The Rain Bringer Girl 作:うにうにうさぎ
ルキアは『海』を知らない。
尸魂界に海が存在しないからだ。
大地の合間を埋める、どこまでも塩水が続く巨大な湖。知識として知っているが、150年以上生きてきて、実物を見たことはなかった。
一護の闇に引き込まれたルキアは果てなき青が支配する水の世界を落ちていた。
これは海だと思った。
水中にいると自覚した途端、息苦しくなって口を開いた。
がぼっ! 銀色の柔らかい玉が無数に溢れ、水がルキアの口内に流れ込んだ。
塩味はしなかった。
ルキアは恐怖した。
手足をばたつかせて暴れて、すぐに呼吸が出来ることに気が付いた。
肺に満ちた水が酸素を取り込んでいる。不思議な感覚だ。
見下ろすと、暗く青い水底に廃墟の街が広がっていた。
屋根に見覚えがあった。空座町だ。
霊子で足場を作っての移動を試みたが、霊子が集まらない。
身体はふわふわと軽く、ルキアは宙を蹴った。霊子の足場程ではないが、僅かな移動力がある。
腕で前を掻くと更に進む。
ルキアは不慣れに水をかいて一護を探した。
黒崎クリニック、いない。
空座第一高校、いない。
浦原商店……いない。
ルキアの口からため息の代わりにごぽりと空気の泡が上がった。
気を研ぎ澄ませても、一護の霊圧が感じられない。
ルキアは頬をぺちぺちと叩く。
弱音を吐いてる暇はない。一護を探さなければ。
どうやって?
ドォオン…!!
遠くで地響きがした。
『町』の端が崩落をはじめたようだ。時間は無限ではないらしい。
ルキアは一護と過ごした時間、交わした会話、共に出向いた場所、思い出せる記憶を総動員して、水底の空座町をさ迷った。
「―――!!!」
何度一護の名を叫んでも、水に浸かった声帯は、震わせど声を生み出さない。
遠くで再び地面が落ちた。
水全体がうねり、小さなルキアの身体は翻弄される。電柱に捕まって耐えた。
――一護……。
ルキアは考え続ける。
一護が居そうな場所。
ルキアは探り続ける。
一護の霊圧を。
くんっ、何かに引っ張られた。
死霸装の袖が壊れたコンクリート塀から剥き出しの金属の支柱に引っかかっていた。
強く引くと、裾は僅かに裂けて塀から剥がれた。
裂け目から死霸装を織る無数の糸が覗いた。
――あるじゃないですか!
――朽木サンと黒崎サンを繋ぐ……赤い――
浦原の胡散臭い笑顔がパッと浮かんだ。ルキアは自らの霊圧を高め、赤い霊絡を視覚化する。
馬鹿らしさに笑いが込み上げる。
そんなことあるもんか。
聞いたこともない。
ルキアの霊絡はルキアの胸からすうっと上空に上がり、カクっと曲がった。
ルキアは目を見開いた。
霊絡の端を追って、地を蹴った。
***
赤い霊絡が導いた場所は河原だった。
左手に線路と踏み切りがある。
黄色い雨合羽を着た幼い少年が座り込んでいた。
明るいオレンジ色の髪をしている。間違いない。
「―――!!」
ルキアは喉元を押さえた。やはり声は出ないままだった。
だが、やるしかなかった。ルキアは一護の前に立った。
幼い一護が顔を上げた。
傷付いた、酷い表情をしていた。
ルキアは一護にゆっくり歩み寄る。
一護は逃げるそぶりを見せなかった。
ルキアは一護に手を差し出した。
一緒に帰ろう、ただそれだけを思って。
「お姉さん、死神?」
ルキアは驚いた。
「なんでだろう。死神といったら黒いフードと鎌なのに。そんな気がしたんだ。オレを連れて行ってよ」
「―――――――!!」
一護は小さな手を伸ばした。
ルキアは咄嗟に手を背中に隠した。
「なぜ?」
少年は困った顔をした。
ルキアはぶんぶんと首を横に振り続けた。
違うんだ、一護、違う。
私は、貴様を死神として連れて行くために迎えに来たんじゃないんだ。
ルキアの口が開く度に、声の代わりにゴポゴポと銀のあぶくが生まれて昇っていった。
――では、なんのために?
背中から世界が壊れる音がした。
「本当は辛いんだ。もうイヤなんだ。母ちゃんが死んだのはオレのせいなのに、誰もオレを責めない。みんな辛いのにオレを心配している。オレがみんなをもっと辛い気持ちにさせてる。母ちゃんに護られた命で、母ちゃんの分も、生きて、ユズとカリンと父ちゃんを護らなきゃいけないんだ。でも……辛いんだ」
一護は膝を抱えた。
一護の苦悩は、海燕を手に掛けた後のルキアの苦悩と重なった。
ルキアにとって、唯一の救いは、海燕の遺体を志波家に運んだ夜、志波家の家族から向けられた、ルキアへの憎しみの目だった。
朽木家の養女という立場から、元々隊で孤立していたルキアは、海燕、都夫妻の殉職後、再び孤立するようになった。
海燕の死について誰もルキアを責めなかった。全ての真相を知る浮竹からは、辛い仕事をさせたと詫びられ、労りの目で見られた。
海燕は十三番隊にとって、大事な大事な存在だった。
身体が弱い浮竹が夜の月なら、海燕は昼の太陽。
十三番隊の隊員全員の心の中心だった。
憧れた。眩しかった。温かかった。
その太陽をルキアが奪ってしまった。
到底償う方法が見つからない。
罪の意識に苛まれるたびにルキアは、海燕が死んだ夜の志波家を思い出した。
世界で自分の罪を責めてくれる者がいることに感謝した。確かに罪を犯したのに誰にも責められない世界は気が狂ってしまう。ルキアは海燕の家族によって、最期の最後まで救われた。
一護は、他者から罪を責められる『救い』を許されなかった。誰も一護を責めないから、一護が一護自身を責めて責めて傷付けるしかなかった。気が狂いそうな世界で、家族の想いを裏切るまいと懸命に命を繋いだ。
一護の『護る』ことへの異常な拘りと捨て身の姿勢は、母を失った癒えない心の傷と、狂気の世界を生き抜いた結果なのだろう。
責められることが『救い』なんて、誰にも理解されない。誰も気付かない。
同じ罪を共有する、一護とルキア、2人の間だけで成立し理解できる世界だった。
初めて逢った日、不思議な縁を感じたのは、出会いは運命だと思ったのは、一護がルキアの、ルキアが一護の……違う世界で生きるもう1人の自分自身だったからなのだろうか。
『ツインソウル』
一つの魂を二つに分かち、別に行動することで二倍の経験を積み、時が来て統合されることで高次元への到達を目標にする魂。
ルキアは一護の隣に腰を下ろした。
遠くで崩落音がドンと響いた。
細かく砕けた瓦礫が煙のように上にあがっていく光景を眺めた。
「一緒に行くか、尸魂界へ」
突然声が出た。口内から肺まで水に浸された状態で、どうやって声帯を震わせているのかルキアには理解できない。だが、どうでもいいことだ。ルキアは言葉を繋いだ。
「貴様は罪を犯した。だから、死神の私が罰として貴様を生きたまま死神にしよう。貴様は死ぬまで……死んでも、霊子の塵の粒になるまで、現世と尸魂界で暮らす、戦うチカラを持たない魂たちを護るために、戦い続ける」
一護が顔を上げた。
薄茶色の無垢な瞳がきらきらと光っていた。
一護は水の中なのに涙を流していた。
「連れて行ってくれるの?」
ルキアは胸が詰まった。
己の罪深さに消え入りたかった。
目頭が熱い。
ルキアと一護の周りを赤い帯がプカプカ揺れながら、丸い弧を描いてたゆたっていた。
帯は二本の端を固く結んで繋ぎ合わせたモノに見えた。
くるくる回転を始め、つなぎ目が次第に解けていく――ルキアたちの目の前で、くつろがれた帯は、捻れて裏と表が織り合わされていた。
裏が表で、表が裏。
メビウスの輪だ。
ルキアは決心した。
一護の前に、白い斬魄刀を突きつけた。
幼い一護が息を飲んだ。
「オレ、死ぬの?」
「……そうなるな」
ルキアは薄く笑った。
「家族に別れを告げる暇はないぞ」
幼い一護は、そっかぁ~お別れ言いたい人、沢山居るんだけどな、子供らしく指を折りながら顎を上げて大切な人たちを思い出していた。
せっかく折った指をパッと開いて、両腕を上げた。
「や~めた! 仕方ないね」
一護は呆気なく未練を捨てた。ルキアは間抜けな顔をしてしまった。
「い、いいのか!? 家族に二度と会えぬのだぞ?」
「いいんだ」
一護は幼い面立ちのまま、ルキアにとって見覚えのある顔でルキアを見た。
「黒崎一護! よろしく、死神」
一護の名乗りにルキアは笑った。
「死神ではない、朽木ルキアだ」
「るきあ?」
『ラテン語で【光】という意味だと――』
馴染みのある一護の声がした。
足下に地割れが入り、川が真っ二つに割れた。
奈落の闇がすぐ側に迫っている。
ルキアの尸魂界で最も美しい純白の刀身が、一護を貫いた。
一護の胸元から強く輝く光が溢れ、ルキアは眩しさに目を瞑った。
***
ルキアは空にいた。
眼下で厚い雨雲が太陽を完全に隠している。
ルキアは刀を構えた。
――舞え、袖の白雪
斬魄刀は切っ先から白く染まり上がり、柄の頭から長い白いリボンが延びる。
『次の舞――白漣!!』
白い刀影がルキアの周囲を囲み、ルキアの合図と共に氷雪が雪崩のように噴き出した。
厚い雲を切り裂き、地上を明るい光で照らした。
地上の景色にルキアは息を飲んだ。
真っ赤な血の海が白い石作りの処刑場に広がっていた。血の海に横たわるのはルキアの知己たちと小さな一護だった。大型虚と破面に囲まれて、切り刻まれ続けていた。
傍で四肢の自由を奪われ磔にされたもう1人の一護が、器具で瞼を見開かれされた状態で、その光景を見せられていた。
ルキアは叫んだ。
身体の内側から燃え上がる、渾身の白い霊圧を込めて、処刑場に一護ごと氷の刃を放った。
処刑場の景色は突如平面化した。色を無くして無数にひび割れたかと思うと、濁った砂になってバラバラと崩れていった。
「──……?!」
ルキアは真っ白な世界にいた。
天と地も分からない。
音もない。
真っ白な空間だった。
荒くなった呼吸を整え、刀を握りなおした。
「一護?」
やっとの思いで連れ出したのに。
少年の一護も青年の一護も、磔にされた一護も居なかった。
「一護!!」
ルキアはもう一度名を呼んだ。
「ルキア、」
突然背中から抱きすくめられた。
ヒッ!
ルキアは情けない声を上げてしまった。
振り向こうとして顔を固定された。
「……一護?」
背中の男からは霊圧を感じなかった。
ただ、なんとなく、一護だと分かった。
「俺のせいで、みんなに迷惑かけてる。ゴメン」
「何を言っているんだ、迷惑なんて……。私たちは『仲間』だろう?」
ルキアは男の腕に手を重ねた。
「お前は、俺をちゃんと尸魂界に『連れて行って』くれ、な」
「どういう意味だ?」
「お前は俺にヒトとして生きる人生をくれた。俺はどうしても家族に『母ちゃん』を戻してやりたかった。お前が俺にくれた7年、俺も、アイツも、ユズとカリン、オヤジも、皆……石田には悪かったけど、本当に幸せだったよ」
「何を言っている!?」
「俺たちの選択は、確かに世界の『災い』を作っちまったが、選択の結果として誕生したアイツらの存在だけは、どうか否定しないでやって欲しいんだ」
「分かるように話してくれよ!」
『じきに分かる』
背中の男が笑うのが分かった。
***
「ぐああっ!?」
身体全体に重力がのしかかり、ルキアは呻いた。
背から倒れそうになるのを辛うじて耐えて、前のめりに膝を突いた。
覆い被さったまま意識をなくした一護が仰向けに倒れた。
はあ、はあ、はあ……。
ルキアは呼吸を整えながら、ゆっくり腰を下ろした。
墓地に帰っていた。
夕陽が墓石を赤と黒に染めていた。
「お疲れさまース!」
浦原が胡散臭い笑顔で近付いてきた。
「一護は?」
「暴走は収まりました」
ルキアはふぅと息を吐いた。
「そうか……」
ルキアは倒れた一護を見下ろした。
ルキアが切り裂いた痛々しい目に胸が詰まった。
「井上に一護の目と傷を治してもらわないと」
死霸装の袂を裂いて、一護の目元に巻いた。
結界を回収したテッサイがやってきて、一護を軽々と抱え上げた。
「鎧の虚について何か分かったか?」
「霊圧の出元は掴めませんでした」
帽子の下の表情は読めない。
「私は酷い夢を見たよ」
「黒崎サンの内在世界で?」
ルキアは俯いた。
「井上や一護の家族、恋次、石田、チャド、一護の友人たちが、一護の目の前で処刑されていた」
「その世界を破壊したんスか?」
「滅多斬りにしてやったよ」
「黒崎サン、また朽木サンに借りが出来ちゃいましたねぇ」
「借り……か。全くだ」
ルキアは疲れた顔で、笑みを浮かべた。
黒崎家の墓に手を合わせて、ルキアはテッサイ、浦原に続いて墓地を後にした。
『ちゃんと尸魂界に連れてってくれ』
白い世界で一護の声に頼まれた。
『ちゃんと』?
ルキアは意味を理解できずにいた。
一護はこのままでは30年後に命を落とす可能性がある。
死の未来を回避するには、30年後の世界で選ばない選択をする必要があった。
そもそも30年後の選択とは?
ルキアは白い世界での記憶が急速に失われていくのを感じた。
まずい――!!
「浦原!! 聞いてくれ、7ね……っ」
前を歩く浦原が振り向いた。
「ナナネ? どういう意味ッス?」
「………!!!」
「『修正』ッス」
ルキアは何か言おうとしたのに、突然言葉を奪われたように、頭が真っ白になって、がく然とした。
「なるようにしかなりませんよ、未来なんて。少なくとも、黒崎サンがこれから未来の理のチカラを回復させれば、美雨サンの世界よりはマシな世界になるでしょう」
「美雨の世界はそんなに悪いのか……?」
「向こうの石田サンは倒された日から8年時間凍結状態。目覚めても井上サンとの肉体年齢差は8年。若いままの夫と老いた妻。行方不明のお兄さんの消息も気になりますねぇ。井上サン──あっちでは石田サンですか。彼女にとっては充分『悪い』かと」
ルキアは黙った。
「……美雨の母親は、井上なのだな」
「父親の見た目が濃すぎて母親は誰でも通用しそうですが、霊圧は誤魔化せません。彼女はどう見ても井上サンの娘ッス。気付かない方がどうかしてる」
「しかし、井上は滅却師ではあるまい。石田は美雨の母親は純血統の滅却師だと言っていたぞ」
「井上サンは藍染にも目を付けられた、概念に干渉する結界を張る
ルキアは再び俯いた。
「……どんな顔をして井上に会おう」
「はて?」
「美雨が30年後の石田と井上の娘なら、今の井上の想いは叶わないということだ。結果を知っていて、応援してやるような不誠実なことはできぬよ」
「青春ッスねぇ」
「茶化すな」
「30年後、石田サンと結ばれて、美雨サンのお母さんになった井上サンは『不幸』でしょうか? 鎧の虚の脅威に晒され、子供が1人行方不明で、石田サンが倒されて昏睡状態なのは、確かに『不幸』スが」
「石田は不安視していたが、美雨と一緒にいる井上はずっと楽しそうだった。未来でも仲がいい母娘なんだろうな」
ルキアは微笑んだ。
「石田は言われずとも井上を大事にするだろう」
「……ね? 初恋は実らないことに意味があるんスよ」
浦原は開いた手をひらひらと振った。
ルキアは一護に似た面差しをしたかつての上司、海燕を思い出していた。
海燕への憧れは恋に似ていた。
海燕は妻帯者だった。
従って、ルキアの想いは生まれる前に死んでいた。
海燕の妻・都は、強く、美しく、周囲に悟られぬように自然な形で気遣いを巡らすことが出来る、素晴らしい女性だった。
美しい長い黒髪、長い手足、柔らかい身体、大人の女性らしい調和が取れた面立ちをしていた。
子供のように小柄で痩せた貧相な身体、目ばかり大きい顔で成長が止まったルキアがどう足掻いても得られないものを持っていた。
ルキアの理想の女性像だった。
尊敬する義兄が未だに想い続けている姉の緋真は、ルキアによく似た面立ちをしていた。義兄のために、長い間緋真に似せて髪を切っていた。
緋真は、ルキアと同じ髪型、大きな瞳、背も小さくルキアに近かったが、遺影に手を合わせる度に、落差に打ちのめされた。
限りなく似た容姿を与えられたはずなのに、ルキアは緋真のようにはなれない。緋真のように死しても白哉を慰める花のように儚い微笑みを浮かべて佇むことも、かつて白哉を魅了した舞を見せることもできない。
木に登ってキュウリと白玉を好み、死神として虚と死闘を繰り広げる。昔の家族はルキアを『高貴さを持っている』と言ってくれたが、彼らと何も変わらない。流魂街最貧民地区出身の粗野な娘だった。
To be Continued