Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女   作:ていえむ

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絶対魔獣戦線バビロニア 第7節

そこは空虚な庭だった。

それは殺戮の箱だった。

これは微睡む愛し子の残滓だった。

地面に広がる深紅の絨毯、倒壊した家屋、横転した荷車。

目の前に広がるのは惨劇の跡だ。

もぬけの殻と化したニップル市。そこには血の跡はあっても死体は一つも残されていない。

往来には轍のようなものがいくつもできており、それは何人もの人間がここを引きずられていったことを物語っていた。

その事実を理解したカドック達は表情を曇らせる。

マシュは歯噛みし、アナスタシアはアナを抱きしめ、立香は苛立ち紛れに崩れた露店の柱を殴りつける。

ニップル市は全滅していた。自分達が訪れる、ずっと前に。

 

「みんな、悔やむのは後だ。こうなった以上、ここに長居する訳にはいかない」

 

唯一人、冷静なままのマーリンが油断なく周囲を警戒していた。

恐らくは自分達を待ち構えていたのだろう。建物の影から何頭もの魔獣が姿を現していた。

 

『反応増大。十……二十……ダメだ、どんどん増えていく! みんな、囲まれる前に逃げるんだ!』

 

ロマニの悲痛な声がどこか遠い世界のように聞こえる。

そういえば、唯の一人も救えなかったのはこれが初めてだ。

このグランドオーダーにおいて、何もできずに後悔に苛まれるのはこれが初めてだ。

アナスタシアの魔眼とマシュの盾。この二つがあれば大概の苦難は乗り越えることができた。

例え失うことはあっても、僅かでもその命を掬い上げることはできていた。

それが今回は適わなかった。

救えぬことがこんなにも悔しいと思ったのは初めてだ。

自分は今、生まれて初めて他人のために怒りを抱いているのだろう。

 

「……アナスタシア(キャスター)。奴らを凍らせろ」

 

後悔を振り払い、激情に身を任せる。

返事はなかった。

咆哮も悲鳴もなかった。

冷気がニップル市を包み込み、今にもこちらに飛びかからんとしていた魔獣達が声を上げることなく氷像と化していた。

突然の事態に知恵が回る何頭かは警戒して死角に回ろうとするが、それは無駄なことだ。

魔眼の皇女に死角はない。物陰に隠れようと、遥か彼方に逃れようと、その眼からは逃げられないのだ。

やがては周囲一帯の気温が氷点下にまで達し、動くものが何一つとしてなくなるまでその虐殺は続けられた。

 

「もういい、カドックくん! 敵はもういない!」

 

「っ……!」

 

「冷静になれ! 戦いはまだ終わった訳じゃないだぞ!」

 

「わかっている。わかっているさ……」

 

街の外では今も四郎達が戦っている。

こちらがいつまでもここに留まっていては、外の魔獣達を相手取る彼らを危険に晒し続けることになるのだ。

ここは一刻も早く街を出て、彼らと合流するか北壁に帰還することが先決である。

カドックは冷静になろうと荷物の中から霊薬の瓶を取り出すと、適当な壁で蓋を叩き割って中の薬液を喉へと流し込む。

僅かではあるが疲労と消費した魔力の補填ができ、気持ちも少しだけ落ち着いてきた。

 

「みんな、すぐにこの街を出よう。戻ってこのことを――――」

 

不意に足下が大きく揺れる。

立っていられないほどの大きな揺れだ。だが、地震とは少し違う。

揺れは激しさを増していくが、遠くに見える街の旗や家屋は凪ぎの中にいるように静止したままだ。

揺れているのは自分達の周囲だけ。しかも、その揺れる方向は不規則で、震源そのものが蛇か何かのように地面の下を這い回っているみたいだ。

 

「マスター、この揺れは……」

 

「マシュ、警戒して! 地面の下に……」

 

「これは……大きい……来る!」

 

「みんな、下がれ!」

 

真っ先に足下にいる何かに気づいたアナスタシアがカドックを庇い、次いでマシュと立香がアナと共に飛び退く。

同行していた兵士達もマーリンの指示で後退するが、それは自らの糧が逃げることを是としないかのように地面を裂いて蛇のような触手を伸ばしてきた。

サーヴァントや彼女達の側にいたマスターは事無きを得たが、何ら加護を持たない兵士達は次々と捕食され、地面の下へと引きずり込まれていく。

大の大人が固い地面に叩きつけられ、潰れた粘土細工のように四肢を折り曲げながら無理やり飲み込まれていく様はまるで出来の悪いホラーのようだ。

そうして食事を終えて満足したのか、或いは更なる欲求と情動に突き動かされたのか、ニップル市の固い岩盤を突き破ってその巨体を姿を現した。

 

「何だこれ……こんな魔獣、見たことないぞ!」

 

「これでは神獣だ! 杉の森のフワワよりもでかい……まさか、これが……」

 

「逃げろ……逃げろ! 敵いっこない! こいつは……ティアマト神だ!!」

 

触手の餌食を逃れた数名の兵士達が一目散に街の出口を目指す。

だが、既に地面から抜き放たれた巨大な尾の一振りが叩きつけられ、彼らは見るも無残な姿となって仲間の跡を追うことになった。

現れたのは巨人とも形容できる巨体を持った怪物だった。

女性の姿をしているがその体長は約十メートル。露出している肌は蛇の鱗で覆われており、背中からは大木のように巨大な尾がどこまでも伸びている。

そして、その顔は憤怒の如き形相であった。

 

「まずい、門を塞がれた! アーキマン、アレの分析を急げ! 信じられないがアレもサーヴァントだ!」

 

マーリンの言葉にカドックは我が耳を疑った。

あれがサーヴァントだって?

あんな巨体で、しかも桁違いな霊基スケールを持ったサーヴァントが存在するというのか?

インドで出会ったカルナやアルジュナも並のサーヴァントとは比較にならぬほどの霊基を有していたが、これはそれ以上だ。

神霊サーヴァントであるイシュタル神すら超えている。

 

『霊基は神霊クラス、体長は――尾を含めると百メートルを超えている! しかもこれは……気を付けろ、彼女の分類はイレギュラー(エクストラクラス)! 復讐者、アヴェンジャーだ!』 

 

あれがアヴェンジャー。

ジャンヌ・オルタのような造られた英霊ではない、その生涯において憎悪を抱きその心を軋ませた、正真正銘の復讐者。

その姿を垣間見たカドックは、自分が震えていることに気が付いた。

恐ろしい。

彼女から伝わってくるのは尽きることのない憎悪と憤怒。

この世界を呑み込んでもまだ足りぬであろうやり場のない激情の怪物。

その眼はどこまでも鋭利で、泥のように淀み、地獄の釜のように茹っていた。

憎しみの炎をそのまま形にしたかのような恐ろしい双眸だ。

 

「騒がしいな、人間。人類の怨敵、「三女神同盟」の首魁。貴様らが魔獣の女神と恐れた怪物――百獣母神、ティアマトが姿を見せてやったのだ。平伏し、祈りを捧げるべきであろう?」

 

ゾッとするような声音だった。

氷柱を脊髄に直接、差し込まれたかのような感覚だ。冷え切った痛みが逆に熱を呼び起こす。

人類に対する憎悪が、既に臨界を超えているのだろう。彼女にとって自分達は怨敵であり、害獣であり、唾棄すべき汚点。

本来ならばこうして視界に収まることも言葉を聞くことも許されない存在なのだ。

 

「我が子の遊び相手を見ておこうと思ったが、何と弱々しい生命よ。まこと解せぬ。そのような生命で、どうやってここまで辿り着いたのか」

 

品定めをするかのようにこちらを睥睨するティアマト神。

正に蛇に睨まれたカエルだ。あの眼で射抜かれると体が恐怖の余り言う事を聞かなくなる。

 

「だ、ダメです、とても……動けません……」

 

「マシュ、深呼吸!」

 

「は、はい! マシュ・キリエライト、深呼吸します!」

 

必死で平静を保とうと、マシュは大きく息を吸っては吐くを繰り返す。

 

「参ったな、ボクも指先すら動かない。これは恐怖によるものか、それとも邪眼の類か……」

 

『何を言っているんだマーリン! お前がそんなんでどうするんだ! マシュも、今は怖がっている場合じゃない! 女神であってもそんな邪神を敬うもんか! 相手が何であれ、キミたちはまだ生きている! そこに世界最高の詐欺師マーリンもいる! 今はとにかく北壁まで逃げるんだ! 諦めるのはぜんぜん早い!』

 

矢継ぎ早に捲し立てられるロマニの言葉に、恐怖で凍り付いていた胸の灯火が再び燃え上がった。

そう、自分達はまだ生きている。例え勝ち目はなくともやれることはあるのだ。

ならば諦めるのはまだ早い。この程度の逆境、スパルタクスなら笑い飛ばしてティアマト神を抱擁しようとするだろう。

自分達ではそんなことはできないが、最後の最後まで、抗い続けるのがカルデア流だ。

今は持てる力の全てを出し尽くして、逃げ切ることが先決だ。

 

アナスタシア(キャスター)、一瞬でいいからアイツの動きを止めるんだ。後は……」

 

「アナタを抱えて死に物狂いで走る。ええ、足が痛くても構うものですか」

 

「マシュ、こっちも頼むよ」

 

「はい。どんな攻撃でも受け切って見せます」

 

マスターの再起に、パートナーであるアナスタシアとマシュは力強く頷いた。

女神と相対するには余りに弱々しい篝火。しかし、その炎をティアマト神は興味深げに見下していた。

やれるものならやってみるがいいと言わんばかりにわざと隙を見せてこちらの攻撃を誘っている。

いいだろう。ならば乗ってやる。一か八か、その綺麗な顔を吹き飛ばして目にもの見せてやる。

 

「やれ!」

 

「ヴィイ、魔眼を使いなさい!」

 

カドックの合図で、アナスタシアがヴィイの瞼を開く。

至近距離から撃ち込まれた呪いの視線はティアマト神の巨体を見る見る内に侵食し、その肉体から神格としての強靭さを奪い取る。

そうなってしまえば女神とて冬を迎えた蛇も同然。猛り狂う暴風と冷気を前にして成す術もなく凍り付くのは自明の理であった。

しかし、その硬直はほんの一瞬。凍り付いたティアマト神はすぐさま全身に魔力を滾らせ、アナスタシアの邪視を払い除ける。

砕け散った氷の下から現れたティアマト神の肉体は、夥しいまでの凍傷を負っていたが、それも時間が巻き戻るかのように再生を始めていた。

 

「その程度で魔獣の母たる我に抗おうとするとは、何とも不可解! もうよい、興に乗るのもここまでよ!」

 

再生を終えたティアマト神が咆哮し、威嚇するように尾で体を持ち上げる。

二十メートルはあろうかという上空からこちらを見下ろし、蛇のようにうねる幾本もの髪の毛を操ってこちらを屠らんとする様は正しく神話の魔獣そのものだ。

最大出力で放ったアナスタシアの宝具ですら耐え抜く規格外の耐久力と再生力もあり、今の自分達では間違いなく敵わない相手だ。

故に逃げの一手を打つ。

威嚇の為に体を持ち上げたことで、足下が完全に留守になっている。

無論、巨大な尾がとぐろを巻いているので、とても死角とは言えない危険極まりない空間ではあるが、マシュはそれを承知で敢えてティアマト神の足下に滑り込んだ。

 

「なに!?」

 

「宝具……『いまは遥か理想の城(ロード・キャメロット)』!!」

 

「なああっ!?」

 

ティアマト神の迎撃よりも早く、白亜の城が展開される。

顕現したキャメロットは堅牢なる守りを持つが、それを至近距離で展開さすれば強力な質量兵器となる。

害意ある攻撃のみに注意を払っていたティアマト神は完全に不意を突かれる形となり、地響きを上げながらその巨体を地面に横たわらせたのだ。

 

「き、貴様らぁぁっ!」

 

「『疾走・精霊眼球(ヴィイ・ヴィイ・ヴィイ)』!」

 

怒りに震えながら尾で反撃を試みようとするティアマト神に対して、再び吹雪が襲いかかる。

今度はマーリンの補助と「シュヴィブジック」も交えた足止めのための攻撃だ。因果を書き換えられたことでティアマト神が横たわる地面がほんの少しだけ陥没し、振り上げられた尾は明後日の方角へと落下して凍り付く。

やはり今度も食らった端から再生を始めているが、マーリンの補助がある分、先ほどよりも拘束力は強いはずだ。

ほんの数秒程度ではあるが、逃げるには十分な時間ができたはず。

 

「よし、走れ! 走れ走れ走れ!」

 

目指すは街の反対側にある東門。ティアマト神が動き出す前に、何としてでもこの街を出なければならない。

だが、駆け出してすぐにアナスタシアは気が付いた。一人だけ、ティアマト神のもとに残った者がいることに。

 

「アナちゃん!?」

 

「まずい、アレを前にして取り乱したか! ボクがいこう!」

 

マスターを抱えているアナスタシア達では間に合わないと踏んだのか、マーリンが大急ぎでUターンをして塞ぎ込んでいるアナのもとへと向かう。

彼女はまるで親とはぐれた子どものように震えていた。恐怖で足を竦ませ、ティアマト神の巨体が目の前に迫っているにも関わらず動けずにいる。

それでも何とか反撃を試みようと鎌を構えるが、切っ先は振り子のように揺れていて狙いも定まらず、見開いた目は助けを求めるように感情の昂ぶりを訴えていた。

 

「何だ……そこに何かいるのか? アレは……なん……だ……おのれ、何と不快なぁっ!!」

 

恐怖に震えながらも武器を構えるアナの姿に激昂したのか、ティアマト神は髪を震わせながらアナを踏み潰さんとする。

アナの脚力なら十分に離脱も可能だが、やはり彼女は動こうとしない。

目の前の現実から必死に目を逸らすかのように、俯いたまま戦う事も逃げる事もできずにいた。

 

「ダメだ、間に合わない! ええい、ならばお前が行けキャスパリーグ!」

 

これ以上は近づけないと危険を感じたマーリンは、魔術による牽制を止めて懐から何かを取り出した。そして、非常に堂の入った投球フォームでその何かをアナ目がけて投げつけた。

綺麗な放物線を描いて落下したのは、その場にいる全員が見慣れた小さな毛むくじゃらの生き物だった。

 

「フォウさん!?」

 

一番の友人であるマシュが驚愕の声を上げる。

他の者もマシュと同じ思いだった。いったいマーリンは、何を思ってフォウを投げつけたのか。

あんな小さな生き物なぞ、ティアマト神の前では砂粒も同然ではないか。

だが、マーリンは至極真面目であった。こちらの動揺や疑問など意にも介さず、アナに近づくフォウに向けて大声を張り上げる。

 

「どうせ魔力を溜め込んでいるんだろう! 怒らないから、ここでパアッと使ってしまえ!」

 

「フォウ、フォーウ。フォ――――!」

 

ティアマト神の蛇腹が今にも覆い被さらんとする直前、フォウがアナの肩へと飛び乗った。

するとどうだろう。フォウを中心に眩い光が迸ったかと思えば、空間が破裂したかのような空気の波を伴って一筋の光がウルク市の方角に向け飛び上がったのだ。

一拍遅れてティアマト神がアナのいた場所を踏み潰すが、そこには既にアナもフォウもいない。先ほどの光と共にどこかへと飛び去ってしまったからだ。

 

「ええい、忌々しい! だが、目障りなものはいなくなった。これで貴様らを心置きなく味わえるというもの!」

 

「おお、怖い。そしてこの感じ、魔術王の聖杯はお前が持っているな」

 

「目利きの利く優男め。それを知ったところで何になる? 奪えば勝てるとでも思うているのか? ならば甘い! 甘すぎる! この身は魔獣の女神として顕現したもの! 我が力、我が憎しみ、我が怒りだけで、貴様らを三度滅ぼすに余りあるわ!」

 

苛立ちを紛らわすかのように周囲の家屋を倒壊させながら、ティアマト神は蛇と化した髪を伸ばしてマーリンを羽交い絞めにしようとする。

しかし、巻き付いたはずの髪は空しく空を切り、先ほどまで軽口を叩いていた花の魔術師の姿は雲のように掻き消えていた。

それもそのはず。マーリンはフォウを投げると同時に自身は幻術を用いて自分の偽物を作り出し、自身はとっくの昔にカドック達と合流して街の出口を目指していたのだから。

 

「逃がすと思うなぁっ!!」

 

ティアマト神が走る。その巨体を震わせ、瓦礫や凍結した魔獣の死骸を踏み砕きながら、逃げる獲物を呑み込まんと無数の髪を蛇に転じさせてこちらを追い立てる。

ダメもとでガントを放ってみたが無駄だった。あの巨体ではコンマ秒の硬直などほとんど意味を成さない。動きの緩慢さに反して一度に動ける距離がこちらとは段違いなのだ。

ニップルの東門まだ後百メートル。そのたった百メートルが余りにも遠い。

そして、巨大な質量が憤怒と憎悪を抱いて追いかけてくる様は、原始の恐怖を掻き立てる。

自分達は籠の中の鳥であり、これより捌かれる運命にある鮮魚でしかない。

そんな宇宙的な恐怖が泡のように腹の底から湧き上がってくるのだ。

唯一人ならば成す術もなく食われていただろう。

仲間と共にいる。この事実がなければ自分達は誰も抗う事ができなかったであろう。

 

「マーリンさん、先輩をお願いします! 一か八か、もう一度私の宝具で――」

 

「無理だマシュ! この距離だと宝具を使う前に追いつかれる!」

 

残り七十メートル。

ティアマト神はもうすぐそこまで迫っていた。体は未だ後方にいるが、腕を伸ばせば指先が掠める位置にいる。

こちらを追い立てようとしているのか、何本もの触手が先を競い合うように地面へと齧り付き、腐食する液体を放って周囲の物を悉く溶かしていった。

残り五十メートル。

ここまで全力で走り続けてきたアナスタシアが足の激痛で表情を歪ませる。

痛みはほんの少しではあるが地面を蹴るタイミングを崩し、それに気づいたティアマト神は一瞬の隙を逃さんとばかりに腕を伸ばしてカドックとアナスタシアを掴まんとした。

2人は本能的に自分達の終わりを理解した。次の瞬間にはあの大きな手で捕まえられ、そのまま握り潰されるか食糧として彼女に捕食されることになるだろう。

悲鳴を上げることはなかった。そんな余裕すらなく、思考も完全に停止していたからだ。

だから、彼が自分達を助けるために近づいていたことにも気が付かなかった。

 

「すなわちここは阿鼻叫喚、大炎熱地獄。『不滅の混沌旅団(イモータル・カオス・ブリゲイド)』!」

 

壁の如き炎が舞い上がった。

炎はティアマト神を阻む壁となり、僅かではあるがカドック達とティアマト神の距離を引き離す。

次いで無数の亡霊達がどこからともなく現れては炎の向こうに消えていき、ティアマト神の侵攻を防がんと鬨の声を上げながら果敢に切りかかった。

その指揮を執るのは風魔が頭目。囮として街の外で戦っているはずの風魔小太郎であった。

 

「そのまま走って! 振り返らず、まっすぐに!」

 

「小太郎!?」

 

「行け、カルデアのマスター! 殿は我ら風魔が引き受ける!」

 

邂逅は一瞬だった。

こちらが何かを言い返すよりも先に、再び舞い上がった炎の壁が小太郎とティアマト神を包み込んだのだ。

中の様子はわからず、呼びかけようにもアナスタシアは走る速度を緩めようとしない。

カドックは降りようともがくが、それも彼女は許してくれず、ただ炎の壁に向けて叫ぶことしかできなかった。

死地へと赴かんとするその後ろ姿に、カドックは中東で爆炎へと消えた立香とマシュの姿を重ね合わせたのだ。

あのままでは小太郎が死ぬ。

ティアマト神に、成す術もなく蹂躙されて殺される。

それがわかっていながら自分には何もできない。

ただこうして、逃げることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

炎の壁の内側。ティアマト神と相対した小太郎と、得物となる忍具を手にその巨体を油断なく見上げていた。

蛇の鱗に覆われた肌、扇情的でありながらも禍々しい肢体、憎悪に彩られた二つの眼。なるほど、これは正に怪物だ。

体の大きさがどうこうだとか、人に害意を向けるからという訳ではない。

彼女は他の魔獣達とは一線画す。

憎悪に沈みながらもその風貌は美しく、ひたすらに人間を憎む様は気高さすら感じさせる。

そんな矛盾した在り方が彼女の本質だ。痛ましいまでの激情で身も心も引き裂かれているのがよくわかる。

アレは元からあのようなものであった訳ではない。何者かによって蔑まれ、貶められた結果、生れ落ちてしまったものだ。

そういうものを世間では怪物と呼ぶ。

怪物は怪物として生まれるのではない。

怪物は、いつだって人が恐怖から生み出すものなのだ。

 

「笑止、たった1人で何ができる? 貴様の配下なぞ、腹も満たせぬ亡霊ではないか」

 

「元より倒せるとは思っていない。彼らが逃げる時間さえ稼げればそれで良い」

 

「小童めがよく吠える。ならば悔やむ間もなく我が腹に堕ちるといい」

 

蛇の髪がこちらを威嚇し、ティアマト神を目の前の獲物に食らいつかんと身を沈める。

本来ならば恐怖で震え上がるような状況であったが、不思議と小太郎の胸中に恐れはなかった。

この地でできた多くの仲間を殺された憎しみも、これから自分が食い殺される恐怖も感じない。あるのは哀れみと、同族への嫌悪だけだ。

 

「堕とされた女神よ。そんなにも人間が羨ましかったか?」

 

「何だと?」

 

「そんな殻を被ってまで復讐を目論むほど、愛おしいものがあったのかと聞いている」

 

その瞬間、ティアマト神の表情が形容し難き怨念で覆い隠される。

今までも見せていた怒りとは根本から違うどす黒い感情。復讐者となった彼女を突き動かしている原初の感情だ。

醜悪さまで感じさせるほどの悍ましい感情。憎いとか嫌いとか、そういう言葉だけでは表し切れない原色の思いだ。

覚えはあった。

そう、自分もまた彼女と同じく貶められた存在。

違いがあるとすれば、生前の自分は望んで堕ちたいうことだろうか。

 

「コロス。貴様は喰わぬ! 殺して辱めてやる!」

 

「やってみろ、だが容易くはないぞ。宝具――『果てぬ羅刹に転ず(オウガ・トランス)』……」

 

宣告と共に、空気が一変した。

伝承に曰く、風魔小太郎は身の丈七尺二寸。筋骨隆々で眼口広く、牙持つ大男と伝えられている。

それらは何一つとしてここにいる英霊、風魔小太郎と合致しない。だが、その言い伝えは紛うことなき風魔の頭目を表す記述であった。

彼は大和に流れ着いた異人の子孫であり、同時に鬼の血を引く子どもであった。

いわばその姿は彼がやがて堕ち果てる五代目風魔としての姿。

戦乱に名を馳せ、やがては闇へと消えた忍びの頂点。

その姿に転じることこそが彼の第二宝具『果てぬ羅刹に転ず(オウガ・トランス)』。

鬼の面を被るという所作により精神的なスイッチを押し、ある種の催眠状態に陥ることで身体能力を極限まで強化する理性ある狂化。即ち、鬼種の血の覚醒である。

本来であれば封じられ使用できぬはずの第二宝具。それを小太郎はこの土壇場において発動させることに成功したのだ。

 

「何だ……何だその姿は? いや、そこにいるのか? 貴様は……そこに……」

 

「やはり見えぬか。自身を想起させるこの面が見えぬか」

 

異人としての風貌と鬼種の血。そして、風魔としての所業は他者を恐れさせるには十分なものだった。

それこそ、この身を化け物と罵る者もいなかった訳ではない。周囲を炎の壁で覆ったのも、ティアマト神を阻むという目的以外にこの姿をみんなに見られたくなかったというものもある。

そう、怪物と化したというのなら、風魔が頭目もまた同じ。

ただし、自分は望んで怪物へと堕ちた。衰退する風魔を救わんと鬼の面を被り、邪悪を抱く化生となった。

そこに大きな違いはないのかもしれないが、結果として一匹の怪物が産み落とされたことには変わりなく、故に目の前の堕ちた女神には憐憫にも似た嫌悪を抱いてしまうのだ。

 

「先ほどの奴といい、貴様といい……目障りだ! 消えろぉっ!」

 

「いくぞ、異国の神よ! ここよりは我こそが地獄! 慈悲などないと知れ!」

 

炎と視線が交差する。

結論から述べると、風魔小太郎の覚悟は堕ちたる女神を封ずるには至らない。

彼が奇跡的に自らの鬼種の血に覚醒できても、ただの化け物と天魔たる魔性とでは絶対的な隔たりが存在するのだ。

彼にできることは、精々が一分の時間稼ぎ。カルデアのマスター達がこのニップル市を逃れるまでの足止めに過ぎない。

それでも構わないと小太郎は思っていた。

この哀れな女神は、何れは人の手で討たれる運命にある存在だ。

その核心を得られ、カルデアに後の希望を託すことができたが故に、小太郎は死地へと赴く覚悟を抱けたのである。

五代目風魔一族が頭目、風魔小太郎。

このメソポタミアにおける、最後の大戦であった。

 

 

 

 

 

 

四郎は目の前で繰り広げられる光景が信じられなかった。

敵はエルキドゥに無数の魔獣の群れ。対してこちらはまともに戦うことができるのはレオニダスのみ。

自分は傷ついたジャガーマンの治療に専念しており、北壁へと撤退する兵士達を守れる者は誰もいない。

にも関わらず、あれから脱落した者はひとりもいなかった。

襲いかかる魔獣の群れ。その牙や爪が逃げる兵士達の背に刺さろうかという寸前で炎門の守護者は槍を翻し、その一撃を以て魔獣達を沈黙させるのである。

有り得ない光景だ。

如何にリーチのある長物を持とうと、人の体でできることには限りがある。

守れる範囲、対応できる速さ、振るえる力には限度がある。だというのに、この王は誰一人として欠かすことなく、たった一人でこの場を守り抜いた。

敵であるエルキドゥですら、その勇猛果敢な戦いぶりに驚嘆することしかできなかった。

果たして彼の王は如何なる絡繰りを用いたのか。答えは単純にして明確。

日々是精進の名の下に、徹底的に鍛え抜いた肉体を酷使したに過ぎないのだ。

人間が到達できる最大のスペックを、最適な戦術の下に行使することで、十倍以上もの戦力差を彼は跳ね除けて見せたのだ。

 

「驚いた……サーヴァントとはいえ、ここまで機敏に動ける人間がいるとは……」

 

「ふうぅぅ……筋肉は全てに通じます。鍛錬は決して己を裏切らず、斯様なこともできるのです」

 

「その割には、随分と足に来ているようだけど。そろそろ限界じゃないのかな?」

 

既に魔獣の群れは殺し尽くされ、残るはエルキドゥのみ。しかし、満身創痍のレオニダスを前にして彼は余裕を崩すことはない。

彼はエルキドゥ。人類最古の英雄王と唯一、真っ向から引き分けられる存在だ。傷ついた三騎のサーヴァントなど、葬るのは容易いという余裕の表れだろう。

今までの彼はあくまで逃げる兵士を追い立てることを優先していた。だが、その敵意をまっすぐに向けられればどうなるか。

さしものレオニダスでも押し切られるのは自明の理だ。すぐにでも援護に向かわなければ。

だが、立ち上がろうとした四郎の腕をジャガーマンが掴んで制する。

見ると彼女は苦し気に呻きながら首を振っていた。唇は弱々しく震えながら、うわ言のように同じ言葉を繰り返しており、四郎は歯噛みしながらも彼女の治療を優先する。

今はレオニダスを信じるしかない。

 

「ねえ、レオニダス。ここまでコケにされたからには君を許すわけにはいかないな。どんな死に方をご希望だい?」

 

「さあ、どうでしょうな」

 

「ふっ……もちろん、串刺しだね。わかるとも!」

 

エルキドゥが疾駆する。両腕を鎖に変質させ、盾を構えるレオニダス目がけて真っ向から襲い掛かる。

フェイントも何もない単調な一撃。そんなものが歴戦の勇士であるレオニダスに通じる訳がない。

エルキドゥの体はまるで吸い込まれるかのようにレオニダスの槍で切り捨てられ、分かたれた胴体が地面へと落下する。

刹那、エルキドゥだったものが形を失い、淀んだ泥のようなものへと変質した。

 

「っ!?」

 

「レオニダス、後ろです!」

 

四郎の言葉にレオニダスは振り返るが、エルキドゥの方が早かった。

いつの間にかエルキドゥの魔力によって変質した土の鎖が、レオニダスの体を羽交い絞めにしたのだ。

 

「武器を撃ち出すだけが能力だと思ったかい? 泥の体はこういうこともできるのさ」

 

エルキドゥは泥から生まれた神造兵装。その本質に形はなく、肉体を如何なる武器にでも変質させることができる。

霊核を正確に砕かぬ限り、多少のダメージもこうして泥に転じることで無力化することが可能なのだ。

 

「串刺しと言ったね。あれは嘘だ。このまま一気に締め上げて上げよう」

 

元の肉体へと変容したエルキドゥが、嗜虐的な笑みを浮かべて鎖を縛り上げる。

だが、その余裕は即座に驚愕で歪むことになった。

 

「ぬう……ふんぬ!」

 

地響きかと一瞬、四郎は錯覚した。

実際には揺れていない。震えたのは大気だ。

レオニダスが上半身の筋肉へと力を込めた際に発した気合の一声によって空気の波が発生したのだ。

まさか、あの鎖を無理やり引き千切ろうとしているのだろうか。

確かに鎖そのものの強度はエルキドゥのステータスに依存しない。ルーラーの特権によって読み取れたエルキドゥの現在の筋力はAランク。

その力で締め上げられれば一たまりもないが、同時に鎖そのものに強烈な負荷がかかっていることも意味している。

反作用によって引き千切ることは決して不可能ではない。

不可能ではないが、実際は実行することなく胴体を潰されるのが関の山だ。

だというのにこの王は、愚直に力を込めて神造兵器と真っ向からの筋力勝負を挑んでいる。

突出した才も万象を操る魔術も、伝説に名を残す武具も持たない。

あるのは鍛えに鍛え抜いた己の肉体のみ。

その一念でもって、レオニダスは遂に神の造りし兵器に一矢報いて見せた。

 

「な……に……」

 

「滾ってきたぞぉっ!」

 

引き千切った鎖を宙にまき散らしながら、レオニダスは戦士の雄叫びを上げる。

突貫してくる槍兵に対してエルキドゥは地面から次々と槍を撃ち出すが、精神が高揚して感覚がマヒしているのか、レオニダスは怯むことなく槍の群れを盾で受け流し、踏み砕き、槍を旋回させながらエルキドゥへと迫る。

ならばとエルキドゥは敢えて肉体を武器に変えることなく泥のままレオニダスを押し流した。

形がないにも関わらず質量を伴うという矛盾した攻撃。その一撃自体はレオニダスを傷つけるには至らないが、彼の腕から武器を奪い去った。

放物線を描いた槍と盾は離れた場所に落下し、後に残されたのは武器を失ったレオニダスのみ。

丸腰では如何にレオニダスと言えどエルキドゥの攻撃を捌き切ることはできない。

 

「これで終わりだ。『母よ、始まりの(ナンム・ドゥル)――――」

 

「レオニダス!」

 

エルキドゥが宝具の発動態勢に入ったのを見て、とうとう居てもたってもいられず、四郎はジャガーマンを横たわらせたまま救援に走る。

例え敵わずとも宝具の発動を止めることさえできれば、レオニダスが離脱する隙を作ることができる。

だが、投げ放たれた黒鍵を見てもエルキドゥは余裕を崩さず、肉体を泥化させて難なく躱して見せる。無論、宝具の発動は継続中だ。

 

「ルーラーならわかるだろう。僕には君達の動きが手に取るようにわかると。そう、そこで死んだふりをしている猫のこともね! 『母よ、始まりの叫をあげよ(ナンム・ドゥルアンキ)』!」

 

「にゃぁっ! 気づかれたかカバめ! 『逃れ得ぬ死の鉤爪《グレート・デス・クロー》』!」

 

破れかぶれで放ったジャガーマンの宝具が、エルキドゥの宝具とぶつかり合う。

無論、相殺など望めない。ほんの僅かではあるが威力を削ぐのが精一杯だ。

呆気なく吹っ飛ばされたジャガーマンの体は魔獣の死体にぶつかるまで何度も地面をバウンドし、そのまま大の字になって動かなくなった。

今度こそ、本当に戦闘不能だ。霊核が辛うじて無傷なのは恐らく、彼女が持つジャガーの加護のおかげなのだろう。

だが、おかげでレオニダスを離脱させることには成功した。そして、もう一つの策も――。

 

「なっ!?」

 

――エルキドゥに気づかれることなく、成功した。

 

「変容のタイミングを見抜いた……そうか、未来視か!?」

 

エルキドゥの体は、幾本もの黒鍵によって地面に縫い付けられていた。

宝具発動前に投げ放ったものを、魔術で方向転換させて背後を狙ったのだ。

普段のエルキドゥならば容易く躱せるものであるが、ジャガーマンに気を取られたことと、宝具解放による硬直をこちらが未来視で読み切ったことで、躱すことができなかったのである。

そして、それらの黒鍵全てには泥へと転じる変容を封じる術式が込められている。突き刺している間しか効果がない上に、対魔力でどれほど弾かれるかも不安ではあったが、宝具による消耗もあって何とか動きを封じることができたようだ。

ジャガーマンがあの時、自分を囮として使うよう言い出さなければ、きっと成功しなかった。

 

「舐めるな……魔力なんて大地からいくらでも吸い上げられる。こんなもの……」

 

「その前にお前の霊核を破壊する。これで――――」

 

とどめを差さんと四郎は刀を構える。

その時、ニップル市の方角で大きな魔力のうねりが巻き起こった。

彼らには知る由もないことだが、それは小太郎が決死の特攻でティアマト神の眉間を切り裂き、逆上したティアマト神が魔力を爆発させた余波であった。

 

「母さん!」

 

爆発に一瞬だけ気を取られた隙を突かれ、エルキドゥは自らの四肢を引き千切ってその場を離脱する。

そのままこちらを攻撃することもできただろうに、エルキドゥはどういう訳かそれをせずにまっすぐにニップル市を目指していた。

 

「天草殿! 私が行きます故、ジャガーマン殿を頼みます! 今、彼女を治療できるのはあなただけだ!」

 

「レオニダス……ですが……」

 

「構いません。あなたが視たものはきっとよい未来へと繋がると、そう信じています。それでは!」

 

こちらの答えも聞かず、レオニダスは槍と盾を拾ってニップル市へと向かった。

その背中を、四郎はただ黙って見送ることしかできなかった。




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当方の感想は、「畜生、やられたぜ!」です。
具体的に何かは今後の投稿で。
今更プロット変えられるか!!

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