Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女   作:ていえむ

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絶対魔獣戦線バビロニア 第16節

それを最初に目撃したのは、ペルシア湾の観測所であった。

海に面した岬に建てられた塔には常に数人の研究員が常駐し、気象の変化を備に記録している。

魔獣戦線がゴルゴーンの軍勢と苛烈な生存競争を繰り広げ、シュメルの一大事というこの大一番ですらも彼らは日々の業務を粛々とこなしている。

それは王によって命じられた職務であり、国の未来に必要な事であった。

誰一人として不満を持つ者はおらず、また最前線から隔離されているこの状況に安堵を覚える者もいない。

自分達の仕事がいつか、国の為に役立つ時が来ると信じているからだ。

そんな誇らしくも退屈な日々に変化が訪れたのは、名もなき一人の研究員が日課である水位の調査の為、見晴らし台に昇った時のことであった。

 

「なんだ、あれは?」

 

彼が見たのは黒く染まっていくペルシア湾であった。

果ての果て、水平線の彼方から、まるで墨を零したかのように青い海が真っ黒に染まっていったのだ。

そして、それに釣られるように暗雲がどこからか立ち込め、青々とした空と太陽の光を遮ってしまう。

空が曇るだけならば、青年も何度か覚えがあった。

大気中の湿気が高まり、熱を持った風が轟音と共に舞い上がるハリケーンだ。

今の空は丁度、その前触れのように分厚く大きな雲に覆われてしまっている。

だが、この海の変化はどうだ。こんな現象は見たことがない。

動物の死骸が一ヶ所に固まったとしても、ここまで広範囲に、かつどす黒く染まる事は有り得ない。

こんな、水平線の彼方まで真っ黒に染まることなどありえない。

 

「これが、王の言っていた滅びの時か!?」

 

「何をしている! すぐに情報を纏めるんだ!」

 

異変に気付いたもう一人の研究員が、見晴らし台で呆けている青年を叱咤する。

 

「至急、ウルクに使者を送るんだ! 港も海も黒い泥に覆われてしまったと! それと、それ以外の変化を――変化、を――」

 

その時、男は見てしまった。

ペルシア湾を覆いつくした黒い泥。その泥の中から這い出てきたあるものを。

 

「――――なんだ、あれは」

 

それはまるで昆虫のように整然と並んで歩いていた。

それは獣のように強靭な四肢を有し、力強い足取りであった。

それは魔獣の如き悍ましさと恐ろしさを有していた。

そして、まるで人間のように笑っていた。

 

「魔獣じゃない、シュメルの怪物でもない。オレ達の世界に、あんな生き物がいる筈がない――」

 

「人を襲っているのか? 建物も穀物にも手をつけない。適確に、人間だけを襲っている? いや――――」

 

彼らは見てしまった。

ペルシア湾を埋め尽くした泥が、少しずつ陸地を侵食していく様を。

その生物と共に、まるで行進するかのように広がっていく泥を。

その泥に触れてしまった人間が、見るも無残な姿へと変質していくその一部始終を。

 

「人間が、作り直されて……はは、なんだあれ? あんなのアリかよ……あれじゃあ食われた方が、殺された方がまだマシじゃねぇか!」

 

迫りくる脅威を目にして、青年は狂ったように笑うことしかできなかった。

王に命を捧げる覚悟はある。

仮に最前線に立たされたとしても、命を賭けて戦う覚悟もある。

だが、あれは別だ。

あの泥に堕ちることだけはご免だ。

あれに浸るくらいなら、目の前の奴らに手足をもがれた方が何倍もマシだ。

ああ、同僚が泥へと落とされる。次は自分の番だ。

抵抗なんてできっこない。

この狭い見晴らし台。既に周囲はソレで埋め尽くされてしまっている。

どこを見ても黒、黒、黒。

黒いソイツが眼のない顔でジッとこちらを見つめている。

その口の端は――それを口と呼んで良いのなら、耳障りな笑い声を絶えず上げていた。

羽虫を殺す子どものように、獣を追い立てる人間のように。

覚えていられたのはそこまでだ。

次の瞬間、男の視界は泥の底へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

手から零れ落ちた杖が、音を立てることもなく鮮血神殿の床を転がった。

その主であるマーリンは、息も絶え絶えに目の前の敵を睨みつける。

マスターであるギルガメッシュ王の親友の姿をした仇敵。ゴルゴーンの配下として、何度も自分達の前に立ち塞がった魔獣の将。

ティアマト神の子キングゥを前にして、マーリンはいよいよ己の最期を感じ取っていた。

 

「まったく、君には本当に何度も煮え湯を飲まされる」

 

「はは、最後に一矢、報いれたかな、これは?」

 

覇気のない笑みを浮かべた直後、マーリンは嗚咽を漏らす。

内臓の血が気管に入ってしまったようだ。何しろ、全身が隈なく複雑骨折した上でほとんどの内臓が潰れてしまっている。

魔術で何とか保たせているが、それも長くはないだろう。

 

「あんなことをしなければ楽に死ねたものを」

 

キングゥの侮蔑がこもった言葉を、マーリンは静かに受け止める。

少し前、外の異変を感じ取ったマーリンは最後の力を振り絞ってキングゥに幻術をかけ、その隙にカルデアを逃がしていたのだ。

現状は急を要する。ここでいつまでもキングゥの相手をしている暇はない。

そして、既に長くはない自分ではここを生き延びても足手纏いになってしまう。

故に、柄にもなく殿などを務めているのだ。

 

「なに、彼らは希望だからね。まあ、我ながららしくないとは思うよ、うん」

 

それでも、自分には責任があるとマーリンは続ける。

偉大な魔術師と呼ばれてはいても、結局のところ、マーリンという人物は半分が夢魔で人でなしだ。

人間が生み出した紋様、作り出された世界を眺めるのは好ましいが、だからこそ手を差し伸べることは禁じてきた。

自分が関われば、それはもう人間の物語ではなくなってしまう。あの素晴らしい紋様に染みを作ってしまう。

それが許せないという訳ではないが、かつて一人の人間の運命に肩入れしたことについて思うところがあり、自ら妖精郷からは出ないという戒めを課したのだ。

だが、自分は一度、信条を曲げてカルデアに手を貸した。

いつものように世界救済のための布石を打ち、送り出したべディヴィエールが中東の地で偽りの十字軍に捕まったことがそもそもの発端。

妖精郷に幽閉されている身である自分ではおいそれと特異点には手を出せないため、最後の手段としてカドックに手を貸した。

特異点修復のために、初代の山の翁を頼るよう彼の夢へと語りかけたのだ。

その一助を以て、花の魔術師は傍観者ではいられなくなった。

この世界を救う英霊の一翼として、柄にもなく彼らに力を貸そうと決意させるには十分なものであった。

 

「さて、どうするかね女神の子よ? 母親が目覚めたんだ、いつまでも放っておくのかい?」

 

「口の減らない奴だ。彼らの死が少しだけ伸びただけだろう」

 

「さて、どうかな? 案外、巣立ちの時は近いと思うよ」

 

「そうか……言いたいことは、それだけかい?」

 

静かに激昂したキングゥが腕を槍へと変質させる。鈍く光るそれはまるで吸血鬼の胸を貫く杭だ。

体力も魔力も尽きたマーリンにはそれを躱すだけの余力はなく、自らの心臓を貫かれる光景をただ見つめることしかできなかった。

 

「ああ、もう話すこともできないか」

 

唯一人、動くものがいなくなった血塗れの鮮血神殿で、キングゥは呟く。

その声音の冷たさに反して、暗闇に溶けていくキングゥの表情は苦悶に塗れていた。

 

 

 

 

 

 

怒号と悲鳴が交差し、それを塗り潰すかのように不気味な笑い声が木霊する。

ウルク市は地獄絵図と化していた。

魔獣戦線の中枢。メソポタミアの地で、三女神同盟に徹底抗戦を唱えた英雄王の国が、正に今、蹂躙されているのだ。

蟻の如く群がる怪異は邪悪。黒ずんだ紫色の体、人間のような胴体と足を持ち、昆虫のような爪と節がついた腕が、肩から四本伸びている。

何よりも嫌悪を誘うのがその顔だ。そこには本来、生き物としてあるべき感覚器官がなかった。

物を見る目がない。

音を聞く耳がない。

匂いを嗅ぐ鼻がない。

あるのは口。唇のない剥き出しの歯が、縦に傾く形で並んでいる。

既存のどの生物とも異なる新たなる生命体。それが今、ウルク――否、このメソポタミアの全土で虐殺の限りを尽くしていた。

 

「いてぇ、いてぇ――――やめろ、やめろよ、やめて、やめて、なんで、つま先から、縦に、縦に裂いて、ひぃいい、いたい、たいいぃぃいいいい!!」

 

「ひいぃぃ、もういやだぁ、だれかたすけ――――」

 

「な、なんで!? 動かなかった、わたし動かなかったのに――――」

 

あちこちで悲鳴が上がるごとに、動くものが減っていく。

転がる死体は異形の怪物に弄ばれ、或いは逃げ惑う人々によって踏み潰され原型を留めているものを探す方が難しい。

ゴルゴーンの魔獣達にすら果敢に立ち向かったウルクの民が、まるでノミか蟻のように潰され、裂かれ、殺されていく様は、正しく地獄以外の何物でもない光景であった。

そんな中を、カドック達は生き残った住民をジグラッドへ避難させるために街路を駆け抜けていた。

マーリンの犠牲によって辛くもキングゥから逃れたカドック達は、この異変に対処するために急ぎ足でウルクへと舞い戻ったのである。

だが、先行したイシュタルの力を以てしてもウルクは無傷とはいえず、被害が加速度的に広がっていく。

家屋は崩壊し、路地は鮮血で染まり、物言わぬ死体は瞬きと共に増えていき、尽きぬ攻勢は焦りと不安を生むばかりであった。

 

「みなさん、こちらに! 急いで!!」

 

「マシュ、次が来る! 数は――」

 

「そっちは僕とアナスタシア(キャスター)でやる! お前達は街の人を!」

 

「まだまだ来るわ! イシュタル!」

 

「やっているわ! けど、こいつら硬いのよ!」

 

街を蹂躙する怪異は一万を超える。

魔獣達をも何とか屠ってきたウルクの兵士が手も足も出ない強靭な皮膚と力を持ったそれは、サーヴァントでも苦戦を強いられる相手だった。

マシュやケツァル・コアトルが渾身の力で殴りかかっても確実には死なず、イシュタル神の砲撃も通じにくい。

さすがに氷漬けにされれば動けないようだが、凍り付いても尚、生命活動が断たれることなく生きている姿は不気味を通り過ぎて醜悪だ。

 

(くそっ、気が滅入る。なんなんだ、この化け物は…………)

 

殺された住民の血が池のように広がる路地を駆けながら、カドックは歯噛みする。

唇を噛み締め、拳に力を込めて何とか平静を装う。

人間同士の戦争、魔獣との生存競争。そのどちらも見てきたが、こんな光景は初めてだ。

こんな、未知の生物に襲われ無残に人々が殺されていく光景を、見ていて不快にならない人間はいない。

奴らはエイリアンだ。この地上の法則では説明のできない化け物だ。

それが、ゴルゴーンの魔獣を遥かに上回る勢いでメソポタミアの地を蹂躙している。

ペルシア湾からやって来たという以外は全てが不明の生物。

不快な姿で踊り、多勢で人を殺す異形を相手に、カドック達はジリジリと追い詰められていった。

 

「相手にするにも限度があるわね! これじゃ、数に押されて……あら?」

 

向かい合っていた一体を投げ飛ばしたケツァル・コアトルが、異形の群れに起きた異変に気付く。

ほんの少し前まで、怒涛の如く勢いで押し寄せてきた波が急に衰えたのだ。

視界を埋め尽くすほど蠢いていた黒い影は忽ちの内に消え去り、まるで嵐が過ぎ去ったかのような惨状だけが残される。

気になってイシュタル神に空から確認してもらったが、やはり街のどこにも異形の影は見られなかった。

群れの全てがウルクからペルシア湾へと引き返しているのだ。

 

「もしや、活動限界なのでしょうか?」

 

「そんな様子はなかったが……ダ・ヴィンチ、そっちは?」

 

『うーん、観測していた限りじゃ、個々の動きに一貫性こそあれ、指揮系統があるようにも見えなかった。たまたま他の一体が飽きて撤退したのを見て、全員が真似たような唐突さだ』

 

「その一貫性っていうのは?」

 

『ああ、言いにくいことに奴らは執念深い。それ以外のものには一切、目もくれず執拗に攻撃し続けるんだ――――つまり、人間だよ』

 

「人間だけを殺す生き物か」

 

加えてあの強靭な四肢と主体性の感じられない行軍。

まるで軍隊アリか何かを相手にしている気分だ。

同族が殺されようと自らが傷つこうと歩むことを止めず、目の前の人間を執拗に嬲り続ける執念深さ。

あのまま戦い続けていれば、こちらは押し負けていただろう。

連中が撤退してくれたのは幸運といえる。

 

「なんにせよ、これで少しは余裕が出来たわ。ジグラットに行きましょう。ギルガメッシュが状況を纏めている筈よ」

 

空から降りてきたイシュタルが、周囲を見回して顔をしかめながら告げる。

人間とは根本的に感覚が異なる神格といえど、自身の庇護対象である人間をこうも残酷に嬲られては腹の虫が治まらないといったところなのだろう。

美しい双眸の奥にはギラギラと燃える炎が垣間見えた。

それはケツァル・コアトルも、ジャガーマンも同じだ。

あの怪物は許してはおけない。否、大前提として受け入れてはいけない。

あれがまだ何なのかはわからないが、自分達とは決して相いれない恐ろしい化け物だ。

人間にとって害悪でしかない天敵だ。

だからこそ、人を守護する神格にとってもあれは度し難い悪であるのだ。

 

「先輩……生き残った人は、何とかジグラットまで辿り着けたみたいです」

 

「うん……わかった……………」

 

血塗れの街路に向けて、黙祷を捧げていた立香が、駆け寄ってきたマシュに返事をする。

無念だったのだろう。目の前で力及ばず、多くの人があの怪物に命を奪われた。

この一ヵ月近く、同じ街で生活を共にした仲間であった。

朝の水汲みで挨拶を交わし、買い出しや依頼の際に擦れ違い、夜は彼らの営みに目を向けながら帰路についた。

深く交わった者もいればそうでない者もいた。その誰もがよそ者でしかない自分達を快く受け入れてくれたのだ。

みんながみんな、気持ちのいい人々であった。

この街は戦時であっても尚、生きる希望に満ち溢れた素晴らしい街だったのだ。

死んでいい人間なんて誰一人としていなかった。

それが今、見るも無残な姿になって横たわっている。

血と肉で塗れた街路が、あの穏やかな日々が遠退いてしまったことを残酷に物語っていた。

それを立香は悔やんでいるのだ。

自分の無力さを嘆いているのだ

 

「俺達が、もう少し早く来れていれば……」

 

「よせ、口にしたところで何も変わらない」

 

「けど……!」

 

「よせ!」

 

怒りに任せて立香の胸倉を掴み、近くにあった街路樹に叩きつける。

何事かと周囲の面々が目を丸くするが、カドックは構わず親友の顔を睨みつけた。

目を真っ赤に染め、溢れんばかりの涙を必死で堪えている。

側に誰もいなければ、憚ることなく泣き喚いていただろう。

誰に責任を押し付けることもなく、天運を呪うことすらなく、ただ己の無力さを嘆き続けたであろう。

それが堪らなく許せなかった。

それが堪らなく悔しかった。

まるで、この惨事は自分だけの失態だと言わんばかりの傲慢さが我慢ならなかった。

 

「悔しいのは僕も同じだ! だから、自分だけの責任みたいな顔をして泣くのだけは許さないからな!」

 

ここまで二人で頑張ってきたのだ。

自分だけでも立香だけでもない。誰が何と言おうと、自分達二人でここまでやって来たのだ。

だから、成功も失敗も二人のものだ。

彼の苦しみは自分の苦しみだ。

彼の痛みは自分の痛みだ。

嘆きも怒りも、全て二人で背負ってここまで来た。

今更、自分一人で責任を背負おうとするなんて、絶対に許してやるものか。

 

「ごめん……俺、言い過ぎてた」

 

「……良いんだ。そうやって、思ってやれるなら彼らも救われる。お前はそれで、良いんだ」

 

魔術師である自分には、そんな資格などないと、心の中で呟く。

人死にに心を惑わせる倫理観など、とっくの昔に捨ててきた。

それに嫌悪や不快感を露にすることはあっても、彼のように心を痛めることはない。

必要な犠牲は必要なだけ。この手で救えなかったのなら、それは単に自分が及ばなかっただけ。

そう割り切るだけの心構えはできている。

だから、人間らしく振る舞える立香が羨ましかったのだろう。

最善を目指すのではなく、最善であることに憧れたのであろう。

もう、自分にはない物を持つ彼が妬ましかったのだろう。

それで良いんだ、藤丸立香。自分にはできないことを君がやってくれ。

この見えない目では流せぬ涙を代わりに流して欲しい。

その代わり、その涙は僕の(アナスタシア)が拭う。

もう、涙を流す必要がない世界へと、必ず君を――――。

 

「いこう、ジグラットへ」

 

「ああ、ありがとう」

 

目尻を腕で拭った立香は、いつもの柔らかい表情を浮かべながらマシュと共にジグラットを目指す。

その後ろ姿を見送ったカドックは、彼らを追いかける前にもう一度だけ、戦場と化した血塗れの街路を一瞥した。

赤く染まった地面の上に重なる幾つもの死体。頭を潰されて打ち捨てられた者、手足をもがれた者、有り得ない方向に関節を曲げられた者、全身を穴だらけにされた者。

幾つもの死体が出来の悪いモザイク画のように並んでいる。

あの怪物達が何故、人間達を襲うのかはわからない。

奴らはゴルゴーンの魔獣ではない。キングゥとマーリンの話を信じるなら、恐らくは本物のティアマト神の子ども。

ならば、その動機は復讐であろうか? ゴルゴーンと同じく、切り捨てられた獣として怒りをぶつけ、見捨てられた母の嘆きを代行しているのだろうか?

 

(いや、これはまるで…………楽しんでいるかのような…………)

 

脳裏にはあの不気味な笑い声が今も残っている。

牛や羊には目もくれず、女子どもの例外もなく執拗に追いかけ回した異形の怪物。

その執念深さからは異常と言えるほどの狂気を感じ取ることができるが、それはゴルゴーンが抱えていた尽きぬ憎悪とは程遠いものだ。

それは憎悪の裏返し、身を切るほどの怒りや嘆きではなく、方向性としては非常にポジティブだ。だからこそ、異質さと悍ましさに身の毛がよだつ。

奴らは楽しんで人間を殺している。

きっと、それだけは間違いのない事実だ。

 

 

 

 

 

 

ラフム。

メソポタミア全土に現れた謎の怪生物は、ギルガメッシュ王の決定によりそう呼ばれることになった。

それはティアマト神が最初に生み出した子どもにして、泥の意味を持つ名前だ。

カルデアの解析によると、その体は神代の砂と土、即ち神の泥で構成されているらしい。肉の身を以て進化を辿った既存の生態系からは逸脱した存在であり、雌雄の個体差が見られないことから無性生殖で数を増やすと考えられるとのことだ。

また神代の生命体であるが故に強力な魔力回路を内包しているらしく、核となる部位を確実に破壊しなければ生命活動が断たれることもない。生存に関してもどうやって代謝を行っているのか不明だが、体内に消化器官に類するものは確認できなかった。

水も食糧も必要とせず、強靭な生命力を宿した新しい生命体。正に人智を超えた完全生物と言っていいだろう。

 

『こちらの観測では、ラフムはメソポタミア全土に拡散した模様だ。エリドゥ、ウル、ラガシュ、ギルス、ウンマ……ペルシア湾からウルクにかけての主要な都市は全て攻撃されたとみていいだろう』

 

「うむ、こちらにも報告は入っている。奴らは殺戮だけでなく何人もの人間を浚って行った。行く先はどうやら、エリドゥのようだ」

 

「……そう、それは個人的に抗議をしないといけないわね」

 

ギルガメッシュ王の言葉を聞き、ケツァル・コアトルが緑色の双眸をぎらつかせる。

どうやらラフムはエリドゥに拠点となる巣を作ったらしく、ウルクから撤退した群れもそこに向かったらしい。

彼女からすれば、留守の間に我が家を荒らされたも同然の所業なのだ。怒りのままに飛び出さないだけでも自制が効いている。

 

「して、人類悪――マーリンは確かにそう言ったのだな?」

 

「はい、魔術王がこの地に呼び覚ましたのは、七つの人類悪、その一つだと」

 

マシュが答えたのは自分達を逃がす際に、マーリンがギルガメッシュ王に託した伝言だ。

 

『七つの人類悪のひとつ、原罪の獣(ビースト)が目を覚ました』

 

彼は最後にそう言い残し、自分達を送り出した。

今にして思えば、彼は全てを知っていたのだ。

本当のティアマト神を眠らせていたこと、ゴルゴーンを相手取るためにメドゥーサであるアナを匿っていたこと。彼は全てを知った上で人知れず、災いを封じ込めようとしていた。

だが、結果はそれらが裏目に出てしまい、マーリンは自らの手でティアマト神の目覚めを起こす手助けをしてしまったのだ。

もちろん、知っていたところで自分達にはどうすることもできなかったであろう。あの状況ではゴルゴーンを倒さねば、ウルクは滅ぼされていたのだから。

 

「……あの、ギルガメッシュ王。人類悪とは何なのですか? それが七つとは?」

 

「なんだ、知らんのか? 人類悪とは、文字通り人類の汚点。人類を滅ぼす様々な災害を指している」

 

それは人類が発展すればするほど強くなり、その社会を内側から食い破る癌のようなものらしい。

言ってしまえば人類史に溜まる淀みのようなものだ。

より大きな発展への渇望、際限のない欲する心、素晴らしいものを生み出すための大いなる競争、そして行きつく果ての闘争と悲劇。

ポジとネガが表裏一体のように、人類悪は人類史の発展と共に育まれる。

その本質はゴルゴーンのような復讐者とは根本から異なり、人類への敵意や殺意によって起きるものではない。

ギルガメッシュ王曰く、「人類が滅ぼす悪」。本来、冠位(グランド)クラス七騎を以てしか対抗できない人理を食らう抑止の獣。それこそが人類悪(ビースト)なのだ。

 

「……冠位(グランド)クラス!? アンデルセンが言っていた、儀式・英霊召喚!?」

 

「耳聡いな、カルデアのカドック。そうだ、人類悪とは人類の自滅機構であり、その安全装置こそが冠位(グランド)クラス。即ち英霊召喚だ。七つの人類悪は人間の獣性によって生み出される七つの災害。魔術王が呼び覚ましたのは、この獣であろう」

 

人類が生み出した、人類自身の淀み。人類史の負の側面ともいうべき存在。

そんなものが顕現しようとしていることに対して、カドックは言葉を失った。

恐ろしいという感情すら湧いてこない。あまりにもスケールが大きすぎて、理性が追い付いてこないのだ。

ここで誰かがパニックに陥れば、自分もそれに釣られてしまう自信があった。

 

「ちょっと待って、この異常は私達の神々の母……ティアマト神が起こしているものじゃないの?」

 

「阿呆。そのティアマト神がビーストだと言っている。我らが挑む相手は正真正銘、原始世界の神体だ」

 

一同に戦慄が走る。

ゴルゴーンのような紛い物ではない、本当のティアマト神。

このシュメルの地に根差しした正真正銘の神格が、人類悪として顕現しようとしている。

その力は未知数ではあるが、神であるなら何らかの権能を有しているだろう。

例えばケツァル・コアトルは善なる者からは傷つけられない。相手の善性が高ければ高いほどダメージを負わなくなる。

それですら神殿の建立という制約を成してのものだったが、顕現したティアマト神はそんなデメリットなどなく無制限に権能を行使できるだろう。

配下となる子ども達を無限に生み出す百獣母胎だけではなく、もっと凶悪な何かを有しているかもしれない。

そして、もう一つの問題が、そのティアマト神はいったいどこに潜んでいるのかということだ。

 

『こちらの解析では、ビーストらしき霊基反応は見られない。少なくとも現在、無事なメソポタミアの地にはティアマト神はいないと見ていいだろう』

 

「なら、やはりペルシア湾か」

 

「黒く染まっていたあの海ね。ラフムが大量に湧き出てくる様子が空から見えました」

 

「ラフムへの対策とペルシア湾の調査、即急に進めねばならぬか。(オレ)が視た未来より二日ほど早まったが、これはマーリンめがしくじったのか、或いは別の…………」

 

「ギルガメッシュ王?」

 

「……何でもない。シドゥ……いや、そこな兵士長。ここまでの情報を纏めて兵舎へ伝えておけ。北壁への住民の避難も含め、部隊の編制を急がせろ」

 

ギルガメッシュ王に命じられた兵士が一礼し、玉座の間を後にする。

そこで初めて、カドック達はこの場にいるべき人物の姿がないことに気が付いた。

 

「あの、シドゥリさんは?」

 

「シドゥリの事は忘れよ。今はラフムの対策が先だ」

 

ゾッとするほど冷たい声音だった。

王というものの器の大きさと、その冷徹さを垣間見た瞬間だったのだろう。

彼の王にとって第一は国であり、王あっての民なのだ。国体の維持のために自らの財産が失われることに目を瞑らなければならぬこともあるだろう。

その欠落を胸に王は国を存続させねばならない。一時の私情に心を揺らされては王など務まらないないのだ。

そして、無念にも犠牲の中に、シドゥリが含まれてしまった。

ウルクにやって来てからというもの、彼女はギルガメッシュ王との仲介のために骨身を砕いて協力してくれた。

衣食住を始め、何から何まで世話になった。

その彼女が、ここにはもういない?

殺されたのか、浚われたのか。浚われたのだとしたら、救出のための部隊は派遣されたのか。

聞きたいと思った。聞かなければならないと直感した。その上で、聞くべきではないと判断した。

ギルガメッシュ王が王として沙汰を下したのだ。異邦人である自分達にはそれに口を挟む権利はない。

カドック・ゼムルプスでは偉大なる英雄王に問いかけることができない。

故に、彼が動いた。

憧れの星が、輝きを放った。

 

「シドゥリさんはどこに行ったんですか!?」

 

強い眼差しで、立香はギルガメッシュ王の睨みを受け止める。

吐息ですら琴線に触れれば首を撥ねられると理解していながら、彼は問いかけることを止められなかった。

自分にはできないことを、彼は平然と、迷いなく実行した。

それが人として正しいから、自分にできることがあるのなら手を伸ばしたい。

どこまでも愚直で、正しくあろうとする姿勢。

その輝きを目にしたギルガメッシュ王は、静かに口を開く。

 

「助けに行くと言うのか、雑種?」

 

「ああ、もちろんだ。言われなくても言ってやる!」

 

「ふっ、よく言ったわ、たわけめ! では、カルデアの藤丸! エリドゥへの調査を命じてくれる! 期限は一日だ! 一日で事を済ませ、この玉座に戻るがいい!」

 

「はい! 行こう、マシュ! イシュタル!」

 

「はい、先輩!」

 

「ちょっと、なんであんたが命令するのよ!?」

 

力強く頷いた立香が駆け出し、その後ろにマシュとイシュタルが続く。

ケツァル・コアトルやジャガーマン、四郎もその後に続いた。

残されたのは自分とアナスタシアの二人のみ。当然ながら、自分達も彼らに続くつもりだったが、それを呼び止める声があったのだ。

 

「よい友を持ったな」

 

「ギルガメッシュ王?」

 

「エリドゥへは調査隊を送るつもりではあった。だが、お前達が行くと言うのなら、こちらもラフム対策に全力を注げるというものだ」

 

「あなたは、そこまで見越して…………」

 

「驕るな、カルデアの。元より期待はしておらん。だが、ラフムの真意を知れればティアマト退治の一因にはなろう」

 

これは、それだけのことなのだとギルガメッシュ王は締めくくる。

王がそう言ったのならば、その通りなのだろう。

そう結論付けたカドックは、一礼してアナスタシアと共に立香の後を追う。

きっと、これから向かうエリドゥでも辛い現実を目にしなければならないかもしれない。

多くの命が失われた跡を目にすることになるかもしれない。

きっと立香は傷つくだろう。水晶のような輝きに曇りが出るかもしれない。

それを拭い、守るのは自分とアナスタシアの役目だ。

どんな困難が待ち受けていようと、それだけは必ずやり通してみせる。

この旅路が終わるその時まで、必ず。

 

 

 

 

 

 

エリドゥ市の一画。かつて太陽神殿と呼ばれていた階段ピラミッドの頂上で、キングゥは虚空に向けて問いかけていた。

周囲には誰もいない。だが、聞こえてくるのは威厳のある低い声音だ。

その声の主こそ魔術王。

人理焼却を目論み、それを実行した人類史の破壊者だ。

 

「……どういう事かな、ソロモン。母さんは目覚めた。なのに、なぜ地上に現れない?」

 

未だ、母なる女神はペルシア湾を覆う泥の中にいる。

彼女はゴルゴーンの死によって確かに眠りから覚めたはずだが、その神体は未だに姿を現さずこちらに語り掛けようともしてくれないのだ。

その問いかけに対して、魔術王は厳かに告げる。

封印が残されていると。

 

『キングゥ、彼女は縛られている。あの大いなる海によって』

 

さまよえるゴルゴーンを女神にまで持ち上げ、連鎖召喚されたケツァル・コアトルとウルクの巫女によって呼び出されたエレシュキガルを同盟によって拮抗させた。

その争いを以てギルガメッシュの行動を牽制し、母なるティアマトの復活というこちらの真意を隠し通すことには成功したが、それだけでは足りないらしい。

ティアマトはあの泥から出てくることができない。手足となる配下が必要なのだ。

 

『キングゥ、彼女の封印を解き、ウルクという生命体を滅ぼせ。それさえ成れば特異点などという揺らぎすら消え去る。私の仕事を待たずとも、人類史はその年代で終わるだろう』

 

「ああ、そうしたら約束通り、この時代はボクらが貰う。滅びるのは人間だけだ。母さんが新しい世界を作り、新人類としてボクが後を継ぐ。それが人間に棄てられたティアマト神の、唯一つの願いだからだ」

 

『素晴らしい。君の言葉には確固たる信念が感じられる。私は君を支持しよう。ただし、彼女が本当にそんな事を望むのならば、ね』

 

そう言って、魔術王の気配は消える。

一人となったキングゥは、その言葉の真意を測りかねて眉をしかめた。

 

「馬鹿な事を。そうであるに決まっているじゃないか」

 

まるで自分に言い聞かせるように口を開いたことに、キングゥは気づけなかった。

その眼下では、メソポタミアの各地から捕まえてきた人間に群がるラフム達の姿があった。

大勢で一人の人間を弄ぶ様は、まるで魔獣以下の虫だ。

力加減も何もわからず、ただ弄って壊すという醜悪な遊びを繰り返している。

いったい、母はどうしてあのような子ども達を産み落としたのだろうか?

疑問が込み上げては沈んでいく中、キングゥは視界からラフム達を追い出すために再び虚空を見上げる。

シュメルの青い空には、魔術王の禍々しい光帯が今も爛々と輝いていた。




エリドゥでの戦いはカットも考えましたが、後々の展開を考えると外せないということがわかり、シドゥリさんには泣く泣く浚われて頂きました。
ここ最近、アナスタシアが大人しいですが、次回か次々回くらいで大活躍できると思います。

プリヤイベントは割とホクホクな成果で当方、嬉しい限りです。

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