各務原なでしこが志摩リンに斉藤恵那との関係性を尋ねる話です。
「恵那ちゃんとリンちゃんってどういう関係なの?」
正月、浜松のおばあちゃん家に向かう電車内にて。
ぼんやりと外を眺めていたリンちゃんは、脈絡なくぶつけられた質問にぱちくり瞬きした。目をほんの少し細め、咎めるように訊いてくる。
「何だよ、いきなり」
「ええとね、」慌てて、私は台詞を付け足した。声がぶれないように、早口になりすぎないように、いつもの各務原なでしこに見えるように、悟られないように気をつけながら。「なんとなく気になっちゃって。恵那ちゃん、昔からリンちゃんと仲良しじゃない? でも、リンちゃんは頑なに恵那ちゃんを"斉藤"って呼んでるから。あきちゃんやあおいちゃんだって下の名前で呼んでるのに」
「えっ、犬山さん達も? あいつ、いつの間に仲良くなってたんだな」
「……リンちゃんって、あんまり周りを見てないよね」
じとっとした視線を送ると、リンちゃんはばつの悪そうな表情を浮かべた。どうやら自覚はあるらしい。
咳払いをしてから、私は話を再開する。
「ともあれ、一番付き合いの長いリンちゃんだけが名前呼びじゃないから、なんか気になっちゃったんだよ」
「なるほど、そういうことか」
得心のいったようにこくこく頷くリンちゃん。その様子を見ながら、私はこっそり胸をなで下ろした。
よかった、あの様子だと、多分気づいていない。
私が知りたいのは、リンちゃんの恵那ちゃんに対する想いだ。リンちゃんは恵那ちゃんにどういう気持ちを抱いているか、どういう関係だと思っているか。……恵那ちゃんがどれくらい大事な存在なのか。それが知りたいだけだった。
そのまま尋ねても教えてくれないだろうから、婉曲的な訊き方をせざるを得なかったんだけど。
でも、リンちゃんは気づかなかったみたいだ。
溜め込んだ息をゆっくり吐くと、いつの間にか下がっていた頭を持ち上げる。拍子に窓の外の景色が目に飛び込んできた。住宅、土、木、川、橋、緑。がたんごとんという音に乗せて流れ行くそれらは、寒さのせいか妙に白んで見えた。
首を傾げ、私はリンちゃんの目を見て言う。
「どうして"斉藤"って呼んでるの?」
「そうだなあ……」
リンちゃんは腕を組むと、空を仰いで「う〜ん」と唸る。
「なんだろうなあ。そう聞かれても、「これ!」って断定できるような理由はないんだよな」
「そうなの?」
「うん。強いて言うなら、なんとなく、かなあ」
「ふうん」
私は眉尻を下げた。駄目だよ、リンちゃん。それじゃ足りない。そんな漠然とした理由じゃ私は満足しない。満足出来ない。
とはいえ、リンちゃんはこういう駆け引きに鈍感なように思える。私が何を求めているか見抜いていて、敢えて答えをはぐらかしているようには見えない。リンちゃんは恵那ちゃんではないのだ。もちろん私でもない。……当たり前だけどね。
となると、これはリンちゃんにも答えが分かっていないと見るべきで。だから、私は答えが出るように誘導しなければならない。揺さぶりをかけ、心の奥深くに眠る答えを引き出さなければならない。
ショック療法を試みるのだ。
「じゃあさ、リンちゃんは――」極めて何でもないことのように、私は問いかける。「――恵那ちゃんのことが好き?」
「好きだよ」即答。さっきとは対照的だ。「斉藤は、私の大切な友人だよ。あいつとくだらない話をしてる時間が私は好きだ。たまにちくわの写真を見せてくれるのも好きだ」
リンちゃんは緩やかに笑う。「……最近はキャンプに興味を持ってくれるようになって、ちょっと嬉しかったりする」
その口調、態度に、私は面食らった。
「そ、そうなんだ。リンちゃん、恵那ちゃんのことが大好きなんだね」
「大好きってほどじゃ……。……いや、そうかもしれないな」
頬を少しだけ赤くし、首元をぽりぽりと掻くリンちゃん。
そっか、と思った。リンちゃん、恵那ちゃんが大好きなのか。嫌いなわけないだろうと踏んではいたけれど、これは予想外だった。予想以上に、リンちゃんは恵那ちゃんのことを好いていた。
……でも、それなら。
「それなら、どうして頑なに名前呼びなの?
私やあきちゃんは名前呼びなのに」
尋ねると、リンちゃんはぽかんと口を開けた。
「……確かに。何でだろう」
言うと、リンちゃんは顎に手を当て、難しい顔で俯いた。
獲物を探す肉食獣のような目付きをしている。しかしながら、誰にそれを向けているわけでもない。多分、それは自分に向けてられている。何かいい答えはないのか、頭の中という広大なサバンナをくまなく探しているのだ。
今のリンちゃんは考える人だった。外見的にも、内実的にも。
私は何も言わなかった。物言わず、ひたすら思考の海に沈んでいるリンちゃんが目の前にいるのだ。どうして言葉なんて発することが出来よう。リンちゃんの考えを邪魔してはいけない。私は何も言えなかった。
車内に響き渡るのは、線路の上で打ち鳴らされる列車のステップの音だけだった。
がたんごとん、がたんごとん、がたん、ごとん。
「……違うんだよな」
不意に、リンちゃんが語り始める。
「なんか違うんだよ、斉藤となでしこじゃ。言葉にできないんだけど、何かが絶対的に違う」
私はリンちゃんの顔を見る。
「何かっていうのは、その。……向ける気持ちが違うってこと?」
「そうじゃない」リンちゃんは首を振る。そして、真顔で言った。「斉藤を下の名前で呼んだら、何かが終わる。何が終わるかは分からない。友情が終わるのかもしれないし、キャンプ仲間とか愛犬家とかのある側面での付き合いが終わるだけかもしれない。世界が終わるくらいの衝撃的なことかもしれない。でも、何かが終わることは間違いない。そういう確信があるんだよ」
「…………そっか」
私は、リンちゃんから目を背けた。極めていつも通りを装って言う。
「リンちゃんにとって、恵那ちゃんは大事な、特別な友達なんだね」
「別に、特別視してるわけじゃないけど」
真顔が崩れた。不機嫌そうに、照れくさそうにリンちゃんは言う。
嘘だよ、と思った。私やあきちゃんを名前呼びにしている一方で、「何かが終わるから」と名字呼びを貫き続けるだなんて。特別視以外の何物でもないじゃないか。
大体、名前呼びしたくらいで何かが終わるなんてあるだろうか。急に友達が名前呼びをしてきて、怒って友情が崩壊するだなんて。そんなのよっぽどの特例じゃないと起こり得ないよ。むしろ、逆だ。嬉しいと感じるのが普通だろう。少なくとも、私がその立場だったら間違いなく喜ぶ。
つまり、これは気持ちの問題なんだ。友情が終わるわけはない、終わるのはリンちゃんの気持ち。今恵那ちゃんに向けている、特別な"友人"という気持ちが終わる。そして、新たな気持ちが生まれる。
リンちゃんが言ったのは、つまりはこういうことだった。
はあ、と息を吐く。リンちゃんは、恵那ちゃんのことが大好きだった。私が思っていたよりもずっと。
リンちゃんの一等星は恵那ちゃんだったのだ。それが、痛くなるくらいわかった。
……でも、それ。
「リンちゃん。その話、恵那ちゃんにしたことある?」
「その話って?」
「恵那ちゃんが大切な友達だってこと」
「え? いや、別に。付き合い長いし伝わってるだろ」
平然とそんなことを宣うリンちゃん。
私は唾を飲んだ。やっぱり、リンちゃんは周りを見ていない。あんなに近くにいる恵那ちゃんのことでさえまるで分かっていない。盲目と言っていいぐらいの鈍感具合だ。私は戦慄した。
列車がトンネルに入った。車内は急に暗くなり、窓の外には暗闇が蔓延るばかりだ。木も家も川も土も橋も、緑もない。
がたんごとんというステップが車内に響き渡る。トンネルを抜け出すのはいつになるのだろうかと、私は考えた。