地平線へと沈み始め、東の空から暗がりが広がりつつあった。

ほんの一瞬、吹き付ける風が止むと共に周囲から音が消えたかのように錯覚する。

鼓膜に響くのは、最愛の女性の言葉だけであった。

 

「私、アナタと最後まで生きたいのですから」

 

トドメを刺されたとカドックは後悔はする。

何て情けない姿だと己を恥じ、体を起こしてポケットを探る。

指先に当たった固い感触は、今日という日のためにずっと持ち続けていたものだ。

これを渡す時は、必ず自分から切り出そうと決めていた。自分の方から気持ちを伝えようと決めていたのに、何て様だ。

 

「これを、受け取ってくれないか」

 

小さな麻袋の包みを解き、指先ほどの大きさのソレをアナスタシアに差し出す。

顔が真っ赤になっていることは百も承知だ。ムードもタイミングも何もかもがなっていないことも承知の上だ。

どのみち今日はノープランでいくと決めたのだから。

 

「これは……ラピスラズリ?」

 

最初は不思議そうに見つめていたアナスタシアは、そこにはめ込まれている輝きを見て顔を綻ばせた。

ラピスラズリ。瑠璃鉱石とも呼ばれる石で、ウルクではお守りとして装飾品などによく使用されている。

カドックが差し出したものは、ラピスラズリが埋め込まれたピアスなのだ。

 

「その……いい石は少し高くて……だから、自分で錬成してみたんだ……」

 

きっかけは数日前の買い出しの時であった。

その日の献立を話し合いながら歩いていると、鉱石が並んでいる露天の前でアナスタシアが足を止めたのだ。

彼女が見ていたのは紫色に輝くラピスラズリ。庶民向けの安価なものでどれも不純物が多い代物だが、中には他よりも輝き方が違うものが並んでいる。

 

『綺麗な色。魔除けの石なのね』

 

『何だ? 魔除けなら僕の礼装からいつも持たせているだろう』

 

『お馬鹿さん。こういうものは気持ちなの』

 

『そういうものか』

 

『そういうものなの。うん、でもこの前に服の生地を買ったから、また今度にします』

 

彼女の中ではそれで終わったことなのだが、その後、カドックはアナスタシアが買い付けをしている隙に店へと戻り、こっそりとラピスラズリを購入していたのである。

ただ、持ち合わせではどうしても良質の石は買えなかったため、粗悪な石を幾つか買って砕き、手が空いた時に錬金術で一個の石へと錬成し直したのだ。

ピアスにするか指輪にするかは最後まで迷ったが、どうせならアナスタシアを象徴する魔眼の近くにこの石を置きたいと思い、出来上がった不純物のない紫色の輝きをピアスへと加工して、彼女に渡せる日を虎視眈々と待ち構えていたのである。

 

「その……前に欲しがっていただろ。でも、気に入らなかったら…………」

 

不意に視界が灰色に染まる。

眼鏡を取り外されたのだと気づくのに時間はかからなかった。

どうしてこんなことをするのだと聞こうとしたが、それよりもアナスタシアに唇を塞がれる方が早かった。

予想だにしなかった一撃。柔らかい感触と小さなぬくもりが吐息と共に伝わり、カドックの思考は瞬間的なパニックに陥る。

 

「ずるい人……私に何度、一目惚れをさせれば気が済むの?」

 

その言葉はそっくりそのまま返そう。

君に何度惑わされ、何度焦がされてきたことか。崩れ落ちそうになる度に支えてくれた彼女に何度感謝したことか。

自覚できるほどに余裕を持てたのはつい最近だが、きっと始まりはあの炎の街だったのだろう。

あの日、地獄のように燃え盛る光景と死の恐怖の中にあって尚、儚く輝く白い光を見た。

運命と出会うように自分達は出会えた。

あの瞬間に、きっと自分は堕ちてしまったのだろう。

 

「こんな風に過ごせるのも、後少しで終わってしまうのでしょうね」

 

互いに肩を預け合いながら、ウルクの夜空を見上げる。

アナスタシアの声は、少しだけ涙ぐんでいるようだった。

泣き腫らす顔を見られたくないと思い、眼鏡を奪い去たのだろう。

なら、気づかない振りをするべきだと思い、カドックはそのことに触れずただ黙って頷き返す。

 

「私、最後の瞬間はきっと泣いてしまいます」

 

ヒンヤリと冷たい指先が右手に触れ、その感触を確かめるように握り返した。

互いの手の平が重なり、五つの指が互いを放すまいと絡み合う。

すぐそこに彼女の吐息を感じ、鼓動が自然と跳ね上がった。

見えないことが救いだった。きっと今の自分は彼女を直視することができないだろう。

そして、見えないからこそ彼女の存在を、その重みとぬくもりをしっかりと感じ取ることができる。

この瞬間が永遠に続けばいいと願わずにいられない。

進みゆく時計の針を呪わずにいられない。

マスターとサーヴァントはいつか別れる定めにある。人理修復が成された時がその時ならば、その瞬間が訪れなければといい。

今日が終わらず、明日が訪れず、終わりを迎えず今よ続け。

時よ止まれ、時よ止まれ、今一時こそが美しい。

例えそれが叶わぬ願いであったとしても。

 

「ねえ、アナタ……」

 

「もう少し……このままでいたい……」

 

「……はい」

 

涙の味が唇を伝う。

彼らの予感はすぐに現実のものとなった。

翌日、ギルガメッシュ王から魔獣戦線の最前線である北壁へ向かうよう指示が下りたからだ。

目的は魔獣達に囲まれたニップル市の人々の救出。

メソポタミアの情勢が、一気に動き出す一戦となることを、彼らはまだ知らない。




もう少し、日常回を入れようと思ったら何だか最後の方しんみりしてしまった。
構想した時はもっとラブラブコメコメしていたのに、何故?

さて、次回でどこまで進めるか。
できれば来年のアニメが始まる前に七章を終わらせたいところです。

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