――ある日の放課後。
いつものように図書室の受付で本を読んでいると、机に本をドサッと置かれた。
見ると、なでしこ――各務原なでしこ――が子犬みたいな笑みを浮かべて言った。
「この本、借りまーす」
私は二度見した。というのも、
「なでしこ、本読むんだ。あんまりそんなイメージなかったから驚いたよ」
なでしこは照れくさそうに頬を掻きながら、
「普段あんまり読まないんだけどね。リンちゃんがいつも読んでる本がどういうものなのか、ちょっと気になっちゃって」
「……なるほど、そういうことか」
確かに本のタイトルを見てみると、そこには見覚えのあるものが一杯あった。
「徳川埋蔵金の謎」「未確認飛行物体の謎」「秘密結社の作り方」……。
こうしてみると、随分私はオカルト本を読んでるんだなあというどこか他人事のような感想が沸き上がってくる。
それを噛み殺すと、私はなでしこに向かって。
「これ、五冊も借りてるんだ。冊数制限ぎりぎりじゃない。大丈夫? 読み終えれる?」
学校図書館の冊数制限や貸し出し期間は学校によってまちまちだが、本栖高校の場合は上限五冊、返却期限は二週間だ。
本を読み慣れている人間にとっては二週間なぞ五冊読破するのに恐るるに足らない時間だ。だが本を読み慣れていない人間にとってはそうでもない。意気揚々と借りたものの二週間で一冊も読めませんでした、なんて話も珍しいことではない。
なでしこは胸を張った。
「大丈夫だよ! 確かに普段あんまり本は読まないけど、読むときは私、すっごい早く読めるんだよ!
目を輝かして「えっへん!」と言いたげなその姿は、まるで誉めてもらいたがりの子犬みたいだ。もし彼女に尻尾がついていたとしたら、今頃ぶんぶん振っていたことだろう。
しかし、私は不安にならざるを得なかった。
……大丈夫かな。読み始めてから数分もしない内に寝始めたりしないだろうな。
いや、多分大丈夫だとは思うんだけど。思い返せば麓キャンプ場のとき、なでしこがキャンプ飯を作ったときも最初は凄く不安だった。が、出来はそんな不安を吹き飛ばして余りあるものだった。
きっと今回も大丈夫だとは思う。思うんだけど……。
葛藤の末、私は、
「……読み終わったら、感想聞かせてね」
薄く笑って、本に貼られたバーコードを機械に通した。
ピッ、と小気味よい音が五冊分、図書館に鳴り響いては溶け込んでいく。
なでしこは嬉しそうに敬礼した。
「了解だよ、リンちゃん!」
○
それからしばらく経った頃、ふと私は外を見た。
闇というには赤色が混ざりすぎている、夜と夕方の狭間みたいな色が中庭に染み込んでいた。驚いて時計を見てみれば、いつの間にかもう五時。図書室を締める時間だ。
どうやら読書に没頭しすぎてしまっていたようだ。なでしこが借りに来てからは特に貸し出しも返却も来なかったし、読書に集中できたという環境もあるんだろうが、それにしても、と思わざるを得ない。
「……なでしこは何してるかな」
呟いた。
図書室を締める際は、室内に図書委員以外の人がいないか確認してからでないといけない、という規則がある。閉じ込められた、なんてことが無いようにするためだ。
だから何にせよ、図書室内をうろつかなければならないのだが。それを抜きにしても個人的にうろついていただろうと思う。
なでしこはちゃんと本を読んでいるのだろうか。大量の何回な文字列に打ちのめされ、惰眠を貪ることになっていないだろうか。……それとも、図書室で読むのを諦め、もう既に帰路についているのか、気になったからだ。
果たして、なでしこは。
席について、しっかり本を読んでいた。
遠くからなのでその表情は窺い知れないが、少なくとも寝ているということは無さそうだ。
「へえ」
思わず声に出る。
流石に帰ってはいないだろうと思っていた――図書室から出るとき、多分なでしこは私に一言話し掛けてくる筈だから――が、いつかの本栖湖のトイレ前のときみたいにぐーすか寝ている可能性はあると思っていたからだ。
まあ、杞憂だったようだけど。そういえば、なでしこが嘘を吐いているところを私は見たことがない気がする。同じ野クルでも千明や犬山さんは普通に嘘をこいているのをよく見るが、なでしこだけは一度もない。出来ないことを出来ないと言うことはあっても、出来ないことを出来ると言ったことは、思い返してみればなかった。
疑ってごめんね、と心の中で謝りながら、私は閉館時間であることを伝えようと近付いた。
息を呑んだ。
そこにいたのは、なでしこではあるけれど、なでしこではなかった。限りなくなでしこによく似た美人が、無表情で本に目を通していた。
……いや、普段のなでしこが美人ではないと言っている訳じゃないけど。ただ、普段の彼女は美人っていうタイプじゃないのだ。どちらかというと、若い子犬? よく動くしころころ表情を変えるし、天真爛漫という言葉がよく似合う元気娘。可愛いと思うことはあっても美人というタイプではない。
それが、こんなに美人に見えるなんて。
彼女が読書中であるのが関係しているのだろうか。大口を空けて笑っていることが多い彼女だが、流石に読書中は無表情になっている。それが普段とのギャップと言うか、何だかとても神妙な表情をしているように見えるというか。
……美人に見えるというか。
そういえば、なでしこのお姉さんに四尾連湖キャンプ場まで送ってもらったとき、車内で私は「なでしこのお姉さんってすっげー美人だよなあ」と評していた。一方でなでしこを、「こっちはなんかもにゃもにゃしてるけど」とも評していたものだが……。
今目の前にいるなでしこは、あのときみたいにもにゃもにゃしていない。「すっげー美人」と評した、お姉さんにそっくりなのだ。
氷のように冷たくて、ナイフのように鋭くて、人形みたいに整った、いつものなでしこのイメージからはとても考えられない表情。
……ああ、姉妹なんだな、と思った。子犬みたいなオーラや挙動に誤魔化されているけれど、それらを取っ払ったとき、その顔はお姉さんみたいに怜悧な美人になる。
姉の遺伝子は妹にも入っていたのだ。……考えてみれば当然の話なのだが、しかし私は目から鱗がおちるような感覚を抱いた。姉妹で余りにも雰囲気が違うからだろうか。
……と。
なでしこが私に気付いて顔を上げた。無表情は一瞬で溶解し、明るい笑顔の花が咲く。
「あ、リンちゃんだ。どしたの、私をじっと見て。顔になんか付いてた?」
ぺたぺたと自分の顔を触るなでしこ。
見惚れていたなんて言えるわけもなく、私はふいっと目を逸らした。
「……別に。もう遅いし図書館閉めちゃうから出なよ」
少々ぶっきらぼうな言い方になってしまったが、なでしこは気を悪くした様子もなく「わかった!」と頷いて帰り支度を始めた。
いそいそとする彼女の表情はいつものように子犬みたいで、お姉さんの面影は消え失せている。
さっきの光景が夢か幻だったかのように感じられた。