お姉ちゃんとリンちゃんの件について、意外にも恵那ちゃんは動揺を示さなかった。
「へえ、そっか。リンとなでしこちゃんのお姉さんがねえ」
呟くと、恵那ちゃんは手を後ろに組み、いつものように口元をちょっと歪めて笑みを作った。その声にはなんの感慨も含まれていなくて、ただ訥々と機械的、まるで殺人事件を平坦な口調で伝えるニュースキャスターみたい。もっともニュースキャスターと呼ぶにはちょっぴり声量が足りないんだけど。ともあれ、これが恵那ちゃんの反応だった。
「あまり驚かないんだね」拍子抜けして、私は言った。「恵那ちゃん、もっと怒るか悲しむと思ってたのに」
「へえ。なんで?」
「なんでって、そりゃあ……」首を少し傾けて、私の瞳を射抜くように見つめてくる恵那ちゃん。何故かその視線が恐ろしくて、私はふいっと目を逸らした。
「……恵那ちゃん、リンちゃんのこと好きなんでしょ」
「うん」力強い断定。当たり前じゃん、何を言ってるの? と言われているかのような気がした。
意を決して顔を正面に向けると、私は。
「それなのに」恵那ちゃんの瞳を貫くように覗き込んで、「恵那ちゃん、驚きもしないから。私が恵那ちゃんの立場だったなら、絶対そんなふうにはできないよ」
私の言葉に、恵那ちゃんの瞳が寂しさをたたえる。ほんのちょっと俯いて、感情を搾り出すようにぽつりと一言。
「……変かな? 私、もっとたじろいだ方がよかったかな?」
「……そういうわけじゃないんだけどね」
再び目を逸らす。
嘘だ。正直に申し上げてしまうと、私は好きな人が自分じゃない別の人と、その……色々したと知って、それでも尚動じていない恵那ちゃんのことをたいへん奇妙に思っている。違和感を感じている、と言ってもいいかもしれない。あるいは、知的好奇心? そこまではいかないけれど、でも今、私の心の中ではなんで、どうしてっていう思い、疑問符が舞っている。どうして恵那ちゃんは動じないんだろう。私なら確実に動揺し、迷子になった感情を発露させて周りに迷惑をかけること間違いなしなのに。どうして彼女はこうも平然としていられるんだろう? って感じでさ。
だから、私は尋ねてしまった。
「恵那ちゃんは、リンちゃんが他の女の人と懇ろになっても平気なの?」
自分でも不躾な質問だなあと思う。案の定、恵那ちゃんは語気を強めた。「そんなわけないじゃん」と。
「平気なわけないよ。嫌だ。悲しくて、寂しくて、辛くてたまらないよ」
その台詞に、私は多少面食らった。恵那ちゃんが言っているのは当たり前のことだ。恋する人が他の人と懇ろになったら辛い。そりゃそうだよ。辛くない人間なんてこの世にいるのかって話だ。でも、その「当たり前のこと」を恵那ちゃんが言ったというのがちょっと意外で。今まで散々動じた様子もなく、機械のように笑顔を浮かべていた彼女が人間のような反応を見せたことに、私はちょっと衝撃を受けた。そして、ひどく安心した。
なんだ。恵那ちゃん、ちゃんと辛かったのか。全くもってこんなことで喜んじゃいけないんだけど、さっきまで能面に会話しているような感覚だったから、初めて見せる恵那ちゃんの人間の表情に、私はほっとしてしまって。だからこそ、と言うべきだろうか。よりいっそう、私の疑問符は色濃くなった。
「だったら、なんであんなに無機質な反応だったの?」
悲しくて、寂しくて、辛かったのなら、なおのこと冷めた反応の理由がつかない。
「なんて言えばいいんだろうなあ」
溜息を吐くかのように恵那ちゃんは言う。寂しそうな、切なそうな声色だった。
「私はね、なでしこちゃん。リンを信用していないんだ」
「それって、どういう――」
絶句する私。変わらず、悲しそうな恵那ちゃんの表情。
「私はリンが好き。愛してるって言ってもいいくらい好き。ちょっと重いかなあって、自分でも思っちゃうくらい」
それくらい想っていることに気づいたのはつい最近の話なんだけどね、と苦笑してから、恵那ちゃんは話を続ける。
「もちろん、リンが他の子と仲良くしてるのを見て心臓がきゅってしないかって聞かれたら、そんなことはないって答える。ましてや私以外の人とそんな関係を結んだってなったら、心臓がどうにかなっちゃいそうだよ」
そっと心臓の辺りを抑える恵那ちゃん。私は、なんと言えばいいか分からず、できることは口を噤むことぐらいだった。
「だけど、ね」恵那ちゃんの雰囲気が変わった。「私はそれ以上に"自由なリン"が好きなんだよ」
「自由なリンちゃん?」
思わず聞き返してしまった私に、恵那ちゃんは力強く頷く。
「うん。だって、週末になったらどこへともなく出かけてソロキャンプするんだよ? 女子高生で、その上あんなにちっこいリンが、たった一人で行ったこともない遠くの山とかでキャンプするんだよ?」
それは、そうだ。ワイルドだなあと私も思うし、今までソロキャンはおろかキャンプにすら縁がなかった私が今ちょくちょくソロキャンをやっているのはリンちゃんの影響だ。
「もちろん県外でキャンプするようになったのはオートバイを手に入れてからだけどさ。でも、中学生の頃から自転車こいでそういうことしてるんだよ。中学生でだよ? 凄いよ、リンは。あの頃の私は、キャンプしようっていう発想すらなかったもん」
照れくさそうな表情。いつのまにか、楽しそうな口調。
「そんなリンが好きなんだ。自由で、気ままで、放っておくとどこまでも行ってしまいそうで、まるで鳥みたいな、そんなリンが好きなんだ」
「……でもさ、それで恵那ちゃんはいいの?」
恵那ちゃんはぱちくりと目を瞬かせる。「それでいいの、って?」
私は深く息を吸う。背中の後ろでこっそりと握り拳を作る。
「リンちゃんは確かに自由だよ。凄いなって、私も思うもん」
毅然と恵那ちゃんの目を見る。
「だけど、今回リンちゃんはお姉ちゃんとしちゃったんだよ。恵那ちゃんじゃない、別の女の人と、ね」
そうでもしないと、恵那ちゃんにとって残酷な現実を突きつける私がひどく醜いもののように思えたからだ。
その恵那ちゃんはというと、唇を固く引き結んで目を伏せている。両手は相変わらず後ろで組まれていて、ここからじゃよく見えない。だけど、なんとなく私は血が止まるくらい強く握っているような気がする。……私が今、お姉ちゃんのことを思って握り拳を作っているように、それを恵那ちゃんに悟られないよう背中の後ろに隠しているように。何となく、私はそんな気がしたんだ。
「恵那ちゃんは、それでいいの? それでもまだ、自由なリンちゃんがいいっていうの?」
恵那ちゃんは、なんと、こくりと頷いた。
「うん。……正直に言うとね、私はこんなこともあるだろうなって思ってた。予想してたんだ、リンが不倫……いや、これだと私とリンが付き合ってるって言い方になっちゃうね。ともかく、私はこうなることもあるって予想してた。覚悟はできてたんだよね」
恵那ちゃんは自嘲する。
「リンって、昔から美人なお姉さんに目がないからなあ。あれで奥手だからまだいいんだけど、もしも積極的だったらって考えると恐ろしいよ。顔の良さの有効活用だ」
「恵那ちゃん……」
「だから、さっき言ったんだよ。私はリンを信用してないんだって。リンをそういう人間だと思ってるんだって。……そんな奴が、リンの翼をもいじゃいけないんだよ。私の近くにいるよりも、リンは飛び回ってた方がいい。リンは自由だからこそリンなんだよ」
「…………」
私にはもう、かける言葉が見つからなかった。
お姉ちゃんとリンちゃんが懇ろになるなんて嫌だ、悲しい、寂しい、辛いと言った恵那ちゃん、自分なんてふさわしくないからとリンちゃんに自由でいてほしいと言った恵那ちゃん。どうしようもなく、その二つは矛盾していて、私にはどうすることも出来ない。唯一なんとかする方法があるとしたらリンちゃん本人が恵那ちゃんに告白することなんだろうけど、それも今となっては遠い線だ。どの面下げて、って感想は拭えないだろう。……まあ、恵那ちゃんが喜ぶのならそれでいいのかもしれないけどさ。
ともかく、この件で私ができることは何もなさそうだ。目の前にはひたすらに苦しそうな表情の恵那ちゃんがいる。なんで、どうして恵那ちゃんがこんな顔をしなければいけないんだろう。そう考えると、リンちゃんとお姉ちゃんに対してふつふつと怒りが湧いてきて、なんだかとても悲しくなった。