一夏とセシリアのクラス代表決定戦が行われた翌日、1年1組の教室に満ちる空気は控えめに言っても最低であった。
つい先日まであった女子特有の姦しさや、溌剌とした華やかな空気はなりを潜め、言葉を紡ぐのもはばかられそうな重苦しさが満ちている。まるでこの教室の重力だけが二倍になったかのよう、それがクラスメイトの大多数が感じている共通認識であった。
その重力の発生源は二か所、一つは言うまでもなく先日の試合において屈辱的な勝利を得てしまったセシリアだ。
常にあった凛とした表情は沈鬱とした暗いものへと変わり、身に纏っていた誇りに満ちた覇気も見る影もなく消え失せている。
一応、先日の試合はセシリアの勝利という形に終わっている。しかし、だからこそ、その事実がセシリアに暗い影を落としているのは明白だった。
更に加えて、先の試合はクラス代表決定戦。IS学園という特殊な場所においての代表を選出するための戦いであり、何よりも求められるのは強さだ。クラスを代表し、各種の試合を戦う為に必要な物はそれであるにもかかわらず、セシリアはその座に就かなければいけなかった。
屈辱、という他ないだろう。
周囲から注がれる視線は、決して蔑む様な物ではなく、憐れみが混じったものであったが、それが一層セシリアには屈辱を掻き立てる。
なぜならばそこには、仕方がない、という言葉が込められている。
相手がただの素人ではなく、理解不能とさえ言えるような未知の存在であったから。
――――つまりは、セシリア・オルコットは油断や慢心など関係なく、織斑一夏という存在に叶わない。
まるで、そう言外に告げられているよう。
「…………っ!!」
だから昼の休憩を告げる鐘が鳴り響いた時、セシリアはとにかく教室の外に出ようと足を動かした。
それはまるで空気を求めて水の中でもがいているかのような必死さ。
満足に呼吸もできない四角い牢獄からの脱出を、セシリアの体は求めていた。
だから自分と同じように、逃げるように教室から立ち去る誰かのことなど認識すらしていなかった。
■■
屋上。それがセシリアが満足に呼吸をするために選択した場所だった。
屋上へとつながるドアを開け、真上から降り注ぐ春の日差しが彼女を出迎える。
少しばかりきついと感じるその光に掌を翳しながら、セシリアは誰もいない屋上のど真ん中、コンクリートの床に腰を下ろした。
偶然にも誰もいない屋上。だからだろうか、常ならば行わないだろう、ちょっと恥ずかしいと感じる行為をとってしまっていた。
その手元には、学園の購買で販売しているパンと、自販機で購入した紅茶の缶が置かれている。
「……はぁ、何をやっているのかしら、私は」
だらしなく足を伸ばし、両手を後ろにつけて晴れ渡っている青空をぼんやりと眺める。先ほどまで息苦しさにあえいでいたセシリアの思考は、ようやくの開放感に停止しているようで、空に流れて消えた自問に対する答えは一向に浮かんでこない。
例えるならそう、視界の中にポツンと浮かぶ雲の様。
張り詰めていたものを断ち切られてしまって、何処へ行けばいいのか、何をすればいいのか、そうした何もかもから取り残されてしまっている状態だ。
「……はぁ」
再び、溜息が零れる。
手足には鉛の様な倦怠感が纏わりつき、だというのに、そうした自分に対して渇を入れる気分さえ発生しない。
重症だと、セシリアは感じていた。普段の自分なら、意識して取る休息の時ならいざ知らず、こうした気の緩みなど見過ごさないだろう。
意識して自分の足を止めるのと、無意識のうちに足を止めているのは違う。
こうした状態は拙い。次へ進むための活力は生み出さず、ただただ無為に時間だけが過ぎていく。
――――自分には、立ち止まっている暇など無い筈。
それはセシリアが、自分に課した誓い。
セシリアというただの少女から、セシリア・オルコットという存在へと切り替えた時に紡いだ言葉。
セシリア・オルコットという少女のこれまでは、けして順風満帆という物ではなかった。
貴族の家系に生まれ、会社経営を行う母と、それに付き従う父を幼いころから見て育った子供時代。
いつも先頭を走る母に憧れを覚え、そんな強い母の顔色をうかがっている様な凡庸な父親に失望を感じていた。
それが幼いセシリアにとっての男の姿そのものであったから、それが男全体への失望感に塗り替えられるのは当然だった。ISが登場してからの女性優位への社会の変質も、その価値観に拍車をかけていった。
子供心にあの強い母親は、何故あんな父親を伴侶に選んだのだろうと、そんな疑問を抱いていたある日、突然、それは起きた。
鉄道事故。多くの死者を出したその悲惨な事件に、たまたまセシリアの両親も巻き込まれて、そして、死んだ。
これから先も憧れを抱き続けていたであろう母親の背中も、軽蔑を抱き続けていたであろう父親の背中も、そんな二人がどうして結ばれたのかという疑問と共に、決して手の届かぬ場所へと過ぎ去ってしまった。
そうしてセシリアに残されたのは、父祖の代から受け継がれてきた豪奢な屋敷と、莫大な資産だけ。
後はそう、そんな代物に浅ましく狙いを定めた、親戚や両親の知人だという名のハイエナ共。
――守銭奴を気取るわけでもなかったが、そんな奴らに両親が残してくれた物をくれてやりたくは無かった。
他にはもう、何も無かったから。
セシリアという少女と両親を繋ぐものは、財貨の冷たさだけなってしまったから。
両親を失った悲しみに泣きはらした少女はその時、、オルコット家の当主としてこれからを進む決意を胸の内に打ち立てたのだ。
それからは苦難の連続だった。年端もいかない少女が、政財界の魑魅魍魎、狐狸妖怪の類を相手取るのだ。生半可なことではない。
「……やはりチェルシーの紅茶に比べれば今一ですわね、市販の物は」
自販機で購入した、それなりという形容が一番似合う缶の紅茶を口にする。
次いでパンを口にしようと、その袋に手を掛けたその時、セシリアの背後で小さく軋む音が鳴った。
それは屋上の扉の蝶番が軋む音で、つまりはこのセシリア一人しかいない屋上に誰かが来るということだ。
正直、今の精神状態で他の誰かと顔を合わせたくは無い。きっと、表面を取り繕う余裕すらないだろうから。
「……む、オルコットさんもここに来ていたのか」
そうした沈鬱な感情のままに視線を向ければ、そこにいたのはある意味で最も合いたくない人物――篠ノ之箒が佇んでいた。
■■
「…………」
「…………」
静寂がその場を支配していた。ただし、先ほどセシリアだけがいた時とは違い、それは少なからず心を落ち着けることのできる静寂さではなかった。のしかかる様な重みが空気に充満している。
そんな重圧に耐えかねるように、セシリアは黙々とパンを咀嚼していく。それは食事というよりは機械的な動作に近かった。とりあえず食べ物を口にすることで、耐えきれそうにない沈黙を誤魔化しているだけだ。
隣、というには些か距離を開けて座っているクラスメイトもまた、同じような心境なのだろう。手製の弁当を黙々と食している。
正直に言えば、かなりきつかった。近くにいるのは箒一人だというのに、教室で感じた重圧とは比べ物にならないくらい重い。
そうこうしているうちに、セシリアの手の中にあるパンの総量はあと僅かになってしまっていた。
そもそも会話すら始まっていない。食事を終えたらそそくさと立ち去ってしまうのも対応の一つかと考えもしたが、それはどう考えても逃げだろう。これ以上無様を重ねる気にもなれない。
だからと言って常の様な自分――堂々とした態度、悪い言い方をすれば高圧的な態度で横にいるクラスメイトに接するのも、それはそれで惨めだろうとも思う。それは単なる八つ当たりだ。
だとすれば、当たり障りのない会話をしてこの場を濁すのが一番、ということになってしまう。
となれば必然、話の種を考えつくためにその人となりを思い返す必要がある。
セシリアはこれまで、篠ノの箒とあまり接したことがない。なので知っていることと言えばISの開発者である篠ノ之束の妹であるということと、そして――あの、織斑一夏とどうやら幼馴染らしいということだけ。
しかも極め付けに、どうやら彼女は篠ノ之束に対してあまりよい感情を持っていないらしい。クラスメイトに篠ノ之束の血縁者であるということを知られたときには、表情にありありと不快感を浮かべていたからだ。
(……て、手詰まりですわ)
気付けば進行方向の全てに地雷が埋まっていた。いまのセシリアの心境はそんな感じだった。
「――オルコットさん、少しいいか?」
「え!? な、何ですの」
「その、話があるんだが……」
そうした手詰まり感に苦しんでいたセシリアをよそに、クラスメイトは食事を終え、周囲を包んでいた沈黙を斬り払うように凛とした声でセシリアに言葉を掛けた。
好都合と言えば好都合であった。
セシリアは内心の歓喜をひた隠しにして、この時初めて明確にクラスメイト――篠ノ之箒へと視線を向けた。
「えぇ、構いませんわよ」
「そう、か――、では単刀直入に聞こう。オルコットさんは織斑一夏をどう見ているんだ?」
「…………ぇ?」
そんな小さな歓喜は、不器用だと言えるぐらい真っ直ぐに投げかけられた箒の言葉によって完膚なきまでに砕かれた。
いや、いっそそれは刃と呼べるぐらいにセシリアの心情に付きたてられている。未だ飲み込め切れていない敗北と、それを齎した埒外の人物。
どう形容すればいいのか分からない混沌とした感情が、箒の言葉によってできた傷口から漏れだそうとしていた。
セシリアの視線に昏い色が宿る。
しばらくの間、二人を沈黙が包んだ。
しかしそれは先ほどまでの沈黙とは打って変わって、針の一刺しでもあれば弾けてしまいかねない、熱を帯びた沈黙だ。
「あなた――」
どういうつもりですか、と繋げて問いかけようとしたのを力づくで飲み込む。
代わりに口にしたのは、セシリアの今の心境を端的に表した言葉だった。
「そう……ですわね、理解不能の一言に尽きますわ」
いままで対人関係に照らし合わせてみても、あそこまで他者を見下し、なおかつそれに見合うだけの実力を持った異性はセシリアにとっても未知の存在だった。
「そう……だな……。私も、一夏がわからない」
その一言に、箒は諦観が籠った理解を見せた。
「あなたは確か彼と幼馴染だったのではなくて? なら彼の本性は当然知っていたのではありませんの?」
「知っていたら、そもそもこんな話を切り出さない。――――私の知っている織斑一夏はな、馬鹿で、鈍感で、けれどまっすぐで優しい奴だったんだ。あんな風に、他人を見下して、傷つけるような奴じゃないっ」
そう語る箒の言葉は、最後の方になると僅かに嗚咽が混じっていた。
あぁ、成程と、ようやくセシリアの中に理解と得心が芽生える。
否定してほしかったのだ。彼の本性を。
いままで自分が見続けていた彼こそが本物なのだと。他の誰かの口から、あれはまやかしだと断じてほしかった。
つまりは――、
「篠ノ之さん。あなたはもしかして、……彼に好意を抱いていましたの?」
「……あぁ、そうだ」
膝を抱え、俯いたままに箒は心中を吐露した。
セシリアにはその伏せられた表情は見えなかったが、そのかすかに震える体が克明に教えてくれていた。
きっと、泣いているのだ。
虚構であったと思い知らされた恋慕の感情に、涙している。
「――――私はっ、一夏のことが好きだったんだっ!!」
振り絞る様に、或いは振り切る様に。
箒は顔を上げて叫びを放った。
それが切欠となったのだろう。堪える様に僅かにしか漏れていなかった嗚咽が、堰を切ったかのように溢れだす。
その感情を、自分には関係の無いことだと切って捨てるのは簡単なことだろう。けれど、セシリアはそうすることができなかった。
自分の中を大きく占める何かを突然に失うこと、それはセシリアにとっても覚えのある感覚で。
「そういうときは思う存分泣いた方がよろしいですわ。――私にも、覚えがありますから」
「……すま……ない……。……うぅ……あぁ……!!」
そして、セシリアは何も言わず、視線も向けず、傍らのクラスメイトの傍に居続けた。
幼いころ、両親を失った悲しみに泣きはらす自分に、幼馴染とも姉のようとも言えるメイドが付き添ってくれたように。
喪失に揺れ動く感情に決着はつけることはできなくとも、自分の内に貯め込んだ制御のできない思いをぶちまけるだけでも、随分と違うものだから。
「……あぁ、なんだ」
そうしてふと、セシリアの中で何かがカチリとはまる音がした。
それは長年の疑問が、今となっては正解すら聞くことのできない疑問が氷解する音だった。
先に進む母親、その後に付いていくことしかできない父親。けれど、父は決して母の傍を離れなかった。
例え共に進む強さは無かったのだとしても、その背中を支えてくれる人が傍にいること、見守ってくれる誰かがいることのありがたさをかつての自分は感じていたし、だからこそ今こうしているのだ。
「――こんなに簡単なことでしたのね」
今更ながらに、両親のことすら色眼鏡でしか見れなかった自分を恥じる。
答えを得るにはあまりに遅過ぎて、そもそもこの答えが真実なのかも確かめようがない。
確かめようがないからこそ、きっと、この答えこそが真実なのだと思いたい。
「こんなに簡単なことにも気付けないようでは、あんな無様を晒して当然ですわね」
気付けばセシリアの頬にも、暖かい雫が流れていく。心の中に長年あった疑問と、飲み込みかねていた敗北の感情。それらを混ぜ合わせたセシリアの負の感情を洗い流す様に。
人前で涙を流すのは気恥ずかしかったが、先程ああ言ってしまった手前、我慢するのは話が違うし、箒以外の誰かが見ているわけでもない。
それでも残る気恥ずかしさの所為で、セシリアは流れる涙を拭わぬままに視線を青空に向ける。
少し前までは空虚さしか感じなかった澄み渡る青空から降り注ぐ日の光が、やけにまぶしく感じた。
きっと、簡単に泣いてしまったのはこれの所為だ、などと心の中で嘯いて、ようやくセシリアは昨日の敗北を受け止めたのだった。
■■
「……その、すまない」
とはいえ年頃の少女である。十二分に泣きはらし、幾分かすっきりとした感じの空気を纏う箒は、代わりに人前で思う存分に泣きはらしたことの気恥ずかしさに顔を真っ赤にしていた。
ちなみにセシリアは、箒が泣きやむ前に泣くのをやめ、しっかりとハンカチで涙の痕を拭って証拠隠滅を図っている。なので箒の認識としては、自分一人がわんさか泣いていたという感じだ。
「勝手にやってきて、無神経に人の傷口をほじくり返して、それで勝手に泣き始めて……」
「それだけ彼のことが好きだった、ということでしょう。それを揶揄する様なことはいたしませんわ」
「……本当に、すまない」
「日本人はそういうときに本当に謝罪をしますのね。私、sorryよりthank youの方が好ましいのですけど」
セシリアの軽口に、箒は一瞬キョトンとした表情を浮かべ、微かに微笑んで見せた。
「そうだな、ありがとうオルコットさん」
「セシリアで構いませんわ」
「いいのか?」
「えぇ、だって泣きつかれるぐらいに親密になったのですもの。名字で呼び合うのは些か他人行儀だと思いますし」
「わ、私は泣きついてなどいないぞっ!?」
「フフッ、そういうことにしておきますわ」
「だから違うと言っているだろう、セシリアっ!」
そのやり取りは軽く、先程までの重苦しさとは無縁の物だった。
それは互いの気持ちが一歩、健全な方向に向かったことの証であり、必然として、セシリアの中には一つの決意が芽生えている。
素人と言える存在に敗北した、その事実は消せはしない。例えどれほど未知の存在だろうともだ。
ならば、自分はその事実にどう向き合う。忘却する? これからその事実に対してずっと背を向けていく?
否だ。立ちふさがる壁があるのなら、真っ向から挑み踏破していく、それがセシリア・オルコットという少女の生き方だ。
「では箒さん、私の頼みごとを聞いてくださるかしら」
「頼みごと?」
「えぇ、それで箒さんが私に泣きついてきたことを秘密にして差し上げますわ。一対一、公平な取引でしょう?」
「むぅ、内容によるぞそれは。……姉さんに接触したいとかだったらやらないし、できない」
「そんな恥知らずな真似は致しませんわ。――私の頼み事はごく単純。接近戦の手ほどきをしてほしい。それだけですわ。聞く所によるとあなた、全国大会で優勝するほどの剣の腕をお持ちだとか」
先日の、セシリアにとっての敗北同然の試合。
あんな無様を晒さないためにはどうすればいいか。
狙撃やビットの操縦技術を磨くのは当然だが、<ブルー・ティアーズ>はBT兵器の実証試験機としての側面が強い。その為に武装は光学兵器のみ、威力と射程は十分にあるが、連射性、速射生には難があるし、何より交戦距離が限定されるアリーナ内においては、必然的に近・中距離戦に移行してしまう可能性がある。
かつてのセシリアであったならば、近づかれる前に撃ち落として見せると豪語して見せただろう。だが、織斑一夏という存在がその慢心を微塵に打ち砕いた。
となれば必然、<ブルー・ティアーズ>で格闘戦を行えるようにならなければならない。
これから恐らく、IS学園という場所は幾度となく織斑一夏と戦う機会を生み出すだろう。そんなときに格闘戦が増えて、という大きな穴を残したままにするのは駄目だ。
少なくとも、織斑一夏クラスの存在を相手取り、勝てはしなくても凌ぎ、反撃のチャンスを見い出せる程度の技量は必須だ。
「ですので、その腕前を見込んで私に格闘戦の手ほどきを――」
「ついでに一夏の剣筋とか癖を教えてほしい、か?」
「Noとは言いませんが、それに関してはできればで構いませんわ」
「……そもそも無理な話だと思うがな」
「え?」
「いや、何でも無い。――それぐらいならばお安い御用だ」
「でしたら契約成立ということで」
となればこの状況は渡りに船。
もう十二分に立ち止まった。ならばあとは進むだけ。
「そうだな。……あれだけ泣いたことは秘密で頼むぞ〝セシリア〟」
「勿論ですわ、箒さん」
決意を新たに名前を呼びかわすセシリアの表情は、まるで今この瞬間も澄み渡る青空のように、晴れ晴れとしたものだった。
……あかん、一夏が自発的にヒロイン達に絡む場面が想像できねぇ。内の一夏はぶっちゃけこんな会話があったことを知ったとしても「フッ、それで何か?」で済ますようなキャラだしなぁ。
ちなみに次回は一夏視点、<白式>なんて欠陥機をこの一夏がそのまま使うわけも無し、相応の改良を行う予定です。
具体的にはキックとか、足癖の悪さとか、一夏の前世における技能をフル活用するために小細工を色々と行います。