Fate/Grand Order IF 星詠みの皇女   作:ていえむ

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絶対魔獣戦線バビロニア 第18節

眩暈がする。

体は重く、呼吸をする度に熱が奪われていくのがわかる。

本来ならば瞬きする間もなく塞がれる傷が、今は開き切ったままだ。

そこから零れ落ちているのは血液なのか、それとも変質しそこねた砂なのか。

何れにしても、この体が万全とは程遠い状態であることは理解できた。

心臓部を失っているにも関わらず、未だ意識を保てているのは大地から魔力を吸い上げることができているからだ。

それすらできないほどに消耗してしまえば、後は機能を停止するのを待つばかりになる。

 

「くっ……!」

 

痛む体を庇いながら、キングゥは腕を振るった。

吹き出した砂が槍へと転じるが、それは襲い掛かるラフムの肌を軽く撫でるばかりで押し返すことすらできない。

今のキングゥは燃料タンクに穴の空いているにも等しい状態だ。無理に原動機を回せば体内の回路が焼き付き、負担は増すばかりである。

指先一つを動かすのにも多量の魔力を要する今の状態が、堪らなく歯痒かった。

 

「効カナイ! 効カナイ! 聖杯モナイ、母カラノ 声モ 聞コエテイナイ! モウ要ラナイ! キングゥ、モウ要ラナイ!」

 

「キングゥ、カワイソウ、カワイソウ! 可哀ソウ面白イ! 可哀ソウ ハ 面白イ! 滑稽デ 面白イ!」

 

わらわらと押し寄せてくるラフム達が、衰弱したキングゥを攻め立てていく。

致命傷となる攻撃をわざと避け、こちらが動けなくなるまで嬲りつくす腹積もりのようだ。

歯を打ち鳴らす度に木霊する笑い声が不快で、キングゥは耳を塞ぎたくなったが、それも叶わなかった。

 

「面白イ キングゥ! 自分ダケ旧式ダト 今マデ 気付イテ イナカッタ!」

 

「な……んだと……! 量産品の分際、で……!」

 

苛立ちに任せて矢を放つ。

普段なら小山くらい、軽く吹き飛ばせる威力の攻撃だ。

だが、ラフムは動じることなく無防備なまま矢の斉射を受け止め、肌にこびり付いた砂を煩わし気に払い落とす。

聖杯を奪われ、霊核も傷つき衰弱した状態では、この耳障りな笑い声を封じることすらできなかった。

 

「くっ……こんな、こんなはず……! ボクはこの時代で、最強の兵器なのに……!」

 

いつの間にか、エリドゥ市を出て密林へと辿り着いていた。

追ってくるのはラフムばかりだ。カルデアのマスターやサーヴァント達の姿はない。恐らく、聖杯を奪ったラフムを追いかけていったのだろう。

 

「狩リダ、狩リダ! 旧式ヲ、沢山(こまかく)沢山(こまかく)、分解シヨウ!」

 

屈辱だった。

格下だと見下していたラフムに、失敗作だと侮っていた兄弟に、小動物のように追い立てられる様が堪らなく情けない。

そして、それ以上に大きな悲しみが胸の内で渦巻いていた。

こんなはずではなかったと、血塗れの胸を引き裂いて叫びたい衝動に駆られていた。

自分は――キングゥはティアマト神によって作られた新しい人類だ。何の経験も記録もない体で大地に放り出されたこの身にとって、それだけが唯一の支えだった。

母親からの期待だけはあると信じて、メソポタミアを滅ぼすために奔走した。

 

「ギャハ! ギャハハ! ギャハハハハハ! ソッチダ! ソッチ、逃ゲタゾ!」

 

「追イ詰メロ、捕マエロ! 解体ダ、デク人形ノ 解体ダ!」

 

それが、こんな惨めな姿を晒して逃げ回る羽目になるなんて、あまりに哀れだ。道化もいいところだ。

自分は初めから使い捨ての偽物だったのだ。

未来も、希望も、自分の意思も持ち得なかった。共に語らう友人もいなかった。

ただ、ティアマト神の唯一の子どもであることにすがることしかできなかった。

それがキングゥだ。憐れな神の人形だ。

ああ、この頬を伝う熱い雫は何なんだ。

止めどなく溢れてくる、この想いはいった何なのだ。

 

「――アハ。見ィ ツケタ」

 

茂みの向こうから、一体のラフムがこちらを見つめていた。

先回りをされたのだ。機敏に動いているつもりで、実際はもう牛歩ほどの速さでしか動けなくなっていた。

わざわざそんなことをしなくとも、後ろから追いついて一刺しをすれば終わる仕事だというのに、ラフムはこちらの絶望を煽るために敢えて迂回して自分が来るのを待ち構えていたのだ。

 

(――これが、終わりか。なんだ……人間達みたいに、呆気ない)

 

結局のところ、自分も見下していた人間達と同じだったのだ。

壊されれば動かなくなる脆弱な存在。ラフムにとっての格好の玩具だ。

そう思うと急に虚しさが込み上げてきた。

こんな事なら、最後にアイツに会いに行けばよかったと後悔の念が込み上げてくる。

それも詮無いことだ。最早、叶う手段はなく、自分はこれからラフム達に嬲り殺しにされる。

抗うのはもう止めよう。逃げるのはもう止めよう。

諦めて、目を閉じて、最後の瞬間が一秒でも早く訪れることを願おう。

慚愧が、後悔が、無念が次々と込み上げては胸の空白を埋めていく。

悍ましい兄弟に見下されて殺されるのが最後の光景なんて、とても悔しくて悲しかった。

 

「――――」

 

己の運命を受け入れた瞬間、こちらに飛びかからんとしたラフムが首が撥ねられてその場に崩れ落ちる。

それを成したのは、倒れ込んだ化け物と同じ異形の存在であった。

同族であるはずのラフムが、キングゥを守るために襲いかかろうとした個体を攻撃したのだ。

 

「おま、え……助けて、くれたのか?」

 

爪を血で染めたラフムの体は、末端から泥へと変じていた。

ここに来るまでの間に、何者かと戦って霊核を傷つけられていたのだろう。

大人しくしていれば生き永らえたかもしれないというのに、このラフムは自分を救うために残っていた力を振り絞ったのだ。

それが自身の消滅に繋がることを承知の上で。

 

「――――逃ゲ、ナ、サイ、エルキ、ドゥ。アナタ、モ、長クハ、ナイデショ、ウ、ケド」

 

「キミは――昨日、逃げ出した個体? 戻って来て、いたのか……」

 

確か、ウルク市から連れ去られてきた内の一人だ。

余程、高徳な人物だったのであろう。ラフムへと転じた後も材料となった人間の記憶が霊基に影響を与え超感覚で同族と繋がる事を恐れたのだ。

エリドゥ市を飛び出した後の事は知らなかったが、まだこの辺りをうろついていたのだろうか。

 

「――シアワ、セニ。ドウカ、シアワセニ、ナリナサイ。親愛ナル、友。エルキ、ドゥ」

 

耳障りなはずのラフムの声が、不思議と素直に耳へと落ちてくる。

金切り音交じりの雑音のような声ではあったが、まるで女神へ捧げられる祈りのようであった。

崩れかけている体を必死で堪えながら、ラフムは人間だった頃の彼女の思いをこちらに伝えようとしているのだ。

 

「私タチ、ウルクノ民ハ、アナタへの感謝を、忘レハ、しまセん。アナタハ、孤高ノ王ニ、人生ヲ、与エマシタ。偉大ナ王ヘノ、道ヲ、示シテクレマしタ。アナタノ死ヲ、嘆カナカッタ者ハ、いなカッタ。アナタノ死ヲ、忘レル者ハ、イナカッタ……私、モ。私モ、トテモ、悲しカッタ」

 

「キミは……待ってくれ、キミは……」

 

「ドウカ、シアワセに、エルキドゥ。美シイ、緑ノ、ヒト……アリガトウ、アリガトウ、言エテヨカッタ……アリガトウ、アリガ、ト――」

 

駆け寄ろうとした瞬間、彼女は結合を維持できなくなって崩れ落ちる。

咄嗟に掴むことができたのは極僅かな泥だけで、彼女を構成していた大部分は血だまりのように地面へと広がり、氷のように溶けていく。

握り締めたその泥は、ありもしないはずの熱を持っているかのようだった。

目尻が熱い。ないはずの心臓が早鐘を打つ。ボロボロに傷ついた体が、言葉では言い表せない衝動を土石流のように噴き上げる。

彼女のことなんて知らないはずなのに、浚われてきた哀れな人間の一人でしかないはずなのに、名前も顔も克明に思い出すことができた。

知らないはずの感情が、あるはずのない記憶が、湧き上がる泉のように浮かんでは沈み、キングゥ自身を責め立てる。

慟哭を、禁じ得ることができなかった。

感謝の言葉なんて、言われる資格はないはずなのに。

 

「見ツケタ、見ツケタ」

 

茂みを掻き分け、数体のラフムが姿を現した。

すぐに逃げなければと思ったが、体は木偶のように動いてはくれなかった。

手の平の中の彼女の思いを耳にしたことで、キングゥの中の何かが決定的に切れてしまったのだ。

今のキングゥに抗う力も気概もなく、心のどこかでもう終わってしまいたいと思ってしまった。

この感情の名前が何なのかはわからないが、それはあまりにも重く背負いきれるものではなかった。

ただのラフムの死のはずなのに、意識を保ち続けていることすら苦痛であると感じてしまうほどに。

そんな自分がおかしくて、情けなくて、停止した思考は振り下ろされる爪を、ただ他人事のように見ていることしかできない。

そして、それを許す女神ではなかった。

 

「呆れた」

 

ただ一言だけ告げると、空から降り立った女神は群がるラフムを焼き払う。

悲鳴を上げる間もなく泥へと帰する異形の兄弟達。同じラフムの消滅であるはずなのに、彼女の時のような衝動は湧き上がらなかった。

 

「気の迷いから助けちゃったけど、必要なかったかしら」

 

「イシュタルか……ああ、余計なことをしてくれた。キミはいつもそうだ」

 

「そう。なら、そのまま引きずっていきなさい。それとも今、ここで引導を渡してあげようかしら?」

 

心底からどうでもいいとばかりに、イシュタルはこちらを見降ろした。

腹立たしい。何も知らない癖に、何もかもお見通しと言わんばかりのすまし顔が気に入らない。

この世の寵愛を一身に受けたお前には決してわからない。

この胸の情動が、息苦しいまでの律動が、お前には決してわからないだろう。

 

「死に場所くらい、自分で決める」

 

「なら、そうしなさい。その方が、彼女のためになるでしょう」

 

「…………」

 

苦し気に息を漏らしながらも体を起こす。

激痛よりも虚脱感の方が強い。あまり大地から魔力を吸い上げることができていないようだ。

密林は南米の神のテリトリーなので、この体とは少しばかり相性が悪いのだろう。密林を出れば少しはマシになるはずだ。

 

「何故、キミがここにいる? 聖杯を追わなくていいのかい?」

 

「そっちはケツァル・コアトル達が追っているわ。ラフム達に邪魔されなきゃ、今頃は私が取り返しているに決まっているでしょ」

 

「そうかい。その顔の泥はあいつらに組み付かれたからか……いい気味だ」

 

「ちょっと、助けられておいて何よ、その言い草は!?」

 

憤慨するイシュタルが天舟(マアンナ)の矛先を向けてくるが、キングゥは無視して密林の出口を目指す。

気に入らない女神を笑いものにしたことで、少しばかり気持ちも楽になった。

この霊基がどこまで保つかはわからないが、少なくとも行けるところまでは行ってみてもいいだろう。

北へ、北へ目指すのだ。そこに何があるのかはうまく思い出せないが、自分はそこに行かなければならない気がする。

壊れかけの体はまだ動く。

行けるところまで行こう。

自分にはもう、それしか残されていないのだから。

 

「…………じゃあね、―――ドゥ……」

 

立ち去るキングゥにイシュタルが言葉をかける。

冷たい声音のはずなのに、不思議と温かみの感じられる囁きであった。

 

 

 

 

 

 

風が頬を切る。

ベル・ラフムと呼称されることとなったラフムの飛翔体。

聖杯を奪い去ったその個体は、こちらのことなど目もくれずにメソポタミアの空を疾駆した。

奴が目指すのはペルシア湾だ。恐らく、泥の中で眠るティアマト神に聖杯を渡すつもりなのだろう。

もしも、聖杯がティアマト神の手に渡れば、原初の女神が完全に目を覚ますこととなる。そうなれば、自分達ではもう勝ち目はない。何としてでも聖杯は奪い取らねばならないのだ。

 

「う、うああぁぁっ!! ヴィ、ヴィイ!! は、放さな……」

 

「ヴィイ、しっかり掴んでいてね! アナタも、もっと踏ん張って!」

 

「む、無茶な、ことを……言……」

 

ふらりと体が浮かび、慌てたヴィイが影のように形のない手を伸ばして体を押さえつけてくる。

あの後、逃げ出したベル・ラフムを追おうとしたイシュタル神は無数のラフム達に組み付かれてしまい失速。何とか追撃を振り切ることに成功したカドック達は、ジャガーマンと四郎に密林へと逃げた捕虜の護衛を頼み、自分達はケツァル・コアトルの呼び出した翼竜の背に乗ってベル・ラフムを追跡していた。

彼女が仲間入りしてから何度か乗せてもらったことはあったが、今回は事情が事情なだけに翼竜達も限界を超えた速度で飛翔している。

そのスピードたるや、禁断のアーラシュフライトが思い返されるほどだ。

振り落とされないよう、ヴィイが懸命に体を押さえてくれているが、それでも揺れる翼竜の背中は乗り心地が最悪で、何度もバランスを崩して滑り落ちそうになった。

断言しよう。羽ばたく生き物の背中は、安易に騎乗していいものではない。

傍らでは案の定、立香がブラックアウト寸前の状態で翼竜の背にしがみついていた。意識は朦朧としていて、目と口はだらしなく開き、とても他人様に見せられるような顔ではない。

 

『辛いのはわかるが、何とか耐えてくれ。ラフムが目指しているのはペルシア湾の中央、恐らくはそこにティアマトが沈んでいる! 聖杯を落とされたら回収はほぼ不可能だ!』

 

「安心して、追い付くわ! 背中、捉えた! ケツァルコアトルス、これが最後の踏ん張りよ!」

 

怪鳥音染みた鳴き声を上げ、ケツァル・コアトルを乗せた翼竜が一際激しく羽ばたいた。

その視線の先にいるのは聖杯を呑み込み、母の元へと戻らんとするベル・ラフム。ラフム自身の適応力の高さなのか、或いは聖杯の魔力の恩恵か、その速度は大空を舞うどの生物よりも速く、鋭い。

しかし、女神の翼竜はその更に上を言った。新人類が何するものぞ。この大空は遥か以前から翼持つ鳥達の領域。お前が新たなヒトだというのなら、この洗礼を受けるがいい。

これ正しくトペ・スイシーダ。大気の壁というトップロープを潜り抜け、今、太古の翼竜は渾身の体当たりをお見舞いした。

 

「手応えありデース! さあ、追いかけてトドメよ!」

 

旋回しながらバランスを取り直す翼竜の背で、ケツァル・コアトルは勝鬨を上げる。

眼下では、翼竜の体当たりを受けて意識を失ったベル・ラフムが錐もみ回転しながら遠ざかっていった。

着地するのは砂浜のようだが、この高さでは無事では済まないだろう。後、もう少し南に飛ばれていたらペルシア湾に指先がかかっていたかもしれないと思うとゾッとしたが、翼竜達の奮闘で何とか最悪の事態は防げそうだ。

 

『――なんだこの霊基反応は!? まさか――みんな! すぐにラフムを追うんだ! 海から――泥の中から新手が来るぞ!』

 

「っ!?」

 

ロマニの言葉にいち早く反応したケツァル・コアトルが翼竜を急降下させるが、それよりも泥の中からラフムが飛び出す方が早い。

その動きはまるで弾丸のようだ。次から次へと泥を弾かせ、重力を振り切って空を駆けるラフムの群れが壁となって行く手を遮るのだ。

 

アナスタシア(キャスター)!」

 

「やっています……ダメ、届かない!」

 

迎撃のために放った氷柱が数体のラフムを撃ち落とすが、落下するベル・ラフムにまでは届かない。

次々と飛びあがってくるラフム達が行かせまいと体を広げて氷柱を受け止めるのだ。

仲間のための自己犠牲といえば聞こえはいいが、実際のところは群れ全体が機械的に動いているだけだ。

奴らは同族がどれほど傷つき倒されようと頓着しない。それは何億本もある指の内の一本が折れただけのこと。そして、折れた指はこうして泥の中から新たに補充される。

個がない故に、奴らには死という終わりすら訪れないのだ。だから、群れの大半を失う事になろうとも、己の体が傷つき朽ちていこうとも、躊躇することなく目的を達せんとするのだ。

 

『ベル・ラフム、霊基消失。これは、自分で命を絶ったのか……聖杯を抉り出して、別のラフムに!! 聖杯の反応が泥の中に消えていく!!』

 

「カドックっ!」

 

「わかっている! くそっ、ここまでか……」

 

泥に沈んでしまった以上、これ以上の追跡は不可能だ。

あの泥はヤバい。第六特異点で垣間見た汚染聖杯に匹敵――否、それ以上に悍ましい気配を発している。

イシュタル神は言っていた。ティアマト神が持つ権能の中で最も強力なものが「細胞強制(アミノギアス)」。取り込んだものに自らの権能を複写し隷属させるという恐ろしいものだ。

今、ペルシア湾を覆いつくしているこの黒い泥は、全てがティアマト神の権能。いわば攪拌された生命の土壌であり、迂闊に触れれば取り込まれて自分達までラフムと化してしまうだろう。

 

『ラフムの反応、更に増大! 泥の中から次々と出てくるぞ!』

 

聖杯を手中に収めた事で、こちらを妨害する必要がなくなったのだろう。

ラフム達は襲い掛かってくるのを止め、新たに生まれた兄弟達と共に陸地への上陸を試み始めていた。

恐らく、生き残った人間を襲うためにウルクを目指すつもりなのだろう。

 

「ウルクに戻りましょう、マスター! 間に合わなくても、このまま放ってはおけません!」

 

ペルシア湾だけでなく、メソポタミア全体が震えているかのようだ。

海が荒れ、風が鳴き、空の暗雲が渦を巻く。

それらがティアマト神の目覚めに呼応しているのだとしたら、次に現れるのは本命の登場だ。

確信があった。

子どもはどれだけ迷おうと、必ずはぐれた母親を見つけ出す。

それは母親の腕に抱かれたいという子の執念なのか、それとも我が子を愛する親が子を招くのか。

何れにしろ、カドックは気づいてしまった。

その存在を、その姿を、その美貌を、彼は見てしまった。

ペルシア湾の遥か彼方。遮るものが何もない泥の上に立つ、手足を拘束された美しい女性の姿を。

 

「……あれが?」

 

何故、その姿を捉えることができたのかという疑問は湧かなかった。

礼装があるとはいえ、視力の衰えたこの目で、それも強化の魔術すら使っていない状態であるにも関わらず、まるですぐ目の前にいるかのようにハッキリと彼女の姿を見て取れる。

大きな角を持ち、一糸纏わぬ裸体を晒した女性。どこか儚げで幻想的な美しさがあり、一方で全てを受け入れる深い包容力を感じられた。

正に女神と呼ばれるに相応しい美貌と完璧な肢体だ。

この湧き上がる感情は、母親への慕情だろうか。

一目見ただけで彼女が万物の母であることを理解した。

泥の海で唯一人、静かに歌う彼女の姿に見惚れてしまった。

美しい。/悍ましい。

愛おしい。/恐ろしい。

震えが止まらない。

これは歓喜かそれとも恐怖か。

自分でも感情の正体が分からなくなるほど、カドックは混乱していた。

 

「あれが、ティアマト神(お母様)?」

 

傍らのアナスタシアも同じであった。いや、ここにいる全員が同じ気持ちを共有していたはずだ。

それほどまでにティアマト神は美しく、愛おしく、恐ろしかった。

触れてはならない禁忌の念を感じられた。

 

「間違いなく、ティアマト神よ。彼女は生命を生み出す土壌として、創世後に切り捨てられた母胎。シュメル神話では神々に殺されたとあるそうですが、実際は自分が生み出した世界の全て(こどもたち)に棄てられたの。彼女はいるだけで新たな生命を生み出す原初の海そのもの。生態系が確立されたこの惑星には――生命の系統樹を得た霊長にとって、次の世界を作りかねない彼女は不要でしかなかったの」

 

だから、虚数空間に封印されたのだとケツァル・コアトルは語る。

それが、今、こうして目覚めてしまった。

魔術王に引き上げられたのか、それとも歪んだ人理が呼び寄せたのか。何れにしても、彼女は最早、この星にいていい存在ではない。

 

「っ……!?」

 

不意にティアマト神と目が合った。

世界を内包したかのような淡い青の瞳が物悲し気にこちらを射抜く。

あれは悲哀だ。我が子から棄てられたことへの悲しみだ。

あれは歓喜だ。我が子と再び出会えたことへの喜びだ。

そして、あれは恐怖だ。我が子にもう一度、捨てられるかもしれないという恐怖だ。

青い瞳が怯えたように陰り、震えとなって全身に伝播する。

姿を現してから、ずっと聞こえていた歌が途絶えていた。

 

「……逃げろ」

 

「え?」

 

ティアマト神は恐怖の余り、自らの体を掻き毟るように捩る。すると、手足を拘束していた鎖に小さな亀裂が走った。

それと同時に、メソポタミアの大地が再びティアマト神に呼応して大きな揺れを起こした。

 

『霊基、再構成を確認。超構造体(メガストラクチャ)に変化、存在規模(スケール)、上昇――――バカな、こんな生物有り得るのか。これはもう生き物じゃない。これは、これは――』

 

「いいから、逃げろ! 急げ!」

 

カドックが叫ぶのとほぼ同じタイミングで、ティアマト神の拘束が弾け飛ぶ。

儚げな美貌を携えたティアマト神はうっすらと笑いながら泥の中へと埋没し、ほんの一瞬だけ静寂が戻ってきた。

だが、それは脅威が過ぎ去った訳ではない。

自分達は先ほどまで見ていたものは、本当のティアマト神ではない。言わば影のようなものだ。

本命はこの下にいる。

本当のティアマト神の神体が、今正に現れようとしている。

 

『ペルシア湾の水位、急速に上昇! 第一波、湾岸到達まで後、五、四、三――港湾部水没。大波、指向性を伴ってなお浸食! このまま一直線にウルクを飲み込むつもりだ!』

 

その瞬間、ペルシア湾が二つに割れたとのかと錯覚した。

それは泥の底から這い出てきた巨体によって引き起こされた大波であった。

体長は優に数百メートルに達しようかという巨体。頭部に同じ角を有していることと、全体的なフォルムの共通点から、先ほど垣間見た女性と同じ存在であることが汲み取れる。

だが、新たに現れた彼女の美貌は嘆きによって歪んでいた。大きく割けた口はまるで竜種の顎だ。

慟哭とも言える咆哮は空を揺らし、泥の底から一歩、一歩と緩慢な歩みで洋上へと上がってくる様は女神の名に恥じない威風堂々としたものだった。

 

「Aaaaaa――――aaaaaaa――――――…………」

 

人が巨大なものを目にした時、そこに抱くのは恐怖でも歓喜でもない。あれは神だという確信と、自らの矮小さを否がおうにも見せつけられたことから生じる畏敬の念だ。

魔神柱やジル・ド・レェの大海魔など相手にならない。あそこにいるのは正真正銘の神なのだ。

 

『正に怪物だ。移動する生体工場、星間すら航行可能な魔力量。体内に貯蔵した膨大な生命原種――――人類が後数百年かけて到達すべき神の箱舟――――これが――これが、ティアマト神の正体か!』

 

「ティアマト神、わたし達を見ていません! まっすぐにウルクだけを睨んでいます!!」

 

「ウルクに向かおうとしているんだ! ケツァル・コアトル!!」

 

「無理! ぜっっっったいに勝てないわ! だって大きさ違い過ぎるデショウ!? ルチャ最強の奥義、関節技が仕掛けられまセーン!」

 

動転し過ぎておかしなことを口走るケツァル・コアトルではあったが、彼女の言う通りこれほどの巨体が相手では生半可な攻撃は通用しないだろう。

いや、ひょっとしたらイシュタル神やケツァル・コアトルが権能を全開にして挑んだとしても、傷つけることすらできないかもしれない。

存在規模(スケール)が違い過ぎるのだ。サーヴァントは英霊の側面を抽出したもの。対して、ティアマト神は完全なる神霊――否、神体として顕現している。

振るえる力の威力も規模も、彼女達とは比べるのが烏滸がましいほど大きく上回っているのだ。

 

『みんな、撤退だ! 至急ウルクに戻り、ギルガメッシュ王と合流する! 我々だけでは手の打ちようがない以上、戦力を集めるしかない!』

 

「っ……ケツァル・コアトル!」

 

「ええ、しっかり掴まっていて!」

 

動き出したティアマト神に背を向け、カドック達を乗せた翼竜をウルクを目指す。

胸中は不安と絶望でいっぱいだった。

目覚めてしまった神格を相手にどう戦えばいいのか、自分達はウルクを守ることができるのか。

これまでも多くの絶望を経験してきたが、どこかに必ず希望があった。細い細い勝ちの筋が見えていた。

だが、今回ばかりは何もない。

打てる手も、切れる札も、自分達の手元にはない。

それでも諦める訳にはいかないと、拳に力を込める。

ここまで来たのだ。

六つの特異点を超えて、やっとここまで辿り着いたのだ。

諦めてなんてやるものか。

こんなはずじゃなかったと悔やむのは、最後の最後まで抗い続けてからだ。

だから、絶対に諦めてなどやるものか。

 

『海洋浸食、第二波が来るぞ……いけない、この勢いはウルクまで到達する!?』

 

ダ・ヴィンチの解析結果を聞き、一同に戦慄が走る。

未だペルシア湾は遥か後方。しかし、ティアマト神の歩行に合わせて大きく波が揺れ、やがては大地を飲み込む津波と化そうとしている。

もしも、津波がウルクに到達してしまえば、生き残っていた人達は全てティアマト神の泥に取り込まれてしまう。

それだけは何としても阻止しなければならない。だが、いったいどうすればいいのだろうか。

この場にいた誰もが同じ思いを抱いていながら、誰一人として動ける者はいなかった。

眼下に変化が訪れたのは、その直後のことであった。

 

 

 

 

 

 

ウルクのジグラッドでは、ギルガメッシュに対して各方面から次々と報告が舞い込んできていた。

ラフムの動向と各地の被害状況、ペルシア湾での異変。目まぐるしく変わる情勢に対してギルガメッシュは的確な指示を下すが、残念ながら後手に回らざる得ない状態であった。

兵士達もよくやっているが、途方もない軍勢を誇るラフム相手では圧倒的に数が足らない。特に少し前から断続的に訪れるラフムの大群に対しては、北壁から取り寄せた神権印章(ディンギル)を用いねば押し留めることはできなかったであろう。

だが、それも後、一時間程度しか保たない。合計三百六十機の神権印象(ディンギル)を操作するには膨大な数の人員とギルガメッシュ自身の多大な魔力を必要とするのだ。

弾薬となる財宝は無限に存在するが、それを扱う者達が持たないのである。

 

「第三観測所より反響合図、確認! 黒泥、ギルス市を飲み込み、ウンマ市・ウルク市方面に向かって流出!」

 

駆け込んできた兵士が直前の兵士を割り込み、緊急事態を告げる。

ティアマト神の権能が溶け込んだ泥。生命の土壌による大津波がこちらに向けて、猛スピードで押し寄せているのだ。

途中にあるウンマ市の城壁では耐えられず、そこを超えられれば後はウルク市まで一直線である。

あれに飲まれてしまえば、ティアマト神に蹂躙されるまでもなく自分達は全滅だ。

故にギルガメッシュは用意しておいた奥の手を切る事を選択した。

 

「錨を上げよ! ナピシュテムの牙、展開だ!」

 

「ハッ! 反響光で合図を送れ! 牙を打ち上げよ!」

 

ギルガメッシュの命令を受けた兵士が、部下へと号令をかける。

すると、ここより遠く離れた平野において変化が訪れた。

魔獣の行進の如き地響きと共に大地がせり上がり、無数の牙が折り重なった長大な壁が出現したのである。

これこそ、ギルガメッシュの奥の手。ゴルゴーンのような大型の害意を相手取ることを想定した攻性障壁。

折り重なった牙は全てが力ある魔獣のもの。死して物体へと変じたそれはティアマト神の泥を受けても変質せず、津波からウルクを守るだろう。

急ごしらえ故、何度も受け切れるものではないが、それでも多少の足止めにはなるはずだ。

しかし、事はそう上手くはいかなかった。

 

「反響合図、確認! ナピシュテムの牙、一部起動せず!」

 

「なんだと!?」

 

「機構に動作不良を確認とのこと! 至急、修理に向かわせます!」

 

「急がせろ! ええい、目覚めが早まったことがここに来て……」

 

ギルガメッシュは忌々し気に歯噛みする。

ナピシュテムの牙は未だ未完成なのだ。設計を書き上げたのが数週間前、そこから突貫工事で作らせたので、どうしてもこういう不調はでてきてしまう。

彼が千里眼で垣間見た啓示では、ティアマト神の復活は後、二日の猶予があるはずであった。

それだけあれば、此度の不調も改善した万全の状態で迎え撃つことができたはずだ。

ここでマーリンを責めるのはお門違いではあるが、それでも彼が後、一日でも長くティアマト神を封じることに成功していればと思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

突如として巨大な壁が地面を割って出現したのは、ウルク市を目前に捉えた時であった。

恐らく、ギルガメッシュ王が言っていた奥の手なのだろう。壁自体が強力な力を秘めた攻性の結界のようなものだ。

あれならばティアマト神の泥を受け止めることもできるだろう。だが、肝心の壁は一ヶ所だけ、完全には上がり切らず中ほどで停止してしまっている部分があった。

何らかのアクシデントが起きたのか、ウルク市の城塞から早馬が駆け出したのが見える。

 

(だが、間に合うのか? 津波はすぐそこまで迫っているんだぞ!)

 

既にギルス市は泥に飲まれ、ウンマ市の城塞も決壊するのは時間の問題だ。

それが破られれば、ここまで五分とかからずに津波は押し寄せてくるはずだ。

どう考えても間に合うとは思えない。恐らく、作業のために飛び出した者達は死を覚悟しているのだ。

 

『ウルク方面からラフムの反応を確認! これは……あの壁の方に向かっている! 作業員を狙うつもりだ!』

 

「駄目だ、助けないと!」

 

「待て、正気か!?」

 

逸る立香をカドックは制する。

いつもの人助けとは訳が違う。津波がすぐそこまで迫っている状況でラフムと戦闘を行えば、間違いなく自分達も津波に飲み込まれてしまう。

見す見す死ににいくようなものだ。

 

「あいつらは死を覚悟しているんだ! それでも助けに行くっていうのか?」

 

「ここで壁を死守しないと、ウルクは泥に飲み込まれる。そんな嫌な思い、したくはない!」

 

「そうか…………わかった、好きにしろ! 僕も好きにさせてもらう!」

 

言うなり、カドックは身を翻した。

眼下に広がる広大なシュメルの大地。直に津波で押し流されるであろう緑の平野目がけ、臆することなく飛び降りたのだ。

忽ち、重力が五体を鷲掴み、自由落下が開始する。

 

「なっ……!?」

 

「そっちは頼んだぞ!」

 

「ばっ、馬鹿野郎! 何を考えているんだ、君は!!」

 

驚愕する立香の顔がどんどんと離れていく。

少し離れたところから見下ろしていたケツァル・コアトルは、何も言わずに送り出してくれた。こちらの意図を汲んでくれたのだ。

本当に、陽気すぎることを除けばとてもできた女性だ。どこかの女神達も見習って欲しい。

そして、もう声すら届かない場所にいる親友に向かって、改めて謝罪する。

けれど、こうするしかないのだ。彼が助けたいといった人々を救うには、大前提として迫りくる津波を押し留めなければならない。

その手段を今、持ち合わせているのは自分とアナスタシアだけだ。

だから、命を賭けてあの壁は死守する。

 

アナスタシア(キャスター)、フォロー頼む!」

 

霊体化してついてきているアナスタシアに呼びかけ、落下の衝撃に備えて身を丸くする。

見下ろした地面は、もうすぐそこまで迫ってきていた。

 

 

 

 

 

 

実体化したヴィイの巨大な腕が、落下するカドックの体を激突寸前で受け止める。

痛みはなかった。思考が走るよりも先に手足は動き出し、迫りくる脅威を認識する。

前方に黒い津波。背後には稼働し切っていない壁。ウルクから駆け付けた作業員は必死で修理を行っているが、それを許すラフム達ではない。そちらは立香達に任せるしかないだろう。

自分達の仕事はこの津波を押し留める事。壁の修理が終わるその時まで、一粒の泥すら通り過ぎることは許さない。

 

『カドックくん! いくら何でも無茶だ!』

 

「けど、やるしかない。やらなきゃウルクはお終いだ!」

 

『そうだけど、君達で何ができるっていうんだ! 相手は自然現象そのものなんだぞ!』

 

「それでもやるんだ。ドクター、僕は一度死んだんだ。レフ・ライノールの爆破工作で、死ぬはずだったんだ。それが今日まで生き永らえた。なら、せめて納得のできる使い方をしたい。僕にあいつらを守らせてくれ!」

 

『……危なくなったら、すぐに強制帰還させる。いいね!』

 

「……ありがとう」

 

通信を終え、改めて押し寄せる泥を注視する。

既に視界の先には遮るものが何一つとしてなく、街も密林も黒い泥に飲み込まれてしまっていた。

あるのはどこまでも続く水平線と、ウルクを飲み込まんと迫る黒い波。そして、彼方から歩み続けるティアマト神。

状況は絶望的。自分の命すら上乗せ(ベッド)された大博打だ。

聖杯爆弾の時といい、自分はつくづくこういう分不相応な舞台と縁があると、つい自嘲してしまう。

 

「もう、終わるのね」

 

それがどういう意味なのかは問うつもりはなかった。

この特異点での旅路が佳境に至ったということなのか、それともウルクはもうすぐ滅ぶという悲観なのか。

或いは、この瞬間で自分達の旅路は終わるという覚悟なのか。

何れにしても、アナスタシアは平静のまま自らが対峙することになる泥の群れを見やる。

スイッチが押されるように、体内の魔術回路が起動した。繋げられたパスを通ってアナスタシアへと魔力が通り、彼女が身に纏っていたウルクの民族衣装が消失する。

代わりに翻したのは白地のドレスと蒼のマント。特異点を巡る旅を共に駆け抜けてきた、彼女の戦装束だ。

久しぶりにその姿を見て、カドックは微笑みを禁じ得なかった。

やはり、彼女にはその姿が一番よく似合う。

思わず見惚れてしまうほどの美しさと気高さがそこにはあった。

 

「家族ごっこはお終いね、カドック……私のマスター」

 

「そういうことだ、僕のキャスター」

 

窮地を前にして、終演を前にして、お互いの在り方を確かめ合う。

七つ目の特異点で営まれた偽りの家族関係はお終いだ。

ここからはカルデアのマスターとサーヴァントとして、迫りくる脅威に立ち向かう。

それが開戦の合図となった。

アナスタシアの魔眼が、ヴィイの眼が、その視界を埋め尽くす泥の群れを捉える。

雲霞の如く押し寄せる泥の津波。それが一瞬で凍り付き、静寂がウルクの平原を支配した。

同時に体内からごっそりと魔力を奪われ、カドックは眩暈を覚えて片膝を着く。

前に海を凍らせる時は消滅を覚悟しなければならないといっていたが、正にその通りだ。

あの時よりも繋がりが深まり、回路の質も鍛えられたというのに、それでも立っているのが辛い。気を抜くと意識を持っていかれそうになる。

だが、これで何とか時間を稼ぐことはできた。後は壁の修理が終わるまで、この凍結を維持するだけでいい。

 

『凍った泥の向こうからラフムの反応増大! カドックくん、そちらに向かってくるぞ!』

 

異変を察知したロマニが通信で警告する。

どうやら、休んでいる時間はないようだ。

自分達を殺して泥の凍結を解くつもりなのか、それとも後ろにいる作業員達を狙っているのかはわからないが、氷壁の向こうから黒紫の異形が次々と這い出てきている。

子どもの頃に見た蟻の大群を思い出す。今にして思えば非常に不快な思い出だ。

 

(ザっと見て五百か。手持ちの礼装でどこまでやれる?)

 

組み付かれれば終わり。いくらアナスタシアの冷気が強力でも、自分が死んでしまえば意味がない。

背後の壁を死守する以上、逃げることも許されない。

思考は冷静なのに心臓は恐怖で早鐘を打つ。足も竦んでまるで石のようだ。

このままやり合うのは余りにも危険。一瞬の判断の遅れが命取りとなる。

情けない。

不利も危険も承知で飛び降りたというのにこの様だ。こんなこと、最初から分かり切っていたというのに。

 

「――――Set」

 

石の如き両足を動かして、眼前の群れに一歩踏み出す。

後退はない。後一歩を踏み出すだけで、自分は死地に足を踏み入れることになる。

 

「あら、カドック(マスター)。血気盛んなのは結構ですが、肩に力が入り過ぎではなくて?」

 

出鼻を挫くように、アナスタシアは己がマスターに語り掛ける。

それでは駄目だと。そんな風に気負っていては、勝てるものも勝てないと。

 

「敵は多いわ、カドック(マスター)。けれど、別にあれを全て凍らせてしまっても構わないのでしょう?」

 

土台、自分達だけでは勝ち目のない戦いだ。ここに降り立った時点で敗北は必至。生き残ることなど論外なのだ。

ならば、後はせめて悔いを残さぬよう駆け抜けるしかない。自分達の全力をぶつけ、閃光のように一瞬を駆けるしかない。

それがカドック・ゼムルプスの戦いだ。自分の戦いはいつだって、己の限界との戦いだった。

絶望的な状況を前にして、もうこれ以上は進めないという壁を乗り越える旅路だった。

弱いマイナスの自分を、ゼロへと戻す歩みだった。

だから、気負う必要はない。これはいつもと同じこと。ここまでずっと繰り返してきた戦いと何も変わらないのだから。

ここは境界線(ボーダーライン)ではなく最前線(フロントライン)

それを履き違えていたのなら、肩も重くなるというものだ。

 

「――ああ、遠慮はいらない。思う存分やってくれ」

 

敵を見据える。魔術回路の回転数が中頃までを意識し、五分の力で魔力を運用する。

何しろ、どれだけの時間、ここの守りを維持しなければならないのかがわからない。

足りない分は礼装で補いながら、騙し騙しいくしかない。

一方、アナスタシアはこちらを守るように前へと出ると、ヴィイを背後から実体化させてラフムの襲撃に備えた。

その両の眼は、この戦場に存在する全ての敵を余すことなく俯瞰で捉えている。

 

アナスタシア(キャスター)!」

 

「ええ、期待に応えましょう、カドック(マスター)!」

 

黒く染め上げられた氷上に、不可視の矢が走る。

開幕を告げる風が、雪と氷を伴ってウルクの平原を駆け抜け、ラフムの一団が瞬く内に凍り付いた。

逆上したラフム達が凍結した同族を踏み砕きながら突進し、アナスタシアはそれを迎え撃つ。

ウルクの命運を賭けた孤独な防衛戦が今、始まったのだ。




ちなみにイメージはホロウのブロードブリッジです。
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